ブルース・オズボーン常設展「once upon a time in Los Angeles Vol.2」@アダン 2022/8/22(mon)〜

泉岳寺「アダン」店内を飾る、親子写真などで著名な写真家ブルース・オズボーン氏の常設「Once Upon a Time in Los Angeles」シリーズの第二弾がいよいよ開始!(全作品入れ替え完了)

新規展示より抜粋/タイトル「Warren Zevon(ウォーレン・ジヴォン)」

○ブルース・オズボーン自身の作品解説
この写真を撮影した1978年、Warren Zevon は「Excitable Boy」で全米8位を記録して超多忙だった。PRMの撮影のために彼が私のスタジオに着いたときは相当疲れていたようで不機嫌だったので、私は撮影のために用意したバック紙に落書きを描いてもらうことにしました。撮影が始まるとZevonはバック紙を引き裂き始めたのでその様子を撮影して雑誌の表紙に使いました。
同年にリリースしたシングルアルバム「Werewolves of London」は全米21位を記録。Grateful Deadを始め多くのミュージシャンにリスペクトさ
れたアーティストでした。2003年にリリースし全米最高12位を獲得した「The Wind」がジヴォンの遺作となってしまいました。


youtube「Warren Zevon-Poor Poor Pitiful Me-10/1/1982-Capitol Theatre (Official)」

●ブルース・オズボーン最新展覧会情報 2022.9.1~9.30
「Nature Calls 海洋プラスチック展 海からの声」
藤元明/ブルース・オズボーン
会場:間 AWAI THE COVER NIPPON Salon(帝国ホテルプラザ東京2F)

※展示作品のコンセプトについての解説

ブルース・オズボーン/プロフィール
http://www.bruceosborn.com
1980年の写真展「LA Fantasies」をきっかけに、日本での活動を本格的開始。
コマーシャル写真家として数々の仕事を手がける一方、2003年に7月第4日曜日を「親子の日」にと提唱。「親子の日」のオリジネーターとしてソーシャルな事業にも関わる。インターネット初期の頃から双方向のTV番組のディレクターを担当するなど、写真家以外の活動も多く行ってきた。
「親子の日」の10周年記念に制作した映画「OYAKO」はベルリン国際映画祭(ifab)でベストドキュメンタリー賞を受賞。また写真を通じたソーシャルアクションが認められて「親子の日」 東久邇宮文化褒賞を授与。
葉山に移住後はビーチで見つけたプラゴミなどをモチーフにしたシリーズの撮影をスタート。タイトルはNature Calls!
【写真集、著書】
「親子」(デルボ出版)、「Oyako」(INKS INC. BOOKS)、「KAZOKU」(角川書店)、「ごめんなさい」(日本標準)、「反バンビ症候群」(ヒヨコ舎)、「異人都市東京」(シンコーミュージック)、「都市の遊び方」(新潮社)、「親馬鹿力」(岩崎書店)、「この国の環境」(清水弘文堂書店)、「OYAKO」(Sora Books)

※この展示は泉岳寺「アダン」で行われています。渋谷「南洋ギャラリー」とお間違いないようご注意ください。

同様の「once upon a time」のコンセプトで人気ウェブサイト「ROADSIDERS’ weekly」にも連載寄稿しております。
ROADSIDERS’ weekly(https://roadsiders.com/)最新原稿Vol.3、許諾を受け流用。
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「once upon a time~ もうひとつのカリフォルニア・ドリーミン 03 オン・ザ・ロード」
テキスト、写真:ブルース・オズボーン(写真家)

アートセンターの学生だった頃から一緒に住んでいたいとこのボブと友人のビルの二人から、ヨーロッパとアジアへの旅行に誘われた。アートセンターはプロのクリエイターを養成するカレッジだけあって、いま思い出してもプロになって仕事を始めてからのほうが楽だと思うくらい、確かに毎日がハードだった。二人は、そんな宿題漬けの日々からエスケープしようという目論みのようだった。

僕は、PRM(フォノグラフレコードマガジン:前回参照)の仕事がやっと軌道に乗りはじめたばかり。フリーランスの仕事も少しずつ入ってきたころで、最初はあまり乗り気ではなかったけれど、最終的にニッポンに行くという二人からの誘惑に勝てず、仕事を少し休んで世界一周の旅を選ぶことにした。
ニッポンに行ったら佳子に会える!
いまでは日常的に使っているEメールだけど、遠距離のコミュニケーション手段は文通と超高額な国際電話しかない時代。
海外といえば隣国のメキシコとカナダしか知らなかった僕は、ヨーロッパからアジアの国々を経由してニッポンに行くのがどんなに遠回りかということを調べることもしないで、二人と一緒に旅立つことを決心した。

幸いなことに、地球を東まわりに飛ぶ1年間有効の世界一周オープンチケットが、たしか600ドルという格安の値段で手に入った。3,000ドルのトラベラーズチェックとダイナースクラブのクレジットカードとカメラを持って、ロサンジェルスを飛び立ったのが1976年の9月のことで、それはアメリカ合衆国が建国200周年を迎えた年でもあった。ダイナースクラブのカードを持っていれば、ヨーロッパとアジアの主要都市にあるクラブの支店で郵便物を保管してもらえる便利な特典があって、それはいつどこにいるかわからない旅人にとってありがたいシステムだった。


出発の前夜
高校時代からの友人、スティーブ・スミスとアートセンターで作品制作のパートナーだったドットとヴィヴが、両親の住む家に来てくれて出発前夜の夕食会。


おばさんと久しぶりの再会
最初の目的地はロンドン。長いこと会っていなかった母方の叔母の家族がロンドンに住んでいたので、ロンドンに到着した日の夜、彼らに会いに行った。夕食後、叔父から犬の散歩に一緒に行こうと誘われる。時差ぼけで疲れていた僕らがしぶしぶ叔父の後をついていった先は地元のパブ。散歩といっても家から公園を横切って100メートルぐらい歩いた先のパブで、近所に住む叔父の友人たちと一緒に楽しい時間を過ごした。犬はテーブルの下で爆睡。イギリス人の日常を垣間見たロンドンでの1日目だった。


ストーンヘンジ
叔母が車を運転して案内役をしてくれたのでおかげで、是非行ってみたいと思っていたストーンヘンジにも行くことができた。ほとんど曇っていると聞いていたロンドンの空も晴天続きで、陽光が眩しいイギリスの田園地帯を堪能できた。
ロンドンに滞在した数日間は、ロンドンタワーや美術館などの観光スポット巡りをしてすごした。インド人、アフリカ人、カリブ海に面した国々などからの移住者が多く国際色豊かだったのと、英国料理はまずいという定評に反して、パブで出される料理などは美味しかったのが印象に残っている。インド人の移民が多かったからかもしれないが、40数年前でもインドカレー屋がたくさんあった。


ロンドンのホテルの部屋でトランプをしているビルとボブと僕


パブで歌う「千人の声」
パリに向かうために、ヴィクトリア駅を午前0時に出発する列車を予約した。数時間の余裕があったので、通りを隔てた向かい側にあるパブに行ってみると、ウェールズの鉱山労働者で構成された「ONE THOUSAND VOICES」という合唱団がいた。ロイヤルアルバートホールで行われる祭典で合唱するためにロンドンに来たという。その晩パブで歌っていた曲の中に、1974にQUEENがリリースした「Lily of the Valley」(スズラン)と同じタイトルの歌があったけれど、歌詞も曲もまったく違っていた。あまりにも楽しくて危うく電車に乗り遅れそうになり、駅まで夢中で走った思い出も懐かしい。

合唱:


こちらがQueen版:


エッフェル塔で記念撮影
無事にパリに到着。おきまりのエッフェル塔に行って記念写真。ギャラリーや美術館に行ったり、ストリートカフェでのんびりしながら、これからの旅について話して数日間を過ごした。


パリで撮ったボブとの記念写真


アムステルダム
アムステルダムに到着した時に、ジョージア州出身のジミー・カーターが米国大統領に選出されたニュースを聞いた。はるか遠くの国で聞いたそのニュースは、ベトナム戦争と人種問題によって分断されたアメリカが、ピーナッツ農家出身の大統領によって変わるかもしれないという期待を抱かせてくれた。しかし大統領就任2日目にカーターが行った「すべてのベトナム戦争徴兵忌避者に詫びる」というスピーチは、学生だったのでベトナム戦争の徴兵に該当しなかった当時の僕らには、自分たちとはかけ離れた遠くの世界のように響いた。
アムステルダムのユースホステルはThe Cookie Factory。世界中から集まってきた同世代の若者による音楽とアートシーンはとても刺激的だったけれど、ハシシ・ブラウニーなどという名前のお菓子がメニューにあったりして、混沌とした街だったように覚えている。
いろいろな部屋がある巨大な建物を訪れたこともあった。ライブのショーが行われていたり、別の部屋ではリラックスできるコーヒーと喫煙の場所があったり、その隣の部屋では布や工芸品を販売する小さな店がたくさんあったりして、なにもかもが珍しく新鮮で、僕らにとってはまるで新世界。ハウスボートに住んでいる人を訪ねたり、ゴッホ美術館に行ったり、とにかく楽しいことだらけ。ここに住みたいという衝動にもかられたけれど…東方への旅はまだまだ始まったばかりだった。


中古車のフォルクスワーゲンを購入
好きな場所に自由に移動できてホテル代も節約できるということで、中古のフォルクスワーゲンキャンパーを購入することになった。バンの中に男3人がどうやって寝ていられたのかはよく覚えていない。
ホステルをチェックアウトして出発の準備をしているときに、戦のあとのようにラウンジが滅茶苦茶になっているのに気がついた。びっくりしてオーナーのアメリカ人男性に尋ねたところ、アメリカ人の料理人にホテルの権利を売却したら、お祝いがわりに館内の椅子やガラスを壊しまくったと話してくれた。その頃、ザ・フーのメンバーだったキース・ムーンの事件が話題になったこともあったように、ツアー中のロックミュージシャンがホテルの部屋を破壊する事件が頻繁におきていた時代。アムステルダムに住む自由奔放なアメリカ人も、キース・ムーンと同じ波長を持っていたのだろうか。なんでもありの自由すぎるライフスタイルは、社会や他人への単なる迷惑行為だと思った僕らは、VWバンで気楽に自由な旅をするほうが好みに合うと思い、車でアムステルダムをあとにした。


オランダ製の木靴
オランダ製の木靴を購入したけれど、履き心地は最悪だった。


ブラックフォレスト
オランダからドイツに入ったのは10月。毎年ミュンヘンで開かれるドイツビールの祭典、オクトーバーフェス(十月祭)に行くことにした。のちにバイエルン国王ルートヴィヒ1世となるバイエルンの皇太子と、テレーゼ・フォン・ザクセン=ヒルトブルクハウゼン王女の結婚を祝って1810年に始まった歴史ある祭典だそう。ところがこの祭りの期間は9月から10月最初の日曜日までの2週間で、すでに終わってしまっていた。なぜセプテンバーフェストではなくオクトーバーフェストと呼ぶのか腑に落ちなかったが、終わってしまったものはしょうがないと諦め先を急ぐことにした。
紅葉が進んだブラックフォレストは、ドライブには最高のルート。スイスを目指して南に車を走らせる道中にはたくさんの古い城が森の間に見え隠れし、なんども車を停めて景色を堪能した。


イタリアに到着
スイスからフランスに抜けるモンブラントンネルを通って、イタリアのアオスタという街に向かう。古代の遺跡が立ち並ぶ街並みを通過して、リゾート地として人気のリビエラ・ポルトフィーノに到着。その後で立ち寄ったのは、美しい古代都市フィレンツェとヴェニス。
めまぐるしい移動だったが、古いものがどんどん取り壊されて新しい建物に取り替えられる文化が当たり前のロサンゼルスとは大違いで、どの街も何百年前の建築物を丁寧にメンテナンスしながら使っている歴史の豊かさに改めて感動。まるで別の時代に連れ戻されたかのように、圧倒された濃厚な時間だった。


ポルトフィーノで
車での移動は経費の節約にもなるし小回りも効くので便利だったが、そのいっぽう3人で行動している時間が多いために、地元の人間に会ったり珍しい体験をする機会がなくなって、旅の驚きや醍醐味が薄れてきた。冬も近づいてきたこともあり、マンネリ化してきた旅の気分転換にと暖かい気候の場所に向かうことになった。


ユーゴスラビアに到着
海沿いの道路を辿ってユーゴスラビアに到着。クロアチア海岸を南に下る道中の美しいビーチと、古代ローマ文化の影響を色濃く受けた建築物が印象的だった。1980年にチトー大統領が亡くなり、その10年後には崩壊へと向かってしまったけれど、ユーゴスラビアは第二次世界大戦中、パルチザンを率いてナチス・ドイツに対抗し解放に導いたチトー大統領を慕い、訪れる人が多い穏健な共産主義国だった。
ニッポンに来てから知ったことだが、クロアチア最南部のアドリア海に面したドゥブロヴニクは、後期ゴシック、ルネサンスの両様式を取り入れた歴史的建造物が多く残されている都市で、ジブリの名作『魔女の宅急便』の舞台だと言われている街だそう。
グラッパのボトルを露天の物売りから購入。咽せるほど度数の高い自家製の密造酒を飲んで咳き込んだ思い出も懐かしい。
ここで我らが愛車が故障。4WDの車が超スローなポンコツ車となってしまい、ギリシャに着く頃には長旅の疲れでストレスがピークに達してしまっていた。それでもユーゴスラビア南部からギリシャに入ったときは、文化圏が大きく変わったことを実感してワクワクした。


アクロポリス
学校の授業でギリシャ人は、科学、天文学、哲学、芸術の分野における先駆者だと教わり、ギリシャは西洋文化と民主主義の発祥地と教えられた。それを象徴するように、街を見下ろすアクロポリスの丘からも街中にもたくさんの彫像やモニュメントがあって、過去と未来の間に実在する人類の一端に触れることができた。


ウォブリング・ウォーリー・ワッツとの出会い
アテネで会ったウォリー・ワッツは強烈なキャラクターの持主だった。カナダ人の彼は一輪車でカナダを横断したことでギネス世界記録を持っている。一輪車で世界一周の旅をしていた途中に出会った彼の太ももの筋肉は恐ろしく発達していて、裂けてしまったズボンの太ももにツギあてがしてあった。彼の世界一周の旅は完走できなかったことを後に知ったが、それでも16ヶ国を横断、走行距離は12,000キロに及んだという。


YouTube:He Built a Unicycle THEN Rode it Around The World in the 1970s! [Wobbling Wally Watts]


マジックバス
楽しい旅を続けるためには車を売却するのが最善と全員一致。しかし海外で購入した車をギリシャで売り払うには複雑な手続きが必要だったので、結局アテネに1か月以上滞在することになった。松のような味がするギリシャワインはそんなにおいしくなかったし、リキュール味のウーゾで二日酔いになったこともあったけれど、ゆっくりギリシャを堪能しながらアジアの旅への準備ができた。
車を諦めた僕たちの移動手段はマジックバス。ヨーロッパから南アジア、その先のインドとネパールを陸路でつなぐ「ヒッピートレイル」だった。(ヒッピートレイルについて)
そしていよいよアテネからイスタンブールへ。アテネへの名残を惜しむ脳裏には、映画『その男ゾルバ』の主題歌が響き渡っていた。


Youtube:Dancing Zorbas in street

黄昏ミュージックvol.67  アンド・ユー・アンド・アイ/イエス

 夏アニメはなぜか毎年非常にクオリティーが高い作品が揃うのだが、今年もバラエティーに富むタイトルが揃った。
 なかでも前TVシリーズ及び劇場版で既に完全にはまっていた『メイドインアビス 烈日の黄金郷』は期待を裏切らない出来で、毎回楽しみに試聴させてもらっている。
 シナリオ、作画、動画など全て標準以上の出来なのは勿論、アピス内の世界観を決定付ける、美術、色彩設定の素晴らしさが作品に引き込まれる、正に入り口となっている。
 でだ、この世界観が既視的に思える像がたびたび脳裏によぎるのだが、最近そのあやふやなものが具体的な像がとしてやっと蘇った。UKの誇るプログレッシブ・ロック・バンド 。イエスの数々の代表作を描いたロジャー・ディーンのビジュアルとの類似性を感じていたのだ。
 まさか、『メイドインアビス』の制作陣が意識的に寄せてるはずもなく、嬉しき類似性だ。
 そのイエスが、ドラマー、アラン・ホワイト追悼と銘打ち、超名作『クロース・トゥ・ジ・エッジ』完全再現ライブのために来日すると聞いた。嬉しい反面。オリジナルメンバーはスティーヴ・ハウ(ギター)たった一人。月日は流れた。
 因みに筆者は表題曲より、今回紹介するB面全てを埋めるこの牧歌的且つスペイシーなこの大作が好きだ。※ビジュアルがよく分かるように、ジャケット見開き部分を敢えて掲載。(se)

黄昏ミュージックvol.66  ウー・チャイルド/ファイヴ・ステアステップス

 前回の続編と云うか?忘れさられたヒットチューンを今回も紹介しようと思うのだが、この曲に関しては前回より全米でのチャートアクションは派手であったし、スピナーズ、ニーナ・シモンなど大物がカバーしていることを鑑みると、“日本で忘れ去られた洋楽ヒット”と理解していただいた方がすんなりくるだろう。
 今回の主人公、ファイヴ・ステアステップスはシカゴ出身のファミリー・グループで、かのジャクソン5の形態の先鞭をつけたグループとも云える。
 デビューもカーティス・メイフィールドのウィンディー・シティー・レコードと、なかなかの船出だったが、キャリアを俄然光あるものに変えたのは、名門ブッダ・レコーズ移籍後で、ビートルズのカバー曲「ディア・プルーデンス」のB面として、本作「ウー・チャイルド」をリリース。ラジオDJ達のハードローテもありビルボード・Hot100で最高位8位にまで駆け上ったのだった。
 昨今の世界的な情勢不安もあり、筆者の現場での選曲も、マーヴィン・ゲイの「ホワッツ・ゴーイング・オン」、カーティス・メーフィールドの「バック・トゥ・ザ・ワールド」からの選曲が増えているが、本作もベトナム戦争激しき頃のチューン。困難な世相、未来を託す子供達への平和のメッセージとしてついつい数多く選曲してしまう名曲なのだ。(se)

黄昏ミュージックvol.65  イッツ・レイニング/ダーツ

先日、通称『サルパラナイト』が熊本からその主、吉村実幸氏をお迎えし賑々しく行われた。昔、南青山にあった伝説の音楽酒場『サル・パラダイス』は吉村氏の音楽マニア体質に合わすように他のクラブとは一線を画すDJたちが集った。中でも印象深いのが当時専業ミュージシャンの松竹谷清氏(ex.トマトス)。今回は残念ながら招待できなかったが、清氏は皆が忘れていた小ヒットを発掘するのが非常に上手であった。そんなことを思い浮かべながら浮上したのが今回の上記楽曲だ。
 少々強引だが、イギリスのシャ・ナ・ナと云えるドゥーワップやオールドR&Bをリメイクする70年代に活躍したバンドがダーツであった。
 本作、『イッツ・レイニング』は、かの『スタンド・バイ・ミー』を彷彿させるミッドテンポなリズムプロダトで、メロディックなコーラスワークが売り物の秀作。メンバーのほとんどを白人が占める所以の効用か?ナチュラルにブルー・アイド・ソウル感がにじみ出ているところが正当でないがゆえの不思議な魅力を感じるのは筆者だけだろうか?(se)

黄昏ミュージックvol.64  ウェイフェイング・ストレンジャー/ジェリー・リード

 連載も回を重ねるうちに“黄昏”と云う主題から離れ、生がけの現場日記となりつつあるが、今回は正に、「黄昏ミュージック」にふさわしい、憂い深き人生の書(詩ではなく敢えてそう記す)を前面に押し出した、ゴスペル前夜のアメリカの宗教曲『ウェイフェイング・ストレンジャー』を取り上げる。
 この曲はアメリカの国民的楽曲であるため、多くのシンガー、バンドが演奏しているが(ジョニー・キャッシュ版も筆者は非常に好きだ)ギター神、チェット・アトキンスに見出され世に出た名手ジェリー・リード版を“推し”とさせてもらう。
 とにかくこの楽曲は尺以上に展開が目まぐるしい。長い美しき音色のアコースティック・ギターのゆったりとしたイントロダクションに始まり、雄雄しきヴォーカルが思い入れたっぷり憂いを詠う。やがてバンドサウンドに移行すると、リズムセクションが構築するサンバ風ジャズにハモンドオルガンが輪郭を包み込み、最終局面では、プレ・ジョージ・ベンソン奏法ともいえるギター&スキャットで余韻を深く残しフェイドアウトしてゆく。
 これが3分半の間に一切の強引さを感じさせず展開するのだから、いかに彼が天才ミュージシャンであったかを再確認させてくれる作品でもあるのだ。
 俳優としても一定の成功を収めた彼は約束の地テネシー州ナッシュヴィルで2008年9月1日に静かに息を引き取った。(se)

2022/5/13.14.15.28「ONE LOVE スペシャルウィークエンド+1」@渋谷/希望開催に向けて。

 人生の多くは二十代で学ぶ。それ以降のたいていは、その焼き回しにすぎない。

 1981年、私はクーリーズクリークというもぐり酒場でインチキなバーテンをやっていた。
 まだ二十代。
 その年の五月にボブマーリーが亡くなった。クーリーに駆けつけた仲間たちと、その日朝までボブの曲で踊った。
 それほど熱狂的なレゲエファンでなかった私も、ラスタカラーのハチマキを締めて、気がついたらタイシタ美女とノーウーマンノークライをチークしていた。
 おかげで彼女と結婚することになったけれど半年で離婚してしまった。
 ひどいダメ男だった。
 先日あるパーティーで久しぶりに彼女に会ったら、ちっとも変わっていなくて驚いた。あの日から四十年も経っているというのに。
 私はもうすぐ七十歳だ。あの日朝まで踊った仲間たちの半数はもうこの世にいない。
 長いこと私はボブマーリーを聴いていなかった。
 今年の五月には久しぶりにボブマーリーを聴いてみよう。
 あの日朝まで踊った仲間たちに会いにいこう。
 ジャミンはもう踊れないかも。

 海の向こうで戦争が始まった。
 おろかな人間。

川内一作

イベント詳細↓↓↓↓↓↓
2022/5/13.14.15
2022/5/13.28

2022/5/28(土)ONE LOVEスペシャルウィークエンド+1 VOL.2 「ワンラブ・ライブ~what’s going on.どないなっとんねん~」Live:ゴトウゆうぞう

2022/5/28(土)「ワンラブ・ライブ~what’s going on.どないなっとんねん~」

Live:ゴトウゆうぞう
スペシャルゲスト:林家きく姫
DJ:佐藤こうき
ミュージックチャージ:無料(ご飲食代金のみかかります)

ゴトウゆうぞう/プロフィール
ミュージシャン、エンターティナー、サウンドプロデューサー&博愛主義者!!
徳島生まれ、京都産業大学軽音楽部卒、京都市左京区在住。1970年代中頃、関西BLUESムーブメントにあこがれ上洛!!1979年に、ヤマハ「8.8ロックデイ」ロックコンテストにて、優秀バンド賞に輝きデビュウ。以来、様々な楽器、スタイルで、塩次伸二、クンチョー、河内家菊水丸、憂歌団、上田正樹、上々台颱、初代・桜川唯丸、ネーネーズ、知名定男、ディアマンテス、大島保克、大工哲弘、照屋林助、登川誠仁、西岡恭蔵、三波春夫、都はるみ……等々等々、大量のレコーディング、ツアー、セッションに参加。(だいたい出会った(演った)順。
現在、日本最古のライヴ・ハウス「拾得」で、毎月10日、マンスリー・ライヴ「ゴトウゆうぞうshow(※)」を中心に、あっちゃコッチャで独自にBand活動、ソロ活動をやっております。
※ 8人編成の大バンドです。2006年~ロング・ラン公演中。
☆ 毎月(不定期)KBS京都ラジオPM5:15~5:45
「レコード室からこんにちは」選曲(セレクター)&DJ担当
☆2000年より、沖縄音楽の第一人者、知名定男氏の「チナ・サダオ楽団」、「楽天ワールド太鼓」に在籍中。また、1985年より、ズっと、日本最大、最長を誇るBLUES&SOUL音楽の一大イベント
「JAPAN BLUES & SOUL CARNIVAL」の司会進行担当、なんと27周年!!
日本唯一のBLUES司会者と言われているのだ!! 近年は、ミュージシャンとしても出演。オープニング・アクトと、ラストセッションで「ジョニー・ウィンター氏」とも共演!!

林家きく姫/プロフィール
1970年5月8日生まれ。1987年、林家木久蔵、現木久扇に入門(当時16歳)2001年真打昇進。芸歴、今年で芸歴34年2000年から始まった東京都提供番組「東京サイト」は、今年、21年を迎える。お肉とお酒と人と喋るのが大好き。

ご予約:
TEL:03-5465-7577
希望オフィシャルインスタグラム:https://www.instagram.com/ergon_and_argos/?hl=ja

2022/5/13(金)ONE LOVEスペシャルウィークエンド+1 VOL.1 「ワンラブ・ライブ~陽はまた昇る~」Live:奈良大介

2022/5/13(金)「ワンラブ・ライブ~陽はまた昇る~」

Live:奈良大介
DJ:Sohmei Endoh
ミュージックチャージ:無料(ご飲食代金のみかかります)

奈良大介/プロフィール
1967年3月19日生。うお座。B型。
14歳の時、お年玉でフォークギターを買う。が、すぐに挫折。
音楽に興味を失いつつも、高校2年からバンドを始める。
20代前半にレゲェ、ボブマーリーの音楽と出会い、ずっぽりハマる。
この頃から、レゲェの根幹にあるラスタファリズムを考えの中心におく。
当然ナイヤビンギと出会い、太鼓に興味をもつと同時にDJEMBEに会う。
丁度、N.Yに滞在し、アフロアメリカンの人達の暮らしやアートに興味を持ち、アフリカ文化にずっぽりハマる。この頃から絵を表現の一端とする。
1996年~セネガル出身のマムドゥ・カンデ氏に師事。
1997年、PERC・A・HOLIC結成。打楽器集団として、都内各所、関西などで活動を続けるが2001年解散。
1999年、アフリカ、ギニア共和国へ渡り、ラミン・ロペス氏に師事する。
帰国後、東京ナンガデフ、MANDEN-FOLIなどのグループで活動する。
JAH K.S.K & JOMORE STARS、やっほーバンド、PJアコースティックスタイル、サヨコオトナラ、朝崎郁恵(奄美島唄)、マブリ、DOUNIYAH等で活動中。
また、ギターも再び弾き始め、思いを伝えるため、唄も歌い始める。
音楽の持つ不思議な力と、言葉の魔力を信じて、現在、ソロ活も進行中。
必要とあらば、何処へでも飛んで行きます。
また、全国で、DJEMBEのワークショップも開催。

黄昏ミュージックvol.63  狂い咲きフライデイナイト/タモリ

 3月に早くも希望寄席の2回目が行われ、前回以上にソフト面はもとよりハード面も充実し、実に楽しい宴となった。
 前回に引き続き、筆者は音響と客入れ客出しDJを担当したが、江戸前落語家のそれなりのクオリティーの楽曲と云うとかなり限られてくるので、この夜の音をかけるモチベーションとして、前回と被らない音源だったのが、浅草ジンタの『笑点のテーマ』。演者二人が長年レギューラーを張る林家木久扇一門と云うことも加味してのセレクション。このパンキッシュでスカがかった解釈は高速テンポと相まって実に痛快なのである。
 そしてこちらも噺家のもではないが、今回の主題、お笑いタレントの大御所、タモリの4枚目のアルバムから『狂い咲きフライデイナイト』を使わせてもらった。
 同曲はシングル盤にもなりB面の『スタンダード・ウィスキー・ボンボン』共にサザンオールスターズの桑田佳祐作詞作曲で発売当時は話題的には大きな反響があった楽曲だ。
 曲の構造としては、後発ながら小ヒットした『アミダばばあの唄/明石家さんま』と同傾向の歌謡ジャズブルースといったところで、桑田作品の一翼を担う“あれ”だ。
 この曲を選んだ最大の理由は、他の芸人の追従を許さないタモリの音楽の高い理解度。そして、自身の番組『今夜は最高!』同様にJフュージョン界の手練を揃えた安定したバンドの演奏に尽きる (se)

3月31日(木)~6月7日(火) 沢田としき作品展VOL.2 〜LOVE AND RESPECT ALL LIFE〜

沢田としき作品展VOL.2
3月31日(木)~6月7日(火)
11時~23時
※土・日は17:00までにご覧ください。
※会期中イベントなどで貸し切りの場合がありますのでご確認ください▶︎▶︎▶︎▶︎希望オフィシャルインスタグラム
※水曜休廊

沢田としき(TOSHIKI SAWADA)/
1959年青森県生まれ。
阿佐ヶ谷美術専門学校卒業。青林堂「ガロ」で漫画作品を発表。長友啓典、黒田征太郎主宰のデザイン会社K2を経て独立。雑誌広告、イラストレーション、コミックス、絵本、芝居や映画のチラシ・ポスター、ステージ美術、ライブペインティングなど幅広く活躍し、各地で展覧会を開催。
1990年、初の画集「Pink&Blue」(ビクターエンタテイメント)を出版。1996年、絵本「アフリカの音」(講談社)で日本絵本賞、「てではなそうきらきら」(小学館)で第8回日本絵本賞読者賞を受賞。2007年、「ピリカ、おかあさんへの旅」(福音館書店)で児童福祉文化賞受賞。「ほろづき」「土のふえ」「ちきゅうのうえで」「つきよのくじら」「エンザロ村のかまど」「みさき」など絵本作品のほかに、挿画を手がけた児童書も多い。また、「ぐるり」(ビレッジプレス)、「すばる」(集英社)、「おおきなポケット」(福音館書店)で表紙画を担当。月刊「PLAYBOY」(集英社インターナショナル)連載の「ピーター・バラカンブロードキャスターの音楽日記」でも挿絵を担当した。
音楽活動では、大塚まさじ「屋上のバンド」でサックスを、WALKTALK(砂川正和・柳田知子)でジェンベを演奏。西岡恭蔵、大塚まさじ、砂川正和、高坂一潮、渋谷毅、いとうたかお、亀渕友香ほか、洋楽のCDジャケットイラストも多く手がけた。
また、「KOBE*HEART」(神戸)、「神話の里フェスティバル」(高千穂)、「風の祭り」(いわき)でアートディレクターを、「風のがっこう」(常呂町)で美術教授を担当。国立病院・広島西医療センターで「ホスピタルアート」、アフリカ・ケニア「シャンダ・ドリーム・ライブラリー」アートワーク壁画を制作。
2010年4月27日、急性骨髄性白血病のため永眠。享年51歳。