酔談Vol.2 ゲスト:徳永京子氏 ホスト:河内一作



 “酔談”。見ての通り、酔って語らうこと。当然、造語である。
 酔っているがゆえの無軌道さ、大胆さ、無責任さ、自由さをそのまま気取らず飾らず実況する、それが「対談連載/酔談」の全てである。
 アダングループ代表、河内一作が東京の夜のフロントラインに初めて立った、1981年の「クーリーズクリーク」から現在に至るまで、彼が関わった店が、単なる飲食店におさまらず“自由なステージ”としての酒場の背景を演出出来えた“要”ともいえる大切な友人達を毎回招き、テーマなしのゼロベースから美味しい酒と肴の力を借りつつ今の想いを語り尽くすトークラリー。
 さて今回2回目のゲストは、今や演劇評論のトップランナーであり、一作プロデュースのライブシアター「音楽実験室 新世界」(2010〜2016)の略全ての演劇イベントをプロデュースした才女、徳永京子さん(以下敬称略)、
 ……、な、の、だ、が、……、実はその旨、徳永京子には事前に知らされておらず、抜き打ちテストならぬ抜き打ち対談という様相。
 不意を突かれ、当初あまり気乗りしない様子の徳永京子だったが、「アダン」の極上自家製サングリアの進みと共に徐々に舌は滑らかに。
 まずは、皆が知りたい演劇界のリアルな現実の話から緞帳は上がった。

◇◆◇◆◇

河内一作(以下:一作):今、校正原稿持って来ているんだけど。初回は編集者の松木(直也)が、食育のことに力を入れていて、その辺を中心に話したんだけど、


 
徳永京子(以下:徳永):ええ。じゃ〜、この原稿は略終わっていて、

一作:うん、で、徳永さんは女性なんで、写真はちゃんと撮らないと失礼なんで、この後、カメラマンが来るから。

徳永:ええっ!?今日、対談やるの!?マジで!?!?
なんの用意もしてないですよ。

一作:ハハハハハ(笑)
それでいいんだよ(笑)いいじゃん、「新世界おつかれさん!」で飲む感じでいいから(笑)

徳永:ハハハハハ(笑)

一作:おれ達が飯食うなんて1年に何回もないんだからさ〜、

徳永:ええ、まあぁ……。

一作:今日、徳永さんのスタッフが来れなかったから、かえって、「対談にはいいなか?」って。
徳永さんとはいつからの付き合いだっけ?

徳永:新世界がオープンするときに、湯山玲子さんのご紹介で始めてお会いしました。
 
一作:そうか、仲介してくれたのは玲子さんだったね。
新世界に関してはやはり、“元『自由劇場』だった”ということが、お芝居の人達に執ってはひとつのモチンベーションとなったんだろうか?

徳永:それは確実にあったでしょうね。

一作:昨年の3月に店を閉めて、早々に徳永さんは食事にでもご招待して、新世界での労をねぎらいたかったんだけど、もう1年が過ぎようとしている……。

徳永:一作さん、丁度、閉店のタイミングで骨折されて入院していたこともあって、そのまんまになっちゃいましたね。もうすぐ1年か〜……。

一作:徳永さんプロデュースの新世界での公演の最後はいつだったの?

徳永:「官能教育」の再演シリーズを、2015年の、8、9、11月と3本やったのが最後でした。まだ、いくつか新世界でやりたいことはあったのですが、仕込みきれなかった……。

一作:芝居は準備が大変だよね。
ところでさ、鈴木杏さんが出たんだよね?

徳永:ええ出ました。

一作:えっ!いつ!?

徳永:倉橋由美子さん翻訳作品のリーディングシリーズを「夜の入り口」というタイトルでやっていたときの1本で、「星の王子さま」の王子役で出ていただきました。

一作:おれ、実は彼女のことまるで知らなかったんだけど、映画「軽蔑」をたまたま見て、「素晴らしいな〜」って。それでさ、……、……、会いたかったの(可愛らしく)

徳永:ハハハハハ(笑)

一作:劇中に憂歌団の「胸が痛い」がかかるじゃん。あの男の子、えっと、……、

徳永:高良健吾さん。

一作:うん。
彼がそのまま電車に乗らないで一旦降りてさ、電車の中で杏ちゃんが佇んでいて、そこにあの木村充揮のダミ声が被ってくる。あのシーン、最高だよな。
「胸が痛い」っていったら、おれと、今、この対談の進行している彼と、ミュージシャンのこだま和文くんと吉祥寺で取材して、その後に西荻窪で飲んだときに、ながれでこだまくんの行きつけのカラオケスナックに行ったんだけど、実はおれ、カラオケ苦手で早々に帰ろうと思っていたんだ。そしたら彼が「胸が痛い」を歌って(笑)「おお、いい曲きたじゃん!」って(笑)

ラジオアダン:恐縮です(笑)あのとき、こだまさんの評価も意外に高く、「お前、選曲いいよ!」ってお褒めの言葉をもらいました(笑)

徳永:へ〜、で、一作さんは歌ったの?

一作:……、……、

ラジオアダン:歌いましたよ。こだまさんとデュエットで「木綿のハンカチーフ」。しかも、歌詞の男女パートを二人でしっかり分けて。ガハハハハ(爆笑)

徳永、一作:ガハハハハ(爆笑)

一作:最低だよ(笑)
あの曲と歌手は好きだけどね。

徳永:太田裕美さん。

一作:うん。
彼女は絶対的な声をしてるじゃん。究極的には歌手は上手いとかを越えて、すぐに“誰”と分からなくちゃダメ。

徳永:うん、確かに。


河内一作

一作:話は戻るけど、芝居は音楽以上にリハーサルが多いし、束縛時間も長いから大変だよね。
でも、昔からやっているアングラ方面のあの人達ってどうやって食ってるのかね〜、いつも謎なんだけど(笑)

徳永:ミュージシャンの方達にも謎な人、結構いませんか?(笑)

一作:まあそうだけど、ミュージシャンはミニライブなんてことで効率よかったり、弾き語りってことでひとりで完了出来たりもするじゃない。芝居よりは身軽だよね。

徳永:確かに、基本、音楽のライブは1日が多いと思いますが、お芝居は1週間とかざらですからね。

一作:それプラス稽古だものね。
そうそう、昨年の暮に、元状況劇場オールスターズ的な芝居「骨風」を見に行ったの。佐野史郎くんが主演の芝居。

徳永:そうでしたか。
その役者の収入とも関連しますが、昔と違って、ここ10年くらいは助成金というシステムが割と整ってきましたから、申請書さえ通れば、国だったり文化団体からある程度お金が出るようになりました。
だからと言って、全ての作演出家、役者さん達が食べてゆけるようになった訳ではないですが、公演費用くらいは賄える場合も多くなってきました。
ですので、以前のように団費やチケットノルマ云々に振り回されずに、演出、演技に邁進出来る環境は徐々にですが整ってきてますね。

ラジオアダン:門外漢から見て、役者さん達の成功と呼べる最終形は、テレビ、映画に出続けることのようにぼくは勝手に思っているのですが、実際のところはどうなのでしょうか?

徳永:最終形と云っても人によって随分違うものですよね。
でも、食べるという一点についてだけを考えるなら、テレビが一番手っ取り早いのはその通りだと思います。

一作:そのテレビに出るってことは簡単なことなの?

徳永:簡単じゃないです。

一作:例えば、「食うためにテレビなんて出たくない!」なんて人は今でもいるの?

徳永:ええ、出たくない人もいますよ。
テレビを最終形と思っている役者さんがまずいますよね。あと、テレビには出ているけどそれが最終形だとは思っていない役者さんもいる訳です。
私の私感ですが、一番多くの役者さんが思っているのは、「テレビだろうが、映画だろうが、舞台だろうが、その時その時の自分が好きなジャンルで、好きな人達と仕事をする環境を構築したい」というのがおそらく最終形だと思うんです。

一作:知人ということもあるけど、それプラスバンド活動もする佐野くんなんて、正に今言った感じに近いよね。

徳永:はい、わたしもそう思います。

一作:彼はよくそういう時間を作れるよな〜。
「骨風」だって、なんやかんやで1ヶ月は拘束されている訳でしょ。
あの芝居だと、(井浦)新くんみたいな売れっ子もよくスケジュール調整出来たね。

徳永:ホントですよね。
でも、役者さんサイドから聞くのは、「ミュージシャンの人達ってどうやって食べているのかね〜」ですから(笑)
ライブ1本で高額なギャラが発生する人は数える程しかいないでしょ?

一作:ただ、ミュージシャンは仕込みが早いから。上手い人だとワンテイクで完了だから。下手な奴程ダラダラやってる(笑)

徳永:こう言ったら分かりやすいのかな?
お芝居をやる人達は、皆で時間を掛けて準備をするのが好きな人達だと。

一作:成る程。
昔のアングラ系の人達は、当日のもぎりから場内オペレーションまで全部やるもんな。

徳永:はいはい(笑)

ラジオアダン:ミュージシャンの人達の中でも、お芝居にすっと馴染んでゆく人もいますよね。

徳永:そうですね。
実際に、ミュージシャンから俳優になる方も凄く多いですし。
そういう人って、演じる前に既に雰囲気、世界観が出来上がっているんです。
自分で、「こういう風にしたい」というのがはっきりしていて、それとキャラクターが上手く合致すると、演技以上の魅力が表出する。
石橋凌さん、白龍さん。あと、ユースケ・サンタマリアさん等が上手なのは勿論ですが、それに値する方達なんでしょうね。


徳永京子氏

一作:徳永さん自身は芝居経験者だったの?

徳永:いや、全然。
見る専門です。

ラジオアダン:非常に初歩的な質問で恐縮ですが、ぼくは、幼少期に映画とお芝居を同時期に初めて見たのですが、お芝居の“生さ”に付いて行けなかったんです。で、その後、「映画は好きだけど芝居はちょっと……」という時代が長々続いてしまって……、

一作:おれもそう思った。
最初に好きになるのは映画だよ。

徳永:私も同じです。まずが映画の方が身近じゃないですか。
舞台って、やっぱり、……、よっぽどの幸運で最初の出会い頭に面白い作品に当たらない限りなかなか入り込めないと思います。
変な言い方ですが、見るコツを掴むまでに時間を要したりであるとか、あと、とにかくいい出会いが必要ですね。「生すぎる」とおっしゃいましたが、それは私にも非常に理解出来ます。

ラジオアダン:えっ?徳永さんでもそれを感じた時期があった!?

徳永:勿論、勿論。
かっこ悪いし、気持ち悪いし、わざとらしいし、汗臭いし。
ハハハハハ(爆笑)

一作:おれはその辺のアングラ感は大好きだけどね(笑)
それより、唐十郎や寺山修司の芝居ってなぜあんなに早口で台詞をしゃべるのかな?

徳永:あれは台詞が一杯あるからだと思います。
特にアングラは、唐さんも寺山さんも詩人でもあったので、言葉が抽象的なんですよね。
抽象的なものをゆっくり言うと単なる詩の朗読になってしまうので、

一作:そりゃ〜スピードが大事になるね。

徳永:そうなんです。
あと、お二人共凄く言葉が湧き出る方達で、思考もバンバン飛んで、書きたいことも沢山ある。

一作:飛びまくりだよ(笑)

徳永:それを敢えて整理しないで書いていったと。
それを芝居として成立させるにはスピードがないと、お客様の間に、「?」が続いてしまって、芝居として受け入れられないんです。
内容が破綻していても詩情を優先するためにスピードを使って、お客様の中に疑問を感じさせないリズムであったりだとか、詩が詩として植え付けられる時間を考えると、それはゆっくりではなく、ある早さと物量を持ってぶつけるという時期があの頃だったんだと思います。

一作:台詞全てが分からなくてもいいんだよね。
実際、あれ分かる?

徳永:いくつかを、自分の耳に残るフレーズとして持って帰れればそれでオッケーだと私は思っています。
今も勿論あるんですが、アングラが60〜70年代に隆盛を誇り、90年あたりから少しずつ演劇の流行が変わっていって、今はホント、囁き声のようなごく普通のトーンの演劇の方が比率として多いです。

一作:へ〜。
おれは最近、数見てないからな。

ラジオアダン:ぼくはさっきも言ったように、生さが苦手で芝居門外漢だった。新世界で突然、芝居の照明をやるはめになり(苦笑)徳永セレクションから芝居に対するイメージが変わりました。アニメやライトノベルスの要素を多分に含んでいたり、第一、皆さん音楽センスが非常にいい。

一作:ごめんね、おれあんまり見れなくて……。

徳永:そうですよ、鈴木杏ちゃんの時も、新世界のスタッフの方に、「一作さんに連絡してね」って頼んだんですから(笑)

一作:あっ、そう。
すいませんでした(笑)

ラジオアダン:思えば、毛皮族の江本純子さん演出作品の時の照明はぼくでした。今思えば恐ろしいことだ(笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)
でも、本来そんなもんじゃん。ああいうちっちゃいところは人手が足りないからさ。

徳永:毛皮族こそ、自分達で早い時間からバァ〜と入って、その場で小道具とか作って。衣装もご自分達で集めてアクトが始まる。
ちょっと語弊があるかもしれませんが、ホント、プロデュースサイドに執ってケアの必要のない方々です。
「1〜10まで全部自分達でやるのが当たり前なんだ」ということを苦労としてではなく、志しと云えばいいのでしょうか?そういう認識で行っている。
新世界でお願いしたときも、そういう部分が、「かっこいいな〜」と思いながら
惚れ惚れ見ていました。
あと、先ほど触れられた、アニメ、ライトノベルズ的感覚の導入や、音楽に対する感度の良さというのは、新世界でお願いした20代の演出家の方達に対する感想だと思うのですれけど、あの方達はおっしゃるように、ライトノベルズに強く影響を受けているのですが、それ以外、例えば古典と云われる作品にも同等の価値を置いているんです。
ネットネイティブ世代って、ドストエフスキーもライトノベルズも同じ時間軸の中で吸収してゆく世代で、当然作品にもそれが大きく反映される。

一作:その分岐ってどの世代から顕著に現れるの?

徳永:新世界でやった頃が27〜8歳の人達ですから、天然代と云われる2010年以降に表現活動を始められた方々ですね。
天然代の方々は、古い新しいという切り方じゃないのが特徴です。
ネットでフリー素材が手に入り、YouTubeでいろんな物が見れる。情報も掘ろうと思えば略無尽蔵に掘れるので、古いものも新しいものも自分のアンテナに引っかかったものは全部均等な価値観で吸収します。云うなれば、時間差も地域差もないままにカルチャーを取り入れて、演劇という場を出口としてアウトプットしているのが天然代のクリエーターの特徴だと思います。
彼等世代は役者さん達も普通に可愛かったり、イケメンだったり、おしゃれだったり、めちゃ清潔感があったり(笑)

一作:それはおれも彼等に感じるけど、昔も表現は泥臭かったかもしれないけど、それなりにおしゃれだったと思うけどな(笑)

徳永:ハハハハハ(笑)
演劇って、「ダサい、ダサい」と言われがちですけど、実はその時代その時代の一番かっこいい部分を持った人達が一定数いるというのは間違いない。

ラジオアダン:過去の時代の一番かっこいい部分を持った方々が、今の邦画やテレビドラマを支えていると言っても過言ではないですよね。

徳永:そうですね。
舞台の人達がテレビや映画の脇を固めて、あるクオリティーを担保するというのは、純粋なテレビ俳優が存在しなかった60年代の新劇の役者さん達に代表されるように既にありましたが、その後の、舞台や映画の経験がなくテレビだけでスターになるということが起こり得る時代になっても、その脇の構図は変化しなかった。
でも、テレビしか経験がないという新たなキャリアの人達からしたら、「楽しそうに自由自在にお芝居をやっている人達って皆、舞台出身の人達だ。一体、舞台には何があるんだろう?」とうい自問自答が80〜90年代に始まる。
分かりやすい例で云うならば、小泉今日子さんが、今は年に1〜2回は舞台に出ますけど、その切っ掛けとなったのはテレビドラマをやっていて、「この人の演技いいな〜」とか、「頼れる役者さんだな〜」とか、「なんでも出来るな〜」と硬軟どっちも使い分けられる役者さんが舞台出身の、古田新太さんであったり、生瀬勝久さんとか八嶋智人さんとか、そういう役者さんたちに触れていって、「どうやら舞台には何かある」という確かな感触を持ったからだと思うんです。
ですから、表層部分では変化はないのですが、その深層では相当変化していて、そんな先駆者に引っ張られ、テレビスターがビジネスとしては効率の悪い舞台を表現の場に選ぶことが多くなってきているんです。
そんな流れの中、事務所サイドも、「1ヶ月も稽古で拘束なんて有り得ない!」なんて感じだったのが、昨今は、「どうやら舞台を経験した方が役者生命が伸びるらしい」という認識に少しずつ変わってきています。

ラジオアダン:今のお話ですと、演出家が舞台の現場にテレビスターを引っ張り込むことより、役者同士のシンパシーで活躍の場に変化が起きることの方が多いということですか?

徳永:わたしの耳に入る事象としてはそのパターンの方が多いですね。

一作:そりゃ〜、そうだと思うよ。

徳永:瑛太さんや妻夫木聡さん等は本当に舞台俳優としても素晴らしいのですが、それは、彼等が非常にクレバーで、テレビや映画でいろいろな経験を積みながら、「役者として“楽しい”というカタルシスをより得られるには舞台を経た方がいいみたいだ」ということを、どこかのタイミングで自主的にビジョンとして持ったからだと思うんです。
あと、唐さん達と同世代ですが、例えば、蜷川幸雄さんは、嵐の松本潤さんに“アイドルの身体に潜む不良性”?世の中と相容れない不器用さを見い出し、同時にさっき出た、寺山さんや唐さんの理論的には破綻していても詩情的には成立する台詞も言える俳優として見い出したりもしました。
そんな独自の演出によって、寺山作品や唐作品がシアターコクーンでかけられる状況まで生まれてきた。

ラジオアダン:嵐のファン達がアングラのエキスに触れるというのは面白い現象ですね。

徳永:ええ。とはいっても、最初の5〜6年のジャニーズファンは、「なにこれ?」って感じでちんぷんかんぷんだった。でも、彼女達は非常に勤勉な人達で、戯曲を読んだり、寺山さんや蜷川さんについて調べたり、インタビューを一生懸命読んだりして、松本潤さんが今何をしようとしているのか?蜷川さんとどんなコミュニケーションを取っているのか?ということを積極的に理解しようとしたんです。
ただただ、「分からない」で終わらせないで、「分からないけど、何かある」というところまで、自力で辿り着いていったんですね。

◇◆◇◆◇

 膨大の数の観劇と取材に基づいた、徳永京子のみが知る、演劇人の行動原理、表現原則、そして、テレビドラマ時代突入後の舞台逆流入の深層心理等、部外者には通常覗くことのできないインサイドを垣間見た後、こんな疑問がわたしの脳裏を横切った、「この人のどん欲とも云えるこのドラマツルギーへの欲求は一体どこからきているのだろうか?」
 この後、話題のシフトチェンジと共に、フィールドも“板”から2005年に消滅した“ブラウン管”へと移行する。

◇◆◇◆◇

ラジオアダン:ちょっと雑なもの言いで恐縮ですが、現代日本人のドラマ的なる初期衝動があるとしたら、テレビドラマが最も多いのではないでしょうか?

一作:おれは山口県の凄く田舎の町で育って、高校が寮生活だったからあまりテレビの影響下にはなかったな。
とはいっても、早熟だったから、中学のときはグループサウンズが出る「ヤング720」を見てから学校に行くような子だったね。

徳永:私は木下恵介アワーの「親父太鼓」とかをまずは好きになって、その後は平岩弓枝ドラマシリーズ(笑)

ラジオアダン:脚本家の佐々木守さんの作品は見なかったですか?

徳永:見ました、見ました。「奥様は18歳」とか。

一作:おれ、知らないわ。

徳永:作詞家もされていましたね。

一作:それって、徳永さんが幾つぐらいのときの話なの?

徳永:小学生です。
一作さんはもう高校生だったかも知れないですね。

一作:寮生活で見れなかったのかもね。

ラジオアダン:国民的アイドル女優が、中山千夏さんから岡崎友紀さんに変わる頃の話ですね。

一作:おれの兄貴というのが共産党員で赤旗を配っているような人だったんだけど、おれが寮から帰郷したときに、「チケットやるからこの映画を見てこい!」ってことで見たのが、テレビドラマで人気を博し劇場版も作られた「若者たち」。(ザ・)ブロードサイド・フォーの主題歌で有名なやつね。
あれって、「ひとつ屋根の下」の原型、完全にオマージュなんだ。
江口洋介が田中邦衛で、小雪(酒井法子)が佐藤オリエ、おれ大好きだったな〜、佐藤オリエ(笑)
だから「若者たち」の三男、山本圭をオマージュ的に「ひとつ屋根の下」にも出演させていたでしょ。

徳永:へ〜、ある種のトリビュートだったんだ。

一作:どちらも同じフジテレビだから、系譜の中でちゃんと受け継がれていたんだよ。
大きな声では当時は言えなかったけど、木下恵介アワーは、「つまんないな〜」っておれは思っていた(笑)

徳永:えっ……、わたし「おやじ太鼓」大好きでした(笑)
あおい輝彦と、竹脇無我と、

ラジオアダン:進藤英太郎。

徳永:「寺内貫太郎一家」の原型みたいな、

ラジオアダン:言われてみれば。

徳永:♪誰が捨てたか大太鼓♪って、あおい輝彦の歌で(笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)
中学?

徳永:いや全然、小学生(笑)

ラジオアダン:親父ものって言ったら森繁が出ていた、

一作:「七人の孫」でしょ。

ラジオアダン:「2丁目3番地」等もぼくは好きでした。

徳永:「3丁目4番地」もありましたね。

一作:詳しいね〜、
一体、どんな子供だったの?

徳永:あの〜、……、フフフフゥ〜(含み笑い)…、明るくて、素直な子でした(笑)

一作:素直だったの?

徳永:ええ、素直だけが取り柄でした(笑)

一作:運動はダメだったでしょ?

徳永:ええ、ダメでした。
なんで分かるんだろう?(笑)

一作:分かるよ。
本ばっかり読んでいたとか?

徳永:そんなに読んでないですよ。
ぼぉ〜っとしたりして(笑)

ラジオアダン:今聞く限りでは、ドラマばかり見ていた少女なのでは?(笑)

徳永:木下恵介アワー、再放送して欲しぃ〜(笑)
あの系列は、その後、少し昼ドラに移行したんですよね。
それまでの昼ドラは、帯クルクルみたいな〜(笑)ちょっと、奥様が欲求不満を解消するようなエッチなドラマを午後1時代にやっていたんですけど、木下恵介アワー的ものが移行することで、島かおり、大和田獏の「二十一歳の父」等というそれまでになかった作品群を生んだんです。

ラジオアダン:いい話ですね〜(笑)
その辺の大人向けのドラマも勿論ですが、もっと幼少の頃に、例えば、「コメットさん」とか、そのへんの実写もの、

徳永:「仮面の忍者 赤影」!
「河童の三平」。

ラジオアダン:「忍者ハットリくん」も実写でありましたね。

徳永:あと「怪獣ブースカ」(笑)

ラジオアダン:そっちもやっぱり見ていたんですね(笑)
青影と言えば!?

徳永:「だいじょ~ぶ」!!!!
ハハハハハ(爆笑)

ラジオアダン:ガハハハハ(爆笑)
流石ですね(笑)

徳永:あと、わたし、生まれて初めて見た映画が、小学校の校庭で野外上映した「エノケンの孫悟空」なんです。
で、映画館で見た最初が「大魔神」、

ラジオアダン:大映の田舎臭い、

徳永:暗くて、綺麗な女の人が人身御供になるという(笑)

一作:……。(呆れ気味な表情)

徳永:(一作に向かって)村の守り神である巨大な埴輪が、いい人達を悪い人達が迫害してゆくと、怖い形相に顔が変化して暴れるという。

一作:おれ子供の頃、「顔が埴輪に似ている」って言われていた(興味なさそうに淡々と)

徳永:ハハハハハ(爆笑)
そんなこと、な、い、よ(過度に優しく)
でもなんといっても「河童の三平」。

一作:全然知らないよ。

徳永:主人公が約束を破って、家の中の開かずの間に入ってしまったばかりに、罰として母親が黄泉の国に連れ去られて行くんですが、そのおかあさんを探すために地底奥深く潜って行って、いろんな怪物、妖怪に会って行くってストーリーです。聞くだけで怖いでしょ?

一作:……。(無反応)

ラジオアダン:ガハハハハ(爆笑)

徳永:だって自分のおかあさんが、

一作:(遮って)君たちは年代が略一緒でしょ?

ラジオアダン:そうみたいですね。

一作:おれ「河童の三平」ってまったく知らないもの(打ち切るようにきっぱり)

徳永:(まるで効き目なく)水木しげる作品。

ラジオアダン:(まるで効き目なく)怖い水木作品と言えば「悪魔くん」。

徳永:「悪魔くん」!!!
悪魔くんの主題歌は中山千夏、……、???、……、
あっ、違う、あれは永井豪先生の「ドロロンえん魔くん」だ。

ラジオアダン:作詞:中山千夏、作曲:小林亜星(笑)

一作:どうでもいい話だな〜(苦笑)

徳永:私はいつも20歳以上歳下の人達といることが多いので、こんな話が出来て嬉しいんですよ。

一作:そんな風に、演劇界に若い人材が多くなってきているということは、芝居の間口が広くなったんだろうね。
昔みたいなストイックで恐ろしい世界じゃなくなって(笑)

徳永:そうです、そうです。
明るい感じ。

◇◆◇◆◇

 さて、その明るくなった演劇への分岐といったら、一体どの時期からだったのだろうか?そしてそのトリガーとなった人物、時代的バックボーンとはどのようなものだったのか?

◇◆◇◆◇

ラジオアダン:演劇門外漢のぼくが劇場に行かずとも、「演劇界も随分変わってきたんだな〜」と実感させられたのは大人計画で、実は一時、黎明期の同じメディア(BSラジオ)で別々の番組をやっていたときがあって、「センス的にとてもかなわない」と完全に白旗でした。

徳永:松尾スズキさんとわたしは同い年なんです。
わたしは東京、横浜で育っているので、当初、松尾さんの抱える地方出身者のコンプレックスみたいなものがよく理解出来なかった。
松尾さんに惹かれるようになった理由として、松尾さんがまず演劇のアウトサイダーだったということがあります。もともとイラストレーターをされていて、宮沢章夫さんが放送作家をしていたところを経由して演劇に入って来られたので、そこで一つ断層があると思います。
同じ頃、ケラ(リーノ・サンドロヴィッチ)さんも演劇に入って来るんですけど、ケラさんは完全にお芝居と離れたインディーズのバンド、有頂天と、ナゴム・レーベルをやっていて、モンティ・パイソン、宮沢章夫さん経由での移行でした。松尾さん、ケラさん共に62年生まれなんです。
そこら辺から演劇に付き纏っていた、「社会主義、労働主義ばんざ〜い!」だったり(笑)アングラ+政治だったりの演劇とまったく違う風が吹いてくるんですね。

一作:そうだろうね。
アングラの最終世代とその辺とでは十年違うんだな。

徳永:特にケラさんが作られていたインディーズロックシーンの持つカオスは、今や演劇に止まらず、社会全体にシンクロしているし、していない訳がない。
松尾さんの乾いた笑いもそれまでの演劇にはなかったもので、ケラさんのシニカルな笑いも、勿論、以前にはなかったですね。

ラジオアダン:80年代後半、関西の劇団☆新感線等が東京でも人気を博しましたが、

徳永:新感線は完全にザッツ・エンターテイメントだったので、松尾さんのコンプレックスだとか、ケラさんの東京ローカリズムみたいなものとはちょっと別のものですね。

一作:そこは確実に違うよね。東京と地方という意味も含めて。
アングラでも唐は東京ローカルだよ。
寺山修司と唐十郎の違いは、究極的には青森か東京下町かの違いと云っても過言ではない。

徳永:東京ローカリズムと言ったときの定義は時代によって変わりますよね。
ザックリ言ってしまえば、地方を構成するものはあまり変わらない。でも、東京ローカリズムを構成するものは時代で凄く変わってゆくので、60年代のそれと80、90年代のそれとはまったく違う。

一作:東京は基本寄せ集めだしね。

徳永:だから青森に執ってずっと寺山修司はカルトのアイコンで、

一作:完璧な、東京〜青森の距離感で世界観を作っちゃった訳だね。

ラジオアダン:今の寺山に関する定説はすぅ〜っと落ちますが、以前から一作さんがよく言っていた、80年代の“東京ミュージックの権化”とマスコミが書き立てたミュート・ビートを、「彼等こそローカリティー溢れる音楽だ」とよく早い段階から識別出来ましたね。

徳永:凄い!看破したんだ。

一作:おれはさ、「この暗さは」、

徳永:青森?

一作:いやいや、こだまくんは福井県出身だから。
あの旋律と音は、冬の日本海を見て育った人間しか書けないでしょ。
あれは思いっきり言っちゃえばレゲエじゃないよね(笑)

徳永:どっちかと云えばブルースですよね。非常にブルージーです。
サウンドプロダクトはレゲエですけど、ソウルとしては完全にブルースだと思います。

ラジオアダン:ええ、そのような発言を過去ご本人もしています。

一作:だから、あの音は冬の日本海の夕日なんだよ(笑)

◇◆◇◆◇

 アングラとミュート・ビートの構造を看破したところで、一作が意外な方向へ話題を振った。
 “徳永京子=演劇”を完全に覆す、「徳永京子の考える映画オールタイムベスト3」。
 ?????
 さて、簡単のようでいて、候補作品があまりに多いがゆえに悩むこの問いに、果たして彼女はどんな応えを一作に返すのだろうか?

◇◆◇◆◇

一作:芝居に関しては嫌って程、日常的に訊かれるだろうから、こんな酒の場だし、敢えて映画作品での徳永さんのオールタイムベスト10なんてのを教えてよ。

徳永:「マイ・ベスト1は?」と言われれば実はすぐに答えられます。

一作:えっ、なになに?

徳永:ロバート・アルトマン監督の「M★A★S★H マッシュ」です。

一作:渋いね〜、古いね〜(笑)

徳永:じゃ〜、一作さんのベスト1はなんですか?

一作:一杯あるよな〜、勿論、「M★A★S★H マッシュ」も好きだし、今村昌平の一連、(ジム・)ジャームッシュも勿論好きだけど、……、これ一発と言えばやっぱり「ゴッドファーザー」。

徳永:ああぁ〜。
わたしの2位は「ブエノスアイレス」かな?

一作:ウォン・カーウァイのゲイの映画ね。
その辺もありならおれも言うよ(笑)

徳永:じゃ〜、一作さんの2位は?

一作:ダウン・バイ……うむぅ……、やっぱり「ブロークン・フラワーズ」だな(笑)
ビル・マーレイが昔の女に会いに行く話。あのなさけなさがいいんだよね。
あとあれもよかったな、やはりビル・マーレイが出ているコッポラの娘の、……、えっと、

徳永:「ロスト・イン・トランスレーション」(笑)

一作:その、「M★A★S★H マッシュ」の魅力を聞かせてよ。

徳永:「M★A★S★H マッシュ」は最初、テレ東でよくやっているようなリバイバル的な扱いとして見たんです。
モンティー・パイソンに通じるような、大の大人がふざけているのですが、実は真面目にやってる人達の方が悪いと云うか、……、自分が手術に失敗したのに若いアシスタントのせいにして、「お前が殺したんだ!」というトラウマを植え付ける人達が社会的上位に位置する。でも、一方の適当にやっている感じの人達の方が真実に対して忠実であるということを知らされた作品です。
朝鮮戦争の最前線の話なのに、エロくてばかばかしい騒動があって、その人達をまとめている中佐が一番ほわぁ〜とした人。なにがあっても動じず、右から左へ流して行く。そういう敢えて正面切って事象と向き合わない大人の所作を教えてもらったのかな〜?

一作:うん、成る程。
じゃ〜、「ブエノスアイレス」は?

徳永:「ブエノスアイレス」は、男性同士のカップルの、風邪をひいて熱がある方がパートナーにわがままを言われ、毛布を被りながら共同キッチンでチャーハンを作るシーンが凄く好きなんです。強いた方は本当にチャーハンが食べたい訳ではなく、「こんなわがままを言ったら嫌われるかもしれない……」という綱渡りをしているんですね。やがてチャーハンが出来上がり食すのですが、本当は食べたい訳ではないという心情がリアルに演じきれているんです。恋愛独特のこの種のパラドックスは、「同性愛でも異性愛でもまったく違いはないんだ」と皮膚感覚で教えてもらった作品です。
それに通じる、……、これがわたしのベスト3かもしれないのですが、小津安二郎監督の「お茶漬の味」。
ここでの重要な部分は、奥さんが言わなくちゃいけないところでは絶対に言わないで、言わなきゃいいのにというタイミングでは言わなきゃいいとこをずっと言っている。簡潔に言うと、主人公は社会的にしっかりした夫婦なんだけど、その実大人に成りきれていない女性として妻は描かれているんです。
その象徴的なシーンが、円が350円の時代に旦那さんが海外出張に行くことになります。当時の海外出張は命がけで行く頃ですから、当然、社を挙げて旗を振っての見送りです。そんな大事なときなのに、奥さんは家で当の旦那と喧嘩をして目も合わすことなく送り出すことになってしまう。本当に言わなきゃいけないことを言えない、そんな奥さんを見て、「いいな〜、小津おもしれ〜な」って(笑)
代表作の「東京物語」は、分かっている人が分かっていることをやっている感じがするんです。
両親も原節子も分かっている人達で、あとは分かっていない人達が次男夫婦だったりと明確な一線がそこにある。
「お茶漬の味」は大人なんだけど子供の部分が描かれている、そこに、後付けなんですが、近代の香りがするんです。

一作:徳永さん自身に、そういうところが日常的にあったりするの?

徳永:もう卒業しましたけど、ありましたよ(笑)
流石に今はないですけど、昔はそういう人だったので(笑)木暮実千代にめちゃ感情移入して、「この奥さんバカだぁ〜〜〜!」と思いながらも、うぉ〜うぉ〜泣いて見ていましたね(笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)

◇◆◇◆◇

 楽しい時間はあっという間に過ぎて行く。
 多義の話題を縦横無尽に駆け抜けてきた今回の対談もそろそろ終焉の時間を向かえようとしている。
 残り少ない終宴までの時間を鑑みながら、一作が、今回の対談で初めて“バレた?”出自である“ドラマ少女”のままに、東京の街を優美に散策する徳永京子の今後の企てを訊き出したく躍起になる。
 今、演劇界は?そして徳永京子は?その自身が発する自由度高い磁場で何を企んでいるのだろうか?

◇◆◇◆◇

一作:そろそろ最後だし、最新の徳永さんの活動を教えてよ。

徳永:3月に「パルテノン多摩」という劇場で「演劇人の文化祭」というイベントをプロデュースしました。
『徳永京子プロデュース 演劇人の文化祭』
内容は、演劇の作演出家の人達が描いた絵やイラスト。撮った写真を展示するのと、プラス、バンドとしてライブをやってもらうのですが、その企画を立てた理由が、昔の演劇人って、「おれには演劇しかない!」という人が多かったというカウンターからきているんです。音楽とか、ファッションとか興味がない人が多かった。

一作:昔ってどのくらいの昔?

徳永:60〜70年でしょうか?

一作:でも、状況(劇場)とかには(四谷)シモンさんがいたりして、

徳永:ええ人形をやってらっしゃいましたよね。

一作:佐野くんだってバンドやってるし。

徳永:当時は、その方達の方が珍しいんです。
90年代くらいまでは、演劇をやる人って、なかなか上手に世渡り出来なくて、書く人がいないから脚本書いて、演出する人がいないから演出して、

一作:ちょっと待って。
やっぱり世渡りが下手な人が演劇に行くって傾向はあったの?

徳永:ええ、多かったですよ。
それが、2000年代くらいから、音楽も大好きで楽器の演奏もする、歌も上手に唄える。映画も大好き、漫画も大好きで自分で撮ったり描いたりもする。そんな人達が敢えて演劇を選んでいることが多くなってきたから、今回のイベントを発想出来たし、行える訳です。
私自身も、90年代までは演劇をやっている人達と、音楽の話をあまり出来なかった。チャートインするメジャーな曲しか知らない人が多かったから。
でも、2000年以降の人達は、例えば、ままごとという劇団の人達は□□□とのコラボで、□□□の三浦康嗣さんとワンフレーズずつをやりとりしながら戯曲を書いたりしています。演出家がアクトの場でライブとしてリズムマシーンを打ち込むとか、官能教育にも出て頂いたロロという劇団の三浦直之さんに至っては、ラップグループのEMC(エンジョイ・ミュージック・クラブ)にフューチャリングヴォーカルとして参加したりもしています。

一作:それってさ、“脱新宿土着”みたいな部分もあるんじゃないかな?

徳永:そうかもしれない。

一作:ゴールデン街で飲んで、口論の末に喧嘩になっちゃうみたいな世界からの決別。
おれ自身もあの世界は嫌いだったしね。

徳永:新世界でのわたしの活動は、パルテノン多摩への橋渡しになったと云うか、大谷能生さんにリーディングの初演出をしてもらったり、山本達久さんにもがっちり稽古場から入ってもらったり。重複してしまいますが、音楽とか他のジャンルをやっていて演劇をやっている人が増えてきて、そういう方々はフラットに小説家さんやミュージシャンと会話が出来るので、今後増々コラボの敷居が低くなっていくと思います。

一作:成る程。
では、演劇界の未来は明るいということで、次回は若手女性スタッフを交えてまた飲みましょう。

徳永:はい、彼女達も一作さんに会いたがっているので喜びますよ。

一作:オッケー、いつでも連絡ちょうだい、おれ合わせるから(笑)

◇◆◇◆◇

 徳永京子というマトリックスが、以前は世間から“乖離”と等しき関係にあった演劇界に居心地よい風通しを生む新たな距離感を作っている。
 それは彼女の持つ批評家としての“硬”が高いクオリティーを呼び込み、反たるパーソナル、過剰な可愛らしさ、柔らかさがハンドルの遊びとも似た“軟”を生み、過去、誰も思いもつかないコラボレーションを引き出す特別の磁場となっている。
 次回、一作との酔談は、チーム徳永とも云える「Produce lab 89」の美女達を従えての歴史的大仕事の打ち上げとなりそうだ。今から、美女達への下心満載の一作のえびす顔が目に浮かぶが、そんな先のことは誰にも分からない。
 なぜなら、人生の殆どの出来事なんて、酔っぱらいが酒場で夢想したことを、神様が空模様を頼りに暇つぶしにチョイスしているだけだから。

 とぅ・びー・こんてぃにゅーど

@泉岳寺「アダン」


テキスト、進行:エンドウソウメイ
  写真:片岡一史

●今回のゲスト

Photo Ⓒ平松理加子
徳永京子/プロフィール
演劇ジャーナリスト。朝日新聞の劇評、公演パンフレットや雑誌、web媒体などにインタビュー、寄稿文、作品解説などを執筆。「シアターガイド」(モーニングデスク)にて『1テーマ2ジェネレーション』、を連載中。ローソンチケットの演劇サイト『演劇最強論-ing』を企画・監修・執筆。著書に、さいたまゴールド・シアターのインタビュー集『我らに光を』(河出書房新社)、日本の近年の演劇を多角度から考察した『演劇最強論』(飛鳥新社。藤原ちから氏と共著)。東京芸術劇場運営委員および企画選考委員。パルテノン多摩企画アドバイザー。せんがわ劇場企画運営アドバイザー。


河内一作/
山口県生まれ
八十年代から霞町クーリーズクリーク、青山カイなど常に時代を象徴するバー、レストランの立ち上げに参加。九十年代、仕事を辞め世捨て人となる。
六年間の放浪生活の後社会復帰し、アダン、青山タヒチ、白金クーリーズクリーク、音楽実験室新世界、奥渋バー希望、南洋ギャラリー、など手がける。お楽しみはまだこれからだ。

黄昏ミュージックvol.4 トウキョウ・タイムス/クロマニョン Feat. 三宅洋平

 2009年リリースのクロマニヨンが、ソイル・アンド・ピンプ・セッションズ・ホーン隊、パーカッショニストのIZPON、そして彼等の出自のルーツとも呼べる大御所ヴィブラホーン奏者ロイ・エアーズ等をフューチャリング・ゲストに迎えての飛躍作が「4u」。そのまたしてもアルバム最終曲に(黄昏というワードで切って行くと最終曲を選ぶ確立が非常に高くなる 苦笑)三宅洋平の自らの青春の終わりを宣言するかのような内容のリリックが印象的な「トウキョウ タイムス」が格別の“黄昏感”を有しこの時代のビートニクとして存在する。
〜物憂い午後にDJは独り開店前のブースにたった 橙色の太陽が窓から覗き始める頃 針先から伸びる陰影は深さを増して歩を進める 東京タイムス 1000万の思惑を映した陽が沈む 夜の帳が降りる頃に詩人は明滅する街へと消え行く 愛憎入り雑じる顔を背け続けたその円の中心へと〜
 クロマニヨンの強靭なリディムに支えられ、東京という虚無的メガシティーの帳へと、そのざらついた声紋とミュートペットが絶妙に交差しながらリスナーを導く。その後、彼の指標は政治というさらなるバビロンへ移行することになる。(se)

Vol.2 日々トリップ 番外編 川内一作

 メバルが近所の魚屋の店頭に並んでいた。氷の上に四尾づつ三列に整列していて、赤味がかった茶色のカラダをみんな左向きに横たえて呼吸しているかのように口が開いている。
 「お、春メバルだね」
 「だいぶ大きくなってきたよ」
 といつも演歌を聴いている魚屋の爺さん。
東京でメバルは珍しい、というより見かけてもタイテイは大味なものが多くて、大きからず小さからず形のいいメバルになかなか出会わない。しかしその日のメバルは丁度いい大きさで、煮つけにして食べたいと思ったがあいにく外食の約束があった。それにまだ二月である。桜が咲くまで待つかと思った。
 演歌爺さんの魚屋は品ぞろえが自分好みでいい。もちろん東京のことだから種類は豊富ではないが瀬戸内出身の自分にとって、瀬戸内産の小魚などが入荷していてありがたい。
 松山のカサゴやメバル、ときどき鰆も、下津井の蛸やカレイ、明石の鯛や穴子やはもなど、自分はうっとり眺めて
 「瀬戸内ブランドに弱いからね」
 と食べきれないくせについあれもこれもと買ってしまうと、魚屋の爺さんは「十九の春」を田端義夫風に鼻で歌いながら、嬉しそうに鯛の子の炊いたのやらをオマケに入れてくれるのだ。
 山口のイナカ町から上京してもう四十五年になる。瀬戸内ブランドに弱いといってもそれほど熱心に瀬戸内の小魚を食べているわけではない。外食がほとんどで、たまさか演歌爺さんの魚屋にあがったとき、タイミングが合えば買ってきて見よう見まねで煮つけてみても、子供の頃におふくろが煮つけたメバルの味には程遠い。郷愁の味なんだよと言われれば確かにそうなのだが、それだけではないように思う。鮮度の問題だろうか、いや今は朝イチであがった魚は空輸されその日の午後には東京に到着しているし、冷蔵技術も昔よりはるかに進歩している。しかし技術に頼って無理やり生かしたモノはストレスが溜まる。特に小魚は足が早くて味が落ちる。ああいうモノはやっぱりゆるい環境の中でいただくものかもしれぬ。

 小学生の頃イナカの家には電気冷蔵庫はなかった。夕飯どきになるとその日揚がった瀬戸内の小魚を入れた手押し車をガラガラと押して漁師の婆さんが行商に来る。しこいわし、メバル、キス、ベラやシャコ、婆さんの手押し車の引き出しは大漁である。婆さんはその場で注文された魚をあっという間に刺身や煮つけ用に仕事をする。ごはんだけを炊いていれば刺身で一杯目を食べている間に煮つけが出来上がる寸法であるから、どの家も婆さんが手押し車でやってくるとごはんを炊き始めるのである。
 春メバルよう太って・・
 桜が咲いて始業式の頃にイナカの家の食卓にいつもメバルの煮つけがあった。末っ子の自分は小骨の多いメバルに四苦八苦していると、あっという間に平らげた次兄に「なんじゃよう食わんのか」と横取りされた。兄弟喧嘩の種はいつも食べ物のことからだった。
 桜の季節、夜更けにうとうとしていると手押し車の婆さんの見事な手さばきと、「まァ、よう太っちょるねえ」と言ったおふくろの瀬戸内なまりと、次兄にいつも横取りされて喧嘩になった記憶ばかりが夢のように出てくるのだ。

 河上君のうちのメバルの煮物は非常にうまいと云ふ。それを食べさせてやるから寄っていけと云った。山口県も岩国の大島方面は、春四月のメバルが特に味がいいさうだ。山口から萩の方へ行くと、大味で駄目だ。河上君のお国自慢の云い草だが、私と三好君は、うまいメバルの煮物を食べに岩国へ寄ることにした。

 河上君とは河上徹太郎、三好君とは三好達治、私は井伏鱒二。余談だが明治生まれの巨人達の宴にも岩国の春メバルが登場する。
 自分の生家はその岩国から海沿いを山陽本線で二〇分ばかり下った由宇という何もない瀬戸内らしいだらけた町にある。

   筑摩書房 井伏鱒二「たらちね」から

ⒸSOHMEI ENDOH

Vol.1 日々トリップ 番外編 川内一作

 某若者向けのファッション誌にだらだらとつまらぬハナシを書いていたことがある。七〇年代から八〇年代頃のおっさんのタワゴト。若者には退屈だろうと思っていたら意外と読者は多かったらしい。その第二話の中から少し抜粋してみた。
こんなハナシ

 銀座の並木座で初めて「八月の濡れた砂」を見たのは十九だったかハタチだったか。当時、並木座の客席には柱が立っていて、あの主題歌がかかるラスト・シーンを柱をよけて身をのり出して見ていた記憶がある。その並木座もずいぶん前に閉館になった。ともかく「八月の濡れた砂」はシアワセなのか不シアワセなのか分からないあの時代に、こぼれていった若者のバイブルだった。
 八〇年代に入って自分は代官山の小さなバーで働いていたことがある。代官山はまだ東横沿線のローカルな町だった。同潤会アパートがひっそり建っていて、敷地の中で花見もできたし、代官山食堂では婆さんにアレコレ言われながら昼メシを食った。火鉢にアルミのヤカンがかかっていて、古い木枠の窓から射しこむ木漏れ日のなかでほうじ茶をすすった。食堂の前は銀杏の巨木が広場をおおっていて夏でもひんやりとしていた。広場の反対側に銭湯があり、いつもランニングシャツの爺さんが薪を割っていた。爺さんや婆さんがいる町の風景は素敵だ。やがて爺さんも婆さんも死んで同潤会アパートは取り壊された。
 代官山のそのバーは演劇や音楽関係の人たちで賑わっていた。

「ゴールデン街はちょっと濃すぎて」
 そう言って新宿がベースのアングラ芝居の女優Mはときどきやってくる。Mは和風のキリッとした美人。アングラの人達はたいがい大酒のみでMも例外ではなくゆきつくところまで行く。いつもマティーニを注文する。よく冷えたジンにドライベルモットにオリーブ、表面にレモンの皮。シンプルな組み合わせのマティーニをお代わりするたびに、Mはベルモットを少なくしてくれと注文する。
五杯目にはベルモットは一滴。
 六杯目あたりから目がすわり「オリーブも、レモンピールもいらない、ジンをストレートで」と注文して、ベルモットの栓を開けてジンの前へ置けと命令する。そしてやおら片手を鼻のところでヒラヒラさせ、ベルモットの匂いをかいでジンをすする。

「これって、スーパー・ドライ・マティーニだ」
 Mは上機嫌で七杯、八杯とベルモットのビンをすこしづつジンから遠ざけてまた片手をヒラヒラさせる。十杯目となるとベルモットはすでにバーバックに収まっているが口は開けたままにしておく。Mはすわったままの目つきでずい分遠くに収まっているベルモットのビンを眺め片手をヒラヒラ、鼻をヒクつかせジンをすするのだ。

「ねえハチヌレ聴こうよ」

 泥酔してボロ雑巾のようになったMがそう言ってバックの中から取り出したのが「八月の濡れた砂」のシングル盤だった。
それ以来、そのバーでは「八月の濡れた砂」を「ハチヌレ」と呼び、マティーニなんだかジンのストレートなんだかわからない代物を十杯以上飲んだら「ねえハチヌレ聴こうよ」とMが言い、いつもフルボリウムで「ハチヌレ」をかけるのだった。その時、銀座の並木座で「ハチヌレ」を見てすでに十年以上も経っていて、久しぶりに「ハチヌレ」聴いて、あのグルグルしていた時代のことなどを思い出して自分は戸惑った。しかし芝居をやっているMのなかでは「ハチヌレ」のあのキュッとなるような痛みは永久に存在し続けているのだ。

 このハナシのバーテンは自分で、飲んだくれのMは当時状況劇場の女優だった。八〇年を前後して自分はアングラの聖地花園神社へよく通った。カスミ町の自由劇場へも通ったが、場所柄自由劇場はちょっとおしゃれだった。やがて自由劇場の跡地で自分が「音楽実験室 新世界」を主宰するなどとは当時夢にも思わなかった。状況劇場は新宿のド真ん中、何が起こるかわからないトキメキがあった。履いている靴をビニール袋に入れテントのゴザの上でぐだぐだになりながらも血沸き肉躍ったあのとき自分はまだ二〇代だった。

 去年の一二月に「骨風」という芝居を高田馬場の小劇場で見た。篠原勝之、十貫寺梅軒、佐野史郎、四谷シモン、そしてM。ほとんどかつて状況で見た怪優たちが出演していた。自分は三〇数年ぶりにアングラにどっぷり浸かって実に痛快な時間を過ごした。それにしてもこの人達いつまでも元気。エネルギー全開、ぶわァーとホコリの舞うステージ、こうでなくっちゃと思いながらもゼンソク持ちの自分は発作が出ないか心配になった。見る側もイノチガケなのだ。
 アングラ芝居の定番、出演者が入り口でもぎりやら案内やらをやってくれる。もうそこから芝居は始まったいるのだ。開演一〇分前に到着した自分は案内をしているMにいきなり出会った。「やァやァ」とハグをしてしまったがMは知らないおっさんにハグされているがまァいいかといった顔をしていた。それもそのはず自分は時々テレビでMを見ているがMが自分と会ったのは実に三〇数年ぶりのこと、このおっさん誰?といった顔をしていたけれどすぐに気が付いたみたい。年が明けてMから年賀状が届いた。今年は飲みましょうとあった。うーん、オレはもうマティーニは飲めないぞ。
 今年になって初ライブは渋谷オンエアーの「渋さ知らズオーケストラ」だった。渋さ、最高。
 つまり年末年始、アングラで締めアングラで始まった。アングラ大明神がついているから今年はいいことありそうだ。


ⒸSOHMEI ENDOH

黄昏ミュージックvol.3 アルバトロス/フリートウッド・マック

 ピーター・グリーン、ジェレミー・スペンサー、ダニー・カーワンと当時のブリティッシュ・ブルース・ロックシーンの名手と謳われたトリプルギターを配した初期マック最強布陣での早すぎたチルアウトチューンが「アルバトロス」だ。
 全編強度高いディーブなブルースで埋め尽くされたアルバムの最後の最後に、エキゾチックとも云える浮遊するギターインストで一気にリスナーを緩和へと導く。
 さてこのコーナー、“黄昏”という一点のみのニュアンスでセレクションをしている訳だが、どうやら、以前に自身が“和み”とカテゴライズしていた音群とだぶることがここに着て気付いた。
 さて、その違いとは?……、そうだな、……、湿度?……、“刹那成分”とでもここでは言って収めておこうか、……(se)

酔談Vol.1 ゲスト:松木直也氏、亀井章氏 ホスト:河内一作


 “酔談”。見ての通り、酔って語らうこと。当然、造語である。
 酔っているがゆえの無軌道さ、大胆さ、無責任さ、自由さをそのまま気取らず飾らず実況する、それが「対談連載/酔談」の全てである。
 アダングループ代表、河内一作が東京の夜のフロントラインに初めて立った、1981年の「クーリーズクリーク」から現在に至るまで、彼が関わった店が、単なる飲食店におさまらず“自由なステージ”としての酒場の背景を演出出来えた“要”ともいえる大切な友人達を毎回招き、テーマなしのゼロベースから美味しい酒と肴の力を借りつつ今の想いを語り尽くすトークラリー。
 さて初回のゲストは、常に話題の書籍を上梓し続ける著述家、編集者、プロデューサーの松木直也氏(以下敬称略)と、彼のリアル高校のパイセンであり、河内一作プロデュース店の常連永久欠番取得者、亀井章氏(革職人他:以下敬称略)のお二人をお招きし、賑々しく“酔談”開催!
 80年代初頭、「飲食×カルチャー」の実験場としての東京ナイトシーン真っただ中の霞町で出会った3人、予想通り、その辺りの懐かしい話から宴はスタートした。

◇◆◇◆◇

亀井章(以下:亀井):当時、「クリーズクリーク」のカウンターに座るのは皆の憧れだったね。気難しいバーテンの一作と話が出来る数少ない人間になれることが。

河内一作(以下:一作):ハハハハハ(笑)亀ちゃんは常連だったもん。

亀井:初めて行った時、カフェバーなのに、スタッフの賢ちゃん(宮川賢左衛門)がボブ・マーリーかなんかで踊りまくっていたんだよね(笑)「何なんだ??この店は??」って(笑)

一作:てことは、亀ちゃんが初めて来たのはオープンした81年の5月だね。

亀井:そうなるのかな?小野(正人)ちゃん達がオープンしてすぐに行って、「へんてこりんだけどかっこいい店が出来た!」って情報をもらって。 あの場所で元々やっていた「シルバースプーン」って店をおれの周りは皆知っていたから、必然的にクーリーも知るようになった。クーリーは本当に良い店だったね(笑)

一作:ただ、皆が若かったからでしょ?(笑) クーリーは実質3年半か。おれは1年半で代官山「スワミ」に移ったけどね。 あの頃は、松木をはじめマガジンハウス、特に「ポパイ」の連中は肩で風を切って、夜の西麻布、六本木を闊歩していた(笑)

松木直也(以下:松木):「ポパイ」は売れていました。 夜遊びというとあの頃、原宿にも拠点があったよな〜、……、「シネマクラブ」?

一作:うん、「シネマクラブ」。あそこはクーリーよりも早いから。

松木:あそこは「レオン」にいたクリエーター、例えば松山猛さん達がいつもいるっていう感じだった。

一作:シネマクラブの人達がある時期を境に「東風」(トンフウ)に行くようになって、

松木、亀井:東風(完全にはもる) ガハハハハ(爆笑)

松木:あの店もデニーさんたちがかっこ良かったよな〜。

一作:その後が、クーリーやら「クライマックス」。松山(勲)さんの「レッドシューズ」や「インクスティック」と続いてゆく。

松木:夜遊びの歴史も面白いよね(笑)当時はその辺の店に行けば知ってる奴が必ずいるんだもの。


河内一作

一作:松木は北村(勝彦)さんとはあまり一緒にいなかったっけ?

松木:ぼくらはファッション班じゃないから。北村さんのファッション班に属していたのは、中須(浩毅)君とか御供(秀彦)君とか。ぼくらはなんでもやるチーム。お店取材やインタビューからとにかくページを作る方。

一作:今で云ったら森永博志さんがやってるような、

松木:森永さんは大先輩。ポパイに入った時、副編集長の安田さんから、「いいか、おまえも森永みたいな編集者にならないとダメだぞ」なんて言われるくらいの人。正にお手本ですよ。

一作:そんなに森永さんと年が離れていたっけ?

松木:そんなに離れてはいないんだけど、当時、とにかく経験値が遥かに上だったし、今も忘れられないのは森永さんが書いた「原宿考現学」なんて視点からしてまるで違う。雑誌ってまず単に店取材して情報を掲載するって側面があるじゃないですか。森永さんの場合、それ以外に“ジャーナル”としての表現が出来るんだよね。原宿考現学なら、原宿の1週間の現象を追いかけて、「『クリームソーダ』にはこんな奴が来ていた」とか、

一作:ガハハハハ(何故か爆笑)

松木:懐かしいでしょ? そういう意味で大先輩なんですよ。

亀井:松木は松木で編集者として一作と知り合って、おれはおれでまた違う形で知り合って。ある日突然、2人揃って、「一作ってさ」なんて話になって(笑)

松木:うん。 ぼくは「ガリバー」の編集記者のときに“旅をしてる人”ってテーマで一作さんに取材しました。

一作:おれ、それでいきなり原稿を書かされたよね?見開きで(笑)「酒と旅人」(笑)

松木:そうそう(笑) 実はその前に一作さんが原稿が上手いのぼくは知っていたんです。書けない人にお願いして困るのはこっちだから(笑) もう、結構書いてましたよね?

一作:うん、ぼちぼちね。

松木:そのテーマをコメントで起こした人もいたんだけど、一作さんは敢えて書いてもらったの。ちゃんと〆切も守ってくれて(笑)

一作:あの頃、執筆には四苦八苦していたな〜(苦笑)最近は四苦八苦しないけど、慣れだね。 「ブルータス」時代はどんなだったの?

松木:ブルータス編集部にはぼくの机はなかったんです。要するにポパイにいながら「平凡パンチ」やブルータスの仕事したり。時間さえ守ればどの雑誌の仕事をやってもいいからって感じでしたね。 一作さんもマガジンハウスの人達大勢知ってるでしょ?

一作:当時、編集者やクリエーターで知っているのは大体マガジンハウス関連の人達だったね。北村さんは未だに店に顔を出してくれる。ありがたいです。

松木:ファッションチームは独特のパワーを持っていて、未だによく覚えているのが、まだぼくが読者だった頃の創刊3号目でやった「ワイルドシック」ってコーディネイトの特集で、ジャケットの上にダウンを着せたのを見た瞬間、「えっ〜〜〜!ポパイって凄い!」って、その後、「どうしても仲間に入れてもらいたい」と進路を決めてしまうぐらいの衝撃だった。


松木直也氏

一作:(大久保)篤志はあの頃は北村さんのアシスタントだったの?

松木:篤志はぼくと似た立ち位置で、最初の頃はバイトのようなフリーのような。キャリアがある人達からしたら、「あいつなにしに来てるの?」みたいな存在かな?で、ご飯だけはしっかりただで食べて(笑)

一作:中須は原宿「ドンキー」でバイトしていた時に北村さんに声を掛けられてポパイに参加することになったんだよね?

松木:ぼく、その辺の経緯はよく知らないんですよ。 まあ、皆まだ単なる小僧ですよ(笑)

一作:クーリーの頃っておれも27歳だもんね。松木はもっと下だ。

松木:55年生まれ。最初に就職したのはファッションメーカーの「グラス」ですから。桑沢(デザイン研究所)を出てロンドンに遊学してからグラス。 その後、一作さんが手がけた「CAY」はおれの人生の中でベスト3に入るレストランバーですよ。

亀井:おれも同じ感想だな。

松木:あんなに楽しい時間はなかったですね(笑)

一作:そうだね、松木はCAYの時の方がよく会っていたかもね。

松木:3日と空けずに通っていたから(笑)

一作:1988年の八ヶ岳でやった「いのちの祭」にも松木は来ていたよね?

松木:行った行った。浴衣着て(笑)

一作:そうそう、浴衣だった。「なんで山の上でノーニュークスを叫ぶイベントで松木は浴衣なの?」って(笑)

松木:単に浴衣が好きだったからかな?(笑) CAYはラウンドされたカウンターがあって、

亀井:あのフォルムが気持ち良かったよね。

松木:カウンターにはカメラマンやスタイリスト、それから何をやっているか分からない人がいて、みんな気さくに話をして、とにかく飲んでいた。 バブルだったものね。

一作:まだあの頃はね。 イベントをやってもいくらでもスポンサーが付いた時期。

亀井:一作知ってたっけ? おれ仕事休んでCAYのオープニング手伝っていたんだから。皿洗い(笑)

松木:ハハハハハ(笑)そうなんだ。

亀井:そうしたら、歌手の梓みちよさんがつかつかって近づいて来て、「タイにもウィスキーってあるのかしら?」って訊くものだから、

松木:ぼく始めてインタビューした芸能人は梓みちよさんだよ!

一作、亀井:ガハハハハ(爆笑)

一作:なんで彼女はいたのかな?

亀井:やっぱりワコールサイドの関係者としてじゃないかな?

一作:やっぱそうだろうね。

亀井:で、皿洗いしてたらそんなこと訊かれたんで、「ちょっと待ってくださいね」なんて一旦応えて、バーテンの村松あたりに、「おい、タイ産のウイスキーって置いてあるのかい?」って訊いたら、「これがウィスキーと云うのかは分かりませんが……」なんて言ってメコン出して来て。梓みちよさんも「なら、それでいいわ」って(笑)

一作、松木:ガハハハハ(爆笑)


亀井章氏

亀井:CAYも怪しい面白い店だったよね。

松木:今になると、「なんであんなにしょっちゅう行っていたのかな?」って思うよね。

亀井:空間が縦横に気持ちいい黄金比というか、ピタッとはまった店だったよな。

松木:カウンターで飲めるし、テーブルでは食事が出来るじゃない。あそこで食事をしている風景って、贅沢に広いスペースが取ってあって、それまでにないレストランバーだった。

亀井:カウンターで飲んでいる奴らからしたら食事をしている奴らがかっこよく映るし、食事をしている連中からしたら、「おれもあのカウンターで飲みたいな〜」なんて思っていたんじゃないかな?

松木:ステージなんだろうな。客もスタッフも、ああいう所が皆のステージだったんじゃないかな?

一作:当時はね。 今はなかなかないよな。

松木:ちいちゃい集まりはどこかあるんだろうけど、

一作:うん。 でも、酒場で飲むダンディズムって、いつの時代でも必要なものだとおれは思うんだよ。 かっこつけるところはつけないと。全部が全部立ち飲み屋じゃ〜な〜(苦笑)

松木:それはそれで、お気に入りの焼き鳥屋で30分位黙って新聞読んで帰ってもいいと思うし、そんな感じでかっこいい人って結構いるじゃない。 だた、全部がそうなっちゃったらつまらないよね。

(ここでオーナーとして顔見知りの顧客の挨拶回りで、一作、宴を一旦抜ける)

ラジオアダン:本人がいると話にくいと思うので、ここでお二人の考える河内一作の作る店や、一作とは一言でどんな人か?ということを訊きたいのですが。

亀井:ここの新アダンのスタッフの選考にしてもそうだけど、クーリー以降、自分の気持ちのいい部分で付き合ってきた人達には、いくつになろうが社長になろうが、「おれの出来る範囲でやれることはやってあげよう」って気持ちがあるよね。かっこ良くいえば“愛”(笑)それが昔からある人だね。クーリー時代からクレイジーキャッツの♪金のない奴はおれんとこへこい おれもなけど心配するな♪って歌が一作と賢ちゃんのテーマソングだったから(笑) このあいだも突然電話がかかってきて、「仙台にいるから飲みに行こうよ」って(笑)こっちにしたら、「なんだ、こいつ」だよね(笑)一応こっちはこっちのスケジュールがあるんだから。 昔から、コンサバ志向な人達からすれば非常に気難しい人に見えるみたいだけど、“自由”という意味をちゃんと理解出来ている人達からすれば凄く面白い人。くすぐればのってくるし。

松木:一作さんの店で最近2人が話すことって言ったら、飲食店の専門的な話、例えば、「どこどこの店のデザインがいいよ」なんて話は1回もしたことはなくて、「子供達は今こんなことを考えている、その延長上で、こんな部分が問題点なんだよ」なんて話が主だよな。 昔は、日常の話も勿論していたと思うけど、ぼくの方が年下なんで、どうしても話を聞き出す側に回ってしまうんですよね。「あの時の海外旅行ではどんなことをしましたか?」なんて訊いていったのが積み重なって、「原稿を書いてみませんか?」という形に転化していったり。 で、ぼくの感じる一作さんのパーソナルの魅力と云ったら、……、なんて云うんだろう、……、こう、ふわっと、……、うん、ふわっとしてるんですよね(笑)

ラジオアダン:無重力感??

松木:ううぅぅ〜、……、……、色気なんじゃないかな〜?ふわっとした(笑) 二人の付き合いの中で、「この人、今何考えているんだろう?」なんて腹の中を探ったこともないし、多分ね、今の若い人達が思っているヒッピーって像を突き詰めて行けば、「ああ、こういう着地地点に行くんだな」と確認出来るような存在でもあるね。

◇◆◇◆◇

 近年、松木直也は音楽界の希有な才能を有すレジェンドにフォーカスした仕事が続いている。近作「アルファの伝説・音楽家村井邦彦の時代」も、作曲家、プロデューサー、レーベルオーナーと全く違う複数の才能を行き来した村井邦彦の軌道を見事に描ききったが、この場ではなんといっても、未完となってしまったあの人のロングインタビュー書籍について訊かない訳にはいかない。案の定、一作がそちらへと舵を切る。

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一作:加藤和彦さんのインタビュー本をやることになった切っ掛けはどんなところからだったの?

松木:話すと長いんだけど、ポパイでぼくは松山さんのアシスタントをしていたんです。その頃、殆どの打ち合わせは松山さんの自宅でやるんだけど、ときどき親友である加藤さんはそこへ遊びに来るんです。 ぼくに執っての加藤和彦という人は10代後半に一番かっこいいと思った人で、「家をつくるなら」がヒットした時、仙台でやったライブも当然見ています。グラムロックっぽく髪を七色に染めて、当時、日本で唯一のPA機材から出る音の質が全然他とは違う。あの人「ギンガム」ってPA会社もやっていましたから。そのときは見たこともないサボを履いていて、とにかくかっこよかった。 そんな感じに加藤さんが大好きで。 実際に会ってからもポパイで取材させて頂いたり、事あるごとに加藤さんにお願いして。 で、さっき意外なところから話に出た梓みちよさんのアルバムを、ミックこと立川直樹さんと加藤さんが共同プロデュースした後に、タンタン(大空はるみ)という女性シンガーのプロデュースを手がけて、マイアミでそのレコードジャケットを撮る際もご一緒させて頂いたりしました。 ぼくの場合、松山さんの弟子ですから加藤さんからすれば親友の弟子と云うことで他の人よりは多少優遇して頂いていたと思うんです。 「松木、最近どう?」なんて電話を頂くこともあり、「今度ロスに行くんですけど」なんて応えると、「じゃ〜、レイバンのこんなの買って来てよ」なんて言われて買って帰ってくると、お礼ということでしこたまアルマーニやヴェルサーチのジャケットを頂いちゃって(笑) ただ、加藤さん、手が長いから大幅に直さなくちゃいけない(笑)

一作、亀井:ハハハハハ(笑)

松木:マイアミのキューバレストランでの想い出だけど、加藤さんのオーダーの仕方ってアイティムじゃなくってメニューの“幅”なの(笑)「前菜、ここからここまで全部」って調子で(笑) そんな付き合いの中、確か、加藤さんが57歳の時だったと思うのだけれど、「そろそろぼくも60歳になるから松木がぼくの本を書いてよ」って言ってくれて、そこからあの本(『加藤和彦・ラストメッセージ』)の取材が始りました。

一作:残念ながら未完に終わったんだよね?

松木:ええ……。 毎回、六本木の加藤さんのスタジオも併設したご自宅で取材をするんですが、何度かやった後に、「松木ごめんね、ちょっと待ってくれないかな」なんてメールを頂いて取材が途切れたんです。 ……、あの日は府中で自転車関連の取材をした帰りの電車の中で携帯電話でネットを何気なく見たら、“加藤和彦氏、軽井沢で〜”って出て来て、それ見た次の駅ですぐ降りて松山さんに連絡したんです。「加藤さんのこと本当ですか?」と尋ねたら、「本当だよ」と答えられて、ぼくなぜか、「松やん知ってたんだ、じゃー良かった」なんて返答して、「良かったとはなにごとだ!ばかもん!」なんて松山さんが返して来て。もうお互いが動揺していて会話が成立しないんです。

一作:そりゃ〜そうだろうな。

松木:すでにスタジオにあった機材も全てなく、あったのはシールドだけ。全部、処分して、お手伝いさんに手紙と「ありがとう」としたためたお給金が入った袋だけが置いてあったらしいです。 亡くなる日に届くように親友数人に向けて手紙を書いたらしいのですが、ある人にだけ一日早く届いてしまって、そこから大騒ぎになって皆で探し始めた訳です。 それまでは誰もそんな気配を感じることもなく、高齢のお母様にはエルメスのセーターをプレゼントしたり、古い友人たちと食事したりしていたみたいですね。 そんなことで、「本は無理だな」と思っていたのですが、翌日、出版元の文藝春秋の方から上梓に関する打診の連絡が入りました。この時点で、既に加藤さんのスタッフの方々が、「どんな形でお別れ会をやろうか」と動き出していたことは知っていました。やがてお別れ会の日時決まり、「それならあるものだけでその日を目指してがんばろうか」と、テープ起こしが終わっていた原稿をアシスタントと2人で進めて行き、突貫とはなりましたが、なんとか日時に間に合わすことが出来ました。 書き終わった後、「何で加藤さんがこの本を読まないのかな?」という不思議な虚無感にかられたことを今でもよく覚えています。今日は取材のときにお預かりした写真をお持ちしました。

一作、亀井:……。

松木:実は、女性の話とファッションに関する話は最後に残していて、女性の話がスタートした時に突然終わってしまった訳です。ぼくの中では残念ながら未完ですね……。ファッションに関しては加藤さんの洋服全てを出す予定で撮影も済ませていました。

一作:もったいないね……。 そういえば、加藤さんはキューバにはまっていた時期があったね。

松木:うん、その辺の仕事も多かったな。 キューバは2回行っていて、1991年、三菱電機(博報堂)の仕事でキューバを代表するカルロス・エンバーレやオマーラ・ポルトゥオンド、タタ・グィネス等、偉大なるミュージシャンにインタビューしたんです。撮影は写真家の久家靖秀さん。いい取材だったな〜。これは当時ミュージカル「タンゴ・アルゼンチーノ」や「ブラック・アンド・ブルー」でセンセーションを巻き起こした、クラウディオ・セコビアとヘクター・オレゾリによる「ノーチェ・トロピカール」の日本公演(92年)に出演する音楽家やダンサーの取材です。約一ヶ月滞在し、オーディションから立ち会いました。パンフレットがありますので、ぜひ見て下さい。久家さんの当時撮影した写真はとても貴重ですよ。ぜひ、アダンで写真展をやってください。


1992年に東京と大阪で開催されたときのパンフレット。


表紙の見返しのデザインはハナバで見つけた葉巻のシガーリング。


公演にあたってキューバから70〜80名の音楽家、ダンサー、関係者が来日。
パーカッションのタタ・グィネスはパワフルだった。(撮影はすべて久家靖秀)


キューバの至宝、オマーラ・ポルトゥオンド。
ハバナで彼女とテオフィロ・ステベンソンと一緒に食事をした。


ダンサーも大勢やってきた。きれいな人が多かった。


ファッションモデルたちも舞台を飾った。これら26年前のこと。

一作:これ、武道館でやったやつだよね?村上龍さんがパンフレットに寄稿していたやつね。おれチケット買わされたよ(笑) でもあれこそバブルの恩恵だよね。

松木:その節はありがとうございました(笑)

一作:あれは凄かったね。武道館にトロピカルなステージ作って、アリーナにテーブルが並んで飲みながら観るんだから(笑) その取材の時はブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブは見たの?

松木:それは1996年ですから、その5年も前のことです。まだ結成されていなかったですね。 その時、モハメド・アリと闘う予定もあったテオフィロ・ステベンソン(ミュンヘン、モントリオール、モスクワオリンピックでヘビー級金メダル)も紹介されて彼の記事も書いたな〜。野球も見に行ったし。 キューバって、ロシアの見たこともない古い車が走っているんですよね。

一作:キューバ人は「黒い瞳」とかロシア民謡を唄うのもの。ブエナ・ビスタでも唄っていたし。

松木:一作さんはキューバは行きたいの?

一作:うん、行きたい。

松木:今、凄い高いね。びっくりするくらいに。

一作:そう。 おれ3年前にメキシコにいった時にカンクンまで行ったんだけど、あそこからだと3泊4日とかならビザなしでキューバに行けるんだよね。

亀井:おれもキューバは死ぬ前に行きたい所のベスト3に入るな。

一作:死ぬ前に行きたい所が3つもあるの!?

亀井:あと、やっぱりオーロラを見てみたいね。

一作:いいね、まだ欲があって(笑)

松木:一作さんはどこに行きたいの?

一作:おれは、……、ないけど、

松木:散々行ったからでしょ(笑)

一作:まあ、そうなのかな?

松木:ぼくのお勧めはね〜、フランス領のマルティニーク島。 クレオール、本当にココア色。女性がめちゃくちゃ綺麗なんですよ(笑)

亀井:制服が皆かわいいって言うよね。

松木:そう、タータンチェックなんだよな。

一作:あの辺、おしゃれだから。

松木:マルティニークは夢みたいな所だった。

一作:やっぱり南太平洋でもイギリス領とフランス領って全然違うよね。

松木:イギリス領は真面目すぎる。

一作:だからファッションも育たないんだよね。 タヒチなんて目が痛いくらいにカラフルじゃん。

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 今、三人が舌鼓を打っているアダングループのフードの美味しさは、厳しい食材の吟味が果たす役割が当然大きい。
 松木もまた1999年以降、食の安全はもとより、料理家、三國清三をアシストする小学生を対象とした、味覚の正常な発達や健康を維持するための栄養学等を、実際の調理も交えながら楽しんで身につける“食育”教育に多くの時間を割いている。

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一作:おれも結構頼まれたりするのよ、「子供の食育を対象とした料理の提案をしていただけないだろうか?」って。でも、実際の所、非常に難しいよね、日常的に飲食店を営んでいる人間がそういう発想に急に切り替えることが。

亀井:でも今後、松木や三國さん達が先駆者となって、通常の“子供”という概念を取っ払って食のアプローチをしていって、後の世代の“食育”を変えて行くだろうから、そこに一作みたいな大人の飲食店のプロの発想が入ってもおれは一向にかまわないと思うんだけどな?

松木:実は日本の行政間では食育共通定義がないんですよ。所管自体も昨年から内閣府から農林水産省に変わりました。 15年を迎え第三次食育推進計画がスタートしました。

一作:話を戻しちゃうようだけど、松木はなぜそんなことを始めたの?

松木:これも話すと長いんだけど(笑) まあ、ぼくは編集したり本を書いたりしている訳なんだけど。ある時、「フランス帰りのシェフ、三國清三を取材してくれないか」というオファーがあって三國さんと初めて会うことになる。それが30年位前かな?「ビストロ・サカナザ」を経て「オテル・ドゥ・ミクニ」を始めた頃。で、フランス料理をよく知らないぼくが(笑)彼の生い立ちから東京に店を出した今日までの事柄を1年掛かりでインタビューして1冊本を書いたんです。 当時のぼくは、ポール・ボキューズをボール・ボキューズってメモするくらいに全然フランス料理の知識がなかったんだけど、彼は嫌な顔一つせずに1年間付き合ってくれた。そんな経緯で付き合いが始まったんです。 その後、1997年にフランスでの三ツ星レストラン取材に同行することになって同年の8月31日、この日はダイアナ妃が亡くなった日でもあるんだけど、ロアンヌのトロアグロを取材したんだけど、当時のフランスのシェフ達は既に子供達の味覚教育を始めていたんです。 ジャック・ピュイゼという博士がいて元々は醸造学者なんだけど、彼が書いた「子どもの味覚を育てる ピュイゼ・メソッドのすべて」という本は人間に執って味覚とはなんぞや?ということを研究した結果をまとめた本。かいつまんで言うと、味覚とは脳と関連性がある。味覚をきっちり覚えないと大人になった時に事件を起こす確立が高いという、結構、衝撃的な内容も含んでいる本なんです。その後、三國さんにフランスのシェフ達から、「やがて日本の子供達の食も大変なことになるから、君が先頭に立って食育教育をやってゆくべきだ」と進言され、スイッチが入った。 1999年、三國さんがNHKの「課外授業 ようこそ先輩」という番組に出演したんです。出身地の増毛町にある舎熊小学校を尋ねて、彼としたら始めてとなる子供達のための食の教育を番組としてやったんです。 残念ながら、その時ぼくは立ち会えなかったんですが、三國さんは何か感触を掴んだんでしょうね。それからぼくは三國さんが行なう子どもたちの食育授業をサポートしています。

一作:そんな古くから二人は動き出していたんだ。

松木:ええ、やっていました。 三國さんは2000年からヤヨイ食品と組んで全国の小学校を全国のシェフ達と回り子供達を対象とした食育の料理教室を開始した。 そんな中で2001年9月に起きたBSE問題(狂牛病)はもの凄くショッキングでした。 一方、三國さんは年に4回程、子供達との食育料理教室を行なっていたけど、毎回とうなだれて帰ってくる。当時の学校教育はパソコンの普及がメインで食育にはまだまだ理解に乏しい状態だった。 国は狂牛病を急速に終息させたい中、教育現場では栄養士さんや先生だけで食の安全・安心は手に負えないこともはっきりする。更に、子供達の食の教育が国レベルで話し合われるようにもなった。結果、小泉政権下の2005年に食育基本法というのが出来たんです。 三國さんの状況もそれに供ない劇的に変化して、小学校から、「是非来てください」との要請が多数飛び込むようになったんです。 日本はそんな感じで変化する間、世界はオーガニックもあればロハスもあれば、付随するいろんなことが一気に動く。でも国内の日々のニュースを見れば人間の食の不安は偽装事件等で広がる一方、「ぼくたちの食べている食材はどこまでが本物なの?」という具合に。 こんな流れが一般の人達が食の安全に興味を持つまでの経緯だったと思うんです。

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 国内の食の安全の目覚めは喜ばしいことだ。だが、あの世界に誇る日本人の味覚は今の子供達にしっかりと伝承されているのだろうか?
 食育黎明期、話題は味覚、そして、謀ったように一作、松木直也共に今最大の関心事、食材トレードによる新たな料理の誕生を支えたあの幻の船の話へとなだれ込む。

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松木:フランス人の味覚は基本4つなんだけど、日本人は5つある。 甘味、塩味、辛味は刺激だか味に入らないんです。 甘味、塩味、苦味、酸味、旨味。旨味というのは出汁のことですね。 これが日本人。

一作:旨味が大事。昆布とかね。 外人は旨味がない人が殆どだけど。

松木:それを端的に現す逸話が、昔、外国からシェフが来た時は和食の料理人に敬意を表しお土産は下駄だったらしいのですが、今はと言うと、鰹節削りと鰹節を買って帰るんです。それくらいに日本の旨味というものは世界標準になっているんです。 昆布のグルタミン酸、鰹節のイノシン酸、干し椎茸のグアニル酸。これらを発見した人はみな日本の学者達です。

一作:その味覚が以前は海外にはなかったんだよ。

松木:いや、実はあったんです。 イタリアはトマトがグルタミン酸を含む旨味なんです。

一作:成る程。

松木:世界中の出汁、中国の湯、フランスのフォン等と比べて、透明でなんなのか分からない出汁なんて世界中どこを探してもないですよ。 中でも要が干し椎茸のグアニル酸で、鰹節、昆布と合体すると旨味が10倍にもなると言われてます。こんなことも含めてその全てを発見したのが日本人なんです。 云うなれば日本人の味覚って世界でも例を見ない繊細なものなんです。

亀井:うん。おれ、今ここにどこの国の人がいたってそれは声を大にして主張出来るもの。

松木:ぼくたちってうどんひとつとってみても3つくらいの味を選別しているじゃないですか。 これ京都のうどん、これ関東のうどん、これ四国って凄くないですか?食べてすぐに出汁を選別している。

一作:うん、出汁と麺。 そういえば、関東って大阪のうどんの店は苦戦するよね。 讃岐うどんの麺に力を入れた、要は“コシ”の強さね、あれは歓迎するんだけど、出汁に特化した大阪、京都のうどんはピンとこないみたいだね。

亀井:渋谷のセンター街の奥にあった「やしま」は人気あったね。

一作:あれは讃岐うどんだから。 東京でうどんで成功するなら麺が旨くないとダメってことだね。

松木:日本って静岡の大井川を境に、おにぎりが丸と三角に別れるんだよね(笑)ぼくたちの地元は丸(笑)

一作:おれは出汁の分岐点が気になった時があった。なんせ、山口から出て来たときの東京の黒い出汁にはびっくりしたから(笑) 京都は、

松木:透明。

一作:うん。関西ね。 で、名古屋は黒いんだよ。

松木:はい!(手まで上げて)

一作:ガハハハハ(爆笑) はい、松木(学校の先生口調で)

松木:今、一番気になる北前船(きたまえぶね)の話をしてもいいですか? 出汁の話ともリンクしているので。

一作:北前船!? それ、おれも語らせたら長いよ〜(笑)

松木:ガハハハハ(爆笑) 北前船は江戸中期から明治時代にかけて北海道から様々なものを運んだのですが、なかでも北海道の鰊(ニシン)が大エースで、もちろん昆布も運んだ。 京都の鰊蕎麦は具も出汁の材料も誰が持って来たか?といえば北前船。 北前船というのは船を持つボスが自身の裁量で仕入れから何から何まで全てをやって、各地でビジネスを行う、 一作さん、話したいんでしょ?(一作の方を見て)

一作:ハハハハハ(笑) うん、しゃべりたい(可愛らしく) 北前船って瀬戸内も廻るじゃん。下関から瀬戸内を廻って大阪までいって北海道に帰る。瀬戸内にも当然、産物を落してゆくんだけど、瀬戸内の島々なんか何にもないから、「北前船が来たぞ〜〜!」って大騒ぎで港に集まる。そんなだから瀬戸内の島々には売春宿が実は一杯あって、今でも建物が残っているところもあるだよね。

松木:へ〜〜〜、そうなんですね。

一作:うん、大崎上島の木ノ江とか広島の島々には残っている。 当時の北前船はそれくらい羽振りがよかったんだね。その辺を題材に撮ったのが大林宣彦監督の「野ゆき山ゆき海べゆき」。劇中の時代的には北前船は消滅しているんだけど、その残り香としての売春宿が出てくる。 太平洋戦争直前、瀬戸内の貧しい家の娘は家計を助けるためにその売春宿に伝馬船に乗せられ売られて行く。そんな境遇の主人公を演じたのが当時映画初主演の鷲尾いさ子。可愛いかったな〜。

松木:誰と結婚したんだっけ?

ラジオアダン:俳優の仲村トオルさんですね。

松木:ああ、そうだった。いい役者さんですよね。 なるほどね。ぼくの北前船の話の続きをすると、

一作:どうぞ! ガハハハハ(爆笑)

松木:ハハハハハ(笑) 北前船の儲けって価格差なんですよ。1円の鰊が百円で売れれば99円儲かる。鰊を売った所で砂糖を1円で仕入れる。その砂糖を別の港で百円で売る。そんなだからあんな鰊御殿なんて豪邸が築けたんでしょうね。

一作:鰊とか棒鱈は北前船で大阪に行きそこから京都か、若狭から京都で入った。

亀井:食べ物でなぜここの地でこれなの?ってのを突き詰めてゆくと確かに必ず北前船が絡んでくるよね。

一作:京都の鰊蕎麦の発想は関東では有り得ない。あれはやっぱり京都の薄味の出汁に甘辛い鰊が乗っかり出汁がジュゥ〜っと染みるから旨い。

松木:その鰊を身欠き鰊にする工場も北前船の親方が作ったんです。 見落としがちですが、北前船で一番運んだものは実は食物ではなくて肥料。鰊の“雑”で出た物を、

一作:なんで松木はそんなに北前船に拘るようになったの?

松木:さっき、出汁の話が出ましたが、「上方で美味しいと言われている料理のベースを支えているのは、北海道の食材なのでは?」ってことの確信を得たくて探り始めたんです。勿論、そればかりではないですけど。

ラジオアダン:そんな、日本人の繊細な味覚は現在もキープされているのでしょうか?それとも退化している?

松木:舌には味蕾(みらい)というブツブツがあるのだけれど、殆どの味は舌の先の部分にある味蕾で感知しているんです。ところが最近になって、「のどごしにも味蕾があるんじゃないか?」という説が学者たちで研究されています。 人間って小学校5〜6年の頃に抜けた歯が新しくなりますよね、その頃、大概の子供が味蕾が1万個に達する。そして、それを境にその個数が下ってゆくんです。 つまり、小学校5〜6年までに正しい味を覚えない子は一生正しい本当の味を覚えられないことに繋がってゆく。

一作:やはり子供の時の親の意識はその後の人生を大きく左右するね。

松木:面白い話があるんです。お父さんが缶詰を買って来て、缶詰を開けたままで食べている家庭の子は同じ食べ方をするんです(笑)お皿に入れて食べる家庭の子はお皿に入れて食べる。子供ってどこまでいっても親なんです。

一作:思えばおれが生まれた時はまだ戦後7年しか経っていなかった訳で、食べるものといったってそんなになかった。芋とかさ、まあ、野菜だよ。大根、ごぼう、山菜は土地柄一杯あるから。だから、逆に缶詰なんかは“ごちそう”だったよ(笑)鯖とかさ、

松木:あの独特の甘味がいいんだよね(笑)

一作:あれとご飯とおしんこで十分!(笑)

◇◆◇◆◇

 シリアスな食育の話が、“野ゆき山ゆき”、やがて、ジャンクフードの極地“鯖缶にゆき”に帰着するところなど、この三者が根っから待つ自由さゆえのなせる業。
 楽しい時間はあっという間に過ぎて行く。多義の話題を縦横無尽に駆け抜けてきたこの対談もそろそろ終焉の時間を向かえようとしている。
 終宴時間を鑑みながら、最後らしく松木直也が今後のプランを話し出した。そしてその先には、対談当初、誰も考え及ばなかった三者のコラボレーションが表出する。

◇◆◇◆◇

松木:今、吉本興業さんの東京本部の中庭で農園、タベレルガーデンをプロデュースしています。いちごを栽培して近隣の幼稚園のちびっ子に食べてもらったり、これには芸人さんたちも参加してくれています。とにかく野菜や果実を無農薬で育て、皆に食べてもらって。 この間は内藤とうがらしを作ったんですけど、とうがらしの赤って本当に綺麗ですよね!そのとうがらしでクリスマスリースも作りました。とにかくいろいろな人たちが参加できる楽しい食育をやっていきたいです。


吉本オフィシャルブログ「よしもと東京みんなの農園」
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshimoto_tabererugarden

亀井:野菜作りはその最たるものだけど、手先が不器用で本棚なんて到底作れない人でも、技術とは関係なく1年スパンで物を作る楽しみを覚えるとやみつきになるんだよね。

松木:そう。本当に楽しい! そうなるとまた調べ出す訳(笑)世界には500以上のとうがらしの種類があって、日本で守られている伝統的な品種は十いくつある。そうなると、「とうがらしサミットをやろう!」なんて(笑) 自分が育てると可愛くなるんだよね。

一作:いいね(笑) じゃ、来年のクリスマスにピースマークのとうがらしのリース作ってよ。店に飾るから。

松木:いいね!ぼく作りますよ!

一作、亀井:ガハハハハ(爆笑)

一作:松木のとうがらしで亀ちゃんがリース作ればいいじゃん、亀ちゃんそういうの得意でしょ?

松木:なら、仙台で、……、 まあ、いいや、ぼくなにかまた考えますよ。

一作:そうだね、そうすれば打ち上げってことで、3人でまた集まれるしね(笑)

◇◆◇◆◇

 予想外に綺麗にまとまった第1回目の酔談。
 飲みの場の酔狂ゆえ、あくまでも実現化に関しては五分五分だが、ひょっとしたら今年の年末、アダングループの店舗の扉にはとうがらしの美しい赤色冴えるクリスマスリースが飾られているかもしれない。
 そして、店内ではリースを肴に、またこの3人が見果てぬ夢の話に興じているのかもしれない。でも、そんな先のことは誰も分からない。
 なぜなら、人生の殆どの出来事なんて、酔っぱらいが酒場で夢想したことを神様が空模様を頼りに暇つぶしにチョイスしているだけだから。

とぅ・びー・こんてぃにゅーど

泉岳寺「アダン」にて収録


松木直也/
1955年生まれ。宮城県仙台市出身。桑沢デザイン研究所卒。宮城大学大学院修士課程修了。 1979年平凡社(現・マガジンハウス)の編集者及びライターとして「ポパイ」、「ブルータス」、「ガリバー」などに携わり、数多くのミュージシャンや音楽関係者たちのインタビューを行う。現在は、食育に関する活動も行っている。主な著書に、「空前の事実」(マガジンハウス)、「ミクニの奇跡」(新潮社)、「加藤和彦・ラストメッセージ」(文藝春秋社)、「アルファの伝説・音楽家村井邦彦の時代」(河出書房新社 )などがある。


亀井章/
革職人。1954年宮城県仙台市生まれ。長く東京に住み、現在は仙台在住。 松木直也の高校の一年先輩であり、河内一作が関わる全ての店の常連としてカウンターに座り続ける、東京のコアなナイトシーンの生き字引。一作×松木が談笑する際は潤滑油として長く重要な役割を常に果たしてきた人物である。


河内一作/
山口県生まれ
八十年代から霞町クーリーズクリーク、青山カイなど常に時代を象徴するバー、レストランの立ち上げに参加。九十年代、仕事を辞め世捨て人となる。
六年間の放浪生活の後社会復帰し、アダン、青山タヒチ、白金クーリーズクリーク、音楽実験室新世界、奥渋バー希望、南洋ギャラリー、など手がける。お楽しみはまだこれからだ。

テキスト、進行:エンドウソウメイ
写真:片岡一史
「ノーチェ・トロピカール」パンフレットに関するキャプション:松木直也

黄昏ミュージックvol.2 YOAKE NO KEIJI(夜明けの刑事)/ポール・ロジャース

 “黄昏”と言えば“夕方”を指すらしいのだが、あの独特の感触は“夜明け前”にも十分同様の成分が含まれていると私は思うのだ。そこで、今回の黄昏ミュージックは「夜明けの刑事/ポール・ロジャース」とした。
 72年の「太陽にほえろ」で既で成立していた「和製ロック(井上堯之)+刑事ドラマ(萩原健一)」の鉄板方程式に遅れること2年、「星勝+坂上二郎or鈴木ヒロミツ」で放映された刑事ドラマが「夜明けの刑事」。その挿入歌が当時絶大な人気を誇った英国のロックバンド、バット・カンパニーのヴォーカリスト、ポール・ロジャースの「YOAKE NO KEIJI」だった。当初より、番組内での使用のみを条件に書き上げた楽曲ゆえ正式盤は存在しないのだが、ブリティッシュ・トラッドになぞられたアコースティック・サウンドに絡まる陰にこもった日本語のリフレインが、湿度多き黄昏時間へと誘う。(se)

※YOUTUBEにて試聴可能です。

黄昏ミュージックvol.1 スパイダー・アンド・アイ/ブライアン・イーノ

 “黄昏”というニュアンスは洋の西東で随分と違うことだろう。洋楽ばかり聴き続けてきたロック小僧の私が最初にそんな感覚を味わったのは、ブライアン・イーノの1977年のソロ名義では5枚目となるアルバム「ビフォア・アンド・アフター・サイエンス」の最終曲「スパイダー・アンド・アイ」であった。
 しかし、後追いとなったが、その2年前に自身創立のオブスキュア(薄暗い)・レーベルから全編が黄昏感覚の「ディスクリート・ミュージック」がリリースされていたことを知り、やがてそんな気分に浸りたいときはそちらに浮気するようになっていった。(se)