「さあ船を出しましょう」第三話

 ジャワ島、スラバヤのあいまい宿は入口の小さなカウンターに、いかにもなやり手婆さんが座っていた。婆さんはビンロウの実を噛んで、カウンターの上に置いたカンカラに赤い唾をペッと吐いた。私はパスポートを見せようとしたが、そんなものには目もくれずに宿泊客はそっちだと不愛想に右側の廊下を指さした。一番安い部屋は藁のベッドだったのでさすがに少し良い部屋にしてもらった。左側に行くと売春宿で、夕方になると地元の男たちが嬉しそうに出入りしていた。何日かすると、昼間はヒマなのか売春宿の女の子たちが私の部屋に遊びに来るようになった。みんな若くて普通の娘さんだ。クタのワヤンの店で買っておいたチョコレートやドリアンキャンディをあげると、うまそうに頬張り、ケラケラと笑い、しばしダベって帰っていく。アパカバール、テレマカシ、イニ・アパ、サマサマ。適当である。なんとなく会話をしている。ひとり旅は孤独だ。誰かと話したくなる。誰だっていい。私は天使たちにつかの間癒される。異国の茶飲みトモダチのために私は駄菓子を用意するようになった。ルビーちゃんはジャカルタから出稼ぎに来ている。スラバヤよりもジャカルタの方が稼げるだろうにと思ったが、みんな訳ありなのだ。ルビーちゃんはしばらくしてジャカルタに帰った。ジャカルタに着いたら訪ねて来てとメモをくれた。マンガブサールの番地が書いてあった。ジャカルタに辿り着くのはいつになるのか分からない。
 クーラーの無い部屋はひどく蒸す。日に何度も水を浴びる。短い午睡のあとで沐浴場に入る。満々と雨水を貯めた大谷石の水槽には緑色の苔が生えていて雨水を浄化する。私は天からの水を浴びる。カラダから吹き出る汗も毒素も大便もすべてさっぱりと洗い流すのだ。
 沐浴の後でバティックを腰に巻いてベッドに転がる。ギャビー・パヒヌイをかける。遠くに夕方のコーランが流れている。私はコーランが響く中ギャビーの「プアナフル」を聴いた。
☆ 
 1989年、アナ・藤岡と出会う10年前。
 飛行機は旋回して高度を下げた。
 窓から朝陽に輝くダイアモンド・ヘッドが見えた。憧れのハワイ航路、ハワイなど無縁な世界だと思っていたがやはり気分は高揚している。ウォークマンでずっとギャビー・パヒヌイを聴いている。アジアから帰ったばかりの私にハワイ行きの仕事を作ってくれた堀に、私が提案したのはギャビー・パヒヌイに会いに行こうという漠然としたものだった。もちろんギャビーはとっくに亡くなっているが、ギャビーが生きた時代を切り取ってみたかった。タイミング良くギャビーの息子達がパヒヌイ・ブラザーズとしてアルバムを出したばかりでもある。しかし初めてのハワイである。ともかく右も左も分からない。私は堀がやって来る10日前に先乗りした。アジアの垢を落としてハワイの空気に馴染んでおきたかった。その時フラのことは全く頭になかった。
 ホノルル空港を出たときアジアのあの喧騒がなくて拍子抜けした。まるで違う世界へやって来たと思った。ホテルも決めていない、とりあえず流されてみよう、私はワイキキ行きのバスに飛び乗った。
 ワイキキが見えて来た。
 バスはトーテムポールの親分の様なティキが建っている、古いポリネシアンスタイルのコテージの前で一時停止したので私はそこで下車した。高層ではなく中庭に面して2階建ての部屋がラグーンまで続いているワイキキアンというホテル。値段も安そうだし私はここに宿泊することにした。旅の運は最初に泊まったホテル、出会ったその土地の人で決まる。1996年、ワイキキアンは老朽化で取り壊しになった。つまり長い歴史の中の末期に私はワイキキアンに泊まっていたことになる。初めてのハワイから、ハワイは長い付き合いになっていくが、ワイキキアンは閉鎖されるまで私にとってオアフの定宿だった。
☆ 
 私はワイキキアンのレストラン・バー タヒチアン・ラナイに朝も夜も入りびたりだった。
 手入れの行き届いたキューバン・マホガニーの長いカウンターで、バーバックの酒ビンに囲まれた小型のティキとにらめっこをしながらダイキリやマルガリータ、ときどきハワイアンスタイルのマイタイやピナコラーダとか、あのチビの番傘が飾ってあるヤツね、あまり飲みなれないカクテルを注文したが、とどのつまりはハワイアン・ラムをストレートでかっ食らって、視界がぐらぐらしてくると、私を睨んでいるティキと話をするのだ。
 「やァ、お兄ちゃん、どこから来たんや」
 とティキが言う。少し関西弁入ってる。
 このカンジ、遠い記憶の底にある、ああそうだ、カスミ町で毎晩飲んだくれていた若い頃、クーリーズ・クリークのバーで私は山羊爺さんに会った。山羊爺さんは時々現れカウンターの上に茶色い紙袋を忘れていった。紙袋には何も入っていなかった。そして当時のカスミ町の仲間たちも誰もいなくなった。何も入っていなかった茶色い紙袋は私にとってとても大切なものだったのかもしれない。
 「くすんだ日焼けやなァ、なんかクローブの匂いもするし」
 とティキが言う。
 確かに私はアジアの旅の間、丁子タバコを吸っていた。雨季を追いかけるように歩いたその旅の間、私はまともに日を浴びていないのかもしれない。安宿の回廊から雨ばかりを眺めていた。熱帯から亜熱帯の激しい驟雨は私にとって愛すべきトモダチだった。雨がやんでも厚い雲が覆っていて、そのせいで曖昧に日焼けしているのだろう。
 「そうか、おマエはアジア人なんや」
 とティキが言う。ラム酒に浸かった脳ミソで私は考える。日本人なのか、東京人なのか、実家のある山口の小さな町の人なのか、放浪と格好つけてはいるが私は結局日本に戻り、食い詰めて山口の実家に転がり込んだ。若い時ならまだしも、すでに30はゆうに超えていた。つかの間おふくろは歓待してくれたがしばらくすると「ええ歳をひろうて、このまんまじゃイケンよ、東京に戻りんさい」
 と言った。
 東京は戻るべき場所なのだろうか。
 自分の居場所さえ分からない。
 アジア人というのは素敵な言い方だと思う。
☆ 
 私はタヒチアン・ラナイのカウンターでぐたぐたとまぼろしを見た。マーティン・デニーのエキゾチカの美女が登場してクネクネと踊っている。彼女はインド系のようでもあるし、白人のようでもあるし、中国人のようでもある。ベリーダンスのようでもあるし、フラか盆踊りのようでもある。
☆  
 ホノカアのマダムと出会ったのは翌日のことだった。


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黄昏ミュージックvol.109  アイ・スウェア、アイ・リアリー・ウォンテッド・トゥ・メイク・ア・“ラップ”・アルバム・バット・ディス・イズ・リテラリー・ザ・ウェイ・ザ・ウィンド・ブルー・ミー・ディス・タイム/アンドレ3000

 とある媒体から執筆&イラストレーション制作をオファーされ、コーナー内容を自ら決めたのだが、それに従い同ジャンルを駆け足にあらい直してみた。
 その主題は、“アンビエント・ミュージック”。
 エリック・サティの、“家具の音楽”を出自に、ブライアン・イーノの1978年リリースのアルバム「アンビエント1:ミュージック・フォー・エアポート」でほぼ、その雛形は出来上がった。
 その後は“ニューエイジ・ミュージック”という分派が現れ商業的な成功も収める。
 同時期、クラブ側からもチルアウト・ミュージックという分派も表出し、斬新なサンプリングやリズムの強化で進化は進んで行く。
 ここまでが概略だが、締めの部分で当然、現在、未来への展望を述べなければならないのだが、そこで、他の“ジャンルからの参入”と“観念的ものからの脱却”として本作を引用させてもらった。
 ヒップホップ・デュオ、アウトキャストのラッパーであり、俳優アンドレ・ベンジャミンとしても活躍するアンドレ3000が、ラップからフルート奏者に転身したアンビエント・アルバムの冒頭曲。過去の同ジャンルにはみられない身体性を伴う深い魂の振動が克明に見られる、近年のアンビエント・ミュージックの大傑作と断言できる楽曲なのである。(se)

「さあ船を出しましょう」第二話

 その日西麻布のバーで私はアナ藤岡を待った。木曜日の早い夜、半地下のバーは奥の二つのテーブル席はすでに埋まっていて、カウンターにはカップルが一組と、男性と女性客がひとりづつスツールに腰かけていた。
 この店の主人であるバーマンの菊田の作る酒は秀逸である。とても丁寧に謙虚な仕事をする。そして何より選曲がいい。それも自分本位ではなく、お客さんの状況をカウンターの中から観察してすぐに空気を読む。かける曲はノンジャンルである。私はインギン無礼なジャズバーが嫌いだ。ジャズが嫌いという意味ではない。もちろん菊田はチェット・ベイカーもかければサラ・ヴォーンもかけるけれど、ボブ・ウィアーやニール・ヤングだってかける。それもすべてお客さん次第なのだ。
 私はカウンターの一番奥に座る。奥の席からはすぐに小さなキッチンがあり菊田の奥さんが料理を作っているのが見える。ベトナムとかタイの料理。バーでもちゃんとした料理があるのは嬉しい。時々この界隈を徘徊するけれど、腹が減って何を食べるか迷ったあげくに食いそびれて、菊田の店に来る。バーの料理はたいてい小じゃれていて食べる気がしないがこの店の料理は存在感があっていい。
 私はウイスキーのソーダ割を頼んだ。ウイスキーの銘柄はここでは言わない。酒のウンチクをたれたくはない。ただ菊田に氷は入れてくれと頼んだ。氷のないハイボールはうまいが悪酔いする。
 ルー・リードの「ペイル・ブルー・アイズ」がかかっている。以前ベトナム映画「夏至」のハナシを菊田にしたことがある。
☆ 
 ドアが開いて、アナ藤岡が入ってきた。
 雨の匂いがした。少し降ってきたらしい。半地下の店は湿気がこもる。木曜の夜の酒場はざわついている。私は右手をあげてアナにここだと伝えた。アナは私の隣に座った。私は少し緊張している。すぐに菊田がやってきて「いらっしゃいませ。アルバムいつも聴いてますよ」とにこやかに言った。菊田の一言で空気が緩んだ。アナは「あら」と嬉しそうに「マティーニ、オリーブ二つ」と言った。「私のハワイの先生が大酒飲みで、いつもマティーニを注文するの。オリーブ二つって、まねしただけ、ホントウはマティーニってどんなお酒か飲んだことないのよ」
 菊田は手早くマティーニを作る。オリーブが二個入ったマティーニがアナの前にすっと出された。ほのかにレモンの皮の香りがした。菊田が女性のヴォーカルに変えた。
 アナが「あら、アーマ・トーマス」と言った。
 ジャームッシュの「ダウンバイロー」のなかでこの歌がかかるシーンがある。刑務所に入ったジョン・ルーリー、ロベルト・ベニーニ、トム・ウェイツの三人が脱獄して、とある小さなレストランに隠れる。レストランの女主人がニコレッタ・ブラスキで同じイタリア人のロベルト・ベニーニと意気投合して、チークダンスを踊る。その場面でアーマの「イッツレイン」がかかる。ジョン・ルーリーとトム・ウェイツが、ちょっと白けた顔でそのダンスを見ている。名場面だ。雨の記憶、菊田の気の利いた選曲。
 そんなハナシを私はアナにしたがアナは映画は見ていなくて、ニューオリンズで実際にアーマ・トーマスのライブを見たのだと言って、曲に合わせてワンフレーズ歌った。癒しの声。
 「あの頃、八〇年頃ね、この辺はカスミ町って言ってたわ。さっきの若いタクシーの運転手さん、西麻布って言わないと分からなかった」
 「広尾橋、材木町、カスミ町、年配の運転手さんだと嬉しそうに答えてくれる。」
 「ロンドンでライヴのあと、帰国して、当時のインクスティックやクーリーズ・クリークでライヴをやったの」
 「ああ、八〇年代このあたりのそんなクラブはみんな今はなくなったよ。当時は深夜、カスミ町の交差点を歩いていると誰かに出会った。街の風景はあまり変わらないけど今は町が清潔になった気がする。八〇年代前半の食いかけのハンバーグがひっくり返っているような危うさがない。カオスがなくなったのだ。
☆  
 そういえば、恵比寿のすし屋のがんちゃんが言ってたな。
 「オレがさァ、若い時ロンドンですし握ってたらさ、つまり一九八〇年頃さ、まだ駆け出しで修行の身、異国だしさ、淋しくてさ、そんなある日、ラジオで、日本のニューウェーブのバンドが来るって聞いたのさ、ニューウェーブだぜ、日本のロックなんかイギリスの奴らまだ誰も知らない頃に、ニューウェーブさ、オレ仕事休んで見に行ったさ。それがアナのバンドさ。すっ飛んだよ。カッコ良かったなァ、ロンドン子もみんなのりのりさ」
 そんなハナシをアナにした。アナはロンドンでがんちゃんに会っている。
「がんちゃん元気かなァ」とアナは言った。
 しばらくしてすし屋のがんちゃんは亡くなった。
 私はアナが、ニューウェーブからワールドミュージック、ハワイへと変化していく過程に興味があったがアナのファンというわけではなかった。八〇年代のインクやクーリーズのライヴも見ていない。というよりクーリーズのライヴはすでにいっぱいで入口まで行ったが入ることはできなかった。丁度デビット・ボウイが東京に来ていて、アナのライヴを見に来たがやはり入れなくて帰っていった。カスミ町の闇に消えていくボウイの姿を遠目に見て、私はアナのライヴは見ることはできなかったがボウイを垣間見れただけでも良かったと思った。ボブ・マーレイやシンディー・ローパー、バスキアだったり、シャーデーやグレース・ジョーンズに出会えたり、当時カスミ町のナイトクラビングは驚くべきハプニングがあった。
 八〇年代バブルに関係なく私と私の周りはいつもお金はなかったが、それでも海外の多くのアーティストに出会えたことはバブルの恩恵を受けたと言っていい。
☆ 
 「私は大したヒット曲がないから、過去にとらわれないでいろんなジャンルにトライできるの」とアナは自嘲気味に笑う。
 そんなことはない、私はアナのヒット曲も数曲知っている。にもかかわらず彼女は昔のヒット曲に頼らず、常に新しい世界にトライしている。
 私は二杯目のソーダ割を流し込んで少し落ち着いた。
 「ところで、世界のアナ藤岡がなぜこのような男に連絡をくれたのでしょうか」と私はおどけた調子で言った。
 アナは少し間をおいて、「八九年頃かしら、今から十年前、ある雑誌にあなたはハワイの話を書いたでしょ。私はたまたま読みました。一部がハワイの音楽の事、二部がフラの話。フラの古典のことを書いていらして、とても面白かった」
 「フラ カヒコ」
 「ええ、カヒコ。日本ではフラと言えばモダンフラ、つまりアウアナのことで、カヒコまでやらないし話題にもならない。私は男性がカヒコの記事を書いていることにまずびっくりしたわ」
 十年前、つまり一九八八年頃、まだ私は旅を続けていた。東京に帰ると旅がらみのエッセイを雑誌に書いていた。どれも短いモノばかりで、長い取材文を書いたのはアナが読んだ雑誌が初めてだった。ヘタクソで未熟だった。旅から帰ると友人の堀が住むところのない私を家に泊めてくれた。家といっても堀の家は浄土真宗の寺であるから、私は本堂の片スミに布団を敷いて寝た。お礼に広い本堂の掃除をした。日本にいる間私は寺男であった。寝るのは片スミであったが、堀の父親と友人がやってきて四人揃うと、本堂のど真ん中で麻雀をした。
 堀は私より若いが優秀な編集プロデューサーで、親鸞上人の慈悲の心を持って無一文の私にハワイ取材の仕事を作ってくれた。アジアの赤土の上を裸足で歩いていた私にとってハワイなどまるで興味はなかったが、ハワイから南太平洋への旅は思ったより長くなった。そして気が付くと、ハワイ島の火の神ペレに会いに行くことになるのだ。これも親鸞上人のお導き、いやいや、準備ができていれば自然それなりの場所に辿り着くのかもしれない。もっと昔、イーストビレッジで遊びすぎてカラダもココロもぐずぐずになっていたとき、トンプキン公園で、ある和尚さんに出会った。気が付いたらキャッツキルの山中にある禅寺に私はいた。このハナシはいずれまたするとして、旅の哲学はそういうものなのだろうか。いま私はアナ藤岡とカスミ町のバーで会っている。アナが私のような一般人に連絡してきた意味が分かりかけてきた。いや理解しようとしている自分に気が付いた。
 アナは言った。私の心を読み込んだように。
 「そうなんです。わたし、これから東京でフラの学校を始めたい。それには私自身がもっとフラカヒコを学ぶ必要があるの」

  無意識から何かが起こった瞬間だった

 アナは私にこれからフラを巡る旅に出かけようと言っているのだ。その旅はとても精神的なもので、果たして日々飲んだくれている私にそんな大それたことを手伝うことができるのだろうか、私が雑誌に書いたフラの話はひどく未熟なモノだった。火の神ペレのもう一度学んで書き直せというお告げなのかもしれぬ。果たして三蔵法師の孫悟空のように約束の地までお供できるのだろうか。マチガイばかりをやらかして孫悟空のように頭に巻いたキンコジを絞めつけられるに決まっている。
 いかがなものか、私は三杯目のソーダ割は氷なしで頼んだ。


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黄昏ミュージックvol.108  Ené Nègn Wèy Antchi/ティラフン・ゲセセ

 英語圏での旧譜ダンスミュージックの掘り起こしにひと段落した後、クルアンビンのタイランド産の緩いファンクミュージック租借辺りをトリガーに、俗に云う“辺境グルーブ”の掘り起こしへ、DJ、コレクターたちは約束の地を非英語圏へと変更した。
 筆者も御託に漏れず、タイファンクはもとより、コロンビアのボゴタ・アンダーグラウンド・シーンの音脈、ムスタファ・オズケントを筆頭としたトルコファンク、そして一番肌が合う、ムラトゥ・アスタトゥケを頂点としたエチオピア・ジャズと果てしなく音響放浪した。
 アスタトゥケの心地よいグルーブが奏でるヨナ抜き音階の魅力は語るまでもないが、ことグルーブのみにフォーカスするなら、そのアスタトゥケ人脈が誇る国民的歌手ティラフン・ゲセセが特出した存在となる。
 フェラ・クティがジャームス・ブラウンとナチュラルに互換関係にあったように、ティラフン・ゲセセもその2人と互換関係にあるように思う。
 それほどまでに、ボーカルを伴うファンク・ミュージックとして英語圏の著名なアーティストと全く引けを取らないクオリティ。そう、正に彼の称号たる“ザ・ヴォイス”。唯一無二な存在なのである。(se)