80年代の黄昏時や夜明け前に東京の街を包み込んだあの特異な空気は一体なんだったのだろうか?喧騒一色の中の一瞬の澄んで止まった空気。それは、当時流行ったサイバーパンクSFでのマトリックス空間に似たものだと筆者は認識する。
そんな、特異な空気が充満した魅惑の名曲がある。
日本初のパンクムーブメントを牽引し、80年代中盤からは“東京ソイソース”なる先鋭的イベントを立ち上げ、日本人、否、東京人独自の異種交配グルーブの実験場として時代を切り開いて行ったストリート発の音楽家、s-ken。彼がパーマネントなバンドとして未だ活動継続中なのがs-ken & Hot Bomboms。
今回、そんな彼等の88年の傑作2ndアルバム「千の眼」の最終トラック「夜の翼をポケットに」を黄昏ミュージックとした。
同曲はs-kenの秘蔵っ子であったシンガーソングライター、中山うりが2010年にカバーしているが、プロデューサーがs-kenということを鑑みれば広義な意味ではセルフカバーとも云える。こちらも女性シンガー特有の暖かく伸びやかなヴォーカルが魅力的であるが、“黄昏”というこの項でのタームだけで比較するならばオリジナルに軍配が上がる。
80年代後期、熱気と湿気と不快指数最高潮のナイトクラブで夜明けまでレコードをかけた真夏の朝方、地下から重いレコードを抱えて潜り出し大きく深呼吸をする。そんな時、脳内を廻るのが浮遊するロングトーンのシンセと5~6弦をデリケートに操る絶妙なトーンのギター。ロマンティクなサイバーラブストーリーのエンディングが如きリリックが被ってくる頃には、自身はマトリックスに潜り込み、そこに見えるバーチャルな映像と一体となり、東京独自のレゲエマナーな緩やかなグルーブに身を預け踊り出す。
〜♪光ってるよ虹色に 千の眼が街角に いい人見つけた 川をひとっ飛び 夜の翼をポケットに 吸い込まれてホタルは渦巻き 一人で追いかけて♪〜 (se)
投稿者: adanendo
さよならクーリーズ、さよなら八十年代
ポジティブに生きよう
いざこざばかりの毎日なんて
悪魔にお祈りするようなもの
なぜ助けあおうとしないのかい?
もっと楽になれるのに
ジョン・レノンが亡くなった翌年、一九八一年の春に最初の「クーリーズ・クリーク」は
高樹町にオープンしました。ぼくはまだ二〇代、ほんの駆け出し。
その年の五月に今度はボブ・マーリィが亡くなりました。
一ヶ月後にクーリーで「ボブ・マーリィ追悼イベント」をやりました。
詩人白石かずこさんの朗読と映画「ロッカーズ」の上映。当時ジョンとボブが続けて亡くなりましたが、
それでもぼくらは彼らの遺産が世に引き継がれ、これからなにか平和な未来を漠然と感じていました。
ボブの「ひとつの愛」を、ジョンと清志郎の「イマジン」を、ネーネーズの「黄金の花」を聴いて
旅に出たあのとき
原発が止まることを
戦争が終わることを
ぼくらは信じていたのです。
しかしあれから四十年、社会はもっと困ったことばかり。
もう一度「ひとつの愛」と「イマジン」を聴いてみよう。
北朝鮮のみなさんに、イスラム国のみなさんに、ボブとジョンと清志郎のソウルを届けよう。
ネーネーズの「黄金の花」をトランプ氏と安倍さんに届けよう。
白金クーリーズ・クリークは九月二十日で終了いたします。考えたら高樹町、白金時代を共に経て、
ぼく自身が一番多くのことを学んで来たのかもしれません。これでやっとぼくは狂乱の八十年代、
あのマボロシから解放されそうです。やれやれ。
長い間クーリーをありがとう。
またいつかココロのパラダイスで会いましょう。
白金クーリーズ・クリーク
オーナー 河内 一作
Special Thanks
馬上さん、ケンさん、大口ひろしさん、白石かずこさん、小西くん、三木くん、須藤ちゃん、吉村くん、
マーサ、ユウスケ、ダイスケ、シューウシ、ヒロミ、セイちゃん、小野カメちゃん、須川ユミさん、
サンディーさん、佐野史郎さん、福田勝さん、ブルース・オズボーンさん、ピーター・バラカンさん、
クーリーのみなさん、そしてアダンのみなさん

Illustration by SOHMEI ENDOH
黄昏ミュージックvol.9 リターン・トゥ・イノセンス/エニグマ
現在、ヒップ・ホップを中心にサンプリング技法は日常的に行われているが、もともとはアンビエント等と同様に、現代音楽サイドのミュージック・コンクレート等に出自を持つ技法であった。
最初期はサンプリングのみで構築されていたと云っても過言ではないヒップ・ホップとは別に、筆者がその秀逸なセンスに驚かされたのが、1979年の元カンのベーシスト、ホルガー・シューカイの楽曲「ペルシアン・ラブ」。短波ラジオから拾い上げたペルシャ古典音楽(歌手は多分ゴルパ)のサンプリングは、そのザラザラした音質と同様の、かの国の乾いた大地を連想させるに十分だった。
巡ること15年経た1994年、ホルガーの開いた音世界を更に推進するキラーチューンが登場する。
ルーマニア出身の鍵盤奏者、音楽プロデューサーのマイケル・クレトゥと、本国より日本のディスコ・フロアーでの人気が異常に高かった元アラベスクの歌姫サンドラ・アン・ラウアーを中心に結成されたエニグマの「リターン・トゥ・イノセンス」がそれだ。
サンプリングによる権利問題にまで発展したいわくつきの楽曲ではあるが、80年代後期以降、世界のダンスシーンを席巻していたイギリス:ブリストルから萌芽したグランド・ビートに交差する、台湾先住民アミ族の歌手、郭英男(Difang/ディーファン)の大陸以外の何者でもない朗々とした黄昏感たっぷりな唄いっぷりを大胆にサンプリングしたサウンドコラージュの斬新さは未だ色あせるものではない。
そうそう、急に思いだしたが、上記2曲の様なダンスビートではないが、現代音楽家ギャヴィン・ブライアーズがホームレスの歌声をサンプリングした「ジーザスズ・ブラッド・ネバー・フェイルド・ミー・イェト」も黄昏れたサンプリング繋がりの良質なアンビエント楽曲であることをせっかくなので付け加えておこう。(se)
「連載対談/『酔談』vol.6」ゲスト:ゴトウゆうぞう氏 飛び入りゲスト:今村仁美氏 ホスト:河内一作
“酔談”。見ての通り、酔って語らうこと。当然、造語である。
酔っているがゆえの無軌道さ、無責任さ、大胆さ、自由さをそのまま気取らず飾らず実況する、それが「対談連載/酔談」の全てである。
アダングループ代表、河内一作が東京の夜のフロントラインに初めて立った、1981年の「クーリーズクリーク」から現在に至るまで、彼が関わった店が、単なる飲食店におさまらず“自由なステージ”としての酒場の背景を演出出来えた“要”ともいえる大切な友人達を毎回招き、テーマなしのゼロベースから美味しい酒と肴の力を借りつつ今の想いを語り尽くすトークラリー。
さて今回のゲストは、ライブ活動のため京都より上京中の、音楽ジャンルはもとより、その広域な表現形態は演芸をも含む、正に大衆芸能の総本山、ゴトウゆうぞう氏(以下敬称略)をお迎えし、6年振りとなる待望のニューアルバム「ぼくらは、ファミリー」の制作裏話等を中心に大いに語ってもらうこととなった。
さて、ここ泉岳寺「アダン/特別室」に限らず、多くの場面で昨今はよく見かける、一作、ゆうぞうの2ショットだが、実はその出会いを両者ともあまり語ったことが無い。
まずはその辺から2人に紐解いてもらうことにしようか。
◇◆◇◆◇
河内一作(以下一作):飲み物から頼もうか?
ゆうぞう、何飲む?
ゴトウゆうぞう(以下ゆうぞう):お生のビールで。
一作:ジョッキでしょ?
ゆうぞう:じゃ~、ジョッキで。
一作:一杯食べようね、一杯食べて飲んでの会だから。
ゆうぞう:そのつもりだったんですけど、昨日飲み過ぎてしもうて(苦笑)
一作:昨日はどこで飲んだの?
ゆうぞう:昨日はゴールデン街です。
一作:ゴールデン街行った!?(笑)
メンバーと?
ゆうぞう:いやいや、オレだけ。
一作:ライブがあった土曜日は、その後どうしてたの?
ゆうぞう:土曜日は適当に、ライブの後は、皆フラフラやし。
ラジオアダン:あっ、ゆうぞうさん、写真的にお席こちらでお願い出来ますか?
ゆうぞう:あっ、こっちがいい?
ごめんちゃいちゃい チャイコフスキー~。
一作:ガハハハハ(爆笑)
関西だよな~(笑)
ごめんちゃいちゃい チャイコフスキー~。
※ここから暫し一作、フードのオーダーに集中し、話に参加せず
ラジオアダン:「わり~ね、わり~ね、ワリーネデートリッヒ」系統のギャグですね(笑)
これは、小松政夫さんでしたっけ?
ゆうぞう:知らねぇ~な、……、伊東四郎さんちゃう?
※ 伊東&小松の共作が正解
だから、昨日は飲み屋営業なんですよ。CD持って、チラシと。
ラジオアダン:演歌歌手の方達がやるやつの変形というか?
ゆうぞう:昨日も3軒廻って、ようけこうてくれるし、皆ちやほやしてくれるし(笑)
ラジオアダン:それでは自分の都合では当然帰れない(笑)
ゆうぞう:朝方になってしまった……。
久々に、朝方に電車に乗ったらきっちり寝てしもうて、中央線の訳分からん所に行ってしまって(苦笑)
ラジオアダン:八王子とか?
ゆうぞう:うん、その手前(苦笑)
ラジオアダン:因に一作さんとの2ショットは、わたし的にはよく見かけますが、本当の最初はいつだったんですか?やはりネーネーズ絡みで?
ゆうぞう:あっこでしょ?恵比寿の、
一作:恵比寿と云うか、広尾の「ケセラ」だよ。
(宮川)賢(左衛門)さんがライブとしてゆうぞうを突っ込んで。
そういう意味では前回の続きでもあるよね。
前回は、オレのキャリア的には「CAY」までで話は略終わったんだけど。
前回はゆうぞうより1クール若いオーガニック系にいってる2人と、この対談やったんだけど、1人は喜納昌吉さんと旅をしていた片岡くんで、もう1人が憂歌団のメンバー等と親しい洋服屋の社長でサーファーの橋本くん。
ゆうぞうがネーネーズの東京初ライブのサポートメンバーとしてやったのは何年になるのかな?
ゆうぞう:91年の、……、秋ちゃうかな?
※ 正解は1991年5月7日

河内一作
一作:この前の対談の一つのテーマとして“88年が境”というのがオレの中にあって。要は、それを境にオレはCAYを出て旅をしていて、まあ、日本に帰ったり出たりを繰り返していたんだけど、その頃にネーネーズがCAYで初ライブをやった。
ゆうぞう:あれはアジアをテーマにした3本立て(1991年5月6,7,8日の3DAYS『関西・沖縄・ジャワNITES』)で、初日が桜川唯丸(&スピリチャル・ユニティー)やって、最終日がヘティ・クース・エンダン(&カテゥリスティワ)やって、中日がネーネーズ(&スピリチャル・ユニティー)やったとちゃうかな?
ラジオアダン:わたしもあのライブの衝撃は未だ記憶に鮮明なのですが、一作さんの率直な感想はどうでした?
一作:いや、だから見てないの……。
丁度、どっかへ行っていた。
ラジオアダン:残念ながらそこですれ違っていた訳ですね。
で、ケセラということは、90、
一作:もう、大分後だよ、……、あのね1999年に三田「アダン」をオープンさせたから、それの5年前、
ラジオアダン:94年。成る程。
一作:その前に(ゴトウゆうぞう☆ ・)ワニクマ(・デロレン)で見ていて、……、あれ、スピリチャル・ユニティーじゃないよね、ワニクマだよね?
ゆうぞう:一緒だけどね(笑)
一作:思い出した。ラフォーレミュージアムで見たんだ。
ゆうぞう:ラフォーレ、あぁあぁあぁあぁ~、なんかやったな~。
一作:やったやった。
フルバンドで、ワンマンで。
ゆうぞう:全然覚えてない(苦笑)
一作:覚えてない?(苦笑)
ラジオアダン:沢山ライブやってますもんね。
ゆうぞう:そないにはやってないですけど、大分、もう頭がね~(笑)
大分ぼけたんです、オレも(笑)
皆もそうだと思うけど、ボケは直らんし(笑)
ラジオアダン:その頃のワニクマと今とではかなり違いましたか?
ゆうぞう:うん、演芸色が強かった。
前は演芸7、音楽3くらい。
それやっぱしんどいから、音楽8、演芸2くらいですよ、今は。
ラジオアダン:さっきもありましたが、ワニクマとスピリチャル・ユニティーの正確な境界線を教えて欲しいのですが、
ゆうぞう:だから、オレがフロントに立ってリーダーをする時はワニクマで、会長こと佐原(一哉)くんがリーダーで、誰ぞの伴奏しに行く時はスピリチャル・ユニティー。
一作:メンバーも、
ゆうぞう:殆ど一緒、というか、全部一緒(笑)
同じバンドで名前が違うだけやもん(笑)
一作:ガハハハハ(爆笑)
(カメリア・)マキちゃんが入ると名前が変わるよね?
※ 「ゴトウゆうぞう☆ ・ワニクマ・デロレン&マキ」
ゆうぞう:うん。
マキちゃんとは、90、……、……、90、……、90、……、2、3、4、5、6、7、8年くらいからですね(笑)
一作:ガハハハハ(爆笑)
ラジオアダン:マキさんはギターも激上手いし美貌も兼ね備えていて、以前はガールズバンドのフロントとかやっていたんですか?
ゆうぞう:いや、マキちゃんはずっとギタリストです。
ラジオアダン:マキさんが教則本出すのは非常に理解出来るんです。クオリティーは勿論、正に指運が教科書通りで綺麗なんですよね。
ゆうぞう:あっ、ほんま、へぇ~。
オレその辺よう分かってない(笑)
ラジオアダン:ガハハハハ(爆笑)

ゴトウゆうぞう氏
◇◆◇◆◇
6年振りにリリースされたニューアルバム「ぼくらは、ファミリー」。
今回の制作コンセプトを大まかに言えば、~過去、ゴトウゆうぞうがサポートメンバー等、自身に深く関わりがあったアーティスト達のキラーチューンを再構築した~ 等となるのだろうが、そんなデーターベース等どこ吹く風で、一作には一作独特の訊き所が数多くあるらしく、そのための導入部として(?)同作品の帯コピー文を感情込めて急に読み出した。
さて、それに対する、ゆうぞうからのアンサーとは?
◇◆◇◆◇
一作:この対談連載は、ミュージシャンが来てくれてもあまり音楽の話はしないで、飯の話や諸々雑談に終始するんだけど、今日はゆうぞうのニューアルバムが出たばかりだということもあって、その辺、敢えて話したくってさ。
ゆうぞう:成る程。ありがとうございます。
一作:(いきなり新譜の帯のコピーを本気で読み出す)~ジミクリ3年ボブ8年。スラロビすんだらその先に、菊水丸さんが待っていた!!~
このくだりっていつになるの?
ゆうぞう:80、……、3~4年くらいかな?
一作:ネーネーズは関係ないよね?
ゆうぞう:まだ、全然関係ない。
80、……、3~4年に河内音頭に出会ったんです。
一作:ワニクマはもう始動していて、
ゆうぞう:いや、その頃は、オレは関西フュージョン界を代表する、新進気鋭のラテン・パーカッション奏者で、
ラジオアダン:(恐る恐る)ゆうぞうさん、今のそれ、ギャグですよね?
ゆうぞう:半々(苦笑)
そう、バンドやめて、河内音頭をなにも知らなかったところに、「トゥルゥゥゥ~ トゥルゥゥゥ~」(電話の着信音を擬音で)、音無くてもいいか?(笑)
一作:あっていいよ(笑)
ゆうぞう:ハハハハハ(笑)
(ザ・)ノーコメンツをやっていた佐原くんから電話がかかってきて、
一作:ノーコメンツは解散していて?
ゆうぞう:うん、その頃はノーコメンツはなかって。
会長がそれで、「河内音頭するんで」って言って、オレは、「おもろそうだけど何すんの?」って、
「(河内家)菊水丸と今、『ボブ・マーレー物語~レゲエ一代男~』作ってるんや」。オレそれ聞いて、「絶対やる!!」ちゅ~て(笑)
それで三条の「六曜社」で待ち合わせして。それがひとつの導火線ですわ。
一作:(また突然、帯を読み出す)~菊水丸さん待っていた!! あの夏、俺はコンガ1本さらしに巻いて~、ガハハハハ(爆笑)、~レゲェと音頭の海に飛び込んだ。~
この、“あの夏”がその夏だったんだ。
ゆうぞう:そうです、そうです。
そんな感じです。

一作:80、
ゆうぞう:80、……、3~4年。
一作:ボブ・マーレーが死んだのが、
ゆうぞう:81年。
一作:丁度、旧「クーリーズ・クリーク」の後。
オレ等、代官山でやっていた頃だ。
ラジオアダン:代官山「スワミ」時代?
一作:うん。
CAYの前も多少被ってるんだろうね。CAYの前に賢さんとアジアに行ったり、「『CAY』をどんな店にしようか」ってことでね。
その時に京都でそんな動きがあったんだもんね。いいね(笑)
時代ってのは、ひとつに向かって行く時ってあるじゃない?
ゆうぞう:うん、そんな気がしますわ。
一作:なんか引っ張られて行くみたいな。
ゆうぞう:うん、なんかありましたね。
CAYはご縁があってよう出たんですよ。
憂歌(団)でも行ったし、
ラジオアダン:サポート・パーカッションってことですよね?
ゆうぞう:うん、そうそう。
憂歌はボク5~6年はやってますよ。
あと、菊水丸さんでも行ったし。
ラジオアダン:そもそも、ゆうぞうさんのご出身は四国の徳島県。ですから、拠点として、大阪か京都、どちらかを選べる感じはあった訳ですよね?
ゆうぞう:ないよ、もうその頃は京都やもん。
ブルースの街だす。
ラジオアダン:そういうチョイスだったんですね。ウェスト・ロード(・ブルース・バンド)等に代表される。
ゆうぞう:そうそうそう。
まあ、憂歌は大阪やけど、京都だったからね、「拾得」とか「サーカス・サーカス」は。
ラジオアダン:その少し前に、村八分が作ったロックのサークルも強固に残っていたと思いますが。
ゆうぞう:あの辺は大分先輩ですね。
一作:あの山口冨士夫さんの本(『村八分』)は面白かったね。
中島らもさんの書き下ろし小説も収録されていて、京都会館?に主人公がいろいろキメて冨士夫さんを見に行くくだりが面白い。
ラジオアダン:らもさんは、冨士夫さんが大好きだったみたいですから。
ゆうぞう:らもさんも死んでしまった……。
一作:皆死んでしまう(苦笑)
ゆうぞう:オレは長生きしようと思うんやけどね(笑)
一作:ガハハハハ(爆笑)
うん、長生きしよう。
ゆうぞう:あと10年やりたいけどな、あと。
ラジオアダン:ゆうぞうさん、お幾つになられました?
ゆうぞう:今、59なんですよ。
一作:まだ還暦になってないの?
ゆうぞう:ええ、オレ早生まれだから、来年の春の3月で、
ラジオアダン:では、(松竹谷)清さんと同級生ですね。
ゆうぞう:うん、松竹谷と一緒。同級ですわ。
ラジオアダン:ブルースに憧れていたミュージシャンゆうぞうさんのもうひとつの顔として、芸人顔負けのエンターテイナーの側面がありますが、あれはやはり演芸とか小さな時からお好きだったからなんでしょうか?
ゆうぞう:いや、オレはジャンルを越えているから(笑)
一作:ハハハハハ(笑)
ゆうぞう:レゲエとかソウルとかR&Bとかじゃなくて、音楽と演芸が混じり合って当たり前と思っているから。
そういうのミュージックマガジン、中村とうよう直系やからね、もう(笑)
ラジオアダン:大枠が“大衆芸能”?
ゆうぞう:そうそう。「大衆音楽の真実」ですよ。
似たようなことミュージックマガジンの取材でも訊かれたんだけど、「1人ミュージックマガジン、1人ジャンクショップ」って云ってね、この間、マガジンにも記事書いてくれた安田くんも有名な趣味のレコード屋さんジャンクショップの店員だったんですけど、そこもええのばっかり。あらゆるジャンルのグッドミュージック集めてるところで。だけどちゃんと、そこが開店した時に行ったら“演芸”ってジャンルがあったんですよ。
ラジオアダン:素晴らしいお店ですね。
ゆうぞう:うん、素晴らしい。
「あ~、そうやな~」って思って。
一作:演芸だよね、演芸(しみじみと)
ゆうぞう:(急に視線が肴に移行)鰹は生姜やな。
一作:にんにくもあるよ。
ゆうぞう:これは痺れるね。高知に来たみたい(笑)
一作:三種ね。ずけと刺身とたたき。
ゆうぞう:わぁ~い(腕白っぽく)
高知に来たみたい!
これは美味い!
一作:この前の、てるりん(照屋林助)のBSの番組(『沖縄“笑いの巨人”伝~照屋林助が歩んだ戦後~』)見た?
ゆうぞう:ああ、チラッと見ました。
一作:あれ再放送も何度かやっていて、やっぱりいいよな~。
ゆうぞう:ええよね、全然。
てるりん先生も凄い昵懇にしていただいて。
泊るホテルが先生のお家のすぐ裏の方だったしね。
必ずてるりん先生のところに遊びに行って。「てるりん館」でもライブを2~3回やってますよ、ボク。
一作:へぇ~、そうなんだ。
ラジオアダン:ある種、ゆうぞうさんの目指すもののひとつの完成形みたいな方ですよね。
ゆうぞう:凄いね、ジャンルを越えてるもんね。
しかもメッセージもあるしね。
一作:沖縄行きの切っ掛けはやっぱりネーネーズ?
ゆうぞう:そうそう。
あんまり、だってオレ沖縄音楽なんて、キング(レコード)から出てるカセットの「定番沖縄民謡」っていうカセットテープと、それと~、
ラジオアダン:それ、ゆうぞうさんの初期の沖縄民謡のバイブルですか?
ゆうぞう:バイブルと云うか、一般教養として(笑)
一作:ガハハハハ(爆笑)
ゆうぞう:後は、……、久保田(麻琴)さんの「ハイサイおじさん」(久保田麻琴と夕焼け楽団名義 )を聴いて、喜納昌吉さんの曲だと知って。レコード持ってるのは「ブラッド・ライン/喜納昌吉&チャンプルーズ」だけだったから。「ブラッド・ライン」は痺れたね。「これはなんやぁ~~~~!?」。
ハイサイおじさんも久保田さんの聴いた時に、「うわぁ~~~~!!」まさか沖縄音楽するとは思えへんしね、その時は。面白かったです、あの時はほんまに。
今のオフノートの、
一作:神谷(一義)くん。
(新譜の『ボケない小唄』のクレジットを指しながら)神谷くんはこの作詞もしてたの?
ゆうぞう:それは「(民謡スナック)花ぬ島」の、津堅島出身の、神谷幸一さん。
メロディーはあれですよ、メロディーは、………、……、♪しーやーぷー しーやーぷー♪、(『赤田首里殿内/沖縄民謡』)
一作:有名な民謡としてある訳だ。
ゆうぞう:ええ、「赤田首里殿内」。
童謡の民謡。
一作:いいね。
ゆうぞう:♪しーやーぷー しーやーぷー みーみんめー みーみんめー
ひーじんとー ひーじんとー いーゆぬみー いーゆぬみー♪
♪あかたすんどぅんち くがにどぅーるーさぎてぃ♪
♪うりがあかがりば♪
あっ、出てこない(笑)
……、♪みるくうんけー♪
あっ、出てこない(笑)
それに、1番から3番までボケる唄で(笑)
一作:ボケない小唄、オレこのアルバムの中でも大好き、今回。
ゆうぞう:ええやろ!?
こんなのやってる奴おらんやろ?
一作:ええ(笑)
~お金とストレスためる人 知らずにボケますよ~
ここがいいよね。

ラジオアダン:ここまで異種交配しているゆうぞうさんの子供時分の原体験的な音楽って、一体なんだったんですか?
単純にビートルズとか?
ゆうぞう:いや、ビートルズは世代がね。ボクが中1の時が解散なんですよ。
中1の時に、「レット・イット・ビー」の映画が来て、テレビを付けたら、東芝のステレオかなにかの宣伝で。東芝(オーレックス)ICボストンのCMか?♪レット・イット・ビー レット・イット・ビー♪
ラジオアダン:時代背景はよく分かりましたが、ギターを弾いて唄うという行為を誘発したものというか、
ゆうぞう:それは、フォークや。
ラジオアダン:早い人はモダン・フォークの都会的な方から、アイビールックと一緒に入っていたりしますよね?
ゆうぞう:それはもっと先の、モダン・フォークね。
ボク等は関西フォーク。高石(ともや)や、岡林(信康)や、高田渡、で、五つの赤い風船。五つの赤い風船見に行った!もう!大阪まで。
ラジオアダン:ギターで若かりし頃の有山じゅんじさんも一時在籍していました。
ゆうぞう:最初ね。中学生の頃おったらしいわ。
一作:「遠い世界に」聴いて、ぼくはふるさとを出ました。
いや、ウソです(笑)
本当は浅川マキです。「夜が明けたら」。
ゆうぞう:そういえば、今日、有山くん「JIROKICHI」や。
中学校の時からギター凄く上手かったんや。
中学生やのに、「東京でコンサートや」とかゆうて、新幹線乗せてくれて、ギター、ビイィィ~~~~ンって弾いたら、……、(妙に溜めてから)お金もくれて、
一作:ガハハハハ(爆笑)
ゆうぞう:新幹線も乗れてお金もくれて、「絶対これやってくぅ~~~!!」だったんやけど、おとうさんが、「あかん!!」と。
高校1年まではそれやってたみたいやけど、それから、同志社香里(高校)やったから同志社大学。びっくりしたわ、有山くん同志社で、そんなもんインテリや。
で、(上田正樹と)サウス・トゥ・サウスや「ぼちぼちいこか/上田正樹と有山淳司」で出てくるまではやってなかったんですよ、それから有山くんは。
ラジオアダン:一時、完全に学業に専念していたんですね。
ゆうぞう:そうそう。
はたち過ぎるまであの天才がね。
一作:オレは関西のその辺のシーンは東京に来るまで知らなかった。
最初のクーリーズ・クリークで、賢さんと、三木(哲志)くんがそいうい音源持って来て知った。「へぇ~~~!」なんて思って。
あの2人は大阪に一時期いたじゃん。
ラジオアダン:「チャイハナ」時代。
一作:うん(笑)
おれ、その時の2人のことは全然知らないから。
クーリーの最初の料理長の小西くんもチャイハナ出身。
皆で上京してきた訳だね(笑)
ラジオアダン:そのチャイハナには、今で云うオーガニック系のメニューもあったんですよね?
一作:うん、玄米だとかね。
ゆうぞう:ああ、そういう流れがあるんやな~。
チャイハナはチャイハナで関西では十分に伝説残してるからね。
一作:でも、あれも結局は中野(“スペースマン”雅蔵)さんでしょ?
ラジオアダン:又しても、その段階で早くも中野さん登場!?
一作:中野さん、チカラあるね。
そこにいた、賢さん、三木くん、小西くんが核となってクーリーが始まる訳。
そこに、全然、関西ネットワークを知らないオレがひょこっといる(笑)
ラジオアダン:確かその前、一作さんは、当時の元祖裏原宿系の方達の方が近かったんですよね?
一作:うん、たまたまね(笑)
ゆうぞう:かっこええ(笑)
一作:ボブ・マーレーとか既にある程度浸透していたんだけど、そっちの方は皆目レゲエなんてなくて……。
そっちはやっぱり、ガッツンガッツンのロック、それかジャズだった。
そんな青年が、クーリーに入ったら、レゲエだなんだかんだ、ダウナーな音にまみれて(笑)そんな年の5月にボブ・マーレーが死ぬ。
ゆうぞう:81年ね。
◇◆◇◆◇
新譜への質問の回答は、巡り巡って、ゴトウゆうぞうの長き音楽の旅、~阿波踊り~ブルース、R&B~レゲエ、ラテン~河内音頭~沖縄民謡と膨大なタイムテーブルを駆け足で巡ることとなったが、ここで、一作が仕込んだタイムボムが炸裂する。
なんと、急な飛び入りゲスト!しかも、彼女も古都/京都からのお客様。
彼女とは、イベント、メインワークスのために上京中の、オーラソーマのスペシャリスト、今村仁美嬢(以下敬称略)である。
一作はもとより、アーティスト、ゴトウゆうぞうをよく知る今村仁美が飛び入りすることで、この後、紡がれるケミストリーがさらに先が読めない様相となる。
◇◆◇◆◇
今村仁美(以下仁美):こんばんは。
一作:おっ、ここで仁美嬢登場!(笑)
ラジオアダン:仁美さんはゆうぞうさんを当然知っていますよね?
仁美:勿論。わたしは存じ上げていますよ。
一作:この企画は適当にしゃべっていれば、(進行役を見ながら)君の同級生が勝手にまとめるから(笑)
※進行役と仁美は同じ美術学校出身
仁美:ハハハハハ(笑)
ラジオアダン:仁美さんも京都から来てるんで、京都話に脱線していってもいいかと?一作さんも京都は尋常じゃなく詳しいし。
一作:うん。
でも、その辺はもうちょっと後にしようか。
仁美:凄い素敵なお店ですね。
一作:でしょ(笑)
今、ゆうぞうと80年代の話をしていて、
でも仁美ちゃんは大分若いものね。
仁美:そうはいっても昭和38年生まれですよ(笑)
1963年。
一作:今、ボブ・マーレーが死んだ年まで話は進んだところ。
仁美:ああぁ…、わたしはまだ高校生でしたね。
一作:クーリー始めた年なんだよ。
仁美:クーリーはギリギリ間に合って、20歳くらいの時に行かせてもらっています。
●授がベロベロに酔っぱらっているの見ちゃいました(笑)
一作:まあ、●授に限らず皆ヘロヘロだったよ(笑)
細野さんだけはちゃんとしていて(笑)
ラジオアダン:だって、細野さんは飲まない人じゃないですか(笑)
一作:そうだっけ??ガハハハハ(爆笑)
ゆうぞう、仁美:ガハハハハ(爆笑)
仁美:とにかく、当時のわたしには、「おとなのお店ぇ~~!!」って感じでした(笑)
一作:12時過ぎると皆イッてたもの。
ラジオアダン:仁美さんは、屋形船を2艘出したs-kenさんの結婚式に参加しませんでしたっけ?
仁美:出てるよ。
ラジオアダン:1艘の船の方の総合司会がゆうぞうさんですよ!
仁美:あっ!そうだった!(笑)
ゆうぞう:2艘ある内の1艘がオレ(笑)
ラジイオアダン:わたしもゆうぞう司会の船の方でした。
仁美:その節は!(笑)

今村仁美氏
ラジオアダン:ゆうぞうさんも四国出身ですよ。
仁美:えっ、わたしも。高知です。
ゆうぞう:えっ、高知!?
はちきんじゃき?(笑)
※意:男勝りの女性
仁美:はい、じゃき、じゃき(笑)
ゆうぞう:ボク徳島なんですよ。
仁美:へ~、そうですかぁ~~~(笑)
なんか嬉しいな(笑)
ゆうぞう:高知、どこですか?
仁美:土佐清水出身です。
ゆうぞう:おお、渋いな~(笑)
仁美:渋いでしょ。
一作:何かあったよ、マンガに、
仁美:あったあった。
でもまだちょっと皆さんに付いて行けてないかも?わたし(笑)
徳島の徳島市ですか?
ゆうぞう:そうなんですよ。
仁美:じゃ~、もう、阿波踊りですね。
ゆうぞう:阿波踊りなんです。
仁美:ゆうぞうさんの新譜のイラスト可愛いですよね。
一作:黒田(征太郎)さんだもん。
あの絵は今回のために書き下ろしてもらったの?それとも昔のやつ?
ゆうぞう:あれは、去年、久々に大阪、ミナミに「KAKIBA/描場」ゆうて、ギャラリー、アンド、……、なんやろ?……、仕事場、アンド、……、事務所、アンド、なんかそうゆうのんをやったちゅうので、久々やったから挨拶しに行ったんですよ、黒田さんに。「ご無沙汰してます」ゆうて。
その時に、「ご無沙汰してる間にこんなCD出しました」って、CDあげたんですよ。「2枚も出していたんですよ」ゆうたら、「おお、ありがとうありがとう、ほならちょっと待ってくれる?」。
サラサラサ~ラのサ~ラサラで描いて「持って行って」っていうから、「いいんですか!?」、「いいよ、君CDくれたや。これ物々交換や」。
一作:素晴らしい。そういうことをね。
やっぱ、芸能とか酒場とかに優しいの。征太郎さんは勿論、長友(啓典)さんも優しい。K2はね、そういうところがよかった。
アダンの看板も全部、征太郎さんに頼んだしね。一銭も取らないんだから。
ゆうぞう:へぇ~~、ほんま!?
今回もこれ、「ええの!?ええの!?」って言うから、「オレの方が絶対得やん」って言ったら、「そうか??」って。
で、その後、レコーディングが始まって、大体レコーディングが進んで行くに従って、「ジャケットどうしようかな~」と思って、前は自分で描いたんですよ。だから、「今度も描こうかな~?」と思うてたところ、パチッ!(手を叩く音)、「ええのあったやん!!」。
一作、仁美:ガハハハハ(爆笑)
ゆうぞう:また、黒田さん。
なかなか大阪こないんですけどね、今、小倉におられるから。
一作:門司港でしょ、今は。
オレ、初見は、「ゆうぞうがまた描いてるな」と思ってよく見たら、“KU”ってサインしてあるから、「これ、征太郎さんなの?」なんて思って。
ゆうぞう:で、行って、「黒田さん、この間、描いてもろったやつ、CDレコーディング中やけど、このCDのジャケットに使わしてもろってもええですか?」ゆうたら、「そんなん、描いたかな??」ゆうねん。
ガハハハハ(爆笑)
一作、仁美:ガハハハハ(爆笑)
ゆうぞう:「今、持っとるか?」ゆうから、こう出して、「あっ、おうおうおう」ゆうて、「ほならな、CDのジャケットならちょっと寂しいから」ゆうて、この口から出てる音符に、色、ちゃちゃちゃ着けて。
一作:それいつ?
ゆうぞう:それは、……、去年の今時分ちゃうかな?
それで、「黒田さん、こっち(ギャランティー)の方は?」ゆうたら、「ええよ」って、
一作:ああいう人達はね、なんか飲み屋と芸能に優しい訳。
だからオレも結局、申し訳ないからK2のパーティーの時なんかに泡盛を1ケース贈ったり(笑)後、ともさん(長友啓典)は亡くなる前はこの辺に住まわれていたからよく来てくれたり、一時持ち直した時は快気祝いをクーリーの3階でやったり、色々と親交があった。
訃報を聞いた時は正直きたね……。
ゆうぞう:オレもショック……。
憂歌やっていた時にどっかに長友さんがこられて、なんかそんなんで、黒田さんK2のお金で年間かなり飲むんやって(笑)
一作、仁美:ガハハハハ(爆笑)
ラジオアダン:流石に黒田さんが若い時の話ですよね?
ゆうぞう:若いいっても30、……、35年前くらいの話かな?
黒田さんに長友さんが、「こない飲んでもろったら…」。
1年で結構飲んだらしいから、
で、「いや、オレはね~、こうやって気持ちよく飲むために仕事やってるんや!好きにさせてくれ!」、
一作:まあ、でもさ、あの2人の関係は素晴らしいと思うよ。
ゆうぞう:うん、素晴らしい。
一作:ともさんもアーティストだから。でも、どっちかって云えば、ともさんの方がプロデューサーが出来た。
ゆうぞう、仁美:ああぁ(同時に)
一作:征太郎さんは、まあ、K2のアイコンみたいなもんだから。
仁美:わたし、20歳くらいの時、K2に、あがた(森魚)さんのお仕事でちょくちょく行っていて、その時、拝見していた長友さんのお姿がいつも素敵で、
一作:おれも長友さん大好きだよ。
ゆうぞう:かっこええですな。

一作:ちょっと口はばったいけど、オレと賢さんの関係みたいなものだったのかもしれない。
今だから言うけど、K2目指していたところもあったからさ(笑)飲み屋版の“K2”ね(笑)
賢さんはあんまり数字考えなかったから(笑)
オレも数字なんて考えたことはなかったけど、なぜか経営やるはめになってしまった。ダメダメな経営者ね(笑)
ゆうぞう、仁美:ガハハハハ(爆笑)
一作:でも賢さんのスペシャリティーもまたあったから。
ラジオアダン:簡単な対比で恐縮ですが、賢さんが黒田さんで、一作さんが長友さんって感じですか?
一作:うん。
ああいう巨匠2人にたとえるのはおこがましいけど、まあ、長友さん、天国で笑ってるでしょ。
賢さんが亡くなってもう2年だけど、敢えてあまり触れないでいたの。やっとかな、話せるくらいに整理出来たのは。
ゆうぞうも知り合うのはオレより賢さんの方が早いもんね。
ゆうぞう:旧クーリーズでライブしましたから。
一作:菊水丸はやった!?
ゆうぞう:いや、アスワドの前座で菊水丸さんと東京に来た時に、それだけではあれちゅ~ので、クーリーズで。
一作さんはもういなかったね。
一作:「スワミ」に移動した後だったと思う。
でも、その時代に、だって80何年でしょ?
ゆうぞう:アスワドが来た時ですよ(笑)
※1984年
一作、仁美:ガハハハハ(爆笑)
一作:アスワドと菊水丸とのジョイントってのは凄い。多分、三木くんも多少その企画に絡んでいたんじゃないかな?
ゆうぞう:アスワドのメンバーに、「おつかれさん、よかったよ」って(笑)
一作:おれ、後楽園(ホール)でそのライブ見たよ。
ゆうぞう:そう。
アスワドの奴に「明日、クーリーズでやるからこいよ」って誘ったんですよ。
ラジオアダン:では、ゆうぞうさんは既にスタッフの、賢さん、三木さん等とは面識があった?
ゆうぞう:後ですね、「あの時におおた」となったのは。
一作:まだ、その頃のレゲエ絡みのイベントはアイランドが関わってた?
ゆうぞう:かな?
前座がPJと菊水丸だったんですよ。
PJは、その頃ソニーで宣伝していて、飛ぶ鳥を落す勢いで、♪ナッティナッティビー おいでよここ~へ♪って、
まだ子供だったけどオレより大分背が高かった(笑)
一作、仁美:ガハハハハ(爆笑)

◇◆◇◆◇
思わぬ展開で、“K2”を経由した、夜の文化の不文律?仁義?人情?に行き着いたが、ここで本日の本題とも云える、一作とゆうぞうがガチンコで音楽を媒体に交わったライブシアター「新世界」時代の話を聞かない訳にはゆくまい。
レギュラー的には東京で、略見れずにいたゆうぞうのフルバンドでの極上のソウルショーを定期開催するにあたり、突き当たった一作の苦悩とは?
◇◆◇◆◇
ラジオアダン:ゆうぞうさんは数少ない三田「アダン」でもライブをされた方のお一人ですよね?
ゆうぞう:やってますね。その頃、弾き語りを始めたんですよ。バンドが中々皆、
いっさく:そういいながらも森扇背(ベース)、マキちゃん(ギター)の3人でもやったよね。
ゆうぞう:ユニット的なね。
ラジオアダン:新世界を始める際の一作さんのモチベーションには、「ゆうぞうはフルバンドでのライブが最高なんだ」とよく言っていたことも当然含まれますよね?
一作:うん、大いにあった。
やっぱりフルバンドで定期的に東京でやってもらって、東京の人達にもゆうぞうたちのショーで楽しんでもらいたかった。
まあ、実際に関西から来るって、(大西)ユカリちゃんもそうだけど、あの大所帯で来るって、バンマスとしては経費的に大変なんだよ。
ラジオアダン:しかも、ゆうぞうさんのバンドメンバーは皆手練だらけで、それをまとめるだけでも相当のリーダーシップが要求されます。
ゆうぞう:バンドはやっぱりチームやから、上手な奴を現地で集めてじゃ出来ないもんがやっぱりあります。
長いことやってて、「これかい!?!?」ちゅうのもあるんだけど(笑)
ラジオアダン:ゆうぞうさんのフルバンドをレギュラーで組んでいるのも、新世界の一つのアティチュードとして早い段階で認知されました。
一作:ねっ、楽しかった。
あのキャパでいくら入ったって身入りは知れてるから、今だから話すけど、関西からの人達は全員じゃないけど、ホテル代と交通費を別に支給することもあったんだ、オレのポケットマネーで。そのうちだんだんポケットが無くなってきた(笑)
ゆうぞう:それは、ものすご~ありがたいですよ。
ラジオアダン:それも難しくなると、東京のバンドと合体作戦に出ましたね(苦笑)
一作:ハハハハハ(笑)
そりゃ~もう、大変だから(笑)
ユカリちゃんを例に話すなら、ユカリちゃん1人の諸々の経費をこっちで計上して、東京のガールズグループのズグナシとカップリングでやってもらったりね。
ラジオアダン:ゆうぞうさんも後半は東京セッション的なものもありましたね。
ゆうぞう:うん、一遍、セッション大会ね。
東京の連れ集めて。
一作:そうやって色々考えるんだけど、でもやっぱりね、普段からやってるバンドの方が、
ゆうぞう:そうそう。
一作:全然いいのよ(笑)
それはユカリちゃんもそうなんだよな。
ゆうぞう:たんまにやるのはね、刺激があって楽しいですけどね、やっぱり普通のあれせんとね。
仁美:新世界、……、結局、何年やったんでしたっけ?
ラジオアダン:実際の運営は5年5ヶ月でしたが、準備期間を入れると約6年ですか。
仁美:凄いですね、一作さん。
一作:CAYの頃はバブルだったから、スポンサーもついて、それはそれでやりたいことが一杯出来たよ。でも、新世界の場合は、自分達の自力で箱をキープしたかった。
仁美:元シアター自由劇場ですものね。
一作:縁は多少あったけど、たまたま空いて話があったからやっただけとも云えるけどね(苦笑)
まあ、あの6年は百倍楽しかったけど、百倍苦しかった(笑)
ゆうぞう、仁美:ガハハハハ(爆笑)
一作:(進行役に向かって)ねっ、やめる3年くらい前から、桜の時期には決まって彼と五反田駅で待ち合わせて、目黒川沿いの桜を見ながら2駅歩くのが恒例になっちゃって。うちの会社って6月決算だから、だいたい4月くらいに、
ラジオアダン:花見の時期が、経営者として一番シビアに会社を見つめ直す時期と重なるんですよね(笑)
一作:そうそう、「新世界どうしよ~かな~、……」って、いつもその時期に迷う訳さ(笑)
仁美:切ないけど、なんかいいね(笑)
一作:「おい、どうする。オレもう一杯一杯なんだけど……」なんて言ってたら、彼が、「もったいないですよ、もう1年やりましょう。スポンサーも探してきますから」なんて返すんだけど(笑)で、「分かった、なんとか続けよう」なんて言って継続することになる。で、彼が捕まえて来たスポンサーはスポンサーなんてしろものじゃなくて、単なるオレと彼の友人(笑)でも、皆が毎月5万円づつカンパしてくれたり。凄くありがたいことだった。
そうやってギリギリのところで最後の3年は運営したんだよ。
ラジオアダン:仁美さんは、確か(山﨑)ハコさんを見にきてくれましたよね?
仁美:ハコさん!行った行った。よかったよ、もう~。
わたし感動したもの。
ラジオアダン:ゆうぞうさんはハコさんはお知り合いじゃないですか?
ハコさんは俳優の原田芳雄さんと親しかったので、それこそ黒田征太郎さんが壁画を描いた、西麻布の業界バー「ホワイト」辺りでお会いしていても不思議ではないはずですが。
ゆうぞう:いや~、お会いしたことないですし、ホワイトも行ったことないです。
一作:ホワイト知らない?
ママのミーコさんが亡くなって店も今はもう無いけどね。
京都にもそういう場所があると思うけど、云うなれば、業界人が多く集まるゴールデン街の「クミズバー」の西麻布版かな?
ホワイトは元々は、
ラジオアダン:四谷にあってゴールデン街「カボシャール」の(黒岩)奈美さんも働いていたんですよね。
仁美:奈美さん!
一作:(急に、再度、新譜のジャケットをまじまじと眺めながら)ゆうぞうのバンド以外でのもうひとつの柱っていえば、やっぱり阿波踊りになるのかな?司会とかやってなかったっけ?
ゆうぞう:阿波踊りはもうずっとやってるんですよ。生バンドの阿波踊り。
徳島出身のミュージシャンの人、並びに在住が集まって。鳴り物は皆でやって。一番多い時は30人くらいは来るんですよ。ずっと永遠と。正にその(ジャケット写真の)場所なんですけど。広い所で。徳島市の新町橋という橋の袂の広い所でボクらの連がこの辺にバァ~っとおって。「皆、勝手に踊ってください」と、踊り広場みたいな。
一作:いいよね、凄いよね。
ゆうぞう:で、19年前にPAが登場したんです。インストの演奏だけだったところにPAが登場して、「ほなら、ゆうぞうくん唄えぇ~~~!」ってことになって、適当に唄っておったら、やっぱり唄が入るとブォ~~~~!、バコォ~~~~ン!っと盛り上がって、それから毎年歌い手になった訳なんです。
仁美:凄いぃ~~~、行きたぁ~~~いぃ。
ゆうぞう:是非。
それが人生のメインなんです。
毎月10日の拾得と、毎年、8月12、13、14、15日の阿波踊りがメイン(笑)
一作:昔はそれプラス、(ジャパン・)ブルース(・アンド・ソウル・)カーニバルの司会ね。
ゆうぞう:あれは、27年やりましたから。
一作:無くなっちゃったのは残念だよな……。
ゆうぞう:主催者のやりたい気持ちは満々みたいなんですけどね。
M&Iカンパニーさん。
いかんせん、カーニバルのメインになるようなアーティストが、
一作:皆死んじゃってるもんね。
ゆうぞう:そうなんですよね……。
◇◆◇◆◇
楽しい時間はあっという間に過ぎて行くもの。
ゆうぞうの新作リリースと上京を発端とした今回の酔談も、寂しいが、そろそろ終宴の時を向かえる。
しかし、ここで急展開!
いつもの社交辞令も薄ら混じった再会の約束とは違い、今回は具体的な形で再会の約束を3人(進行役を含め実際は4人)が交わすこととなる!
約束の日は、本年、9月26日火曜日。
場所は勿論、京都!
◇◆◇◆◇
一作:話を戻そう。
京都だとそういう文化人的な人が集まる老舗ってどこになるの?
ゆうぞう:どこだろうな~?……、オレもあんまり、……、
一作:ゆうぞうに連れて行かれて気に入った店って結構あるけどな。
ゆうぞう:おもしろいでしょ、割と。
一作:まあ、タコちゃんの店(『アルファベット・アベニュー』)もそうだけど、
ラジオアダン:仁美さんはタコさんの店は行ったことありませんか?
仁美:京都はまだまだ全然。
まったく奥の間の手前です(笑)
一作:(ゆうぞうに向かって)実は、9月に進行係のエンドウソウメイくんが京都で、本業とも云える絵の個展をやるの。
ゆうぞう:えっ~~!おめでとうございます!
ラジオアダン:ありがとうございます。
一作:で、仁美ちゃんがその企画のプロデューサー。
ゆうぞう:おお。で、どこでやるんです?
仁美:法然院です。
ゆうぞう:おお、かっこええ!!
仁美:是非、ゆうぞうさんもご協力お願いします。
一作:そうそう、それでゆうぞうにお願いしたいんだけど、初日が26日?
仁美:そうです。
一作:レセプションパーティーをやるんで、軽めのライブをお願い出来ないかな?
仁美:ゆうぞうさん、9月26日の火曜日です。
ゆうぞう:はい、多分、絶対大丈夫だと思います(笑)
仁美:わ~い、やった~!
ところで、「ブランカ」にはゆうぞうさんは行ったりしますか?
ゆうぞう:ええ、割と行きます。
ラジオアダン:一作さんのご親戚がやられている京都の大繁盛店ですよね?
一作:姪っ子がテツの嫁だよ。
※ テツ/「ブランカ」のオーナー。
仁美:そうなんですよね、びっくりしちゃった。
一作:ありゃ~、バカ夫婦だね(笑)
ゆうぞう、仁美:ガハハハハ(爆笑)
仁美:お店、流行っていますし、お料理も凄く美味しいですよ。
ゆうぞう:なんでも大爆発みたいですね。
仁美:予約が取れないですもの。
一作:大したことない、大したことない(笑)
ゆうぞう、仁美:ガハハハハ(爆笑)
一作:増長するからあんまり誉めない方がいい。
ダメダメ、まだダメ。
ゆうぞう:全然違う連れからもね、「行ったら、ゆうぞうのCDがかかっとって」、「ええっ、行ったんかいな!?」ちゅうて、いや~、有名店で。
仁美:いつも混んでいて凄いですもんね。
一作:てか、入れないって云うか、
ただ狭いだけでしょ!?
(進行役に向かって)これ、絶対に書いといてね!
ゆうぞう、仁美:ガハハハハ(爆笑)
ゆうぞう:でも別館が出来たから、
仁美:わたしは、ご夫婦のことは全然知らなくて、カメラマンの野口さとこちゃんの紹介で自分企画のレセプションパーティーのケータリングをテツさんにお願いしたのが最初です。
一作:テツに、……、……、あれオレの親戚になっちゃうからね。
テツがオレのところで働いている時に、姪っ子が上京して来て、「お前、姪っ子だけには手をだすなよ!」って釘を刺しておいたの、「怒るぞ!!」っと。
そしたらさ、そういうはめになっちゃって(笑)
仁美:ハハハハハ(笑)
言ったが故に逆に出たと(笑)
一作:だから、テツはオレの言うことなんでも聞くから。
9月のレセプションの時に、「100人分ケータリングしろ!」って言っといて(笑)当然、ボランティアでね(笑)
仁美:それ、わたしが言える訳ないじゃないですか!(笑)
一作:ダメダメ、絶対言っといてね(笑)
仁美:でも、ちょっと言ってみちゃおうかな?(笑)
一作、ゆうぞう:ガハハハハ(爆笑)
一作:じゃ~、レセプションのライブも飯も決まったところで、次回は京都でまた会いましょう!
今日は忙しいとこと来てくれてありがとう!
◇◆◇◆◇
早秋、京都での再会が決まった3人。
出会う場所は伽藍というレアなセッティングに、所狭しと飾られた描き起こしの絵画群。
そんな純化された空間で奏でるゆうぞうのピュアな音色は、場に生命力という別種の生の活力をもたらすのであろう。
そして、今夜の宴の最後に、更なる複数の在京レジェンド・アーティストの名も追加投入として一作の口から漏れてはいたが……、
そんな先のことは誰も分からない。
なぜなら、人生の殆どの出来事なんて酔っぱらいが酒場で夢想したことを、神様が空模様に沿って暇つぶしにチョイスしているだけだから。
とぅ・びー・こんてぃにゅーど
@泉岳寺「アダン」
テキスト、進行:エンドウソウメイ
写真:門井朋
●今回のゲスト

ゴトウゆうぞう/プロフィール
ミュージシャン、エンターティナー、サウンドプロデューサー&博愛主義者!!
徳島生まれ、京都産業大学軽音楽部卒、京都市左京区在住。1970年代中頃、関西BLUESムーブメントにあこがれ上洛!!1979年に、ヤマハ「8.8ロックデイ」ロックコンテストにて、優秀バンド賞に輝きデビュウ。以来、様々な楽器、スタイルで、塩次伸二、クンチョー、河内家菊水丸、憂歌団、上田正樹、上々台颱、初代・桜川唯丸、ネーネーズ、知名定男、ディアマンテス、大島保克、大工哲弘、照屋林助、登川誠仁、西岡恭蔵、三波春夫、都はるみ……等々等々、大量のレコーディング、ツアー、セッションに参加。(だいたい出会った(演った)順。
現在、日本最古のライヴ・ハウス「拾得」で、毎月10日、マンスリー・ライヴ「ゴトウゆうぞうshow(※)」を中心に、あっちゃコッチャで独自にBand活動、ソロ活動をやっております。
※ 8人編成の大バンドです。2006年~ロング・ラン公演中。
☆ 毎月(不定期)KBS京都ラジオPM5:15~5:45
「レコード室からこんにちは」選曲(セレクター)&DJ担当
☆2000年より、沖縄音楽の第一人者、知名定男氏の「チナ・サダオ楽団」、「楽天ワールド太鼓」に在籍中。また、1985年より、ズっと、日本最大、最長を誇るBLUES&SOUL音楽の一大イベント
「JAPAN BLUES & SOUL CARNIVAL」の司会進行担当、なんと27周年!!
日本唯一のBLUES司会者と言われているのだ!! 近年は、ミュージシャンとしても出演。オープニング・アクトと、ラストセッションで「ジョニー・ウィンター氏」とも共演!!
★ ゴトウゆうぞう最新作★

「ぼくらは、ファミリー!/ゴトウゆうぞう」
レーベル/Pヴァイン・レコード 価格/2500円(税込)
※Amazonからもご購入できます。

今村仁美/プロフィール
高知県土佐清水市出身
スターポエッツギャラリー株式会社代表、オーラソーマモバイル株式会社取締役、英国オーラソーマカラーケアシステム®コンサルタント&ティーチャー、ARTイベントプロデュース及びアーティストマネージメントエソテリックワーク・オーガナイザー。
2002年~2015年 オーラソーマスタジオ&画廊、スターポエッツギャラリーを東京三宿にて運営。
2015年に京都に拠点を移す。2017年5月東山より千本丸太町に移転し、スターポエッツギャラリーを再オープンする。
自らもセラピストとしてのプロセスを実践しながら、ARTとスピリチュアリティの現在を探求している。
オーラソーマを使った、個人のための歌を作る音楽制作ユニット“Ray Neiro”に参加。
セラピーのワークショップでは、DJの経験が全てに生かされると実感。
創造性を回復させる様々なクリエイティブなエクササイズや瞑想を実験的に取り入れている。

河内一作/
山口県生まれ
八十年代から霞町クーリーズクリーク、青山カイなど常に時代を象徴するバー、レストランの立ち上げに参加。九十年代、仕事を辞め世捨て人となる。
六年間の放浪生活の後社会復帰し、アダン、青山タヒチ、白金クーリーズクリーク、音楽実験室新世界、奥渋バー希望、南洋ギャラリー、など手がける。お楽しみはまだこれからだ。
黄昏ミュージックvol.8 ソウリパ/サリフ・ケイタ
本年6月17日、80年代後半、恵比寿五叉路にあった今や、“伝説のバー”と称される、とあるDJバーのトリビュートイベントが「バー黄昏」で行われた。
そのバーと、店舗面積的には略同様の黄昏ではあったが、主催者の脳内シュミレーションとは別に入りきれない程の集客で、スタッフもてんやわんやの一夜となった。
創設メンバーの1人でもあった筆者は、“自身の価値基準より他人の評価が高いということが現実世界には起こりえる”ということを改めてそこで知るのであった。
さて、当日は、「往年の常連も多く顔を出すであろう」と、当時の人気曲も多く持参したが、“今”の意識も強く、“過去5、今5”くらいの配分での選曲。そんな中、当時を強く思い出す1曲をどうしてもかけるタイミングが測れず、その曲調も正に“黄昏”していることもあり、今回の黄昏ミュージックはその楽曲にさせて頂く。
音楽大国西アフリカ/マリが生んだ世界的シンガーソングライター、サリフ・ケイタのメジャー初アルバム「ソロ」から、飛び抜けたスケール感を誇るバラード曲「ソウリバ」。
当時の“ワールドミュージック”というジャンルを強く感じさせる、過剰に人工的なシンセの音色と打ち込みトラックに絡み付く人間の根源をも感じさす純ヒューマンボイスの対比が、この時代のレアな土産物であり、サリフ・ケイタの真骨頂でもある。
あの時代の恵比寿は、この曲が似合う程に、ナチュラルに無国籍なサイバー空間であった。(se)
『ArtShow Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』 (通称Beatles展)
参加作家名(順不同)
SpecialGuest
Shinpei Asai 浅井慎平(写真家)7月15日までパネル展示してくださいます。
Dabstar ダブスター(コラージュ二スト)/Asami Maruyama まるやまあさみ(刺繍作家)/Mamoru Ohtake 大竹守(イラストレーター)/Naotaka defoe ntk Tateyama デフォーNTK (グラフィックデザイナー)/Yushi Dangami 團上祐志(画家、武蔵美油科学生)/Satomi Matsumoto松本里美(版画家、音楽家) /Kohei Shioi 塩井浩平(イラストレーター)/Amane Yamamoto 山本周(グラフィックデザイナー、コラージュニスト)/Keiko Nasu 那須慶子
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OpeningEventを6月26日月曜日19:00~開催
ワクワクするような貴重なお話と展示、普段この価格では頂けない丁寧で美味しいお料理をお楽しみ下さい〜。いらしてね〜♡
Talk2000円+お食事ブッフェ形式2000円+Drink
東京都 港区白金1-2-6
お申し込みは
Coolie’s Creek クーリーズクリ−ク
または
nicekeiko@gmail.com
までよろしくお願いいたします。当日フラッとも大歓迎です〜。
Talk
🍏 藤本国彦さん(ビートルズ研究家「ビートルズ・ストーリー」編集長/編集者/ライター)
🍏 野口淳さん(ビートルズ資料館学芸員)
🍏 朝日順子さん(翻訳家)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
LaptopDJ
🍏 梅田武志さん(THAT’S ALL RIGHT 総合ディレクター)
「連載対談/『酔談』vol.5」ゲスト:橋本浄氏、片岡一史氏 ホスト:河内一作
“酔談”。見ての通り、酔って語らうこと。当然、造語である。
酔っているがゆえの無軌道さ、無責任さ、大胆さ、自由さをそのまま気取らず飾らず実況する、それが「対談連載/酔談」の全てである。
アダングループ代表、河内一作が東京の夜のフロントラインに初めて立った、1981年の「クーリーズクリーク」から現在に至るまで、彼が関わった店が、単なる飲食店におさまらず“自由なステージ”としての酒場の背景を演出出来えた“要”ともいえる大切な友人達を毎回招き、テーマなしのゼロベースから美味しい酒と肴の力を借りつつ今の想いを語り尽くすトークラリー。
さて今回のゲストは、ここ数年、紙媒体、ライブ空間等、多様な形で河内一作と至近距離で交わって来たお二人、独自の地球に優しいクロージングをいち早く打ち出し、サスティナブル、野外フェスシーン等を中心に多くのファンを持つブランド、ゴーウェスト/ゴーヘンプの橋本浄氏(以下継承略)と、同様の土壌でスピーカーとして長くフリーメディア(『ライスペーパー88』、『Lj』等)を刊行し続けてきた、発行人、カメラマンの片岡一史氏(以下敬称略)をお招きし、数えて第5回目となる身内色強いコアなトークセッションをお馴染みの泉岳寺「アダン」特別室で決行。
実に多くの時間を共有してきた3人だが、意外や意外、その出自やルーツを語り合ったことは皆目無いらしく、まずは、橋本の自然環境に着眼したもの作りの萌芽とも云える、ティーンエイジャー時代の話からセッションはスタート。
と言いながらも、長き確かなキャリアを持つ彼ゆえ、大河ドラマにも匹敵する広大なタイムラインが横たわる。急ぐ旅でもあるまい、ここはゆっくり聞かせてもらおう。
キーワードは“サーフィン”。
◇◆◇◆◇
河内一作(以下一作):じゃ~、まずはなにか頼もうか?
橋本浄(以下橋本):それにしてもこの3階のスペースはいいですね。
一作:ここいいでしょ。
凄く人気が高いんだよ。
橋本:来週の火曜日、うちの嫁さん達が、マクロビ(オティック)系女子会!?(笑)で、来るとのことです。
一作:ホント?
橋本:ええ、2階を予約したみたい。
一作:火曜、俺、都内にいたかな?
いたら乱入しようっと(笑)
橋本:あんまりキツいツッコミを彼女達に入れないでくださいね(笑)
一作:あれ、オレの愛情表現だから(笑)
今日もかっちゃん(片岡一史)が来たら、「なんで『88』なんてベタなオーガニックなことやってたのよ!」なんて攻めちゃおうかな?なんて思っているんだから(笑)
橋本:で、これは文字原稿としてネットにアップされる訳ですか?
一作:まだ、過去の記事は見てない?
橋本:軽く拝見しました。
一作:「アダンラジオ」で検索したら、沢山出るから見てね。
橋本:分かりました、今度ゆっくり見てみますね。
片岡一史(以下片岡):遅くなってすいません(片岡、撮影機材を抱えて到着)
ラジオアダン:到着早々にすいません。一作さんと橋本さんの写真は片岡さんに撮っていただいて、片岡さんは、不肖、私が撮って、最悪フォトショップで修正する?なんてことでご承諾頂けますか?
片岡:いいですよ。
(早々に撮影準備に入る)
一作:食べて飲んで終わりだから、気楽にね(笑)
橋本:ガハハハハ(爆笑)
一作:(進行に対して)まとめはよろしく!
ラジオアダン:ハハハ(苦笑)
橋本:今回は、身内度高くてやりやすいでしょ?(笑)
ラジオアダン:ここまで至近距離の人選だと、逆に難しいです(苦笑)
片岡:(一旦作業を止めて)あっ、そうだ、ボクも少しネタを考えてきたんですけど。
ラジオアダン:流石、片岡さん!
片岡:どこかで、88の話をすれば、橋本さんも一作さんも立ち位置は違えども、コアに関わられていたのでいいかなと?
ラジオアダン:それいいですね。
あと、同じく2人共通というところで、橋本さんも片岡さんも、オリジナル「新世界」で主宰イベントを開店から最後までずっとやっていただけた方々という側面で話していただくとか?
一作:うん、それもありだね。
88の主題であった、オーガニック、継続可能社会に関しては、いたずら心からだけど、オレ、相当いじりたい(笑)
片岡:ボク、そもそも88創刊前は、橋本さんとお会いしたことがなかったんです。
ラジオアダン:ボクの記憶だと、この辺の人脈と、橋本さんが急接近した切っ掛けは、(佐藤)こうきさんじゃなかったですか?
橋本:いや、違うよ。(中村)鉄平くんでしょ?
ラジオアダン:ええ、実際に一緒に飲んだりなんてのは鉄平さんがセッティングしていたけど、メディア対スポンサーの関係を築いたのは、当時「バランス」編集部にいたこうきさんではなかったですか?
橋本:うん、そういう意味ではそうですね。
原宿の「マジック・シアター」(ジュエリー工房兼ショップ)の平沢さんの紹介でうち(イエローデビジョン)にこうきくんが来て。
片岡:成る程。
一作:あの頃、もう橋本くんはブランドも会社もやっていたんだね。
今でどのくらいになるんだっけ?
橋本:会社的には29年目です。
一作:えっ!?そんなにやってるの!?
橋本:ええ、決算はね。
関西時代はまだ雇われていて、東京に来て2年経ったところで友人と一緒に会社をやりだしました。
一作:関西にもいたの?
オレ、知らんかったよ。
橋本:2年間。
一作:そうか、だから憂歌団とかその周辺と親しいんだ。
橋本:関西のそこそこ名のある人達とはつるんでいましたね。
繊維業界で云ったらエビスジーンズの今の社長等ともお付き合いさせていただいていました。
一作:関西は狭いからね(笑)
その時代はどこに住んでいたの?
橋本:森ノ宮です。
一作:うちの渋谷「おふく」の料理長、(藤村)節ちゃんが森ノ宮だよ。
橋本:そうそう。先日、その話、節さんとしました(笑)
びっくりしましたよ(笑)
一作:で、本当のルーツは佐賀県だよね?
橋本:ええ、佐賀ですけど、元々、大阪に本社がある福岡の会社にいたんです。
要は大阪本社の九州支店に勤務していた訳です。
一作:あれ、どうもこんがらがってきた(笑)
大阪生まれな訳だよね?
橋本:いやいや(笑)
ボクは九州の鳥栖という所で生まれた佐賀の田舎者で(苦笑)、まずは博多に憧れて、博多の高校に行ったんです。
一作:その辺から話してよ。
オレ、思えば橋本くんとかれこれ付き合ってるけど、全然その頃のこと知らないから。
橋本:はい。
ですから、九州の田舎者がキャロルに憧れてギターを弾きだして、コピーバンドなんかもやりだす訳です。
音楽環境も酷くて、FMが2局しか入らない土地柄(笑)NHK・FMと福岡FM。
一作:鳥栖ってそんな感じなんだ。
橋本:ええ、それもチリチリしたノイズが入って(笑)一生懸命チューニングして録音する訳です(笑)それが唯一の音楽情報。
一作:正に佐賀だ(笑)
橋本:「FMレコパル」を教科書にしてエアチェック。
一作:日本で一番地味な県なんて呼ばれ方もするものね。
橋本:地味だと思う。
一作:慣れ親しんだ海は有明海になるのかな?
橋本:違います。
久留米のちょっと上になりますから、海はないんです。
福岡県と隣接した場所。
一作:うん、それは知っている。
橋本:今は流通の拠点として有名ですね。
九州でメインのJRとインターチェンジが入り込んでいる所ですから。
一作:博多から長崎に行くのに、
橋本:鳥栖を通るでしょ?
一作:つばめだよね。
つばめで鳥栖経由。
橋本:鳥栖が北南、東西と九州のJRの拠点なんです。
一作:九州はいいよね。
橋本:先日、甥っ子の結婚式で帰郷して、鳥栖駅のかしわうどんを久しぶりに食べました(笑)美味しかった!
※かしわ=鶏肉
一作:かしわめしもあるよね。
ちょっと肉を甘目に煮たやつ。
橋本:そうそう。鶏肉をうどんに入れると肉うどんじゃない?それを九州ではかしわって言うんです。それにプラスごぼてんが入っている。
一作:あれ、じわっと出汁が染みていて美味いよね。
橋本:かしわうどんの話でボクが一番心に残っているのが、亡くなられたシーナさんと横浜の「サムズアップ」で御一緒させていただいた時。
ボクが「鳥栖出身です」って言ったら、「鳥栖のかしわうどんは美味しいわよね」って言ってくれた(笑)ミュージシャンも皆、鳥栖で乗り換えするからよく知っていたんでしょうね。
一作:シーナさんは九州なの?
橋本:そうですよ。
(福岡県北九州市若松区出身)
一作:そうだったんだね。

河内一作
橋本:鮎川(誠)さんは久留米出身で、九州大学卒業ですよね。
ボクは高校から福岡の東にある大学へ行って、そこが海の近くということもあって、サーフィンをやるようになって、
一作:海はどこになるの?
橋本:日本海。玄界灘です。
たまに小倉の方にも行ったりして。
一作:長崎の海には行かないの?
橋本:台風の状況によっては長崎にも行きました。
その辺の九州の海は、大袈裟ではなく、ボクらが開拓者だったと思います。
一作:いくつ頃?
橋本:19歳かな~?
大学に入ってからだから。
高校の頃は、西鉄グランドホテルやニューオータニでボーイのバイトをしていて、その時、テーブルマナー等を覚えました(笑)
で、コックさんがに凄く憧れて(笑)
一作:高校時代は悪かったんじゃないの?(笑)
橋本:悪くはないですよ(笑)
一作:喧嘩三昧だったとか?(笑)
橋本:ボクはピースですから(笑)
他人を殴ったことなんてないですよ。
で、コックさんに憧れて、通っていた高校のサッカーで有名な先生に相談したら、「コックはやめとけ!」って(苦笑)。
まあ、拒否されて、大学に行ったんですけど、あの時その道に進んでいれば、後のグルメブームと丁度タイミングが合ったんですよね。
一作:オレがプロデュースしたレストランでシェフやっていたかもね(笑)
橋本、片岡:ガハハハハ(爆笑)
橋本:そうですよね(笑)
あの時、本当に料理の道に行きたかったんです。
一作:80年代に立ち上げた、青山「CAY」あたりで料理やってもらっていたかもね?(笑)CAYの頃、橋本くんはいくつだったのかな?
ラジオアダン:25~6歳ではないでしょうか?
一作:そうか、十分ありえたね(笑)
そう思うとかっちゃんは若いんだよな。
役割的に仕切り役が多いから年齢を勘違いしてるけど、実は若い(笑)
橋本:片岡さんは落ち着いているからね(笑)
片岡:一作さんがいた頃のCAYのスタッフでしたら、(佐藤)貴幸くんが同い年ですね。
一作:貴幸ね。あいつ元気かな?
話しは戻るけど、料理を諦めて、なぜファッションの方に行ったの?その切っ掛けを教えてよ。
橋本:ボクの場合、1年間完全に確信犯で遊んじゃったんで、トータル5年間、波乗りと、下手なりのバンド活動に終始して、
一作:どんなバンドをやっていたの?
橋本:キャロルやったりYMOやったり、
一作:全然、サーフ・ミュージックじゃないじゃん(笑)
橋本:ハハハハハ(笑)
あと渡辺香津美もコピーしたな。
一作:なんでサーフロックをやらないの?
ラジオアダン:あの時代、フュージョンとニューウェーブがごっちゃな時期があったんですよね。高中正義を聴きながらもプラスティックスも聞くみたいな(笑)
橋本:そうそう。
一作:でも、ハワイのカラパナなんてバンドは既に人気があったじゃない。
橋本:ええ、勿論聴いてました。ライブも見たし。
ヴォーカル(マッキー・フェアリー)は亡くなってしまいましたね。
まあ、基本はサーフィンしかしていないに等しいですね(笑)
それで、海の先輩達が一杯出来た中で、稲妻のマークで有名なサーフブランドの九州支社の所長がいて、「うちにこいよ」って、声を掛けてもらって働くようになったんです。
一作:成る程、そこから今の洋服屋としての人生がスタートした訳だ。
橋本:そうなんです。
だから、遊びの中からなんですよね、ボクの場合は。
一作:サーファーってのも独特だよね。
ストレート過ぎるかも知れないけど、なぜサーフィンをするの?
橋本:やはり自然を相手にしたスポーツだからやるのだと思います。
テニスならコートさえあればいつ行っても出来るけど、サーフィンは波があったりなかったりするものですから。その辺がどんどん深く入って行く理由だと思うんです。
「あの時の波はよかったよな」と強く記憶に残る。
一作:こう聞いていると、やっぱり海の魅力なんだろうな。
橋本:その通りです。
片岡さんがやってらした媒体88にも通じるのですが、その海にテトラポットが入ってサーフィンが出来なくなってしまうだとか、ボク等は日本海でやっていたから、韓国からの、ペットボトルとか洗剤の容器だとかゴミが一杯打ち上げられたり。
その辺の海の汚れが凄く嫌いで。
一作:そうだよな。
橋本:そんなことが切っ掛けとなって、環境への意識が自然と自分の中から芽生えてきたんです。
あと、いい波にタイミングを合わせたいから、常日頃から健康をキープするというのが、サーファーの根本的な生き様だと思うんです。
いい波が来ているのに体力がなくて乗れなかったら意味ないですからね。
ですから、常にコンディションを整えといて、明日やるとなったらすぐに入って行けるという感じで。
一作:波の状態は情報が入るんだ。
橋本:ええ、今はネットで入るようになりましたけど、昔は自分で天気図を眺めて予想していました。
一作:たまには二日酔いでデロデロなんてこともあった訳でしょ?
橋本:ハハハハハ(笑)
昔は、夜飲んで、そのまま寝ずに行ったりも勿論しました(笑)
「明日、波乗りしたいね」となったら、一睡もせずに宮崎やら鹿児島やら、長崎に行ったりしてました(笑)
日本海って冬しかいい波がないんですが、寒い。
太平洋側は、夏場は裸で出来るような暖かい所を探して。
といいながらも、その頃のボクは、サーファー、サーファーした格好はあまりしたくなくて、DCブランドを着てテクノカットにして(笑)
一作:橋本くん世代は、テクノカットが凄く流行ったもんね(笑)
橋本:そんなサーファーでした(笑)

橋本浄氏
◇◆◇◆◇
さて、やっと橋本のその後の座標の入り口まで話が進んだところで、片岡の方も撮影の目処が立ったようだ。
橋本と真逆とも云える、3歳下で、東京のど真ん中に生まれた生粋の都会っ子、片岡はどんな道程で媒体制作という現場に入り込んで行ったのだろうか?
◇◆◇◆◇
片岡:ボクも一部、今の橋本さんの話や時代背景と噛んでいるけど、やはり、ちょっと下の世代という感じですね。
橋本:片岡さんは出身は東京ですよね?
片岡:ええ、ボクは東京です。
橋本:正直言って九州の鳥栖の田舎者と東京の人では、3~5歳は精神年齢も情報量も違うと思うよ。
ボクは片岡さんより3歳上だけど、もしそのまま鳥栖にいれば、その辺は完全に同等、いや、それ以下だったかもしれない(笑)
片岡:ボクの場合は、高校生の終わりくらいにディスコが流行っていた世代で、「ツバキハウス」、「玉椿」等に、先ほど橋本さんがお話されたようなテクノカットをしたファッション系の人達が通っていたんですけど、当時のボクにとってその手の人達は怖く感じて、新宿の「カンタベリーハウス」等に行くようになりました。で、そこに行くと、2000円食べ放題で満腹になるという(笑)
橋本:それそれ(笑)それに九州の若者はめちゃ憧れたんですよ(笑)
バイキング方式のディスコめし(笑)
真似た店が数件あるにはあったけど、しょぼいし、あまりに皆が殺到して、すぐに売り切れになってしまう。ガハハハハ(爆笑)
一作、片岡:ガハハハハ(爆笑)
一作:そうか、かっちゃんは東京なんだ。
片岡:ずっと目黒。
まあ、ボクの場合、そんなにディスコに入り浸ったいた訳じゃなくて、数えられる位しか行ってないんですけどね。行くモチベーションも飲み放題食べ方の魅力にやられてですから(笑)
「YMCA」なんて曲がかかっていて。
一作:なに、それ?
片岡:ヴィレッジ・ピープルというゲイ文化をテーマにしたグループのヒット曲です。 あとやっぱり、アース(・ウィンド・アンド・ファイアー)。
その後、大学生になって身近に六本木に行く人間が現れて、多少は六本木にも足を踏み入れましたが、ボク、大学2年で既に編集のバイトをしていたんで、その後はあまりディスコには行かなかったですね。

片岡一史氏
ラジオアダン:バイト時代に編集されていたのは、伝説の自動販売機エロ雑誌「ヘヴン」でしたっけ?
片岡:いや、違う。「ぴあマップ」の手伝い。
ラジオアダン:そうでしたっけ?では、otoさん(ex.じゃがたら、サヨコオトナラ)とはそこで?
片岡:「ぴあマップ」の時ですね。
制作を担当していた編集プロダクションの社長が富山県出身の方で、otoさんの高校の同窓生。一緒に上京して来た仲なんです。otoさんが明治で、その社長は青学。青学で軽音をやっていた人。
(江戸)アケミさんが入院していた時期で、実質、じゃがたらは休止状態。そんなこともあって、otoさんは編集部にライターとして原稿を書きに来ていたんです。
一作:otoさんがじゃがたらの頃に、かっちゃんは大学生か。
やっぱり、かっちゃんは若いね(笑)
片岡:ハハハハハ(笑)
otoさんに会ったのが、大学2年生だと記憶しています。
それで、その編集部の仲間が、「インドに行こう」なんて言うんで、当然、「ボクも行きたい!」って話になって、初めてインドに行く訳です。
そのインド旅行で会った変わった日本人が三木爺(三木哲志)。
※三木哲志/旧「クーリーズクリーク」、「CAY」、オリジナル「新世界」と一作プロデュース店舗に数多く関わった人物。現在は新生「新世界」音響ディレクター。
一作、橋本:ガハハハハ(爆笑)
一作:たしか、三木くんがインドで病気になっちゃって、かっちゃんが助けたんじゃなかったっけ?
片岡:ええ、助けたってのはちょっと大袈裟ですけど、ダラムサラで黄色い顔した変な日本人がいた訳ですよ(笑)肝炎になっちゃっていて。
橋本:そんな所で会ったんですか!?
片岡:そうなんです。
とあるレストランで会った瞬間から、「この人、なんかやばい人だな」なんて思って(笑)
とにかく、そこのレストランには日本人はボクと三木さんしかこないような所で、ボクが一人でめしを食べていたら、ボクからか?三木さんからか?どっちから声をかけたのかは忘れましたが、話すようになって、「これから病院に行くんだけど」なんて嘯くんですが、旅行中だから当然こっちも暇じゃないですか。それで、チベッタの病院まで同行して、三木さんが薬をもらう訳ですよ。
ラジオアダン:もうその時点で発病していたんですか!?
片岡:ええ、既に肝炎でした。
で、「薬飲むから部屋に行こう」と誘導されて、三木さんの宿泊先の部屋に行ったんですけど、かなりの安宿で(笑)その部屋で、三木さんが煎じ薬を煎じるんですけど、目の前が完全に通路なんです(笑)
一作:三木くんに似合い過ぎだね、そのシチュエーション(笑)
そうか、三木くんはその頃から既に不幸だったんだ(笑)
橋本、片岡:ガハハハハ(爆笑)
片岡:で、話をしていたら、カルカッタからバンコックまでの飛行機が偶然一緒で、「じゃ~2週間後にもう1回バンコックで会おう」ということになって、
ラジオアダン:初対面としては気が合ったんですね。
片岡:まあ、そうですね。
そんな流れで、コサムイに一緒に行って2週間ぐらい過ごしたのかな?その後、ボクだけが先に帰国したんです。
別れる時に、「日本に帰ったらまた会おうね」なんて約束するんですけど、当時は携帯電話もないし、男同士って密に連絡なんてしないじゃないですか。
一作:それ、いつの話になるの?
片岡:ボクが22歳の時ですから、……、あっ、だからCAYオープン前夜な頃です。
一作:そうか、最初のクーリーの後に、三木くんはまたちょっと旅したんだよね。
片岡:そうそう。
一作:かっちゃんとオレは、クーリーの時には会ってない?
片岡:会ってないですね。
当時、一作さんがボク周辺の人で会っているのは、ボクが在籍していたカメラマン事務所の先輩カメラマン達ですね。
インドから帰って、カメラマンのアシスタントをやりだして、青山通りを歩いていたら、三木さんとばったり会ったんです。
橋本:へ~、凄い縁だね。
片岡:その時、CAYが出来たばかりで、「ジェームス・ブラウン×細野晴臣」の対談ってあったじゃないですか?その日だったはずです。
一作:あっ、分かった、記者会見のパーティーね。あったあった。
JBの名言、「闘うよりは踊りたい」発言があった時だ。
でも、直後に暴力振るって捕まるんだけどね(笑)
橋本、片岡:ガハハハハ(爆笑)
片岡:そうそう、その時に再会して、「オレ、店始めていてさ~」って、
ラジオアダン:例の、自分が全部やってる風に?(笑)
片岡:ガハハハハ(爆笑)
そうそう(笑)
一作、橋本:ガハハハハ(爆笑)
片岡:「今日は細野晴臣が来ててさ~」なんて感じで(笑)
一作:自分が直電で、「ハロ~JB!?」くらいなこと言うからな(笑)
橋本、片岡:ガハハハハ(爆笑)
片岡:「オレと友達が始めた店にさ、JBが来てさ、今やってたんだよ」なんて感じで(笑)
橋本:三木さんは出身はどこなんですか?
ラジオアダン:子供の頃はお父さんが転勤族で方々行ったみたいですけど、基本、神奈川の藤沢ですね。
片岡:まあ、三木さんの名誉もあるし(笑)道端での立ち話なんでそんなに深い話はしてないですけど(苦笑)「そんな店なんで、今度遊びに来てよ」なんてことでその日は終わったはずです。
◇◆◇◆◇
1985年青山の一等地にオープンしたアジアン・レストランバー「CAY」。
飲食店の概念を遥かに越え、伝説のライブやイベントが数多く行われていた“夜の遊び場”そのものCAYは、河内一作が参加した飲食店舗プランニングで世間的評価を最初に受けた作品と云ってもいい。
そして、この時代の先鋭空間で、面識はなくとも、橋本、片岡の2人は無意識の内に既に擦れ違っていたようだ。
毎夜乱痴気騒ぎを繰り返す狂乱の80’トウキョウ。当時、若く勢力的だった2人から、懐かしそうにレギュラーな夜遊びの日々が昨日のことのようにポンポンと飛び出す。
◇◆◇◆◇
片岡:CAYに行きたいのはやまやまだったんですけど、やはり、若年のボクには敷居が高くて……。そんな中、一作さんの前の奥様と話していて、たまたまインドの話になって、「そういえば、私の知り合いがこの前、インドに行って肝炎になって帰って来たの……」なんて言い出して、「そうなんですか。ボクもインドでそんな人と出くわしたことがありますよ」と(笑)特徴を聞いたらどうも風貌が似ていて(笑)で、「その人、三木さんっていいませんか!?」、「そう三木くん!!」って。
一作、橋本:ガハハハハ(爆笑)
片岡:それで、「今度、一緒にCAYに行きましょうね」ってことで連れて行ってもらったんです。
あと、丁度その頃、うちのかみさんが「SWITCH」の編集部に入って、そっちの、稲田(英昭)さん、菊地(崇)氏ラインに混ぜてもらったり。
ラジオアダン:CAYでは、一作さんとすぐに話すようになりましたか?かなりの年齢差がありますよね。
片岡:まだ小僧でしたから挨拶程度ですね。
その割には「88(いのちの祭)」の企画の話等は耳に入ってきていて、「八ヶ岳どうしようかな?」なんて思案していました。
橋本:ボクが上京したのが87年で、前にも一作さんに話したことがあるけど、とにかくCAYのライブが楽しみでしょっちゅう行っていた。
ラジオアダン:87年といえば、東京でもやっとオーガニックな流れが出て来た時期ですね。
一作:最初のクーリーで既に芽生えてはいたけどね。
まあ、と言っても全然身に付かない(苦笑)
要は、思想だけのオーガニック。実際にそこにいたオレが、本当にいいものなのか分からないんだから(笑)落し所もどこにもなかったしね。
いのちの祭にしても、「よかった!」って人も沢山いるだろうし、その逆の感想を持った人も同様にいる。
片岡:一作さんと一緒にCAYを立ち上げた宮川賢左衛門さんに、「君もこれを読みなさい!」なんて薦められて(笑)いのちの祭が切っ掛けで、広瀬隆さんの書籍「危険な話」を知ったり。
一作:あの頃はサブカルの連中の間であの本が流行っていて、オレも広瀬さんの講演をデートに使ったり(笑)
橋本、片岡:ガハハハハ(爆笑)
片岡:橋本さんに執ってのCAYでの印象的なライブはだれですか?
橋本:ジミー・クリフ。
片岡:ああ。
橋本:ボ・ガンボスの、亡くなられたどんとさんが最前列にいて(笑)
一作:あのライブの企画を持って来たのは、亡くなったPAの小野(史郎)ちゃんだよ。
橋本: あと、パパ・ウェンバ、アロー。
片岡:ボクもどちらも見ました。
橋本:ワールドミュージック、特にフレンチ系が旬だったもんね。
片岡:パパ・ウェンバにはガッツリやられました。
あと、なんていってもネヴィルス(ネヴィル・ブラザース)。
一作:ラウンジ・リザーズは見なかった?
橋本:見れてないですね。
ネヴィルスは勿論見ましたよ。
一作:ライブバンドとしての全盛期。グラミー賞を取る前。
初来日は、まだCAYはなくて、渋谷「ライブイン」でやったでしょ。それもオレは亡くなったコピーライターの(和志武)純ちゃんと行った。
橋本:同じニューオリンズのDr.ジョンも見ましたね。
一作:同じくニューオリンズの歌姫アーマ・トーマスのライブも素晴らしかった。
片岡:あの頃、ライブ終了後もSWITCHチームと残って飲んでいると、大概、三木さんが「花」(喜納友子)か「蘇州夜曲」(雪村いずみ)をBGMとしてかける(笑)
一作:まあ、今からすれば贅沢なんだけど、ライブに関しては、「最初と最後をちゃんとしようよ」ということで、終了後にすぐ客出しをするんじゃなくて、「余韻を楽しみながら飲もうよ」とね。あれはあれでよかったと思うけどな。
片岡:あとなんといっても、出演者のサインで埋められた壁がよかった!
そうだ、今思い出したんですけど、一作さんが最初に退店したその後、スタッフが大量離脱した時があったじゃないですか。その時、貴幸くんに、「壁の写真を撮ってくれない?」って頼まれて、2日がかりで撮影したんです。
一作:えっ?撮ったの?
それ、まだある?
片岡:貴幸くんが持ってると思いますよ。
まだ、フィルムの時代でフィルムごとあげたから。
橋本:それは貴重な写真ですね。
片岡:全景を撮った後に、それぞれのアーティストのサインをディティールとして全部撮りましたから。
一作:それ、宝の持ち腐れだよ(笑)
だから、オレよく言うけど、88年が境なんだよな。あくまでもオレに執ってだけどね。
88年でCAYを出て、そこには、いのちの祭も一つの要素としてあるんだけど、自分の中で一区切りがあったと思う。
いうなれば、精神世界とヒッピー・カルチャーの瀬戸際に立っていた自分が一旦そこから離れたくなった。
片岡:あの頃の精神世界って、正に精神世界のみって感じでしたもんね。
一作:80年代って、物質にゆくか精神にゆくかで、どっちにいっても金は潤沢にあって享受してるんだけど、どっちに行っても反発しちゃう感じだった。
橋本:(進行役に向かって)その頃、CAYの最寄りのクラブ「MIX」にも皆さん頻繁に行っていたとか。
ラジオアダン:ええ、それこそCAYのライブの後に、稲田さんや、菊地さん等と行ったりしてました。
一作:うん、あそこもよく行ったね。
片岡:行った、行った。
ラジオアダン:後に知り合うことになる、ハッピー・コンプリートという企画屋ユニットがプロデュースした店で、最初は暇だったんですけど急激に人気が出て、酸素不足でライターの火が着かないこともありました(笑)
一作:地下で音も出せて、ロケーションもよかった。
ラジオアダン:あと当時のクラブでは珍しくフレッシュジュースを使っていて、CAY上がりで美味しい酒をたらふく飲んで来た我々にも対応出来たってことも頻繁に行った理由ですね。
一作:当時のアフターは、MIXかサルパラ(『サル・パラダイス』)でしょ(笑)

◇◆◇◆◇
CAYの眩しくもあった都会の幻影の隙間からもう一つ、正にオルタナティブな芽が育ち、1988年8月一つの形となって八ヶ岳に結実する。
「いのちの祭」。
この祭は、現在の野外フェスの雛形ともなる未来を見据える座標軸を既に有していた。
88年に指し示した指の先とは、
“ノーニュークス”。
◇◆◇◆◇
片岡:橋本さんはいのちの祭と関わりがあったり参加したりしましたか?
橋本:年齢的には参加しても不思議じゃないけど、濃い~ぃ精神世界のイメージがあって、どっぷりは行けなかったね。
一作:まだ若かったかっちゃんこそどうやっていのちの祭を知ったの?
片岡:だから、CAY周辺の人達皆がその話をしていましたし、前述したような経過で、広瀬さんの著書も読んだし。それで、「どうしようかな~、行こうかな~」なんて思案しているところで、急な仕事が入って行けなかったんです。
ラジオアダン:あの時の、ヘッドライナーは喜納(昌吉)さん、南(正人)さん、
一作:あと、喜多郎。
片岡:上海バンスキン(シアター自由劇場)もラインナップされていましたね。
ラジオアダン:賢(左衛門)さんは、それで自由劇場の皆さんと親しいんですね。
一作:深作欣二監督が「上海バンスキン」の映画版を松坂慶子主演で撮ったんだけど、その作品に対して自由劇場の人達はかなり否定的だったの。
そこで、串田和美さんが監督、制作で自分達で撮り直した。その時に、「CAYがキャバレーのロケ地として最適だ」ってことで我々も協力させてもらった。
それで、バーターと云うか恩返しで八ヶ岳のいのちの祭に来てくれた。それがいきさつかなぁ。
その流れの中の窓口が賢さんだった。賢さん、当時は元気だった。
ラジオアダン:へ~、そうだったんですね。
橋本:いのちの祭って、以前にあったイベントのリメイクなんですよね?
片岡:えっ、そうなんですか?
一作:うん、橋本くんの言う通り以前からいのちの祭ってあった。
長野県でやっていたイベントで、そこにノーニュークスで盛り上がった東京サイドが元々の長野サイドに持ち掛けたのがことの発端。
片岡:確か、88年の2月に、伊方原発2号機の出力調整への反対運動が結構の勢いで盛り上がり、星川(淳)さんや喜納さんもその運動には参加して、その流れで、喜納さんが、「なんか8並びでイベントをやろう!」なんて言って、いのちの祭に合流して行くんですけど、実は最後まで喜納さんは、“縄文祭(じょうもんさい)”という名称でイベントをやることに頑だった。
一作:イベントなんてものはいろいろ裏にはある訳だ(苦笑)
片岡:それはその一端なんですけど、そうやって、いろんな人のいろんな想いがあのイベントの中にあった。
橋本:成る程……。
ラジオアダン:ぼくの場合、喜納さんは純粋にシンガー・ソングライターとして大好きでしたし、南さんのアルバム「回帰線」は未だ日本ロックの超名盤だと思っていますが、何せ、全体にヒッピー体質が強すぎて、ポスト・パンク、ヒップホップからワールドミュージックという流れどっぷりの当時の自分が、そこに融合することは非常に難しくて、RCやタイマースでの忌野清志郎さんの活動や、ミュートビートの声無きメッセージで、音楽からのノーニュークスに目覚めた感が強いです。
一作:うん、その気持ちもよく分かる。
実際、清志郎さんにも人を介して出演オファーを出したんだから。
まあ、向かう意識は同じでも、彼にはあのイベントの志向は合わなかったんだろうな……。
橋本:そうね。
その後“ロッカショムラ”という言葉に皆が集約されてゆく。
一作:うん。
とにかくあの1週間は坩堝だったから。今、4人で話してきたことの全てがあった。
当時のオレは、「面白いけど、辛い……」というのが正直な感想。重複するけど、その辺から距離を取りたかった。
橋本:その、いのちの祭で言っていた事柄が、3/11で全て現実となり一般にまで一気に浸透した。
一作:元首相までそっちに同調してるんだからね(苦笑)
片岡:喜納さんのライブを始めて見たのもCAYでした。お父さん(喜納昌永)のカムバックに合わせたライブで、素晴らしかった。直後、カメラマンの事務所をやめて業務としての物撮りに従事していたんだけど、当然具合いが悪くなって(苦笑)「やはり、やりたいことをやろう!」と思った時に、喜納さんの初のアメリカツアーの話が浮上してきて、「じゃ~、それ一緒に行っちゃおうかな?」と同行したのが至近距離でのお付き合いの最初でした。
一作:それいつ?
片岡:90何年か……、アトランタオリンピックの前の年です(95年)
デビット・バーン監修で、喜納さんのベスト盤が出たんです。それを記念したのと、あと、アルカトラズからワシントンまでデニス・バンクスがロングウォークをするのにも合わせての渡米。前年、デニスを喜納さんが日本に招いているその縁です。
セントラルパークでは、なんと、ライ・クーダーとジョイントしたんですけど、ライに全然モチベーションがなくダメダメで(笑)
一作、橋本:ガハハハハ(爆笑)
片岡:まあ、その割には話題だけにはなって、むこうの新聞等に大きく扱われたりしました。
その後、ライに、カナダ/トロントのライブ会場のこけら落としのオファーが入っていたんです。アリ・ファルカ・トゥーレとの共作「トーキング・ティンブクトゥ」が話題になっていた時期だったので、アフリカのミュージシャンを招いていたらしいのですが、なんと、内乱で来れなくなっちゃって。
で、結局、「昌吉、メンバーの皆も一緒にトロントに行こうぜ!」みたいな感じになって(笑)急遽、カナダ入りが決まって、ボクも当然、「よし行こう!」と(笑)
で、なぜかここでのライブはライも凄くよくて!!(笑)
一作、橋本:ガハハハハ(爆笑)
片岡:ライも自分が看板だとちゃんとやる訳ですよ(笑)
橋本:そのライブ音源ないんですかね?聴きたいな~。
片岡:どうなんでしょうか?
あと、未だどこにも出してないんですけど、カナダでは「ライ×喜納」のインタビューもやって写真も撮らせてもらって。
ライってイメージより身体が大きくて手なんか凄くでかいんですよ。
橋本:へ~、繊細な感じと思ってたんだけど、そうなんだ。
片岡:帰国後、その記事を掲載する媒体を模索中にのっぴきならない事情に巻き込まれ、暫し、フリーランス活動を中止するはめにボクはなるんですけどね(苦笑)
一作:ムフフフフ(意味深に苦笑)
◇◆◇◆◇
2人の長く広大なタイムラインもここにきてやっと一作と交差する。
「ライスペーパー88」。
片岡が2003年に創刊したフリーペーパーであり、9/11以降、急激にパラダイムシフトした世界を、食、農を軸にサスティナブル(継続可能)な方向へ導く新たなバイブルとして多くの人々の生活指向(田舎暮らし等)に影響を与えていった媒体であった(現在休刊)
ここで、片岡は発行人&カメラマン。橋本はスポンサード。一作はライターという三位一体が遂に実現する。
◇◆◇◆◇
片岡:そんな流れで、会社(株式会社ワッカ)を設立して、やはり喜納さんと至近距離で付き合った影響なんでしょうか?「この会社は許される限りでやりたいことはやろう!」なんて社風が最初からありました。
ですから、88初代編集長の鈴木完くんも自然と、「フリーペーパーをやりたいんです」等とボクに言ってきて、アイディアが二転三転する中、2人共、お米通販の生産地に行く機会が多い時期で、「お米や畑をテーマにしたらどうでしょうか?」と完くんが提案し、ボクも、「それは面白い」と思って即OKを出して動き出したのが「ライスペーパー88」です。
当初、なんの実績もないから、「とりあえず0号を作ろう」と、強引に作って、
一作:もろ簡易な0号(笑)
片岡:ええ、中野(“スペースマン”雅蔵)さんの所(千葉県長柄町)に行って、インタビューして、
一作:オレが未だ書いてる連載シリーズ「日々トリップ」(デイトリップ)も、あの0号がデビューだもんな(笑)
インクスティックの松山(勲)さんが亡くなられたことを軸に書いたはず。
片岡:そうそう、それで、完くんが、「前関わっていた、フリーメディア『バランス』に熱心に広告を出してくれていた」、
橋本:熱心!?(笑)
片岡:「橋本さんという素晴らしい人がいるので、今晩一緒に会いませんか?その人の高校の後輩で、憂歌団の元マネージャーの鉄平さんも来ますから」と言ってきて、始めて橋本さんと会うことになったんです。
一作:(大きくため息をついたあ後に)長い話だな~~~~。
橋本、片岡:ガハハハハ(爆笑)
一作:かっちゃん、それ言いたくて、ずっ~~~~~~と今まで話していた訳!?
片岡:はい!(きっぱり)
一作、橋本:ガハハハハ(爆笑)
ラジオアダン:えっと、やっと第一章終わりで(笑)仕切り直します(笑)
88で片岡さんはオーガニックやサスティナブルに舵を切る訳ですが、橋本さんは既にこの時点で、ヘンプを使った洋服作りに邁進していましたね。
橋本:ショップはやってなかったけど、もうやりだしていた。
一作:(急に)今日は楽だな~、勝手に皆が進行してくれるから(笑)
片岡:(スルーぎみに)橋本さんの会社って、媒体やフェスに限らず、自然に、恵比寿NOSや新世界のライブイベントとタイアップしたりする感じがありましたよね?
橋本:うん、まあ人の流れや付き合いだよね。
片岡:それにしても、ヘンプに着眼したのが早かったですよね。
一作:そうそう、なんでそんなに興味を持ったの?
橋本:当然、青年期は、音楽やカウンターカルチャーの至近距離にあるマリファナという物に皆興味を持ちますよね。
大麻、マリファナ、麻、ヘンプと色々な場面で色々な名称があるけど、“ヘンプ”と言うとクロージングをイメージするようになった一翼は担ってきたかな?と自分で言うのはなんですけど思います。
一作:オレが今着ている橋本くんのとこのはオーガニックコットン?
橋本:それヘンプですよ。55(%)ヘンプが入ってます。
一作:着ていて気持ちいいよね。
橋本:ありがとうございます。
一作:こういうのを着ると他のTシャツが着れなくなるよな。
橋本:こういう言い方はどうかとも思うけど(苦笑)、“ヴァイブスが上がる”(笑)
一作:そうだよ!
片岡:ナチュラルハーモニーの河名(秀郎)さんも言っていましたが、「吸うのは色々問題があるけど、ペンプは身につけると身体にいい影響を及ぼす」と。
橋本:科学的にはまだ立証はされていないけれど、「蚊が寄り付かない」なんてことも言われますね。
ラジオアダン:日本固有の宗教である神道は、麻と古代から非常に密接な関係にありましたが、実際に古代の日本人も麻を着ていたのでしょうか?
橋本:まず、縄文時代の象徴である、あの縄は麻を結ったものだよね。
一作:今度はここで喜納昌吉さんに戻る訳ね(笑)
橋本、片岡:ガハハハハ(爆笑)
ラジオアダン:ここで戻ったらこの対談、永遠に終わらないですよ(笑)
橋本:麻布大学にイギリス人教授でパトリック(・Q・コリンズ)さんという方がいて、縄文時代の麻の研究をしている方です。
一作:(給仕しながら)オレは、今日はサービス業に徹するわ。なにも振らなくてもしゃべってくれちゃうんだもん(笑)
橋本:(スルーぎみに)その先生も麻の実でお餅を作ったり、ワークショップなんかも積極的にやっているんだけど、やはり結論として、「日本人は麻と密着した文化を有している」ってことに落ち着きます。
ご存知のように、GHQ以降大麻の吸引が禁止になるんだけど、どんどんレイドバックして行くと、スーパーフードという名称で欧米で麻が食されるようになっていって、逆輸入で日本でもありがたがられている。
話を戻すと、片岡さんがあの時点で、88でお米をテーマに食や農を取り上げたのは、今は同種の本や雑誌が出てきたけど、先がけと云って間違いない。
フリーペーパーですから大手にないコアな部分でやっていたけど、それを大手が租借してパブリシティーと連動させてマスに向かって動かし始めたのが今。
片岡:88以前にもその土壌はありましたからね。
橋本:3/11で逆転じゃないけど、そのカルチャーが全面に出てきて、他人事だった人達も実体験として、放射能問題や田舎暮らしにシフトしだした。
片岡:3/11前の88に掲載された人達の食物に関する感性は、「自分の食べるものは自分で作る」という自己完結型だったんですが、放射能がそこに加味されると、己だけでは終われなくなる。もっと共有することが必要になってくるんです。
一作:食の話からちょっと飛躍しちゃうけど、オレ、グルメっていやしいと思う。
オレ、こうやって店をやってるけどミシュランとか大嫌いだから。
自分が執筆する時も、食い物とか食い物屋の話は書きたくない。店の話ならその店の人の話を書きたい。
この店の何々が美味いなんてのはいやしい根性だと思うんだけど、2人はどう思う?
片岡:非常によく分かります。
一作:“どこどこのラーメンが”なんてのをネタに本にして儲けんなよだよ!ミシュランもそれとなにも変わらないよ。
橋本:食に結論なんてないですよね。欧米と日本でもまるで違うし。
日本は元々、オーガニックや無農薬等の背景の中で、野菜、お米を作っていた人種ですから、そういうものは当然だと思っている。一方、アメリカは広い大地で量産するから、いきなり飛行機で農薬を撒いたりを日常的に目にしている人種ですから、「オーガニックです」と言ったらそこに飛びつく。でも、日本のマーケットはそれとは違います。
元々オーガニックな日本人からすれば、「じゃ~、高額なんでしょ?」とか、「おしゃれね~」なんて、実際とは違うカテゴリーに捉えられてしまう。
最近、こっちからそのズレを説明することを諦めつつあるんです。もう無理(苦笑)受け皿を持っていない人に言っても、“セレブな食べ物”なんてところで終わってしまう。
洋服も、それと一緒で、フェアトレーディング等でもの作りしているところはいいと思うけど、ユニクロを筆頭としたファスト・ファッションが幅を効かせています。後進国で明日の食事にも不安があるような人達の賃金を叩いてものを作って売るという姿勢はボクにはどうにも理解出来ないし、正直嫌いですね。
一作:ユニクロね。最低。
オレ、出身は山口県だけど、同県人として、安倍晋三とユニクロの柳井(正)さんはちょっとはずかしい。
橋本:やっぱり、環境に則った真っ当なもの作りをする人達がボクは好きですね。
片岡:一方、ビジネスとしたら究極なんでしょうね。ですから日本の伝統“きもの”とは真逆な存在だとも云える。
きものの考え方って継続可能な方向性じゃないですか、着古したらまた解して反物に戻して仕立て直して再生させる。
橋本:刺し子文化となってね。
一作:刺し子か~。
いい話だな~、パート2もやろうね、この面子で(笑)
橋本、片岡:ガハハハハ(笑)
片岡:この話は、かの田中優子さんも言っていて、
一作:ジュリー嫁?(田中裕子)
片岡:ハハハハハ(笑)
いや、法政大学の学長さんです(笑)
要は、日本の洋服に対する価値観は破れているからダメだとかではなく、汚い物を着ていることがダサいと。
ですから、“既にある物を繕いながら着ていることはおしゃれである”という感覚が江戸時代からあった。
明治時代や戦時中でも、繕いをする人達は女子の内職として生計もなり立っていた。
橋本:今で云うリメイク屋。
片岡:そうです。
それが戦後滅び始めた。
橋本:使い捨て文化。
実際、ユニクロの袋も使い捨てでしょ?
今の片岡さんの話と通じるけど、今また古着の人気が上がってきている。
昔のヴィンテージとしての高額な取引ではなく、安めの価格設定の古着です。アメリカで云うところのスリフトショップ。
これ、「ブランドをやってる人間が言っていいものか?」と悩むんだけど、作るよりある物で回すというのが一番環境に負担がないよね。
これは言っちゃいけないことか!?ガハハハハ(爆笑)
一作、片岡:ガハハハハ(爆笑)

◇◆◇◆◇
継続可能社会を、一作のスペシャリティーである飲食と、橋本の正業、被服で熟考し一定の深層に到達したこの時点で、楽しい時間も残り僅かとなってしまった。
さて、最後はなんといってもこの話題。
イベント企画として2人に参加してもらった、一作プロデュースのライブシアター西麻布「新世界」から連なる、現在進行形「バー黄昏」での、“遅れてきたDJデビュー”。
このあたりのネタを肴に大円団を迎えられば、今宵も3人に執っていい夜になるのではなかろうか??
◇◆◇◆◇
一作:新世界……。
~百年経ったらその意味分かる~って言って、前衛を定着させるのは今の時代は難しいね(苦笑)
ラジオアダン:新世界では、橋本さんには毎年恒例のオフィシャル忘年会という名のミニフェスをやってもらって、年間で一番の集客だったはずです。対して、片岡さんのイベントは一番の社会派でした。
一作:それ、入らないってことじゃないの?(笑)
片岡:そうなのかな~、すいません(笑)
一作:かっちゃん、全然大丈夫。もっと悲惨に入らないの一杯あったから(笑)
橋本、片岡:ガハハハハ(爆笑)
ラジオアダン:片岡さんに大いに助けてもらったのは3/11直後。
NGだらけの状態で、とにかくイベントを組みたくても出演者が六本木に辿り着けない。そこでの秘策が“チャリティー”としての急造イベント。相当数これで数稼ぎました。
片岡:まあ、ボクがというか当時のうちのスタッフ達ですね。
一作:まあ、あの時期は痺れたね。
橋本:でも新世界があったのはよかったですね。本当に面白かった。
一作:金にはならないけどね(笑)
でも、あの3/11直後に出てくれた人達にはオレは凄く感謝してますよ。
大勢、東京を離れた中でなんだから。
白石かずこさんのステージなんて未だに脳裏に焼き付いている。
片岡:正木(高志)さんも直後に熊本から来てくれましたね。サヨコさんとナラさんのライブもあって。
ラジオアダン:そんな新世界の後に、規模は縮小されたとはいえ、一作さんが強引に作った音の遊び場「バー黄昏」で、お2人には引き続きお付き合いさせていただいています。
しかも、同時DJ高齢デビューという快挙!(笑)
橋本、片岡:ガハハハハ(爆笑)
片岡:橋本さんがやるんだったらボクもやろうかな~?ってことで(笑)
橋本:オレも皆がやるんだったらオレもやろうかな~?ですよ(笑)
この歳になって清水の舞台から飛び降りる覚悟で(笑)
一作:橋本くんは声掛けてからやるまで少し時間がかかったよね?
ラジオアダン:慎重派なんじゃないですか?何度も下見やリハーサルして(笑)
橋本:なのかな?(笑)
一作:でも1回やると止まらない(笑)
橋本:ハハハハハ(笑)
ラジオアダン:片岡さんには番組配信でしゃべってからかけるという超ハードワークをお願いしています。
片岡:すいません(苦笑)
でも、楽しいですよ。黄昏。
橋本:新世界、無き後、一人でぷらっと行ける場所がないから、黄昏は受け皿としていいんじゃないかな?
一作:あそこはあんな小さなキャパなんだから、仲間内で遊ぶしかないでしょ?(笑)
まあ、結果はなんかの形でどうせ出るよ。
じゃあ、これからも末長く遊びましょう、ということで今日は忙しい中来てくれてありがとう。
◇◆◇◆◇
まだまだ、続く3人の遊びの中から生まれる新たなる新世界。
膨大な数の言葉が交差した夜、なんの結論もまたしても出なかったが、一つの宝石のように輝く小さなポエトリーが手のひらに残った。
~交われば結果なんてやがて出る~
さて、次回3人が揃うのは、近日「バー黄昏」での片岡の八面六臂で行われる配信&DJの6/24か?それとも、橋本の既に手練た近日予定のDJナイトか?
そんな先のことは誰も分からない。
なぜなら、人生の殆どの出来事なんて酔っぱらいが酒場で夢想したことを、神様が空模様に沿って暇つぶしにチョイスしているだけだから。
とぅ・びー・こんてぃにゅーど
@泉岳寺「アダン」
テキスト、進行:エンドウソウメイ
写真:片岡一史(片岡氏掲載部分のみアダンラジオ編集部がスマホにて撮影)
●今回のゲスト

橋本浄/プロフィール
1959年佐賀県生まれ。
1989年、ライトニングボルト退社後、YELLOW DIVISION設立。
地球に優しい独自のオーガニック・クロージングブランド「GOWEST & GOHEMP」の直営店を恵比寿「juzu」にて展開。ファッションだけに止まらず、2011年にはピュア・フレッシュジュースと、マクロビオティックに根付いたフードを提供するデリ「Marugo Deli Ebisu」をオープン。衣、食、音の三位揃ったそのアティチュードは数多くのリスペクトを集める。

片岡一史/プロフィール
株式会社ワッカ代表。1962年生まれ。
1994年、喜納昌吉&チャンプルーズのアメリカツアーに同行。以来、喜納昌吉氏の写真を撮り続ける。2005年より日本で開催されているクラシックカーラリー、La Festa Mille Migliaの写真も手がける。2002年、株式会社ワッカ設立。2003年、フリーペーパー「88」創刊。2005年、フリーペーパー「Lj」創刊。2015年、「88」「Lj」ともに休刊し、新たなる媒体を模索中。

河内一作/
山口県生まれ
八十年代から霞町クーリーズクリーク、青山カイなど常に時代を象徴するバー、レストランの立ち上げに参加。九十年代、仕事を辞め世捨て人となる。
六年間の放浪生活の後社会復帰し、アダン、青山タヒチ、白金クーリーズクリーク、音楽実験室新世界、奥渋バー希望、南洋ギャラリー、など手がける。お楽しみはまだこれからだ。
Vol.4 日々トリップ 番外編「小さな喫茶店」 川内一作
築地場外の「喫茶ボン」に足繁く通った。ボンは波除神社から晴海通りに出る手前にある小さな喫茶店で、場所柄、早朝から長靴をはいた市場のおっさん達がやってきて、さっとコーヒーを飲むとテーブルの上にコーヒー一杯三百五十円なりを置いて出ていく。午後二時過ぎには閉まる回転の速い店である。
ボンのコーヒーはネルドリップで落としたものを手鍋であたためる昔ながらのスタイル。香ばしくて懐かしい味がする。モーニングは下町のベーカリーのトースト、ゆで玉子にフルーツサラダ、メロンやバナナのカットが付いている。メロンもバナナも高級だった時代に育った自分にとって六百五十円のモーニングはココロがトキメク。昔だったら築地へ行けば調子に乗って朝から寿司やカツカレーなどかっ喰らっていたが、カンレキも通り過ぎた今はボンのモーニングがちょうどいい。飲んだくれて明け方に築地メシに走った若いころのあの健啖が懐かしくもあるけれど。
港区の三田に住んでいた五十代の頃は週に二、三度、散歩がてら築地まで歩きボンでコーヒーを飲んだ。起きがけに顔も洗わないで家を出て、慶応大学を通り過ぎ、芝三丁目あたりの路地裏を散策していると、いつのまにか愛宕警察の前に出る。新橋のガードをくぐって築地へたどり着くのに一時間と少しかかるだろうか。
ボンのスマートなマスターは江戸っ子。ママは伊豆の出身で南洋風の丸顔美人。いつもびっくりしているような表情がなんとも愛らしくて「ママの顔は見ているだけでシアワセになれるよ」と言うと「そうかねぇ、伊豆の山ン中でひろったのだから、たぬきの生まれ変わりじゃないの」と江戸っ子のマスターは照れくさそうに言う。お二人とも七〇は過ぎているが元気で、あうんの呼吸、二人の佇まいが美しい。漱石の「それから」のようにシアワセ薄い美人と駆け落ちして、どこかの場末で小さなバーでもやって、ささやかに暮らしてみたいと若い頃自分は思っていたが、そんな夢も叶わず気がついたらカンレキもまわっているのだ。
ボンの窓辺に座り、朝陽を浴びてコーヒーをすすりながら築地の風景を眺める。発砲スチロールを山積みにしてターレーに乗った若者が細い路地を器用に運転して通り過ぎていく。
小さい静かなあの店
おいしいコーヒーを飲ませて
本当に素敵なきっちゃてん
あの頃は日暮れると
二人で静かに過ごした店
想い出は過ぎたこと
今日の日にまた来てみると
想い出はまた蘇えるよ
あの日腰かけた長椅子もそのままです
二人並んで腰かけた古い腰かけ
今は何処にどうしているのか
どこに暮らしているのか
二人並んで腰かけた古い腰かけ
「小さな喫茶店」を口ずさんでみる。
いろんな人が唄っている名曲だけど、音痴の自分が好きなのはあがた森魚の「小さな喫茶店」。八〇年代あがたの「バンドネオンのジャガー」を青山「カイ」のステージでいつも見ていた。タンゴ版「小さな喫茶店」はヨカッタ。バンドネオンは今は亡き池田光夫さんだった。
明石町のフラガールのこと
ボンを出て晴海通りを渡り、少し歩くと築地明石町である。渋いグリーンの銅板壁の商売屋もまだあちこちに残っている古い町並み。フラガールの順子はそんな明石町に住んでいた。三年前に癌であっけなく亡くなった。早過ぎるよな。順子は自分の元嫁のフラスタジオに通っていたし、まだ自分が現場に出ていた頃の「アダン」も時々手伝ってくれた。つまり順子はフラスタジオとアダンが産み落とした子供のようなものだったから、自分はつい甘えて迷惑も省みず早朝ボンに呼び出したりした。順子は渋々眠そうな顔でやってくる。格別のハナシがあるわけでもなく普通に父親が娘とコーヒーを飲んでいるようなもの、「マジメにフラをやっているのか」と言うと「そっちこそちゃんとして下さいよ、先生に言いつけますよ」とナマイキなことを言ってモーニングを食べるとさっさと帰った。フラを始めたばかりの頃、順子はカラダがいかにも硬そうで動きがギクシャクとして笑った。旧アダンの小部屋で順子のクラスの娘たち、大阪弁のお母(か)んもいたが、ラジカセをかけて習ったばかりのフラをみんなで踊っていた。まァ、みんなヘタクソだったけれど、フラはうまいヘタを競うものではないからそれはそれでよろし。当時の娘たちはみんな結婚して子供もできたし、うるさい大阪弁のお母んも孫ができて、今は大阪に帰った。移転した新アダンにまだ来たことがない人もいるので一度みんな招待して順子のことをサカナに酒を飲もう。きっとフラ大会になるのだろうが、あのヘタクソなフラはあまり見たくない気もする。
順子が亡くなる少し前に自分は港区から海辺の町へ引っ越した。年寄りと子供しかいない海辺の暮らしは馬鹿になりそうでくだらん。気の利いたバーも、朝からコーヒーが飲める店もない。なんだかいきなり爺さんになったようで落ち込んでいたら、ノラネコ四匹と同居することになった。夕焼けを見ながらネコ達と遊んでいるときはいつもイズの「オーヴァ―・ザ・レインボウ」を聴く。途中から「イマジン」になっていくあのライブ盤。ちょっと順子のことなど思い出して、ネコ達にオレより先に死ぬなよと語りかけるだけだ。
引っ越して築地は遠くなった。
このあいだ桜の頃に久しぶりにボンに行ったら「今月いっぱいで閉店いたします」という張り紙がしてあった。驚いて中を覗くとマスターが片づけをしていた。
「いやね、女房のやつが脳梗塞で倒れちゃってね、命に別状はなかったんだけど仕事は無理だからやめちゃうのよ」
涙目だった。茅ケ崎に住んでいる娘のところに行くんだと言った。自分は「落ち着いたら電話してよ」と言ってケイタイの番号をメモして渡した。

ⒸSOHMEI ENDOH
黄昏ミュージックvol.7 デイ・ライト/ナイト・ジャングル
トワイライト・サーカスの日本ツアーの同行を切っ掛けに結成された世界基準のディジリドゥ奏者GOMAを中心としたナイト・ジャングル2006年の傑作。
この時期のGOMAは、人力エロクトロニカ的(言葉として成立していないが…苦笑)ソロ活動はもとより、ガムランに触発されたジャングル・オーケストラ、アフロビートを全面に押し出したジャングル・リズムセクションと八面六臂の活動状況で、一体どのような時間調整で創作活動をしているのか全く想像がつかない程にハイパーな存在だった。その中でワンドロップに帰着し一番メロディックなバンドがこのナイト・ジャングル。
そんな彼等が唯一残したアルバム「ジャングル・クルーズ」の、エンディングへの導入曲、9トラック「デイ・ライト」を今回は黄昏ミュージックとさせてもらう。
通奏低音が如く低く這うGOMAのディジリドゥが支える乳白色のキャンパスに、麗しのトランペットと歪んだスライドギターが美しい琥珀色のドローイングを緩やかに描く(se)
酔談vol.4 ゲスト:岩根愛氏 ホスト:河内一作
“酔談”。見ての通り、酔って語らうこと。当然、造語である。
酔っているがゆえの無軌道さ、無責任さ、大胆さ、自由さをそのまま気取らず飾らず実況する、それが「対談連載/酔談」の全てである。
アダングループ代表、河内一作が東京の夜のフロントラインに初めて立った、1981年の「クーリーズクリーク」から現在に至るまで、彼が関わった店が、単なる飲食店におさまらず“自由なステージ”としての酒場の背景を演出出来えた“要”ともいえる大切な友人達を毎回招き、テーマなしのゼロベースから美味しい酒と肴の力を借りつつ今の想いを語り尽くすトークラリー。
さて今回のゲストは、女流カメラマンとして確かなキャリアを誇り、更に近年では、ハワイ日系移民の古い集合写真と回転スリットカメラ、サーカットとの劇的な出会いから、ライフワークである“盆ダンス”を介し、福島~ハワイの太い人の繋がりからなる地下水脈をアートワークとして体現する岩根愛氏(以下敬称略)をお招きし、「酔談」第4回目として、泉岳寺「アダン」特別室にて緊急開宴!
数日前に岩根愛、企画、出演のNHK:BSの番組『双葉盆唄ハワイへ行く ~福島 震災から6年~』放映の知らせを本人から受け、同番組視聴後、いてもたってもいられなくなった一作。週末には、渡布哇(ハワイ)が既に決まっている岩根愛に急遽連絡を入れ、多忙を縫ってのこの宴とあいなった。
話題は勿論、盆ダンスを軸とした、お互いの約束の地、ハワイ日系人文化の深層部へ早々に向かった。
◇◆◇◆◇
河内一作(以下一作):実は6月くらいにこの酔談のゲストで愛ちゃんを呼ぼうと考えていたんだけど、先日、メールをもらって、NHK:BSの番組(『双葉盆唄ハワイへ行く ~福島 震災から6年~』)が進行していて、放映も間近だと知って。そして、またまたハワイへ旅立つんだもんね?
岩根愛(以下:愛):ええ、今週末から。
一作:なので、急遽本日来ていただいたという訳。
愛:さっき丁度、一作さんもよく知っているニック(加藤)さんとメールしていました(笑)
一作:番組や、一連の盆ダンスプロジェクトにもニックは関わっているの?
愛:番組には関わってはいないですけど、今回、最初にヒロに入るんで、ニックさんちに泊めてもらうんです。
一作:そうなんだね。
で、番組見ました。
おれ自宅にテレビがないから(笑)ダビングしてもらって見ました。非常にいい番組だった。
いつから始動したの?
愛:撮影は2015年から開始したんだけど、その時は、まだ最終のメディアが何になるか?はまったく先行き不透明で、
一作:それは誰が主導して?
愛:今回の制作会社のテレコムスタッフの岡部憲治社長、この方も新宿の飲み屋繋がりなんですけど(笑)、
以前より、飲み話でわたしのパノラマ写真のプロジェクトに興味を持ってくださっていました。
一作:へ~、そうなんだ(笑)

河内一作
愛:そんな関係なんでいつも夜しか会わないのに(笑)ある日、表参道を歩いていたらばったり会って、「たまには、お茶でもしますか?」て感じで雑談したんですけど、まだ、サーカット(回転スリットカメラ)も修理している時期で具体的な動きはまったくしていなかった。
一作:あの、一連のパノラマ写真、おれも好きだよ。いい写真だ。
愛:ありがとうございます。
そのとき、「この写真を題材に番組にしませんか?」と岡部さんが言ってくれて。
その後、カメラがやっと使えるようになってパノラマ写真を撮り出して、テレコムのプロデューサーの堀内史子さんがいろいろ企画をプレゼンしてくれたのですが、なかなか企画が通らなかった。そこに変化が起きたのが、わたし自身が福島県の人達との関わりを深くする中、2016年に双葉町の太鼓のチームの人達がマウイに遠征することからなんです。
一作:って、ことは双葉町の伝統芸能とハワイの盆ダンスの関連性に関する情報は、愛ちゃんは既に持っていたってこと?
愛:うぅ~むぅ、……、分かり難いですね。話を一旦戻しましょう(笑)
時系列に沿って話しますね。
わたしが盆ダンス(ハワイの盆踊り)にはまってハワイに通っていたのは一作さんもご存知ですよね?
一作:うん、知っていた。
愛:2011年の震災の後、春にマウイ太鼓という福島の盆唄を継いでいる人達が主人公のドキュメンタリー映画『100年の鼓動 〜ハワイに渡った福島太鼓〜』をたまたま見たんです。盆ダンスでフクシマオンドを生演奏で踊るシーンを見て、「そういえば、フクシマオンドの故郷って一体どこなんだろう?」と考えるようになりました。
皆もそうだったと思うのですけど、震災があった時、「一体、わたしはなにをすればいいのだろうか?」と凄く悩んだ訳です。只現状を撮りに行くという気持ちはわたしには全然起きなかった。
ずっと盆ダンスを追いかけていた盆ダンサーのわたしとしては(笑)ハワイに伝わったフクシマオンドを知ったとき、「この文脈の中からなら、わたしにもなにかやれることがあるかもしれない」と思って、その年の夏にマウイ太鼓に会いに行ったんです。
一作:そうか、そのころからもう動いていたんだね。
愛:そうです。
マウイの日系人って気持ちが熱い人達が多くて、震災すぐのその夏に、マウイ島の有志が「アロハ・イニシアチブ」という被災者支援のプログラムを立ち上げ、お金を集めて、東北から100人以上の人達を招き、3ヶ月間も、「ここで休んで下さい」という活動を行っていたんです。
ですから、マウイに着いたら、福島や東北の方々が沢山いた。その中には双葉郡から来た中高生も30人程含まれていて、現地の方々が、「マウイの盆踊りも経験してみない?」なんて感じで盆ダンスの会場に招かれていた。最初は隅っこで小さくなって佇んでいたんですが、フクシマオンドの演奏が始まった途端に、口々に、「これ知ってる!」と言い出し、輪の中に入り踊り出したんです。
一作:へ~、いい話だね。
愛:フクシマオンドの原曲は「相馬盆唄」で、双葉の子は皆知っているんです。
その光景、その瞬間が、わたしの中に未だ強烈に残っていて、盆唄というものがこの世代にまで浸透している福島という土壌が、東京育ちの自分にはある種羨ましいものだった。ハワイの盆ダンスって30曲以上の振り付けを皆が完璧に踊れてもの凄く盛り上がるのですが、100年以上前から伝わった盆唄がこんな形で伝えられていることも素晴らしいと思いました。
フクシマオンド、岩国音頭、あと沖縄音楽は生演奏なんです。
一作:大体が、東北と、中国地方、沖縄が移民の人達の出身地として多いから、
愛:そうなんですよね。
現在、マウイは彼等マウイ太鼓しか盆踊りの太鼓はやってなくて、フクシマオンドの生演奏が定番となっています。
一作:ヒロは、比較的、瀬戸内からの人達が多いよね。
愛:ええ、でもヒロも曲はフクシマオンドが多いですね。岩国音頭は、初盆の方のリクエストで歌う、ということもあるようです。
あまり大きな声では言えませんが、フクシマオンドはかつて“べっちょ踊り”と呼ばれていて、ヒロではかけ声にまだ残っています(笑)世界中でべっちょと唄っている人達はヒロにしかいないでしょうね(笑)
一作:べっちょってどういう意味?
愛:べっちょは女性器を意味します。
一作:福島弁になる訳?
愛:そうですね。
わたし、この話大好きで(笑)そこらじゅうで話しまくるんですけど、それを聞いている福島の人達に、いつも、「あんた、意味分かってるの!?」って心配される(笑)
一作:ハハハハハ(笑)
愛:要は、盆踊りって、夏の男女の出会いの場でもあったし、昔はそういうナスティー(淫らな)なかけ声も多かった、
一作:沖縄で云うところの“毛遊び(もあしび)”だ。
愛:へ~、毛遊びもそういうことなんですか?
一作:うん。
祭で皆集まって、その辺(外)でラブしちゃうみたいな。
愛:成る程。
東北ですと、真夏の農閑期に皆が集まる。
やはりなんと言っても子孫繁栄って重要なことですから、そのための男女の出会いの場を作る。
でも、実は、ハワイでその辺の話をすると凄く嫌がられるんです。
オアフとマウイではべっちょは完全な禁句になっていて、残念ながら自身のルーツの黒歴史として認識されています。それはアニミズムとクリスチャン歴のせめぎあいの中での、現在の合衆国の州としてのハワイの意識なんでしょうね。
そんな形で淘汰されてゆく中で、ハワイ島のヒロ・ボンダンス・クラブの人達だけがべっちょをいうかけ声を伝承している。
一作:べっちょなんだから、それとは本来関係ないよな。

岩根愛氏
愛:ハワイの盆ダンスには、真珠湾攻撃を機に始まった戦争を経て苦労した先祖のことを敬うという、宗教仏教行事として神聖な側面もあって、まあ、夜這的なものが排除されたんでしょうね。
一作:クリスチャンとのせめぎあいって、フラでもそうだけど、一時、フラ禁止になったりもしたよね。正にそれはアメリカ文化の押しつけで、あの時期、古典フラは消滅の危機さえあった。そして、継承が途絶えるギリギリで始めたのがハワイ島のメリー・モナーク・フェスティバル。
愛:そうですね。
ハワイアンの唄も性的なものが結構ありますよね。
一作:あるある。
実際の聖地にもそういう場所があるし。
愛:本来アニミズムに則した文化には付きものですものね。
ただ、ハワイは、現在、アメリカなのでキリスト教文化の方が社会的に圧倒的に優位なので、その辺を無くしてゆく傾向にある。
一作:でも、愛ちゃんが傾倒する、盆ダンスと日系移民の人達がそこでクローズアップされ再度注目されるという、ハワイの持つ土壌がまずは面白いよね。
愛:そうなんです。
日本、フィリピン、ポルトガル、中国、韓国など、さまざまな国からやってきた移民のそれぞれの文化を尊重するところがハワイの最大の魅力ではないでしょうか。
一作:うん。同感。
おれはいろいろ旅をした後、最後の最後に行ったのがハワイだったんだ。
行く前は、「なんか軽~~いイメージの島だな…」なんて感じで、まるで興味がなかったんだけど、実際に行ってみると、今、愛ちゃんが話してくれた部分が非常に心地よかった。
『ファミリー・ツリー』なんて映画を見るとその印象が蘇るよ。あの作品でのジョージ・クルーニーは素晴らしいし、なんといっても音楽が最高。いきなりレイモンド・カーネがかかったり。あれだけローカルなハワイアンミュージックがガッツリ並ぶって、サントラでは珍しいよね。
ジョージ・クルーニーの役柄は王族の子孫で、先祖から引き継いだカウアイにある土地を売却する方向にあらかた決まっていた、……、だけど、最後は先祖の土地はやはり売らないと。まあ、そんな話なんだけど、これが結構ね……(苦笑)
愛:うん、……。
一作:前回に引き続き、また映画の話になっちゃったけど(苦笑)おれの中で、あの盆ダンスの番組は凄いヒットで、「やっぱり、岩根愛やるじゃん」って(笑)
愛:ハハハハハ(笑)
ありがとうございます。
◇◆◇◆◇
伝統文化の衰退に関し、その主な要因が、アニミズムとキリスト教のせめぎあいという、正に文化人類学を彷彿させるハワイの壮大な歴史にまで話題が及んだところで、一作が懐かしそうな遠い目で、初めてのハワイロケ旅情へと時間軸を巻き戻す。
◇◆◇◆◇
一作:重複するけど、おれはハワイに関しては正直なめていたんだけど、フラの繋がりからいろんなことを学ぶことになった。
かっこ良く言ってしまえば、精神世界のこととか(笑)、要は、目覚めていく訳です。LSD抜きの「ドンファンの教え」みたいにね。
ワイキキは別として、ハワイの島々にはそういう旅の切っ掛けがそこかしこにある。そしてそこには、必ずネイティブな人達、そして、日系移民の人達が絡んでくる。そんな、旅って本当楽しいよね。
まあ、その入り口が、さっき愛ちゃんから名前が出たニックなんだけどね(笑)
愛:うん、そこがわたしと一作さんの共通点(笑)
わたしのハワイはニックさんと出会ったことから始まった。今、やっていること全部がそこからと言っても過言ではないです。
ラジオアダン:お話の腰を折って恐縮ですが、ニック加藤さんのご職業等お教え願えないでしょうか?
愛:そうですね、初めてその名を聞く人達には全然分からないもんね。
ではそれは、一作さんに説明してもらいましょう(笑)
一作:えっ、おれ!?(笑)
おれが初めてハワイに行った当時は、彼はロスからハワイに移転してきたばかりだったけど、既にコーディネイターをしていた。
ラジオアダン:日系の方?
愛:いや、日本の方です。
長野県出身でアメリカの大学に行って、
一作:卒業後もアメリカに残ってロス経由でハワイということだね。
おれが会ったのは80年代、まだ「CAY」をやっていた頃。
そのCAYに、絶頂時のピーター・ムーン・バンドを招聘するために、雑誌「SWITCH」をメディアとして巻き込んだ。ここで、編集者の稲田(英昭)くんが登場する訳だ(笑)「特集で“ハワイ”をやろう!」なんて感じで、ピーター・ムーンをフューチャーしたページも作って、それを書いたのが亡くなったライターの駒沢敏器くん。
愛:あぁ、駒沢さんだったんだぁ……。
一作:うん、そう。駒ちゃんと、おれと、稲田くんと、カメラマンがチョクさん(松本直行)
この時のおれの役割は、……、ライター業務は駒ちゃんだったから、……、只のいいだしっぺ。
あの頃はなんていってもスポンサーがそれなりに付いたから。
愛:あの頃のSWITCHだったらそうでしょうね。
一作:うん。
「SWITCHと抱き合わせでやるから」って、旧知がいる某ブランドのプレスルームに話を持って行った。
そこが冠を取ってくれることが決まって、その予算で皆でハワイに行った。それが、おれの初めてのハワイ(笑)
愛:何年くらいのことですか?
一作:87年じゃなかったかな~?
この時、おれだけ暇だからさ(笑)「先に行ってるよ」って先乗りしたの。
空港に着いた時、「さてどこに行こう?」なんて思って、高速の方に上がって行ったらバス停があって、そこでボォ~としてたら“Waikiki”って書いたバスが来て、それに乗ったの(笑)
宿も決まってないから、「どこで降りようかな~」なんて思案していたら、愛ちゃんは分かるだろうけど、アラモアナが過ぎてさ、橋渡って、ラニカイホテルがあって、その先にタヒチアンスタイルのチキが立っている「ワイキキアン」という名のコテージが目に入ったの。
愛:今は無いでしょ?
一作:うん、無い。
実はそこはあの時代でも唯一のポリネシアンスタイルのコテージだったと後で知るんだけど、バスも丁度そこの前に止まった。「うぁ~、おれここに泊りたい!」って衝動的に降りたんだ、ガハハハハ(爆笑)
愛:ハハハハハ(爆笑)
一作:フロントに行って「1週間泊る」と告げて、その後、追っかけてくるクルーのための3部屋もキープした。
2階建てがラグーンまであって、夜にはたいまつに火が着いて。安くて。
今、そんな宿ないから(笑)
愛:ない、ない(笑)
そんな感じでゆったり泊れるところはなかなかないですよね。
一作:そこも今は無く、以前行った時は駐車場になっていた……。
それにしても、着いてからの1週間は楽しかったな。
コテージの一番奥に「タヒチアンラナイ」という名のいい感じのポリネシアンスタイルのバーがあって、種明かししちゃうと、おれがその後作った店の原点でもある。青山で「タヒチ」という店をプロデュースした時は内装に関しては相当パクってる(笑)
ラジオアダン:「タヒチ」はそのバーのトリビュートだったんですね
一作:違うよ、そんな良いものじゃなくて、パクリ、パクリ。ガハハハハ(爆笑)
愛:ハハハハハ(爆笑)
タヒチアンラナイ。
一作:うん、ラナイって庭って意味。いいバーだったな~。
そこで、アンティ・ジェノア・ケアヴェのライブを見たり、金曜の夜になると、婆さん達がフラのセッションをするのを見たり。そのフラが良かったの。お決まりのフラじゃなくて、車座になった中からひとりずつ出て踊るんだけど、それがかっこいいのよ(笑)
おれが呼び出してニックと初めて会ったのもそのバーだよ。
クルーが到着して、稲田くんもピーターとのコーディネートを事前に細々としてくれていて。
ピーターはあの頃、「サンディ・マノア」の後だけど、一番良かった時期じゃないかな?ギャビー(・パヒヌイ)も亡くなって、一番、ハワイ音楽が下火になった時期に、コンテンポラリーとトラディショナルを融合させて頑張っていたのがピーターだった。
その取材では、駒ちゃんが、「クジラの話を書く」ってことで、最終的にはマウイまで行って、

愛:駒沢さんとはわたしもSWITCHでブルースの旅をしてます。
一作:へ~、そうなの!?
愛:一緒に仕事をしたのは、結局、その1回だけになってしまいましたが……。
一作:それ聞きたいな、話して話して。
愛:アメリカ南部の旅を一緒にしたんですけど、ジューク・ジョイントを巡る旅。
一作:駒ちゃんは真面目だからさ。
大雑把に言っちゃえばロバート・ジョンソンの道程みたいなもの?
愛:ええ、そうですね。映画とのタイアップでしたね。
そういえば、新世界にも駒沢さんはご出演されてましたよね?
一作:うん。駒ちゃんにもなんかやってもらいたくて電話して。その時の彼の興味は沖縄だったんで、「丁度いいじゃん」って感じでトークショウを3~4回程やってもらったのかな?
愛:そうだったんですね。
わたしが初めてハワイに行ったのは2006年、11年前ですね。
その時はサザン・オールスターズをオアフで撮る仕事で、
一作:愛ちゃん、どメジャーな仕事してるね~。
愛:その頃はね(笑)
でも、切っ掛けはこだま(和文)さんですよ。こだまさんのジャケット撮影からビクターの仕事が始まって。その切っ掛けがクイック・ジャパンだったし、だから簡単に云えば、「サブカルから音楽の方に入っていった」ってことで、わたしの20~30代はずっと仕事をしていて、その間にドライ&ヘヴィーのヨーロッパツアーに押し掛け同様に同行したり、いい音楽を追いかけて走り回るような生活でした。
一作:若かったし、可愛いし、いいキャラしてるから業界で凄く人気あったでしょ?
愛:人気あったかは自分では分からないですが、音楽の現場にいるのが凄く好きだったし、時代的にもの作りに対してしっかり考えてから立ち向かうクリエーター達と一緒に冒険が出来る時代でしたから凄く楽しかったですね。極論を言えば、当時はジャケット撮影が一番好きな仕事でした。

◇◆◇◆◇
盆ダンス、福島、ハワイ日系移民という、岩根愛が独自の道程で見つけた太い地下水脈の流れは、今後も更に勢いを増すようだ。
写真制作は勿論、既に、劇場映画として着々とプロジェクトが進行しており、一作、愛共に愛して止まない映画監督、中江裕司氏がメガホンを取る。
◇◆◇◆◇
一作:このプロジェクトはまだ進めて行くのかな?
愛:ええ、最終的には映画化を目指していて、あの番組は云うなれば、前篇に当たる感じでしょうか。
一作:完全なドキュメント映画として制作してゆくの?
愛:そうなんですけど、ハワイの日系人の歴史を、「面白く伝えたいな~」って思っていて、実際に監督とは、「そのために、音楽映画の方向へ振ろうか?」なんて話にもなっています。
一作:中江監督だったよね?
それは、愛ちゃんからのオファーで実現したの?
愛:ええ。
最初から、「監督は中江さんでやりたいです」って言ってました。
一作:中江監督とは旧知?
愛:中江さんは「白百合クラブ 東京へ行く」という、
一作:あれも素晴らしい作品だよね!
愛:あれのスティールはわたしがやっていたんですよ。
一作:そうだったんだ。
愛:それが初対面で、お仕事もやらせてもらって、
一作:じゃ~、「ナビィの恋」の頃はまだ知り合っていなかったんだ。
愛:ええ。
一作:「ナビィの恋」って17~8年前だよね。ちょうど、三田に旧アダンをオープンさせた頃で、昔のテアトル東京に見に行って感動して、帰りにはサウンドトラックまで購入して、開けたばかりで全然お客が来ない店で毎日聴いていた(笑)
素晴らしいじゃん、あの、マイケル、……、……、
愛:マイケル・ナイマン。
中江監督って音楽も勿論なんだけど、“うた”、口偏に貝と書く“唄”を凄く大切にする方なので、「そういう監督に撮ってもらいたい」と常々思っていたんです。
一作:中江監督はおいくになられたの?
愛:中江さんは今、50代後半じゃないかな?
一作:若いんだよね、「ナビィの恋」が18年くらい前だものね。
その後も一杯いい作品を撮っている。
愛:「白百合クラブ 東京へ行く」の公開時に、本も作ることになって、出演者の人達の取材で石垣島へ行くんですけど、それが一緒に組んでやった仕事の最初。
ラジオアダン:スティールの時は全編ではなかったんですか?
愛:ええ、東京だけのお仕事でした。
今、思えば白百合の仕事で、南の島でおじぃ、おばぁと踊ることに味をしめたかもしれない(笑)
一作:そうか~、あれはどのくらい前だっけ。
愛:あれは~、……、2000年代頭(2003年)ですよね。
わたしバリバリ20代でしたから(笑)
一作:若いのによくそんな仕事やってるよね~、偉い(笑)
昔からちゃんと仕事してたんだな~。
愛:20代が一番仕事していたかもしれない(笑)
メディアで一番仕事をしていたのは20代後半から30代前半じゃないかな?
一作:凄いね。
おれなんてクーリーズクリークが始まる27歳より前は何者でもなかったよ。
皆だれがなにになるかも分からない時期に、岩根愛はもうしっかり見定めた方向で仕事をしていたんだから、偉いわ。
愛:いやいや(苦笑)
フリーランスになったのが21歳でしたから。
ラジオアダン:めちゃはや!!
愛:その頃、女の子カメラマンブームがあったんです(笑)
ラジオアダン:ああ、ありましたね、HIROMIXさんとか、
愛:ええ。
なんか、「若い女に写真を撮らせたら面白いんじゃないの」なんて風潮があって、その時代の生き残りなんですよ、わたし(笑)
一作:ハハハハハ(笑)
そう、実は若いんだよね(笑)
その割に、随分年齢が上の、こだまくんや、南(流石)さんもよく知っていたり、
愛:こだまさんは、前述しましたが、「クイック・ジャパン」(太田出版)で知り合いました。社カメ的に沢山仕事をさせていただいている時に、こだまさんは連載をされていたので。作品も気に入って頂いて、ジャケットもやることになったんです。
ラジオアダン:ひょっとしたらですが、先日こだまさんがこの酔談に来られた時に話された、「野坂×こだま対談」の写真を撮っていたりしませんか?
愛:うん、あれわたしです。
ラジオアダン:やっぱり、そうでしたか。
一作:それは凄いね。あれ、写真は愛ちゃんだったんだ。
そうだよ、こだまくんとの対談で野坂昭如さんの話になって、先週の週末に「バー黄昏」で「マリリン・モンロー・ノーリターン」をかけるという流れになったんだよ(笑)
愛:????
ラジオアダン:週末だけ渋谷の系列店「おふく」にDJブースを組んで、「バー黄昏」って名義で音遊びをしているんですが、先週、急に一作さんが、「野坂昭如さんかけてよ」と言い出して、「マリリン・モンロー・ノーリターン」かけたって、ただそれだけの話です(笑)
一作:深い時間になると毎回完全に懐メロ大会になっちゃうんだけどね(笑)
愛:ハハハハハ(笑)
そういうことでしたか(笑)
ラジオアダン:愛さんは今年の4/1(土)は東京にいないですかね?
愛:(黒岩)奈美さんの命日ですよね。残念ながらいないんですよ。
※黒岩奈美/毎年、一作プロデュースの「新世界」では、岩根愛オーガナイズで「ナミフェス」と謳い、4/1周辺に、ゴールデン街の名物ママであり2人の共通の友人黒岩奈美さんを音楽追悼していた。
一作:まあ、今度さ、愛ちゃんが落ち着いたらこじんまりと飲み会でもいいからやろうよ。
愛:ええ。
一作:なんでこんなウェブ連載を始めたかというと、新世界のおつかれさんとおれ自身の反省会をやりたかったんだ。
だから、新世界に関わってもらった人達を主に呼んでいる。
まあ、そんなだから、“無理に題材も作らずに”な感じなんだけど、今回は素晴らしい番組を一昨日見たばかりなんでテーマ性が出ている特別版だね(笑)

◇◆◇◆◇
岩根愛の進行中のプロジェクトは、全てに於いて、“出会ってしまった”のだと思う。
古いパノラマ写真、旧き名器サーカット、フクシマオンド、盆ダンス。
バラバラだったパーツはやがて結実し像を描くのだが、その集約の魔力はハワイ特有のものだと一作は言う。
曰く、“求めていればそこへ行く”
そして、本日の「酔談」のクライマックスを迎える。
なんと、岩根愛がその結実した像を持参してくれたのだ。
◇◆◇◆◇
愛:わたしは基本、イメージすれば叶うと思っている伏があって(笑)今やっていることも、パノラマカメラと出会って、修理出来て、今撮っている。福島とハワイの盆唄の交流も同じように思うんです。
一作:あのカメラは凄いよね。
愛:一番最初は、あのカメラで撮った古い写真をハワイで見つけたことから始まったんです。
ちょうど今持って来ています。一作さんには以前見せませんでしたっけ?
一作:勿論見たよ。
この形状の作品による写真集はまだ出してないんだっけ?
愛:いろいろ考えていますが、これ、なかなか本にはおさまらないですよね。
一作:おれ、今日これを見たかったんだよ!
愛:この写真は、今わたしが使っているサーカットというカメラで撮影された日系移民の吉村さんという方の葬儀での集合写真です。当時の日系の方々はお葬式では必ずこういう写真を撮っていたみたいです。
そもそもカウアイ島で泊った宿が、以前、写真館を営まれたいたお家だったのですが、買い取ったオーナーはそのことを知らなかった。ですから、こういう写真がそこかしこにあって、「写真家のきみならこれがなにか分かるでしょ?」と逆に質問されて(笑)当然、わたしもこんな写真は見たことがなくて。第一、どう見てもトリミングして伸ばした写真じゃない。その疑問を抱えたまま、色々調べ出した中でサーカットに辿り着いて、今、この写真を撮ったカメラで自分が撮っている訳です。
一作:これ1950年に撮った写真だよ!
映っているのは移民の最初の人達だね。おじさん達が1世でこの若い人達が2世だろうね。
この写真は凄く旨い塩辛みたいなものだよ!
愛:????
一作:それだけでどれだけ飲めるか!?のように、どれだけ語れるか!?
ガハハハハ(爆笑)
愛:ハハハハハ(爆笑)
当時の方々は、葬儀の時に人が集まることを非常に大切にしていた。そして、それを記憶するため、あと、故郷に送るために写真を撮っていたんでしょうね。

ラジオアダン:今のお話を聞く限り、直ったはいいけど、カメラの操作自体もそうとう手探りの状態から始めた訳ですよね?
愛:ええ、超手探りです(笑)
でも、ネットで検索したら、オハイオ州で同じカメラで撮っている人がいて、メールで情報交換するようになって、非常に親切な方で、現像の仕方からフィルムの詰め方から細々と教えてくれて、リチャード・マグロスキーさん。
一作:ハハハハハ(笑)
愛:彼のおかげで今、わたしやれているんです(笑)
アメリカにはやはり何人かいるんですよ、このカメラで撮っている人が。
一作:番組や映画に因んでの写真展なんて計画は現状あるのかな?
愛:やりたいですね。
実は2枚今持って来てるんですけど、見ますか?
一作:おお、勿論見せてよ!
長いね、おれと愛ちゃん2人で持とうか。
おお、凄いね。パホア?
愛:ええ、ハワイが1枚、福島が1枚です。
ハワイの写真は、去年のラバ(溶岩流)に2/3が埋もれてしまった、パホアの墓地です。
一作:お墓が溶岩で埋まっちゃってるんだ。
愛:そうそう。

一作:パホアはいい町だよ。ヒッピータウンだよね?
愛:そう、ヒッピータウン。パホア近辺は溶岩が流れてきた歴史が繰り返しあるのですが、これは2015年、パホアの町付近まで溶岩が流れてきた時に、ギリギリで止まったところが墓地だった。
一作:2015年か、おれが2回目に行ったときがカラパナが無くなったときだよ。
愛:へ~、そうだったんですか。
一作:稲田くんとブラックサンドビーチ(カラパナ)でランチして、その翌年には無くなっていた。遥か海岸まで溶岩が流れ出して、固まって。あれを見ると地球のエネルギーって凄いと思う。
愛:ハワイの地形は、ペレがどこに流れてゆくかでどんどん更新されてゆくから。
一作:写真がまず素晴らしいね。
愛:ハワイの日系人の忘れられた墓地を巡る連作の中のものです。
こっちの福島の写真は、帰還困難区域を撮っていて、これは番組にも出て来た双葉の横山さん宅のすぐ裏の交差点、2014年の写真です。
一作:今ここに5時間しか入れないんだな~…。

愛:この忘れられた日系移民のお墓と福島の帰還困難区域の写真、2つのシリーズを合わせて写真展をやろうと進めています。
一作:素晴らしいじゃん、もうこれ見せてもらったから対談終わろうか?(笑)
愛:ハハハハハ(爆笑)
ラジオアダン:いやいや、まだ尺が足りない……(苦笑)
愛:来年、映画を公開する時に展覧会を合わせてやれるように今から準備しようと思っています。来年で、わたしがハワイに行き出して12年だし、
一作:まだ12年??短期間に随分深いところに入っちゃったね(笑)
ハワイって凄くって、……、まあ、インドなども凄いんだけど、それとは違う凄さは、「求めていればそこへ行く」みたいなところあるでしょ。
愛:そうそう、会える気になれば会える。
あと、テレパシーが通じる(笑)
一作:また戻してしまうようで申し訳ないけど、ニックと最初の出会いにも同様の部分を感じてしまう。
例のバーで彼と初めて飲んだ時は、フラなんておれは興味がなかったし知識もまるでなかった。そしたらニックが、「フラは本当に素晴らしいものだから、ハワイ島のヒロの祭典を君は見るべきだ」と強い押しで促すんだ。
で、行ったのが、メリー・モナーク・フェスティバル。
その後、数年してまた行くんだけど、この時点でもまだ日本人は全くいなかった。フラ古典、“カヒコ”って云うんだけど、おれは、「これは凄いものだ」と確信したんだ。
帰国後、稲田くんにその話をして、最終的にはSWITCHでフラの話を書くことまで発展していった。その後、サンディーが登場して、彼女が10年かかってクムフラ(フラマスター)になるまでの道ゆきを共有することになった。
だから、ハワイって、求めていればそういうところまで連れて行ってくれるところかもね。
でもそこに行くには、昔の関所みたいな手形が必要。要は試験に通らないと行けないんだろうな、多分(笑)

◇◆◇◆◇
ここで、突然だが、
「カボシャール」。
フランス製の高級フレグランスの名。直訳すると“強情っ張り”の意。
いくら毎回後半は話が飛ぶ傾向にある「酔談」といえども、ハワイから急にパリに飛ぶはずはない。
カボシャール、本日最後の話題の軸となるこの形容動詞は、新宿ゴールデン街にあった2人が親しくしていた黒岩奈美さんが営んでいたバーの名である。
実は、2010年に急死した彼女を、オリジナル新世界を一作が運営中は毎春追悼するイベントを2人が旗を振りとして行っていた。
◇◆◇◆◇
一作:新世界での「なみフェス」は、愛ちゃんに大いに尽力してもらって、あと編集者の吉田(幸弘)くんにも。
ところで、吉田くんって浅草に住んでない?
愛:ええ、そうそう。
一作:おれ、浅草の並木の薮で、日本酒とざる蕎麦でいい気分になって歩いていたらバッタリ彼と会って、最初、都築響一さんと間違えちゃって、あの2人なんか似てない?(笑)
愛:ハハハハハ(爆笑)
こだまさんのライブにご両人とも来ていたりするから、なおさら混乱したんじゃないですか(笑)
一作:それもあったかもしれないね(笑)
で、ああいう故人を追悼するようなイベントをやるといろんなことを言う人がいる。
「あんなことをやっては、無くなった人に対して失礼だ」とか、「故人でビジネスするのか!?」とかね。金儲けになる訳ないじゃんね~?
愛:ええ、一作さん的には赤字でしょ?男気出して(佐々木)彩子さん(ex.渋さ知らズ)を屋久島から招いてくれて、
一作:まあ、それはいいんだけど、おれは思うんだよ、ああいうものはやらないよりやったほうがいいって。
やることによって彼女を偲ぶ人が1年に1回何人か集まればそれで十分でしょ。
極論を言えば、墓に行くようなものだからね(笑)奈美ちゃんの墓は高知か?海の見えるいいとこかもしれないけど(笑)いかんせん簡単にはいけないもの。
小野(志郎)ちゃんを偲ぶ「小野フェス」もやっていたんだけど、あれだって年1であって当然。3/11に黙祷するみたいなものだから。
チャージも小額に押さえてさ、そのくらいは奈美ちゃんを思い出すお布施と思ってもらって、利益が出れば勿論故人に還元してね。
亡くなって直ぐの新宿「スモーキンブギ」での集まりも実際そうでしょ?
※小野志郎/音響エンジニア。トランス、野外フェスを日本に根付かせた伝説のPA、オーガナイザー。
愛:ええ、集まったお金は全部遺族の方に渡しましたね。

一作:そういう運営側の内幕を分からない人達はいろいろ言うけど、別に言わせとけばいい。
愛:思えば、一作さんのお名前は以前から知っていたんですが、初めてご挨拶したのは、そのスモーキンブギの時だったと思います。
一作:そうだっけ。
あれは、どんな経緯で運営側にまわったの?
愛:みんなに愛されている奈美さんなので、ゴールデン街の周りのお店の人達が仕切っていました。その中に入ってお手伝いさせていただいたという感じですね。
一作:ところで、若いみそらで、なぜそんなに当時、ゴールデン街が好きだったの?
愛:わたしの場合は、最初に連れて行ってもらったのは写真の師匠で、業界では有名なママさん、久美さんの店に行っていたんです。
そんなある日、久美さんのところが一杯で、「入れないから向かいの店で待っててよ」なんて誘導されて行ったのが向かいの奈美さんのカボシャール(笑)
ラジオアダン:あの~、……、ぼくと経緯まったく一緒なんですが(苦笑)
愛:ハハハハハ(爆笑)
久美さんのお店も、勿論、素敵なお店なんですけど、常連客が業界の大御所だらけで、若かったわたしには奈美さんのお店のほうが俄然居心地がいい(笑)
ラジオアダン:そこまでも一緒です(笑)
一作:おれは年齢的には意外だと思われるけど、ゴールデン街はカボシャールしか行ったことがないんだよ。実際の話避けていた。
例の演劇関係の人達の酒場での論争が嫌でさ(笑)
愛ちゃんは新宿自体が近かったの?
愛:距離よりも、とにかく2000円持って行けば奈美ちゃんが飲ませてくれるんで(笑)
音楽センスもいいじゃないですか、あの人。
自宅で仕込んで来た美味しいおつまみもカウンターに並んでいて(笑)
一作:ひょっとして吉田くんとも、
愛:奈美ちゃんのところですよ。
一作:ガハハハハ(なぜか爆笑)
それ、いいね!(笑)
久美さんのとこってなんて店名なの?
愛:そのまま「クミズ・バー」ですね。
一作:そう。
おれほんとゴールデン街はカボシャールしか行ってないもんな。
(カメラマンに向かって)そういえば「KINARI」(メンズファッション誌)にエッセイ書いた時に、取材で、夕方、マイケル(・アリアス)と飲んでカボシャールの前で写真撮ってもらったね。もう違う人に経営が変わっていたけど。
愛:カボシャールは一時期は毎日行ってましたね。
アシスタントの頃はそうそう行けないけど、フリーになって、時間とお金がある程度は自由になってからは。なにせ2000円ですから(笑)
あと、誰かを連れて行くと、必ず皆喜ぶんですよ。奈美ちゃんと話すと皆いい気分になる。
一作:ああそう。
でもそれ遅い時間でしょ?
愛:ええ、主に。
一作:やっぱり。
奈美ちゃんのところは遅い時間に行かないとダメだな。
例えば、勝どきあたりで夕方4時くらいから飲んで、その後、何件かはしごして、それでカボシャール行ってもまだ8~9時。
その時間だと、彼女は全然喋らない。すげ~恥ずかしがってモジモジしてるんだよ(笑)その辺で大体、性格を掴んで、いつだったか?敢えて遅い時間に行ったら大騒ぎでさ~(笑)
あと、おれの店のカウンターで飲み出しちゃって、「もう今日は店行かない」なんてのもあったな(笑)
愛:ハハハハハ(爆笑)
あんな人なかなかいないよね(笑)
一作:いろんな話がさ、全部拾えるんだよね。
KINARIでも奈美ちゃんの店を称して“寺山修司からニューウェーブまで語れる店”って書いたもの。
愛:ところで、新世界のなみフェスの切っ掛けはどんなだったんですか?
一作:(進行に向かって)どうだっけ?
ラジオアダン:かいつまんで言えば、愛さん達がやってくれたお別れ会がしめやかながらも非常に楽しかったんで、「あんなことを年に1回出来たらいいね」となって、まずは、奈美さんと親しかったライターの森(一起)さんに相談したんです。そこでオーガナイザーとしてお名前が出て来たのが、吉田さんと愛さん。
一作:そうか、そこで愛ちゃん登場か。
愛:わたし自身、あのスモーキンブギのお別れ会がイベントを仕切るという初体験でした。奈美さんには本当の娘のように可愛がってもらっていましたから。
かけ出しの頃は、奈美さんの店で営業していたようなものでした(苦笑)実際、初連載の仕事が決まったのもあそこでの出来事(笑)
そういえば、なみフェスの時に、こだまさん、一作さん、(相原)誠さんの3ショットを撮ったんですよね。
※相原誠/ドラマー、飲食店経営者。ダウンタウン・ブギウギ・バンドのドラマーの“誠”といえば知らない者は新宿にはいない。
一作:あれ、なみフェスの時だっけ?
ラジオアダン:しかも、誠さんがたまたまジャマイカ国旗のTシャツ着てるんですよね(笑)
一作、愛:ガハハハハ(爆笑)

ⒸAI IWANE
一作:笑うね!
あの2人初対面の割にはすぐに仲良くなっていたよね。
奈美ちゃんはミュートビート好きだったんだよね?
愛:大好き、大好き!私がこだまさんのジャケットを撮ったときもとっても喜んでくれました。それもあって、前日に同じ新世界でライブがあったのにこだまさんは来てくれたんですよね。
ありがたいことです。
一作:面白いことやっていたね、新世界は(笑)
愛:今、奈美ちゃんちみたいなお店はないのかしら。
一作:ない(きっぱり)
言うなら、土曜日の「バー黄昏」しかないでしょ(笑)
愛:じゃ、今度そこに顔出しますね。
場所は?
一作:知らなかったっけ?
前の「アダン食堂」。
愛:行ったことないんですよ。
一作:本当は「家庭料理 おふく」ってお店なんだけど、土曜日限定でDJ入ってバー営業してるの。かなりいいよ(笑)
愛:土曜日?
一作:うん。そこにこないと(笑)
そこはめちゃくちゃでいいよ(笑)
愛:じゃ~、帰って来たら今度はそちらにお邪魔しますね(笑)
一作:うん、土産話待ってるから。
今日は忙しいのに来てくれてありがとう、気をつけて行って来てくださいね。
◇◆◇◆◇
再会を約束し幕を降ろした、福島〜ハワイの地下水脈を巡る一大酒宴。
次回、会う時は岩根愛はハワイからの帰国後。
更に、チューンアップされたそのセンスと情熱によって、新たに立ち現れる像は写真芸術として高度に昇華されているのだろう。
さて、その作品群を至近距離で今度拝見出来るのは、……?渋谷の土曜限定「バー黄昏」?
そんな先のことは誰も分からない。
なぜなら、人生の殆どの出来事なんて酔っぱらいが酒場で夢想したことを、神様が空模様に沿って暇つぶしにチョイスしているだけだから。
とぅ・びー・こんてぃにゅーど
@泉岳寺「アダン」
◇◆◇◆◇

テキスト、進行:エンドウソウメイ
写真:鈴木完
●今回のゲスト

Photo by HARUKI
岩根愛/プロフィール
写真家。1991年単身渡米、カリフォルニア州北部のオルタナティブスクール、ペトリアハイスクールに留学。自然と共に、オフグリッド、自給自足の暮らしの中で学ぶ。1996年よりフリーランスとして、雑誌媒体、音楽関連等の仕事をしながら、フィリピンのモンテンルパ刑務所(2010)、ロシアのニクーリンサーカス(2011)、台北榮民の家(2012)など、世界の特殊なコミュニティでの取材を続けている。2006年以降は、ハワイにおける日系文化に注視しながら、2013年より福島県三春町を拠点に、福島移民を通じたハワイと福島のつながりを追いながら制作している。
www.mojowork.com
@Ai_Iwane
★岩根愛著作、ハワイ島、ハマクア浄土院の盆ダンスを題材にした絵本『ハワイ島のボンダンス』福音館書店より絶賛発売中!

河内一作/
山口県生まれ
八十年代から霞町クーリーズクリーク、青山カイなど常に時代を象徴するバー、レストランの立ち上げに参加。九十年代、仕事を辞め世捨て人となる。
六年間の放浪生活の後社会復帰し、アダン、青山タヒチ、白金クーリーズクリーク、音楽実験室新世界、奥渋バー希望、南洋ギャラリー、など手がける。お楽しみはまだこれからだ。