「さあ船を出しましょう」第二話

 その日西麻布のバーで私はアナ藤岡を待った。木曜日の早い夜、半地下のバーは奥の二つのテーブル席はすでに埋まっていて、カウンターにはカップルが一組と、男性と女性客がひとりづつスツールに腰かけていた。
 この店の主人であるバーマンの菊田の作る酒は秀逸である。とても丁寧に謙虚な仕事をする。そして何より選曲がいい。それも自分本位ではなく、お客さんの状況をカウンターの中から観察してすぐに空気を読む。かける曲はノンジャンルである。私はインギン無礼なジャズバーが嫌いだ。ジャズが嫌いという意味ではない。もちろん菊田はチェット・ベイカーもかければサラ・ヴォーンもかけるけれど、ボブ・ウィアーやニール・ヤングだってかける。それもすべてお客さん次第なのだ。
 私はカウンターの一番奥に座る。奥の席からはすぐに小さなキッチンがあり菊田の奥さんが料理を作っているのが見える。ベトナムとかタイの料理。バーでもちゃんとした料理があるのは嬉しい。時々この界隈を徘徊するけれど、腹が減って何を食べるか迷ったあげくに食いそびれて、菊田の店に来る。バーの料理はたいてい小じゃれていて食べる気がしないがこの店の料理は存在感があっていい。
 私はウイスキーのソーダ割を頼んだ。ウイスキーの銘柄はここでは言わない。酒のウンチクをたれたくはない。ただ菊田に氷は入れてくれと頼んだ。氷のないハイボールはうまいが悪酔いする。
 ルー・リードの「ペイル・ブルー・アイズ」がかかっている。以前ベトナム映画「夏至」のハナシを菊田にしたことがある。
☆ 
 ドアが開いて、アナ藤岡が入ってきた。
 雨の匂いがした。少し降ってきたらしい。半地下の店は湿気がこもる。木曜の夜の酒場はざわついている。私は右手をあげてアナにここだと伝えた。アナは私の隣に座った。私は少し緊張している。すぐに菊田がやってきて「いらっしゃいませ。アルバムいつも聴いてますよ」とにこやかに言った。菊田の一言で空気が緩んだ。アナは「あら」と嬉しそうに「マティーニ、オリーブ二つ」と言った。「私のハワイの先生が大酒飲みで、いつもマティーニを注文するの。オリーブ二つって、まねしただけ、ホントウはマティーニってどんなお酒か飲んだことないのよ」
 菊田は手早くマティーニを作る。オリーブが二個入ったマティーニがアナの前にすっと出された。ほのかにレモンの皮の香りがした。菊田が女性のヴォーカルに変えた。
 アナが「あら、アーマ・トーマス」と言った。
 ジャームッシュの「ダウンバイロー」のなかでこの歌がかかるシーンがある。刑務所に入ったジョン・ルーリー、ロベルト・ベニーニ、トム・ウェイツの三人が脱獄して、とある小さなレストランに隠れる。レストランの女主人がニコレッタ・ブラスキで同じイタリア人のロベルト・ベニーニと意気投合して、チークダンスを踊る。その場面でアーマの「イッツレイン」がかかる。ジョン・ルーリーとトム・ウェイツが、ちょっと白けた顔でそのダンスを見ている。名場面だ。雨の記憶、菊田の気の利いた選曲。
 そんなハナシを私はアナにしたがアナは映画は見ていなくて、ニューオリンズで実際にアーマ・トーマスのライブを見たのだと言って、曲に合わせてワンフレーズ歌った。癒しの声。
 「あの頃、八〇年頃ね、この辺はカスミ町って言ってたわ。さっきの若いタクシーの運転手さん、西麻布って言わないと分からなかった」
 「広尾橋、材木町、カスミ町、年配の運転手さんだと嬉しそうに答えてくれる。」
 「ロンドンでライヴのあと、帰国して、当時のインクスティックやクーリーズ・クリークでライヴをやったの」
 「ああ、八〇年代このあたりのそんなクラブはみんな今はなくなったよ。当時は深夜、カスミ町の交差点を歩いていると誰かに出会った。街の風景はあまり変わらないけど今は町が清潔になった気がする。八〇年代前半の食いかけのハンバーグがひっくり返っているような危うさがない。カオスがなくなったのだ。
☆  
 そういえば、恵比寿のすし屋のがんちゃんが言ってたな。
 「オレがさァ、若い時ロンドンですし握ってたらさ、つまり一九八〇年頃さ、まだ駆け出しで修行の身、異国だしさ、淋しくてさ、そんなある日、ラジオで、日本のニューウェーブのバンドが来るって聞いたのさ、ニューウェーブだぜ、日本のロックなんかイギリスの奴らまだ誰も知らない頃に、ニューウェーブさ、オレ仕事休んで見に行ったさ。それがアナのバンドさ。すっ飛んだよ。カッコ良かったなァ、ロンドン子もみんなのりのりさ」
 そんなハナシをアナにした。アナはロンドンでがんちゃんに会っている。
「がんちゃん元気かなァ」とアナは言った。
 しばらくしてすし屋のがんちゃんは亡くなった。
 私はアナが、ニューウェーブからワールドミュージック、ハワイへと変化していく過程に興味があったがアナのファンというわけではなかった。八〇年代のインクやクーリーズのライヴも見ていない。というよりクーリーズのライヴはすでにいっぱいで入口まで行ったが入ることはできなかった。丁度デビット・ボウイが東京に来ていて、アナのライヴを見に来たがやはり入れなくて帰っていった。カスミ町の闇に消えていくボウイの姿を遠目に見て、私はアナのライヴは見ることはできなかったがボウイを垣間見れただけでも良かったと思った。ボブ・マーレイやシンディー・ローパー、バスキアだったり、シャーデーやグレース・ジョーンズに出会えたり、当時カスミ町のナイトクラビングは驚くべきハプニングがあった。
 八〇年代バブルに関係なく私と私の周りはいつもお金はなかったが、それでも海外の多くのアーティストに出会えたことはバブルの恩恵を受けたと言っていい。
☆ 
 「私は大したヒット曲がないから、過去にとらわれないでいろんなジャンルにトライできるの」とアナは自嘲気味に笑う。
 そんなことはない、私はアナのヒット曲も数曲知っている。にもかかわらず彼女は昔のヒット曲に頼らず、常に新しい世界にトライしている。
 私は二杯目のソーダ割を流し込んで少し落ち着いた。
 「ところで、世界のアナ藤岡がなぜこのような男に連絡をくれたのでしょうか」と私はおどけた調子で言った。
 アナは少し間をおいて、「八九年頃かしら、今から十年前、ある雑誌にあなたはハワイの話を書いたでしょ。私はたまたま読みました。一部がハワイの音楽の事、二部がフラの話。フラの古典のことを書いていらして、とても面白かった」
 「フラ カヒコ」
 「ええ、カヒコ。日本ではフラと言えばモダンフラ、つまりアウアナのことで、カヒコまでやらないし話題にもならない。私は男性がカヒコの記事を書いていることにまずびっくりしたわ」
 十年前、つまり一九八八年頃、まだ私は旅を続けていた。東京に帰ると旅がらみのエッセイを雑誌に書いていた。どれも短いモノばかりで、長い取材文を書いたのはアナが読んだ雑誌が初めてだった。ヘタクソで未熟だった。旅から帰ると友人の堀が住むところのない私を家に泊めてくれた。家といっても堀の家は浄土真宗の寺であるから、私は本堂の片スミに布団を敷いて寝た。お礼に広い本堂の掃除をした。日本にいる間私は寺男であった。寝るのは片スミであったが、堀の父親と友人がやってきて四人揃うと、本堂のど真ん中で麻雀をした。
 堀は私より若いが優秀な編集プロデューサーで、親鸞上人の慈悲の心を持って無一文の私にハワイ取材の仕事を作ってくれた。アジアの赤土の上を裸足で歩いていた私にとってハワイなどまるで興味はなかったが、ハワイから南太平洋への旅は思ったより長くなった。そして気が付くと、ハワイ島の火の神ペレに会いに行くことになるのだ。これも親鸞上人のお導き、いやいや、準備ができていれば自然それなりの場所に辿り着くのかもしれない。もっと昔、イーストビレッジで遊びすぎてカラダもココロもぐずぐずになっていたとき、トンプキン公園で、ある和尚さんに出会った。気が付いたらキャッツキルの山中にある禅寺に私はいた。このハナシはいずれまたするとして、旅の哲学はそういうものなのだろうか。いま私はアナ藤岡とカスミ町のバーで会っている。アナが私のような一般人に連絡してきた意味が分かりかけてきた。いや理解しようとしている自分に気が付いた。
 アナは言った。私の心を読み込んだように。
 「そうなんです。わたし、これから東京でフラの学校を始めたい。それには私自身がもっとフラカヒコを学ぶ必要があるの」

  無意識から何かが起こった瞬間だった

 アナは私にこれからフラを巡る旅に出かけようと言っているのだ。その旅はとても精神的なもので、果たして日々飲んだくれている私にそんな大それたことを手伝うことができるのだろうか、私が雑誌に書いたフラの話はひどく未熟なモノだった。火の神ペレのもう一度学んで書き直せというお告げなのかもしれぬ。果たして三蔵法師の孫悟空のように約束の地までお供できるのだろうか。マチガイばかりをやらかして孫悟空のように頭に巻いたキンコジを絞めつけられるに決まっている。
 いかがなものか、私は三杯目のソーダ割は氷なしで頼んだ。


ⒸSOHMEI ENDOH

黄昏ミュージックvol.108  Ené Nègn Wèy Antchi/ティラフン・ゲセセ

 英語圏での旧譜ダンスミュージックの掘り起こしにひと段落した後、クルアンビンのタイランド産の緩いファンクミュージック租借辺りをトリガーに、俗に云う“辺境グルーブ”の掘り起こしへ、DJ、コレクターたちは約束の地を非英語圏へと変更した。
 筆者も御託に漏れず、タイファンクはもとより、コロンビアのボゴタ・アンダーグラウンド・シーンの音脈、ムスタファ・オズケントを筆頭としたトルコファンク、そして一番肌が合う、ムラトゥ・アスタトゥケを頂点としたエチオピア・ジャズと果てしなく音響放浪した。
 アスタトゥケの心地よいグルーブが奏でるヨナ抜き音階の魅力は語るまでもないが、ことグルーブのみにフォーカスするなら、そのアスタトゥケ人脈が誇る国民的歌手ティラフン・ゲセセが特出した存在となる。
 フェラ・クティがジャームス・ブラウンとナチュラルに互換関係にあったように、ティラフン・ゲセセもその2人と互換関係にあるように思う。
 それほどまでに、ボーカルを伴うファンク・ミュージックとして英語圏の著名なアーティストと全く引けを取らないクオリティ。そう、正に彼の称号たる“ザ・ヴォイス”。唯一無二な存在なのである。(se)

「さあ船を出しましょう」第一話

 バリ島、クタのバンガローにしばらく泊まっていた。遠い昔の話だ。ポピーズに行く手前の路地に小さな雑貨屋があった。石けんだったり、丁子タバコだったり、ビンロウの実だったり、地元の人が行く日常の細々とした雑貨の店で、子供の頃に通った十円駄菓子屋に近い。奥に簡素なテーブルが置いてあり、そこで自家製の椰子酒を飲ませてくれた。日本のどぶろくみたいなものだな。美人のワヤンとかわいいニョマンが留守番をしていて、夕暮れ時ジャランジャランに出かけ、いつもその店で椰子酒を飲むようになった。ワヤンはとても美人であった。「アナタハウツクシイ、ボクハアナタニアイニクルンダ」と今だったらケイタイに通訳を頼めるが、当時はただニコニコとプラスチックのコップに入った椰子酒を飲みながら、「バグース」を連発するのみである。そのうち近所にモスリムのおっさんがやっているサテの屋台がやって来る。かわいいニョマンがサテカンビンとスパイスたっぷりの羊の内臓スープを買いに走る。あのスープはうまかったなァ、死ぬ前に何が食いたいか?「卵かけご飯」とか抜かしたテレビに出ている料理人がいたが、ああいう輩はあんまり信用しない。死ぬ前に何が食いたいか、ぎとぎとと燃えたぎったスパイスたっぷりのあの羊の内臓スープを食らって、「まだシャバにいてえ」と叫びたい。そしてあの椰子酒があれば言うことなし、そしてそして美人のワヤンとかわいいニョマンがいれば抗うことなく天国に行けるというものだ。
 しかしあれからどれだけ時間が経っていることか、椰子酒屋の美人姉妹も生きていたって今やすっかり婆さんになっているだろう。歳はとるものではない、おもいでばかりが多すぎて前に進めないのだ。
 私は毎日、夕暮れ時にその店で椰子酒をかっ食らった。いい調子に酔っ払い、外に出ると路地の先に、どうっとクタの夕陽が見えた。一日のハイライト、黄金の時間、しかし夢の時は一瞬にして消える。夕陽のあとの薄暮の中にただの酔っ払いの裸足の男がひとり取り残されるのである。日常と違って旅は感動が大きい。その分、感動のあとに冷え冷えとした孤独が押し寄せる。そうなると旅人は居場所を変えたくなるのだ。
 私はそろそろバリを出ようと思った。

 ワヤンが片言の日本語で言った
「アナタハドコヘユキマスカ」
 私は昼間、翌日のジャワ行きのバスのチケットを予約したばかりだった。これからの私のミチユキを言葉の通じないワヤンに伝えるにはとても時間がかかる。私はいつも持っている大学ノートにボールペンで簡単な東南アジアの地図を描いた。ジャワからスマトラ、シンガポール、マレーシア、タイ。だいたいこんなところへ行くんだとワヤンに説明したがそれはひどくアバウトで表面的な説明で、ホントウは私自身、何も決めてはいなかった。とりあえずジャワのジョグジャカルタ行きのバスチケットを買っただけなのだ。
 「ワタシハ、アナタニアエナクナルノハカナシイ」と言いたいところだったが、手のひらを返して首をすくめることしかできなかった。ケイハクなことばかり考えていると足元をすくわれる。ワヤンにとって気まぐれな旅人の行く末など、どうでもいいことなのだ。二か月、半年、一年、旅が続こうと、結局誰もが自分の国へ帰っていくのだ。

 あなたは何処へ行きますか

 オレはいったい何処へ行くのだろう?

☆    
 二〇〇〇年春
 留守電にアナ藤岡からのメッセージが入っていた。「アロハ、はじめまして、アナ藤岡です。一度お会いしましょう。連絡をください」
 私は驚いた。
 ワールドミュージックの歌姫、近年はハワイ音楽に入っているが、確かにあの誰をもシアワセにするアナの声が留守電に入っていた。私はアナ藤岡と一度も会ったことはない。彼女のアルバムを数枚持っているだけで、アナのライブにも行っていない。ただ共通点があるとしたら、私が放浪していたアジアや南太平洋の島々の音楽を近年アナは歌っていて、日本では稀有な存在ではあった。私自身は彼女の歌に過去の旅の喜日を重ねてもいた。ただそれだけなのだ。

 私は三日後に、いつも行く西麻布のバーでアナ藤岡と会うことにした。


ⒸSOHMEI ENDOH

黄昏ミュージックvol.107 シュー・フライ/ホセ・フェリシアーノ

 ある音楽スタイルを生み出したとも云っても大袈裟ではないレジェンド・ギタリスト、スティーヴ・クロッパーが84歳でこの世を去った。
 2021年のラストアルバム「ファイアー・イッツ・アップ」があまりに生命力溢れる作品だったので、まだまだ現役生活は続くものだと勝手に思いこんでいた。
 スタックス・レーベル黄金期でのファーストコールはもとより、エディ・フロイド「ノック・オン・ウッド」、ウィルソン・ピケット「イン・ザ・ミッドナイト・アワー」そして、日本でも非常に人気の高いエヴァーグリーン、オーティス・レディング「ドック・オブ・ベイ」とコンポーザーとしても非常に優秀であった。
 さらにプロデュース能力にも秀でており、ジェフ・ベック・グループ、タワー・オブ・パワー、ジョン・クーガー・メレンキャンプ、そして忌野清志郎など多くの名作を生み出した。
 今回はそのプロデュース作品でも異色なプエルトリコ出身の盲目のシンガー、ギタリスト、ホセ・フェリシアーノとの名作アルバムから、いかにもスティーヴ・クロッパーと云えるR&Bマナーの楽曲にフォーカスする。
 ホセ・フェリシアーノは60年代から既にアメリカでも注目された存在で、ナチュラルに醸し出すラテン性がアメリカでの彼の持ち味だったが、スティーヴ・クロッパーとのケミストリーにより、現在では、AOR、レア・グルーヴ蒐集家に人気のレア・ヴァイナルとなった。
 ブガルーがソウルとラテンの融合音楽と呼ばれ構造的にも分かりやすい音楽ジャンルだが、この二人の巨人コラボレーションはもっと複雑な調合と隠し味で、更に自然な異種配合となっている。正に名作。(se)

黄昏ミュージックvol.106 コール・ミー・ザ・ブリーズ/ベス・オートン

 以前、パーカッショニストが加入している4人編成時の京都のバンド、ドレクスキップのライブを見た時強く感じたことだが、北欧伝統音楽を独自解釈した彼らのアコースティックなインストゥルメンタル曲に、真逆とも思われれるトランシーな成分が多く含まれていることに驚かされた。
 欧米問わず収穫期に生演奏で踊る行為は多くの文化圏で見られるごく普通の事象で、リズムに反復フレーズが多用されれば陶酔状態にも当然なるだろう。
 さて、ベス・オートンの2012年の作品「コール・ミー・ザ・ブリーズ」だが、アコースティック楽器による反復リズムは勿論、歌詞も「私を〇〇と呼んで」とひたすら繰り返す歌は楽曲のポリフォニック性を更に増幅させ緩やかなトランスへと我々を導く。
 思えばそれも当然、ケミカル・ブラザーズの1stアルバムでのゲスト参加で注目を浴び、その後、重鎮バート・ヤンシュとも共演している飛び級のキャリアを眺めればこんな嬉しい効用がある作品を創作するのも当たり前なのだ。(se)

黄昏ミュージックvol.105 ヘブン・トゥ・ミー/フェリックス・エイムズ

 「Shoestring」がSpotifyで300万回オーバーの再生数を達成し注目を浴びるようになったモダン・ソウル・シンガーのフェリックス・エイムズ。
 モダン・ソウルなんてジャンルもあやふやで、過去UKでは同様の呼び名を60~70年代のレアなノーザンソウルの1カテゴリーとして仕様していた時期もある。
 その辺のゆるゆるな線引きなのでフューチャー・ソウルでも一向に構わないが、おおよその出自は70年代のニューソウルから派生したもので、それに加味されるのがリリックならラップ。更にサウンド・プロダクションはエレクトニカやら音響系とある程度の雛形は想像に難くないが、他と違い彼のトラックを頻繁に聴いてしまう最大の理由は、その特出したメロディーメーカーぶりだ。正に捨て曲なし。更に艶っぽい美声がそのメロディーを何倍にも増幅させる。
 出身地ミルウォーキーで音の骨格を形成し、ロサンゼルスで開花させたフェリックス・エイムズの本年リリースの3rdアルバムの2曲目「ヘブン・トゥ・ミー」そんな彼のゴスペル的側面を全面に押し出したソウルフル且つスペーシーな秀曲である。(se)

【会期延長!】Sohmei Endoh Exhibition [極東画:TOKYO 204X_八龍(バーロン)特区〜猫のいる街〜]

【会期延長!】
204X年、多くの難民が流れ込んだ東京に彼らを管理監視するために、苦肉の策として突如現れた八龍(バーロン)特区の日常風景。
——————————- 
期間:2025,11/4(Tue.)〜12,27(Sat.)

観覧時間:月〜土曜日 11:00〜23:00
     日曜日、祝日 14:00〜23:00
     無休(臨時休業がある場合があります。インスタグラムにて事前にご確認ください。)
観覧料/ワンオーダーが必要になります。

展示内容/最新シリーズ[極東画:TOKYO 204X_八龍(バーロン)特区〜猫のいる街〜]シリーズよりジークレー版画20点
※全作品初の展示となります。

展示全作品が「ギャラリー ラナイ」オンラインショップでもご購入可能です。
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
[極東画:TOKYO 204X_八龍(バーロン)特区〜猫のいる街〜]シリーズ:ジークレー版画作品

[展示作品ポストカード10枚セット]

[作品展カタログ]

エンドウソウメイ:プロフィール
静岡県沼津市生まれ。1985年よりイラストレーターを職業とし、木版画を中心に、「ウォーマット横浜」(複数年担当)、「アースデイ東京」などのイベントポスター。ザ・ミーターズ、アート・ネヴィル、ジャコ・パストリアス、ジャニス・ジョップリン、直近では人気急上昇中のカナダの女性ジャズシンガー、ケイティ・ジョージのジャケットなどワールドワイドな媒体にビジュアル提供及びデザイン担当。国内では、音楽専門誌「ミュージックマガジン」、「バットニュース」など音楽と真摯に向き合うマガジンに多数寄稿。ジャケットワークとしては、スーパー・バター・ドック、GOMA & The Jungle Rhythm Section、s-ken+PE’Z(配信用アイコン)、ダージリン(Dr.Kyon&佐橋佳幸)、Jagatara2020などミュージック・ジャンキーの試金石的ドープな音楽性を誇るアーティストのビジュアル及びデザインを担当。90年代からは前述に並行し、ライター、インタビュアーも兼ねるようになり、全編インタビュー書籍に、「いつの日かダブトランペッターと呼ばれるようになった/こだま和文」(企画、装丁画も担当)がある。DJとしての活動も1979年開始とキャリア中一番長く、90年代はレジェンダリーな都内クラブでレジデントとして多数プレイ。現在も「奥渋/バー希望」限定でその活動も継続中。また、ブッツキング・ディレクターとして、多くの音楽ライブ、トークショーの企画制作者の横顔も持つ。

Sohmei Endoh Exhibition [極東画:Someday in the Rain.〜ある雨の日〜]

期間:2025,3/3(Mon.)〜5,31(Sat.)

観覧時間:月〜金 15:00〜23:00(L.O.22:00)
     土   14:00〜24:00(L.O.22:30)
     日曜休み
観覧料/ワンオーダーが必要になります。

展示内容/最新シリーズ[極東画:Someday in the Rain.〜ある雨の日〜]シリーズよりジークレー版画10点、 [TOKYO203X]シリーズよりジークレー版画19点
※全作品初の展示となります。

展示全作品が「ギャラリー ラナイ」オンラインショップでもご購入可能です。
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
[極東画:Someday in the Rain.〜ある雨の日〜]シリーズ
[TOKYO203X]シリーズ
[展示作品ポストカード10枚セット]

——————————- 
「雨の記憶」

 いねむりをしていた。
 遠い昔に放浪した南太平洋の夢を見た。
 私はパゴパゴのレインメイカーホテルに深夜辿り着いたばかりだ。サマセット・モームがここで書いた短編のように、古いコロニアルな建物の屋根に雨は降り続く。
 部屋の窓をあけると、真っ黒な南太平洋からのひどい湿気で、ゼンソク持ちの私の喉はひゅうとかすれた。私は絶望的な気分だったが、連れの女は「あら、雨だわ」とアーマ・トーマスが歌った「イッツ・レイン」のようにキラキラしていた。

河内一作(アダンファーム代表、バー希望オーナー)

——————————- 
 なぜ故か?東京で雨に浴びると、急にその雨に含まれる“江戸”の記憶を感じる時がある。
 幼少より見ていた時代劇の影響なのか?私だけかも知れないが、雨にはそんな効用が確かにあるのだ。
 海外の絵画ではアレックス・カッツ、国内では歌川広重が一番に脳裏に浮かぶが、名作多数な雨の絵をよく自分も描くようになっ たと、そんな気を持てたのは江戸の記憶がバッサリと潔く途切れる、雨上がりの爽快な気分同様、描いた後の”元い”への誘導ではないか?
 その誘導は更なる制作へと自身を導くのだ。

2025年2月 江戸にて エンドウソウメイ

——————————- 

エンドウソウメイ:プロフィール
静岡県沼津市生まれ。1985年よりイラストレーターを職業とし、木版画を中心に、「ウォーマット横浜」(複数年担当)、「アースデイ東京」などのイベントポスター。ザ・ミーターズ、アート・ネヴィル、ジャコ・パストリアス、ジャニス・ジョップリン、直近では人気急上昇中のカナダの女性ジャズシンガー、ケイティ・ジョージのジャケットなどワールドワイドな媒体にビジュアル提供及びデザイン担当。国内では、音楽専門誌「ミュージックマガジン」、「バットニュース」など音楽と真摯に向き合うマガジンに多数寄稿。ジャケットワークとしては、スーパー・バター・ドック、GOMA & The Jungle Rhythm Section、s-ken+PE’Z(配信用アイコン)、ダージリン(Dr.Kyon&佐橋佳幸)、Jagatara2020などミュージック・ジャンキーの試金石的ドープな音楽性を誇るアーティストのビジュアル及びデザインを担当。90年代からは前述に並行し、ライター、インタビュアーも兼ねるようになり、全編インタビュー書籍に、「いつの日かダブトランペッターと呼ばれるようになった/こだま和文」(企画、装丁画も担当)がある。DJとしての活動も1979年開始とキャリア中一番長く、90年代はレジェンダリーな都内クラブでレジデントとして多数プレイ。現在も「奥渋/バー希望」限定でその活動も継続中。また、ブッツキング・ディレクターとして、多くの音楽ライブ、トークショーの企画制作者の横顔も持つ。

黄昏ミュージックvol.104  ハーレム・リヴァー・ドライヴ/ハーレム・リヴァー・ドライヴ

 ライブ体験したレジェンド達が次々と天へ召される時代となった。
 ラテンからサルサへと変容する時代の風雲児エディ・パルミエリが先日鬼籍に入った。
 イノベーターを地でいったパルミエリに相応しく敢えてレア・グルーブの文脈で評価高い本作でその偉業を僅かながら辿りたいと思う。
 本作はパルミエリが率いたファンク・バンドの唯一のスタジオ録音アルバムの人気トラック。
 意外にもリリース期にはあまり評価が芳しくなかったが、その後、DJ、レアグルーヴの愛好家の間で徐々に評価を上げ今やフロアーでのダンスチューンの定番となっている。
 ファンクとアフロキューバンサウンドを統合し真正ニューヨーク・サウンドを構築したメンバーは、モンゴ・サンタマリア・バンドのビクター・ベネガス。パルミエリの弟チャーリー・パルミエリ。後にフランク・ザッパのバンドに参加するブルース・ファウラー。他ランディ・ブレッカー、バーナード・パーディと名だたる演奏家から選び抜かれた強者の名を見るだけで珠玉のグルーブが聴こえてくる。
 エディ・パルミエリの残した音楽は今日も流れ続ける(se)
(se)