本年6月17日、80年代後半、恵比寿五叉路にあった今や、“伝説のバー”と称される、とあるDJバーのトリビュートイベントが「バー黄昏」で行われた。
そのバーと、店舗面積的には略同様の黄昏ではあったが、主催者の脳内シュミレーションとは別に入りきれない程の集客で、スタッフもてんやわんやの一夜となった。
創設メンバーの1人でもあった筆者は、“自身の価値基準より他人の評価が高いということが現実世界には起こりえる”ということを改めてそこで知るのであった。
さて、当日は、「往年の常連も多く顔を出すであろう」と、当時の人気曲も多く持参したが、“今”の意識も強く、“過去5、今5”くらいの配分での選曲。そんな中、当時を強く思い出す1曲をどうしてもかけるタイミングが測れず、その曲調も正に“黄昏”していることもあり、今回の黄昏ミュージックはその楽曲にさせて頂く。
音楽大国西アフリカ/マリが生んだ世界的シンガーソングライター、サリフ・ケイタのメジャー初アルバム「ソロ」から、飛び抜けたスケール感を誇るバラード曲「ソウリバ」。
当時の“ワールドミュージック”というジャンルを強く感じさせる、過剰に人工的なシンセの音色と打ち込みトラックに絡み付く人間の根源をも感じさす純ヒューマンボイスの対比が、この時代のレアな土産物であり、サリフ・ケイタの真骨頂でもある。
あの時代の恵比寿は、この曲が似合う程に、ナチュラルに無国籍なサイバー空間であった。(se)
投稿者: adanendo
『ArtShow Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』 (通称Beatles展)
参加作家名(順不同)
SpecialGuest
Shinpei Asai 浅井慎平(写真家)7月15日までパネル展示してくださいます。
Dabstar ダブスター(コラージュ二スト)/Asami Maruyama まるやまあさみ(刺繍作家)/Mamoru Ohtake 大竹守(イラストレーター)/Naotaka defoe ntk Tateyama デフォーNTK (グラフィックデザイナー)/Yushi Dangami 團上祐志(画家、武蔵美油科学生)/Satomi Matsumoto松本里美(版画家、音楽家) /Kohei Shioi 塩井浩平(イラストレーター)/Amane Yamamoto 山本周(グラフィックデザイナー、コラージュニスト)/Keiko Nasu 那須慶子
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OpeningEventを6月26日月曜日19:00~開催
ワクワクするような貴重なお話と展示、普段この価格では頂けない丁寧で美味しいお料理をお楽しみ下さい〜。いらしてね〜♡
Talk2000円+お食事ブッフェ形式2000円+Drink
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お申し込みは
Coolie’s Creek クーリーズクリ−ク
または
nicekeiko@gmail.com
までよろしくお願いいたします。当日フラッとも大歓迎です〜。
Talk
🍏 藤本国彦さん(ビートルズ研究家「ビートルズ・ストーリー」編集長/編集者/ライター)
🍏 野口淳さん(ビートルズ資料館学芸員)
🍏 朝日順子さん(翻訳家)
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LaptopDJ
🍏 梅田武志さん(THAT’S ALL RIGHT 総合ディレクター)
「連載対談/『酔談』vol.5」ゲスト:橋本浄氏、片岡一史氏 ホスト:河内一作
“酔談”。見ての通り、酔って語らうこと。当然、造語である。
酔っているがゆえの無軌道さ、無責任さ、大胆さ、自由さをそのまま気取らず飾らず実況する、それが「対談連載/酔談」の全てである。
アダングループ代表、河内一作が東京の夜のフロントラインに初めて立った、1981年の「クーリーズクリーク」から現在に至るまで、彼が関わった店が、単なる飲食店におさまらず“自由なステージ”としての酒場の背景を演出出来えた“要”ともいえる大切な友人達を毎回招き、テーマなしのゼロベースから美味しい酒と肴の力を借りつつ今の想いを語り尽くすトークラリー。
さて今回のゲストは、ここ数年、紙媒体、ライブ空間等、多様な形で河内一作と至近距離で交わって来たお二人、独自の地球に優しいクロージングをいち早く打ち出し、サスティナブル、野外フェスシーン等を中心に多くのファンを持つブランド、ゴーウェスト/ゴーヘンプの橋本浄氏(以下継承略)と、同様の土壌でスピーカーとして長くフリーメディア(『ライスペーパー88』、『Lj』等)を刊行し続けてきた、発行人、カメラマンの片岡一史氏(以下敬称略)をお招きし、数えて第5回目となる身内色強いコアなトークセッションをお馴染みの泉岳寺「アダン」特別室で決行。
実に多くの時間を共有してきた3人だが、意外や意外、その出自やルーツを語り合ったことは皆目無いらしく、まずは、橋本の自然環境に着眼したもの作りの萌芽とも云える、ティーンエイジャー時代の話からセッションはスタート。
と言いながらも、長き確かなキャリアを持つ彼ゆえ、大河ドラマにも匹敵する広大なタイムラインが横たわる。急ぐ旅でもあるまい、ここはゆっくり聞かせてもらおう。
キーワードは“サーフィン”。
◇◆◇◆◇
河内一作(以下一作):じゃ~、まずはなにか頼もうか?
橋本浄(以下橋本):それにしてもこの3階のスペースはいいですね。
一作:ここいいでしょ。
凄く人気が高いんだよ。
橋本:来週の火曜日、うちの嫁さん達が、マクロビ(オティック)系女子会!?(笑)で、来るとのことです。
一作:ホント?
橋本:ええ、2階を予約したみたい。
一作:火曜、俺、都内にいたかな?
いたら乱入しようっと(笑)
橋本:あんまりキツいツッコミを彼女達に入れないでくださいね(笑)
一作:あれ、オレの愛情表現だから(笑)
今日もかっちゃん(片岡一史)が来たら、「なんで『88』なんてベタなオーガニックなことやってたのよ!」なんて攻めちゃおうかな?なんて思っているんだから(笑)
橋本:で、これは文字原稿としてネットにアップされる訳ですか?
一作:まだ、過去の記事は見てない?
橋本:軽く拝見しました。
一作:「アダンラジオ」で検索したら、沢山出るから見てね。
橋本:分かりました、今度ゆっくり見てみますね。
片岡一史(以下片岡):遅くなってすいません(片岡、撮影機材を抱えて到着)
ラジオアダン:到着早々にすいません。一作さんと橋本さんの写真は片岡さんに撮っていただいて、片岡さんは、不肖、私が撮って、最悪フォトショップで修正する?なんてことでご承諾頂けますか?
片岡:いいですよ。
(早々に撮影準備に入る)
一作:食べて飲んで終わりだから、気楽にね(笑)
橋本:ガハハハハ(爆笑)
一作:(進行に対して)まとめはよろしく!
ラジオアダン:ハハハ(苦笑)
橋本:今回は、身内度高くてやりやすいでしょ?(笑)
ラジオアダン:ここまで至近距離の人選だと、逆に難しいです(苦笑)
片岡:(一旦作業を止めて)あっ、そうだ、ボクも少しネタを考えてきたんですけど。
ラジオアダン:流石、片岡さん!
片岡:どこかで、88の話をすれば、橋本さんも一作さんも立ち位置は違えども、コアに関わられていたのでいいかなと?
ラジオアダン:それいいですね。
あと、同じく2人共通というところで、橋本さんも片岡さんも、オリジナル「新世界」で主宰イベントを開店から最後までずっとやっていただけた方々という側面で話していただくとか?
一作:うん、それもありだね。
88の主題であった、オーガニック、継続可能社会に関しては、いたずら心からだけど、オレ、相当いじりたい(笑)
片岡:ボク、そもそも88創刊前は、橋本さんとお会いしたことがなかったんです。
ラジオアダン:ボクの記憶だと、この辺の人脈と、橋本さんが急接近した切っ掛けは、(佐藤)こうきさんじゃなかったですか?
橋本:いや、違うよ。(中村)鉄平くんでしょ?
ラジオアダン:ええ、実際に一緒に飲んだりなんてのは鉄平さんがセッティングしていたけど、メディア対スポンサーの関係を築いたのは、当時「バランス」編集部にいたこうきさんではなかったですか?
橋本:うん、そういう意味ではそうですね。
原宿の「マジック・シアター」(ジュエリー工房兼ショップ)の平沢さんの紹介でうち(イエローデビジョン)にこうきくんが来て。
片岡:成る程。
一作:あの頃、もう橋本くんはブランドも会社もやっていたんだね。
今でどのくらいになるんだっけ?
橋本:会社的には29年目です。
一作:えっ!?そんなにやってるの!?
橋本:ええ、決算はね。
関西時代はまだ雇われていて、東京に来て2年経ったところで友人と一緒に会社をやりだしました。
一作:関西にもいたの?
オレ、知らんかったよ。
橋本:2年間。
一作:そうか、だから憂歌団とかその周辺と親しいんだ。
橋本:関西のそこそこ名のある人達とはつるんでいましたね。
繊維業界で云ったらエビスジーンズの今の社長等ともお付き合いさせていただいていました。
一作:関西は狭いからね(笑)
その時代はどこに住んでいたの?
橋本:森ノ宮です。
一作:うちの渋谷「おふく」の料理長、(藤村)節ちゃんが森ノ宮だよ。
橋本:そうそう。先日、その話、節さんとしました(笑)
びっくりしましたよ(笑)
一作:で、本当のルーツは佐賀県だよね?
橋本:ええ、佐賀ですけど、元々、大阪に本社がある福岡の会社にいたんです。
要は大阪本社の九州支店に勤務していた訳です。
一作:あれ、どうもこんがらがってきた(笑)
大阪生まれな訳だよね?
橋本:いやいや(笑)
ボクは九州の鳥栖という所で生まれた佐賀の田舎者で(苦笑)、まずは博多に憧れて、博多の高校に行ったんです。
一作:その辺から話してよ。
オレ、思えば橋本くんとかれこれ付き合ってるけど、全然その頃のこと知らないから。
橋本:はい。
ですから、九州の田舎者がキャロルに憧れてギターを弾きだして、コピーバンドなんかもやりだす訳です。
音楽環境も酷くて、FMが2局しか入らない土地柄(笑)NHK・FMと福岡FM。
一作:鳥栖ってそんな感じなんだ。
橋本:ええ、それもチリチリしたノイズが入って(笑)一生懸命チューニングして録音する訳です(笑)それが唯一の音楽情報。
一作:正に佐賀だ(笑)
橋本:「FMレコパル」を教科書にしてエアチェック。
一作:日本で一番地味な県なんて呼ばれ方もするものね。
橋本:地味だと思う。
一作:慣れ親しんだ海は有明海になるのかな?
橋本:違います。
久留米のちょっと上になりますから、海はないんです。
福岡県と隣接した場所。
一作:うん、それは知っている。
橋本:今は流通の拠点として有名ですね。
九州でメインのJRとインターチェンジが入り込んでいる所ですから。
一作:博多から長崎に行くのに、
橋本:鳥栖を通るでしょ?
一作:つばめだよね。
つばめで鳥栖経由。
橋本:鳥栖が北南、東西と九州のJRの拠点なんです。
一作:九州はいいよね。
橋本:先日、甥っ子の結婚式で帰郷して、鳥栖駅のかしわうどんを久しぶりに食べました(笑)美味しかった!
※かしわ=鶏肉
一作:かしわめしもあるよね。
ちょっと肉を甘目に煮たやつ。
橋本:そうそう。鶏肉をうどんに入れると肉うどんじゃない?それを九州ではかしわって言うんです。それにプラスごぼてんが入っている。
一作:あれ、じわっと出汁が染みていて美味いよね。
橋本:かしわうどんの話でボクが一番心に残っているのが、亡くなられたシーナさんと横浜の「サムズアップ」で御一緒させていただいた時。
ボクが「鳥栖出身です」って言ったら、「鳥栖のかしわうどんは美味しいわよね」って言ってくれた(笑)ミュージシャンも皆、鳥栖で乗り換えするからよく知っていたんでしょうね。
一作:シーナさんは九州なの?
橋本:そうですよ。
(福岡県北九州市若松区出身)
一作:そうだったんだね。
河内一作
橋本:鮎川(誠)さんは久留米出身で、九州大学卒業ですよね。
ボクは高校から福岡の東にある大学へ行って、そこが海の近くということもあって、サーフィンをやるようになって、
一作:海はどこになるの?
橋本:日本海。玄界灘です。
たまに小倉の方にも行ったりして。
一作:長崎の海には行かないの?
橋本:台風の状況によっては長崎にも行きました。
その辺の九州の海は、大袈裟ではなく、ボクらが開拓者だったと思います。
一作:いくつ頃?
橋本:19歳かな~?
大学に入ってからだから。
高校の頃は、西鉄グランドホテルやニューオータニでボーイのバイトをしていて、その時、テーブルマナー等を覚えました(笑)
で、コックさんがに凄く憧れて(笑)
一作:高校時代は悪かったんじゃないの?(笑)
橋本:悪くはないですよ(笑)
一作:喧嘩三昧だったとか?(笑)
橋本:ボクはピースですから(笑)
他人を殴ったことなんてないですよ。
で、コックさんに憧れて、通っていた高校のサッカーで有名な先生に相談したら、「コックはやめとけ!」って(苦笑)。
まあ、拒否されて、大学に行ったんですけど、あの時その道に進んでいれば、後のグルメブームと丁度タイミングが合ったんですよね。
一作:オレがプロデュースしたレストランでシェフやっていたかもね(笑)
橋本、片岡:ガハハハハ(爆笑)
橋本:そうですよね(笑)
あの時、本当に料理の道に行きたかったんです。
一作:80年代に立ち上げた、青山「CAY」あたりで料理やってもらっていたかもね?(笑)CAYの頃、橋本くんはいくつだったのかな?
ラジオアダン:25~6歳ではないでしょうか?
一作:そうか、十分ありえたね(笑)
そう思うとかっちゃんは若いんだよな。
役割的に仕切り役が多いから年齢を勘違いしてるけど、実は若い(笑)
橋本:片岡さんは落ち着いているからね(笑)
片岡:一作さんがいた頃のCAYのスタッフでしたら、(佐藤)貴幸くんが同い年ですね。
一作:貴幸ね。あいつ元気かな?
話しは戻るけど、料理を諦めて、なぜファッションの方に行ったの?その切っ掛けを教えてよ。
橋本:ボクの場合、1年間完全に確信犯で遊んじゃったんで、トータル5年間、波乗りと、下手なりのバンド活動に終始して、
一作:どんなバンドをやっていたの?
橋本:キャロルやったりYMOやったり、
一作:全然、サーフ・ミュージックじゃないじゃん(笑)
橋本:ハハハハハ(笑)
あと渡辺香津美もコピーしたな。
一作:なんでサーフロックをやらないの?
ラジオアダン:あの時代、フュージョンとニューウェーブがごっちゃな時期があったんですよね。高中正義を聴きながらもプラスティックスも聞くみたいな(笑)
橋本:そうそう。
一作:でも、ハワイのカラパナなんてバンドは既に人気があったじゃない。
橋本:ええ、勿論聴いてました。ライブも見たし。
ヴォーカル(マッキー・フェアリー)は亡くなってしまいましたね。
まあ、基本はサーフィンしかしていないに等しいですね(笑)
それで、海の先輩達が一杯出来た中で、稲妻のマークで有名なサーフブランドの九州支社の所長がいて、「うちにこいよ」って、声を掛けてもらって働くようになったんです。
一作:成る程、そこから今の洋服屋としての人生がスタートした訳だ。
橋本:そうなんです。
だから、遊びの中からなんですよね、ボクの場合は。
一作:サーファーってのも独特だよね。
ストレート過ぎるかも知れないけど、なぜサーフィンをするの?
橋本:やはり自然を相手にしたスポーツだからやるのだと思います。
テニスならコートさえあればいつ行っても出来るけど、サーフィンは波があったりなかったりするものですから。その辺がどんどん深く入って行く理由だと思うんです。
「あの時の波はよかったよな」と強く記憶に残る。
一作:こう聞いていると、やっぱり海の魅力なんだろうな。
橋本:その通りです。
片岡さんがやってらした媒体88にも通じるのですが、その海にテトラポットが入ってサーフィンが出来なくなってしまうだとか、ボク等は日本海でやっていたから、韓国からの、ペットボトルとか洗剤の容器だとかゴミが一杯打ち上げられたり。
その辺の海の汚れが凄く嫌いで。
一作:そうだよな。
橋本:そんなことが切っ掛けとなって、環境への意識が自然と自分の中から芽生えてきたんです。
あと、いい波にタイミングを合わせたいから、常日頃から健康をキープするというのが、サーファーの根本的な生き様だと思うんです。
いい波が来ているのに体力がなくて乗れなかったら意味ないですからね。
ですから、常にコンディションを整えといて、明日やるとなったらすぐに入って行けるという感じで。
一作:波の状態は情報が入るんだ。
橋本:ええ、今はネットで入るようになりましたけど、昔は自分で天気図を眺めて予想していました。
一作:たまには二日酔いでデロデロなんてこともあった訳でしょ?
橋本:ハハハハハ(笑)
昔は、夜飲んで、そのまま寝ずに行ったりも勿論しました(笑)
「明日、波乗りしたいね」となったら、一睡もせずに宮崎やら鹿児島やら、長崎に行ったりしてました(笑)
日本海って冬しかいい波がないんですが、寒い。
太平洋側は、夏場は裸で出来るような暖かい所を探して。
といいながらも、その頃のボクは、サーファー、サーファーした格好はあまりしたくなくて、DCブランドを着てテクノカットにして(笑)
一作:橋本くん世代は、テクノカットが凄く流行ったもんね(笑)
橋本:そんなサーファーでした(笑)
橋本浄氏
◇◆◇◆◇
さて、やっと橋本のその後の座標の入り口まで話が進んだところで、片岡の方も撮影の目処が立ったようだ。
橋本と真逆とも云える、3歳下で、東京のど真ん中に生まれた生粋の都会っ子、片岡はどんな道程で媒体制作という現場に入り込んで行ったのだろうか?
◇◆◇◆◇
片岡:ボクも一部、今の橋本さんの話や時代背景と噛んでいるけど、やはり、ちょっと下の世代という感じですね。
橋本:片岡さんは出身は東京ですよね?
片岡:ええ、ボクは東京です。
橋本:正直言って九州の鳥栖の田舎者と東京の人では、3~5歳は精神年齢も情報量も違うと思うよ。
ボクは片岡さんより3歳上だけど、もしそのまま鳥栖にいれば、その辺は完全に同等、いや、それ以下だったかもしれない(笑)
片岡:ボクの場合は、高校生の終わりくらいにディスコが流行っていた世代で、「ツバキハウス」、「玉椿」等に、先ほど橋本さんがお話されたようなテクノカットをしたファッション系の人達が通っていたんですけど、当時のボクにとってその手の人達は怖く感じて、新宿の「カンタベリーハウス」等に行くようになりました。で、そこに行くと、2000円食べ放題で満腹になるという(笑)
橋本:それそれ(笑)それに九州の若者はめちゃ憧れたんですよ(笑)
バイキング方式のディスコめし(笑)
真似た店が数件あるにはあったけど、しょぼいし、あまりに皆が殺到して、すぐに売り切れになってしまう。ガハハハハ(爆笑)
一作、片岡:ガハハハハ(爆笑)
一作:そうか、かっちゃんは東京なんだ。
片岡:ずっと目黒。
まあ、ボクの場合、そんなにディスコに入り浸ったいた訳じゃなくて、数えられる位しか行ってないんですけどね。行くモチベーションも飲み放題食べ方の魅力にやられてですから(笑)
「YMCA」なんて曲がかかっていて。
一作:なに、それ?
片岡:ヴィレッジ・ピープルというゲイ文化をテーマにしたグループのヒット曲です。 あとやっぱり、アース(・ウィンド・アンド・ファイアー)。
その後、大学生になって身近に六本木に行く人間が現れて、多少は六本木にも足を踏み入れましたが、ボク、大学2年で既に編集のバイトをしていたんで、その後はあまりディスコには行かなかったですね。
片岡一史氏
ラジオアダン:バイト時代に編集されていたのは、伝説の自動販売機エロ雑誌「ヘヴン」でしたっけ?
片岡:いや、違う。「ぴあマップ」の手伝い。
ラジオアダン:そうでしたっけ?では、otoさん(ex.じゃがたら、サヨコオトナラ)とはそこで?
片岡:「ぴあマップ」の時ですね。
制作を担当していた編集プロダクションの社長が富山県出身の方で、otoさんの高校の同窓生。一緒に上京して来た仲なんです。otoさんが明治で、その社長は青学。青学で軽音をやっていた人。
(江戸)アケミさんが入院していた時期で、実質、じゃがたらは休止状態。そんなこともあって、otoさんは編集部にライターとして原稿を書きに来ていたんです。
一作:otoさんがじゃがたらの頃に、かっちゃんは大学生か。
やっぱり、かっちゃんは若いね(笑)
片岡:ハハハハハ(笑)
otoさんに会ったのが、大学2年生だと記憶しています。
それで、その編集部の仲間が、「インドに行こう」なんて言うんで、当然、「ボクも行きたい!」って話になって、初めてインドに行く訳です。
そのインド旅行で会った変わった日本人が三木爺(三木哲志)。
※三木哲志/旧「クーリーズクリーク」、「CAY」、オリジナル「新世界」と一作プロデュース店舗に数多く関わった人物。現在は新生「新世界」音響ディレクター。
一作、橋本:ガハハハハ(爆笑)
一作:たしか、三木くんがインドで病気になっちゃって、かっちゃんが助けたんじゃなかったっけ?
片岡:ええ、助けたってのはちょっと大袈裟ですけど、ダラムサラで黄色い顔した変な日本人がいた訳ですよ(笑)肝炎になっちゃっていて。
橋本:そんな所で会ったんですか!?
片岡:そうなんです。
とあるレストランで会った瞬間から、「この人、なんかやばい人だな」なんて思って(笑)
とにかく、そこのレストランには日本人はボクと三木さんしかこないような所で、ボクが一人でめしを食べていたら、ボクからか?三木さんからか?どっちから声をかけたのかは忘れましたが、話すようになって、「これから病院に行くんだけど」なんて嘯くんですが、旅行中だから当然こっちも暇じゃないですか。それで、チベッタの病院まで同行して、三木さんが薬をもらう訳ですよ。
ラジオアダン:もうその時点で発病していたんですか!?
片岡:ええ、既に肝炎でした。
で、「薬飲むから部屋に行こう」と誘導されて、三木さんの宿泊先の部屋に行ったんですけど、かなりの安宿で(笑)その部屋で、三木さんが煎じ薬を煎じるんですけど、目の前が完全に通路なんです(笑)
一作:三木くんに似合い過ぎだね、そのシチュエーション(笑)
そうか、三木くんはその頃から既に不幸だったんだ(笑)
橋本、片岡:ガハハハハ(爆笑)
片岡:で、話をしていたら、カルカッタからバンコックまでの飛行機が偶然一緒で、「じゃ~2週間後にもう1回バンコックで会おう」ということになって、
ラジオアダン:初対面としては気が合ったんですね。
片岡:まあ、そうですね。
そんな流れで、コサムイに一緒に行って2週間ぐらい過ごしたのかな?その後、ボクだけが先に帰国したんです。
別れる時に、「日本に帰ったらまた会おうね」なんて約束するんですけど、当時は携帯電話もないし、男同士って密に連絡なんてしないじゃないですか。
一作:それ、いつの話になるの?
片岡:ボクが22歳の時ですから、……、あっ、だからCAYオープン前夜な頃です。
一作:そうか、最初のクーリーの後に、三木くんはまたちょっと旅したんだよね。
片岡:そうそう。
一作:かっちゃんとオレは、クーリーの時には会ってない?
片岡:会ってないですね。
当時、一作さんがボク周辺の人で会っているのは、ボクが在籍していたカメラマン事務所の先輩カメラマン達ですね。
インドから帰って、カメラマンのアシスタントをやりだして、青山通りを歩いていたら、三木さんとばったり会ったんです。
橋本:へ~、凄い縁だね。
片岡:その時、CAYが出来たばかりで、「ジェームス・ブラウン×細野晴臣」の対談ってあったじゃないですか?その日だったはずです。
一作:あっ、分かった、記者会見のパーティーね。あったあった。
JBの名言、「闘うよりは踊りたい」発言があった時だ。
でも、直後に暴力振るって捕まるんだけどね(笑)
橋本、片岡:ガハハハハ(爆笑)
片岡:そうそう、その時に再会して、「オレ、店始めていてさ~」って、
ラジオアダン:例の、自分が全部やってる風に?(笑)
片岡:ガハハハハ(爆笑)
そうそう(笑)
一作、橋本:ガハハハハ(爆笑)
片岡:「今日は細野晴臣が来ててさ~」なんて感じで(笑)
一作:自分が直電で、「ハロ~JB!?」くらいなこと言うからな(笑)
橋本、片岡:ガハハハハ(爆笑)
片岡:「オレと友達が始めた店にさ、JBが来てさ、今やってたんだよ」なんて感じで(笑)
橋本:三木さんは出身はどこなんですか?
ラジオアダン:子供の頃はお父さんが転勤族で方々行ったみたいですけど、基本、神奈川の藤沢ですね。
片岡:まあ、三木さんの名誉もあるし(笑)道端での立ち話なんでそんなに深い話はしてないですけど(苦笑)「そんな店なんで、今度遊びに来てよ」なんてことでその日は終わったはずです。
◇◆◇◆◇
1985年青山の一等地にオープンしたアジアン・レストランバー「CAY」。
飲食店の概念を遥かに越え、伝説のライブやイベントが数多く行われていた“夜の遊び場”そのものCAYは、河内一作が参加した飲食店舗プランニングで世間的評価を最初に受けた作品と云ってもいい。
そして、この時代の先鋭空間で、面識はなくとも、橋本、片岡の2人は無意識の内に既に擦れ違っていたようだ。
毎夜乱痴気騒ぎを繰り返す狂乱の80’トウキョウ。当時、若く勢力的だった2人から、懐かしそうにレギュラーな夜遊びの日々が昨日のことのようにポンポンと飛び出す。
◇◆◇◆◇
片岡:CAYに行きたいのはやまやまだったんですけど、やはり、若年のボクには敷居が高くて……。そんな中、一作さんの前の奥様と話していて、たまたまインドの話になって、「そういえば、私の知り合いがこの前、インドに行って肝炎になって帰って来たの……」なんて言い出して、「そうなんですか。ボクもインドでそんな人と出くわしたことがありますよ」と(笑)特徴を聞いたらどうも風貌が似ていて(笑)で、「その人、三木さんっていいませんか!?」、「そう三木くん!!」って。
一作、橋本:ガハハハハ(爆笑)
片岡:それで、「今度、一緒にCAYに行きましょうね」ってことで連れて行ってもらったんです。
あと、丁度その頃、うちのかみさんが「SWITCH」の編集部に入って、そっちの、稲田(英昭)さん、菊地(崇)氏ラインに混ぜてもらったり。
ラジオアダン:CAYでは、一作さんとすぐに話すようになりましたか?かなりの年齢差がありますよね。
片岡:まだ小僧でしたから挨拶程度ですね。
その割には「88(いのちの祭)」の企画の話等は耳に入ってきていて、「八ヶ岳どうしようかな?」なんて思案していました。
橋本:ボクが上京したのが87年で、前にも一作さんに話したことがあるけど、とにかくCAYのライブが楽しみでしょっちゅう行っていた。
ラジオアダン:87年といえば、東京でもやっとオーガニックな流れが出て来た時期ですね。
一作:最初のクーリーで既に芽生えてはいたけどね。
まあ、と言っても全然身に付かない(苦笑)
要は、思想だけのオーガニック。実際にそこにいたオレが、本当にいいものなのか分からないんだから(笑)落し所もどこにもなかったしね。
いのちの祭にしても、「よかった!」って人も沢山いるだろうし、その逆の感想を持った人も同様にいる。
片岡:一作さんと一緒にCAYを立ち上げた宮川賢左衛門さんに、「君もこれを読みなさい!」なんて薦められて(笑)いのちの祭が切っ掛けで、広瀬隆さんの書籍「危険な話」を知ったり。
一作:あの頃はサブカルの連中の間であの本が流行っていて、オレも広瀬さんの講演をデートに使ったり(笑)
橋本、片岡:ガハハハハ(爆笑)
片岡:橋本さんに執ってのCAYでの印象的なライブはだれですか?
橋本:ジミー・クリフ。
片岡:ああ。
橋本:ボ・ガンボスの、亡くなられたどんとさんが最前列にいて(笑)
一作:あのライブの企画を持って来たのは、亡くなったPAの小野(史郎)ちゃんだよ。
橋本: あと、パパ・ウェンバ、アロー。
片岡:ボクもどちらも見ました。
橋本:ワールドミュージック、特にフレンチ系が旬だったもんね。
片岡:パパ・ウェンバにはガッツリやられました。
あと、なんていってもネヴィルス(ネヴィル・ブラザース)。
一作:ラウンジ・リザーズは見なかった?
橋本:見れてないですね。
ネヴィルスは勿論見ましたよ。
一作:ライブバンドとしての全盛期。グラミー賞を取る前。
初来日は、まだCAYはなくて、渋谷「ライブイン」でやったでしょ。それもオレは亡くなったコピーライターの(和志武)純ちゃんと行った。
橋本:同じニューオリンズのDr.ジョンも見ましたね。
一作:同じくニューオリンズの歌姫アーマ・トーマスのライブも素晴らしかった。
片岡:あの頃、ライブ終了後もSWITCHチームと残って飲んでいると、大概、三木さんが「花」(喜納友子)か「蘇州夜曲」(雪村いずみ)をBGMとしてかける(笑)
一作:まあ、今からすれば贅沢なんだけど、ライブに関しては、「最初と最後をちゃんとしようよ」ということで、終了後にすぐ客出しをするんじゃなくて、「余韻を楽しみながら飲もうよ」とね。あれはあれでよかったと思うけどな。
片岡:あとなんといっても、出演者のサインで埋められた壁がよかった!
そうだ、今思い出したんですけど、一作さんが最初に退店したその後、スタッフが大量離脱した時があったじゃないですか。その時、貴幸くんに、「壁の写真を撮ってくれない?」って頼まれて、2日がかりで撮影したんです。
一作:えっ?撮ったの?
それ、まだある?
片岡:貴幸くんが持ってると思いますよ。
まだ、フィルムの時代でフィルムごとあげたから。
橋本:それは貴重な写真ですね。
片岡:全景を撮った後に、それぞれのアーティストのサインをディティールとして全部撮りましたから。
一作:それ、宝の持ち腐れだよ(笑)
だから、オレよく言うけど、88年が境なんだよな。あくまでもオレに執ってだけどね。
88年でCAYを出て、そこには、いのちの祭も一つの要素としてあるんだけど、自分の中で一区切りがあったと思う。
いうなれば、精神世界とヒッピー・カルチャーの瀬戸際に立っていた自分が一旦そこから離れたくなった。
片岡:あの頃の精神世界って、正に精神世界のみって感じでしたもんね。
一作:80年代って、物質にゆくか精神にゆくかで、どっちにいっても金は潤沢にあって享受してるんだけど、どっちに行っても反発しちゃう感じだった。
橋本:(進行役に向かって)その頃、CAYの最寄りのクラブ「MIX」にも皆さん頻繁に行っていたとか。
ラジオアダン:ええ、それこそCAYのライブの後に、稲田さんや、菊地さん等と行ったりしてました。
一作:うん、あそこもよく行ったね。
片岡:行った、行った。
ラジオアダン:後に知り合うことになる、ハッピー・コンプリートという企画屋ユニットがプロデュースした店で、最初は暇だったんですけど急激に人気が出て、酸素不足でライターの火が着かないこともありました(笑)
一作:地下で音も出せて、ロケーションもよかった。
ラジオアダン:あと当時のクラブでは珍しくフレッシュジュースを使っていて、CAY上がりで美味しい酒をたらふく飲んで来た我々にも対応出来たってことも頻繁に行った理由ですね。
一作:当時のアフターは、MIXかサルパラ(『サル・パラダイス』)でしょ(笑)
◇◆◇◆◇
CAYの眩しくもあった都会の幻影の隙間からもう一つ、正にオルタナティブな芽が育ち、1988年8月一つの形となって八ヶ岳に結実する。
「いのちの祭」。
この祭は、現在の野外フェスの雛形ともなる未来を見据える座標軸を既に有していた。
88年に指し示した指の先とは、
“ノーニュークス”。
◇◆◇◆◇
片岡:橋本さんはいのちの祭と関わりがあったり参加したりしましたか?
橋本:年齢的には参加しても不思議じゃないけど、濃い~ぃ精神世界のイメージがあって、どっぷりは行けなかったね。
一作:まだ若かったかっちゃんこそどうやっていのちの祭を知ったの?
片岡:だから、CAY周辺の人達皆がその話をしていましたし、前述したような経過で、広瀬さんの著書も読んだし。それで、「どうしようかな~、行こうかな~」なんて思案しているところで、急な仕事が入って行けなかったんです。
ラジオアダン:あの時の、ヘッドライナーは喜納(昌吉)さん、南(正人)さん、
一作:あと、喜多郎。
片岡:上海バンスキン(シアター自由劇場)もラインナップされていましたね。
ラジオアダン:賢(左衛門)さんは、それで自由劇場の皆さんと親しいんですね。
一作:深作欣二監督が「上海バンスキン」の映画版を松坂慶子主演で撮ったんだけど、その作品に対して自由劇場の人達はかなり否定的だったの。
そこで、串田和美さんが監督、制作で自分達で撮り直した。その時に、「CAYがキャバレーのロケ地として最適だ」ってことで我々も協力させてもらった。
それで、バーターと云うか恩返しで八ヶ岳のいのちの祭に来てくれた。それがいきさつかなぁ。
その流れの中の窓口が賢さんだった。賢さん、当時は元気だった。
ラジオアダン:へ~、そうだったんですね。
橋本:いのちの祭って、以前にあったイベントのリメイクなんですよね?
片岡:えっ、そうなんですか?
一作:うん、橋本くんの言う通り以前からいのちの祭ってあった。
長野県でやっていたイベントで、そこにノーニュークスで盛り上がった東京サイドが元々の長野サイドに持ち掛けたのがことの発端。
片岡:確か、88年の2月に、伊方原発2号機の出力調整への反対運動が結構の勢いで盛り上がり、星川(淳)さんや喜納さんもその運動には参加して、その流れで、喜納さんが、「なんか8並びでイベントをやろう!」なんて言って、いのちの祭に合流して行くんですけど、実は最後まで喜納さんは、“縄文祭(じょうもんさい)”という名称でイベントをやることに頑だった。
一作:イベントなんてものはいろいろ裏にはある訳だ(苦笑)
片岡:それはその一端なんですけど、そうやって、いろんな人のいろんな想いがあのイベントの中にあった。
橋本:成る程……。
ラジオアダン:ぼくの場合、喜納さんは純粋にシンガー・ソングライターとして大好きでしたし、南さんのアルバム「回帰線」は未だ日本ロックの超名盤だと思っていますが、何せ、全体にヒッピー体質が強すぎて、ポスト・パンク、ヒップホップからワールドミュージックという流れどっぷりの当時の自分が、そこに融合することは非常に難しくて、RCやタイマースでの忌野清志郎さんの活動や、ミュートビートの声無きメッセージで、音楽からのノーニュークスに目覚めた感が強いです。
一作:うん、その気持ちもよく分かる。
実際、清志郎さんにも人を介して出演オファーを出したんだから。
まあ、向かう意識は同じでも、彼にはあのイベントの志向は合わなかったんだろうな……。
橋本:そうね。
その後“ロッカショムラ”という言葉に皆が集約されてゆく。
一作:うん。
とにかくあの1週間は坩堝だったから。今、4人で話してきたことの全てがあった。
当時のオレは、「面白いけど、辛い……」というのが正直な感想。重複するけど、その辺から距離を取りたかった。
橋本:その、いのちの祭で言っていた事柄が、3/11で全て現実となり一般にまで一気に浸透した。
一作:元首相までそっちに同調してるんだからね(苦笑)
片岡:喜納さんのライブを始めて見たのもCAYでした。お父さん(喜納昌永)のカムバックに合わせたライブで、素晴らしかった。直後、カメラマンの事務所をやめて業務としての物撮りに従事していたんだけど、当然具合いが悪くなって(苦笑)「やはり、やりたいことをやろう!」と思った時に、喜納さんの初のアメリカツアーの話が浮上してきて、「じゃ~、それ一緒に行っちゃおうかな?」と同行したのが至近距離でのお付き合いの最初でした。
一作:それいつ?
片岡:90何年か……、アトランタオリンピックの前の年です(95年)
デビット・バーン監修で、喜納さんのベスト盤が出たんです。それを記念したのと、あと、アルカトラズからワシントンまでデニス・バンクスがロングウォークをするのにも合わせての渡米。前年、デニスを喜納さんが日本に招いているその縁です。
セントラルパークでは、なんと、ライ・クーダーとジョイントしたんですけど、ライに全然モチベーションがなくダメダメで(笑)
一作、橋本:ガハハハハ(爆笑)
片岡:まあ、その割には話題だけにはなって、むこうの新聞等に大きく扱われたりしました。
その後、ライに、カナダ/トロントのライブ会場のこけら落としのオファーが入っていたんです。アリ・ファルカ・トゥーレとの共作「トーキング・ティンブクトゥ」が話題になっていた時期だったので、アフリカのミュージシャンを招いていたらしいのですが、なんと、内乱で来れなくなっちゃって。
で、結局、「昌吉、メンバーの皆も一緒にトロントに行こうぜ!」みたいな感じになって(笑)急遽、カナダ入りが決まって、ボクも当然、「よし行こう!」と(笑)
で、なぜかここでのライブはライも凄くよくて!!(笑)
一作、橋本:ガハハハハ(爆笑)
片岡:ライも自分が看板だとちゃんとやる訳ですよ(笑)
橋本:そのライブ音源ないんですかね?聴きたいな~。
片岡:どうなんでしょうか?
あと、未だどこにも出してないんですけど、カナダでは「ライ×喜納」のインタビューもやって写真も撮らせてもらって。
ライってイメージより身体が大きくて手なんか凄くでかいんですよ。
橋本:へ~、繊細な感じと思ってたんだけど、そうなんだ。
片岡:帰国後、その記事を掲載する媒体を模索中にのっぴきならない事情に巻き込まれ、暫し、フリーランス活動を中止するはめにボクはなるんですけどね(苦笑)
一作:ムフフフフ(意味深に苦笑)
◇◆◇◆◇
2人の長く広大なタイムラインもここにきてやっと一作と交差する。
「ライスペーパー88」。
片岡が2003年に創刊したフリーペーパーであり、9/11以降、急激にパラダイムシフトした世界を、食、農を軸にサスティナブル(継続可能)な方向へ導く新たなバイブルとして多くの人々の生活指向(田舎暮らし等)に影響を与えていった媒体であった(現在休刊)
ここで、片岡は発行人&カメラマン。橋本はスポンサード。一作はライターという三位一体が遂に実現する。
◇◆◇◆◇
片岡:そんな流れで、会社(株式会社ワッカ)を設立して、やはり喜納さんと至近距離で付き合った影響なんでしょうか?「この会社は許される限りでやりたいことはやろう!」なんて社風が最初からありました。
ですから、88初代編集長の鈴木完くんも自然と、「フリーペーパーをやりたいんです」等とボクに言ってきて、アイディアが二転三転する中、2人共、お米通販の生産地に行く機会が多い時期で、「お米や畑をテーマにしたらどうでしょうか?」と完くんが提案し、ボクも、「それは面白い」と思って即OKを出して動き出したのが「ライスペーパー88」です。
当初、なんの実績もないから、「とりあえず0号を作ろう」と、強引に作って、
一作:もろ簡易な0号(笑)
片岡:ええ、中野(“スペースマン”雅蔵)さんの所(千葉県長柄町)に行って、インタビューして、
一作:オレが未だ書いてる連載シリーズ「日々トリップ」(デイトリップ)も、あの0号がデビューだもんな(笑)
インクスティックの松山(勲)さんが亡くなられたことを軸に書いたはず。
片岡:そうそう、それで、完くんが、「前関わっていた、フリーメディア『バランス』に熱心に広告を出してくれていた」、
橋本:熱心!?(笑)
片岡:「橋本さんという素晴らしい人がいるので、今晩一緒に会いませんか?その人の高校の後輩で、憂歌団の元マネージャーの鉄平さんも来ますから」と言ってきて、始めて橋本さんと会うことになったんです。
一作:(大きくため息をついたあ後に)長い話だな~~~~。
橋本、片岡:ガハハハハ(爆笑)
一作:かっちゃん、それ言いたくて、ずっ~~~~~~と今まで話していた訳!?
片岡:はい!(きっぱり)
一作、橋本:ガハハハハ(爆笑)
ラジオアダン:えっと、やっと第一章終わりで(笑)仕切り直します(笑)
88で片岡さんはオーガニックやサスティナブルに舵を切る訳ですが、橋本さんは既にこの時点で、ヘンプを使った洋服作りに邁進していましたね。
橋本:ショップはやってなかったけど、もうやりだしていた。
一作:(急に)今日は楽だな~、勝手に皆が進行してくれるから(笑)
片岡:(スルーぎみに)橋本さんの会社って、媒体やフェスに限らず、自然に、恵比寿NOSや新世界のライブイベントとタイアップしたりする感じがありましたよね?
橋本:うん、まあ人の流れや付き合いだよね。
片岡:それにしても、ヘンプに着眼したのが早かったですよね。
一作:そうそう、なんでそんなに興味を持ったの?
橋本:当然、青年期は、音楽やカウンターカルチャーの至近距離にあるマリファナという物に皆興味を持ちますよね。
大麻、マリファナ、麻、ヘンプと色々な場面で色々な名称があるけど、“ヘンプ”と言うとクロージングをイメージするようになった一翼は担ってきたかな?と自分で言うのはなんですけど思います。
一作:オレが今着ている橋本くんのとこのはオーガニックコットン?
橋本:それヘンプですよ。55(%)ヘンプが入ってます。
一作:着ていて気持ちいいよね。
橋本:ありがとうございます。
一作:こういうのを着ると他のTシャツが着れなくなるよな。
橋本:こういう言い方はどうかとも思うけど(苦笑)、“ヴァイブスが上がる”(笑)
一作:そうだよ!
片岡:ナチュラルハーモニーの河名(秀郎)さんも言っていましたが、「吸うのは色々問題があるけど、ペンプは身につけると身体にいい影響を及ぼす」と。
橋本:科学的にはまだ立証はされていないけれど、「蚊が寄り付かない」なんてことも言われますね。
ラジオアダン:日本固有の宗教である神道は、麻と古代から非常に密接な関係にありましたが、実際に古代の日本人も麻を着ていたのでしょうか?
橋本:まず、縄文時代の象徴である、あの縄は麻を結ったものだよね。
一作:今度はここで喜納昌吉さんに戻る訳ね(笑)
橋本、片岡:ガハハハハ(爆笑)
ラジオアダン:ここで戻ったらこの対談、永遠に終わらないですよ(笑)
橋本:麻布大学にイギリス人教授でパトリック(・Q・コリンズ)さんという方がいて、縄文時代の麻の研究をしている方です。
一作:(給仕しながら)オレは、今日はサービス業に徹するわ。なにも振らなくてもしゃべってくれちゃうんだもん(笑)
橋本:(スルーぎみに)その先生も麻の実でお餅を作ったり、ワークショップなんかも積極的にやっているんだけど、やはり結論として、「日本人は麻と密着した文化を有している」ってことに落ち着きます。
ご存知のように、GHQ以降大麻の吸引が禁止になるんだけど、どんどんレイドバックして行くと、スーパーフードという名称で欧米で麻が食されるようになっていって、逆輸入で日本でもありがたがられている。
話を戻すと、片岡さんがあの時点で、88でお米をテーマに食や農を取り上げたのは、今は同種の本や雑誌が出てきたけど、先がけと云って間違いない。
フリーペーパーですから大手にないコアな部分でやっていたけど、それを大手が租借してパブリシティーと連動させてマスに向かって動かし始めたのが今。
片岡:88以前にもその土壌はありましたからね。
橋本:3/11で逆転じゃないけど、そのカルチャーが全面に出てきて、他人事だった人達も実体験として、放射能問題や田舎暮らしにシフトしだした。
片岡:3/11前の88に掲載された人達の食物に関する感性は、「自分の食べるものは自分で作る」という自己完結型だったんですが、放射能がそこに加味されると、己だけでは終われなくなる。もっと共有することが必要になってくるんです。
一作:食の話からちょっと飛躍しちゃうけど、オレ、グルメっていやしいと思う。
オレ、こうやって店をやってるけどミシュランとか大嫌いだから。
自分が執筆する時も、食い物とか食い物屋の話は書きたくない。店の話ならその店の人の話を書きたい。
この店の何々が美味いなんてのはいやしい根性だと思うんだけど、2人はどう思う?
片岡:非常によく分かります。
一作:“どこどこのラーメンが”なんてのをネタに本にして儲けんなよだよ!ミシュランもそれとなにも変わらないよ。
橋本:食に結論なんてないですよね。欧米と日本でもまるで違うし。
日本は元々、オーガニックや無農薬等の背景の中で、野菜、お米を作っていた人種ですから、そういうものは当然だと思っている。一方、アメリカは広い大地で量産するから、いきなり飛行機で農薬を撒いたりを日常的に目にしている人種ですから、「オーガニックです」と言ったらそこに飛びつく。でも、日本のマーケットはそれとは違います。
元々オーガニックな日本人からすれば、「じゃ~、高額なんでしょ?」とか、「おしゃれね~」なんて、実際とは違うカテゴリーに捉えられてしまう。
最近、こっちからそのズレを説明することを諦めつつあるんです。もう無理(苦笑)受け皿を持っていない人に言っても、“セレブな食べ物”なんてところで終わってしまう。
洋服も、それと一緒で、フェアトレーディング等でもの作りしているところはいいと思うけど、ユニクロを筆頭としたファスト・ファッションが幅を効かせています。後進国で明日の食事にも不安があるような人達の賃金を叩いてものを作って売るという姿勢はボクにはどうにも理解出来ないし、正直嫌いですね。
一作:ユニクロね。最低。
オレ、出身は山口県だけど、同県人として、安倍晋三とユニクロの柳井(正)さんはちょっとはずかしい。
橋本:やっぱり、環境に則った真っ当なもの作りをする人達がボクは好きですね。
片岡:一方、ビジネスとしたら究極なんでしょうね。ですから日本の伝統“きもの”とは真逆な存在だとも云える。
きものの考え方って継続可能な方向性じゃないですか、着古したらまた解して反物に戻して仕立て直して再生させる。
橋本:刺し子文化となってね。
一作:刺し子か~。
いい話だな~、パート2もやろうね、この面子で(笑)
橋本、片岡:ガハハハハ(笑)
片岡:この話は、かの田中優子さんも言っていて、
一作:ジュリー嫁?(田中裕子)
片岡:ハハハハハ(笑)
いや、法政大学の学長さんです(笑)
要は、日本の洋服に対する価値観は破れているからダメだとかではなく、汚い物を着ていることがダサいと。
ですから、“既にある物を繕いながら着ていることはおしゃれである”という感覚が江戸時代からあった。
明治時代や戦時中でも、繕いをする人達は女子の内職として生計もなり立っていた。
橋本:今で云うリメイク屋。
片岡:そうです。
それが戦後滅び始めた。
橋本:使い捨て文化。
実際、ユニクロの袋も使い捨てでしょ?
今の片岡さんの話と通じるけど、今また古着の人気が上がってきている。
昔のヴィンテージとしての高額な取引ではなく、安めの価格設定の古着です。アメリカで云うところのスリフトショップ。
これ、「ブランドをやってる人間が言っていいものか?」と悩むんだけど、作るよりある物で回すというのが一番環境に負担がないよね。
これは言っちゃいけないことか!?ガハハハハ(爆笑)
一作、片岡:ガハハハハ(爆笑)
◇◆◇◆◇
継続可能社会を、一作のスペシャリティーである飲食と、橋本の正業、被服で熟考し一定の深層に到達したこの時点で、楽しい時間も残り僅かとなってしまった。
さて、最後はなんといってもこの話題。
イベント企画として2人に参加してもらった、一作プロデュースのライブシアター西麻布「新世界」から連なる、現在進行形「バー黄昏」での、“遅れてきたDJデビュー”。
このあたりのネタを肴に大円団を迎えられば、今宵も3人に執っていい夜になるのではなかろうか??
◇◆◇◆◇
一作:新世界……。
~百年経ったらその意味分かる~って言って、前衛を定着させるのは今の時代は難しいね(苦笑)
ラジオアダン:新世界では、橋本さんには毎年恒例のオフィシャル忘年会という名のミニフェスをやってもらって、年間で一番の集客だったはずです。対して、片岡さんのイベントは一番の社会派でした。
一作:それ、入らないってことじゃないの?(笑)
片岡:そうなのかな~、すいません(笑)
一作:かっちゃん、全然大丈夫。もっと悲惨に入らないの一杯あったから(笑)
橋本、片岡:ガハハハハ(爆笑)
ラジオアダン:片岡さんに大いに助けてもらったのは3/11直後。
NGだらけの状態で、とにかくイベントを組みたくても出演者が六本木に辿り着けない。そこでの秘策が“チャリティー”としての急造イベント。相当数これで数稼ぎました。
片岡:まあ、ボクがというか当時のうちのスタッフ達ですね。
一作:まあ、あの時期は痺れたね。
橋本:でも新世界があったのはよかったですね。本当に面白かった。
一作:金にはならないけどね(笑)
でも、あの3/11直後に出てくれた人達にはオレは凄く感謝してますよ。
大勢、東京を離れた中でなんだから。
白石かずこさんのステージなんて未だに脳裏に焼き付いている。
片岡:正木(高志)さんも直後に熊本から来てくれましたね。サヨコさんとナラさんのライブもあって。
ラジオアダン:そんな新世界の後に、規模は縮小されたとはいえ、一作さんが強引に作った音の遊び場「バー黄昏」で、お2人には引き続きお付き合いさせていただいています。
しかも、同時DJ高齢デビューという快挙!(笑)
橋本、片岡:ガハハハハ(爆笑)
片岡:橋本さんがやるんだったらボクもやろうかな~?ってことで(笑)
橋本:オレも皆がやるんだったらオレもやろうかな~?ですよ(笑)
この歳になって清水の舞台から飛び降りる覚悟で(笑)
一作:橋本くんは声掛けてからやるまで少し時間がかかったよね?
ラジオアダン:慎重派なんじゃないですか?何度も下見やリハーサルして(笑)
橋本:なのかな?(笑)
一作:でも1回やると止まらない(笑)
橋本:ハハハハハ(笑)
ラジオアダン:片岡さんには番組配信でしゃべってからかけるという超ハードワークをお願いしています。
片岡:すいません(苦笑)
でも、楽しいですよ。黄昏。
橋本:新世界、無き後、一人でぷらっと行ける場所がないから、黄昏は受け皿としていいんじゃないかな?
一作:あそこはあんな小さなキャパなんだから、仲間内で遊ぶしかないでしょ?(笑)
まあ、結果はなんかの形でどうせ出るよ。
じゃあ、これからも末長く遊びましょう、ということで今日は忙しい中来てくれてありがとう。
◇◆◇◆◇
まだまだ、続く3人の遊びの中から生まれる新たなる新世界。
膨大な数の言葉が交差した夜、なんの結論もまたしても出なかったが、一つの宝石のように輝く小さなポエトリーが手のひらに残った。
~交われば結果なんてやがて出る~
さて、次回3人が揃うのは、近日「バー黄昏」での片岡の八面六臂で行われる配信&DJの6/24か?それとも、橋本の既に手練た近日予定のDJナイトか?
そんな先のことは誰も分からない。
なぜなら、人生の殆どの出来事なんて酔っぱらいが酒場で夢想したことを、神様が空模様に沿って暇つぶしにチョイスしているだけだから。
とぅ・びー・こんてぃにゅーど
@泉岳寺「アダン」
テキスト、進行:エンドウソウメイ
写真:片岡一史(片岡氏掲載部分のみアダンラジオ編集部がスマホにて撮影)
●今回のゲスト
橋本浄/プロフィール
1959年佐賀県生まれ。
1989年、ライトニングボルト退社後、YELLOW DIVISION設立。
地球に優しい独自のオーガニック・クロージングブランド「GOWEST & GOHEMP」の直営店を恵比寿「juzu」にて展開。ファッションだけに止まらず、2011年にはピュア・フレッシュジュースと、マクロビオティックに根付いたフードを提供するデリ「Marugo Deli Ebisu」をオープン。衣、食、音の三位揃ったそのアティチュードは数多くのリスペクトを集める。
片岡一史/プロフィール
株式会社ワッカ代表。1962年生まれ。
1994年、喜納昌吉&チャンプルーズのアメリカツアーに同行。以来、喜納昌吉氏の写真を撮り続ける。2005年より日本で開催されているクラシックカーラリー、La Festa Mille Migliaの写真も手がける。2002年、株式会社ワッカ設立。2003年、フリーペーパー「88」創刊。2005年、フリーペーパー「Lj」創刊。2015年、「88」「Lj」ともに休刊し、新たなる媒体を模索中。
河内一作/
山口県生まれ
八十年代から霞町クーリーズクリーク、青山カイなど常に時代を象徴するバー、レストランの立ち上げに参加。九十年代、仕事を辞め世捨て人となる。
六年間の放浪生活の後社会復帰し、アダン、青山タヒチ、白金クーリーズクリーク、音楽実験室新世界、奥渋バー希望、南洋ギャラリー、など手がける。お楽しみはまだこれからだ。
Vol.4 日々トリップ 番外編「小さな喫茶店」 川内一作
築地場外の「喫茶ボン」に足繁く通った。ボンは波除神社から晴海通りに出る手前にある小さな喫茶店で、場所柄、早朝から長靴をはいた市場のおっさん達がやってきて、さっとコーヒーを飲むとテーブルの上にコーヒー一杯三百五十円なりを置いて出ていく。午後二時過ぎには閉まる回転の速い店である。
ボンのコーヒーはネルドリップで落としたものを手鍋であたためる昔ながらのスタイル。香ばしくて懐かしい味がする。モーニングは下町のベーカリーのトースト、ゆで玉子にフルーツサラダ、メロンやバナナのカットが付いている。メロンもバナナも高級だった時代に育った自分にとって六百五十円のモーニングはココロがトキメク。昔だったら築地へ行けば調子に乗って朝から寿司やカツカレーなどかっ喰らっていたが、カンレキも通り過ぎた今はボンのモーニングがちょうどいい。飲んだくれて明け方に築地メシに走った若いころのあの健啖が懐かしくもあるけれど。
港区の三田に住んでいた五十代の頃は週に二、三度、散歩がてら築地まで歩きボンでコーヒーを飲んだ。起きがけに顔も洗わないで家を出て、慶応大学を通り過ぎ、芝三丁目あたりの路地裏を散策していると、いつのまにか愛宕警察の前に出る。新橋のガードをくぐって築地へたどり着くのに一時間と少しかかるだろうか。
ボンのスマートなマスターは江戸っ子。ママは伊豆の出身で南洋風の丸顔美人。いつもびっくりしているような表情がなんとも愛らしくて「ママの顔は見ているだけでシアワセになれるよ」と言うと「そうかねぇ、伊豆の山ン中でひろったのだから、たぬきの生まれ変わりじゃないの」と江戸っ子のマスターは照れくさそうに言う。お二人とも七〇は過ぎているが元気で、あうんの呼吸、二人の佇まいが美しい。漱石の「それから」のようにシアワセ薄い美人と駆け落ちして、どこかの場末で小さなバーでもやって、ささやかに暮らしてみたいと若い頃自分は思っていたが、そんな夢も叶わず気がついたらカンレキもまわっているのだ。
ボンの窓辺に座り、朝陽を浴びてコーヒーをすすりながら築地の風景を眺める。発砲スチロールを山積みにしてターレーに乗った若者が細い路地を器用に運転して通り過ぎていく。
小さい静かなあの店
おいしいコーヒーを飲ませて
本当に素敵なきっちゃてん
あの頃は日暮れると
二人で静かに過ごした店
想い出は過ぎたこと
今日の日にまた来てみると
想い出はまた蘇えるよ
あの日腰かけた長椅子もそのままです
二人並んで腰かけた古い腰かけ
今は何処にどうしているのか
どこに暮らしているのか
二人並んで腰かけた古い腰かけ
「小さな喫茶店」を口ずさんでみる。
いろんな人が唄っている名曲だけど、音痴の自分が好きなのはあがた森魚の「小さな喫茶店」。八〇年代あがたの「バンドネオンのジャガー」を青山「カイ」のステージでいつも見ていた。タンゴ版「小さな喫茶店」はヨカッタ。バンドネオンは今は亡き池田光夫さんだった。
明石町のフラガールのこと
ボンを出て晴海通りを渡り、少し歩くと築地明石町である。渋いグリーンの銅板壁の商売屋もまだあちこちに残っている古い町並み。フラガールの順子はそんな明石町に住んでいた。三年前に癌であっけなく亡くなった。早過ぎるよな。順子は自分の元嫁のフラスタジオに通っていたし、まだ自分が現場に出ていた頃の「アダン」も時々手伝ってくれた。つまり順子はフラスタジオとアダンが産み落とした子供のようなものだったから、自分はつい甘えて迷惑も省みず早朝ボンに呼び出したりした。順子は渋々眠そうな顔でやってくる。格別のハナシがあるわけでもなく普通に父親が娘とコーヒーを飲んでいるようなもの、「マジメにフラをやっているのか」と言うと「そっちこそちゃんとして下さいよ、先生に言いつけますよ」とナマイキなことを言ってモーニングを食べるとさっさと帰った。フラを始めたばかりの頃、順子はカラダがいかにも硬そうで動きがギクシャクとして笑った。旧アダンの小部屋で順子のクラスの娘たち、大阪弁のお母(か)んもいたが、ラジカセをかけて習ったばかりのフラをみんなで踊っていた。まァ、みんなヘタクソだったけれど、フラはうまいヘタを競うものではないからそれはそれでよろし。当時の娘たちはみんな結婚して子供もできたし、うるさい大阪弁のお母んも孫ができて、今は大阪に帰った。移転した新アダンにまだ来たことがない人もいるので一度みんな招待して順子のことをサカナに酒を飲もう。きっとフラ大会になるのだろうが、あのヘタクソなフラはあまり見たくない気もする。
順子が亡くなる少し前に自分は港区から海辺の町へ引っ越した。年寄りと子供しかいない海辺の暮らしは馬鹿になりそうでくだらん。気の利いたバーも、朝からコーヒーが飲める店もない。なんだかいきなり爺さんになったようで落ち込んでいたら、ノラネコ四匹と同居することになった。夕焼けを見ながらネコ達と遊んでいるときはいつもイズの「オーヴァ―・ザ・レインボウ」を聴く。途中から「イマジン」になっていくあのライブ盤。ちょっと順子のことなど思い出して、ネコ達にオレより先に死ぬなよと語りかけるだけだ。
引っ越して築地は遠くなった。
このあいだ桜の頃に久しぶりにボンに行ったら「今月いっぱいで閉店いたします」という張り紙がしてあった。驚いて中を覗くとマスターが片づけをしていた。
「いやね、女房のやつが脳梗塞で倒れちゃってね、命に別状はなかったんだけど仕事は無理だからやめちゃうのよ」
涙目だった。茅ケ崎に住んでいる娘のところに行くんだと言った。自分は「落ち着いたら電話してよ」と言ってケイタイの番号をメモして渡した。
ⒸSOHMEI ENDOH
黄昏ミュージックvol.7 デイ・ライト/ナイト・ジャングル
トワイライト・サーカスの日本ツアーの同行を切っ掛けに結成された世界基準のディジリドゥ奏者GOMAを中心としたナイト・ジャングル2006年の傑作。
この時期のGOMAは、人力エロクトロニカ的(言葉として成立していないが…苦笑)ソロ活動はもとより、ガムランに触発されたジャングル・オーケストラ、アフロビートを全面に押し出したジャングル・リズムセクションと八面六臂の活動状況で、一体どのような時間調整で創作活動をしているのか全く想像がつかない程にハイパーな存在だった。その中でワンドロップに帰着し一番メロディックなバンドがこのナイト・ジャングル。
そんな彼等が唯一残したアルバム「ジャングル・クルーズ」の、エンディングへの導入曲、9トラック「デイ・ライト」を今回は黄昏ミュージックとさせてもらう。
通奏低音が如く低く這うGOMAのディジリドゥが支える乳白色のキャンパスに、麗しのトランペットと歪んだスライドギターが美しい琥珀色のドローイングを緩やかに描く(se)
酔談vol.4 ゲスト:岩根愛氏 ホスト:河内一作
“酔談”。見ての通り、酔って語らうこと。当然、造語である。
酔っているがゆえの無軌道さ、無責任さ、大胆さ、自由さをそのまま気取らず飾らず実況する、それが「対談連載/酔談」の全てである。
アダングループ代表、河内一作が東京の夜のフロントラインに初めて立った、1981年の「クーリーズクリーク」から現在に至るまで、彼が関わった店が、単なる飲食店におさまらず“自由なステージ”としての酒場の背景を演出出来えた“要”ともいえる大切な友人達を毎回招き、テーマなしのゼロベースから美味しい酒と肴の力を借りつつ今の想いを語り尽くすトークラリー。
さて今回のゲストは、女流カメラマンとして確かなキャリアを誇り、更に近年では、ハワイ日系移民の古い集合写真と回転スリットカメラ、サーカットとの劇的な出会いから、ライフワークである“盆ダンス”を介し、福島~ハワイの太い人の繋がりからなる地下水脈をアートワークとして体現する岩根愛氏(以下敬称略)をお招きし、「酔談」第4回目として、泉岳寺「アダン」特別室にて緊急開宴!
数日前に岩根愛、企画、出演のNHK:BSの番組『双葉盆唄ハワイへ行く ~福島 震災から6年~』放映の知らせを本人から受け、同番組視聴後、いてもたってもいられなくなった一作。週末には、渡布哇(ハワイ)が既に決まっている岩根愛に急遽連絡を入れ、多忙を縫ってのこの宴とあいなった。
話題は勿論、盆ダンスを軸とした、お互いの約束の地、ハワイ日系人文化の深層部へ早々に向かった。
◇◆◇◆◇
河内一作(以下一作):実は6月くらいにこの酔談のゲストで愛ちゃんを呼ぼうと考えていたんだけど、先日、メールをもらって、NHK:BSの番組(『双葉盆唄ハワイへ行く ~福島 震災から6年~』)が進行していて、放映も間近だと知って。そして、またまたハワイへ旅立つんだもんね?
岩根愛(以下:愛):ええ、今週末から。
一作:なので、急遽本日来ていただいたという訳。
愛:さっき丁度、一作さんもよく知っているニック(加藤)さんとメールしていました(笑)
一作:番組や、一連の盆ダンスプロジェクトにもニックは関わっているの?
愛:番組には関わってはいないですけど、今回、最初にヒロに入るんで、ニックさんちに泊めてもらうんです。
一作:そうなんだね。
で、番組見ました。
おれ自宅にテレビがないから(笑)ダビングしてもらって見ました。非常にいい番組だった。
いつから始動したの?
愛:撮影は2015年から開始したんだけど、その時は、まだ最終のメディアが何になるか?はまったく先行き不透明で、
一作:それは誰が主導して?
愛:今回の制作会社のテレコムスタッフの岡部憲治社長、この方も新宿の飲み屋繋がりなんですけど(笑)、
以前より、飲み話でわたしのパノラマ写真のプロジェクトに興味を持ってくださっていました。
一作:へ~、そうなんだ(笑)
河内一作
愛:そんな関係なんでいつも夜しか会わないのに(笑)ある日、表参道を歩いていたらばったり会って、「たまには、お茶でもしますか?」て感じで雑談したんですけど、まだ、サーカット(回転スリットカメラ)も修理している時期で具体的な動きはまったくしていなかった。
一作:あの、一連のパノラマ写真、おれも好きだよ。いい写真だ。
愛:ありがとうございます。
そのとき、「この写真を題材に番組にしませんか?」と岡部さんが言ってくれて。
その後、カメラがやっと使えるようになってパノラマ写真を撮り出して、テレコムのプロデューサーの堀内史子さんがいろいろ企画をプレゼンしてくれたのですが、なかなか企画が通らなかった。そこに変化が起きたのが、わたし自身が福島県の人達との関わりを深くする中、2016年に双葉町の太鼓のチームの人達がマウイに遠征することからなんです。
一作:って、ことは双葉町の伝統芸能とハワイの盆ダンスの関連性に関する情報は、愛ちゃんは既に持っていたってこと?
愛:うぅ~むぅ、……、分かり難いですね。話を一旦戻しましょう(笑)
時系列に沿って話しますね。
わたしが盆ダンス(ハワイの盆踊り)にはまってハワイに通っていたのは一作さんもご存知ですよね?
一作:うん、知っていた。
愛:2011年の震災の後、春にマウイ太鼓という福島の盆唄を継いでいる人達が主人公のドキュメンタリー映画『100年の鼓動 〜ハワイに渡った福島太鼓〜』をたまたま見たんです。盆ダンスでフクシマオンドを生演奏で踊るシーンを見て、「そういえば、フクシマオンドの故郷って一体どこなんだろう?」と考えるようになりました。
皆もそうだったと思うのですけど、震災があった時、「一体、わたしはなにをすればいいのだろうか?」と凄く悩んだ訳です。只現状を撮りに行くという気持ちはわたしには全然起きなかった。
ずっと盆ダンスを追いかけていた盆ダンサーのわたしとしては(笑)ハワイに伝わったフクシマオンドを知ったとき、「この文脈の中からなら、わたしにもなにかやれることがあるかもしれない」と思って、その年の夏にマウイ太鼓に会いに行ったんです。
一作:そうか、そのころからもう動いていたんだね。
愛:そうです。
マウイの日系人って気持ちが熱い人達が多くて、震災すぐのその夏に、マウイ島の有志が「アロハ・イニシアチブ」という被災者支援のプログラムを立ち上げ、お金を集めて、東北から100人以上の人達を招き、3ヶ月間も、「ここで休んで下さい」という活動を行っていたんです。
ですから、マウイに着いたら、福島や東北の方々が沢山いた。その中には双葉郡から来た中高生も30人程含まれていて、現地の方々が、「マウイの盆踊りも経験してみない?」なんて感じで盆ダンスの会場に招かれていた。最初は隅っこで小さくなって佇んでいたんですが、フクシマオンドの演奏が始まった途端に、口々に、「これ知ってる!」と言い出し、輪の中に入り踊り出したんです。
一作:へ~、いい話だね。
愛:フクシマオンドの原曲は「相馬盆唄」で、双葉の子は皆知っているんです。
その光景、その瞬間が、わたしの中に未だ強烈に残っていて、盆唄というものがこの世代にまで浸透している福島という土壌が、東京育ちの自分にはある種羨ましいものだった。ハワイの盆ダンスって30曲以上の振り付けを皆が完璧に踊れてもの凄く盛り上がるのですが、100年以上前から伝わった盆唄がこんな形で伝えられていることも素晴らしいと思いました。
フクシマオンド、岩国音頭、あと沖縄音楽は生演奏なんです。
一作:大体が、東北と、中国地方、沖縄が移民の人達の出身地として多いから、
愛:そうなんですよね。
現在、マウイは彼等マウイ太鼓しか盆踊りの太鼓はやってなくて、フクシマオンドの生演奏が定番となっています。
一作:ヒロは、比較的、瀬戸内からの人達が多いよね。
愛:ええ、でもヒロも曲はフクシマオンドが多いですね。岩国音頭は、初盆の方のリクエストで歌う、ということもあるようです。
あまり大きな声では言えませんが、フクシマオンドはかつて“べっちょ踊り”と呼ばれていて、ヒロではかけ声にまだ残っています(笑)世界中でべっちょと唄っている人達はヒロにしかいないでしょうね(笑)
一作:べっちょってどういう意味?
愛:べっちょは女性器を意味します。
一作:福島弁になる訳?
愛:そうですね。
わたし、この話大好きで(笑)そこらじゅうで話しまくるんですけど、それを聞いている福島の人達に、いつも、「あんた、意味分かってるの!?」って心配される(笑)
一作:ハハハハハ(笑)
愛:要は、盆踊りって、夏の男女の出会いの場でもあったし、昔はそういうナスティー(淫らな)なかけ声も多かった、
一作:沖縄で云うところの“毛遊び(もあしび)”だ。
愛:へ~、毛遊びもそういうことなんですか?
一作:うん。
祭で皆集まって、その辺(外)でラブしちゃうみたいな。
愛:成る程。
東北ですと、真夏の農閑期に皆が集まる。
やはりなんと言っても子孫繁栄って重要なことですから、そのための男女の出会いの場を作る。
でも、実は、ハワイでその辺の話をすると凄く嫌がられるんです。
オアフとマウイではべっちょは完全な禁句になっていて、残念ながら自身のルーツの黒歴史として認識されています。それはアニミズムとクリスチャン歴のせめぎあいの中での、現在の合衆国の州としてのハワイの意識なんでしょうね。
そんな形で淘汰されてゆく中で、ハワイ島のヒロ・ボンダンス・クラブの人達だけがべっちょをいうかけ声を伝承している。
一作:べっちょなんだから、それとは本来関係ないよな。
岩根愛氏
愛:ハワイの盆ダンスには、真珠湾攻撃を機に始まった戦争を経て苦労した先祖のことを敬うという、宗教仏教行事として神聖な側面もあって、まあ、夜這的なものが排除されたんでしょうね。
一作:クリスチャンとのせめぎあいって、フラでもそうだけど、一時、フラ禁止になったりもしたよね。正にそれはアメリカ文化の押しつけで、あの時期、古典フラは消滅の危機さえあった。そして、継承が途絶えるギリギリで始めたのがハワイ島のメリー・モナーク・フェスティバル。
愛:そうですね。
ハワイアンの唄も性的なものが結構ありますよね。
一作:あるある。
実際の聖地にもそういう場所があるし。
愛:本来アニミズムに則した文化には付きものですものね。
ただ、ハワイは、現在、アメリカなのでキリスト教文化の方が社会的に圧倒的に優位なので、その辺を無くしてゆく傾向にある。
一作:でも、愛ちゃんが傾倒する、盆ダンスと日系移民の人達がそこでクローズアップされ再度注目されるという、ハワイの持つ土壌がまずは面白いよね。
愛:そうなんです。
日本、フィリピン、ポルトガル、中国、韓国など、さまざまな国からやってきた移民のそれぞれの文化を尊重するところがハワイの最大の魅力ではないでしょうか。
一作:うん。同感。
おれはいろいろ旅をした後、最後の最後に行ったのがハワイだったんだ。
行く前は、「なんか軽~~いイメージの島だな…」なんて感じで、まるで興味がなかったんだけど、実際に行ってみると、今、愛ちゃんが話してくれた部分が非常に心地よかった。
『ファミリー・ツリー』なんて映画を見るとその印象が蘇るよ。あの作品でのジョージ・クルーニーは素晴らしいし、なんといっても音楽が最高。いきなりレイモンド・カーネがかかったり。あれだけローカルなハワイアンミュージックがガッツリ並ぶって、サントラでは珍しいよね。
ジョージ・クルーニーの役柄は王族の子孫で、先祖から引き継いだカウアイにある土地を売却する方向にあらかた決まっていた、……、だけど、最後は先祖の土地はやはり売らないと。まあ、そんな話なんだけど、これが結構ね……(苦笑)
愛:うん、……。
一作:前回に引き続き、また映画の話になっちゃったけど(苦笑)おれの中で、あの盆ダンスの番組は凄いヒットで、「やっぱり、岩根愛やるじゃん」って(笑)
愛:ハハハハハ(笑)
ありがとうございます。
◇◆◇◆◇
伝統文化の衰退に関し、その主な要因が、アニミズムとキリスト教のせめぎあいという、正に文化人類学を彷彿させるハワイの壮大な歴史にまで話題が及んだところで、一作が懐かしそうな遠い目で、初めてのハワイロケ旅情へと時間軸を巻き戻す。
◇◆◇◆◇
一作:重複するけど、おれはハワイに関しては正直なめていたんだけど、フラの繋がりからいろんなことを学ぶことになった。
かっこ良く言ってしまえば、精神世界のこととか(笑)、要は、目覚めていく訳です。LSD抜きの「ドンファンの教え」みたいにね。
ワイキキは別として、ハワイの島々にはそういう旅の切っ掛けがそこかしこにある。そしてそこには、必ずネイティブな人達、そして、日系移民の人達が絡んでくる。そんな、旅って本当楽しいよね。
まあ、その入り口が、さっき愛ちゃんから名前が出たニックなんだけどね(笑)
愛:うん、そこがわたしと一作さんの共通点(笑)
わたしのハワイはニックさんと出会ったことから始まった。今、やっていること全部がそこからと言っても過言ではないです。
ラジオアダン:お話の腰を折って恐縮ですが、ニック加藤さんのご職業等お教え願えないでしょうか?
愛:そうですね、初めてその名を聞く人達には全然分からないもんね。
ではそれは、一作さんに説明してもらいましょう(笑)
一作:えっ、おれ!?(笑)
おれが初めてハワイに行った当時は、彼はロスからハワイに移転してきたばかりだったけど、既にコーディネイターをしていた。
ラジオアダン:日系の方?
愛:いや、日本の方です。
長野県出身でアメリカの大学に行って、
一作:卒業後もアメリカに残ってロス経由でハワイということだね。
おれが会ったのは80年代、まだ「CAY」をやっていた頃。
そのCAYに、絶頂時のピーター・ムーン・バンドを招聘するために、雑誌「SWITCH」をメディアとして巻き込んだ。ここで、編集者の稲田(英昭)くんが登場する訳だ(笑)「特集で“ハワイ”をやろう!」なんて感じで、ピーター・ムーンをフューチャーしたページも作って、それを書いたのが亡くなったライターの駒沢敏器くん。
愛:あぁ、駒沢さんだったんだぁ……。
一作:うん、そう。駒ちゃんと、おれと、稲田くんと、カメラマンがチョクさん(松本直行)
この時のおれの役割は、……、ライター業務は駒ちゃんだったから、……、只のいいだしっぺ。
あの頃はなんていってもスポンサーがそれなりに付いたから。
愛:あの頃のSWITCHだったらそうでしょうね。
一作:うん。
「SWITCHと抱き合わせでやるから」って、旧知がいる某ブランドのプレスルームに話を持って行った。
そこが冠を取ってくれることが決まって、その予算で皆でハワイに行った。それが、おれの初めてのハワイ(笑)
愛:何年くらいのことですか?
一作:87年じゃなかったかな~?
この時、おれだけ暇だからさ(笑)「先に行ってるよ」って先乗りしたの。
空港に着いた時、「さてどこに行こう?」なんて思って、高速の方に上がって行ったらバス停があって、そこでボォ~としてたら“Waikiki”って書いたバスが来て、それに乗ったの(笑)
宿も決まってないから、「どこで降りようかな~」なんて思案していたら、愛ちゃんは分かるだろうけど、アラモアナが過ぎてさ、橋渡って、ラニカイホテルがあって、その先にタヒチアンスタイルのチキが立っている「ワイキキアン」という名のコテージが目に入ったの。
愛:今は無いでしょ?
一作:うん、無い。
実はそこはあの時代でも唯一のポリネシアンスタイルのコテージだったと後で知るんだけど、バスも丁度そこの前に止まった。「うぁ~、おれここに泊りたい!」って衝動的に降りたんだ、ガハハハハ(爆笑)
愛:ハハハハハ(爆笑)
一作:フロントに行って「1週間泊る」と告げて、その後、追っかけてくるクルーのための3部屋もキープした。
2階建てがラグーンまであって、夜にはたいまつに火が着いて。安くて。
今、そんな宿ないから(笑)
愛:ない、ない(笑)
そんな感じでゆったり泊れるところはなかなかないですよね。
一作:そこも今は無く、以前行った時は駐車場になっていた……。
それにしても、着いてからの1週間は楽しかったな。
コテージの一番奥に「タヒチアンラナイ」という名のいい感じのポリネシアンスタイルのバーがあって、種明かししちゃうと、おれがその後作った店の原点でもある。青山で「タヒチ」という店をプロデュースした時は内装に関しては相当パクってる(笑)
ラジオアダン:「タヒチ」はそのバーのトリビュートだったんですね
一作:違うよ、そんな良いものじゃなくて、パクリ、パクリ。ガハハハハ(爆笑)
愛:ハハハハハ(爆笑)
タヒチアンラナイ。
一作:うん、ラナイって庭って意味。いいバーだったな~。
そこで、アンティ・ジェノア・ケアヴェのライブを見たり、金曜の夜になると、婆さん達がフラのセッションをするのを見たり。そのフラが良かったの。お決まりのフラじゃなくて、車座になった中からひとりずつ出て踊るんだけど、それがかっこいいのよ(笑)
おれが呼び出してニックと初めて会ったのもそのバーだよ。
クルーが到着して、稲田くんもピーターとのコーディネートを事前に細々としてくれていて。
ピーターはあの頃、「サンディ・マノア」の後だけど、一番良かった時期じゃないかな?ギャビー(・パヒヌイ)も亡くなって、一番、ハワイ音楽が下火になった時期に、コンテンポラリーとトラディショナルを融合させて頑張っていたのがピーターだった。
その取材では、駒ちゃんが、「クジラの話を書く」ってことで、最終的にはマウイまで行って、
愛:駒沢さんとはわたしもSWITCHでブルースの旅をしてます。
一作:へ~、そうなの!?
愛:一緒に仕事をしたのは、結局、その1回だけになってしまいましたが……。
一作:それ聞きたいな、話して話して。
愛:アメリカ南部の旅を一緒にしたんですけど、ジューク・ジョイントを巡る旅。
一作:駒ちゃんは真面目だからさ。
大雑把に言っちゃえばロバート・ジョンソンの道程みたいなもの?
愛:ええ、そうですね。映画とのタイアップでしたね。
そういえば、新世界にも駒沢さんはご出演されてましたよね?
一作:うん。駒ちゃんにもなんかやってもらいたくて電話して。その時の彼の興味は沖縄だったんで、「丁度いいじゃん」って感じでトークショウを3~4回程やってもらったのかな?
愛:そうだったんですね。
わたしが初めてハワイに行ったのは2006年、11年前ですね。
その時はサザン・オールスターズをオアフで撮る仕事で、
一作:愛ちゃん、どメジャーな仕事してるね~。
愛:その頃はね(笑)
でも、切っ掛けはこだま(和文)さんですよ。こだまさんのジャケット撮影からビクターの仕事が始まって。その切っ掛けがクイック・ジャパンだったし、だから簡単に云えば、「サブカルから音楽の方に入っていった」ってことで、わたしの20~30代はずっと仕事をしていて、その間にドライ&ヘヴィーのヨーロッパツアーに押し掛け同様に同行したり、いい音楽を追いかけて走り回るような生活でした。
一作:若かったし、可愛いし、いいキャラしてるから業界で凄く人気あったでしょ?
愛:人気あったかは自分では分からないですが、音楽の現場にいるのが凄く好きだったし、時代的にもの作りに対してしっかり考えてから立ち向かうクリエーター達と一緒に冒険が出来る時代でしたから凄く楽しかったですね。極論を言えば、当時はジャケット撮影が一番好きな仕事でした。
◇◆◇◆◇
盆ダンス、福島、ハワイ日系移民という、岩根愛が独自の道程で見つけた太い地下水脈の流れは、今後も更に勢いを増すようだ。
写真制作は勿論、既に、劇場映画として着々とプロジェクトが進行しており、一作、愛共に愛して止まない映画監督、中江裕司氏がメガホンを取る。
◇◆◇◆◇
一作:このプロジェクトはまだ進めて行くのかな?
愛:ええ、最終的には映画化を目指していて、あの番組は云うなれば、前篇に当たる感じでしょうか。
一作:完全なドキュメント映画として制作してゆくの?
愛:そうなんですけど、ハワイの日系人の歴史を、「面白く伝えたいな~」って思っていて、実際に監督とは、「そのために、音楽映画の方向へ振ろうか?」なんて話にもなっています。
一作:中江監督だったよね?
それは、愛ちゃんからのオファーで実現したの?
愛:ええ。
最初から、「監督は中江さんでやりたいです」って言ってました。
一作:中江監督とは旧知?
愛:中江さんは「白百合クラブ 東京へ行く」という、
一作:あれも素晴らしい作品だよね!
愛:あれのスティールはわたしがやっていたんですよ。
一作:そうだったんだ。
愛:それが初対面で、お仕事もやらせてもらって、
一作:じゃ~、「ナビィの恋」の頃はまだ知り合っていなかったんだ。
愛:ええ。
一作:「ナビィの恋」って17~8年前だよね。ちょうど、三田に旧アダンをオープンさせた頃で、昔のテアトル東京に見に行って感動して、帰りにはサウンドトラックまで購入して、開けたばかりで全然お客が来ない店で毎日聴いていた(笑)
素晴らしいじゃん、あの、マイケル、……、……、
愛:マイケル・ナイマン。
中江監督って音楽も勿論なんだけど、“うた”、口偏に貝と書く“唄”を凄く大切にする方なので、「そういう監督に撮ってもらいたい」と常々思っていたんです。
一作:中江監督はおいくになられたの?
愛:中江さんは今、50代後半じゃないかな?
一作:若いんだよね、「ナビィの恋」が18年くらい前だものね。
その後も一杯いい作品を撮っている。
愛:「白百合クラブ 東京へ行く」の公開時に、本も作ることになって、出演者の人達の取材で石垣島へ行くんですけど、それが一緒に組んでやった仕事の最初。
ラジオアダン:スティールの時は全編ではなかったんですか?
愛:ええ、東京だけのお仕事でした。
今、思えば白百合の仕事で、南の島でおじぃ、おばぁと踊ることに味をしめたかもしれない(笑)
一作:そうか~、あれはどのくらい前だっけ。
愛:あれは~、……、2000年代頭(2003年)ですよね。
わたしバリバリ20代でしたから(笑)
一作:若いのによくそんな仕事やってるよね~、偉い(笑)
昔からちゃんと仕事してたんだな~。
愛:20代が一番仕事していたかもしれない(笑)
メディアで一番仕事をしていたのは20代後半から30代前半じゃないかな?
一作:凄いね。
おれなんてクーリーズクリークが始まる27歳より前は何者でもなかったよ。
皆だれがなにになるかも分からない時期に、岩根愛はもうしっかり見定めた方向で仕事をしていたんだから、偉いわ。
愛:いやいや(苦笑)
フリーランスになったのが21歳でしたから。
ラジオアダン:めちゃはや!!
愛:その頃、女の子カメラマンブームがあったんです(笑)
ラジオアダン:ああ、ありましたね、HIROMIXさんとか、
愛:ええ。
なんか、「若い女に写真を撮らせたら面白いんじゃないの」なんて風潮があって、その時代の生き残りなんですよ、わたし(笑)
一作:ハハハハハ(笑)
そう、実は若いんだよね(笑)
その割に、随分年齢が上の、こだまくんや、南(流石)さんもよく知っていたり、
愛:こだまさんは、前述しましたが、「クイック・ジャパン」(太田出版)で知り合いました。社カメ的に沢山仕事をさせていただいている時に、こだまさんは連載をされていたので。作品も気に入って頂いて、ジャケットもやることになったんです。
ラジオアダン:ひょっとしたらですが、先日こだまさんがこの酔談に来られた時に話された、「野坂×こだま対談」の写真を撮っていたりしませんか?
愛:うん、あれわたしです。
ラジオアダン:やっぱり、そうでしたか。
一作:それは凄いね。あれ、写真は愛ちゃんだったんだ。
そうだよ、こだまくんとの対談で野坂昭如さんの話になって、先週の週末に「バー黄昏」で「マリリン・モンロー・ノーリターン」をかけるという流れになったんだよ(笑)
愛:????
ラジオアダン:週末だけ渋谷の系列店「おふく」にDJブースを組んで、「バー黄昏」って名義で音遊びをしているんですが、先週、急に一作さんが、「野坂昭如さんかけてよ」と言い出して、「マリリン・モンロー・ノーリターン」かけたって、ただそれだけの話です(笑)
一作:深い時間になると毎回完全に懐メロ大会になっちゃうんだけどね(笑)
愛:ハハハハハ(笑)
そういうことでしたか(笑)
ラジオアダン:愛さんは今年の4/1(土)は東京にいないですかね?
愛:(黒岩)奈美さんの命日ですよね。残念ながらいないんですよ。
※黒岩奈美/毎年、一作プロデュースの「新世界」では、岩根愛オーガナイズで「ナミフェス」と謳い、4/1周辺に、ゴールデン街の名物ママであり2人の共通の友人黒岩奈美さんを音楽追悼していた。
一作:まあ、今度さ、愛ちゃんが落ち着いたらこじんまりと飲み会でもいいからやろうよ。
愛:ええ。
一作:なんでこんなウェブ連載を始めたかというと、新世界のおつかれさんとおれ自身の反省会をやりたかったんだ。
だから、新世界に関わってもらった人達を主に呼んでいる。
まあ、そんなだから、“無理に題材も作らずに”な感じなんだけど、今回は素晴らしい番組を一昨日見たばかりなんでテーマ性が出ている特別版だね(笑)
◇◆◇◆◇
岩根愛の進行中のプロジェクトは、全てに於いて、“出会ってしまった”のだと思う。
古いパノラマ写真、旧き名器サーカット、フクシマオンド、盆ダンス。
バラバラだったパーツはやがて結実し像を描くのだが、その集約の魔力はハワイ特有のものだと一作は言う。
曰く、“求めていればそこへ行く”
そして、本日の「酔談」のクライマックスを迎える。
なんと、岩根愛がその結実した像を持参してくれたのだ。
◇◆◇◆◇
愛:わたしは基本、イメージすれば叶うと思っている伏があって(笑)今やっていることも、パノラマカメラと出会って、修理出来て、今撮っている。福島とハワイの盆唄の交流も同じように思うんです。
一作:あのカメラは凄いよね。
愛:一番最初は、あのカメラで撮った古い写真をハワイで見つけたことから始まったんです。
ちょうど今持って来ています。一作さんには以前見せませんでしたっけ?
一作:勿論見たよ。
この形状の作品による写真集はまだ出してないんだっけ?
愛:いろいろ考えていますが、これ、なかなか本にはおさまらないですよね。
一作:おれ、今日これを見たかったんだよ!
愛:この写真は、今わたしが使っているサーカットというカメラで撮影された日系移民の吉村さんという方の葬儀での集合写真です。当時の日系の方々はお葬式では必ずこういう写真を撮っていたみたいです。
そもそもカウアイ島で泊った宿が、以前、写真館を営まれたいたお家だったのですが、買い取ったオーナーはそのことを知らなかった。ですから、こういう写真がそこかしこにあって、「写真家のきみならこれがなにか分かるでしょ?」と逆に質問されて(笑)当然、わたしもこんな写真は見たことがなくて。第一、どう見てもトリミングして伸ばした写真じゃない。その疑問を抱えたまま、色々調べ出した中でサーカットに辿り着いて、今、この写真を撮ったカメラで自分が撮っている訳です。
一作:これ1950年に撮った写真だよ!
映っているのは移民の最初の人達だね。おじさん達が1世でこの若い人達が2世だろうね。
この写真は凄く旨い塩辛みたいなものだよ!
愛:????
一作:それだけでどれだけ飲めるか!?のように、どれだけ語れるか!?
ガハハハハ(爆笑)
愛:ハハハハハ(爆笑)
当時の方々は、葬儀の時に人が集まることを非常に大切にしていた。そして、それを記憶するため、あと、故郷に送るために写真を撮っていたんでしょうね。
ラジオアダン:今のお話を聞く限り、直ったはいいけど、カメラの操作自体もそうとう手探りの状態から始めた訳ですよね?
愛:ええ、超手探りです(笑)
でも、ネットで検索したら、オハイオ州で同じカメラで撮っている人がいて、メールで情報交換するようになって、非常に親切な方で、現像の仕方からフィルムの詰め方から細々と教えてくれて、リチャード・マグロスキーさん。
一作:ハハハハハ(笑)
愛:彼のおかげで今、わたしやれているんです(笑)
アメリカにはやはり何人かいるんですよ、このカメラで撮っている人が。
一作:番組や映画に因んでの写真展なんて計画は現状あるのかな?
愛:やりたいですね。
実は2枚今持って来てるんですけど、見ますか?
一作:おお、勿論見せてよ!
長いね、おれと愛ちゃん2人で持とうか。
おお、凄いね。パホア?
愛:ええ、ハワイが1枚、福島が1枚です。
ハワイの写真は、去年のラバ(溶岩流)に2/3が埋もれてしまった、パホアの墓地です。
一作:お墓が溶岩で埋まっちゃってるんだ。
愛:そうそう。
一作:パホアはいい町だよ。ヒッピータウンだよね?
愛:そう、ヒッピータウン。パホア近辺は溶岩が流れてきた歴史が繰り返しあるのですが、これは2015年、パホアの町付近まで溶岩が流れてきた時に、ギリギリで止まったところが墓地だった。
一作:2015年か、おれが2回目に行ったときがカラパナが無くなったときだよ。
愛:へ~、そうだったんですか。
一作:稲田くんとブラックサンドビーチ(カラパナ)でランチして、その翌年には無くなっていた。遥か海岸まで溶岩が流れ出して、固まって。あれを見ると地球のエネルギーって凄いと思う。
愛:ハワイの地形は、ペレがどこに流れてゆくかでどんどん更新されてゆくから。
一作:写真がまず素晴らしいね。
愛:ハワイの日系人の忘れられた墓地を巡る連作の中のものです。
こっちの福島の写真は、帰還困難区域を撮っていて、これは番組にも出て来た双葉の横山さん宅のすぐ裏の交差点、2014年の写真です。
一作:今ここに5時間しか入れないんだな~…。
愛:この忘れられた日系移民のお墓と福島の帰還困難区域の写真、2つのシリーズを合わせて写真展をやろうと進めています。
一作:素晴らしいじゃん、もうこれ見せてもらったから対談終わろうか?(笑)
愛:ハハハハハ(爆笑)
ラジオアダン:いやいや、まだ尺が足りない……(苦笑)
愛:来年、映画を公開する時に展覧会を合わせてやれるように今から準備しようと思っています。来年で、わたしがハワイに行き出して12年だし、
一作:まだ12年??短期間に随分深いところに入っちゃったね(笑)
ハワイって凄くって、……、まあ、インドなども凄いんだけど、それとは違う凄さは、「求めていればそこへ行く」みたいなところあるでしょ。
愛:そうそう、会える気になれば会える。
あと、テレパシーが通じる(笑)
一作:また戻してしまうようで申し訳ないけど、ニックと最初の出会いにも同様の部分を感じてしまう。
例のバーで彼と初めて飲んだ時は、フラなんておれは興味がなかったし知識もまるでなかった。そしたらニックが、「フラは本当に素晴らしいものだから、ハワイ島のヒロの祭典を君は見るべきだ」と強い押しで促すんだ。
で、行ったのが、メリー・モナーク・フェスティバル。
その後、数年してまた行くんだけど、この時点でもまだ日本人は全くいなかった。フラ古典、“カヒコ”って云うんだけど、おれは、「これは凄いものだ」と確信したんだ。
帰国後、稲田くんにその話をして、最終的にはSWITCHでフラの話を書くことまで発展していった。その後、サンディーが登場して、彼女が10年かかってクムフラ(フラマスター)になるまでの道ゆきを共有することになった。
だから、ハワイって、求めていればそういうところまで連れて行ってくれるところかもね。
でもそこに行くには、昔の関所みたいな手形が必要。要は試験に通らないと行けないんだろうな、多分(笑)
◇◆◇◆◇
ここで、突然だが、
「カボシャール」。
フランス製の高級フレグランスの名。直訳すると“強情っ張り”の意。
いくら毎回後半は話が飛ぶ傾向にある「酔談」といえども、ハワイから急にパリに飛ぶはずはない。
カボシャール、本日最後の話題の軸となるこの形容動詞は、新宿ゴールデン街にあった2人が親しくしていた黒岩奈美さんが営んでいたバーの名である。
実は、2010年に急死した彼女を、オリジナル新世界を一作が運営中は毎春追悼するイベントを2人が旗を振りとして行っていた。
◇◆◇◆◇
一作:新世界での「なみフェス」は、愛ちゃんに大いに尽力してもらって、あと編集者の吉田(幸弘)くんにも。
ところで、吉田くんって浅草に住んでない?
愛:ええ、そうそう。
一作:おれ、浅草の並木の薮で、日本酒とざる蕎麦でいい気分になって歩いていたらバッタリ彼と会って、最初、都築響一さんと間違えちゃって、あの2人なんか似てない?(笑)
愛:ハハハハハ(爆笑)
こだまさんのライブにご両人とも来ていたりするから、なおさら混乱したんじゃないですか(笑)
一作:それもあったかもしれないね(笑)
で、ああいう故人を追悼するようなイベントをやるといろんなことを言う人がいる。
「あんなことをやっては、無くなった人に対して失礼だ」とか、「故人でビジネスするのか!?」とかね。金儲けになる訳ないじゃんね~?
愛:ええ、一作さん的には赤字でしょ?男気出して(佐々木)彩子さん(ex.渋さ知らズ)を屋久島から招いてくれて、
一作:まあ、それはいいんだけど、おれは思うんだよ、ああいうものはやらないよりやったほうがいいって。
やることによって彼女を偲ぶ人が1年に1回何人か集まればそれで十分でしょ。
極論を言えば、墓に行くようなものだからね(笑)奈美ちゃんの墓は高知か?海の見えるいいとこかもしれないけど(笑)いかんせん簡単にはいけないもの。
小野(志郎)ちゃんを偲ぶ「小野フェス」もやっていたんだけど、あれだって年1であって当然。3/11に黙祷するみたいなものだから。
チャージも小額に押さえてさ、そのくらいは奈美ちゃんを思い出すお布施と思ってもらって、利益が出れば勿論故人に還元してね。
亡くなって直ぐの新宿「スモーキンブギ」での集まりも実際そうでしょ?
※小野志郎/音響エンジニア。トランス、野外フェスを日本に根付かせた伝説のPA、オーガナイザー。
愛:ええ、集まったお金は全部遺族の方に渡しましたね。
一作:そういう運営側の内幕を分からない人達はいろいろ言うけど、別に言わせとけばいい。
愛:思えば、一作さんのお名前は以前から知っていたんですが、初めてご挨拶したのは、そのスモーキンブギの時だったと思います。
一作:そうだっけ。
あれは、どんな経緯で運営側にまわったの?
愛:みんなに愛されている奈美さんなので、ゴールデン街の周りのお店の人達が仕切っていました。その中に入ってお手伝いさせていただいたという感じですね。
一作:ところで、若いみそらで、なぜそんなに当時、ゴールデン街が好きだったの?
愛:わたしの場合は、最初に連れて行ってもらったのは写真の師匠で、業界では有名なママさん、久美さんの店に行っていたんです。
そんなある日、久美さんのところが一杯で、「入れないから向かいの店で待っててよ」なんて誘導されて行ったのが向かいの奈美さんのカボシャール(笑)
ラジオアダン:あの~、……、ぼくと経緯まったく一緒なんですが(苦笑)
愛:ハハハハハ(爆笑)
久美さんのお店も、勿論、素敵なお店なんですけど、常連客が業界の大御所だらけで、若かったわたしには奈美さんのお店のほうが俄然居心地がいい(笑)
ラジオアダン:そこまでも一緒です(笑)
一作:おれは年齢的には意外だと思われるけど、ゴールデン街はカボシャールしか行ったことがないんだよ。実際の話避けていた。
例の演劇関係の人達の酒場での論争が嫌でさ(笑)
愛ちゃんは新宿自体が近かったの?
愛:距離よりも、とにかく2000円持って行けば奈美ちゃんが飲ませてくれるんで(笑)
音楽センスもいいじゃないですか、あの人。
自宅で仕込んで来た美味しいおつまみもカウンターに並んでいて(笑)
一作:ひょっとして吉田くんとも、
愛:奈美ちゃんのところですよ。
一作:ガハハハハ(なぜか爆笑)
それ、いいね!(笑)
久美さんのとこってなんて店名なの?
愛:そのまま「クミズ・バー」ですね。
一作:そう。
おれほんとゴールデン街はカボシャールしか行ってないもんな。
(カメラマンに向かって)そういえば「KINARI」(メンズファッション誌)にエッセイ書いた時に、取材で、夕方、マイケル(・アリアス)と飲んでカボシャールの前で写真撮ってもらったね。もう違う人に経営が変わっていたけど。
愛:カボシャールは一時期は毎日行ってましたね。
アシスタントの頃はそうそう行けないけど、フリーになって、時間とお金がある程度は自由になってからは。なにせ2000円ですから(笑)
あと、誰かを連れて行くと、必ず皆喜ぶんですよ。奈美ちゃんと話すと皆いい気分になる。
一作:ああそう。
でもそれ遅い時間でしょ?
愛:ええ、主に。
一作:やっぱり。
奈美ちゃんのところは遅い時間に行かないとダメだな。
例えば、勝どきあたりで夕方4時くらいから飲んで、その後、何件かはしごして、それでカボシャール行ってもまだ8~9時。
その時間だと、彼女は全然喋らない。すげ~恥ずかしがってモジモジしてるんだよ(笑)その辺で大体、性格を掴んで、いつだったか?敢えて遅い時間に行ったら大騒ぎでさ~(笑)
あと、おれの店のカウンターで飲み出しちゃって、「もう今日は店行かない」なんてのもあったな(笑)
愛:ハハハハハ(爆笑)
あんな人なかなかいないよね(笑)
一作:いろんな話がさ、全部拾えるんだよね。
KINARIでも奈美ちゃんの店を称して“寺山修司からニューウェーブまで語れる店”って書いたもの。
愛:ところで、新世界のなみフェスの切っ掛けはどんなだったんですか?
一作:(進行に向かって)どうだっけ?
ラジオアダン:かいつまんで言えば、愛さん達がやってくれたお別れ会がしめやかながらも非常に楽しかったんで、「あんなことを年に1回出来たらいいね」となって、まずは、奈美さんと親しかったライターの森(一起)さんに相談したんです。そこでオーガナイザーとしてお名前が出て来たのが、吉田さんと愛さん。
一作:そうか、そこで愛ちゃん登場か。
愛:わたし自身、あのスモーキンブギのお別れ会がイベントを仕切るという初体験でした。奈美さんには本当の娘のように可愛がってもらっていましたから。
かけ出しの頃は、奈美さんの店で営業していたようなものでした(苦笑)実際、初連載の仕事が決まったのもあそこでの出来事(笑)
そういえば、なみフェスの時に、こだまさん、一作さん、(相原)誠さんの3ショットを撮ったんですよね。
※相原誠/ドラマー、飲食店経営者。ダウンタウン・ブギウギ・バンドのドラマーの“誠”といえば知らない者は新宿にはいない。
一作:あれ、なみフェスの時だっけ?
ラジオアダン:しかも、誠さんがたまたまジャマイカ国旗のTシャツ着てるんですよね(笑)
一作、愛:ガハハハハ(爆笑)
ⒸAI IWANE
一作:笑うね!
あの2人初対面の割にはすぐに仲良くなっていたよね。
奈美ちゃんはミュートビート好きだったんだよね?
愛:大好き、大好き!私がこだまさんのジャケットを撮ったときもとっても喜んでくれました。それもあって、前日に同じ新世界でライブがあったのにこだまさんは来てくれたんですよね。
ありがたいことです。
一作:面白いことやっていたね、新世界は(笑)
愛:今、奈美ちゃんちみたいなお店はないのかしら。
一作:ない(きっぱり)
言うなら、土曜日の「バー黄昏」しかないでしょ(笑)
愛:じゃ、今度そこに顔出しますね。
場所は?
一作:知らなかったっけ?
前の「アダン食堂」。
愛:行ったことないんですよ。
一作:本当は「家庭料理 おふく」ってお店なんだけど、土曜日限定でDJ入ってバー営業してるの。かなりいいよ(笑)
愛:土曜日?
一作:うん。そこにこないと(笑)
そこはめちゃくちゃでいいよ(笑)
愛:じゃ~、帰って来たら今度はそちらにお邪魔しますね(笑)
一作:うん、土産話待ってるから。
今日は忙しいのに来てくれてありがとう、気をつけて行って来てくださいね。
◇◆◇◆◇
再会を約束し幕を降ろした、福島〜ハワイの地下水脈を巡る一大酒宴。
次回、会う時は岩根愛はハワイからの帰国後。
更に、チューンアップされたそのセンスと情熱によって、新たに立ち現れる像は写真芸術として高度に昇華されているのだろう。
さて、その作品群を至近距離で今度拝見出来るのは、……?渋谷の土曜限定「バー黄昏」?
そんな先のことは誰も分からない。
なぜなら、人生の殆どの出来事なんて酔っぱらいが酒場で夢想したことを、神様が空模様に沿って暇つぶしにチョイスしているだけだから。
とぅ・びー・こんてぃにゅーど
@泉岳寺「アダン」
◇◆◇◆◇
テキスト、進行:エンドウソウメイ
写真:鈴木完
●今回のゲスト
Photo by HARUKI
岩根愛/プロフィール
写真家。1991年単身渡米、カリフォルニア州北部のオルタナティブスクール、ペトリアハイスクールに留学。自然と共に、オフグリッド、自給自足の暮らしの中で学ぶ。1996年よりフリーランスとして、雑誌媒体、音楽関連等の仕事をしながら、フィリピンのモンテンルパ刑務所(2010)、ロシアのニクーリンサーカス(2011)、台北榮民の家(2012)など、世界の特殊なコミュニティでの取材を続けている。2006年以降は、ハワイにおける日系文化に注視しながら、2013年より福島県三春町を拠点に、福島移民を通じたハワイと福島のつながりを追いながら制作している。
www.mojowork.com
@Ai_Iwane
★岩根愛著作、ハワイ島、ハマクア浄土院の盆ダンスを題材にした絵本『ハワイ島のボンダンス』福音館書店より絶賛発売中!
河内一作/
山口県生まれ
八十年代から霞町クーリーズクリーク、青山カイなど常に時代を象徴するバー、レストランの立ち上げに参加。九十年代、仕事を辞め世捨て人となる。
六年間の放浪生活の後社会復帰し、アダン、青山タヒチ、白金クーリーズクリーク、音楽実験室新世界、奥渋バー希望、南洋ギャラリー、など手がける。お楽しみはまだこれからだ。
Vol.3 日々トリップ 番外編 川内一作
友人からトマトが届いた。
メールには春トマト送るとある。
春キャベツは普通だけど春トマトはあまり聞かない。トマトは夏のものだろうと思ったが食べると甘くて酸味もあって美味。お礼の電話をしたら、オレが作ったのだと自慢して、この季節にトマトもなんだから春をつけただけだと笑った。
桜が咲いた。
春キャベツ、春トマト、春メバルときたら桜雨、桜魚、桜鯛。桜魚は桜の咲くこの季節に獲れる小鮎らしい、これもあまり聞かない。桜鯛もこの時期の鯛であるが、それが旬というわけではない。鯛は出生さえちゃんとしていれば年中うまい魚だが、やはり寒い冬の時期が一番だと思う。桜の頃には子をはらむから栄養をとられるけれど、それはそれ、鯛の子と竹の子の炊いたのやら待ち遠しい。瀬戸内で生まれて育った自分にとって鯛はやはり瀬戸内のものに限る。京都あたりのちょっとした料理屋で扱っているのは明石鯛か鳴門鯛。明石の鯛はクチから背にかけてぷりっと丸みを帯びていて美しい。桜の季節には気持ちカラダがピンクに染まっているように見えるのは思い込みだろうか。東京近辺だと三浦半島の長井や佐島あたりの鯛も悪くない。以前長崎で鯛を食べたが東シナ海のものであろうか大味だった。長崎で食べた鱧も大味でダメだったがあれは調理の仕方かもしれない。東シナ海であがる鱧なら韓国ハモと同類だろう。京都でよく行く鯖寿司がうまい店も祇園祭りの時期には鱧寿司になってしまうが、その店のお母(か)んが言うには近頃の韓国ハモは脂がのっていてうまいらしい。確かにその店の鱧寿司はキレイで美味。そうは言っても自分にとって鱧はやっぱり淡路鱧。梅雨の時期に淡路で食べる鱧スキは絶品である。鱧スキであるから鱧しゃぶとは違う。鱧のアラでとった出汁をやや甘い濃厚な味に仕上げて、鱧の内臓と、骨切りした生身と、淡路の玉ネギを放り込んで野趣たっぷりにぐつぐつといただく。シメの雑炊がまたいい。そうやって生命力の強い鱧に喰らいつくのである。京都の料理屋でしゃぶしゃぶ風にポン酢で食べるのは気の抜けたビールを飲むようなものでちっともうまいとは思わない。
東京人は鯛も鱧もそれほどありがたがらないが、あれはうまい鯛と鱧を食べていないからだ。逆に瀬戸内で育った自分は上京するまでマグロなど食べたことはなかったのでマグロのことはよく分からない。
桜が咲くと人間もネコも騒ぎ立てる。
真夜中に起き出して知覧の茶を入れ家ネコと戯れる。外はまだ少し肌寒いけれど一週間前よりも空気はゆるんでいて、桜は満開に近い。人間が寝静まると、ぴしっぴしっと色んなモノが目覚める音がする。
昔、この季節に久しぶりに山口の生家に帰ったことがある。長い旅の後でバンコクから博多便で帰国した。博多からは電車を乗り継いで生家のある由宇へたどり着いた。お金を使い果たしていたせいもあるが、山陽本線に揺られて瀬戸内海を眺めながらいろんな思いがめぐった。自分はその時四十前で、いつまでもフーテンをしているわけにもいかず、かと言って東京に戻っても窒息しそうで恐ろしかった。
由宇はすっかり春だった。
子供の頃は高度成長期で由宇もにぎやかだった。花見にはどの家庭も立派な弁当を作って銭壷山(ぜにつぼやま)に登った。
山の斜面の段々に山桜が狂ったように咲きほこって、黒澤明の「夢」の第二話、「桃畑」を見たとき
わァーこれだよ、と思った。
由宇から周防大島を経由して、情(なさけ)島へ渡り漁師の家に一泊した。翌日、小舟で釣りに出た。この辺の漁師は竿は使わない。投げ釣りといって手釣りで、エサは白いビニールを小さく三角に切ってイカに似せた疑似餌である。釣り糸を人差し指に引っかけて波の揺れにまかせているとククッと指先に反応がくる。こんなもので釣れるのかと思ったが、見事にカタチのいい桜鯛がかかる。漁場を熟知している漁師のおかげで、十本以上もあがった。大漁である。由宇に持ち帰って近所に配ったら、まァ、とおふくろはびっくりして桜鯛のお礼だと言って茶色い封筒をくれた。十万円も入っていた。口には出さないが、「そろそろ東京でしっかりしんさい」という気持ちの十万円であると理解して翌日東京へ帰った。
ずっと後に手紙の中に十万円を挟んでおふくろに送ったら、「こんな大金(おおがね)送らんでもええのに」と言って喜んだが、おおがねという言い回しが面白くて笑った。
おふくろは大正生まれにしては百七十センチに近い大女で今年九十五歳になるが、まだゴハンを三杯おかわりするらしい。
ⒸSOHMEI ENDOH
黄昏ミュージックvol.6 フォー・ザ・ラブ・オブ・ライフ/デヴィッド・シルヴィアン
アニメーションのサントラが続くが、浦沢直樹原作の大巨編コミック「MONSTER」のテレビアニメ版(2004年4月~2005年9月)上半期エンディングテーマ曲「フォー・ザ・ラブ・オブ・ライフ/デヴィッド・シルヴィアン」を今回の黄昏ミュージックとした。
アルバム的には鬼才音楽家、蓜島邦明の作品で埋め尽くされるも、デヴィッド・シルヴィアンのソロ作品としては未収録なため、本アニメーション作品に興味がなくてもこの盤で聴くしか他に方法がない。(因に現在は廃盤であり、ユーズドとしてかなり高額の値付けで流通されている)
出自であるデビット・ボウイのベルリン3部作を彷彿させる退廃の香り充満したその甘い誘いのヴォイスは、ストーリーの中心となる旧東側の幼児洗脳教育への誘導のごとくリスナーを黄昏時の荒れた原野へ連れ去り、そして幻惑する(se)
酔談Vol.3 ゲスト:こだま和文氏 飛び入りゲスト:園田ゆみ氏 ホスト:河内一作
“酔談”。見ての通り、酔って語らうこと。当然、造語である。
酔っているがゆえの無軌道さ、大胆さ、無責任さ、自由さをそのまま気取らず飾らず実況する、それが「対談連載/酔談」の全てである。
アダングループ代表、河内一作が東京の夜のフロントラインに初めて立った、1981年の「クーリーズクリーク」から現在に至るまで、彼が関わった店が、単なる飲食店におさまらず“自由なステージ”としての酒場の背景を演出出来えた“要”ともいえる大切な友人達を毎回招き、テーマなしのゼロベースから美味しい酒と肴の力を借りつつ今の想いを語り尽くすトークラリー。
さて今回のゲストは、日本レゲエミュージックのパイオニアであり、一作プロデュースの先鋭的ライブシアター「音楽実験室 新世界」(2010〜2016)の不動のヘッドライナーとして6年間務め上げたダブ・マエストロこだま和文氏(以下敬称略)をお招きし、「酔談」第3回目として、なぜか?3月3日雛祭りに、泉岳寺「アダン」特別室にて開催!
お互い、週ごとに飛び込む訃報に関しての情報交換から始まる重い幕開けであったが、嗜好がことの他合致する2人。話はいつしかお互いが大好きなあの名作映画の話へ。
◇◆◇◆◇
河内一作(以下:一作):これ(レコーダー)は放っといていいから(笑)
毎回、ただ、だらだらと飲んでるだけだから(笑)
こだま和文(以下:こだま):成る程。この企画はそういうことなんですね(笑)
一作:別段、音楽の話をする必要もないし、そうだな〜…、今日は、どこかで“食”の話はしたいかな?なんて感じで。
こだま:はい、了解しました。
一作:ここでの料理はいつもおれがチョイスするんだけど、こだまファンのペコ嬢がキッチンにいるから、今日はペコにチョイスしてもらおうか(笑)
こだま:へ〜、そうなの?うれしいですね(笑)
流石、一作さん、ここもいい空間ですね、新しい「アダン」。
一作:ありがとう。
渋谷の店の方が、こだまくん的には利便性がいいと思ったんだけど、1回は見てもらいたかったんで、今回はここにしたんだ。
こだま:うぅ〜ん、立派なお店だ。
河内一作
一作:そうそう、おれも書いたんだけど、s-kenの新譜(2017年3月21日リリース『テキーラ・ザ・リッパー』)のレコメンド文、こだまくんも書いていたね。
s-kenから聞いたんだけど、なんでも、「手書きで送られてきて驚いた」って言っていたよ(笑)
こだま:えっ?あれツールがファックスオンリーじゃなかったっけ?
一作:いや、違うでしょ、おれは彼(進行役)を通じてメールで入稿したよ。
こだま:おれの勘違いかな?
s-kenのオフィス、ワールドアパートのメアドにアクセスしたんだけど、なんか繋がらないんだよな。資料を見たら、あとはファックス番号しか記載されてないから、それなら、「手書きの方が早いわ」ってことですよ。
そんな経緯だから、デザイン的に手書きを狙っているのかとおれは思っていたんだけど。
一作:ハハハハハ(笑)
こだま:おれ、あれはキッチリ書いたよ!
一作:あのレコメンド文に関しては、実はおれにも逸話があってさ(笑)
レコメンドって普通は長く書かないものだよね?
こだま:そうですね。
一作:それは分かっていたんだけど、一応、エンドウくん(進行役)に「文字数はどのくらい?」って訊いたら、「無制限でいいんじゃないですか」って、
ラジオアダン:いや、ワールドアパートから、「無制限で」とのことでお聞きしたんで。間違えではないですよ(苦笑)
一作:ほんとに?(苦笑)
おれ、なんか一杯書いちゃった(笑)
そうしたら、「半分にしてください」って(笑)
こだま:ハハハハハ(笑)
まだ、盤の本番はきてないよね。
ラジオアダン:3月21日リリース。超久々のs-kenさんのアルバムです。
こだま:うん。レコメンドでもそこを一番誉めたもの。
今の音楽業界の状況の中で作ることが素晴らしいと思った。
今、なかなか作れないもの。内容もいいしね。
「s-kenやったな!」って思って。
こだま和文氏
一作:うん、かっこいい上がりだったよね。
おれは朝起きて掃除する時に必ず聴いているよ(笑)
こだま:凄いよ、周りにろくな話がない時で、凄く光るよね。
坂本龍一さんが癌を患って頑張って闘っているみたいだけど、おれ訃報続きですよ。
松永(孝義)から始まって、……、朝本(浩文)、俊ちゃん(中西俊夫)でしょ、で、鈴木清順監督。
俊ちゃんの訃報も気が抜けるというか、ガクっとくるんだけど、変な言い方になっちゃうけど、だんだん慣れてきちゃうと云うかさ〜。
怖いよね、訃報に慣れちゃうんだから。
誤解を恐れずに言えば、今や、「通夜も葬式も正式なお誘いがなければ行かなくてもいいか?」って感じなんです。
礼儀、義理とかから鑑みれば、誘われないから行かないなんてのは良くないのは重々分かっているんだけど、生前の付き合いにそぐわない葬式や通夜での振る舞いって、実際、違和感があって、……、一番正直な気持ちとしては、「言葉が出ない」ってことをただ言いたいだけなんだけどさ。
一作:うん、言葉は出ない。黙っているしかないってことって確かにある。
こだま:そう。
続くとなおさらなんです。
一作:こだまくんも知っている、ある人に対してコメントを出さないおれに、「薄情だよ」との声があるのも知っているんだけど、おれの感覚として、言葉を発すると嘘になりそうな気がして、……、まあ、それで黙っているんだけどね。
こだま:うん。
ただ、全く逆に思いつくことを次々とツイートしてしまうこともあって……。
朝本の時がそれで、……、自分との距離かな?見舞いにも行っているし。
それにしてもここまで続くと、……、その故人に対してではなく、訃報そのものに対する自分の気持ちをつい呟いてしまったりするんです。
過去、自分が訃報に突き当たった時に発した言葉を考えると、その故人とどれだけ親しかったか、だとかさ、自分にとって都合のいい想いが多い。
乱暴に言えば、自慢話になっちゃう。「おれは凄く、彼と仲良かったんだぜ!」みたいな。
……、それはそれでいいのかもしれないけど、続くとね、「なんだかな〜」と虚しくなってきて、段々言葉が減る訳だ(苦笑)
一作:うん、よく分かるよ。
こだま:自慢話になってしまうことを決して否定しているんじゃなくて、昔ながらのいい通夜って、仏を前にして、その人のことを皆で語り合って酒を酌み交わす訳で、
一作:新世界で出していたフライヤーに、「命日カレンダー」ってタイトルでおれはエッセイを連載していたんだけど、
こだま:うん、やってた、やってた。
一作:あれって、今、こだまくんが言ったことを書きたかったんだと思うんだ。
通常の、通夜感覚的に、「あいつはこんなやつだったよな〜」なんてのを話にしたかったんだけど、その対象が非常に自分と遠い、映画スターやミュージシャンになっていった……。
近い人ってなかなか書くのは難しいからね。
こだま:うん、難しい。
虚しさは常に付き纏って、近くて遠い、つまり、一緒に仕事をして、一時期、凄く濃密な関係を築けた人でも、その人がある分野を代表するような著名な方だと、なかなかその後も近しい関係を維持することは難しいものです。
ラジオアダン:以前、インタビュー書籍で語った池田満寿夫さんとの関係等がそれなんでしょうか?
こだま:うん。そうかもしれないね。ああいう想いもある。
一作:清順さんもそんな感じだったのかな?
こだま:うん、……、そんな感じもするね。
一作:映画「ピストル・オペラ」の音楽をやった時って、清順さんとしっかり緻密に打ち合わせして進めて行ったんだよね?
こだま:しっかりじゃないね(あっさりと)
二人の間に音楽プロデューサーという人間が映画の場合入るから。
一作:ああ、成る程。
こだま:最終的な段階、映像もこっちの音楽も大体見えてきた時にお会いして、まあ、聴いてもらって。膝を付き合わせてと云うか、そんなミーティングが1回あって、
一作:ってことは、音楽プロデューサーがこだま和文の音楽が好きだった訳だ。
こだま:いや、それも違って、正直なことを言えば、……、主演が江角(マキコ)さんだったよね、彼女がエゴラッピンが好きで……、それで、エゴのよっちゃん(中納良恵)の既にヒットしていた曲、「サイコアナルシス」を使いたいっていう音楽プロデューサー側の思案から始まったプロジェクトだったみたい。
だから、音楽プロデューサーや監督との間で、音を作る側が感じることなんてありふれた話で、坂本龍一さんも似たようなニュアンスのコメントをしていたけど、要は、なかなか音楽の作り手がイメージした通りには映画の中では運ばないということ。極端な話、100曲書いたとしても90曲はいらないみたいな、そんなことにもなりかねない。
おれ自身、映画は2作しかやってないけど、「ちょっと懲りた」ってのがあって(苦笑)
あと、当たり前に聞こえるかもしれないけど、相当好きな映画でやらないとダメです。だけどその出会いがまた難しい。
一作:成る程。
でも、日活ニューアクションの頃のニュアンスなんて、こだまくんとばっちし合わない?
こだま:そりゃ〜そうなんだけど……、……、
もっと正直なことを言えばさ〜、前述したように自分の好きな映画でやりたいんだけど、その自分の好きな映画って、極めて音楽の使用頻度が少ない、ガハハハハ(爆笑)
一作:ガハハハハ(爆笑)
ラジオアダン:そう思うと、お二人が共通して好きな「ゴットファーザー」なんて作品は奇跡とも云える映像と音の幸福な出会いですよね。
こだま:あれはもう映画として凄いから。
つい最近、ハリウットの業界人から集めたデーターでのフェイバリット映画の1位って何だと思う?
一作:「ゴットファーザー」?
こだま:そう。
一作:よく出来てるもの。
あれは3作全部で見るとより一層、「成る程!」って思うよね。
こだま:うん、それに関してもシリーズとしてのフェイバリットだったはず。
あれもシリーズが進む中でいろいろあったみたいですね。キャスティングの段階で制作サイドがマーロン・ブランドを敬遠したり、ロバート・デ・ニーロがパート2しか出演しなかったのもいろんな事情があったみたいで。
まあ、基本、お金の問題なんだろうな。
1作目ってのは予算があまりなくても、「作りたい!」という強い熱意を持って挑んでくれる人達が多数いる。で、いざ、“当たった”となると悲しいかな金銭的問題が浮上する。
お金と言うとつまらん話になっちゃうけど、要はああいう凝縮した映画1本に付き合うことの大変さに対する対価ということですよ。
一作:パート3でロバート・デュバル、
こだま:弁護士ね
一作:うん。いなくなるものね。
こだま:あの人、凄く大事な役なのに(笑)
一作:ハハハハハ(笑)
うん。
こだま:それこそ1作、1作の大変さだと思う。「また、あれをやるのか……」という(笑)
◇◆◇◆◇
こだま、一作とも駆けつけ一杯のビールの勢いで、重い訃報から映画作品と役者の微妙な関係に一旦帰着したところで、ふっと思い出した。
こだま和文はリアルな役者、そして演劇の現場を知っているのだ。
普段、本人はそのキャリアには触れないが、著書「空をあおいで」中、秀逸な一篇の随筆として役者稼業のリアルな心情を確かに残している。
不肖、わたしがそんな軌道に2人を誘導した先に、これまで誰も聞いたことがない2人に執っての演劇との初期衝動が語られる。
◇◆◇◆◇
ラジオアダン:映画といえば、以前、林海象監督作品(『二十世紀少年読本』)にこだまさんは出演されていましたね。
こだま:あれはエキストラみたいなものだから。
ラジオアダン:では、本格的にこだまさんが役者をやったといえば、宮沢章夫さんのお芝居(『砂の楽園』)ということになりますか?
こだま:やった。おれ自身が、「よくやったな〜」と今でも思うもの(苦笑)
一作:芝居やったんだ?
こだま:1ヶ月拘束ですよ。20以上の舞台があったんじゃないかな?
一作:へぇ〜、よくやったね。
こだま:おれ自身がそう思う(笑)
一作:こだまくんのMCでの、「寒男は〜」みたいな感じで台詞をしゃべった訳?
こだま:……、うん、まあ、そういうことですよ。
役柄があってさ。
一作:ミュートやっていた若い頃?
こだま:いや、終わった後。
でも、おれ、演劇は子供時分からやっていたから。
一作:へぇ〜、そうのな?
それ知らないな〜、インタビュー本にもその話入ってないよね。
こだま:実は幼稚園で舞台デビューしてるんだよね。
ガハハハハ(爆笑)
一作:ガハハハハ(爆笑)
子役だ!(笑)
こだま:うん、学芸会みたいなものだけどね(笑)
ラジオアダン:ぼくは、インタビューでお訊きした子供賛美歌隊での合唱が、舞台に立った最初だと思ってました。
こだま:実は演劇なんだよ(笑)
「一寸法師」ね。
一作:一寸法師の役?
こだま:うん。
衣装をちゃんと着て、
一作:よく幼稚園時代のことを細かく覚えているよね。
こだま:写真が残っているから。
一作:成る程。
で、やる気満々でやってたの?
こだま:そこまでは覚えてないな。
中学くらいからはよく覚えているよ、演劇部だったから。
一作:えぇ、そうだっけ?吹奏楽部じゃなかった?
こだま:倶楽部みたいなもんで、吹奏楽部とはまた別個に入ってたの。
文化祭的な時期に、「『父帰る』をやろう!」なんてなって集中的にやる感じ。
なんか、思えば、おれ出たがりだったんだね(笑)
こどもの頃は、おれもっとひょうきんだったから(笑)
一作:ひょうきん!?
ガハハハハ(爆笑)
なんか分かる分かる(笑)
こだま:ひょうきんだったの、もの凄く。
一作:こだまくんのステージしか知らない人は分からないかもしれないけど、おれ達はなんとなく分かるよ。一寸法師の台詞は覚えてるの?(笑)
こだま:それはないな(笑)
あれはなんか、踊りみたいなことだったと思うんだ。カエルとお姫様がいてさ〜、
一作:一種のミュージカル?
こだま:なんかそんな風な。
台詞らしい台詞はなかったんじゃないかな〜?
写真を頼りに思い出そうとするんだけど、流石にもう無理。
1回ツイッターにその写真を上げたけど、すぐ消した(笑)
一作:ガハハハハ(爆笑)
急に恥ずかしくなって?
こだま:うん、なんか……、
一作:おれの場合は中学1年の時に、学芸会で「大黒様」をやったりしたかな。
あと、2年の時に、「無心」っていう、……、山口県って妙に文化度数が高かったんだ。
「無心」は天狗と石工(いしく)がいて、石工が無心で石を打っているんだけど、今でいうところの彫刻家みたいなものかな?
そこへ天狗が現れてちゃちゃを入れ始める。ちゃちゃは相当長く続くんだけど、石工は一心不乱に石を打ち続けて、最終的に天狗は根負けしてどこかへいってしまうという話なんだ。
こだま:いい話だね。
一作:その中で、おれは天狗の役をやったの、ガハハハハ(爆笑)
こだま:ガハハハハ(爆笑)
石工じゃなくて天狗なんだ(笑)
でも、重要な役柄だね。
一作:そうそう。でも学芸会だからね(笑)
◆◇◆◇
ここで一作が仕込んだタイムボンブが炸裂する。
近年、こだま和文が常打ち箱にしていた、西麻布「オリジナル新世界」のコアスタッフ、園田ゆみ氏(以下敬称略)が昼間の照明業務を終えて急遽登場!
女性の登場で場が華やぐと共に、話題も、ゆみが常時観覧するこだまツイッターに頻度高く登場する自作料理の話へと流れ込む。
◇◆◇◆◇
こだま:あら〜、ゆみちゃん!!
園田ゆみ(以下ゆみ):ハハハハハ(笑)
一作:ゆみちゃんも話に参加させよう(笑)
ゆみ:わたしはお二人のお話を聞いて飲んでいるだけでいいですよ(笑)
こだまさんのツイッターはよく拝見させていただいています。
一作:自作の料理の写真を上げたりしているんだよね?
こだま:うん、そう。
一作:飲みながら作ったりもするの?
こだま:ええ。
一作:あれはいいよね、楽しい。
こだま:「今晩は何を食べようかな?」くらいの時からキッチンで飲むのがいいんだよ(笑)
決めてかかるときも勿論あるんだけど、まずは冷蔵庫の中の野菜を見るんだな。その中で、一番最初に食べないといけないものを判断する訳。でかいキャベツがあったりさ(笑)
一作:凄く分かるよ(笑)
こだま:大根があったりさ、それを優先するしかないんだよな。
じゃがいもなんてのは放っとけるけど、「小松菜とほうれん草がダブってるな」
みたいな(笑)
一作:ガハハハハ(爆笑)
そうそう、じゃがいもは放っとける(笑)賞味期限が長いからね。
こだま:大根も冷蔵庫に入れときゃまあまあ保つんだけど、葉物系だよな、問題は。
「レタスと白菜両方」、……、……、
まあいいや、そんなこと(引っ張った割に超あっさりと)
そんなこと考えながらまずは飲んじゃうんです。
特に出汁を取る時なんて、味見するじゃん、それでもう十分飲めちゃう(笑)
一作:ガハハハハ(爆笑)
酒飲みだね〜(笑)
出汁ってなんの出汁?
こだま:昆布と鰹。あと、昆布と煮干し。これを使い分けるんだけど、
一作:煮干しって、“いりこ”のこと?
こだま:うん、いりこ。使い出したのは最近なんです。
多分、讃岐うどんや尾道ラーメンが切っ掛けだったと思う。
一作:おれは出身が瀬戸内だから、シェアは鰹よりいりこのほうが広い訳。
今でも、買うときはなるべく瀬戸内のものを選ぶ。
こだま:鰹節とはまるで違うものだよね。
一作:うん、デリケートなんだよね、いりこは。
こだま:うん、すっきりしてる。
鰹節は一種の薫製感があるんだけど、……、まあそれがよさでもある。
いりこは、「生臭いんじゃないだろうか?」と思っていたけど、全然すっきりしている。
あれ、ポトフとか相性いいよ。
一作:ちょっと空煎りして使うといい。そうすると、さらに生臭さが抜ける。
こだま:手間としたら、前の晩から水に浸けとかないといけないんだよな〜、昆布と一緒によ。
一作:麦茶を入れとく容器があるじゃん、あれに水を注いで昆布といりこを入れて冷蔵庫に入れておくんだ。そうすると手間をあんまり感じないじゃん。
ところで、福井県ではどんな出汁が多かったの?
こだま:昆布と鰹。
一作:他は?
こだま:他はない。
一作:飛魚は?
こだま:九州の?
一作:うん、あれ、今人気あるよね。
こだま:おれはいりこで十分だな。
九州の人達や、あと島根も飛魚は使うね。
一作:そうか、飛魚は福井までは届かなかったんだね。
こだま:うん、なかった。あれは島根くらいまででしょ。
一作:結構、前から、こだまくんとは食い物の話は合うんだよね(笑)
こだま:うん、おれも一作さんもザックリ言えば、同じ西日本だしね。
一作:おれは料理屋やってるから味にうるさいのはあたりまえのことだけど。
こだまくんは味のことよく知ってる。
こだま:いやいや。
ガハハハハ(爆笑)
一作:福井は地理的に京都の文化も当然入ってきているもんね。
そういえば、こだまくんの本の取材で福井に行った時に入った福井駅最寄りの蕎麦屋がよかった。
おれ、2日続けて行ったんだけど、最初は蕎麦を食って、翌日、中華そばを食ったんだけど、この中華そばが旨かった。
ラーメンじゃないよ(ゆみに向かって)、中華そば。
なんていう店だったかな?もう一回行きたいんだけど。
こだま:いい旅だったんですね。
左:園田ゆみ氏
◇◆◇◆◇
味に一家言ある2人の味覚議談の果てが、なんと、こだま和文の故郷福井。その福井から上京したこだま青年を、「まるで空想のパリのようだ」と感嘆させたのが、吉祥寺の街だった。
遡ることその2年前、図ったかのように、一作もその街を青春と云う名のもとに徘徊していた。
そして、その後、武蔵野文化圏を離れた2人の磁場は、原宿〜霞町に移行。
そこでの、日本レゲエ創世記のメモリーを経て、遂に本日最大のこだま格言が飛び出す。
◇◆◇◆◇
ゆみ:先日のクアトロのこだまさんのライブに行ったんですけど、
こだま:ありがとう
一作:おれも行ってたよ。
ゆみ:そうみたいですね、お会いしたかったんですけど……。
わたし、98年に上京してきたんですけど、その時のわくわくした気持ちをあのライブで思い出しました。
一作:いいね〜、一杯喋ってもいいからね(笑)
ゆみ:えっ???
ハハハハハ(爆笑)
いきなり来てすいません。
お酒があるところならどこまでも(笑)
一作:おれは、上京すぐの街というと吉祥寺。
あの頃の吉祥寺はよかったよな〜。
こだま:うん。
サンロードに易者さんがいたんだよ。
今のマクドナルドの少し内側、昔、三浦屋があった、……、
おれ、この易者のこと今度ツイートしようかな?
一作、ゆみ:ガハハハハ(爆笑)
こだま:いや、細かい人はね、そういうのちゃんと拾ってくれたりするんだから。
懐かしいな〜、映画のワンシーンみたいな映像が今でも浮かぶよ。
易者なんだけど、一見、大学教授みたいなさ。髪が白髪で長くて、眼鏡をかけていて、髭もちょっとはやしていて、三揃えのスーツを着こなして。
和装の易者じゃなく洋装の易者。その人のことは時々思い出すね。
当時もう、6〜70歳くらいで。
一作:あの頃って、「新宿から流れて吉祥寺」な感じってあったじゃん。変な奴が一杯いたよね。
それは三鷹台に住んでいた時の話?
こだま:そう。
ラジオアダン:お二人は、吉祥寺から原宿、霞町と共通の拠点移動をしているみたいですが、時期的には約2年程のラグがある感じでしたっけ?
一作:そうだね、2年違うね。
こだま:でも吉祥寺はそこそこ被ってません?
どこかでかすっていたんだろうね。
一作:絶対にかすってるね(笑)
こだま:おれにとって、河内一作って人は幻の人なの(笑)
昔から、オーバーヒートの石井(志津男)さんからその名前を聞いたりしていたんだけど、とにかく謎の人物だった。
皆から聞くんだよ、「一作がさ〜」って(笑)
一作:ガハハハハ(爆笑)
石井さんはあの頃、クリーズクリークの近所で事務所をやっていたから。
おれ、三木(哲志)くんと一緒に「ロッカーズ」の映像を借りに行ったもの。
三木くんはおれより石井さんとは古かったはずだよ。
こだま:あの頃はあの頃でレゲエのセクションと云うか、……、いろいろあったんだよ。
一作:あの頃、レゲエシーンにはそれなりに楽しませてもらったけど、やっぱりラスタ帽だけは被りたくなかったね。
こだま:今、一作さんが言ったことも含めて、皆思い入れがあるもんだから。しかし、周りを見ればそんなに知られたジャンルとはいえないし。
そうすると、「レゲエに関してはおれだ!」とか「レゲエはこれが本物だ!」とかって奴が出て来るんだ。
一作:ガハハハハ(笑)
いたいた、一杯(笑)
こだま:その熱い想いはシーンを活気づかせるにはいいことだったのかもしれないけど、「おれはおれでやるぜ」ていうのが石井さんで、他にもザイオン系やらいろいろあったんだよ。
結局、パンクでもニューウェーブでもそういうことってあるでしょ?「だれそれはだめで、だれそれはいい」なんてのが。
つまり小さな村社会ってのはね、目立ってくると叩くんだ。
一作:それダメだよな。
こだま:つまらん。あれ、やっかみなんだよ。
写真や絵の世界でもそのつまらんやっかみが今も続いている。
ラジオアダン:先日、s-kenさんに“東京ソイソース”について伺ったんですが、あの80年代後半の完成形とも云えるミュートビートの芝浦インクのライブでも、「ボブやれ〜〜〜!!」なんてヤジが飛んでいたそうですね。
一作:おれは大好きだったけどね、ミュート。
こだま:レゲエの中で嫌われながら。みんなつるみがあるからね。
じゃ〜、今度はヒップホップのシーンに少し顔を出すと、こっちはこっちでつるみがある。
「それをやめようぜ」というのがソイソースだったんだよ。
ラジオアダン:至極納得です。
こだま:otoちゃんがECDを誘ったり、いとうせいこうさんを呼んだり、ランキン(・タクシー)も出るわ、あれはもの凄くいい環境を作ったんだね。
あれがあの時代の最後のクリエイションだったんだな。
一作:うん、88年あたりで終わりだよね。
こだま:トマトス、s-ken&ホット・ボンボンズ、じゃがたら、ミュートビートだもの。今、自分が客で見てみたいよ。
まあ、その中でもいろいろあったけどな(笑)
一作:とはいえ、こだまくんは、結構、皆と良好なんじゃないの?
こだま:おれはクラゲみたいな人間だから(笑)
一作:ガハハハハ(笑)
こだま:最近のキーワードは“比べない”だから。
「なにごとも比べない」というのが最近の信条。
一作:正にそう。
こだま:なにごとも比べない
比べることがダメ。いいものは、「いいね〜」って。
いいじゃない、ねぇ、ゆみちゃん。
そういう時だけふる(笑)
ゆみ:はい(笑)
一作:最近、岡本太郎の本を読んでいて、こだまくんが今言ったことと同じように綴られたものを受け止めている。凄くいい信条だと思うよ。
こだま:ここまで一応生きてきて、今一番思っていることが“比べない”ってことだから。
一作:うん、それ凄く分かる。
こだま:大体、やっかみやだったり、……、
ただ、まあ、それがモチベーションになる時期もあるんだけどな。
一作:だれがどうしたこうしたは、もう本当にいいのよ。
おれなんて過去にやらかした恥ずかしいことなんて一杯あるよ(苦笑)
それもね、もういいのよ。「自分の世界だけで行こう」という気持ちが今凄くあるね。
正直に言えば新世界もやらかした方に入るんじゃないかな?一人でいるときなんていろいろ思い出して、「恥ずかしい……」ってなるもの。
ゆみ:へ〜……。
一作:だけどね、それもまたいいんだよ。
ねぇ、ゆみちゃん(笑)
こういう時だけふる(笑)
ゆみ:はい。
ハハハハハ(爆笑)
◇◆◇◆◇
それにしても、これほどウマがあう2人が、2010年のオリジナル新世界オープンまでサシで会話を交わしたことがなかったなんて、神様のプログラムなんてものも随分と当てにならないものだ。
そんな、神のエラーをよそに出会った約束の地、新世界での凝縮した6年間の黄金の日々。
今夜も、やはり話はそこに辿り着く。
◇◆◇◆◇
ゆみ:こだまさんの新世界でのターンテーブルライブは本当にお芝居を見ているように感じられて。
元々、働いていたお店がシャンソンのお店だったので、
ラジオアダン:青山「青い部屋」ですよね。
こだま:戸川(昌子)さんの?
ゆみ:はい。
こだまさんの新世界でのライブって、シャンソンのように、「1曲の中にストーリーがある」って感じで、凄くお芝居を感じて感動してしまったんです。
一作:バンドが再始動して、ターンテーブルライブは今はあんまりやってないの?
こだま:うん。
一作:あれはあれでいいんだけどな〜、こだま劇場な感じで。
こだま:自由だからね。責任も全て自分だけど。
あれこそ新世界があってのものだったかもしれないね。
一作:かっこよかったよ。
「NAMAHAGE」とか最高だった!
こだま:新世界だから出来たことなんだよ。
一作:3/11の後にさ、紙袋をエレファントマンみたいにこだまくんが被ってさ、……、かっこよかったな〜。それで、「NAMAHAGE」をやる訳でしょ。
こだま:ガハハハハ(爆笑)
一作:あの手の、敢えてチープなパフォーマンスって、80年代のニューウェーブ絡みでは一杯あったよね。あれはあれでおれは好きだったな。
こだま:そうです。
俊ちゃんのウォーターメロンだって自作の紙のお面付けて(笑)
一作:専業でなく、アートと音楽の融合なら、「素人でも出来ちゃうかも??」って世界だよね。
こだま:やっぱ新世界は、張り合いがあったな(しみじみ)
一作:だからおれからしたら、「形は違えども、そういう場を作らなくちゃいけない」と常に思ってはいるんだけどね。
こだま:そういうおれを、一作さんは今でもこうやって誘ってくれる訳だから。
そういう空間に対する感性を持ったクリエーターが最近は少ないよね。
過去で言えば、ピテカン(トロプス・エレクトス)、インク(スティック)もおれにとっては非常にエポックな箱だったけど、あの時期はバブルの後押しがあったから。新世界は全然違うじゃん。一作さんは本当、「ギリギリで、どうなるか分からないけどコアにやろう」という気持ちがひしひしと伝わってきたから。
でも、70年代の人達は、皆それをやって来たんだよね。それを2000年代に入っても一作さんはやったんだよ。
一作:やらかしちゃったね(苦笑)
でも、80年代のクーリーでライブをやったアーティストが今では有名になっていて、新世界に出演した時に、「新世界って席も少ないし、座れないし」なんて言うんだけど、おれはそんなクレームは一切受付なかったの。
だって、「あのクーリーの時の俺たちって、そんなことでライブやってなかったじゃん」ってことだよね。
歳をとろうが、「せめて2時間くらい立ち見で我慢しろよ」みたいな。
そんなおれの考える新世界の価値を最初に誉めてくれたのがこだまくん。
凄く嬉しかった。
こだま:だっていいもの。
一作:ここの場所には、「“るつぼ”というものが当たり前にあるんだよ」ってことを皆に理解してもらいたかったんだ。
◆◇◆◇
新世界でのこだま和文のレアアクトの事柄に一つ一つ触れて行けば、朝になってしまう。
その断片を急ぎ足で過ぎるには、ある程度の酒量も必要となる。そして、そんな行為に陥った2人の言動がやや右や左に揺れ出す。この後の話の飛び具合はかなり酔いがまわっている証拠だ。
だが、その話の雲行きの怪しさが、忘却の彼方に置き去りにされていた事象へ行き着くトリガーともなる。
キーワードは、“バイトリーダー”。
???
◇◆◇◆◇
一作:ゆみちゃん、きみは今の新宿ゴールデン街とか詳しいと思うけど、やっぱり今でもゴールデン街で働く人達って文学とか好きなの?
ゆみ:どうなんでしょうか?
わたし自身はゴールデン街でのひょんなご縁で、田中小実昌さんを知るようになったりとか、
一作:あの人は歩いていてバスが来ると無作為に乗ってしまうらしいね。でも、おれその気持ちよく分かるよ。
ゆみ:小実昌さんってテレビに出るくらい有名な方なんですよね?
でも、わたしの生まれ育った宮崎県は映る局が限られていて全然存じ上げなかったんです。
一作、こだま:ガハハハハ(爆笑)
ゆみ:知ってからは、随筆ですが、1冊だけ読みました。
こだま:東大出身だよね?
一作:東大、東大。
全然行かなくて除籍になっちゃうんだけどね(笑)
こだま:おれがはじめてゴールデン街に行ったのは、映画「集団左遷」の音楽を担当していた時。なにかっていうと行く店があって、映画人のたまり場的な店。
その前は新宿だと、しょんべん横丁の方が行く頻度が俄然高かった。しょんべん横丁といえば、マイルス(・デイビス)の命日に、梅津和時さんとたまたま出くわして。
そのことは、未だに梅津さんは語ったりしてくれているんだよね(笑)
まあ、それはそれでいいんだけど、
一作:そう?その話面白いよ。もっとしてよ。
こだま:それだけだよ(あっさりと)
一作、ゆみ:ガハハハハ(爆笑)
こだま:マイルスが死んだ日。以上(きっぱり)
ラジオアダン:梅津さんとこだまさんって、結構深い縁がありませんか?
生向委(生活向上委員会)で、こだまさんの親しかった篠田(昌已)さんの兄貴分的存在で、s-kenさんの「ギャング・バスターズ」でもホーン隊にご一緒に名を連ねたりして。
こだま:うん、でも最近は息子の方が近しいかもね。
彼(梅津旭)はジャマイカ一丁目バンド(現JAMA-ICHI)ってレゲエバンドのドラマーだから。
ラジオアダン:ええ、知ってます。非常にいいドラマーです。
こだま:うん、そうなんだよ。
飲み屋もやっているんだよな。
一作:えっ、どこでやってるの?
こだま:阿佐ヶ谷。
一作:なんか阿佐ヶ谷とか一緒に行きたいね!(笑)
こだま:あさがぁ〜やぁ〜〜〜!(相当アバンギャルドなイントネーションで)
ガハハハハ(爆笑)
一作:じゃ〜、次回は阿佐ヶ谷でこの対談のVol.2やる!?
ガハハハハ(爆笑)
こだま:そうやって、すぐ一作さんは飲みの方向へおれを持って行く。
ガハハハハ(爆笑)
一作:阿佐ヶ谷はどっちかっていえばこだまくんのテリトリーでしょ?(笑)
こだま:梅津旭くんの店は「ドローバー」っていう店だね。
あの辺はあの辺でまた苦い思い出がある……、
一作:ハハハハハ(笑)
あと、ゆみちゃんワールドでゴールデン街ツアーもいいね。
こだま:ゆみちゃんは、お酒を飲む店にすぅ〜っと入って行けるセンスがあるよね。
ゆみ:どうなんでしょうか?
でも、“オーナーさんが物書き”というのには縁があるかもしれないですね。戸川さんしかり、一作さんしかり。
一作:思えばそうか。
ゆみ:あっ、そうだ、
今度こだまさんにお会いしたら訊こうと思っていたんですけど、ツイッターで、「以前、工藤冬里さんといっしょにバイトをしていました」って呟きましたよね?
こだま:うん書いた。あるよ、やったこと。
ゆみ:バイトリーダーが工藤冬里さんだったとか。
こだま:そうなんだよ(笑)
ゆみ:実は、去年の年末にリニュアルした新世界で工藤さんのイベントをやったんです。
こだま:おお、そうか(笑)
ゆみちゃんはバー?
ゆみ:その時は照明やら受付やらで。
こだま:工藤冬里、面白いでしょ?
おれ昔、彼のこと、「かっこいいな〜」って思ってたんだよ。
ゆみ:今、器を作られているんで、舞台の前に陶芸作品を置いて、最後にはそれを売っていました(笑)
こだま:そうそう。愛媛の窯元なんだよ。
一作:ガハハハハ(爆笑)
今は愛媛にいるんだ。
こだま:元々はジャズピアニストなんだけど、というか、オルタナティブピアニストと云った方がいいのかな?おれ、彼のこと大好きでさ。彼も篠田くんの関係で更に知り合ったと思う。
おれが松山でライブをやった時もわざわざ来てくれてね。
ゆみ:で、バイトはどんな内容だったんですか?(笑)
こだま:おお、おれとピアニカ前田とな、
一作、ゆみ:ガハハハハ(爆笑)
一作:それいつの話よ?
こだま:随分昔ですよ(笑)
関越自動車道が出来た時。
一作、ゆみ:ガハハハハ(爆笑)
こだま:年代を知りたければ、“関越自動車道が出来た時”で検索してください(きっぱり)
バイトの内容は、関越の、……、つまり路肩の掃除ですよ。
一作:へぇ〜、
こだま:車に乗って移動する訳ですよ。
そのバイトリーダーが工藤冬里だったの!
一作、ゆみ:ガハハハハ(爆笑)
こだま:おれを誘ったのが前田だったの!(笑)
一作、ゆみ:ガハハハハ(爆笑)
こだま:だから、おれにとってはその時からずっと工藤冬里くんは偉い人なの!(笑)
一作、ゆみ:ガハハハハ(爆笑)
一作:永遠の上司?(笑)
こだま:上司、上司!!
一作、ゆみ:ガハハハハ(爆笑)
一作:それは凄いね!(笑)
こだま:工藤くんは変わった人だったろう?(ゆみに向かって)
ゆみ:ハハハハハ(笑)
こだま:全然しゃべらないで、
こんな(日本固有の幽霊のポーズをとる)感じの人だろ(笑)
でも、すげぇ〜チャーミングな男なんだよ。
話しかけづらくて、話してもあんまり言葉は出てこないんだけどさ(笑)
一作、ゆみ:ガハハハハ(爆笑)
◆◇◆◇
正に想定外な、レジェンドミュージシャン2人の過去が暴かれ一気に場はスパークしたが、盛り上げれば沈むのが自然の摂理。
この後、深酒に達しつつある2人の口調は徐々にまったりと。
そして、楽しかった今宵の宴も徐々にフェードアウトへ向かう。
◇◆◇◆◇
一作:今、割と葉山にいることが多いんだけど、ミュートビートとこだまくんの音源は全部店に置いてあるから、聴きたい時に聴けないんだ。だから、最近はユーチューブで聴くことが多い。
こだま:どのくらいの感じで行き来してるの?
一作:大体、半分ずつかな?
こだま:いいペースだね。
一作:(急に)いいね、いいね、かっこいいね(BGMでかかった、西内徹バンドでのこだま和文のソロパート部分を聴きながら)
いいな〜、ミュージシャンは皆に、「かっこいい」って言われて(笑)
店をどこまで作っても、「かっこいい」なんて言われたことないよ(笑)
こだま、ゆみ:ハハハハハ(笑)
こだま:「いい店ですね」ってのは、その場合、「かっこいい」の同義語でしょ。
「あそこのオーナーがいいんだよね」って、皆言ってるよ(笑)
一作:今回、ゆみちゃんを飛び入りで呼んでよかったね。
ゆみ:ハハハハハ(笑)
こだま:ゆみちゃんはまだ若いから、これからいろんなことがあるんだろうね。
一作:ねっ。
あるある、一杯ある。
こだま:ゆみちゃんは、久しぶりに会っても可愛らしくて本当にいいよな。
ラジオアダン:そういえば、(松竹谷)清さんの還暦ライブの正式なリリースはこだまさんにもまだ届いてないんですか?
こだま:知らない。渋谷でやるってとこで止まっている。
(後日、6月9日(金) 渋谷 O-nestに決定!)
(突然)今、一作さんは何の曲を聴きたい?
ラジオアダン:多分これだと思いますよ(PCで『恋のバカボンド/s-ken:トランペットこだま和文』を即かける)
「恋のバガボンド/s-ken」ユーチューブで試聴可能です
一作:いいね!これ最高!
ゆみ:s-kenさん?
こだま:うん、s-ken(笑)
一作:この曲も、朝、掃除の時に聴く曲(笑)
こだま:ハハハハハ(笑)
いいね(聴き込みながら)
ゆみ:s-kenさんのヴォーカルって魅力的ですよね。
こだま:うん、そうだよ。
ゆみ:わたしはこだまさんの唄も大好きですけど(笑)
こだま:嬉しいね(笑)もう少し励みますよ。
一作:このトランペット最高だよね。(聴き込みながら)
かっこいいんだよ、本当に。
こだま:ここのペットの部分は、実はおれが作ったフレーズなんだよ。
♪お〜い〜で〜 恋のバ〜カボンド〜♪(曲に合わせてはもる)
いいね〜(笑)
一作:今日も結構話したね。
今度はおれが国立に訪ねて行くからさ。
こだま:はい、待ってます。
一作:その時は、たまには吉祥寺で飲もうか?
ゆみ:えっ、それわたしも行っていいですか?
一作:いいよ。
こだま:来てよ、ゆみちゃん(笑)
今度、ゆみちゃんがいる新宿の店にもふらっと行くよ。
ゆみ:こだまさんがお店に来たらめちゃくちゃ緊張しちゃいますよ(笑)
毎週月曜日は新宿にいます。昭和歌謡のお店(新宿『夜間飛行』)です。
こだま:へ〜、そうなの?
そこはお客さんも唄えるの?
ゆみ:残念ながらお客さんは唄えないんですけど、ママがセレクトした歌謡曲と、昭和の映像、それこそ「時間ですよ」とかが流れていたり。
こだま:へ〜。
一作:(突然)今週の「バー黄昏」(一作プロデュースの渋谷の週末限定DJバー)のDJはだれ?(進行役に向かって)
ラジオアダン:インターFMのナビゲーター、ジョージ・カックルさんです。
そうそう、ジョージさん、実は、元新宿「開拓地」のスタッフだったんですよ。
こだま:えぇぇ〜〜〜〜!!おれ、大昔、ライブやったような気がする。
瀬川(洋/ex.ザ・ダイナマイツ)さんとやってるかもしれない。
開拓地!?!?ヤバいね!
ラジオアダン:こだまさんは(川上)シゲさん(ex.カルメン・マキ&オズ他)に連れられて、
こだま:うん。
へ〜、ホント??そんな人がかけてるんだ。
開拓地、ウッディーな店だよ、ウッディーなログハウスみたいな(笑)
一作:流石にその店は知らないな〜。
名前からして凄いね(笑)
で、こだまくんの今度のライブはいつなの?
こだま:近々では、5月14日の立川「A.A.company」での、KODAMA AND THE DUB STION BANDのワンマンですね。
※詳細/
一作:飲みの場ばかりじゃなくて、今度はライブ会場に会いに行くね。
最後に告知も出来たし、酔談の第2弾もやるというところで、今日はお開きにしようか?
こだま:そうですね。
本日はごちそうさまでした。
◇◆◇◆◇
再会を約束して幕が降りたダブマエストロとの酒宴。
今後も限りなく続くであろう2人の会話と言う名の交信。
「応答願います」。
こだま和文がMCの常套句として使うこの言葉は、一作の随筆にもよく登場する一節だ。
「応答願います」。
次回、このどちらからかのコールにレスポンスする場所は、吉祥寺?阿佐ヶ谷?新宿?それともどこかの地方都市?はたまたアセンション後の新世界?
だが、そんな先のことは誰も分からない。
なぜなら、人生の殆どの出来事なんて酔っぱらいが酒場で夢想したことを、神様が空模様に沿って暇つぶしにチョイスしているだけだから。
とぅ・びー・こんてぃにゅーど
@泉岳寺「アダン」
テキスト、進行:エンドウソウメイ
写真:門井朋
●今回のゲスト
PhotoⒸ門井朋
こだま和文/プロフィール
1982年9月、ライブでダブを演奏する日本初のダブバンド「MUTE BEAT」結成。通算7枚のアルバムを発表。1990年からソロ活動を始める。ファースト・ソロアルバム「QUIET REGGAE」から2003年発表の「A SILENT PRAYER」まで、映画音楽やベスト盤を含め通算8枚のアルバムを発表。2005年にはKODAMA AND THE DUB STATION BANDとして「IN THE STUDIO」、2006年には「MORE」を発表している。プロデューサーとしての活動では、FISHMANSの1stアルバム「チャッピー・ドント・クライ」等で知られる。また、DJ KRUSH、UA、EGO-WRAPPIN’、LEE PERRY、RICO RODRIGUES等、国内外のアーティストとの共演、共作曲も多い。
近年、DJ YABBY、KURANAKA a.k.a 1945、DJ GINZI等と共にサウンドシステム型のライブ活動を続けているが、2015年 12月、KODAMA AND THE DUB STATION BANDを再始動。メンバーは、こだま和文(tp.vo )、AKIHIRO(gr)、コウチ(bs)、森俊也 (dr)、HAKASE-SUN (key)。
また水彩画、版画など、絵を描くアーティストでもある。
著書に「スティル エコー」(1993)、「ノート・その日その日」(1996)、「空をあおいで」(2010)。ロングインタビュー書籍「いつの日かダブトランペッターと呼ばれるようになった」(2014) がある。
PhotoⒸこだま和文
園田ゆみ/プロフィール
青山「青い部屋」を皮切りに、東京のコア・ライブシーンの多くの箱のスタッフを歴任し、河内一作プロデュース「音楽実験室 新世界」でも、カウンターチーフ、ブッキングマネージャーを務める。現在もライブシーンに身を置き、昨今は、主にライティング業務に携わる。また、「ゆみたん」名義でのDJ、「迷い道くね子」名義でのアーティスト活動など、神出鬼没な夜の街の妖精度は更に深まるばかりである。
河内一作/
山口県生まれ
八十年代から霞町クーリーズクリーク、青山カイなど常に時代を象徴するバー、レストランの立ち上げに参加。九十年代、仕事を辞め世捨て人となる。
六年間の放浪生活の後社会復帰し、アダン、青山タヒチ、白金クーリーズクリーク、音楽実験室新世界、奥渋バー希望、南洋ギャラリー、など手がける。お楽しみはまだこれからだ。
黄昏ミュージックvol.5 Komm, susser Tod(甘き死よ、来たれ)/ARIANNE
1997年公開の、「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」の、正に、人類及び地球の終わりの始まりを告げる、黄昏タイム、人類補完計画発動時に象徴的楽曲として流れ込むのがドイツ語タイトルを持つ「Komm, susser Tod(甘き死よ、来たれ)」。タイトルと反し全て英語で唄われている。歌唱は、イギリス生まれ南ア育ちの女性シンガー、アリアンヌ・クレオパトラ・シュライバー(本作はARIANNE名義)。
B級バラードと聞き違える程にどうでもいいピアノ伴奏のバラードが、聴き進むにつれレモン・ジェリーを彷彿させる壮大なテンション高いシンホニック・ポップスへと展開され、リフレインされる~It all returns to nothing~(『無に還ろう』)とのマントラはオレンジ色のLCLの深海に溶け込む。(se)