アダン開店事情
五丁目の夕日
港区三田五丁目の裏通りにポツンと取り残されたレンガ造りのお蔵で料理屋を始めたのは一九九九年の春のことでした。当時は地下鉄白金高輪駅もなくこの界隈は小さな町工場が点在していました。映画「三丁目の夕日」を彷彿とさせる町並に、まるで時間が止まったように佇んでいたレンガのお蔵。そんな懐かしい蔵を料理屋に改装してみたら実に居心地の良い空間ができました。
しかし夜になれば真っ暗な闇の中、通りは誰も歩いていません。果たしてこんなところにお客様は来てくれるのだろうか、いつも強気な私も内心は不安でいっぱいでしたが、これも運命、神様の気まぐれにもて遊ばれたに違いありません。であればあるがままにもて遊ばれてみようか、ココロの中でそう腹をくくるしかなかったのです。開店当初は超がつくくらいヒマでしたので、営業中にアダンを抜け出して近所をぶらぶらと散歩します。近所のお寺さんや公園は桜が満開です。満開の桜の下で「今にお店はいっぱいになるさ」と独り言、自分を慰めていたのがつい昨日のように思えます。
ネーネーズと田中一村のアダン
ところで「アダン」は南西諸島や沖縄、ハワイなど亜熱帯に群生する植物です。奄美で生涯を終えた孤高の日本画家田中一村もまたアダンの奇妙な果実に魅せられたひとりなのでしょうか。沖縄に「島々カイ清しゃ」という歌があります。私が初めて聴いたのは「初代ネーネーズ」でしたがこの歌は沖縄民謡の定番で多くの人が歌っています。清しゃとは美しいという意味です。
白浜カイ清しゃや
朝どぅり夕どぅりよ
潮は満潮よ
磯で千鳥泣いてよ
サーユイヤサー
帰るサバニを
招くアダンのかい清しゃよ
漁から帰ってくるサバ二舟をアダンの木が迎えてくれるわけです。田中一村の描くアダンに触れ、ネーネーズの歌う「島々カイ清しゃ」を聴きアダンという名前にしたのです。なにしろ港区三田は当時の私にとって不慣れな立地。真っ暗な夜道を歩いていたらボウッと蔵の灯りがついています。そしてこの先は芝浦、さらにその向こうはもう南の島へ続く海なのです。私にとってアダンはそのようなイメージでした。
しかしアダンは沖縄料理屋ではありません。後で書きますが、アダンは和食が中心のお店で沖縄の食材は少しだけ使っています。この程度のことで沖縄料理とは沖縄の人に申し訳が立ちません。
アダンは「アダンの料理」なのです。
だからと言って創作とか無国籍とか奇をてらったものではなく普通の家庭料理を丁寧に作っているだけなのです。もともとアダンの料理は料理長である松本タダシくんとせっちゃんの二人で始まりました。タダシくんが魚をさばいたり、鯛めしを炊いたり、せっちゃんが大根を煮たり、胡麻和えを作ったり…大阪出身のせっちゃんの優しい味を中心に、あれもやりたいこれもやりたいという私のワガママをタダシくんがきいてくれてバランスのとれた献立になりました。
厨房の朝イチの仕事は大鍋にたっぷりの昆布とかつをでお出汁をとるところから始まります。胡麻和えなどの胡麻は香ばしく炒ってすり鉢ですります。つまり料理人がふつうにやっている基本を丁寧にやっているだけのことなのです。レモンの季節には広島の瀬戸田から皮も食べることのできるレモンが届きます。秋には九州の豊後高田からカボスが届きます。どれもカタチはゴツゴツしていますが味はいい。これもけっしてどこそこのおいしいモノを集めましたといったタイソウなことではなくて、私やアダンのみんなが旅をしているうちにめぐりあった食材なのです。
ところでせっちゃんは三年前に渋谷店に移りました。渋谷のお店はこじんまりしています。六十七歳になったせっちゃんにはアダンは広すぎました。去年の九月に改装して「家庭料理おふく」という店名にしました。体力的にせっちゃんがあと何年できるかわかりませんが、おふくでさらに勉強したせっちゃんの野菜料理を私は食べたい。アダンのように鯛めしなどはあえて献立に出していません。もちろんあらかじめ連絡していただければいつでも用意はいたしますが、おふくではおあげや根菜などを炊きこんだ「かやく御飯」がおいしいよ。お客様とせっちゃんに福が来ますように。
淡路はココロのパラダイス
私の父親の生家は兵庫県淡路島北淡町の富島港というところです。この辺りは昔から西浦と呼ばれ淡路島のなかでもとりわけ魚が湧いてくる海なのです。対岸は明石で、いわゆる明石の鯛、タコ、穴子はこの海で獲れ富島港にも大量に水揚げされます。富島港の漁師の次男坊に生まれた父は戦争が終わると山口県の瀬戸内に向いた小さなイナカ町の材木商の家に養子で入ります。戦争で長男を失った材木商の長女が私のおふくろで、つまり父は婿養子として淡路からやって来て私が生まれたのです。戦争と海のことしか知らない淡路の漁師の次男坊である父は当然商売のことなどまるでわかりません。私が父から教わったのは伝馬船の漕ぎ方と素潜りでモリを使って魚を仕留めることぐらいでした。
小学校の春と夏の休みに私は淡路の父の生家に預けられました。山口のイナカ町から山陽本線で明石まで行き、明石駅から魚の棚(うぉんたな)を抜けて船着き場へ、それから小さな汽船で富島港まで行きます。新幹線も高速船もなかった時代、淡路まではるばるとやって行くわけです。うぉんたなは当時の方がはるかに活気があったように思いますが、名物の明石焼きはその頃からあったのでしょうか、私は当時明石焼きを食べた記憶がありません。高度成長期、日本はまだ貧しくて、給食などは米軍からの脱脂粉乳とパサパサのコッペパンでした。そんな時代の少年にとって淡路はご馳走パラダイスだったのです。春にはコナ(イカナゴの子供)の大群が押し寄せます。お腹がピンクに色づいたメスの襲来で海岸は薄桃色に染まりました。富島港に水揚げされたコナは足が早いためすぐに釜揚げにされます。朝ごはんは釜揚げしたばかりのコナを熱々のごはんにてんこ盛りにのっけてかっこみます。春の終りにはコナはイカナゴに成長してくぎ煮となります。大人になって東京で暮らしていても毎年淡路からのくぎ煮が届くのを楽しみにしていましたが、この頃はイカナゴが獲れなくてくぎ煮が届かない年もあります。
夏休みは一日中海パンだけで過ごします。父のお母さん、つまり淡路のお婆ちゃんは、くぎ煮を作ったり、のりを佃煮にしたり、ベラやキスを焼きなますにしたり。「オマエはイカナゴみたいじゃのう」とやせっぽちの私はいつもからかわれていました。漁師の子供達と海へ行くときにお婆ちゃんは必ずタコの足一本をおやつに持たせるのです。ゆであがったばかりのタコの足をかじりながら遊んだ記憶は鮮やかに残っています。アダンの定番「明石だこのゆでたて」はそんな記憶の中の料理、いや、ゆでただけなので料理と言えるものではないのですが、あらかじめ茹でてある冷たいタコよりも、ゆでたばかりのタコを口にほおり込み噛みしめるあの素朴で密やかな楽しみは私の少年時代淡路で遊んだ一番の想い出なのです。こんがり焼いた明石鯛を丸ごと入れて土鍋で炊いた鯛めしもそんな淡路の夏休みの想い出から出来たものなのです。今でも年に何度か淡路に行きます。阪神淡路の震災以降富島の町並も大きく変わりました。焼杉の板塀と瓦屋根が美しい古い家々は地震で倒壊し新建材の家になりました。淡路のお婆ちゃんも、戦争と淡路の海しか知らない父もずいぶん前に亡くなりました。富島の親戚も漁師の人達もほとんどわかりません。それでもいつもおいしい鯛とタコと穴子がアダンに届きます。
新しい舟
二〇一五年の暮れにアダンは立ち退きになりました。「ニュー・シネマ・パラダイス」のなかで、シネマ・パラディッソが取り壊されるとき茫然と立ち尽くしていたトトのように巨大なクレーンで破壊されていく旧アダンを私は黙って眺めていました。考えたらカスミ町、代官山、青山あたりで多くの飲食店を立ち上げてきた私にとってアダンのように一七年間も長く深く関わってきたお店は初めてでした。恥ずかしいハナシですが去年の冬頃は白金のクーリーで飲んだ後に取り壊された旧アダンの更地に立ってつまらぬ感傷に浸っていたのですが、ある日、やはり酔っぱらって旧アダンの場所に行く途中転んで足首を骨折してしまいました。つまり神様がもうここへは来なくていいよ、次へ行けよと背中を押してくれたのです。アダンが一七年間慣れ親しんだ三田から山を一つ越えた高輪二丁目に移転してあっという間に一年経ちました。一年前の今頃は新アダンの改装やら引越しの準備やらでアダンのみんなも忙しくしていました。
しかしなぜ高輪だったのか、特別不動産をあたったわけではありません。旧アダンの取り壊しが決まった頃、「僕の家でやりませんか」と友人から暖かい提案を頂きました。友人の家は四十七士で有名な泉岳寺からすぐの大きなコンクリートの家でした。友人は両親も亡くなり、弟も結婚して家を出て、その家にひとりで住んでいました。今まで私は店舗を作るときに物件探しなどほとんどしません。何かのエン縁を感じた時だけ行動することにしています。私はまたしても運命にもて遊ばれてしまったのです。残りの人生この流れに任してしまおう、そう思い友人の家をアダンにすることにしました。
レンガのお蔵からコンクリートの家へ、あの蔵のあったかさがヨカッタのにと言われる方もいらっしゃいます。いやいや空間がゆったりして今の方が気持ちいいねと言われる方もいらっしゃいます。賛否両論ですがそうは言っても過去は既に消えていて前に進むしかないのです。ただ私にとって幸運なことは古くからのスタッフがずっといてくれることです。新アダンを始めた時にスタッフ全員に言ったことは、タテモノは変わったけれど格別新しいことはやらないで今までと同じことを続けようということでした。空間は広くなりましたが席数も値段も旧アダンと同じにしました。旧アダンより厨房はかなり広くとれましたので料理人は使いやすくなったようで、仕込みの時間、厨房から笑い声が絶えないことは移転してヨカッタと思ったことのひとつです。
アダンは新しく船出してやっと一年、旧アダンから数えますと今年で一九年目の春を迎えます。
あと百年続けましょうか。
今年の年賀状にこう書きました。私はもう還暦をとっくに過ぎました。私の次の次の世代までアダンが続いていけたらいいなァと思っています。
二〇一七年一月
アダンオーナー
河内一作
旧アダン三田店前 スタッフ集合