黄昏ミュージック番外編 おめでとうございます/海老一染之助・染太郎 他

 1/6から本年の「バー黄昏」営業が始まったのだが、ここでのプレイはかなりの長丁場ゆえ、季節に準じた選曲で発想を補うことが非常に多い。
 ということで、その夜のテーマは、“正月”。
 下の選曲を雛形としてその夜は臨んだのだが、メインフロアーとなるカウンターに女性客ばかりが続き、且つディナーとしての使い勝手を望んでの来客ばかり。
 こんな時、雛形だけに頼ると、客が望んだ空間性を損なうことにもなるので、結局、下記予定プレイリストの内、10曲程を使用し、別のトラックを多数付け足しての即席「正月ミックス」をでっち上げたのが現実のプレイ内容だった。
 そんな感じで諸々の事象はあるのだが、本年も黄昏をよろしくお願いします(se)

君が代/忌野清志郎
美しき虚構:海ゆかば/渥美清
新日本紀行/冨田勲
春の海/宮城道雄
染之助・染太郎のおめでとうございます/海老一染之助・染太郎
なんでかフラメンコ/堺すすむ
盆回り(ドリフのオチの時のテーマ)/たかしまあきひこ
かしまし娘のテーマ/かしまし娘
いってる北朝鮮~嘆きのボイン/月亭可朝
パンツミー/すち子&真也
おそうじオバチャン/憂歌団
生活向上のための音楽(花月爆笑劇場OPテーマ)/山根正義
サンバディ・ストール・マイ・ギャル(吉本新喜劇OPテーマ)/ピー・ウィー・ハント
アホの坂田/キダ・タロー
ヤマザキ一番/山崎邦正
笑点音頭/立川談志&笑点グループ
これが自由というものか/榎本健一
よさこい節/寺内タケシ&ブルージーンズ
花笠音頭/寺内タケシ&ブルージーンズ
ダイナマイト/ザ・スパイダース
エレキのツンドラ/ザ・スクリーントーンズ
ヘイ・ユー・ブルース/左とん平
ロックン仁義/ザ・タイマース
一番星ブルース/菅原文太
港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ/ダウン・タウン・ブギウギ・バンド
かけめぐる青春/ビューティーペア
ザ・グレート・ムタのテーマ/安部潤
ザ・グレート・カブキのテーマ/キース・モリソン
燃えよ荒鷲(坂口征二のテーマ)/淡海悟郎
アリ・ボンパイエ/マンドリル
スカイハイ(ミル・マスカラスのテーマ)/ジグソー
チャイニーズ・カンフー(ジャンボ鶴田のテーマ)/バンザイ
マッチョドラゴン/藤波辰巳
俺はジャイアン様だ!/ たてかべ和也
ディスコお富さん/エボニー・ウェッブ
ヒゲのテーマ(ドリフのヒゲダンスのテーマ)/たかしまあきひこ&エレクトリック・シェーバーズ 
ディスコキッド/ヴァン・マッコイ
エキストラ・エキストラ/ラルフ・カーター
アイ・キャン・ヘルプ・マイ・セルフ/ボニー・ポインター
ストップ!イン・ザ・ネーム・オブ・ラブ/ダイアナ・ロス&ザ・シュープリームス
大江戸捜査網OPテーマ/玉木宏樹
西部警察OPテーマ/宇都宮安重
スクラッチン/マジック・ディスコ・マシーン
アパッチ/インクレディブル・ボンゴ・バンド
さらばシベリア鉄道/大田裕美
熱き心に/小林旭
冬のリヴィエラ/森進一
知床旅情/水原弘
琵琶湖周航の歌/加藤登紀子
サボテンの花/チューリップ
なごり雪/イルカ
北風小僧の寒太郎/堺正章
しんしんしん/はっぴいえんど
春のからっ風/泉谷しげる
春よこい/はっぴいえんど
春になったら船に乗れ/久和田佳代

黄昏ミュージックvol.13 Heavy Days/柳ジョージ&レイニーウッド

 黄昏ミュージックと銘打ち数々の楽曲を紹介してきたが、黄昏度数最高潮のサザンソウルというカテゴリーがスッポリ抜けていることに先日気づいた。
 どうせ出遅れたのであれば、いっそ大きく捻って和製サザンソウルの名曲を1曲。
 79年公開の工藤栄一監督作品で、ヤクザ映画のフォーマットを租借した傑作青春群像劇『その後の仁義なき戦い』で、主演の故根津甚八が物語終盤、覚せい剤に溺れ、妻役の原田美枝子と退廃した生活に沈み込む時流れる重く印象的なバラードがある。
 完全なるサザンソウル様式のサウンドプロダクトに、日本人とは思えない全編ディープな英語歌詞で重厚に唄われるのが、同作の音楽も担当した柳ジョージ&レイニーウッドの『Heavy Days』。
 この時の柳ジョージ&レイニーウッドは、前年の萩原健一主演テレビドラマ『死人狩り』で、当初英語歌詞であったものを日本語に書き直した『雨に泣いている』が大ヒットしたばかりで、活動に加速がかかった全盛への助走期。
 因に、この『Heavy Days』の音源は英語歌詞のみのリリースだが、劇中では冒頭から日本語歌詞も披露されており、こちらの方もドラマと100%シンクロした秀逸な出来。
 その辺興味のある方はDVDの方の購入もお勧めする。

♪ Oh Heavy days very bad days
明けても 暮れても
都会の底を 這いずり廻る

Oh gloomy days very bad days
堕ちてゆく 堕ちてゆくこの心
分かりゃしないさ この気持ち

闇の中に届かない オレの明日
燃え尽きてしまった オレの希望
心に鉛を引きずって 生きてゆく
Woo oh my heart Woo oh my heart
I feel wha ♪
(se)

黄昏ミュージックvol.12 13階の女 /あんぜんバンド

 東京近郊の地方都市に住み、小学上級で既にロックミュージックに感化されていた筆者は、英米のロックミュージックを日常的に聞く生活に入ったのは中学入学くらいだっただろうか?
 しかし、地方都市故、その当人である外タレを生で見るのは中学2年まで待つこととなる。
 で、あるので、プロのロックミュージシャンはいか程の演奏技術を有しているか?を確かめる術は、当然、国内のバンド且つ自分の街に来るバンド限定での調査となった。
 今思い出し記憶にあるバンドと言えば、イエロー、ファーイースト・ファミリー・バンド、チューリップ、外道、コスモスファクトリー、そして、地元のプログレバンド、美狂乱等。このラインナップを見ても当時の筆者がプログレに傾倒したいたことが分かる。
 そんな中、和製プログレの雄、四人囃子と近しいという一点のみでライブを見に行ったのが、今回紹介するあんぜんバンドだ。(実際の彼等の業界的棲み分けは、めんたんぴん、センチメンタル・シティ・ロマンス、乱魔堂等と同様のアメリカンロック派とみなされていた)
 その程度の予備知識で見たあんぜんバンドの印象は、“四人囃子より全然アメリカ寄りで、プログレ臭はほんの僅か”という、当時の筆者にはなんともつかみ所のないバンドであった。
 ライブも滞りなく進んで行き、MCがあったのだろうか?なかったのだろうか?その辺の記憶は非常に薄いが、爆音が収まった後、3声の美しいコーラスでその曲は始まった。
 ♪彼女にはもぉ〜お  こうぉ〜するしかぁ〜なぁ〜いのだ 13階の屋上から 身をぉ〜投げることぉ〜♪
 RCサクセションの「スローバラード」同様に、シンプルで破壊力満点の冒頭の日本語に一瞬にしてやられてしまい、ライブ帰りにはシングル盤を購入していた。
 ジャケット写真が白人ティーンエイジャーの裸婦なもので、レジに通す時、非常にドキドキしたのを昨日のことのように覚えている。
 その後、あんぜんバンドは、76年セカンドアルバム「あんぜんバンドのふしぎなたび」をリリース。ファンク、フュージョンを大胆に導入、一定の高みまでその音世界を昇華し静かに活動を終えるが、Rolly率いるすかんち、大槻ケンヂの特撮等が「13階の女」をカバーするように、多くの潜在的フォロワーが存在し、この曲のみが持つ極上のトワイライト感は永遠のものだということが改めて証明される。(se)

「連載対談/『酔談』vol.7」ゲスト:横山泰介氏、上平諭氏 ホスト:河内一作


 “酔談”。見ての通り、酔って語らうこと。当然、造語である
 酔っているがゆえの無軌道さ、無責任さ、大胆さ、自由さをそのまま気取らず飾らず実況する、それが「対談連載/酔談」の全てである。
 アダングループ代表、河内一作が東京の夜のフロントラインに初めて立った、1981年の「クーリーズクリーク」から現在に至るまで、彼が関わった店が、単なる飲食店におさまらず“自由なステージ”としての酒場の背景を演出出来えた“要”ともいえる大切な友人達を毎回招き、テーマなしのゼロベースから美味しい酒と肴の力を借りつつ今の想いを語り尽くすトークラリー。
 さて今回のゲストは、サーフシーンはもとより、多くの良質な写真作品で名を馳せるレジェンドカメラマン、横山泰介氏(以下敬称略)と、彼の写真作品を高い印刷技術とエディトリアルワークで支える、上平諭氏(以下敬称略)のお二人をお迎えし数えて第7回目となるコアなトークセッションをお馴染みの泉岳寺「アダン」特別室で決行。
 この2人、仕事上での強力なタッグチームは勿論、もう一つのフェーズとして長いキャリアを誇る生粋のサーフィン仲間でもある。
 サーフィンとは縁遠いナイトカルチャーの権化、一作が、果たして2人がアドリブで発動するビックウェーブを乗りこなすことが出来るのか!?!?
 現在、住居を葉山に移した一作にとって、同じく在を葉山に置き、且つ生まれながらの湘南ボーイの泰介のルーツは興味深い題材。
 冒頭から、泰介に、「一作はマインド・サーファーだから」との名誉の仮称号をもらった勢いを借りて、泰介の広大なタイムラインという海に向かって慣れないパドリングを始めた。
◇◆◇◆◇

河内一作(以下一作):泰ちゃんは、ず〜っと湘南生まれの湘南育ちだよね?

上平諭(以下上平):鎌倉でしたよね?

横山泰介(以下泰介):いや、生まれたのは実は東京なんです。
親父(横山泰三/漫画家)は既に鎌倉を拠点としていましたが、当時、母が体調を崩し、環境重視ということで、既に親父の兄(横山隆一/漫画家)も住んでいたこともあって、生まれて2〜3週間で本格的に鎌倉に来てしまったので、東京での記憶は全くないんです。

一作:成る程。
泰ちゃんはもう70歳になったんだっけ?

泰介:来年だね。
昭和23年生まれだから、この10月で69歳なんですよ。

一作:じゃあ、団塊の世代だ。
あんまりぽくない(笑)

泰介:そうなの?(笑)

一作:なんか団塊って、押しつけがましい人が多くない?
湘南ボーイとか云われるのは嫌だったんじゃない?

泰介:やだよ(ポツリと)

一作、上平:ガハハハハ(爆笑)

泰介:だって、なんだか、……、湘南サウンドも嫌。
大した差も無いのに、敢えて湘南なんて付けると凄く取って付けた感じじゃない。

一作:オレは山口県だからさ。田舎でさ、加山雄三とか聴いていてさ、何となく、「凄いな〜」なんて思うけど、……、ちょっと眩しいよね。


河内一作

泰介、上平:(『眩しい』に妙に反応し)ガハハハハ(爆笑)

上平:ボクは大阪でしたけど、一作と同じ感想だったな。
やっぱり眩しい(笑)

泰介:なんかあんまりピンとこないしね、“湘南”と言われても。
逆に何か変なんですよ。

一作:元々の人達は?

泰介:どうなんだろう?……、

ラジオアダン:湘南、湘南と云いいますが、実はかなり広い範囲を、

泰介:そう。それを一括りにしちゃって。

上平:江ノ島からこっちはまるで違うし、

泰介:葉山から小田原までは一応、湘南ということになっているんですけどね。

一作:それぞれ全然違うのに。

泰介:まあ、どこまでが湘南か?なんて、住んでいる人達は気にしてないのよ。
はっきり言って、車に湘南ナンバーなんてオレは全然欲しくないもんね(笑)

上平:わざわざなんで付けてるの?って(笑)

一作:田舎もんが付けてるんじゃないの?

上平:付けたがるよね(笑)

泰介:この対談は、何でも言っていいの?何でも言っていいなら何でも言っちゃうよ(笑)


横山泰介氏

一作:何でも言っちゃっていいのよ、このシリーズは(笑)

泰介、上平:ガハハハハ(爆笑)

一作:オレなんか山口の田舎でさ、海辺で育ったんだけど、今、住んでいる葉山の磯は風景が似ている。

上平:原風景に近いものがあると?

一作:うん。
上京した時から、「いつかは海の傍に住みたいな〜」なんてずっと思っていたんだけど、実際に住むまでは、湘南に対してどこかコンプレックスを持っていた。
実際に住むようになって、泰ちゃんとも以前より頻繁に呑むようになったけど、酔っぱらうと、「葉山の奴らは大嫌いだ」なんて、つい口から出ちゃう(笑)

泰介:アンビバレンツという感情ってあるじゃない?「好きだけど嫌い」みたいな。
でも、一作のその感情はよく分かるな。実はボク、鎌倉はあまり好きじゃないんですよ。あの街はいつもワサワサしている。観光客が多いからね。
地元の店も、当然、視線は観光客に向いている。
勿論、地元の人達が行く店もあるんだけど、結局、

一作:なんか嫌なんじゃない?地元民で集まってベッタリしているのが。

泰介:そう。
また、葉山と違う意味で変な空気感になる。
葉山は、天皇陛下が、……、…だから、基本は御用邸でしょ。
昔は、今の135号線の、なぎさホテルがあった道はないから。オレ達は鎌倉の内側を廻って御用邸へ行くのよ。

一作:(進行役に向かって)知ってる?なぎさホテル。

ラジオアダン:名称だけですね。

泰介:あそこは最高の立地だった。
中3か高校の頃、あそこで先輩達がパーティーやるとパー券を売らされて(笑)
そんな想い出しかないんだけどね(笑)

一作:長者ヶ崎からずっと行くじゃん。泰ちゃんは子供の頃にあの辺行ったことある?

泰介:子供の頃は免許がないからあそこまでは行けない。葉山マリーナまではなんとか昔の記憶があるけど。
覚えてるのは日影茶屋が寂れていて、とにかく家が建ってなかった。あと、マンションってのがなかったな。
葉山マリーナはホテルがあって周辺が近代的になってゆくのは早かったけど、あそこから先は、……、

一作:裏だよ。

泰介:と、思う。

一作:裏でしょ?
だって泰ちゃんが生まれたのが昭和23年でしょ。30年でもあの辺は何にもないんでしょ。

上平:田舎だったから御用邸が出来たんでしょ?静養するための施設なんだから。

泰介:うん。
御用邸が出来て、当時の貴族や男爵が凄い勢いで来るようになった。

上平:あれ出来て、「あそこだ〜!!」みたいになっちゃった(笑)

一作:上平はまだ50代だっけ?

上平:オレ、今年61。

一作:61!?
元々、奈良だよね?

上平:生まれは大阪。両親が奈良で生まれて、大阪に出て来て商売を始めて、

一作:ボンだもんな、一部上場の大社長だから。

上平:上場してないし(笑)


上平諭氏

一作:で、サーフィンはむこうで既にやっていたの?

上平:やってたやってた、伊勢へ行ったりして。

一作:伊勢はいいね。

上平:伊勢にずっと住んでいるプロサーファーがいて、高校の終わり頃からそこへ転がり込んだ。国府の浜って所。
泰介さんも、仕事で、そいつのところに時折訪ねて来たんだよね?

泰介:うん。
大体世代が近い奴はそんな感じで繋がってゆくよね。

一作:でも、泰ちゃんと上平だと10歳違うじゃない。

泰介:一緒だよ。サーファーのコミュニティーからしたら10歳差なんてまるで問題ない。

一作:成る程。
で、実際に会ったのはいつだったの?

上平:お互い随分前から存在は知ってたんだけど、……、泰ちゃんが最初の写真集『サーファーズ』を作る時だったと思う。

泰介:あっ、そうだ。
『サーファーズ』を作る時に、彼の所に印刷を頼んだのね。

上平:15年前。

一作:でも。その前からお互い知っていたと。

上平:泰ちゃんは有名だもの。
ニアミスはこっち来てからも随分していて、湘南へ行って、芝田(満之)のところに行ったり、(大野)薫さんのところに行ったりしていて、「さっきまで泰介いたんだよ」なんて。
でも、結局、本が会わせてくれたということだね。

泰介:おかげさまで、あの本でオレのIDが定着したと云うか。

一作:オレと上平が知り合ったのもその頃じゃなかったっけ?

上平:その前から、広尾の『ケセラ』なんかにミミなんかとお邪魔していて、

一作:ミミ??

上平:いたじゃない、今泉さん、ゲイの、

一作:おお、オカマのミミちゃん!ああ、いたね!
亡くなったでしょ?

上平:ええっ!?そうだっけ?

一作:大体死ぬじゃん、ああいう生き方してると。

泰介:勝手に殺すなよ(笑)

一作:泰ちゃんは、その頃、既にサーフ業界では巨匠だったの?

上平:巨匠!

泰介:ムフフ(苦笑)巨匠じゃないけどさ〜、……、結局、日本で最初のサーフィン雑誌からず〜っとやってるから。4誌くらいは継続して掛け持ちでやっていたからね。

一作:カメラマンとしてはそうなんだろうけど、サーファーとしてはどんな立ち位置だったの?

泰介:だから、サーフィンをしながら写真を撮っていたから。

上平:何があろうと、写真撮ってサーフィンしてる感じ(笑)

一作:レジェンドと云っていい訳?

上平:いい訳(笑)

泰介:いや〜、そんなことないけどね(苦笑)オレはそういうのあんまり好きじゃないから。

◇◆◇◆◇
 泰介本人が気乗りしない称号“レジェンド”。
 昨今のレジェンド過多に対するアンチとしての正直な態度でもあるだろうが、一つのシーンを切り開いた者として、後輩達にそう形容されるのは自然の流れだ。
 定住型のサーファーが主流の時代に、旅をしながら世界中の波を自身の臭覚だけで探り当て、且つ、ビジュアル作品として昇華してきた。
 そんな流れの中、ネット等、到底ない時代の話にトークセッションは移行。そこで浮かんできた3者同様の記憶に刻まれた、“失われたもの達”。
 それは郷愁ではなく、非常に貴重な、“宝もの達”だったと3人は改めて認識する。
◇◆◇◆◇

上平:例えば、泰ちゃんより古くからサーフィンをやってる人がいても、一定の場所から動かない人が多いじゃないですか。それに比べ泰ちゃんは、日本はもとより世界中あちこちに行ってる。当然、その先々に沢山友達もいて。

一作:具体的にどんな所へ行ったの?

泰介:いろんな所に行ってるよ。勿論、ハワイも行ったし。
大体、あの時代って今みたいにネットがないから、地図にダーツでピンっとやってさ〜、「ここ行こうか?」みたいな感じ(笑)
で、波も情報がないと皆目分からないから、行く先々の掲示板みたいなものに手書きで書いてある、「ここに行けば誰それに会える」みたいなものを、「ここに行けば波に出会える」なんて感じに脳内で置き換えてず〜っと旅をしていた。
そういう意味では完全に行き当たりばったり(笑)それで本を作っちゃうんだからいい加減なもんだよ(笑)
今だったら、余計な所は行かなくて済んじゃうんだけど、その余計なところが凄くいいという時代だった。

一作:サーフボード等は送りでやる訳?

泰介:いや、持って行くよ。
だからもう大変なの。カメラ持って機材も持って、ウェットスーツも持って。

上平:寒流の所が多いから、大荷物。

泰介:そう。
日本って安全な国じゃない?でも他の国へそういう貴重品を持って行くと。
東南アジアは、まあ場所による。平和な所は全然問題ないけど、……、カメラって凄く神経使うから。だから海外から帰ってくるといつも日本の治安の良さを実感する。

一作:昔のカメラマンはロケの時、ネガの保存とか凄く神経を使っていたよね。

泰介:うん。
今はデジタルでいいけど、昔はめんどくさかった。

一作:大変だよね。
熱い国へいったらフィルムを冷やさないといけないから冷蔵庫を探して(笑)

泰介:そうなのよ(笑)
今はそういう苦労はないもんね。今、一作に言われて久しぶりにその苦労を思い出したよ(笑)

一作:そうか、今はフィルムにまつわるその辺の逸話はないんだ。

泰介:うん、ない。
その辺の話をしても、若い奴らはピンときてないもの。

一作:オレの場合は、『SWITCH』の海外取材まではフィルムだったから、直さん(松本直明)が冷蔵庫に、

上平:X線の時はバックに入れて(笑)

泰介:あれがね、撮った後のストレスなのよ。
それが原因で感光しちゃったり、

一作:映ってないとかさ。

泰介:そう。
だからさ、今の時代、そのストレスがないということは幸せだよね。

上平:撮った後、パソコンに取り込んだら略終了だもんね。

泰介:そう。
ガハハハハ(急に爆笑)

一作:ガハハハハ(つられて爆笑)
「もう終わり」って!?

泰介:今のカメラマンは楽してるよな(笑)

一作:(進行役にむかって)イラストレーターも、今はデーター入稿とかもあるんでしょ?

ラジオアダン:ええ。編集者と顔を会わさないで終了なんてことも多々あります。

泰介:小説家もそうなんですよね。
編集者と呑みに行く機会が減ったから、昔みたいにハチャメチャな人がいなくなった。

一作:オレは未だにパソコンにシフトしてないから(笑)

ラジオアダン:とはいっても、最近、原稿はWordファイルで入稿しますよね。非常に助かります(笑)

一作:2人には分かり難いだろうから説明するけど(笑)
1回手書きで原稿を書いて、デジタルで打ち込んでもらうスタッフに渡して、それを送るということだね。

上平:成る程。

一作:その過程に誤字を直したり校正したり。だから、何回もスタッフに送ってもらって見て直してってやり方だから結構手間がかかるんだ。

泰介:なる程ね。
でも、思えばなくなったものは沢山ありますよね。デザイン事務所で箱形の黒い幕の、

上平:トレスコね(笑)

泰介:あれもうないじゃないですか。紙焼きなんかするね。

ラジオアダン:同じくデザイン関係だと、写植屋さんもなくなってしまいました。

一作:でも、アナログでの行程的な苦労はいつの時代でもした方がいいよ。

上平:もの作りのプロセスね。

泰介:ボクはキャリアの初期、水中で写真を撮っていたんです。今は完璧にその表現からはリタイアしていますけど。
水中で撮影していて、フィルムって36枚で終わりだから、撮り終わるとまた岸まで戻って行く訳です(笑)遠くから戻ってまた行ってまたフィムが切れて(笑)
今はデジタルなんで枚数制限なんてまったく関係ないですからね。

一作:泰ちゃんの旅で多く行ったのは、東南アジアだとやはりバリ島だったのかな?

上平:今でも行くもんね?

泰介:バリはあまりに有名だけど、フィリピンとかタイとか。プーケットもオレはかなり早い時期から行った方だと思う。

一作:プーケットのどこに行ったの?

泰介:プーケットはね〜、カタビーチやパトンビーチ。
でも結局は、飛行場の横に気になる所があって、地元の漁師さんに、「あそこへ連れて行ってくれないかな〜」なんて頼んだら、皆、凄くいい人達で、

一作:カタなんて波立っていたっけ?

泰介:雨期に行くと風の影響で波が立つんだ。大した波じゃないけどね。
でも、飛行場の横は凄くいい波が立ってる。
サーフィンに限ったことかもしれないけど、旅ってそういう予期せぬ出来事みたいに波が荒れているのを見つけるのが楽しんだよ。

一作:オレがプーケットへ行ったのはCAYをやる前だから、……、84年くらい。もう33年前になるのか、……、リサーチという便利な名目で(笑)、

泰介、上平:ガハハハハ(爆笑)

一作:オレと亡くなった(宮川)賢(左衛門)さんと、「タイ料理のレストランをやろう!」なんて言ってさ、プーケットのカタの向うにさ、……、

泰介:一杯小さなビーチがある。

一作:崖を登って行くと、……、ノイだ。
ノイって“小さい”って意味なんだけど、そこにコテージがあって。
ヨーロッパから来たヒッピーが沢山集まっていて、電気もなくてトイレも海で済ます感じで、あるのは煙の出る例の嗜好品だけ(笑)正に、デカプリオの『ザ・ビーチ』。
実はオレ、あの映画が大好きでさ(笑)あの時代、タイにパラダイス求めて旅をしてる人達が沢山いて、勿論そんなものはなくて帰ってくるんだけど、その雰囲気が如実に出ていて。馬鹿な奴らが一杯いたからね(笑)

泰介:50年代後半の初期サーファーって、大体行く所が決まっているんだよ。
まずタイに行ってバリに行ってインドのゴアにってコースで、ゴアもサーフィン出来るから。
そういう三角形をグルグル廻っていたんだ。

一作:そういう意味ではサーファーもヒッピーも行動範囲は一緒なんだね。

泰介:うん。その年代のヒッピーの人達は海に住むことが多かったしね。
そんな旅の中、カメラを持っている奴はその旅を記録して、それを切っ掛けにカメラマンになった人も一杯いる(笑)

一作、上平:(具体的に顔が浮かんだのか?急に)ガハハハハ(爆笑)

一作:実際、泰ちゃんはいつから写真を撮り出した訳?

泰介:ボクは最初は写真じゃなかったから。

ラジオアダン:ということはサーフィン先行でとか?

泰介:ボクは最初、サーフィンの映画を作りたかったんです。

◇◆◇◆◇
 この、一作からの金言的質問により、トークセッションの向かう方向は激変を見せる。
 なんと、以降の舞台は、時代劇映画の総本山、京都/太秦!
 実は写真家、横山泰介の創造の原点は、映像、映画にあった!
 更に、本日のトークセッションの重要な鍵を握る3レジェンドのうち、1番意外なリアルレジェンが素晴らしい逸話と共にここで表出する。
 そのレジェンドのコードネームは“マイトガイ”!!
◇◆◇◆◇

泰介:写真を撮りだす前、友人がアメリカから16ミリを輸入して、近所のサーフショップを拠点にサーファーを集めて、

上平:上映会?

泰介:そう。
公会堂等で。50人とか集まる感じで(笑)
それが、段々、規模が大きくなって、大阪では、

上平:中之島公会堂(正式名称/大阪市中央公会堂)?

泰介:うん。
あそこは500人ぐらい来ちゃって(笑)

上平:東京だと九段会館。

泰介:そうそう(笑)

ラジオアダン:上映内容は、インディペンデントなサーフフィルム作品ということですか?

上平:うん、今で云うインディペンデント作品だね。

泰介:海外にはその手の作品が一杯あったんです。

一作:それ、いつぐらいの話?

上平:70年代前半とか?

泰介:そう、そのくらいだね。

ラジオアダン:その手の作品を沢山見て、「自分でも撮れるんじゃない?」なんて感じで?

泰介:うん。
これなら、「自分でやった方がいいな」って思って、撮影所に入ることにしたんです。
暫くやっていたら、ちょんまげものをやらされて(笑)最終的には、「太秦行って『子連れ狼』やってこい!」なんて言われて(笑)

一作、上平:ガハハハハ(爆笑)

一作:泰ちゃん、下積みやってたの!?

泰介:2年くらいね。(ぽつりと)

一作、上平:ガハハハハ(爆笑)

ラジオアダン:えっと、『子連れ狼』ということは、主演は、……、

泰介:萬屋錦之介。

一作:凄いね〜(笑)

泰介:ボクはカメラのセカンドですから先輩が脅かすんですよ。
役者さんとの距離をメジャーで測るんですけど、「お前さ〜、少しでもメジャーの先が身体に触れてみろ、その場で即クビだからな!」なんて言われて。
こっちは波乗りしたいのに、徒弟制でなかなか辞めさせてくれないから、病気になっちゃって、それで強引に辞めたの(笑)

一作、上平:ガハハハハ(爆笑)

泰介:でもね〜、凄くいい経験もしました。
今、現場で何があっても動じないのは、撮影所で鍛えられたからだと思うんです。蹴られたり殴られたりするのは普通でしたから。今、同じことしたら訴えられちゃうよね(笑)

上平:完全なパワハラ(笑)

泰介:うん。
それが許された最後の時代だろうな〜、ボク達が。

ラジオアダン:何て言ったって太秦ですものね。

泰介:「お前、太秦に行ってこい!」と言われた時は、瞬時に、「もうやめよう」
と思って、第一、京都って海がないじゃないですか。
ワンクールが終わるとボクはすぐに家へ帰りたいんですけど、先輩達はゴールデン街で呑みたいんです。それで付き合わされることになる。

一作:映画が斜陽になっていたあの時期ね。

泰介:そう。
先輩達が行く店っていうのは、大体、映画関係の、……、要は、業界のOBとか奥さんがやってる店。
で、そこでなにが始まるかって言うと、またまた映画談義。しかも最後には喧嘩になっちゃうから。

一作:あれね〜、オレ、あれ凄く嫌でさ〜。

泰介:殴り合いの喧嘩なんてアホらしいですよ。オレはひたすら、「帰りたい…」って思ってた。

一作、上平:ガハハハハ(爆笑)

一作:その喧嘩も、やっぱり芝居じみてるんだよね(笑)

泰介:オレなんて、チーフが相当酔ったまま全力で走り出すから、「危ない!」って思って身を呈して止めたら、足の指の骨を骨折しちゃって、「お前がよ〜!」なんてオレのせいにされちゃって(笑)
まあ、そんなことで鍛えられたのかな?

一作:皆、下積みがちゃんとあるんだね。
修行って云う程のものじゃないけど、オレにも嫌な時代はあったよ。

泰介:一作にも嫌な時代なんてあったの?

一作:そりゃ〜、あったよ。

泰介:絶対なさそうな感じだけどな。

上平:初代『クーリーズ・クリーク』の前?

一作:うん、そう。
だから、「クーリーで、なんか面白いことやりたいな」ってことだね。
嫌〜な時代だね。上平はそんな時代ないでしょ?

上平:何、言ってるの(笑)あるよ、オレにも!

一作、泰介:ガハハハハ(爆笑)

一作:ボンだからないかと思ってた(笑)

上平:オレの場合、大阪にいて、親父に、「東京でやってこい!」って放り出されて。

ラジオアダン:先代社長に、「東京で修行してこい!」と?

上平:あれは修行じゃないな〜。
親父は1回、東京へ出て来て失敗して、大阪に撤退したことがあるの。
だから、オレを鉄砲玉にして自分のリベンジをさせようと(笑)

一作、泰介:ガハハハハ(爆笑)

上平:こっちは、東京なんて右も左も分からないから、親父の知り合いの神保町の錦明印刷、新潮社の下請けなんかをやっていた会社なんだけど、そこに間借りさせてもらって、3人ほどで細々と始めてさ、

ラジオアダン:東京分室的な?

上平:うん、正にそんな感じ。
その頃の神田って一升瓶を片手に版下引いちゃうようなおっさんもいてさ、結構、豪毅な人が多くて厳しいながらも楽しこともあったよ。

一作:それ、いつくらいの話よ?

上平:千九百、……、83〜4年だね。

一作:オレがCAYの準備していた頃か。
泰ちゃんの修行時代は、「これから映画の世界はどうなるの?」なんて、日活が終わった頃でしょ?

泰介:ボクなんて丁度、……、日活の大スターで小林旭さんっているじゃないですか?
この間、あの人の撮影をしていて、

上平:小林さんは泰ちゃんの作品展の時には必ずお花を届けて頂くんだけど、どん引きするくらい強力に豪華なのがくる(笑)

泰介:素晴らしい人ですよ。
「日活に撮影に行くから付いて来て」って言われて、ご本人とお付きのような日活の宣伝マンの方と一緒に食堂なんか行くと、あの人専用の椅子がある。
そんなだから、当初は、こちらの要望などを伝えるのも憚る距離感だったんだけど、撮影も終盤になってくるとやっと会話もスムースに出来るようになってきて、撮影所のスタジオの外には決まってはしごみたいな非常階段があるんだけど、昔のアクション映画は、よくそんなはしごを登るシーンがある。それをイメージして、「旭さん、すいません、このはしごを登って頂けないでしょうか?」ってお願いしたら、「ああ、いいよ」って登り出す。あの人は凄い俳優なんで、登りながらちゃんとピシッとポーズを作ってくれる訳です。
そんな感じで撮っていたら、急にオレの後ろを通り越して、「おお!元気かよ〜!?!?」って大声で誰かに呼びかけているんですよ。「誰だろう?」と思って振り返って見たら(ビート)たけしさんが直立不動で立ってるの(笑)

一作、上平:ガハハハハ(爆笑)

泰介:そしたら、宣伝マンの人が小声で、「たけしさんに今ものを言えるのは、小林旭さんくらいですよ」って(笑)

一作、上平:ガハハハハ(爆笑)

ラジオアダン:そういえば、昔、東京スカパラダイスオーケストラとジョイントした時に、スカパラのメンバーの皆さんが、異口同音に小林旭さんの人柄を絶賛していました。

泰介:あったね、ボク、あの時の『自動車ショー歌』が大好きで、その話も旭さんとした。
「あいつ等を銀座に呼んだんだ」ってところから始まって、「オレは名前覚えるのがめんどくさいから、『ギターのやつ』とか『ベースのやつ』とか呼ぶんだけど、『ボクだって名前くらいあるんですから』って言いやがって、『いいんだよ、お前はギターなんだからギターでいいんだよ』」って(笑)

一作、上平:ガハハハハ(爆笑)

泰介:これ後日談があって、実は旭さん、全員の名前は覚えていたんです。そのくらい優しいめちゃくちゃかっこいい人です。
昭和の大スターだからね。昔の写真がまたかっこいい!
ロスで撮った写真、たまげちゃいますよ、あまりのかっこよさに。
(一作に向かって)話がこっちに飛んじゃったけど大丈夫?

一作:全然問題ない(笑)

泰介:じゃ〜そのまま続けるよ(笑)
ライブ前に音合わせを全部するじゃない?この時はスクリーンに、『渡り鳥シリーズ』の映像を投影して、それに生バンドが同期するという企画だった。当然、難度が高くてリハーサルを何度もやり直したりする、と、「もういいんだよ、やめれば」って(笑)
それで、「ギターのやつ、お前、音がはずれてるよ」なんて音楽的な指摘もする。耳がめちゃくちゃいいんです。ギタリストも、「すいませ〜ん!」なんて言って(笑)

一作:美空ひばりの元旦那だもんな(笑)

泰介:「オレはもうやめてもいいんだぞ!」なんて言うくらいに緻密にライブを作っているのに、全てが終わって幕が降りた時、クルっと後ろを向いて楽団に深々とお辞儀をするんです。オレは舞台の袖で撮影してるんだけど、鳥肌が立ちました。
かっこいいです、最高です。

一作:やっぱり凄いよね、あの時代の大スターは(笑)

◇◆◇◆◇
 流石、マイトガイ!!これぞ極上の“いい話”!
 こうなったらどんどん行きましょう!横山泰介が選ぶリアルレジェンドその2。
 さて、次に登場するレジェンドは、実は、一作も長く追求してきたハワイの土着魔力が深く混在する人物である。
 第2のレジェンドは、日本にも縁深く、ポリネシアとハワイを繋ぐ伝説の舟、ホクレア号のクルーでありリアル・シャーマン、その名は、タイガー・エスペリ!
 お時間まで、ごゆっくり伝説を堪能ください!
◇◆◇◆◇

一作:タイガー(・エスペリ)は何年くらい日本に住んでいたの?
ずっといたの?

泰介:一時ずっといたよ。
ほら、ベース(基地)で奥さんが働いていたから。
丁度、オレ、実家に帰っていて借家が空いてたから、当初はそこに泊っていて、いろんな所を見た後に、「じゃ〜、七里ケ浜住むよ」ということで七里ケ浜に住むようになった。

ラジオアダン:素朴な質問で恐縮です。
その、タイガーさんとは何者ですか?

一作:タイガー・エスペリっていって、チャンタだったの。

上平:カメハメハ大王の末裔にあたるんだよな。

一作:フラをやるためのチャントを作る人。

泰介:あと、伝説のビックウェーバーで、

上平:サーフィンが凄く上手い。

泰介:ホクレア号って舟があるんですけど、あれでタヒチまで行ったクルーの一人なんです。
ですから、ハワイではかなりのレジェンド。

ラジオアダン:例の、星を頼りに航海するという。

泰介:そうです。
ホクレアが日本に来た時は、タイガーは既に亡くなっていたんだけど、横浜に向かう途中、わざわざタイガーが住んでいた鎌倉に舟は寄ったんです。

上平:オレも何度か会っているけど、なんか日本人顔してるんだよな(笑)

ラジオアダン:チャントを作られるということは、詩人であり、ミュージシャンであり、僧侶でありみたいな存在だった?

泰介:一言で云えばシャーマンということですね。実際、おとうさんもシャーマンだったし。そういう力は授かっていた。

一作:ミュージシャンとは違うよ、シャーマン。そこは絶対に分けないと。
ミュージシャンはあくまでもミュージシャンなんだ。
例えば、フラマスター、クムフラになっている人は、勿論、唄うけれど、それはまた違うんだ。まあ、ケアリイ・レイシェル等はミュージシャンでクムフラもやっているけどね。

泰介:もともと、お父さんがシャーマンだったから、家庭自体がね、

ラジオアダン:伝承文化?

泰介:そう。
ハワイアンはそうしてみんなやってきたんだよ。
まあ、凄い人だったよ、全部、“GIVE”の人で、一切、“TAKE”じゃない。

一作:それが素晴らしいよね。

泰介:元々、ハワイの波乗りは王様達、貴族の、

上平:遊びだった?

泰介:うん……、……。
日本でいう相撲みたいなものかな?国技。

ラジオアダン:神事とスポーツをコンフューズさせて、

上平:宣教師がハワイに渡って来て、波乗りを始めると楽しすぎて本来の使命を果たさなくなったから、「サーフィン禁止」とか言い始めたらしいよ、歴史を紐解くと(笑)

ラジオアダン:ベンチャーズ来日時の日本での「エレキギター禁止」みたいですね(笑)

上平:そうそう、学校、強制退学みたいな(笑)

ラジオアダン:さらに紐解くとサーフィンの発祥はどこなんですか?

泰介:元々はポリネシア、あの辺の文化でしょうね。
元々、ハワイの人達はポリネシアから来たし。

上平:うん、ポリネシアピープルの海の遊びの一つじゃなかったのかな〜?

泰介:その繋がりを証明したくてホクレア号がタヒチへの航海に出た訳ですから。

一作:タイガーに話は戻るけど、オレが泰ちゃんから購入したタイガーの崖っぷちの写真作品、あれはカウアイだよね?

泰介:ああ、あのタイガーさんの写真ね。
うん、カウアイの突き当たり。ハエナ。

一作:あそこを上がって行くと崖っぷちにフラの聖地がある。
そこで、サンディーは、最後、クムフラになった訳さ。

ラジオアダン:一種の密教ですね。

泰介:あそこだけですよ、タイガーさんが撮影NGを出したのは。

一作:だから映像、画像の記録が残ってない。

泰介:昔はそこへいって、「君の踊りはダメ」なんて言われたら崖から飛び降りて死なないといけなかった。

一作、上平:ガハハハハ(爆笑)

一作:唯一、泰ちゃんが撮ったのが、そこの崖の下。

泰介:本当にそうだったらしいですよ。
そのくらい厳しい。フラはエンターテーメントではないんです。

一作:フラカプって言ってさ、フラマスターになる人は禊をするための場所に隔離される。そこから、さっき言った場所に行ってやる訳。
3ステップあって3回とも同じ手順なんだけど、取材で行ったオレには誰も隔離されている場所を教えてくれない。

泰介:ふぅ〜ん、凄いね。
そのくらいじゃないとダメなんだろうね。

ラジオアダン:今、急に、青春時代貪り呼んだ、名著『ドンファンの教え』が緩く感じてきました(笑)

一作、泰介、上平:ガハハハハ(爆笑)

一作:あれはメスカリンね。

泰介:カルロス・カスタネダ(笑)
でも、あれは、読書後、飛ばされましたよ。

一作:やっぱり、フラやサーフィンのディープな場所は、それなりの姿勢で行かないとダメだね。

上平:ちゃんとしてないと後でくらうんだよね(笑)

泰介:後でね(笑)本当に(笑)

一作:後でくらう(笑)

◇◆◇◆◇
 稀人についての話は本当に面白く、そして楽しい。
 アダンの美味しい酒と肴の勢いか?泰介は誘導するかのように、更なる稀人、あのワールド・レコーダーの世界へ、遂に間口を開ける。
 筆者は勿論、名作映画『グラン・ブルー』から、その存在を知り、別次元の存在として勝手に崇めてきたが、今夜の真打ち第3のリアルレジェンドは至近距離でいかなる人物だったのだろうか?
 斯くして、その果てに、このトークセッションのキーワード、“メッセンジャー”という新たなアートの予兆が、タームとして謀らず立ち現れる。
 本日の最終コーナー。日常に溺れる相田みつを信者達よ!3者の終宴への発言を心して訊け!
◇◆◇◆◇

泰介:あと、何か訊きたいことある?

上平:やっぱり、ジャック・マイヨールの話じゃない?

一作:最初は仕事が切っ掛けだったの?

泰介:たまたま、『ダイビングワールド』っていう媒体でインタビュアーをやって、いていろんなダイバーに話を訊いていたんだけど、「ジャックが日本に来ている」ってことで、伊豆に行って。オレ、昔から彼のこと好きだったから。
『グランブルー』が出る前。「こりゃ〜嬉しいな」と思って会いに行って、やっぱり思った通りの人だった。
『翼の王国』ってあるじゃない?

上平:全日空のね。

泰介:うん。あの仕事もしていたんですよ。
その時に、粕谷誠一郎さんって編集者分かる?
彼が、「今度、ジャック・マイヨールをやりたいです」って言って来て、「そうなの?」って。

一作:粕谷さんってマガジンハウスにいた人だよね?

泰介:そう。
その後に、『翼の王国』の編集長になった。

一作:森永博志さんもやっていたよね。

泰介:うん、オレ、一緒にやっていたよ(笑)
で、『翼の王国』でのテーマというのは、ジョジョっていうイルカがいて、本来、イルカは一匹では生活が出来ないんだけど、なぜかジョジョだけは一匹なんだよね、離れイルカなの。
それをどうしても取材したいってことで、ジャックもその話には興味を持っていて、OKが出て、「ジャックとジョジョを探しに行く旅」ってことで取材が始まった。
それが、ジャックとは2回目のコンタクトになる訳なんだけど、一応、自己紹介して、「あの時、伊豆で会いましたね」って切り出して、「ああ、そうだったね」ってことで再会した。

一作:やっぱり、何事も出会いだよね。

泰介:あの取材はあれで凄くよかった、いろんな経験が出来たしね。

一作:例えば?

泰介:やっぱり、改めて思ったのが、ジャック・マイヨールって記録を樹立した人だからさ、人間なんだよね。
ボク、人間が好きだから強く感じるのかも知れないけど、いろんな人がいる中で、陸の上の人間と比べて、海の中の人間、自分の中に入って行く人間のギャップの大きな違い?それが凄かった。
陸の上で会う彼は、本当に典型的なフランス人然としていて、女性が大好きだし(笑)勿論、ピアノも上手に弾けるし、お酒も好き。
だけど、ひとたび自分が潜る段になると全然違うオーラ。それは当然なんだけどさ、そこまでの変容で、「世界で一人しかいない人間だ」って理解出来た。
ヨガをやったり集中している時に、フィルムの時代だから、カシャって音がどうしてもしてしまって、いくら2回目といえ、写真を撮る時に嫌な顔もされていたんだけど、何度も何度も撮影をするうちに、「お前は便所でブンブンオレの周りを飛ぶハエだ!」なんて言い出して、オレはそこで、「しめた!」と思った(笑)それからだよ、ガンガン撮れるようになったのは。
今はデジタルだからシャッター音を消音設定にすることも出来るけど、アナログ時代だから起こりえる逸話だよね(笑)
で、仕事はカラー写真だから、仕事とは別に自分が好きなモノクロも平行して撮っていて、今、出版しているものの殆どはその時のモノクロの写真。
ジャックは来日すると、千葉の館山に住まわれている数少ない信頼している日本人ダイバーの方のお宅によくいて、ボクは自分のプリントした作品を持って行く訳。
「おおっ!!」なんて見てくれるんだけど、ボクは、「ジャック、この写真はどんな感想を持つかな?そのイメージを文字で書いてくれないかな?」なんてアプローチをして、

一作:そうか、それでメッセージが入っている訳か。

泰介:そう、ジャックが書いてくれた訳。だから、ボクに執っては凄い宝物なんです。
そんな感じで何枚も何枚も持って行って、その都度ジャックに、「これはどんな感じ?」って質問して、「これはこんな感じだよ!」と。
そういう意味なら、ある種、ボクをジャックが使って、ボクはメッセンジャーなんですよ。
とはいえ、ジャックは当然、自身のメッセージの吟味に対しては非常に厳しくて、インタビュアーがいる席にも同席したことがあるんですけど、「君はボクの本を読んでどのくらいボクを理解出来ているの!?」なんて、平気で言っちゃう人だから(笑)

一作、上平:ガハハハハ(爆笑)

泰介:生半可な知識に対しては怖い人なんですよ。
それは、自分に自信があるから。そりゃ〜そうですよ、レコード作った人ですから。
だから、ボクは一生懸命、「これは、これこれこういう風に使いたい」とちゃんと言わないと許してくれない(笑)
それで、「あなたのメッセージは素晴らしい、これは今後、世界中の人達に発信する写真に相応しいメッセージなので許可を頂けますか?」と説明すると、「分かった、使っていいよ」って、やはりああいう人っていい意味でうるさいですから。
ですから、ボクはメッセンジャーとして彼に認知されたことは非常に誇りです。
それは前述したタイガーもそうです。
彼みたいに自然の中にいた人は、当然メッセージを持っている。
だから、最近はフォトグラファーでいるよりメッセンジャーでいいのかな?と。

ラジオアダン:明確なメッセージを持って行かないと許諾が下りないとは、強靭な純コンセプチャルアートですね。

泰介:うん、「彼等のメッセージがないと」と、ボクは思うんです。
だから、彼等もボクをいい意味で利用しながら自分達の想いを。上手く伝えるにはやはりビジュアルは大切ですから。
ですから、そこでボクが選ばれたことは、「嬉しいな〜」って勝手に喜んでいるんですけどね(笑)

ラジオアダン:素晴らしいお仕事だと思います。

泰介:それは、今になって彼等のメッセージが更に生きてきたからです。
自然がこれだけ破壊されて、究極的には皆が望むところは美しい自然じゃないですか?実際の彼等の言うことは太古から全く変わってない。
「もうちょっと自然に寄り添って」というメッセージ。

一作:メッセージ性の高い制作物は今こそやった方がいいよ。
……、やばいもの(ぽつりと)

ラジオアダン:日本画や中国画にも昔から文字が添えられた作品がありました。

泰介:うん、禅の言葉とかね。

一作:キレがよくてシャープなのは凄くいいんだけど、……、それがさ、……、下町の居酒屋とかに、……、

上平:相田みつを?

一作、泰介:ガハハハハ(爆笑)

一作:オレ、あれ苦手なんだ。

泰介:うん、あれなら、武者小路(実篤)さんの方がいいけどな〜。

一作:武者小路の方が全然いいよ!

泰介:ですよね。
いろんな所に色紙があるけど、あの人の場合は読むとホッとします。

一作:実篤はいいよ。
オレ、山口の田舎を出て東京に来た時、おふくろから実篤の本が送られて来たけど(笑)

泰介、上平:ガハハハハ(爆笑)

一作:オレ、フーテンの寅さんと実篤はなぜだか好きなんだよ(笑)

泰介:ボクも好きです(笑)
やっぱり相田みつをじゃないんだよ。

一作:そうなんだよね、ダメだよな。

上平:オレもダメだな(笑)

全員:ガハハハハ(爆笑)

上平:大体、居酒屋のトイレにあって、日めくりのね(笑)

全員:ガハハハハ(爆笑)

一作:オレ、下町のおばちゃんとかを騙したくないな(ポツリと)

泰介、上平:ガハハハハ(大爆笑)

一作:なんか変な所に帰着しちゃったけど、この対談はいつもそうだから気にしないでね(笑)
また次回、葉山辺りでこの続きを話そうか?(笑)
今日は忙しい中来てくれてありがとう。

泰介:ごちそうさまでした。

上平:ごちそうさまでした。

◇◆◇◆◇
 〜仲よき事は美しき哉〜
 〜君は君 我は我哉 されど仲よき〜
 近日、地元葉山での再会を約束し、楽しき宴の幕は降りる。
 又しても、究極のファイナルアンサーへの便利な近道等どこ吹く風に無軌道に蛇行したフリーキーなトークセッション。
 とは言え、今回、語られた3偉人の逸話にインスパイアされた読者も多数いるのでは?
 人生はやはり出会いである。そして、その出会いを呼び込む準備が大切だ。
 では、その準備とは?
 そんな都合よく確定された準備など、どこにもあるはずがない。
 なぜなら、人生の殆どの出来事なんて、酔っぱらいが酒場で夢想したことを、神様が空模様に沿って暇つぶしにチョイスしているだけなのだから。

 とぅ・びー・こんてぃにゅーど

@泉岳寺「アダン」

テキスト、進行:エンドウソウメイ

写真:門井朋

●今回のゲスト


横山泰介/プロフィール
1948年 東京生まれ、葉山町在住。写真家。
大学時代に撮影した稲村ヶ崎の波の写真がきっかけとなり、写真家の道へ。
以降、30年近くサーファーのポートレートを中心に作品を発表し続けポートレートカメラマンとしてサーファーのみならず、ミュージシャンやアーティスト、ハリウッドスターまで、これまで数多くの有名人を写真に収めてきた。どの作品からも、海、自然とのつながりと安らぎをみいだしている。自身もサーファーであり、「サーフィンライフ」誌のシニアフォトグラファーも務める。
写真集「サーファーズ」(マリン企画・2003年刊)、写真集「坂口憲二」(ブックマン社2003年刊)、写真集「海から見たニッポン」(えい出版2009年刊)、
写真集「Dedication」(ブエノブックス2010年刊)、写真集「サーファーズ」(ブエノブックス・2017年再刊)、写真集「サーファーズⅡ」(ブエノブックス2017年刊)。
風刺漫画の横山泰三氏を父に、「フクちゃん」で知られる国民的漫画家の横山隆一氏を伯父にもつ。
 

上平諭/プロフィール
Bueno!Books代表/プロデューサー。
1956年、大阪市生まれ。1973年 伊勢 国府の浜でサーフィンを始める。
大学卒業後、1983年企業カタログを軸とする大伸社に入社。2000年、(株)大伸社 代表取締役社長就任。
2003年、横山泰介氏の写真集「サーファーズ」の制作に携わったことをきっかけにサーフアート、ボードカルチャーブックの制作、出版をスタートする。2004年、Bueno!Booksを立ち上げる。
社屋併設のSLOPE GALLERYにおける企画展をはじめ、数々のエキジビジョンを仕掛ける。


河内一作/
山口県生まれ
八十年代から霞町クーリーズクリーク、青山カイなど常に時代を象徴するバー、レストランの立ち上げに参加。九十年代、仕事を辞め世捨て人となる。
六年間の放浪生活の後社会復帰し、アダン、青山タヒチ、白金クーリーズクリーク、音楽実験室新世界、奥渋バー希望、南洋ギャラリー、など手がける。お楽しみはまだこれからだ。 

黄昏ミュージックvol.11 ヴェトナミーズ・ゴスペル /こまっちゃクレズマ+おおたか静流

 長く、今は亡き忌野清志郎に梅津和時が捧げる鎮魂歌としてライブ現場で多くの感動的な演奏を残し一部ファンに高い人気を誇ってきた楽曲「ヴェトナミーズ・ゴスペル」。
 この曲の変遷は、梅津のパンクジャズ的フェーズに焦点をあてたKIKI BANDでのインストゥルメンタル曲として当初レコーディングされ(2001年)、イディッシュのルーツミュージックを独自に梅津が解釈したこまっちゃクレズマにフューチャリングヴォーカルとしておおたか静流を迎え彼女の作詞でレコーディングされた(2007年)アルバム「すっぽんぽん」で歌曲として結実した。
 歌曲に生まれ変わってからは多くのシンガーにカヴァーされ隠れた名曲としての地位を確実なものとなった。
 通常、ヴォーカリストと云うよりもヴォイスパフォーマーとの比喩の方がしっくりくるおおたか静流だが、この曲での歌唱は、正に純ヴォーカリストの姿そのもので、昭和歌謡デカダン「アカシアの雨がやむとき/西田佐知子」にも似た溺れてしまいそうな甘美な香りが充満し、後半での英語詞部分では「テネシーワルツ/江利チエミ」で確立しされた日本語的英語歌唱も折り込まれ、新たなる平成歌謡デカダンの世界が見事に解け合ったブラスアンサンブルを核にしっとりと仕上がった。
 今後も多くの歌い手に唄い繋がれるであろうこの楽曲を、愛して止まなかった京都の地で亡くなった筆者に執っての人生の先輩KM氏に、梅津和時よろしく捧げるためここに記す。(se)

黄昏ミュージックvol.10 夜の翼をポケットに/s-ken & Hot Bomboms

 80年代の黄昏時や夜明け前に東京の街を包み込んだあの特異な空気は一体なんだったのだろうか?喧騒一色の中の一瞬の澄んで止まった空気。それは、当時流行ったサイバーパンクSFでのマトリックス空間に似たものだと筆者は認識する。
 そんな、特異な空気が充満した魅惑の名曲がある。
 日本初のパンクムーブメントを牽引し、80年代中盤からは“東京ソイソース”なる先鋭的イベントを立ち上げ、日本人、否、東京人独自の異種交配グルーブの実験場として時代を切り開いて行ったストリート発の音楽家、s-ken。彼がパーマネントなバンドとして未だ活動継続中なのがs-ken & Hot Bomboms。
 今回、そんな彼等の88年の傑作2ndアルバム「千の眼」の最終トラック「夜の翼をポケットに」を黄昏ミュージックとした。
 同曲はs-kenの秘蔵っ子であったシンガーソングライター、中山うりが2010年にカバーしているが、プロデューサーがs-kenということを鑑みれば広義な意味ではセルフカバーとも云える。こちらも女性シンガー特有の暖かく伸びやかなヴォーカルが魅力的であるが、“黄昏”というこの項でのタームだけで比較するならばオリジナルに軍配が上がる。
 80年代後期、熱気と湿気と不快指数最高潮のナイトクラブで夜明けまでレコードをかけた真夏の朝方、地下から重いレコードを抱えて潜り出し大きく深呼吸をする。そんな時、脳内を廻るのが浮遊するロングトーンのシンセと5~6弦をデリケートに操る絶妙なトーンのギター。ロマンティクなサイバーラブストーリーのエンディングが如きリリックが被ってくる頃には、自身はマトリックスに潜り込み、そこに見えるバーチャルな映像と一体となり、東京独自のレゲエマナーな緩やかなグルーブに身を預け踊り出す。
 〜♪光ってるよ虹色に 千の眼が街角に いい人見つけた 川をひとっ飛び 夜の翼をポケットに 吸い込まれてホタルは渦巻き 一人で追いかけて♪〜 (se)

さよならクーリーズ、さよなら八十年代

 ポジティブに生きよう
 いざこざばかりの毎日なんて
 悪魔にお祈りするようなもの
 なぜ助けあおうとしないのかい?
 もっと楽になれるのに

 ジョン・レノンが亡くなった翌年、一九八一年の春に最初の「クーリーズ・クリーク」は
高樹町にオープンしました。ぼくはまだ二〇代、ほんの駆け出し。
その年の五月に今度はボブ・マーリィが亡くなりました。
一ヶ月後にクーリーで「ボブ・マーリィ追悼イベント」をやりました。
詩人白石かずこさんの朗読と映画「ロッカーズ」の上映。当時ジョンとボブが続けて亡くなりましたが、
それでもぼくらは彼らの遺産が世に引き継がれ、これからなにか平和な未来を漠然と感じていました。
ボブの「ひとつの愛」を、ジョンと清志郎の「イマジン」を、ネーネーズの「黄金の花」を聴いて
旅に出たあのとき

 原発が止まることを
 戦争が終わることを
ぼくらは信じていたのです。
 しかしあれから四十年、社会はもっと困ったことばかり。
 もう一度「ひとつの愛」と「イマジン」を聴いてみよう。
 北朝鮮のみなさんに、イスラム国のみなさんに、ボブとジョンと清志郎のソウルを届けよう。
 ネーネーズの「黄金の花」をトランプ氏と安倍さんに届けよう。

 白金クーリーズ・クリークは九月二十日で終了いたします。考えたら高樹町、白金時代を共に経て、
ぼく自身が一番多くのことを学んで来たのかもしれません。これでやっとぼくは狂乱の八十年代、
あのマボロシから解放されそうです。やれやれ。
 長い間クーリーをありがとう。
またいつかココロのパラダイスで会いましょう。
        白金クーリーズ・クリーク
          オーナー 河内 一作

Special Thanks
馬上さん、ケンさん、大口ひろしさん、白石かずこさん、小西くん、三木くん、須藤ちゃん、吉村くん、
マーサ、ユウスケ、ダイスケ、シューウシ、ヒロミ、セイちゃん、小野カメちゃん、須川ユミさん、
サンディーさん、佐野史郎さん、福田勝さん、ブルース・オズボーンさん、ピーター・バラカンさん、
クーリーのみなさん、そしてアダンのみなさん


Illustration by SOHMEI ENDOH

黄昏ミュージックvol.9 リターン・トゥ・イノセンス/エニグマ

 現在、ヒップ・ホップを中心にサンプリング技法は日常的に行われているが、もともとはアンビエント等と同様に、現代音楽サイドのミュージック・コンクレート等に出自を持つ技法であった。
 最初期はサンプリングのみで構築されていたと云っても過言ではないヒップ・ホップとは別に、筆者がその秀逸なセンスに驚かされたのが、1979年の元カンのベーシスト、ホルガー・シューカイの楽曲「ペルシアン・ラブ」。短波ラジオから拾い上げたペルシャ古典音楽(歌手は多分ゴルパ)のサンプリングは、そのザラザラした音質と同様の、かの国の乾いた大地を連想させるに十分だった。
 巡ること15年経た1994年、ホルガーの開いた音世界を更に推進するキラーチューンが登場する。
 ルーマニア出身の鍵盤奏者、音楽プロデューサーのマイケル・クレトゥと、本国より日本のディスコ・フロアーでの人気が異常に高かった元アラベスクの歌姫サンドラ・アン・ラウアーを中心に結成されたエニグマの「リターン・トゥ・イノセンス」がそれだ。
 サンプリングによる権利問題にまで発展したいわくつきの楽曲ではあるが、80年代後期以降、世界のダンスシーンを席巻していたイギリス:ブリストルから萌芽したグランド・ビートに交差する、台湾先住民アミ族の歌手、郭英男(Difang/ディーファン)の大陸以外の何者でもない朗々とした黄昏感たっぷりな唄いっぷりを大胆にサンプリングしたサウンドコラージュの斬新さは未だ色あせるものではない。
 そうそう、急に思いだしたが、上記2曲の様なダンスビートではないが、現代音楽家ギャヴィン・ブライアーズがホームレスの歌声をサンプリングした「ジーザスズ・ブラッド・ネバー・フェイルド・ミー・イェト」も黄昏れたサンプリング繋がりの良質なアンビエント楽曲であることをせっかくなので付け加えておこう。(se)

 

「連載対談/『酔談』vol.6」ゲスト:ゴトウゆうぞう氏 飛び入りゲスト:今村仁美氏 ホスト:河内一作

 “酔談”。見ての通り、酔って語らうこと。当然、造語である。
 酔っているがゆえの無軌道さ、無責任さ、大胆さ、自由さをそのまま気取らず飾らず実況する、それが「対談連載/酔談」の全てである。
 アダングループ代表、河内一作が東京の夜のフロントラインに初めて立った、1981年の「クーリーズクリーク」から現在に至るまで、彼が関わった店が、単なる飲食店におさまらず“自由なステージ”としての酒場の背景を演出出来えた“要”ともいえる大切な友人達を毎回招き、テーマなしのゼロベースから美味しい酒と肴の力を借りつつ今の想いを語り尽くすトークラリー。
 さて今回のゲストは、ライブ活動のため京都より上京中の、音楽ジャンルはもとより、その広域な表現形態は演芸をも含む、正に大衆芸能の総本山、ゴトウゆうぞう氏(以下敬称略)をお迎えし、6年振りとなる待望のニューアルバム「ぼくらは、ファミリー」の制作裏話等を中心に大いに語ってもらうこととなった。
 さて、ここ泉岳寺「アダン/特別室」に限らず、多くの場面で昨今はよく見かける、一作、ゆうぞうの2ショットだが、実はその出会いを両者ともあまり語ったことが無い。
 まずはその辺から2人に紐解いてもらうことにしようか。
◇◆◇◆◇

河内一作(以下一作):飲み物から頼もうか?
ゆうぞう、何飲む?

ゴトウゆうぞう(以下ゆうぞう):お生のビールで。

一作:ジョッキでしょ?

ゆうぞう:じゃ~、ジョッキで。

一作:一杯食べようね、一杯食べて飲んでの会だから。

ゆうぞう:そのつもりだったんですけど、昨日飲み過ぎてしもうて(苦笑)

一作:昨日はどこで飲んだの?

ゆうぞう:昨日はゴールデン街です。

一作:ゴールデン街行った!?(笑)
メンバーと?

ゆうぞう:いやいや、オレだけ。

一作:ライブがあった土曜日は、その後どうしてたの?

ゆうぞう:土曜日は適当に、ライブの後は、皆フラフラやし。

ラジオアダン:あっ、ゆうぞうさん、写真的にお席こちらでお願い出来ますか?

ゆうぞう:あっ、こっちがいい?
ごめんちゃいちゃい チャイコフスキー~。

一作:ガハハハハ(爆笑)
関西だよな~(笑)
ごめんちゃいちゃい チャイコフスキー~。
※ここから暫し一作、フードのオーダーに集中し、話に参加せず

ラジオアダン:「わり~ね、わり~ね、ワリーネデートリッヒ」系統のギャグですね(笑)
これは、小松政夫さんでしたっけ?

ゆうぞう:知らねぇ~な、……、伊東四郎さんちゃう?
※ 伊東&小松の共作が正解
だから、昨日は飲み屋営業なんですよ。CD持って、チラシと。

ラジオアダン:演歌歌手の方達がやるやつの変形というか?

ゆうぞう:昨日も3軒廻って、ようけこうてくれるし、皆ちやほやしてくれるし(笑)

ラジオアダン:それでは自分の都合では当然帰れない(笑)

ゆうぞう:朝方になってしまった……。
久々に、朝方に電車に乗ったらきっちり寝てしもうて、中央線の訳分からん所に行ってしまって(苦笑)

ラジオアダン:八王子とか?

ゆうぞう:うん、その手前(苦笑)

ラジオアダン:因に一作さんとの2ショットは、わたし的にはよく見かけますが、本当の最初はいつだったんですか?やはりネーネーズ絡みで?

ゆうぞう:あっこでしょ?恵比寿の、

一作:恵比寿と云うか、広尾の「ケセラ」だよ。
(宮川)賢(左衛門)さんがライブとしてゆうぞうを突っ込んで。
そういう意味では前回の続きでもあるよね。
前回は、オレのキャリア的には「CAY」までで話は略終わったんだけど。
前回はゆうぞうより1クール若いオーガニック系にいってる2人と、この対談やったんだけど、1人は喜納昌吉さんと旅をしていた片岡くんで、もう1人が憂歌団のメンバー等と親しい洋服屋の社長でサーファーの橋本くん。
ゆうぞうがネーネーズの東京初ライブのサポートメンバーとしてやったのは何年になるのかな?

ゆうぞう:91年の、……、秋ちゃうかな?
※ 正解は1991年5月7日


河内一作

一作:この前の対談の一つのテーマとして“88年が境”というのがオレの中にあって。要は、それを境にオレはCAYを出て旅をしていて、まあ、日本に帰ったり出たりを繰り返していたんだけど、その頃にネーネーズがCAYで初ライブをやった。

ゆうぞう:あれはアジアをテーマにした3本立て(1991年5月6,7,8日の3DAYS『関西・沖縄・ジャワNITES』)で、初日が桜川唯丸(&スピリチャル・ユニティー)やって、最終日がヘティ・クース・エンダン(&カテゥリスティワ)やって、中日がネーネーズ(&スピリチャル・ユニティー)やったとちゃうかな?

ラジオアダン:わたしもあのライブの衝撃は未だ記憶に鮮明なのですが、一作さんの率直な感想はどうでした?

一作:いや、だから見てないの……。
丁度、どっかへ行っていた。

ラジオアダン:残念ながらそこですれ違っていた訳ですね。
で、ケセラということは、90、

一作:もう、大分後だよ、……、あのね1999年に三田「アダン」をオープンさせたから、それの5年前、

ラジオアダン:94年。成る程。

一作:その前に(ゴトウゆうぞう☆ ・)ワニクマ(・デロレン)で見ていて、……、あれ、スピリチャル・ユニティーじゃないよね、ワニクマだよね?

ゆうぞう:一緒だけどね(笑)

一作:思い出した。ラフォーレミュージアムで見たんだ。

ゆうぞう:ラフォーレ、あぁあぁあぁあぁ~、なんかやったな~。

一作:やったやった。
フルバンドで、ワンマンで。

ゆうぞう:全然覚えてない(苦笑)

一作:覚えてない?(苦笑)

ラジオアダン:沢山ライブやってますもんね。

ゆうぞう:そないにはやってないですけど、大分、もう頭がね~(笑)
大分ぼけたんです、オレも(笑)
皆もそうだと思うけど、ボケは直らんし(笑)

ラジオアダン:その頃のワニクマと今とではかなり違いましたか?

ゆうぞう:うん、演芸色が強かった。
前は演芸7、音楽3くらい。
それやっぱしんどいから、音楽8、演芸2くらいですよ、今は。

ラジオアダン:さっきもありましたが、ワニクマとスピリチャル・ユニティーの正確な境界線を教えて欲しいのですが、

ゆうぞう:だから、オレがフロントに立ってリーダーをする時はワニクマで、会長こと佐原(一哉)くんがリーダーで、誰ぞの伴奏しに行く時はスピリチャル・ユニティー。

一作:メンバーも、

ゆうぞう:殆ど一緒、というか、全部一緒(笑)
同じバンドで名前が違うだけやもん(笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)
(カメリア・)マキちゃんが入ると名前が変わるよね?
※ 「ゴトウゆうぞう☆ ・ワニクマ・デロレン&マキ」

ゆうぞう:うん。
マキちゃんとは、90、……、……、90、……、90、……、2、3、4、5、6、7、8年くらいからですね(笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)

ラジオアダン:マキさんはギターも激上手いし美貌も兼ね備えていて、以前はガールズバンドのフロントとかやっていたんですか?

ゆうぞう:いや、マキちゃんはずっとギタリストです。

ラジオアダン:マキさんが教則本出すのは非常に理解出来るんです。クオリティーは勿論、正に指運が教科書通りで綺麗なんですよね。

ゆうぞう:あっ、ほんま、へぇ~。
オレその辺よう分かってない(笑)

ラジオアダン:ガハハハハ(爆笑)


ゴトウゆうぞう氏

◇◆◇◆◇
 6年振りにリリースされたニューアルバム「ぼくらは、ファミリー」。
 今回の制作コンセプトを大まかに言えば、~過去、ゴトウゆうぞうがサポートメンバー等、自身に深く関わりがあったアーティスト達のキラーチューンを再構築した~ 等となるのだろうが、そんなデーターベース等どこ吹く風で、一作には一作独特の訊き所が数多くあるらしく、そのための導入部として(?)同作品の帯コピー文を感情込めて急に読み出した。
 さて、それに対する、ゆうぞうからのアンサーとは?
◇◆◇◆◇

一作:この対談連載は、ミュージシャンが来てくれてもあまり音楽の話はしないで、飯の話や諸々雑談に終始するんだけど、今日はゆうぞうのニューアルバムが出たばかりだということもあって、その辺、敢えて話したくってさ。

ゆうぞう:成る程。ありがとうございます。

一作:(いきなり新譜の帯のコピーを本気で読み出す)~ジミクリ3年ボブ8年。スラロビすんだらその先に、菊水丸さんが待っていた!!~
このくだりっていつになるの?

ゆうぞう:80、……、3~4年くらいかな?

一作:ネーネーズは関係ないよね?

ゆうぞう:まだ、全然関係ない。
80、……、3~4年に河内音頭に出会ったんです。

一作:ワニクマはもう始動していて、

ゆうぞう:いや、その頃は、オレは関西フュージョン界を代表する、新進気鋭のラテン・パーカッション奏者で、

ラジオアダン:(恐る恐る)ゆうぞうさん、今のそれ、ギャグですよね?

ゆうぞう:半々(苦笑)
そう、バンドやめて、河内音頭をなにも知らなかったところに、「トゥルゥゥゥ~ トゥルゥゥゥ~」(電話の着信音を擬音で)、音無くてもいいか?(笑)

一作:あっていいよ(笑)

ゆうぞう:ハハハハハ(笑)
(ザ・)ノーコメンツをやっていた佐原くんから電話がかかってきて、

一作:ノーコメンツは解散していて?

ゆうぞう:うん、その頃はノーコメンツはなかって。
会長がそれで、「河内音頭するんで」って言って、オレは、「おもろそうだけど何すんの?」って、
「(河内家)菊水丸と今、『ボブ・マーレー物語~レゲエ一代男~』作ってるんや」。オレそれ聞いて、「絶対やる!!」ちゅ~て(笑)
それで三条の「六曜社」で待ち合わせして。それがひとつの導火線ですわ。

一作:(また突然、帯を読み出す)~菊水丸さん待っていた!! あの夏、俺はコンガ1本さらしに巻いて~、ガハハハハ(爆笑)、~レゲェと音頭の海に飛び込んだ。~
この、“あの夏”がその夏だったんだ。

ゆうぞう:そうです、そうです。
そんな感じです。

一作:80、

ゆうぞう:80、……、3~4年。

一作:ボブ・マーレーが死んだのが、

ゆうぞう:81年。

一作:丁度、旧「クーリーズ・クリーク」の後。
オレ等、代官山でやっていた頃だ。

ラジオアダン:代官山「スワミ」時代?

一作:うん。
CAYの前も多少被ってるんだろうね。CAYの前に賢さんとアジアに行ったり、「『CAY』をどんな店にしようか」ってことでね。
その時に京都でそんな動きがあったんだもんね。いいね(笑)
時代ってのは、ひとつに向かって行く時ってあるじゃない?

ゆうぞう:うん、そんな気がしますわ。

一作:なんか引っ張られて行くみたいな。

ゆうぞう:うん、なんかありましたね。
CAYはご縁があってよう出たんですよ。
憂歌(団)でも行ったし、

ラジオアダン:サポート・パーカッションってことですよね?

ゆうぞう:うん、そうそう。
憂歌はボク5~6年はやってますよ。
あと、菊水丸さんでも行ったし。

ラジオアダン:そもそも、ゆうぞうさんのご出身は四国の徳島県。ですから、拠点として、大阪か京都、どちらかを選べる感じはあった訳ですよね?

ゆうぞう:ないよ、もうその頃は京都やもん。
ブルースの街だす。

ラジオアダン:そういうチョイスだったんですね。ウェスト・ロード(・ブルース・バンド)等に代表される。

ゆうぞう:そうそうそう。
まあ、憂歌は大阪やけど、京都だったからね、「拾得」とか「サーカス・サーカス」は。

ラジオアダン:その少し前に、村八分が作ったロックのサークルも強固に残っていたと思いますが。

ゆうぞう:あの辺は大分先輩ですね。

一作:あの山口冨士夫さんの本(『村八分』)は面白かったね。
中島らもさんの書き下ろし小説も収録されていて、京都会館?に主人公がいろいろキメて冨士夫さんを見に行くくだりが面白い。

ラジオアダン:らもさんは、冨士夫さんが大好きだったみたいですから。

ゆうぞう:らもさんも死んでしまった……。

一作:皆死んでしまう(苦笑)

ゆうぞう:オレは長生きしようと思うんやけどね(笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)
うん、長生きしよう。

ゆうぞう:あと10年やりたいけどな、あと。

ラジオアダン:ゆうぞうさん、お幾つになられました?

ゆうぞう:今、59なんですよ。

一作:まだ還暦になってないの?

ゆうぞう:ええ、オレ早生まれだから、来年の春の3月で、

ラジオアダン:では、(松竹谷)清さんと同級生ですね。

ゆうぞう:うん、松竹谷と一緒。同級ですわ。

ラジオアダン:ブルースに憧れていたミュージシャンゆうぞうさんのもうひとつの顔として、芸人顔負けのエンターテイナーの側面がありますが、あれはやはり演芸とか小さな時からお好きだったからなんでしょうか?

ゆうぞう:いや、オレはジャンルを越えているから(笑)

一作:ハハハハハ(笑)

ゆうぞう:レゲエとかソウルとかR&Bとかじゃなくて、音楽と演芸が混じり合って当たり前と思っているから。
そういうのミュージックマガジン、中村とうよう直系やからね、もう(笑)

ラジオアダン:大枠が“大衆芸能”?

ゆうぞう:そうそう。「大衆音楽の真実」ですよ。
似たようなことミュージックマガジンの取材でも訊かれたんだけど、「1人ミュージックマガジン、1人ジャンクショップ」って云ってね、この間、マガジンにも記事書いてくれた安田くんも有名な趣味のレコード屋さんジャンクショップの店員だったんですけど、そこもええのばっかり。あらゆるジャンルのグッドミュージック集めてるところで。だけどちゃんと、そこが開店した時に行ったら“演芸”ってジャンルがあったんですよ。

ラジオアダン:素晴らしいお店ですね。

ゆうぞう:うん、素晴らしい。
「あ~、そうやな~」って思って。

一作:演芸だよね、演芸(しみじみと)

ゆうぞう:(急に視線が肴に移行)鰹は生姜やな。

一作:にんにくもあるよ。

ゆうぞう:これは痺れるね。高知に来たみたい(笑)

一作:三種ね。ずけと刺身とたたき。

ゆうぞう:わぁ~い(腕白っぽく)
高知に来たみたい!
これは美味い!

一作:この前の、てるりん(照屋林助)のBSの番組(『沖縄“笑いの巨人”伝~照屋林助が歩んだ戦後~』)見た?

ゆうぞう:ああ、チラッと見ました。

一作:あれ再放送も何度かやっていて、やっぱりいいよな~。

ゆうぞう:ええよね、全然。
てるりん先生も凄い昵懇にしていただいて。
泊るホテルが先生のお家のすぐ裏の方だったしね。
必ずてるりん先生のところに遊びに行って。「てるりん館」でもライブを2~3回やってますよ、ボク。

一作:へぇ~、そうなんだ。

ラジオアダン:ある種、ゆうぞうさんの目指すもののひとつの完成形みたいな方ですよね。

ゆうぞう:凄いね、ジャンルを越えてるもんね。
しかもメッセージもあるしね。

一作:沖縄行きの切っ掛けはやっぱりネーネーズ?

ゆうぞう:そうそう。
あんまり、だってオレ沖縄音楽なんて、キング(レコード)から出てるカセットの「定番沖縄民謡」っていうカセットテープと、それと~、

ラジオアダン:それ、ゆうぞうさんの初期の沖縄民謡のバイブルですか?

ゆうぞう:バイブルと云うか、一般教養として(笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)

ゆうぞう:後は、……、久保田(麻琴)さんの「ハイサイおじさん」(久保田麻琴と夕焼け楽団名義 )を聴いて、喜納昌吉さんの曲だと知って。レコード持ってるのは「ブラッド・ライン/喜納昌吉&チャンプルーズ」だけだったから。「ブラッド・ライン」は痺れたね。「これはなんやぁ~~~~!?」。
ハイサイおじさんも久保田さんの聴いた時に、「うわぁ~~~~!!」まさか沖縄音楽するとは思えへんしね、その時は。面白かったです、あの時はほんまに。
今のオフノートの、

一作:神谷(一義)くん。
(新譜の『ボケない小唄』のクレジットを指しながら)神谷くんはこの作詞もしてたの?

ゆうぞう:それは「(民謡スナック)花ぬ島」の、津堅島出身の、神谷幸一さん。
メロディーはあれですよ、メロディーは、………、……、♪しーやーぷー しーやーぷー♪、(『赤田首里殿内/沖縄民謡』)

一作:有名な民謡としてある訳だ。

ゆうぞう:ええ、「赤田首里殿内」。
童謡の民謡。

一作:いいね。

ゆうぞう:♪しーやーぷー しーやーぷー みーみんめー みーみんめー
 ひーじんとー ひーじんとー いーゆぬみー いーゆぬみー♪
♪あかたすんどぅんち くがにどぅーるーさぎてぃ♪

♪うりがあかがりば♪
あっ、出てこない(笑)
……、♪みるくうんけー♪
あっ、出てこない(笑)
それに、1番から3番までボケる唄で(笑)

一作:ボケない小唄、オレこのアルバムの中でも大好き、今回。

ゆうぞう:ええやろ!?
こんなのやってる奴おらんやろ?

一作:ええ(笑)
~お金とストレスためる人 知らずにボケますよ~
ここがいいよね。

ラジオアダン:ここまで異種交配しているゆうぞうさんの子供時分の原体験的な音楽って、一体なんだったんですか?
単純にビートルズとか?

ゆうぞう:いや、ビートルズは世代がね。ボクが中1の時が解散なんですよ。
中1の時に、「レット・イット・ビー」の映画が来て、テレビを付けたら、東芝のステレオかなにかの宣伝で。東芝(オーレックス)ICボストンのCMか?♪レット・イット・ビー レット・イット・ビー♪

ラジオアダン:時代背景はよく分かりましたが、ギターを弾いて唄うという行為を誘発したものというか、

ゆうぞう:それは、フォークや。

ラジオアダン:早い人はモダン・フォークの都会的な方から、アイビールックと一緒に入っていたりしますよね?

ゆうぞう:それはもっと先の、モダン・フォークね。
ボク等は関西フォーク。高石(ともや)や、岡林(信康)や、高田渡、で、五つの赤い風船。五つの赤い風船見に行った!もう!大阪まで。

ラジオアダン:ギターで若かりし頃の有山じゅんじさんも一時在籍していました。

ゆうぞう:最初ね。中学生の頃おったらしいわ。

一作:「遠い世界に」聴いて、ぼくはふるさとを出ました。
いや、ウソです(笑)
本当は浅川マキです。「夜が明けたら」。

ゆうぞう:そういえば、今日、有山くん「JIROKICHI」や。
中学校の時からギター凄く上手かったんや。
中学生やのに、「東京でコンサートや」とかゆうて、新幹線乗せてくれて、ギター、ビイィィ~~~~ンって弾いたら、……、(妙に溜めてから)お金もくれて、

一作:ガハハハハ(爆笑)

ゆうぞう:新幹線も乗れてお金もくれて、「絶対これやってくぅ~~~!!」だったんやけど、おとうさんが、「あかん!!」と。
高校1年まではそれやってたみたいやけど、それから、同志社香里(高校)やったから同志社大学。びっくりしたわ、有山くん同志社で、そんなもんインテリや。
で、(上田正樹と)サウス・トゥ・サウスや「ぼちぼちいこか/上田正樹と有山淳司」で出てくるまではやってなかったんですよ、それから有山くんは。

ラジオアダン:一時、完全に学業に専念していたんですね。

ゆうぞう:そうそう。
はたち過ぎるまであの天才がね。

一作:オレは関西のその辺のシーンは東京に来るまで知らなかった。
最初のクーリーズ・クリークで、賢さんと、三木(哲志)くんがそいうい音源持って来て知った。「へぇ~~~!」なんて思って。
あの2人は大阪に一時期いたじゃん。

ラジオアダン:「チャイハナ」時代。

一作:うん(笑)
おれ、その時の2人のことは全然知らないから。
クーリーの最初の料理長の小西くんもチャイハナ出身。
皆で上京してきた訳だね(笑)

ラジオアダン:そのチャイハナには、今で云うオーガニック系のメニューもあったんですよね?

一作:うん、玄米だとかね。

ゆうぞう:ああ、そういう流れがあるんやな~。
チャイハナはチャイハナで関西では十分に伝説残してるからね。

一作:でも、あれも結局は中野(“スペースマン”雅蔵)さんでしょ?

ラジオアダン:又しても、その段階で早くも中野さん登場!?

一作:中野さん、チカラあるね。
そこにいた、賢さん、三木くん、小西くんが核となってクーリーが始まる訳。
そこに、全然、関西ネットワークを知らないオレがひょこっといる(笑)

ラジオアダン:確かその前、一作さんは、当時の元祖裏原宿系の方達の方が近かったんですよね?

一作:うん、たまたまね(笑)

ゆうぞう:かっこええ(笑)

一作:ボブ・マーレーとか既にある程度浸透していたんだけど、そっちの方は皆目レゲエなんてなくて……。
そっちはやっぱり、ガッツンガッツンのロック、それかジャズだった。
そんな青年が、クーリーに入ったら、レゲエだなんだかんだ、ダウナーな音にまみれて(笑)そんな年の5月にボブ・マーレーが死ぬ。

ゆうぞう:81年ね。

◇◆◇◆◇
 新譜への質問の回答は、巡り巡って、ゴトウゆうぞうの長き音楽の旅、~阿波踊り~ブルース、R&B~レゲエ、ラテン~河内音頭~沖縄民謡と膨大なタイムテーブルを駆け足で巡ることとなったが、ここで、一作が仕込んだタイムボムが炸裂する。
 なんと、急な飛び入りゲスト!しかも、彼女も古都/京都からのお客様。
 彼女とは、イベント、メインワークスのために上京中の、オーラソーマのスペシャリスト、今村仁美嬢(以下敬称略)である。
 一作はもとより、アーティスト、ゴトウゆうぞうをよく知る今村仁美が飛び入りすることで、この後、紡がれるケミストリーがさらに先が読めない様相となる。
◇◆◇◆◇

今村仁美(以下仁美):こんばんは。

一作:おっ、ここで仁美嬢登場!(笑)

ラジオアダン:仁美さんはゆうぞうさんを当然知っていますよね?

仁美:勿論。わたしは存じ上げていますよ。

一作:この企画は適当にしゃべっていれば、(進行役を見ながら)君の同級生が勝手にまとめるから(笑)
※進行役と仁美は同じ美術学校出身

仁美:ハハハハハ(笑)

ラジオアダン:仁美さんも京都から来てるんで、京都話に脱線していってもいいかと?一作さんも京都は尋常じゃなく詳しいし。

一作:うん。
でも、その辺はもうちょっと後にしようか。

仁美:凄い素敵なお店ですね。

一作:でしょ(笑)
今、ゆうぞうと80年代の話をしていて、
でも仁美ちゃんは大分若いものね。

仁美:そうはいっても昭和38年生まれですよ(笑)
1963年。

一作:今、ボブ・マーレーが死んだ年まで話は進んだところ。

仁美:ああぁ…、わたしはまだ高校生でしたね。

一作:クーリー始めた年なんだよ。

仁美:クーリーはギリギリ間に合って、20歳くらいの時に行かせてもらっています。
●授がベロベロに酔っぱらっているの見ちゃいました(笑)

一作:まあ、●授に限らず皆ヘロヘロだったよ(笑)
細野さんだけはちゃんとしていて(笑)

ラジオアダン:だって、細野さんは飲まない人じゃないですか(笑)

一作:そうだっけ??ガハハハハ(爆笑)

ゆうぞう、仁美:ガハハハハ(爆笑)

仁美:とにかく、当時のわたしには、「おとなのお店ぇ~~!!」って感じでした(笑)

一作:12時過ぎると皆イッてたもの。

ラジオアダン:仁美さんは、屋形船を2艘出したs-kenさんの結婚式に参加しませんでしたっけ?

仁美:出てるよ。

ラジオアダン:1艘の船の方の総合司会がゆうぞうさんですよ!

仁美:あっ!そうだった!(笑)

ゆうぞう:2艘ある内の1艘がオレ(笑)

ラジイオアダン:わたしもゆうぞう司会の船の方でした。

仁美:その節は!(笑)


今村仁美氏

ラジオアダン:ゆうぞうさんも四国出身ですよ。

仁美:えっ、わたしも。高知です。

ゆうぞう:えっ、高知!?
はちきんじゃき?(笑)
※意:男勝りの女性

仁美:はい、じゃき、じゃき(笑)

ゆうぞう:ボク徳島なんですよ。

仁美:へ~、そうですかぁ~~~(笑)
なんか嬉しいな(笑)

ゆうぞう:高知、どこですか?

仁美:土佐清水出身です。

ゆうぞう:おお、渋いな~(笑)

仁美:渋いでしょ。

一作:何かあったよ、マンガに、

仁美:あったあった。
でもまだちょっと皆さんに付いて行けてないかも?わたし(笑)
徳島の徳島市ですか?

ゆうぞう:そうなんですよ。

仁美:じゃ~、もう、阿波踊りですね。

ゆうぞう:阿波踊りなんです。

仁美:ゆうぞうさんの新譜のイラスト可愛いですよね。

一作:黒田(征太郎)さんだもん。
あの絵は今回のために書き下ろしてもらったの?それとも昔のやつ?

ゆうぞう:あれは、去年、久々に大阪、ミナミに「KAKIBA/描場」ゆうて、ギャラリー、アンド、……、なんやろ?……、仕事場、アンド、……、事務所、アンド、なんかそうゆうのんをやったちゅうので、久々やったから挨拶しに行ったんですよ、黒田さんに。「ご無沙汰してます」ゆうて。
その時に、「ご無沙汰してる間にこんなCD出しました」って、CDあげたんですよ。「2枚も出していたんですよ」ゆうたら、「おお、ありがとうありがとう、ほならちょっと待ってくれる?」。
サラサラサ~ラのサ~ラサラで描いて「持って行って」っていうから、「いいんですか!?」、「いいよ、君CDくれたや。これ物々交換や」。

一作:素晴らしい。そういうことをね。
やっぱ、芸能とか酒場とかに優しいの。征太郎さんは勿論、長友(啓典)さんも優しい。K2はね、そういうところがよかった。
アダンの看板も全部、征太郎さんに頼んだしね。一銭も取らないんだから。

ゆうぞう:へぇ~~、ほんま!?
今回もこれ、「ええの!?ええの!?」って言うから、「オレの方が絶対得やん」って言ったら、「そうか??」って。
で、その後、レコーディングが始まって、大体レコーディングが進んで行くに従って、「ジャケットどうしようかな~」と思って、前は自分で描いたんですよ。だから、「今度も描こうかな~?」と思うてたところ、パチッ!(手を叩く音)、「ええのあったやん!!」。

一作、仁美:ガハハハハ(爆笑)

ゆうぞう:また、黒田さん。
なかなか大阪こないんですけどね、今、小倉におられるから。

一作:門司港でしょ、今は。
オレ、初見は、「ゆうぞうがまた描いてるな」と思ってよく見たら、“KU”ってサインしてあるから、「これ、征太郎さんなの?」なんて思って。

ゆうぞう:で、行って、「黒田さん、この間、描いてもろったやつ、CDレコーディング中やけど、このCDのジャケットに使わしてもろってもええですか?」ゆうたら、「そんなん、描いたかな??」ゆうねん。
ガハハハハ(爆笑)

一作、仁美:ガハハハハ(爆笑)

ゆうぞう:「今、持っとるか?」ゆうから、こう出して、「あっ、おうおうおう」ゆうて、「ほならな、CDのジャケットならちょっと寂しいから」ゆうて、この口から出てる音符に、色、ちゃちゃちゃ着けて。

一作:それいつ?

ゆうぞう:それは、……、去年の今時分ちゃうかな?
それで、「黒田さん、こっち(ギャランティー)の方は?」ゆうたら、「ええよ」って、

一作:ああいう人達はね、なんか飲み屋と芸能に優しい訳。
だからオレも結局、申し訳ないからK2のパーティーの時なんかに泡盛を1ケース贈ったり(笑)後、ともさん(長友啓典)は亡くなる前はこの辺に住まわれていたからよく来てくれたり、一時持ち直した時は快気祝いをクーリーの3階でやったり、色々と親交があった。
訃報を聞いた時は正直きたね……。

ゆうぞう:オレもショック……。
憂歌やっていた時にどっかに長友さんがこられて、なんかそんなんで、黒田さんK2のお金で年間かなり飲むんやって(笑)

一作、仁美:ガハハハハ(爆笑)

ラジオアダン:流石に黒田さんが若い時の話ですよね?

ゆうぞう:若いいっても30、……、35年前くらいの話かな?
黒田さんに長友さんが、「こない飲んでもろったら…」。
1年で結構飲んだらしいから、
で、「いや、オレはね~、こうやって気持ちよく飲むために仕事やってるんや!好きにさせてくれ!」、

一作:まあ、でもさ、あの2人の関係は素晴らしいと思うよ。

ゆうぞう:うん、素晴らしい。

一作:ともさんもアーティストだから。でも、どっちかって云えば、ともさんの方がプロデューサーが出来た。

ゆうぞう、仁美:ああぁ(同時に)

一作:征太郎さんは、まあ、K2のアイコンみたいなもんだから。

仁美:わたし、20歳くらいの時、K2に、あがた(森魚)さんのお仕事でちょくちょく行っていて、その時、拝見していた長友さんのお姿がいつも素敵で、

一作:おれも長友さん大好きだよ。

ゆうぞう:かっこええですな。

一作:ちょっと口はばったいけど、オレと賢さんの関係みたいなものだったのかもしれない。
今だから言うけど、K2目指していたところもあったからさ(笑)飲み屋版の“K2”ね(笑)
賢さんはあんまり数字考えなかったから(笑)
オレも数字なんて考えたことはなかったけど、なぜか経営やるはめになってしまった。ダメダメな経営者ね(笑)

ゆうぞう、仁美:ガハハハハ(爆笑)

一作:でも賢さんのスペシャリティーもまたあったから。

ラジオアダン:簡単な対比で恐縮ですが、賢さんが黒田さんで、一作さんが長友さんって感じですか?

一作:うん。
ああいう巨匠2人にたとえるのはおこがましいけど、まあ、長友さん、天国で笑ってるでしょ。
賢さんが亡くなってもう2年だけど、敢えてあまり触れないでいたの。やっとかな、話せるくらいに整理出来たのは。
ゆうぞうも知り合うのはオレより賢さんの方が早いもんね。

ゆうぞう:旧クーリーズでライブしましたから。

一作:菊水丸はやった!?

ゆうぞう:いや、アスワドの前座で菊水丸さんと東京に来た時に、それだけではあれちゅ~ので、クーリーズで。
一作さんはもういなかったね。

一作:「スワミ」に移動した後だったと思う。
でも、その時代に、だって80何年でしょ?

ゆうぞう:アスワドが来た時ですよ(笑)
※1984年

一作、仁美:ガハハハハ(爆笑)

一作:アスワドと菊水丸とのジョイントってのは凄い。多分、三木くんも多少その企画に絡んでいたんじゃないかな?

ゆうぞう:アスワドのメンバーに、「おつかれさん、よかったよ」って(笑)

一作:おれ、後楽園(ホール)でそのライブ見たよ。

ゆうぞう:そう。
アスワドの奴に「明日、クーリーズでやるからこいよ」って誘ったんですよ。

ラジオアダン:では、ゆうぞうさんは既にスタッフの、賢さん、三木さん等とは面識があった?

ゆうぞう:後ですね、「あの時におおた」となったのは。

一作:まだ、その頃のレゲエ絡みのイベントはアイランドが関わってた?

ゆうぞう:かな?
前座がPJと菊水丸だったんですよ。
PJは、その頃ソニーで宣伝していて、飛ぶ鳥を落す勢いで、♪ナッティナッティビー おいでよここ~へ♪って、
まだ子供だったけどオレより大分背が高かった(笑)

一作、仁美:ガハハハハ(爆笑)

◇◆◇◆◇
 思わぬ展開で、“K2”を経由した、夜の文化の不文律?仁義?人情?に行き着いたが、ここで本日の本題とも云える、一作とゆうぞうがガチンコで音楽を媒体に交わったライブシアター「新世界」時代の話を聞かない訳にはゆくまい。
 レギュラー的には東京で、略見れずにいたゆうぞうのフルバンドでの極上のソウルショーを定期開催するにあたり、突き当たった一作の苦悩とは?
◇◆◇◆◇

ラジオアダン:ゆうぞうさんは数少ない三田「アダン」でもライブをされた方のお一人ですよね?

ゆうぞう:やってますね。その頃、弾き語りを始めたんですよ。バンドが中々皆、

いっさく:そういいながらも森扇背(ベース)、マキちゃん(ギター)の3人でもやったよね。

ゆうぞう:ユニット的なね。

ラジオアダン:新世界を始める際の一作さんのモチベーションには、「ゆうぞうはフルバンドでのライブが最高なんだ」とよく言っていたことも当然含まれますよね?

一作:うん、大いにあった。
やっぱりフルバンドで定期的に東京でやってもらって、東京の人達にもゆうぞうたちのショーで楽しんでもらいたかった。
まあ、実際に関西から来るって、(大西)ユカリちゃんもそうだけど、あの大所帯で来るって、バンマスとしては経費的に大変なんだよ。

ラジオアダン:しかも、ゆうぞうさんのバンドメンバーは皆手練だらけで、それをまとめるだけでも相当のリーダーシップが要求されます。

ゆうぞう:バンドはやっぱりチームやから、上手な奴を現地で集めてじゃ出来ないもんがやっぱりあります。
長いことやってて、「これかい!?!?」ちゅうのもあるんだけど(笑)

ラジオアダン:ゆうぞうさんのフルバンドをレギュラーで組んでいるのも、新世界の一つのアティチュードとして早い段階で認知されました。

一作:ねっ、楽しかった。
あのキャパでいくら入ったって身入りは知れてるから、今だから話すけど、関西からの人達は全員じゃないけど、ホテル代と交通費を別に支給することもあったんだ、オレのポケットマネーで。そのうちだんだんポケットが無くなってきた(笑)

ゆうぞう:それは、ものすご~ありがたいですよ。

ラジオアダン:それも難しくなると、東京のバンドと合体作戦に出ましたね(苦笑)

一作:ハハハハハ(笑)
そりゃ~もう、大変だから(笑)
ユカリちゃんを例に話すなら、ユカリちゃん1人の諸々の経費をこっちで計上して、東京のガールズグループのズグナシとカップリングでやってもらったりね。

ラジオアダン:ゆうぞうさんも後半は東京セッション的なものもありましたね。

ゆうぞう:うん、一遍、セッション大会ね。
東京の連れ集めて。

一作:そうやって色々考えるんだけど、でもやっぱりね、普段からやってるバンドの方が、

ゆうぞう:そうそう。

一作:全然いいのよ(笑)
それはユカリちゃんもそうなんだよな。

ゆうぞう:たんまにやるのはね、刺激があって楽しいですけどね、やっぱり普通のあれせんとね。

仁美:新世界、……、結局、何年やったんでしたっけ?

ラジオアダン:実際の運営は5年5ヶ月でしたが、準備期間を入れると約6年ですか。

仁美:凄いですね、一作さん。

一作:CAYの頃はバブルだったから、スポンサーもついて、それはそれでやりたいことが一杯出来たよ。でも、新世界の場合は、自分達の自力で箱をキープしたかった。

仁美:元シアター自由劇場ですものね。

一作:縁は多少あったけど、たまたま空いて話があったからやっただけとも云えるけどね(苦笑)
まあ、あの6年は百倍楽しかったけど、百倍苦しかった(笑)

ゆうぞう、仁美:ガハハハハ(爆笑)

一作:(進行役に向かって)ねっ、やめる3年くらい前から、桜の時期には決まって彼と五反田駅で待ち合わせて、目黒川沿いの桜を見ながら2駅歩くのが恒例になっちゃって。うちの会社って6月決算だから、だいたい4月くらいに、

ラジオアダン:花見の時期が、経営者として一番シビアに会社を見つめ直す時期と重なるんですよね(笑)

一作:そうそう、「新世界どうしよ~かな~、……」って、いつもその時期に迷う訳さ(笑)

仁美:切ないけど、なんかいいね(笑)

一作:「おい、どうする。オレもう一杯一杯なんだけど……」なんて言ってたら、彼が、「もったいないですよ、もう1年やりましょう。スポンサーも探してきますから」なんて返すんだけど(笑)で、「分かった、なんとか続けよう」なんて言って継続することになる。で、彼が捕まえて来たスポンサーはスポンサーなんてしろものじゃなくて、単なるオレと彼の友人(笑)でも、皆が毎月5万円づつカンパしてくれたり。凄くありがたいことだった。
そうやってギリギリのところで最後の3年は運営したんだよ。

ラジオアダン:仁美さんは、確か(山﨑)ハコさんを見にきてくれましたよね?

仁美:ハコさん!行った行った。よかったよ、もう~。
わたし感動したもの。

ラジオアダン:ゆうぞうさんはハコさんはお知り合いじゃないですか?
ハコさんは俳優の原田芳雄さんと親しかったので、それこそ黒田征太郎さんが壁画を描いた、西麻布の業界バー「ホワイト」辺りでお会いしていても不思議ではないはずですが。

ゆうぞう:いや~、お会いしたことないですし、ホワイトも行ったことないです。

一作:ホワイト知らない?
ママのミーコさんが亡くなって店も今はもう無いけどね。
京都にもそういう場所があると思うけど、云うなれば、業界人が多く集まるゴールデン街の「クミズバー」の西麻布版かな?
ホワイトは元々は、

ラジオアダン:四谷にあってゴールデン街「カボシャール」の(黒岩)奈美さんも働いていたんですよね。

仁美:奈美さん!

一作:(急に、再度、新譜のジャケットをまじまじと眺めながら)ゆうぞうのバンド以外でのもうひとつの柱っていえば、やっぱり阿波踊りになるのかな?司会とかやってなかったっけ?

ゆうぞう:阿波踊りはもうずっとやってるんですよ。生バンドの阿波踊り。
徳島出身のミュージシャンの人、並びに在住が集まって。鳴り物は皆でやって。一番多い時は30人くらいは来るんですよ。ずっと永遠と。正にその(ジャケット写真の)場所なんですけど。広い所で。徳島市の新町橋という橋の袂の広い所でボクらの連がこの辺にバァ~っとおって。「皆、勝手に踊ってください」と、踊り広場みたいな。

一作:いいよね、凄いよね。

ゆうぞう:で、19年前にPAが登場したんです。インストの演奏だけだったところにPAが登場して、「ほなら、ゆうぞうくん唄えぇ~~~!」ってことになって、適当に唄っておったら、やっぱり唄が入るとブォ~~~~!、バコォ~~~~ン!っと盛り上がって、それから毎年歌い手になった訳なんです。

仁美:凄いぃ~~~、行きたぁ~~~いぃ。

ゆうぞう:是非。
それが人生のメインなんです。
毎月10日の拾得と、毎年、8月12、13、14、15日の阿波踊りがメイン(笑)

一作:昔はそれプラス、(ジャパン・)ブルース(・アンド・ソウル・)カーニバルの司会ね。

ゆうぞう:あれは、27年やりましたから。

一作:無くなっちゃったのは残念だよな……。

ゆうぞう:主催者のやりたい気持ちは満々みたいなんですけどね。
M&Iカンパニーさん。
いかんせん、カーニバルのメインになるようなアーティストが、

一作:皆死んじゃってるもんね。

ゆうぞう:そうなんですよね……。

◇◆◇◆◇
 楽しい時間はあっという間に過ぎて行くもの。
 ゆうぞうの新作リリースと上京を発端とした今回の酔談も、寂しいが、そろそろ終宴の時を向かえる。
 しかし、ここで急展開!
 いつもの社交辞令も薄ら混じった再会の約束とは違い、今回は具体的な形で再会の約束を3人(進行役を含め実際は4人)が交わすこととなる!
 約束の日は、本年、9月26日火曜日。
 場所は勿論、京都!
◇◆◇◆◇

一作:話を戻そう。
京都だとそういう文化人的な人が集まる老舗ってどこになるの?

ゆうぞう:どこだろうな~?……、オレもあんまり、……、

一作:ゆうぞうに連れて行かれて気に入った店って結構あるけどな。

ゆうぞう:おもしろいでしょ、割と。

一作:まあ、タコちゃんの店(『アルファベット・アベニュー』)もそうだけど、

ラジオアダン:仁美さんはタコさんの店は行ったことありませんか?

仁美:京都はまだまだ全然。
まったく奥の間の手前です(笑)

一作:(ゆうぞうに向かって)実は、9月に進行係のエンドウソウメイくんが京都で、本業とも云える絵の個展をやるの。

ゆうぞう:えっ~~!おめでとうございます!

ラジオアダン:ありがとうございます。

一作:で、仁美ちゃんがその企画のプロデューサー。

ゆうぞう:おお。で、どこでやるんです?

仁美:法然院です。

ゆうぞう:おお、かっこええ!!

仁美:是非、ゆうぞうさんもご協力お願いします。

一作:そうそう、それでゆうぞうにお願いしたいんだけど、初日が26日?

仁美:そうです。

一作:レセプションパーティーをやるんで、軽めのライブをお願い出来ないかな?

仁美:ゆうぞうさん、9月26日の火曜日です。

ゆうぞう:はい、多分、絶対大丈夫だと思います(笑)

仁美:わ~い、やった~!
ところで、「ブランカ」にはゆうぞうさんは行ったりしますか?

ゆうぞう:ええ、割と行きます。

ラジオアダン:一作さんのご親戚がやられている京都の大繁盛店ですよね?

一作:姪っ子がテツの嫁だよ。
※ テツ/「ブランカ」のオーナー。

仁美:そうなんですよね、びっくりしちゃった。

一作:ありゃ~、バカ夫婦だね(笑)

ゆうぞう、仁美:ガハハハハ(爆笑)

仁美:お店、流行っていますし、お料理も凄く美味しいですよ。

ゆうぞう:なんでも大爆発みたいですね。

仁美:予約が取れないですもの。

一作:大したことない、大したことない(笑)

ゆうぞう、仁美:ガハハハハ(爆笑)

一作:増長するからあんまり誉めない方がいい。
ダメダメ、まだダメ。

ゆうぞう:全然違う連れからもね、「行ったら、ゆうぞうのCDがかかっとって」、「ええっ、行ったんかいな!?」ちゅうて、いや~、有名店で。

仁美:いつも混んでいて凄いですもんね。

一作:てか、入れないって云うか、
ただ狭いだけでしょ!?
(進行役に向かって)これ、絶対に書いといてね!

ゆうぞう、仁美:ガハハハハ(爆笑)

ゆうぞう:でも別館が出来たから、

仁美:わたしは、ご夫婦のことは全然知らなくて、カメラマンの野口さとこちゃんの紹介で自分企画のレセプションパーティーのケータリングをテツさんにお願いしたのが最初です。

一作:テツに、……、……、あれオレの親戚になっちゃうからね。
テツがオレのところで働いている時に、姪っ子が上京して来て、「お前、姪っ子だけには手をだすなよ!」って釘を刺しておいたの、「怒るぞ!!」っと。
そしたらさ、そういうはめになっちゃって(笑)

仁美:ハハハハハ(笑)
言ったが故に逆に出たと(笑)

一作:だから、テツはオレの言うことなんでも聞くから。
9月のレセプションの時に、「100人分ケータリングしろ!」って言っといて(笑)当然、ボランティアでね(笑)

仁美:それ、わたしが言える訳ないじゃないですか!(笑)

一作:ダメダメ、絶対言っといてね(笑)

仁美:でも、ちょっと言ってみちゃおうかな?(笑)

一作、ゆうぞう:ガハハハハ(爆笑)

一作:じゃ~、レセプションのライブも飯も決まったところで、次回は京都でまた会いましょう!
今日は忙しいとこと来てくれてありがとう!

◇◆◇◆◇
 早秋、京都での再会が決まった3人。
 出会う場所は伽藍というレアなセッティングに、所狭しと飾られた描き起こしの絵画群。
 そんな純化された空間で奏でるゆうぞうのピュアな音色は、場に生命力という別種の生の活力をもたらすのであろう。
 そして、今夜の宴の最後に、更なる複数の在京レジェンド・アーティストの名も追加投入として一作の口から漏れてはいたが……、
 そんな先のことは誰も分からない。
 なぜなら、人生の殆どの出来事なんて酔っぱらいが酒場で夢想したことを、神様が空模様に沿って暇つぶしにチョイスしているだけだから。

 とぅ・びー・こんてぃにゅーど

@泉岳寺「アダン」

テキスト、進行:エンドウソウメイ
写真:門井朋

●今回のゲスト


ゴトウゆうぞう/プロフィール
ミュージシャン、エンターティナー、サウンドプロデューサー&博愛主義者!!
徳島生まれ、京都産業大学軽音楽部卒、京都市左京区在住。1970年代中頃、関西BLUESムーブメントにあこがれ上洛!!1979年に、ヤマハ「8.8ロックデイ」ロックコンテストにて、優秀バンド賞に輝きデビュウ。以来、様々な楽器、スタイルで、塩次伸二、クンチョー、河内家菊水丸、憂歌団、上田正樹、上々台颱、初代・桜川唯丸、ネーネーズ、知名定男、ディアマンテス、大島保克、大工哲弘、照屋林助、登川誠仁、西岡恭蔵、三波春夫、都はるみ……等々等々、大量のレコーディング、ツアー、セッションに参加。(だいたい出会った(演った)順。
現在、日本最古のライヴ・ハウス「拾得」で、毎月10日、マンスリー・ライヴ「ゴトウゆうぞうshow(※)」を中心に、あっちゃコッチャで独自にBand活動、ソロ活動をやっております。
※ 8人編成の大バンドです。2006年~ロング・ラン公演中。
☆ 毎月(不定期)KBS京都ラジオPM5:15~5:45
「レコード室からこんにちは」選曲(セレクター)&DJ担当
☆2000年より、沖縄音楽の第一人者、知名定男氏の「チナ・サダオ楽団」、「楽天ワールド太鼓」に在籍中。また、1985年より、ズっと、日本最大、最長を誇るBLUES&SOUL音楽の一大イベント
「JAPAN BLUES & SOUL CARNIVAL」の司会進行担当、なんと27周年!!
日本唯一のBLUES司会者と言われているのだ!! 近年は、ミュージシャンとしても出演。オープニング・アクトと、ラストセッションで「ジョニー・ウィンター氏」とも共演!!

★ ゴトウゆうぞう最新作★

「ぼくらは、ファミリー!/ゴトウゆうぞう」
レーベル/Pヴァイン・レコード 価格/2500円(税込)
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今村仁美/プロフィール
高知県土佐清水市出身
スターポエッツギャラリー株式会社代表、オーラソーマモバイル株式会社取締役、英国オーラソーマカラーケアシステム®コンサルタント&ティーチャー、ARTイベントプロデュース及びアーティストマネージメントエソテリックワーク・オーガナイザー。
2002年~2015年 オーラソーマスタジオ&画廊、スターポエッツギャラリーを東京三宿にて運営。
2015年に京都に拠点を移す。2017年5月東山より千本丸太町に移転し、スターポエッツギャラリーを再オープンする。
自らもセラピストとしてのプロセスを実践しながら、ARTとスピリチュアリティの現在を探求している。
オーラソーマを使った、個人のための歌を作る音楽制作ユニット“Ray Neiro”に参加。
セラピーのワークショップでは、DJの経験が全てに生かされると実感。
創造性を回復させる様々なクリエイティブなエクササイズや瞑想を実験的に取り入れている。


河内一作/
山口県生まれ
八十年代から霞町クーリーズクリーク、青山カイなど常に時代を象徴するバー、レストランの立ち上げに参加。九十年代、仕事を辞め世捨て人となる。
六年間の放浪生活の後社会復帰し、アダン、青山タヒチ、白金クーリーズクリーク、音楽実験室新世界、奥渋バー希望、南洋ギャラリー、など手がける。お楽しみはまだこれからだ。

黄昏ミュージックvol.8 ソウリパ/サリフ・ケイタ

 本年6月17日、80年代後半、恵比寿五叉路にあった今や、“伝説のバー”と称される、とあるDJバーのトリビュートイベントが「バー黄昏」で行われた。
 そのバーと、店舗面積的には略同様の黄昏ではあったが、主催者の脳内シュミレーションとは別に入りきれない程の集客で、スタッフもてんやわんやの一夜となった。
 創設メンバーの1人でもあった筆者は、“自身の価値基準より他人の評価が高いということが現実世界には起こりえる”ということを改めてそこで知るのであった。
 さて、当日は、「往年の常連も多く顔を出すであろう」と、当時の人気曲も多く持参したが、“今”の意識も強く、“過去5、今5”くらいの配分での選曲。そんな中、当時を強く思い出す1曲をどうしてもかけるタイミングが測れず、その曲調も正に“黄昏”していることもあり、今回の黄昏ミュージックはその楽曲にさせて頂く。
 音楽大国西アフリカ/マリが生んだ世界的シンガーソングライター、サリフ・ケイタのメジャー初アルバム「ソロ」から、飛び抜けたスケール感を誇るバラード曲「ソウリバ」。
 当時の“ワールドミュージック”というジャンルを強く感じさせる、過剰に人工的なシンセの音色と打ち込みトラックに絡み付く人間の根源をも感じさす純ヒューマンボイスの対比が、この時代のレアな土産物であり、サリフ・ケイタの真骨頂でもある。
 あの時代の恵比寿は、この曲が似合う程に、ナチュラルに無国籍なサイバー空間であった。(se)