「連載対談/『酔談』vol.9」ゲスト:桜井莞子氏 ホスト:河内一作 

 “酔談”。見ての通り、酔って語らうこと。当然、造語である
 酔っているがゆえの無軌道さ、無責任さ、大胆さ、自由さをそのまま気取らず飾らず実況する、それが「対談連載/酔談」の全てである。
 アダングループ代表、河内一作が東京の夜のフロントラインに初めて立った、1981年の「クーリーズ・クリーク」から現在に至るまで、彼が関わった店が、単なる飲食店におさまらず“自由なステージ”としての酒場の背景を演出出来えた“要”ともいえる大切な友人達を毎回招き、テーマなしのゼロベースから美味しい酒と肴の力を借りつつ今の想いを語り尽くすトークラリー。
 さて、数えて9回目となる今回は、初の同業者(飲食業)であり、過去ゲストの最高齢、一作に執っての“麗しの年上の女神”桜井莞子氏(えみこ:以下敬称略)を迎え、奥渋『家庭料理 おふく』にて緊急敢行。
 一作の店に、時折顔を出すときは酒場慣れしたゆかいな酔いどれ天使。そして、過去、我が国のライブペインティングの創始者とも云える著名イラストレーターの夫人であったこと以外、その素性はあまり知られていない。
 しかし、何気なく発する会話に混じる各界トップランナーの名前に、彼女の深層に眠る憂いあるその希有な遍歴を感じずにはいられない。
 大ロングランの様相を呈す今回の酔談。幾重もの知の断層は、いつしか巨大なカルチャー水脈へと繋がる。
◇◆◇◆◇

河内一作(以下一作):桜井さんは戦中生まれですよね?

桜井莞子(以下桜井):ええ、満州生まれ。引き上げ者です。
1943年に生まれて、お母さんが、私と年子の妹を抱っこして。

一作:じゃ~、2歳の時に終戦を向かえて。

桜井:そうね、略2歳。

一作:満州の記憶はあるの?

桜井:全然ない。
写真だけは残っているけど、記憶は薄いわね。

一作:えっと、この連載「酔談」も9回を迎えるんだけど、最年長のゲストです。

桜井:75歳のおばあさん(笑)

アダンラジオ:過去のゲストでは、写真家の横山泰介さんが一番の年長者になるんですかね?

一作:うん、泰ちゃんが71か2歳。

ラジオアダン:泰介さんは、お父様が著名な漫画家で、

桜井:えっ!?漫画家の横山さん?
鎌倉に住んでいて。

一作:うん、そう。

桜井:なら、わたし以前に会ってる。
お兄さん?弟さん?

ラジオアダン:ご兄弟とも鎌倉に住まわれていて、

桜井:なにちゃんだっけ、漫画の主人公。

ラジオアダン:『フクちゃん』。そちらはお兄様の横山隆一先生ですね。
泰介さんのお父様は、『プーサン』で有名な横山泰三先生です。

一作:なぜ桜井さんは知ってるの?

桜井:なぜだか知らないけど、征ちゃん(黒田征太郎氏:イラストレーター、前夫)が横山さんのお家に呼ばれて。
あの頃、誰が橋渡ししてくれたんだろう?


桜井莞子氏 

一作:じゃ~、物心付いたときって、日本に引き上げて来てからってことなんだね。

桜井:ええ。引き上げ先は、母のおじいちゃん達の疎開先の群馬県太田市。
でもここでの記憶も薄くて、その後、更におかあさんの兄の疎開先に移るんだけど、ここからは全部覚えている。その時点では、まだ、5歳になってないんじゃないかな?

一作:当時は戦後でなにもなかった時代。
やはり貧乏だった?

桜井:お金はちゃんとあるうちだった。

一作:金持ちの家だったんだね。

桜井:まあ、どっちかって云うとね。

一作:1947、8年でしょ?

桜井:うん。
実は、「食べることに苦労した」なんて経験がないのよ。
割と恵まれているよね。
だから、感謝感謝(笑)

一作:おれは52年生まれで、戦後7年ってことなんだけど、山口県の田舎で、大したもの食ってなかったな。
瀬戸内だから魚は食えたけど、肉なんて食えなかった。

桜井:肉にまつわる話だと、うちの母と父との間に大きな違いがあって。
父は群馬県の呉服屋の息子。で、父の家ではすき焼きに使うお肉が鳥だったんですって。結婚して初めて父の実家でそれを食べたときに、うちのお母さんはびっくらこいたらしい(笑)

一作:その鳥も、多分、パッと〆たやつでしょ?
にわとりの首をタンと切って、首なしがタッタッタッと走ってパタっと倒れる。

桜井:どうだろう?それはわたしには分からないけど、「すき焼きが鳥なのよ!!」って、お母さんが大袈裟な表情で話すのが凄く印象的だった(笑)

一作:鳥すきも美味いけどね。

桜井:一旦、通常のすき焼きを頭から外せばね(笑)

一作:まぁ~ね(笑)
北海道は豚だよね。

桜井:そうそう。
で、もっと面白いのが、私の父が60歳で引退して一時実家に帰ったとき、その町は牛肉を売っていない町だったの(笑)
実家の呉服屋って云うのが中山道添いなんだけど、そこではお肉屋さんに特別に頼まないと牛肉が買えないようなところだった。

一作:へぇ~、それ何年くらいのこと?

桜井:40年くらい前の話。
当時はまだその辺は相当な田舎だったということね(笑)そんなだから、実家のことを母はバカにしていた(笑)

一作:それよりまず、牛肉って戦後すぐに国内で生産していたの?

桜井:勿論していたでしょ。かなり貴重なものとして。

一作:おれが子供の頃のすき焼きって、年に何回も食えないものじゃん(笑)
しかも、あの固ぁ~い肉で。ガハハハハ(爆笑)

桜井:ハハハハハ(爆笑)
でも、それが美味しくてね(笑)
まあ、今考えても私はあまり困らないで来ました。
おかげさまで、そういう意味では。


河内一作

◇◆◇◆◇
 
 一作一流の誘導術で、早々にその出自が解明に出来るかと期待したものの、大陸で生まれ敗戦後に引き上げ、疎開先で当時の皆な味わうような極貧生活は体験せずに来たとのアウトラインしか開かさない桜井莞子。依然その人生のバックボーンは謎だらけ……。
 アプローチを変え、「まずは周囲を囲めろ!」とばかりに、家柄、家族構成等に方向性をベーシックに定め直す一作。
 さて、謎を包み込む霧は早々に晴れるのか??
◇◆◇◆◇

一作:実際に桜井さんが育った家庭ってどんな家だったの?

桜井:うちの父って人は呉服屋の9人兄妹の末っ子で、「絵描きになりたい」ってことで東京美術大学に入る訳なんだけど。末っ子だからお金も全額出してもらって、お小遣いまで貰えて、

一作:今の芸大(東京芸術大学)。

桜井:そう。
その呉服屋って云うのは代々続いた由緒正しい店で、当然、長男が継いでいるんだけど、その人が、これ(おちょこで酒を飲むポーズ)と芸者遊びが好きな人で。
中学を卒業してすぐに稼業を継ぐじゃない、そうすると、仕入れに行くと、即、神楽坂に行っちゃって、芸者さんの着物にペンで落書きしては着物を買わせるなんてことをする悪さ組で(笑)

一作:その伯父さんの遊び人の血が桜井さんにも流れているんじゃないの?ガハハハハ(爆笑)

桜井:そうそう。ハハハハハ(爆笑)
でも、確かに親戚でその叔父と私だけなの、のんべいは。ハハハハハ(爆笑)
叔父は死ぬまでそんな感じで贅沢して生きて行って。2度も結婚して(笑)

一作:基本、桜井さんはお嬢様だったんだ。

桜井:まあ、“困ることがなかった”ってことだけならそうなるのかな?
でも、一言で、“貧乏”、“金持ち”って皆言うけど、「不思議」だと思ったのが、20歳くらいの時に、大勢で海でしゃべったことがあったんだけど、年子のうちの妹は、「うちの家は貧乏だった」って言うのよ。なのに、わたしは、「金持ちだった」って言う(笑)姉妹でこんなに実感が違うものかと、

一作:なに不自由しなかった訳だもんね?

桜井:うん、しなかった。
うちには父の書生さんみたいな人達が沢山いて、おかあさんは大変なんだけど、皆にご飯を作ってあげて、

一作:書生を抱えられる財力はあった訳だから貧乏であるはずがない。

桜井:まぁ~、一応(笑)

ラジオアダン:なにゆえ書生さんがそんなにいたんですか?

桜井:うちの父は早い段階で油絵で大きな賞をもらったりした人だから、当然、洋画家になりたかったんだけど、……、あの人もある種の戦争犠牲者よね。
戦争が始まって子供達を食べさせないといけないから、美大の同級生を頼って明治製菓のコマーシャルの絵等を描くようになった。

ラジオアダン:グラフィックデザイナー、イラストレーターのパイオニア的な方だったんですね。

桜井:当時は商業デザイナーと総称していた頃だけどね。

ラジオアダン:では、書生さんたちはなにを?

桜井:その後に、飛び出す絵本を作り出して、その手伝いのための書生さんね。
映画制作もじきにやるようになって、満映ってところにいたんです。

ラジオアダン:えっ、李香蘭の満州映画協会!?

桜井:そうそう、山口淑子さんの。そこの宣伝部。
そんな環境から、元々、舞台美術なんかもやりたかった人だから映画製作にも携わって、歳を取ってからはシナリオも書きたくて、シナリオ学校に入り直したりしたんだけど、シナリオの方は残念ながら達成出来なかったわね。

ラジオアダン:今風に言えば、ミクストメディアを束ねるデザイン事務所にアシスタントとして大勢の書生さんがいたという訳ですね?

桜井:そうね。

一作:当時なら、「ギャラはそんなに払えないけど、飯は食わせてやる」なんて感じだったのかな?(笑)それはそれでいい時代だよね。
今なんか、何も出来ない奴にも給料を払う時代だもんね(苦笑)

桜井:昔は勉強をしたくてそこへ来るんだもんね。
「ご飯だけ食べさせてもらえればいい」って(笑)

一作:今の飲食店でそんな感じで来てくれたらいいよね。ガハハハハ(爆笑)

桜井:本当よね!ハハハハハ(爆笑)

一作:京都とかは今でも、……、有名な料理屋さんは中学校出て寮に入って、多分、給料なんて殆どないでしょ。

桜井:うん。
東京だってそうでしょ、和食は。
下働きで2年とかさ。

一作:あれは特別な世界だよね。
当たり前だけど、板前とかしっかり修行してきた人間はやはり凄い!びっくりするような仕事をするもの。……、だけど、他の世界を見ていないから、……、

桜井:それだけだからね。

一作:中々、おれなんかは付き合うとなるとキツいな。

桜井:一作さんくらいのキャリアなら板前さんとも至近距離でやっているものね。

一作:ノリが高校野球みたいだよね。
京都の木屋町の某料理屋さんとか、カウンターに白衣着て修行中の男の子が並んでる。丸刈りで高校野球みたいな男の子達ね。
「お前出身はどこだよ?」なんて尋ねると、「岡山の山の中です!!」なんて答えるんだけど。そういう若い人が出て来て修行している。

桜井:上下関係が凄いから。

◇◆◇◆◇
 予想通り、普通の勤め人の家庭ではなく、父親は我が国のグラフィックデザインのパイオニア的人物と判明。
 ここから更にレアな家庭環境の細部に質問が及ぶかと思えば、同業者ゲスト故の気楽さか?この酔談では珍しくワイドショーを賑わす一連のハラスメント騒動に話は飛び火する。
 通常そんなお茶の間の話題などどこ吹く風の2人が、敢えてそれに触れるとは、今のこの島国の市井の良識が相当にズレているということなのか??
◇◆◇◆◇

桜井:その上下関係なんてことを考えると、昨今お騒がせのスポーツ界とも重なる部分が多々あるわよね。

一作:今回の体操に関しては、一連のボクシング、アメフトなんかとはちょっと違う気がするんだ。

桜井:うん、そうね。

一作:塚原(光男)さんってオリンピック3大会で金メダルを取っている人なんだから、その大変さを一番分かっている人でしょ。
この際だからはっきり言うけど、あの子(宮川紗江)は今回のことがあろうがなかろうがオリンピックで結果を出せないと思う。
塚原さんレベルの人は、あのコーチ(速見佑斗)の無能さも見えてしまっているんだと思う。
ああいうことが発火点となって、2年後のオリンピックがネガティブなものにならないといいんだけど。

桜井:いろいろスポーツ界も大変よね。

一作:「今頃になってよく出てくるよな」、なんて池谷(幸雄)が発言しているけど、「だったら、もっと早くお前が言えよ!」だよ!
あれは、塚原さんの方がかわいそうだとおれは思う。
レスリングの伊調(馨)等と同列に並べていい事件じゃないよ。
方やオリンピック4連覇だよ。そりゃ~言う権利も十分にある。
それに比べて、まだ18歳で、……、そんな暇あったら、「もっとやることあるでしょ!」って。

桜井:うん、本当にそうよね。

一作:塚原さんは勿論、栄(和人)さんみたいな人達が中枢から外れたら、オリンピックで全然勝てなくなるよ。勝手にやって通用する程、甘い世界じゃないんだから。
勿論、権力の中でいつのまにか傲慢になってるとこはあると思うけど。

桜井:だから、スポーツも食の世界も、わたしみたいに修行をしないでやっちゃってもやれちゃうけど、きちんと習っている人達に執ったら、そういう存在は異分子なのかもしれない。
先日もきちんとやってきた料理人がはずみで殴っちゃって……。

一作:ああ、広尾で料理屋さんやってる方ね。

桜井:そうそう。
あんな優しい人がさ。
当初、「えっ?」と思ったけど、よくよく考えると、「指導してもよっぽど出来なかったんじゃないかな?」とも取れる。
私が彼のことをもともと好意的に思っていたってのも勿論あるんだけど、今のご時世、なんだかその辺難しいわよね。

一作:うん、難しい。
おれだって三田の『アダン』を始めた頃はスタッフに手が出ていたからなぁ~(苦笑)

桜井:えっ、ホント!?

一作:うん。やっぱり自分が現場に出ているとね。
でも、本当にその人を愛していて、未来のことを考えていないとそこまではしない。

桜井:それって、何度言っても直らないとか、分かってくれないとか?

一作:それ以前に、いい訳をするから。

桜井:ああ、そっちか。
それはちょっと手も出てしまうわね(苦笑)
私にも似たような経験はあるわ。分からない人って分かるまでが大変じゃない?年齢もある程度行けば更に直すことも難しくなる。

一作:そうはもう無理無理。若いときじゃないと。

桜井:そういう意味で若いときに叩き込むことは大切なことかもしれないわね。

一作:うん。
暴力を振るうということじゃなくて、厳しさを教え込むということね。

桜井:うん。非常に必要なこと。
昔の教師なんて日常的に殴ったりしていた。

一作:おれなんか、男3人兄弟の末っ子だったから、家で親父や兄貴に殴られて、学校に行けば先生に殴られて、その上、剣道部だったから竹刀で殴られ、帰り道の田んぼのあぜ道で先輩に殴られ(笑)
毎日、ボコボコだったもの。ガハハハハ(爆笑)

桜井:ハハハハハ(爆笑)
(妙に納得した感じで)成る程!

一作:スポーツもだけど、おれがハラスメント絡みで最近一番違和感を感じるのがセクハラなんだ。
例えばハグですらそう捉えることがある。あれはどう考えても愛情表現でしょ。その辺おかしくない!?
桜井さんはどう思う?

桜井:わたし全然OKだよ。
触られないから。ハハハハハ(爆笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)
だから、セクハラって言葉で、男と女の優しい、この、……、曖昧な、……、機微みたいなものがどんどん失われてゆく。

桜井:そうそう、そのちょっとした私的さがね。
目と目で分かる、いやらしいことじゃなくって、「うっ」って云うのもがね。

一作:ウォン・カーウァイの『花様年華』みたいな、ああ云う素敵な男と女の世界が少しずつ薄くなってゆく。

桜井:そうね。

一作:店をやってると、挨拶代わりにハグする機会もそれなりにあるじゃん。前の嫁がハワイだったし(笑)

桜井:ハハハハハ(笑)

一作:ハワイは殆どハグだからね。
で、ハグすると、「セクハラ!!」なんて言う女がいるんだよ。
そんな、「セクハラ!!」なんて言う女は99%ブス!!

桜井、ラジオアダン:ガハハハハ(爆笑)

一作:ブスしか言わない!!
いい女は言わないから。

桜井:ハハハハハ(笑)

一作:こうやってブスとか言うと、また、セクハラだパワハラだの言われるんだよ(苦笑)

◇◆◇◆◇
 ここに来ての一作の本音爆発を受け、ことを薄めるよう進行役としての筆者は、再度、桜井筦子に自身のタイムラインを遡るよう働きかける。
 すると、流石、機転が利くスーパーゲスト。瞬時に軌道は緩やかに予定通りの放物線を描く。
 さあ、続いてのフェーズは、多感だったその女子高生時代にいよいよ突入だ。
◇◆◇◆◇

ラジオアダン:で、一作さんと出会った頃にやられていた、飲食店の経営はどのような経緯で始められてのですか?

桜井:(唐突に)わたし、実はめちゃくちゃ遊び人なんです(笑)
遊び人?、……、と云うか、……、中学3年生からジャズ喫茶通い(笑)やれ、『ACB』だ、『ドラム』だと。

ラジオアダン:では、その頃は既に群馬を引き払って、

桜井:渋谷。

一作:渋谷のどこ?

桜井:渋谷区宇田川町って云って、今の渋谷ホームズ。ワシントンハイツがあったところ。
疎開から帰って来て、叔母が渋谷に住んでいたの。そこに居候。
小学校は渋谷区富ヶ谷小学校ってところに上がって、

一作:すぐそこじゃん。

桜井:そうよ、そこよ。

ラジオアダン:正にこの辺の方じゃないですか!?(笑)

桜井:そうよ。
この辺なんてその頃なんにもなくって。原宿の表参道があるでしょ?あそこまで歩いて行くと自転車屋があったの。今、『生活の木』になっているところ。『キディランド』の並びね。キディランドと、『志村工芸』と、その自転車屋さんしか表参道にもなかった時代。

一作:桜井さんの年頃としてはどのくらいのときの話?

桜井:小学校4、5年の頃。
クリスマスプレゼントで、「自転車が欲しい」ってせがんだんだけど、買ってもえなくて、そこの貸し自転車を借りて遊んでいた。
ワシントンハイツも、鉄格子の外れてるところから忍び込んで遊べちゃうの(笑)今のオリンピック村のところだから、めちゃ広くて綺麗で。

アダンラジオ:そんなこんなで中学に入ってジャズ喫茶通い?
今から考えても、大人の遊びのデビューが凄く早いですね(笑)

桜井:3年生からね。
それからは、ずぅ~~っとジャズ喫茶通い(笑)

ラジオアダン:ということはベースは新宿?

桜井:新宿、池袋。横浜にも行くし。

ラジオアダン:赤坂は?

桜井:赤坂にはジャズ喫茶はなかったわ。あと、銀座『テネシー』とかね。

一作:(念を押すように)ジャズ喫茶だよ!!(笑)
若い時の写真とか今持ってないの?

桜井:若い時の写真?
あるよ(笑)
ケメ子さん知ってる?笠井ケメ子(世界的ジャズシンガー/笠井紀美子)

一作:うん。

桜井:そのケメとの写真をある人が送ってくれたんだけど。
(スマートフォンをいじりながら)あるかな?……、びっくりしちゃうんだけどさ(笑)、あっ、これかな。笠井ケメ子達と海に行ったときの写真。これはもう25、6歳なんだけど。見て(笑)後ろにいるのがケメね。ケメ、綺麗でしょ?

一作、ラジオアダン:か!わ!い!い!!(見事にはもる)

桜井:笑っちゃうよね。ハハハハハ(爆笑)

一作:その写真、この連載に載っけようよ(笑)

桜井:ダメダメ、ケメに怒られちゃう!(笑)

ラジオアダン:ぼくたち50歳代がイメージするジャズ喫茶って、新宿にあって、ビートたけしさんがアルバイトしていたような長尺のモダンジャズがレコードでかかっていて、コーヒー1杯で何時間も粘るような店を想像してしまうのですが。

桜井:そのもっとずっと前。
当時だと水原弘とか、ライブを見に行くのよ。
だから、学校が終わって、午後4時の回をひっちゃきになって見に行く訳。お掃除当番なんてさぼって(笑)

一作:で、高校は?

桜井:中3からそんな感じで、私立に行っていたんだけどクビになって(笑)ハハハハハ(爆笑)

ラジオアダン:高校を退学?

桜井:ううん、中学。

ラジオアダン:えっえっ???(たじろぐ感じで)

桜井:だから上まで行ける感じで、親が階段を作ってくれていた訳よ。

ラジオアダン:ああ、エスカレーター式に?

桜井:そう。
だけど、「校風に合わないのでおやめください」って言われて。ハハハハハ(爆笑)

一作、ラジオアダン:ガハハハハ(爆笑)

桜井:最低でしょ(笑)

一作:目立つ奴っているもんね。
同じことをやっても怒られる奴と怒られない奴がいる。

桜井:そうそう、私の親友が正にそれで、一緒にジャズ喫茶に行くのに彼女は怒られない(笑)

一作:でも、高校は行ったんでしょ?

桜井:うん、父のコネで違う高校に行って、

一作:「お前、せめて高校は出てくれよ」みたいな(笑)

桜井:ハハハハハ(爆笑)
親には、やめさせる選択肢はなかったから、「どこかの高校にどうにかして行かせよう」と思ったんだろうね。

ラジオアダン:でも、夜遊びはやめない(笑)

桜井:夜遊びではなかったの。高校、中学の時は、4時の回で1ステージ見ると休憩があってセカンドステージも見れるシステム。だから、ぎりちょんで帰宅出来る。

ラジオアダン:一応の門限は守っていた訳ですね?

桜井:その門限を守らなかったりするから、家で仕事をしているお父さんの逆鱗に触れたり、それはそれで大変だったんですよ(苦笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)

◇◆◇◆◇
 早熟な無類のライブ狂に変貌を遂げた桜井莞子。
 当時でもかなりマニアックな部類に入るミュージシャンの追っかけも早々に経験し、更に、意外なメジャージャンルにシフトを切る。
 学業終了後、親の勧めもあり、一旦、家庭に入ることも頭に過るが、そんな平坦な毎日に身を置くようなキャラでは到底ない。
 暫しの思案の末、その後の人生を決定付ける、とあるオフィスに足を踏み入れる。グラフィックデザインの聖地『日本デザインセンター』!
 彼女の予測不能の人生の道程は更に加速する。
◇◆◇◆◇

一作:まだまだ最初の職業に付くまでには時間がかかりそうだね(笑)

桜井:そうこうしているうちに、高校のクラスメイトで東京六大学の立教大学野球部に熱をあげている子がいて、「エミ、ジャズ喫茶なんて行っていたら人生ダメになるわ。これからは野球よ!」なんてけしかけるの。それで、今度は野球場通いになる(笑)六大学野球の立教の応援(笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)

桜井:そうすると、わたしなんてジャズ喫茶に通うために日頃から一生懸命にお洒落している訳じゃん。その格好で球場に行くもんだから、田舎から出て来ている野球部のおにいちゃんたちはびっくりしちゃって(笑)
そのうち人気者になっちゃって、電話とかかかってくるようになって(笑)そのかけてきた人の先輩にしか電話番号を教えてないのになぜかかかってきて。
しょうがないからグループで遊ぶ感じで付き合っていたんだけど、野球部ってダサいのよ(笑)

一作:ガハハハハ(笑)

桜井:頭は丸坊主でさ、学生服着て来ちゃうの(笑)
渋谷の桜ヶ丘にあったわたしがよく行く喫茶店なんて、「申し訳ないけど、彼等をもううちの店には入れないでください」なんて言われたり、

ラジオアダン:ドレスコードに引っかかってしまった。

桜井:「ださすぎて入れられない」って(笑)

ラジオアダン:とは云え、長嶋茂雄さん等を輩出した名門野球部ですからプロ野球に行かれた方もいたんじゃないですか?

桜井:うん。一人プロに行った人がいました。
イチローさんが在籍していた時のオリックスの監督だった土井(正三)さんて方。

ラジオアダン:えっ!?!?
あのV9戦士のセカンド土井!?

桜井:亡くなっちゃったけどね……。
野球の人と付き合ったってわたしスポーツ全然ダメだし、ロックの人と付き合いたかったから(笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)
で、誰のファンだったの?

桜井:その頃だと、クレージーウエストってバンドがあって、そこの、福田洋二って人がすごくお洒落で大好きだった。
でも、全然相手にしてくれないから、

一作:その、福田洋二さんは楽器は何を担当していたの?

桜井:ギターとヴォーカル。
そのバンドって有名な人が沢山集まって来ていて、いかりや長介とか。カトちゃん(加藤茶)や仲本工事も後で入って来たり。
だから、この人が出るところはどこにでも行っちゃう(笑)

一作:流石にその辺の時代になっちゃうとおれには分からないな(笑)
で、最初の仕事はなにに就くの?

桜井:その辺話すと長くなるから(笑)わたしの過去訊いてどうすんのよ。ハハハハハ(爆笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)
まず、一旦そこから話してよ(笑)

桜井:18歳で、自分が行っていた学校の上のカテゴリーで、栄養士と服飾科ってのがあるのよ。でも、どちらも興味がなくって……。
親は、「それなら、お嫁に行け!」と。で、三菱商事かなんかの人とお見合いをさせられて。デートしたら、職業的にはエリートなんだけど、なんか、……、いやだったのよ。神宮前に既に所有しているマンションを、「見てください」なんて言って連れて行かれて。

一作:相手は気に入っていたんだね。

桜井:うん、あっちはどうもね。
でも18歳でね。あっちだって20幾つよ。

一作:その人とかって御生存してるのかね?

桜井:うん、わたしも今、同じことを考えていた(笑)
凄い人になってるかもね(笑)

一作:生きていてさ、この記事たまたま読んだりしたらどうしようかね(笑)

桜井:ハハハハハ(爆笑)
それが破談して、わたしになにが起きたかって言うと、(日本)デザインセンターの受付嬢とテレビ朝日の受付嬢募集の話が振って湧いてきたの。
テレ朝はうちの従兄弟がいたから、「エミちゃん、どう?」って。
どちらもコネだから下見に行くんだけど、テレ朝の受付は囲われた形で4人座って、なんだかそこだけが隔離されているんだけど、デザインセンターの受付は2人座って、視界に入るところでデザイナー達が仕事をしていて、なぜかかっこよく見えちゃって(笑)「日本デザインセンターで働かせて頂きます!」って。今思えば、そこがわたしの運命の分岐点だったんだろうな。

一作:そこで、かの日本デザインセンターの一員になった訳だ。

桜井:うん。
入社して初めて横尾忠則さんを見た時、足が長くて、「なに?この素敵な男の人は!?」って(笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)

ラジオアダン:ということは、他、宇野亜喜良さんやらグラフィック界のスター勢揃いの頃ですね。

桜井:そうね。
で、横尾さんが野球が大好きで、まさかの巨人ファン。で、わたしが、「巨人なら友達がいますよ」なんて言って、例の土井さんに頼んでネット裏のチケットを頻繁に頂いて(笑)

ラジオアダン:そんなクリエーター達の中に身を置くことが切っ掛けで、後に著名なイラストレーター、黒田征太郎さんとご結婚することになったんですかね?
(因に、『アダン』の看板は、20年前の開店の時、桜井氏の口利きで黒田氏が制作したものである)

桜井:そうね。
長友(啓典)さんもデザインセンターに入って来るから。

一作:まだ若くて可愛い頃でしょ(笑)

桜井:18歳。
高卒で入っちゃった(笑)

ラジオアダン:横尾さんはお幾つくらいでしたか?

桜井:横尾さんはわたしの9歳上。

一作:長友さんは?

桜井:長友さんは4歳上。
わたしときたら、おしゃれなことだけは一生懸命やっていただけの子(笑)

一作:で、トータルどのくらいいたの?

桜井:それがまた大変なのよ(笑)
デザインセンターの受付でちょこんと座っていると、横尾忠則、宇野亜喜良、原田維夫の3人が年中わたしの前を通って、3人でつるんでお茶を飲みに行く訳。あるとき3人揃って退社することになって、「ぼうや、ちょっと話を聞いてもらえないかな?」ってことで。“ぼうや”はわたしの当時のあだ名ね。髪がベリーショートだったから(笑)
で、3人が、「独立して作る事務所に来てくれないか?」ってことで、引っ張られることになったの。
もう、横尾さんが行く後にくっ付いて行くしかわたしには選択肢はなかったからね(笑)

ラジオアダン:それ、超短命で終わった伝説のデザイン事務所「スタジオ・イルフィル」のことじゃないですか!?

桜井:そう、イルフィル。
ここの(奥渋『家庭料理 おふく』2F)半分くらいのところに3つテーブルがあって、わたしは雑用係(笑)

ラジオアダン:イルフィルのことは横尾さんのエッセイを読んで知っているのですが、凄い経験ですね。
当時は宇野さんだけが売れっ子で、横尾さんは窮状した様子を面白おかしく書かれていて、凄く記憶に残っています。やることが無く映画三昧だったとか(笑)

桜井:なぜ映画三昧かというと、わたしに試写券が山ほど送られてきたから(笑)
当時は、お金を払って映画を見たこと殆どないもの(笑)
あなたが読んだ本の中では、横尾さんは、わたしのことは“黒田征太郎夫人”って名称で書いていたはずだわ。

ラジオアダン:そんな3人ばらばらな経済状態で、桜井さんにちゃんとお給料は出ていたんですか?

桜井:ハハハハハ(爆笑:思い出し笑い)
給料日は、「今日はぼうやのお給料日だよ」って言って、3人でポケットに手を突っ込んでお金を出すの。ハハハハハ(爆笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)
傑作だね。

◇◆◇◆◇
 過度の蛇行をしながらも、遂に地下に眠っていた大金脈を今回も掘り当てた酔談。なんとその金の純度は100%、実録“伝説のデザインオフィス『スタジオ・イルフィル』”!!
 当時のロック界の様相にも似た、短命なスーパーユニットの内情をこうして現場の生声として聞くと、想像より相当に微笑ましく感慨も一入。
 さて、杯も重ね、そろそろお互いの生業である、本編、飲食業に舵が取られそうだ。
◇◆◇◆◇

一作:桜井さんも紆余曲折あって飲食店を再開した訳だけど、お店をやっている限り、昔の友人が必ずやって来るっていうのが嬉しいよね。

桜井:そうよね。
再開してよかったことは、自分へのエネルギー?……、ほんと糧になります。

一作:今はおれも歳を取って、あんまり現場に出てないけど、現役バリバリの80年代の時に一緒に遊んでいた奴らの娘達が来たりする(笑)

桜井:うちだってそうよ。娘の海音子(みおこ)の同級生が来て、もう凄い人になっていたり。

一作:そうそう。

桜井:その人に仕事を頼まれたりね。「まさかぁ~!!」よね(笑)
十何年ブランクがあったけど、「やってよかったな」っていうのは実感としてあります。

ラジオアダン:わたしは、今の『パロル』の店主としての桜井さんしか知らないのですが、飲食業に参入した最初もやはりお店という形から始められたのですか?

桜井:いいえ、最初はケイタリングをする会社だったんです。物件自体も事務所のみオッケーでお店厳禁でしたしね。
でも、わたし、なんか、お店が好きなんでしょうね。

一作:それっていつ頃の話なの?

桜井:一作さんと出会ったときにお店を始めているから……、いや、ケイタリングのときにもう会っているか??……、すぐして、お店を始めたら来てくれて。来たはいいけど、「なんか文句が多い人だな~」って(笑)ハハハハハ(爆笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)

桜井:やれ、「おでんやれよ!」とかさ。
「この人、ずけずけ言うな~」って、まだそんなに深く知らない頃ね(笑)
只の飲み友達くらいの感覚なのに、「意見を押し付けるなぁ~」って(笑)

一作:ガハハハハ(笑)
おれ好きな人にしか本当のこと言わないから(笑)

ラジオアダン:知り合った頃は、よく西麻布の業界人が集まるバー『ホワイト』にお二人で行かれていたとか。

桜井:そうね、ホワイトにもよく行きました。
あと、当時、一作さんの下の子達が何人か独立したりして、そっちの方にも顔を出したり。

一作:結局みんなダメだったな……(苦笑)

桜井:残念ながら……(苦笑)

一作:ところで、最初のパロルは西麻布にあったけど、なぜ西麻布にしたの?

桜井:探したのよ、同栄不動産っていうところで。
最初は家でやっていたんだけどね。

一作:同栄?おれも全部物件は同栄だよ(笑)

桜井:へぇ~。
西麻布の物件は各階に1フロアしかない建物で、4階が大家さん。で、3階がイエローなんとかって云って、おっぱいが大きい女の子達が集まるプロダクション。

一作:ガハハハハ(爆笑)
『イエローキャブ』ね(笑)
へぇ~、そうだったの!?

桜井:2階がわたしの事務所で、1階がイタリアンだったの。
ある時、大家さんが、「桜井さんも、女一人でがんばってるから2階は好きな業態でやってもいいよ」なんて言ってくれて、ケイタリング会社だからキッチンは既にあったから、カウンターを増設してお店を始めたの。それが店舗経営の最初。

一作:それが幾つのとき?

桜井:お店を始めたのはもう40幾つのときよ。
そうこうするうちに、また大家さんが、「イエローキャブが大きくなって手狭になって引っ越すから、3階でもなにかやりなさいよ。あななら絶対に成功するから」なんて言ってくれて、そこも借りることにしたの。
実はわたしってなんにも考えない人生。ハハハハハ(爆笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)

桜井:ケイタリングが凄く儲かっていたしね。

一作:それが甘い!(笑)
80年代バブル!

桜井:バブル、勿論、バブル。
それに乗せてもらった人だから(笑)
で、1年もしないうちに3階はダメで、家賃が払えない状態になって(苦笑)
「やぁ~めた!」って、その辺の判断は早いの、わたし。

一作:その頃、おれはもうアダンを始めている気がするんだけどなぁ~。
そう言えば、アダンを始めるときに、桜井さんと一緒に物件を見に行ったよね。
おれ、迷うときって桜井さんに相談したくなるんだよ。

桜井:相談っていう程のもんでもないけど、そのときは一緒に行って、「いいんじゃない、ここ」って(笑)

一作:「やる!」って決めているんだけど、なんか、ポンと押して欲しい訳。
白金高輪の『クーリーズ・クリーク』の時もそうだったよね、相談して。

桜井:うん、あの場所ね。
でも、いい場所、いつも見つけてくるよね。

一作:あれも同栄。

桜井:そうなんだ。

一作:あそこの上原さん(現:同栄不動産社長)が電話してきて、あの人、おれを乗せるの上手いのよ(笑)
「あの倉庫をちゃんとした店舗に出来るのは一作さんしかいない!」なんて言われて、で、その気になっちゃった(笑)

桜井:でも、実際、クーリーズだって、「入って直ぐに2階への階段があって」なんて空間がすぐに目に浮かぶのは才能よね。

◇◆◇◆◇
 本業のディープな造詣に至る中腹、既に山頂の風景がデ・ジャブしてしまったのか?フューズは2人共通の趣味の方へと急転回する。
 古くから名うての映画狂である桜井莞子であるが、ここへきてその熱中度は更に拍車がかかっている。一作も超の付く映画好きだ。
 名作と云われるレジェンダリーな古典から、桜井莞子お気に入りの最新作まで多くの表題が入り交じり会話のBPMは更に早まる。
◇◆◇◆◇

一作:桜井さんは、映画をよく見るみたいだね。

桜井:見る。昨日も行って来た。

一作:昨日は何を見たの?

桜井:昨日は、『タリーと私の秘密の時間』。
この映画は別になんてことはなかった(苦笑)
『グッバイ・ゴダール』は見た?

一作:いや、まだ見てない。

桜井:ゴダールの奥さんが書いた本を映画化した作品。
前の週はそれを見た。映画は大好きだから。

一作:今度誘ってよ。

桜井:いや、映画は一人で見るもの。ハハハハハ(爆笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)
はい、その通りです(笑)
おれが、この対談連載でよく訊く質問なんだけど、……、いろいろあるとは思うけど、桜井さんのオールタイムの映画ベスト5なんて教えてもらえないかな?

桜井:ベスト5ね~、……、だから、ちょっと変わってきちゃうんだけど、自分が20歳くらいのときに見た映画で、『ミクロの決死圏』って映画がある、

一作:意外だね、おれもあれは見たけど、

桜井:いや、あれは凄く不思議な映画だし、……、

一作:確かにあの当時のSFとしては凄いよね。

桜井:でしょ。
SF狂という訳じゃないけど、あれはちょっとした衝撃だった。
小松左京原作の映画化なんて全然面白いと思わなかったけど、あれはちょっと感動ね。
アンソニー・パーキンスも大好きで、皆に、「気持ち悪い」なんて言われちゃうんだけど、

一作:おれも好きだよ。

桜井:『サイコ』くらいになると、「怖い」なんて言う人もいるんだけど、あの辺もまた好きで。
あの作品であの人の演技性?お芝居の上手さが評価されたのよね。

一作:うん、あの作品がなければ只の二枚目俳優で終わってしまった可能性すらあった。

桜井:同時代の、「ジャームス・ディーンはどうか?」と云うと、アンソニー・パーキンス派だからそんなに入れ込んではいなかったけど、映画作品としての、『エデンの東』や、『ジャイアンツ』は素晴らしいわよね。

一作:古いね~(笑)

桜井:古すぎちゃう!?(笑)
じゃ~、最近見た映画ね。
日本映画は元来見ない方なんだけど、最近よく日本映画を薦められて、『万引き家族』はよかった。
あと、斉藤工の監督作品で、……、

一作:よく見てるね。

桜井:見てるわよ。土日月休みなんだから。
家にいてどうするのよ。

一作:元気だね(笑)

桜井:斉藤工はね、『blank13』。
主人公がお父さんと13年振りに会って。凄く面白い映画。
一作さんも映画が好きなのね。

一作:美学校ってあって、鈴木清順監督の映画工房に通っていたくらいだから、昔から好きだったんだろうね。

桜井:へぇ~、私も鈴木清順監督は大好き。

一作:清順監督が日活を不当解雇されてすぐに立ち上げた講座で、そこは映画を作るんじゃなくて、……、そうだな、……、座談会みたいな感じ。
亡くなった脚本家の大和屋竺さんが担当で、おれ、あの人も大好きだった。
映画と云えば、桜井さんはよく知ってる方だと思うけど、和田誠さんの『麻雀放浪記』は傑作だよね。最高でしょ!

桜井:和田さんの映画マニアぶりは尋常じゃないから。

一作:キャスティングがピタッと決まっていて、

桜井:わたし見てないんだ……、

一作:見てない?見てない映画のことを語られるといやだと思うけど、まぁ、桜井さんも麻雀やるし。
あれは素晴らしい!
坊や哲役の真田広之はバチッとはまっているし、ドサ健役が劇団四季だった鹿賀丈史で、正に小説のまんま。彼に執っても過去最高のはまり役じゃないかな?その情婦の大竹しのぶもよかった。
あれは絶対あのキャスティングのままで3部作くらいにした方がよかったよ。

桜井:和田さんは映画が大好きで、うちのお父さんが映画関係だから会わせると父がまた凄く喜ぶのよ、そういう人と話すことで。
実際、和田さんはうちのおとうさんのファンだったらしく、『やぶにらみの暴君』のポスター作品を事務所に貼ってくれてたりしていて。
和田さんには、なにか深い縁を感じるのよね。

一作:へぇ〜。
で、麻雀放浪記に話を戻すと、一番決まっているのが、出目徳役の高品格!!
あれもほんと小説のまんまだよ!
最後の九蓮宝燈、

桜井:凄いんだ、九蓮宝燈!

一作:九蓮宝燈で上がって、イーピン握って、「九蓮宝燈!!」なんて叫んで死んじゃう。心臓マヒで。

ラジオアダン:ずっとシャブ打って身体をなんとか持ちこたえて、

一作:そう。

桜井:凄いのね。

一作:凄いよ。
桜井さんと麻雀何回やったっけ?今度やろうね。

◇◆◇◆◇
 さて、一体どれ程杯を重ねてきたのであろう?既に2人の頭の中には対談というシュチュエーションは消滅した模様だ。
 こうなれば、「好きな話題を語り尽くそう!」としか方向性は定まるはずも無く、最終項とおぼしきこの時間帯にも関わらず、話題は唐突に蕎麦屋談義に移行。
 だが、そんな気まぐれ振りも、よく読めば食の道のプロフェッショナルである2人、飲食の本質をリアルに浮き彫りにしているから不思議だ。
◇◆◇◆◇

一作:ところで、最近の蕎麦屋はどう?
最後に、蕎麦屋談義をしようよ(笑)

桜井:蕎麦屋の懐石って考えさせられるよね……、ベースに、「蕎麦はこう食べるものだ」と云うのが本来あって、

一作:あれはダメでしょう。
おれは、まぁ〜、職業として飲食のプロデューサーを生業にしていて、……、でも現場上がりだから、まず現場のことを考える。そう思うと、「蕎麦屋をやろう」と思えばやれると思う。だけど、蕎麦屋は絶対にやらないの。
それはさ、やっぱり、神田の『まつや』や、浅草の『並木藪蕎麦』みたいに、下町で綿々とちゃんとやってる方々の領域に、ニューウェーブの新参者が土足でドカドカと入り込むなんて失礼だから。

桜井:まったくその通り。
そういう意味で、一作さんは以前、「蕎麦懐石なんて冗談じゃね~!」なんて言っていたものね。ほんとそう、あれはいらないもの。
蕎麦屋で2、3品頼んで、お酒飲んで、最後にお蕎麦を食べて、「ああ、満足!」ってのが一番いいと思うんです。

一作:うん。
懐石じゃないんですよ。蕎麦屋のつまみってのは、板わさと味噌と卵焼きくらいで、せいぜいそれに、焼き鳥くらい追加してもいいけど。

桜井:そうそう。

一作:あと美味い天ぷら。

桜井:うん。

一作:それで十分じゃん。

桜井:ごちそうですよ。

一作:だってそれ以上食べたら肝心の蕎麦が食えなくなるもの(苦笑)

桜井:なのに、「なぜこんなに蕎麦懐石が溢れているか?」と言ったら、多分だけど、和食屋さんにいた人達が沢山そっちに流れたからじゃないかな?

一作:でも、そういう業態にすること自体、金儲けしか考えてないよね。

桜井:うん、そういうことになってしまうわね。
蕎麦は、……、(進行役に向かって)わたしは大の蕎麦好きなんですよ(笑)だから、蕎麦は懐石ではいらない。

一作:昔、赤坂の『砂場』に桜井さんがつれて行ってくれた。

桜井:うん。
少しだけ味が落ちてる気もするけど……。

一作:改装してから?

桜井:そうね。

一作:実際、今の砂場系はよくないよ。いいのは赤坂の砂場だけ。

桜井:室町は?

一作:室町はぞんざい。

桜井:あっ、そう?

一作:不味くはないよ。
「なにがぞんざいか?」と言うと、電話しても全然出ない。

桜井:忙しいから?

一作:違う。出ない風にしているの。

桜井:……??

一作:繋がらないように意識的にしている。

桜井:土曜日は4時までなのは知ってた?

一作:それは知らないけど、とにかく電話に出ないのはおかしいでしょ?
室町の砂場に以前知り合いが勤めていて、それで、開いてるか確認のために電話するんだけど、留守電になる。でも、行くと開いている。

桜井:へ~、それ、私が抱く感情とちょっと似てるわね。
室町に頻度高く行く映画館があるから、映画を見てから砂場に行くと、「土曜日は4時までなんです」って、「ふざけんじゃ~ねぇ~」だよね。「せめて、6時か7時までやれよ!」って思う。

一作:うん。
土日こそ普通にちゃんとやるべきだよ。
蕎麦屋に、「遅くまでやれ!」とは流石に言えないけど、蕎麦屋は午前11時半から午後7時まで。それが蕎麦屋だと思う。

桜井:うん、そう!
そういうことです!

一作:おれ、なぜここまで今日は実名を上げて突っ込んで話すかって言うと、やっぱり飲食を生業にしている人間っていうのは、そのぐらいのことを究極思っていないと仕事にならないし、あと、それほど凄くお金儲けが出来る訳でもないし。
まぁ、なんでやっているかと言うと、人が好きだし、長くやっていくうちに使命感も出来てくる。
アーティストだって、口には出さないけど、その位の意識で描き続けているから表現になる訳でしょ?
以前、おれのところにある若いスタッフがいたんだけど、彼が先導して仕事終わりに何人かで、麻布十番の地下にある朝までやっている蕎麦屋に行ったことがある。前述した蕎麦懐石の典型みたいな店だな。
で、おれは彼に怒った訳。「そんな所で蕎麦食ってるんじゃねぇ~!」って。そしたら、そいつが逆ギレして(苦笑)「なんで夜中に蕎麦を食べちゃダメなんですか!?」なんて反論する。で、それに対しておれが返した言葉は、「夜中に食べていいものは焼き肉だ!」と(笑)ガハハハハ(爆笑)

桜井:焼き肉!?!?ハハハハハ(爆笑)

一作:「その意味が分からなきゃ、おれと話をするな!」って。
別に、「焼き肉じゃなきゃいけない」という意味じゃないよ、ものの道理を言ったまでのこと。どこまでいってもそういうもの。
蕎麦をじぶんちで食うのは別にいい、自分で湯がけばいい訳で。でも、夜中にやっている蕎麦屋なんておれは信用してないから。
彼が別の職業ならなにも言わないよ、でも、「飲食を志す者が、そんなものをありがたがって食していてはダメだよ」っておれは言いたかったんだ。
「感性を磨けよ」、「それが分からないとダメだよ」と。そこは厳しいですよ。
夜中の立ち食い蕎麦はぜんぜん大好きだけど。

桜井:確かにね。

一作:バブル期の80年代、霞町の交差点近くに立ち食い蕎麦屋があった。
散散遊び廻って夜明けにおれと友達とそこで天ぷら蕎麦を食って帰る。二人肩並べてね。これってブルースでしょ。

桜井:お蕎麦屋さんは天ぷらが美味しくなきゃね。

一作:そうだね。
あと、酒は大吟醸なんていらない。

桜井:そう。

一作:本醸造の菊正、それ1銘柄で十分ですよ。本当は焼酎もいらない。
神田のまつやはあの庶民的なとこがいいよね。
ある時、混む時間を外して2時位にまつやに行ったんだけど、奥のテーブルでおやじがテレビの取材かなにかでカメラ向けられて喋っている訳。営業時間中だぜ。テーブル使ってる訳だけど、外でお客さん待ってるし、おれ、酒が入る度に段々むかついてきてさ、(笑)

桜井:ハハハハハ(爆笑)
まぁ~ね(笑)

一作:それもおかしくない?
で、温かい天ぷら蕎麦を頼んで、それが来るまでに、……、客も一杯いるのに、おやじがさインタビューを受けている訳。

桜井:時間帯がね。気遣いがないわよね。

一作:おれだって店をやってる人間だぜ。絶対、営業時間に取材なんて受けないから。
2合くらい飲んだところでいらつきもピークになって、

桜井:ハハハハハ(爆笑)

一作:天ぷら蕎麦が出て来て、持って来たおばちゃんに、「これ、あそこのカメラ抱えているあんちゃんに食べさせてあげてね」って優しく捨て台詞を吐いて金を払って出て来ちゃった。

桜井:ハハハハハ(爆笑)

一作:で、その後また行ったの(笑)それでも好きな店だから。
そしたら捨て台詞を言ったおばちゃんがまた担当で(笑)その時のことは忘れている訳。で、また酒飲んでいて、2合くらい頼んだ時に、おばちゃんが急にあの時のことを鮮明に思い出したみたいで、一瞬顔が引きつった(笑)ガハハハハ(爆笑)

桜井:ハハハハハ(爆笑)

ラジオアダン:取材に関する姿勢は嫌でも、またすぐに行くってことは、「店自体は好きだ」ということですよね?

一作:うん、あそこは好きな店だよ。
本当は並木が一番好きだけど、ずっと並ばないといけないでしょ?3時くらいにならないと入れない。今は凄く混んでるよね。だから、並木に行く時はお腹空いたのを我慢して2時半くらいに行くよ。
それに、並木やまつやもいいけど、町場の出前があるとこで、カツ丼からカレーライスまでなんでもある蕎麦屋も好きだな。

桜井、一作:et cetera et cetera et cetera et cetera et cetera……、……、

◇◆◇◆◇
 果てることのない、店舗の見立てに関する会話。これを若い世代は“ダメ出し”と言って煙たがるのだろう。更に口さながない輩は“老害”とカテゴライズし某野球評論家のように罵るのだろう。
 確かに表層だけを読めば、人生のベテラン達のダメ出しの嵐に見えてもしかたがない側面もある。だが、ほんのすこし目を凝らし視界をずらして読み解いてもらいたい。
 この会話はダメ出しではなく、“道理”の話なのだ。“了見”の確認と云ってもいいだろう。
 さて、本日はここまでで、進行役としての筆者は仕事を終了させて頂くとしよう。
 だって、纏めようと話を止めても、この2人が会話を止めるはずがないのだから。
 止めない理由は簡単だ。
 羽の生えた言葉を宙に浮かせば、忘れた頃にその言葉は福を羽織って舞戻って来る。そのことを賢者達は知っているのだ。
 
 エトセトラ、エトセトラ、……、
 話題は果てしなく続き、道理に満ちた無数のロゴスが店の扉をすり抜け街へと羽ばたいて行く。
 きっと明日もいい日になるだろう。
 
 だって、人生の殆どの出来事は、酔っぱらいが酒場で夢想したことを、神様が空模様に沿って暇つぶしにチョイスしているだけなのだから。
 とぅ・びー・こんてぃにゅーど

@奥渋「家庭料理 おふく」

テキスト、進行:エンドウソウメイ

写真:門井朋

●今回のゲスト

桜井莞子/プロフィール

1943年満州生まれ。日本デザインセンター、スタジオ・イルフィルなど我が国のグラフィックデザインのパイオニア的伝説のオフィスのスタッフを歴任後、結婚、出産。
1988年、食に特化したケータリング会社「(有)パロル」を起業。1994年には店舗業態「ごはんやパロル」を西麻布にオープンし好評を博す。
2004年、還暦を機に伊豆高原へ移住し、悠々自適な暮らしを楽しむが、2年程で飽き、同地にて料理教室を開講。
2015年、友人達の熱きラブコールに絆され、一念発起、「ごはんやパロル」を南青山に再開。


河内一作/
山口県生まれ
八十年代から霞町クーリーズクリーク、青山カイなど常に時代を象徴するバー、レストランの立ち上げに参加。九十年代、仕事を辞め世捨て人となる。
六年間の放浪生活の後社会復帰し、アダン、青山タヒチ、白金クーリーズクリーク、音楽実験室新世界、奥渋バー希望、南洋ギャラリー、など手がける。お楽しみはまだこれからだ。

黄昏ミュージックvol.20 忍びのテーマ(『カムイ外伝』)/水原弘

 当サイトの対談連載「酔談」の取材が先日あったが、その回の最高齢ゲストS女史曰く、「日本のライブシーンにどっぷりはまったのが1962年」だったそうで、「そのメッカは、“ジャズ喫茶”と云う場所だ」と名言されていた。
 筆者に執って、未知の領域に関する、“ライブ黎明期”のレア証言をいただいた興味深い取材だったのだが、その時代はまだ、“舶来音楽=総称ジャズ”というざっくりした方程式が一般的で、そのジャズ喫茶なるものも、ロカビリー、ハワイアン、キューバラテン、ジャズ等が、ごった煮されたブイヤベース状態で、正確に分類されるまでには随分と時を要したはずだ。
 そんな話題の中に出てきた、筆者にも聞き覚えのあるビックネームが水原弘。
 リアルタイムでもブラウン管越しに見てはいたが、その歌手としての圧倒的力量を再確認したのは、彼の死後に上梓された村松友視氏の傑作評伝『黒い花びら』を読んでからだ。
 さて、そんな60年代初頭に筆者が、「何を好んで聴いていたか?」といえば、幼少期故、当然、今で云う“アニソン”群中心。
 国産アニメは勿論、生産が追い付かないためにアメリカより輸入された、カートゥン・ネットワーク(前身『ハンナ・バーベラ・プロダクション』)ものには随分楽しませてもらった。
 舶来アニメにも純国産のテーマソングを付けるのがこの時期の通例で、これがまた中々の力作揃い。
 思い出すままにざっと上げると、当時のトップアイドル、フォーリーブスにアニソンを唄わせた大胆企画、『電子鳥人Uバード』。東京演芸界のボーイズの筆頭、灘康次とモダンカンカンの定着した浪速節フレイバーを逆手に取ったポップス仕立ての、『にげろやにげろ大レース』。声優による主題歌歌手兼任のパイオニア的傑作、小原乃梨子(初代:野比のび太)の、『ドラドラ子猫とチャカチャカ娘』等がその楽しい絵柄と共に鮮明に脳裏に蘇る。
 さて、ここからが本題。
 実はフォーリーブス以上に大胆なアニソン企画があった。しかもこのコーナーのテーマ“黄昏”純度100%の代物だ。
 1967年の『君こそわが命』のビックヒットで“奇跡のカンバック”と称された、2年後に放映された『カムイ外伝』のエンディングテーマを唄った、前述、水原弘の『忍びのテーマ』がそれだ。
 水原弘は、当時の歌謡界の重鎮としては相当にフットワークが軽い人物で、他にもノベルティーソング的変化球『へんな女』等というなんとも可笑しな楽曲も衒いもなく手がけている。
 まあ、無類の酒豪であり夜の帝王の名を欲しいままにしていた漢。そのための高額な維持費を稼ぐために、あまり仕事を選ばなかったのかもしれないが……。
 “忍者”をテーマにした本作は、当然、黄昏せまる赤い夕暮れがよく似合う哀愁漂う楽曲となっており、時代物には必須の打楽器、ビブラスラップが効果的に多様される。
 水原弘の歌唱に関しては、“上手い!”という実態のない言葉以外見つからない程に、タイム、ピッチ共に完璧で、ほれぼれする程にスムースな歌唱。
 今や世界に誇る日本のアニソンであるが、その古典も既に高水準な作品揃いだったのだ。(se)

黄昏ミュージックvol.19 My uncle/Franck Barcellini

 先日、ミュージシャン、音楽プロデューサーのs-ken氏が、前職、音楽ジャーナリストをしていた1977年の在NY時代のパンクムーブメント萌芽に特化した写真展を行い、最終日のトークショーの台本書きとビジュアルオペレーターを不肖筆者が勉めさせて頂いた。
 このトークショウに関しては裏方としても勿論、殆どオーディエンス同様にワクワクしながら開演を待った。なにせ、この日のスペシャルゲストは、s-ken氏旧知の細野晴臣氏なのだから。
 細野氏の古い著書に『地平線の階段』という随筆があり、著者に執っての幾つか存在する音楽バイブルの一つであり、この著作のエキゾチックサウンドの項に出てくる編集者の田中唯士氏こそ、後のs-ken氏であり、当時、ランチタイムミュージックとして忘れ去られていたマーティン・デニーやスリー・サンズなどの魅惑の音色を有したモンド的イージーリスニングに開眼させられた運命の一冊。
 さて、久々に音楽の本道を語る同い年の表と裏の音楽王の話は70歳を越えた今、2人の最初の接点だった前述音楽群を更に遡り、実質の洋楽原体験であった1958年の映画作品、ジャック・タチの「ぼくの伯父さん」にまで話は及び、「我が国の耳敏いリスナー達はこの辺りの音楽から聴き始め、ジャンゴ・ラインハルト経由でマヌーシュ・スウィング、果てはクレズマー、ジプシー・ブラスとその触覚を伸ばして行ったのだろうか?」などと筆者は勝手に想像し、その贅沢な時間を楽しんだ。
 実際、細野氏は自身が高く評価するアニメーション、「ベルヴィル・ランデブー」を秀逸に引用したs-ken氏プロデュースの中山うり嬢の作品を、その出自も知らずに気に入っていたという。
 この辺にも、近年、ルーツを越えた原体験回帰が両者の間で静かに交差しながら進行していた不思議な関係性が伺える。
 上記使用のジャケットは、『ぼくの伯父さん~ジャック・タチ作品集 オリジナル・サウンドトラック』と題された4つの映画作品から抜粋したもので、50年代のパリの下町情緒溢れるピアノの旋律が愛おしい、今回の黄昏ミュージック『ぼくの伯父さん』は勿論、それ以外の楽曲も良質なアレンジが施された名作揃い。
 正に、細野氏がこの日語った金言、「ロックの自縛からの開放」を実感させられる、ある種の究極の音楽領域なのだ。(se)

黄昏ミュージックvol.18 Hope/Clap! Clap! Feat. OY

 ロシアワールドカップも遂に4強が出揃う終盤にさしかかっているが、バー黄昏で毎週土曜の夜にDJをしていると、必然的に好試合とかち合ってしまうことがある。
 そんな時、地上波の環境を有しないこの店ではネットワーク配信が命綱となる。
 ありがたいことに、今回よりNHKは自局の総合1に関しては同時配信に踏み切ってくれたのでネットでの視聴が可能となった。
 それ以外の民放放映に関しては海外サイトに頼ることになるのだが、これも多少の重さあるものの視聴は可能。
 なぜそこまでワールドカップ放送に執着するかというと、レギュラーDJ陣に筆者を含め3人のサッカー狂がいるからだ。
 音楽も勿論大好きだが、4年に1回のレア性を加味すると僅かに期間中はサッカーに軍配が上がる。
 さて、そんなサッカー狂のDJ、K・S氏から教えてもらったイタリアのトラックメーカー、クラップ!クラップ!の「ホープ」を今回の黄昏ミュージックとしよう。
 ストーリーテラーでもある彼は、本アルバム「A Thousand Skies」では、宇宙をその物語の背景とし、緻密に作られた16の場面を、16のトラックと入念なビジュアルで丹念に表現している。

トラック4.希望 
〜中略〜 ヴァルゴは彼女の腰に手を回し、ピュアで無償の愛に満ちた抱擁をした。お互い何も言わずに見つめ合っていると、ヴァイゴは彼女の額にキスをして、「気をつけていってらっしゃい」と願いを掛けた。〜 
 
ミッドテンポの太いボトムなトラックの上を浮遊するアブストラクト且つ美しきメロディーは、その後、昇華向かうストーリーの予感で一杯の名作だ(se)

黄昏ミュージックvol.17 See You Again-Johan Cruijff R.I.P.Remix/feat.youjeen:Leo the twoface

 四年に一回の地球規模のフットボールの祭典、2018W杯ロシア大会がいよいよ今夜開催される。
 我国代表は“史上最弱”とも形容される下降状態ではあるが、人生終盤を向かえつつある筆者の年齢を鑑みると、この祭典を楽しまない手はない。
 さて、そんな中、予選敗退のという憂き目にあったアーズリー(イタリア代表)、そして、私に執っての近代サッカーの母国オランダの不在は本当に残念であった。
 そんなオランダが生んだ真のレジェンドに捧げた素晴らしいJラップがある。
 楽曲の主は、Leo the football名義で秀逸なサッカー番組を日々配信している人気ユーチューバーであり、Leo the twoface名義でラッパー、トラックメーカーとしても高水準の楽曲を生み出す才人Leoくん(筆者は勝手にこう呼んでいる)である。
 なんでも元々のキャリアは芸人であったとのことで、番組内での爆笑ギャグはもとより、澱みのない滑舌から放たれるロゴスの数々はリディムの良さも相まって、分かりやすい試合解説の一翼を担っている。
 特にジョゼップ・グアルディオラの戦術をこよなく愛するが故、当然、その師匠ヨハン・クライフへの敬愛も尋常ではない。世界一好きなフットボーラーがクライフである筆者は日々彼の配信を楽しみにしている一人なのである。
 クライフがこの世から消滅するという希有な黄昏時にトリビュートとして彼が書いた楽曲が今回の“黄昏ミュージック”「See You Again-Johan Cruijff R.I.P.Remix」。
全編リリックにサッカー、そして、クライフへの愛情が溢れる美しい楽曲なのである。

〜貫いた自分 束の間のKing
よりbelieve 生み出したideaと心中
したあの日からまた降り出した
雨を見上げ笑って歩き出した

「きっと空が嫉妬してる
すぐ上がるさ ほらあの虹を見て」
指差す 夢の終わりまでまだ遠い
旅続ける背中にはNo.14〜
See You Again-Johan Cruijff R.I.P.Remix/feat.youjeen:Leo the twoface

2018年、雨期から初夏へ、暫しサッカーに身を委ねる。(se)

黄昏ミュージックvol.16 I STAND ALONE(一人)/井上堯之

 60年代の訪れと共に生を受けた筆者に執っての洋楽との出会いには、必然的に、その時代を席巻していたグループサウンズなるものがその橋渡しとなっていた。
 1965年、ドイツのアイドル的ロックバンド、ザ・レインボウズが「バラ・バラ」なる単純な構成の英語曲をヒットさせた。
 当時5歳の筆者が入学したての校庭のブランコで遊んでいると、2つ程歳下の小柄な少年が「♪アベビベビ バラバラ♪」(実際は『♪My Baby Baby Balla Balla ♪』と歌っている)と取り憑かれたようにそれだけを大声で繰り返し唄うのだが、そのバラバラ小僧は他に何も話すでもなかった。
 連日同じ場所に姿を表すその子を、筆者や友人たちは面白がって「『バラ・バラ』歌ってよ」と急き立て、その子も拒むでもなく無数の歌唱を続けた。
 “流行歌”とはよく云ったもので、筆者たちはやがて腫れ物が取れたかのように「バラ・バラ」なる曲がなかったかのように忘れていった。それと時同じくしてバラバラ小僧もどこかへ姿を消した。
 2年後の67年、GS群の中でも特に好きだったザ・スパイダースが「バラ・バラ」をカヴァーするが、バラバラ小僧を介し急激に消化してしまったその楽曲に筆者が再度興味が湧くことはついになかった。
 スパイダースはムッシュかまやつ、大野克夫という優れたコンポーザーを抱えていたが、彼等からの大いなる影響もあり、解散後、井上堯之がコンポーザーとして飛躍する。
 そして、本年5月2日、黄昏時にこの名曲を残し身罷る。(se)

「連載対談/『酔談』vol.8」ゲスト:相原誠氏 ホスト:河内一作


 “酔談”。見ての通り、酔って語らうこと。当然、造語である
 酔っているがゆえの無軌道さ、無責任さ、大胆さ、自由さをそのまま気取らず飾らず実況する、それが「対談連載/酔談」の全てである。
 アダングループ代表、河内一作が東京の夜のフロントラインに初めて立った、1981年の「クーリーズクリーク」から現在に至るまで、彼が関わった店が、単なる飲食店におさまらず“自由なステージ”としての酒場の背景を演出出来えた“要”ともいえる大切な友人達を毎回招き、テーマなしのゼロベースから美味しい酒と肴の力を借りつつ今の想いを語り尽くすトークラリー。
 さて今回は、キャロル、ダウンタウン・ブギウギ・バンドと、日本ロックシーンのメインストリームで数々の名演を残すドラマー相原誠氏(以下敬称略)をお迎えし数えて第8回目となるコアなトークセッションをお馴染みの泉岳寺「アダン」1Fフロアーで決行。
 ドラマーはもとより、一作同様、バー、ライブハウスの経営、はたまたラーメン店開業、それにも飽き足らず古物商もと、多羅尾伴内並に複数の顔を持つ相原誠。
 そんな話題に事欠かない人物だけにロングランなジャムセッションが予想される。
 わくわくする予感の中、意外にもオーソドックスな、ルーツ、そして2人の出会いから緩やかにリディムは刻み始める。
◇◆◇◆◇

アダンラジオ:(レコーダーの位置、レベルを微調整中)

相原誠(以下誠):いいね、こういうふうに丁寧にセッティングするのって(笑)

アダンラジオ:ダウンタウン(・ブギウギ・バンド)時代はしょっちゅうインタビューされて、いい加減、嫌だったんじゃなかったですか?笑

誠:まあね……。
こう、物事にこだわるっていうのがいいよ。

アダンラジオ:誠さんこそ、こだわりの権化じゃないですか!?
ある日突然、骨董品屋さんになってみたり(笑)

河内一作(以下一作):骨董品までやってるんだっけ?
ラーメン屋はやめたんだよね?

アダンラジオ:ブルースとラーメンの店(笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)
なんでブルースとラーメンな訳?

アダンラジオ:ですから、ブルースを聴きながらラーメンを食べるというコンセプトだったんですよね?

誠:うん、そう。
人間って不思議なもんで、いろんな麺を試したけど……。
俺、生まれが秋田じゃん。
で、たまたま、「紀伊国屋」でやっていた、ラーメンフェアで買ってきた秋田の麺が実に俺好みで。これが俺のスープにまた合うんだよ。麺が凄く細くてさ。

一作:秋田県出身なんだ。
いつまでいたの?

誠:15の時には、もう秋田からドロップアウトしていたよ。

一作:家出した?

誠:うん、そう。
今も家出中みたいなものだけどさ(笑)

アダンラジオ:では、高校を途中でやめられて、

誠:高校なんて行ってないから。
中学も最後の方は行かなかった。

アダンラジオ:めちゃくちゃ早いドロップアウトですね(笑)

一作:早いね〜。
ガハハハハ(爆笑)

誠:学校って、……、要はものの考え方よ。
若い時なんて、学ぼうとしても、まだ頭が悪いんだから学ぶに至らない。
だから、大人になった今、学んでいるんだから。俺は一方でそういう教育も必要だと思うんだよな。
若い時は遊ぶことが精一杯で、学ぶ暇なんかないよ(笑)
ましてや、アルマーニか何か着て学校行ったって勉強なんて出来ない(笑)


相原誠氏

一同:ガハハハハ(爆笑)

一作:時事ネタ爆発!?(笑)
あれね(笑)校長がバカだよな。

誠:まあいいけどさ、所詮、泰明小学校だし(笑)

一作:ところで、秋田のどこ?
男鹿半島とか?

誠:あの頃、15くらいだから、そんなに県内をうろうろしていた訳じゃない。

一作:で、最寄りのJRの駅はどこだったの?

誠:土崎港(つちざきみなと)。
大体、秋田港というところ。
元々、秋田市と土崎は別れていて、秋田市としては、港を秋田港と名付けたかったんだけど、土崎側は、「それは譲れない」と。
秋田港だと元来のイメージと変わっちゃう訳だ。
いわゆる、お城があって降りてくると港があるというのが、俺の育った地域の構造なんだけど、その山の中腹で、うちのおじいちゃんが煉瓦工場をやっていた。

一作:へぇ〜。

誠:山を切り崩して焼いて。
昔にしては洒落た商売をしていた訳。
でも、うちの親父の代で、皆職人になっちゃって継ぐ人間がいなくなって。
最後、うちの親父はボイラーで、いわゆる、格納庫を作っていた。

一作:そう、凄いね。
結構、家系的に肉体派なんだ。

誠:当時、ボイラーの特級を作れるって云うのは、国内でも数人しかいなくて、その一人がうちの親父。

一作:ボイラーを作っていたんだ。

誠:昔は、三井や三菱が、耐火煉瓦ってことで作っていた。今の鉄とかじゃなくって。おれもガキの頃はよく手伝いに行かされたよ。
一作もよく知っている、(浦上)ケンちゃんが秋田に暫く住んだことがあって、

一作:へ〜、住んでいたことがあるんだ。

誠:うん。
それで、俺んちへ行って親父と話ししたりして。
ホントおかしい奴だよ、あいつは(笑)

一作:ハハハハハ(笑)
へ〜、そんなこともあったんだ。
俺が始めて誠と会ったのは88年の「いのちの祭」?
八ヶ岳だよね?

誠:うん、そうそう。
「いのちの祭」の頃は、一作をはじめ、皆、周りはまだ「Cay」のスタッフで。

一作:うん。
誠はたまたま浦上のケンちゃんと来て、俺はその時点でケンちゃんのことは知っていた。
で、誠がケンちゃんに連れられて来て、俺達は岩手から自然放牧で育てられた上質のラム肉を山ほど送ってもらって、バーベキューとして焼いて出してたの。


河内一作

ラジオアダン:今で云うフェスの出店ですね?

一作:うん。
そしたら、「おまえら焼き方下手だな!」とか言って、「ちょっと俺に貸してみろ!」なんて言ってさ、自分の呑んでいるビールを肉にぶっかけて、一生懸命焼いてくれる訳(笑)「この人凄い人だな」って(笑)

ラジオアダン:その時、一作さんは、かのダウンタウン・ブギウギ・バンドのドラマー相原誠とはつゆ知らず?

一作:全然知らなかった(笑)
ダウンタウンが売れていた時って、俺、テレビ持ってなかったから。顔が分からないんだ(笑)

誠:ガハハハハ(爆笑)

一作:ダウンタウンってあれ何年くらい?

ラジオアダン:ミリオンセラー連発は74〜5年頃では。

一作:でしょ?
俺が東京に出て来て直ぐ。テレビがない時代。
だから、只、「この人凄いな」って。
その時は、今みたいに痩せてなくって、ガタイよくて、「この人、テキ屋の親分かな?」なんて思ったりして(笑)

誠:結構あるじゃん、人間って、勢いのある時ってのが。
いや、今もあるけどさ(笑)
若い時ってのは、……、なんだろな?……、やっぱ凄いよな(笑)

一作:ハハハハハ(笑)
誠との最初はそんな感じ。

ラジオアダン:ミュージシャンとは思えない手際よい調理(笑)

誠:で、輪投げを始めて。

一作:そうそう、誠、輪投げとか持って来てるんだよ(笑)
子供集めてやらせる訳。

誠:あれが受けちゃって!

ラジオアダン:隣同士で出店になった?

一作:場所代は取らないから、厳密には出店じゃないな。
誠も輪投げはただで子供達にやらせていたんでしょ?

誠:いや、1回300円かそのくらいで(笑)

一同:ガハハハハ(爆笑)

ラジオアダン:それじゃ、本物のテキ屋じゃないですか!?(笑)

一作:俺、絶対テキ屋の親分だと思ったもの(笑)

誠:あのイベントの前に、第一建設って会社の社長と友達になってトレーラー1台貸してくれて、俺が洋服を作って、川口の、「ラリー・メイズ」って云って、迷路のテーマパークの一画で販売したんだけど、あんなところで洋服を売ったって売れる訳がない。
「困ったな〜」と思って、思案して、「そうだ、ガキが多いんだから輪投げ屋やろう!」って、

一作:ハハハハハ(笑)

誠:輪投げ屋で一日20万円!

一作:凄いね!

誠:だって、輪が5本300円で、景品ったって、どうでもいいものばかりだもの(笑)
あれ、子供もだけど、大人も夢中になるんだよ。

ラジオアダン:八ヶ岳では既に勝算がある企画をぶつけた?

一作:でも、八ヶ岳はヒッピーばっかだったからな。
俺等が、あんな上質なラム肉仕入れて焼いて出しても、「お金取るの??」って言うんだから(苦笑)

誠:だから、俺も一作も、どっちも場違いだったんだろうな(笑)

一作:うん、たまたま流れであそこにいただけで、……、まあ“ノーニュークス”には賛同していたけどね。

誠:だから、興味があるとかないとかではなくて、昔は、人の集まるところに行ってみたいって欲求が強くあったんじゃない?
今は、ネットで行かなくても行った錯覚が起きる。でも、実は行ってみないと分からないものなんだよ。だから、今の人達は、口は達者だけど行動力に乏しい。
俺はネットはやらないし、世間とこう、……、なんていうの?……、携わりたくないというか。どうせ何かやることに対して文句言われたりする訳で。
俺も文句を言わないかわりに文句を言われたくない。
人を信用しないと云うと、ネガティブに聞こえるかもしれないけど、自分が見たり聞いたりしたことが一番信用に繋がる。
皆、マスコミに代表されるメディアの操作に惑わされ過ぎなんだよ。
まあ、俺みたいに、65〜6にもなれば、そんなものにいちいち惑わされる時間もないんだけどな(苦笑)

◇◆◇◆◇
 相原誠の摩訶不思議なビジネス感覚に新鮮な驚きを感じたところで、今度は、輝かしきキャリアを誇るミュージックビジネス、ドラマーのスタート地点へと時軸が変わる。
 そして、なんと、あの伝説のバンドの定説を覆す新説がここで唐突にも表出することとなる。
◇◆◇◆◇

ラジオアダン:では、その後、輝かしい実績となるドラマーのキャリアは、上京後からということでいいのでしょうか?
それとも秋田時代に既に叩いていた?

誠:ドラムは上京してから。
昔のバンドマンって一日3回くらい仕事がある訳。
昼間にジャズ喫茶、夜にキャバレーをやって、夜中にサパークラブに行ってさ、青山、六本木、赤坂。そんな感じで楽器を持ってバンドボーイをやる訳。
ギターは簡単なんだ。アンプ持って行って、パァ〜っとセッティングすればいい、でも、ドラマーってのは俺が一人でかかりっきりになる。
そうしている間に、自然とドラムに愛着が湧いてきたんだろうな。組み立てたら叩いたりもするじゃん。

ラジオアダン:今で云うローディーですね。

一作:当時の呼び名は、“ぼうや”だね。
まあ、大体、皆そこから始まる。
今みたいな音楽専門学校なんてないから。

誠:月6000円もらって。
金なんて1円も使わないよ、住み込みだから。落語家の世界と一緒よ。

一作:見よう見真似でしょ。

誠:うん。
でも、バンドボーイやってプロのミュージシャンになれる奴って、そんなにいないよ。
プロになって、いいことやってようが何してようが、現役で生きている奴には絶対負ける。
この前、宇崎(竜童)と話をしていて、彼は他人に沢山曲を書いている訳だよね。要は、曲が自分から離れて行く。
俺なんかは10年前に作った曲を久しぶりに最近歌ったけど、その時の実感として、「曲は歌わないとダメ」ということを強く感じた。
歌わないと曲は成長してゆかないんだ。

一作:投げっぱなしじゃダメ。

誠:うん。
曲を成長させるには、自分も成長しないとバランスが悪くなっちゃう。
(料理が運ばれて来て)おう〜、俺が気になるのはこの器なんだよ。

一作:これ、いいでしょ。

誠:俺も結構面白い器持ってるからさ。

一作:アンティック?

誠:新しいものも。
焼き物って云ったって、ありとあらゆる物があるだろ。そうすると、なんでも欲しくなっちゃう(笑)
分かるでしょ?

一作:うん、分かる。
視点がそっちいっちゃえばね。

誠:そうそう。

一作:「これもいいな〜」、「あれもいいな〜」ってね。

誠:で、今、夢中になってるのが鐘。鳴りもののね。
お寺にあるガァ〜ってのから、家に置ける小さいのまで。そっちはたまにステージで使ったり。
ガァァァァ〜ンって奴は辺りの空気が一変して(急に仏を拝むポーズ)

一同:ガハハハハ(爆笑)

誠:仏教の世界になっちゃうみたいな(笑)
あれも基本、打楽器だから。

ラジオアダン:音楽の話に戻りつつあるので、今日どうしても訊きたかったことを訊かせてください。
キャロルのサードシングル「やりきれない気持ち/ホープ」での名演は有名ですが、キャロルでもライブ演奏をやっていたのでしょうか?

誠:うん、やってるよ。
当時の面白い思い出話で、その頃、赤塚不二夫さんが自分のテレビ番組(『赤塚不二夫の激情NO.1!』)を持っていて、他にも、三上寛ちゃん、中山千夏さんもレギュラーで出ていて、その番組でキャロルが呼ばれたことがあって、30分の番組なんだけどお祭りみたいに大騒ぎで、
(一作にむかって)見たことない?

一作:それ、いつの話?

誠:だからキャロルがデビューした後だか、72〜3年くらい?

一作:テレビがない時代。
俺、お金がなくて(笑)
三上寛さんとは友達?

誠:うん、最近は会ってないけどね。

一作:同い年くらいじゃないの?

誠:一作も知ってるの?

一作:うん。
だって、「新世界」で何度かやってもらってるから。

誠:あっ、そうか。

一作:さっきの話じゃないけど、寛さんが青森で、誠が秋田で、15歳で上京したってことは同じ頃に2人は出て来たんじゃないのかな?

誠:そうそう。
寛ちゃんは結構面白いよね(笑)
おれの新宿のライブハウス(『スモーキン・ブギ』)にも2回程出てもらったことがある。

一作:だって、一人が男鹿半島から。
真冬の男鹿半島なんて凄いよ!俺行ったことないけど(笑)
もう一人は青森の小泊村(こどまりむら)、完全に津軽だよ。

誠:俺のイメージとしては、寛ちゃんはいつも気取って♪窓は〜夜露に濡れて〜♪なんて歌うんだけど、「お前、それ違うだろ!」ってツッコミたくなるんだ(笑)

一作:ハハハハハ(笑)
全然違うもの。

誠:顔と歌詞が。
「自分を小林旭と一緒にするんじゃない!」

一同:ガハハハハ(爆笑)

誠:寛ちゃんは、「こいつ、どっかのお笑いなのかな?」って思う時がある。本人はいたって真面目なんだけどな(笑)
そのギャップこそが、俺、東北の面白さだと思うんだ。
東北人って、友川かずきもそうじゃん、あれも真面目にやってるからさ。

一作:そうそう。
俺の方は全然逆で、山口、瀬戸内だから。
そこにない物が、沢山、東北にはあるんだ。

誠:友川かずきの「生きてるって言ってみろ」って曲は、俺がドラムを叩いてる。あれ、バックがダウンタウンでやってるから。

ラジオアダン:誠さんのダウンタウン時代のドラムの素晴らしさはつとに有名ですけど、キャロル時代の矢沢さんとのリズム隊もボクは大好きで。

誠:ドラム(ユウ岡崎)がパクられて、俺は、キャロルは契約社員みたいなもんだから。
俺、その前まで、アマチュアバンドの仕事で、富山のゴーゴー喫茶に半年くらい行っていたんだ。
で、「そろそろ東京へ帰ろうか」って思って帰って来て、「バンドを作ろう!」ということで、「川崎の方に面白い奴らがいる」って聞いて行ったら、矢沢と内海とジョニーがいて、「今度、バンドをやろうと思うんだけど一緒にやらないか?」と俺が誘った訳。
そしたら、「俺たちも新しいバンドを始めるんだ」ってことで、それがキャロル。ドラムはトムトム(ユウ岡崎)。
それで、トムトムが捕まった時に、ドラムをオーディションで探していたらしいんだけど、俺がたまたま奴らの練習場の近くを歩いていると、「おーい、誠、叩いてくれよ!」って声を掛けられて、一発その場で叩いたの。そしたら、「明日から頼む!」って(笑)

ラジオアダン:それ、今、多方面で書かれている記述を完全に覆す新説ですね!一般的には、ユウさんが活動出来なくなって、プロデューサーのミッキー・カーチスさんが誠さんをメンバーに紹介したとなっています。

誠:いや、ただ、奴らの練習場の近くを俺が歩いていただけだよ(笑)

ラジオアダン:今、日本のロックの歴史が一つ完全に変わりました!(笑)

一作:キャロルもそうだけど、俺が田舎から東京に出て来た時点で既に有名だった人達って凄い年上だと思っていたんだけど、実はあんまり変わらないんだよな(笑)

誠:一作が出て来たのは20歳くらい?

一作:大学で出て来たんだけど、高校を1年ダブってるから19歳の時だね。70年?

誠:俺なんて15から東京にいるから。

一作:うん、だから、さっきこの対談の前に軽く話した団塊の世代と関わりながら来てるよね。

誠:そうそう。

ラジオアダン:宇崎さんもGSの代表的なバンド、ブルーコメッツのスタッフをされていた。

誠:そうそう。
だって、宇崎さんのお姉さんがブルコメの事務所の社長の奥さんだから。
俺、宇崎さんに訊いたことがあるんだ、「その頃、なにやっていたの?」って。
そしたら、「小豆の相場屋やっていた」って(笑)

一同:ガハハハハ(爆笑)

誠:馬鹿野郎(笑)何が、「小豆の相場屋」だ!(笑)

ラジオアダン:ブルコメ以外に松崎しげるさんのマネージャーもされていたとか。

一作:よくそんなこと知ってるね〜。

ラジオアダン:ダウンタウン好きですから。

誠:宇崎竜童は、本名、木村修司っていうんだけど。
ある日、名古屋かどっかで、「殺人犯が今逃げ込んでいます!」とか言ってさ、その犯人の名前が木村修司(笑)

一作:ハハハハハ(笑)

誠:「修ちゃん、聞いた?捕まるぞ!」って(笑)
俺等はいつも、修ちゃん、修ちゃんって彼のこと呼んでいたから。
“嘘つき修ちゃん”。
あの人、当時、嘘ばっかついていたから(笑)
でも、あの嘘っぽさが良かったんじゃないかな。植木等さんのイメージあるじゃない?“無責任男”。ホラ吹いて気分を盛り上げて。

一作:俺は宇崎さんは真面目な人のイメージだけど。
お幾つだっけ?

誠:宇崎さんは俺の七つ上。
だから、今、71か2くらい?
他の3人は同い年。

ラジオアダン:なるほど、フロントマンでコンポーザーの宇崎さんを、若い手練3人が支えるというサウンドプロダクトだったんですね。

誠:当時の宇崎さんにとっては若い奴らの方が多分よかったんじゃない?

ラジオアダン:「スモーキン・ブギ」の演奏をテレビで始めて見た時、「なんでこんな上手な人達が、こんな簡単な曲をやってるんだろう?」って不思議で。
まあ、その後は、多様なリズムも徐々に打ち出してゆくのですが。

誠:ハハハハハ(笑)

一作:まず簡単で分かりやすくしないと売れないと判断していたんじゃないかな?

誠:うん、そういうのもあの人は結構ある。
いい意味で計算高いから、よく見ているよね。
俺も勿論それでいいと思うし。

一作:「皆食わなきゃ」みたいなのがちゃんとあったんじゃないかな?

誠:バンドのユニホームのつなぎは、ダウンタウンに入る前に俺が運送会社で運転手をしていて、その時、仕事着としてつなぎを着ていたの。

一同:ガハハハハ(爆笑)

誠:ある日、ダウンタウンで湘南の海でのライブがあって、「なにかいいユニホームがないかな?」っていう話になって、「俺んちにつなぎがあるから、皆でそれ着て出たらいいんじゃない」って言って、つなぎを着ることになったの。
そしたら、なぜか受けちゃって(笑)

ラジオアダン:ユニホームの効果で、バンドとしてすんなり観客に伝わった?

誠:いや、俺等というより、つなぎが受けた(笑)
だっておかしいじゃん。いい年した男が4人で職工みたいな格好して、エレキ弾いてドラムを叩けば。
その前は、友人がいたファッションメーカー「グラス」から、切り返しパンツとかアロハとかその時期の最新の服を作ってもらって着ていたんだけど、結局は3500円のつなぎのほうが受けた(笑)

一同:ガハハハハ(爆笑)

◇◆◇◆◇
 新説ロック史の、「キャロル篇」の編纂を急がねばと思ったところで、
更に畳み掛けるように、ユースファッションの新説まで飛び出した。
 “ダウンタウン・ブギウギ・バンドの初期スタイリストは相原誠”
 そして、この後、セッションは約束の地、新宿へと大きく舵をとる。
◇◆◇◆◇

ラジオアダン:ところで、新宿はいつくらいから生活、活動のベースとなったんですか?

誠:もう50年くらいにはなろうとしているんじゃないかな?
俺等がライブをやりだした頃は、ライブハウスが、略、新宿にしかない時代だったから。

ラジオアダン:「ACB」、「サンダーバード」、

誠:「サンダーバード」!よく知ってるね(笑)

一作:ちゃんと予習してきたの?

ラジオアダン:マキオズ(カルメン・マキ&OZ)のベースの川上シゲさんを取材した時にいろいろと古いことを教わって(笑)
あと、「開拓地」にもダウンタウンの方達はこられていたとか。

誠:おお、「開拓地」ね(笑)

ラジオアダン:後に新宿で誠さんご自身がお店をやられるようになりますが、その、「DMX」(VELVET OVERHIGH’M d.m.x.) が最初に飲食店経営に乗り出した店ということでいいのでしょうか?

誠:うん。
店もそうだし、大概のことは人ありきなんだよ。
当時、ケンが洗濯屋をやっていて、

一作:洗濯屋、本当にやっていたんだ!?
「俺たちは汚れた世間を洗濯する!」とかなんとか誠が言っていたのは覚えてるけど、本当にやってたんだ(笑)

誠:洗濯屋といっても、一般の客を相手にしてたんじゃなくって、マンションメーカー相手。
だから、洋服を作った後に、糊落しして水洗い。乾燥させて縮まったものをきれいにたたんで納品する。
その頃、知り合ったある友達が、「まこっちゃん、かっこいいロックバーをやりたいんだけど」なんて言ってきて、「おお、じゃ〜、俺が店長やるよ」って感じで「DMX」を始めた。だから最初は別のオーナーがいたんだ。
で、1年経つか経たないかで、そのオーナーの友達が不渡り出して、彼が保証人になっていた都合上、「まこっちゃん、この店を買ってくれ」っていうんだよ。
で、「うん、分かった、いいよ、買うよ」ってことで、俺がオーナーとして経営してゆくようになった。

一作:それが90年かそのちょっと前だよね?88年の「いのちの祭」後だもんね。

誠:来年かな?丁度30周年が。

一作:そうだよな。
丁度「Cay」やってた頃で、誠がよく来てはさ、

誠:バカな連中を、皆、俺が車に乗っけてさ。あの頃、バカばっかりだったよな?(笑)

一作:うん(笑)
あの頃、「店やろうかと思うんだ」なんて話していた。

誠:Cayは30……、

一作:36年くらいになるのかな?

誠:思えば、高樹町の「クーリー(ズ・クリーク)」で、もう一作のことは知ってたよな。
だって、クーリーでライブやったことがあるもの。

一作:そうだ、そうだよ。

誠:あのライブ、凄いおかしいの(笑)
ベースの奴がシャブ中で(笑)
♪逃げたか〜 逃げたか〜 やばいよ〜♪
なんてやってたら、いきなりおまわりが、

一作:そうそう(笑)おまわりが2人後ろから(笑)
よく来てたの、あの頃、おまわりが。

誠:「やばい!!」なんて叫んで、楽器を投げてベースの奴が逃げちゃって!(笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)
タイジが歌ってなかったっけ?
広島出身で、「タクシードライバー」のロバート・デ・ニーロのモヒカンの真似してた奴(笑)

誠:そうそうそう(笑)
西麻布を拠点にうろうろしてた仲間。

一作:そのライブの時に、カウンターの俺の前で文句を言っていたのが大口広司(笑)

誠:広司ね。
広司は俺より1こ上か?

一作:GSからだからね。

誠:キャロルにいた時に、赤坂の「ムゲン」でライブがあって、客席を見ると、結構、有名人が来ていて、俺がガキの頃見ていた、「おお、テンプターズが来てるじゃん」なんて思ったのが広司(笑)

一作:中学校の頃の「ヤング720」だろ?(笑)

誠:うん。
で、ライブが終わって俺たちのところに広司がネッカチーフかなんか巻いて来て、「お前等かっこいいね〜」かなんか言って(笑)
目も見ないで。「照れ屋なのかな?」なんて思ったりして。

一作:へ〜(笑)
それ前も聞いたけど、いい話だね。
そう、不良って結構照れ屋が多い。
でも、俺は広司は好きだったな。

誠:うん、よく知ってるみたいだもんな。

一作:最初の結婚の時はクーリーでパーティーやって、広司も来てくれて、黙って目も見ずに、「おい」ってプレゼントをくれる訳よ。
ああいうとこかっこいいよな(笑)
そういえば、タイジ、ニューウェーブクラブの「クライマックス」で、ポリスの格好してドアマンやっていたよな。

ラジオアダン:僕も「クライマックス」にはよく行ってましたが、そうでしたっけ?
バンドマンだとARBの方達が来ていたのを覚えてます。

誠:ARBって、うちのかみさん(古家杏子)のマネージメントをやっていた人が社長で、「誠、今度、九州からこういうバンドが来るんだけど、どう思う?」なんてデモテープ聴かされて。
その頃は5人編成のバンドで、「ダメだ!このバンドは売れないよ!」って俺(笑)
でも、長いことやっていたらいい感じのバンドになったよな。
なんでもそうだけど、長く続けるってのは難しい、喧嘩したり行き違いがあったり(苦笑)

◇◆◇◆◇
 店の経営と平行し、ミュージシャン活動も途切れることなく継続してきた相原誠に、大きな転機が55歳の時に訪れる。
 なんと、相原誠は、スティックをギターに持ち変え、自作の歌を歌い始めたのだ。
 果たして、名ドラマーとの称号をかなぐり捨て、新進気鋭のシンガーソングライターに転身したその真意とは?
◇◆◇◆◇

ラジオアダン:昨今、ドラマー相原誠より、シンガーソングライターとしての誠さんを見る機会が増えていますが、

誠:俺の場合、55歳から歌い始めたから、惚れたはれたは省いている訳だよな。
通り過ぎて行ったものはいらないだろ。“これからどうやって生きるか?”というところだから。

ラジオアダン:自分の老いすら見せる。

誠:そうそう。
そこを、昨今の他人の楽曲を聴いていると、ビジネスにならないからか?大人は避けて通る。「その詩は暗いよ、受けないよ」と。
でも、そうじゃないと俺は思う。本当のことを俺は聞きたいし言いたい。
その辺、今の政治とよく似てるよ、上っ面ばかり言って。もっと本質に触れなきゃダメ、どこかで解禁しないと。
だから、皆が本質に気付かない。
インディーズでやっている奴らの方が、当然、ストレートにものが言える訳で、それを大小関係なくいろんな媒体に訴えかけてゆくことでシーンを少しはいい方向に変えられると思う。
今、曲を書いて、詩を書くと、結局、どこまでいってもテーマは“生きる”ということになる。結局、それしかないんだから。
その“生きる”を、どう、焼いたり煮たり、刺身にしたり、天ぷらで揚げてみたりさ。
だってそうでしょ?言葉って皆自由に使っていい訳だから。

一作:(唐突に)働くの好きでしょ?
肉体労働好きでしょ?

誠:ハハハハハ(笑)

一作:大体そういうことやってるよね?

誠:そうだね。

一作:俺、出来ないもの。

誠:(突然)俺の夢はね、今、バンドは3人でやってるけど、オーケストラをやりたいの。いわゆるコンダクターをやりたい。
昔のトム・ジョーンズとかああいうクラブ的なオーケストラ。

ラジオアダン:ビックバンド的な?

誠:うん。
♪パァー!パァー!♪ってブラスが効いていて。
そういう場所自体も今はないもんね。
やっぱり、ラッパっていいよ。

◇◆◇◆◇
 シンガーソングライターへの転身という、大きな軌道の変更などどこ吹く風でこの山場なブロックを乗り越え、相原誠は更なる音楽の領域を夢想する。
 筆者は、以前からその過剰にポジティブな性格は知っているとはいえ、改めて、この男の探究心、好奇心にはほとほと頭が下がる。
 そして、その過度な遊び心はセッションの行く先までも刺激し、更なる迷路に突入する。
 次のテーマは“食”だ。
◇◆◇◆◇

誠:(旬の魚、キジハタを食しながら)こうやって他人に作ってもらって食べるって楽だね(しみじみと)

一作:料理はどこで覚えたの?

誠:自己流(あっさりと)

一作:恵比寿「にんにくや」のエイちゃん(遠藤栄行)みたいなもんだね。エイちゃんも一種の天才だからさ。
元々、レーサーで、やっぱり料理が好きでさ。

誠:料理って何か?って云ったら、舌なんだよ。
自分でパッと食べて、もう、一瞬の判断。
「これ、甘い」とか、「辛い」とか、「しょっぱい」とか。それが瞬時で判断出来るかどうかだけなんだ。
そうやっていろいろ作ってゆくと、「塩加減が」ってところまで達して、「これ、どの塩使ってるんだろう?」と。「塩をちゃんと炙ってるのかな?」とそこまで深く追求出来るようになる。

一作:「DMX」ではずっと料理しているの?
メニュー、自分で作って?

誠:前はずっとやっていたけど、あの手の飲み屋はダメ。基本、酒と音楽だけだから。
お通し出したって食わないもの。それだと俺が作る意味がない。

一作:それでラーメン屋をやった?

誠:いや、その前に、「DMX」の前で焼き鳥焼いていたら、おまわりが来て、

一作:ガハハハハ(笑)
その辺の引きが凄いよね(笑)

誠:誰かがチクッたんじゃないの?「煙い」とかなんとか。
おまわりが、「ここから出ちゃダメです!」って!
ハハハハハ(笑)

一同:ガハハハハ(爆笑)

一作:いつもおまわりが来るところが最高だね(笑)

誠:何か発信するものを付けられているんじゃないの(笑)
ワッペンかなんか(笑)

◇◆◇◆◇
 さて、セッションもいよいよ終盤。
 当然、残されたパーツである古物商に話は及ばない訳がない。
 広域な誠ワールドをザックリなぞったあと、セッションは、相原誠の現在地、“生きる”を体現する創作秘話の地平を一周見渡し、数多の色彩に彩られた今宵のトークジャムも、一旦、聴き慣れた冒頭のメインテーマへゆったり戻る。
◇◆◇◆◇

一作:世の中に大フューチャーされて自分が分からなくなってしまう人が多々いる中で、リアルなストリートに戻れるところが誠のかっこいいところだと思うんだ。

誠:一番困るのはレッテルを貼られること。
人間ってのは思い込みの生き物だから、思い込んだらそのまま真っすぐで。

一作:俺に電話してきて、平気で「ラーメン屋始めたんだけど難しいんだよな」なんて内情を話しちゃうところなんて真骨頂だよね。
で、何が難しかったの?

誠:もうそれはいいの。逆に言うと、他人に成長の度合いを見せたくて生きている訳じゃないから。
といいながらも、いいところを他人に見せたいのも世の常じゃん。「あいつはいい奴だったな〜」なんて。
皆、仏になると、「いい奴だったな〜」っていわれる訳だけど(苦笑)果たして、「そうなのかな?」ってさ。
「バカ野郎!あいつはろくでもね〜奴じゃん」って。
俺そっちの方がいいと思うよ。
(急に何を思ったか)夫婦ってのは、俺の場合、1回離れてまた一緒に暮らしているけど、続けてゆくことの大切さって凄いことだよね(しみじみと)

ラジオアダン:続けると云えば、ライブハウスの「スモーキン・ブギ」もオープンしてかなりの年月が経ちました。

誠:13年。

一作:「DMX」30年と「スモーキン・ブギ」が13年。
素晴らしいね。
俺も店を経営してるから分かるけど、ホント大変だから。
それと平行して、自分でバンドやったり、古物商やったりしてるのも感心する。骨董は未だにはまっているんでしょ?

誠:1個1個自分で買い集めてきたものは、細かいことまで全部詳細が分かるからね。

一作:とりあえず、自分でやってみないと気が済まないんだね。

誠:そう。
一作も一緒でしょ?

一作:俺は引いて見るところが多々あるから。
誠は自分でまずやってみるタイプだね。そこが素晴らしい。

誠:古物商なんてバンドの世界とまったく関係ないコミュニティーな訳じゃん。思い切り言っちゃえばヤクザの世界だから。

一作:いいじゃん。本物じゃん(笑)

誠:ハハハハハ(笑)
オークションだから、一日、市場では何千万の金が動く。
だから、物が1万円になるか、3万円になるか、はたまた10万円になるかなんてかけないと分からない。
俺が行く時は、大体100人くらいの同業のバイヤーが来る。

一作:バイヤーって免許がいるの?

誠:必要。
俺は持っているから、古物商の。

一作:それは勉強する訳?

誠:いまさら何言ってるの?俺、プロだよ(笑)
(おもむろに免許書を出す)

一作:ハハハハハ(笑)
(誠から免許書を渡され)これ凄いね。

誠:これ、今は警察じゃなくて法務省の管轄なんだ。
犯罪者は持てないから(笑)

一同:ガハハハハ(爆笑)

一作:これいいね。

誠:取った方がいいよ。2万円で簡単に取れるから。
最初に警察に行って、「法務省へ行きなさい」って書類を渡されるから、それ書いて法務省へ、

一作:試験とかないの?

誠:試験はない。

一作:じゃあ、なった後に、目を養うことの方が大変ってことだ。

誠:その道の先輩に連れて行ってもらって、黙って見てると、だんだん、「この皿幾らだな」って分かるようになる。

一作:そうなの?

誠:なるよ。

ラジオアダン:そういう感じでシンガーソングライターも55歳から新たに始めたんですね。

誠:残り少ない時間の中で、自分が、

一作:残り少ないの?

誠:106までちゃんと生きるけど。

一作:あと40年もある(笑)

誠:昔みたいに8時間の練習なんて出来ないって。せいぜいいいとこ15分かな?(笑)
なんでもそうだけど、記憶力だから。ギターのコード、スケールをどうやって覚えるか?もう弾くところは決まってるんだから。
例の天才将棋少年みたいに、勝敗の最後までギターでもストーリーを作れる。1小節ごとに事前に全部分かるから。
でも、それだけじゃ面白くなくて、もっと突発的なものも取り入れたい。
男と女の恋愛もそうじゃない。突発的に後ろから、はたまた斜めから(笑)

一作:ハハハハハ(笑)
それめんどくさくない?

誠:そのめんどくささがおもしろいんじゃん(笑)

一作:ハハハハハ(笑)

誠:自分で詩を書いていて、何が面白いかっていうと、いろんな言葉をピックアップしてとりあえず書く。それを、どんどんどんどん削って研ぎすます。
で、もうこれ以上削るところはないってところまで至った後に、再度読み直すと、こう思うんだよ、「未完成のままでいい、完成させる必要なんてない。全てはライブなんだから」って。
基本の骨格はあるんだけど、今は生で変えながら歌う方が楽しいし、一人で弾き語りの時はもう、落語みたいな感じ。

一作:「新世界」での誠のバンド、仙人ミラーなんて、俺はグレードフル・デットみたいな、言葉と音のある種のジャム性を感じたよ。
じゃ、更なる106歳までの進化を祝い本日はお開きとしようか。
今日は忙しい中ありがとう!

誠:こちらこそ、ごちそうさま!
またゆっくり会いましょう!

◇ ◆◇◆◇
 物への大いなるこだわりは、多くの言葉を相原誠の頭脳、身体にイコンとして刻み込み、彼はそれを詩へと昇華させる。
 しかし、生粋のライブ人間であるこの男は、そんなこじんまりした創作では到底満足がゆかない。出来上がったものに生命を吹く込むために作ったものを壊しに壊す。
 その理由は、予想可能な人生なんて、生きる意味がないからだ。
 アスファルトと云う名のワイルドサイドに決まった道筋などあるはずもなく、行き着いた先の約束の地がどこにあるのかなど到底予想がつくはずもない。
 だって、人生の殆どの出来事は、酔っぱらいが酒場で夢想したことを、神様が空模様に沿って暇つぶしにチョイスしているだけなのだから。

 とぅ・びー・こんてぃにゅーど

@泉岳寺「アダン」

テキスト、進行:エンドウソウメイ
写真:上出優之利

●今回のゲスト


相原誠/プロフィール
ドラマー、シンガー。キャロル、ダウンタウン・ブギウギ・バンドを経て、自身のバンドJABB、SUCKING ROUGE などで活動の傍ら、ARB、原田芳雄、他多数のサポートで活躍。2003年にはイベント“dmx in YAON“をプロデュース(出演::ダウンタウン・ブギウギ・バンド、頭脳警察、ARB、CRAZY KEN BAND、THE STREET BEATS、JAMES、MIRROR)
現在、MIRROR改め仙人ミラー、THE〆鯖、ソロで意欲的に活動中。
今もなお、反骨、ハングリー、進取の精神を抱く相原誠は、世代やジャンルを超え、新たなステージへと挑み続ける。
上記、音楽活動の他、新宿の老舗ロックバー「VELVET OVERHIGH’M d.m.x.」、ライブハウス「スモーキン・ブギ」のオーナーとしてもその名を知られる。


河内一作/
山口県生まれ
八十年代から霞町クーリーズクリーク、青山カイなど常に時代を象徴するバー、レストランの立ち上げに参加。九十年代、仕事を辞め世捨て人となる。
六年間の放浪生活の後社会復帰し、アダン、青山タヒチ、白金クーリーズクリーク、音楽実験室新世界、奥渋バー希望、南洋ギャラリー、など手がける。お楽しみはまだこれからだ。

黄昏ミュージックvol.15 晴海埠頭/古家杏子

 先日、このメディアの「酔談」という、グループオーナー河内一作の対談連載で、久方ぶりに、元ダウンタウン・ブギウギ・バンドの名ドラマー、相原誠氏にお会いした。
 筆者が誠氏と知り合ったのは90年中盤のゴールデン街「カボシャール」と記憶している。
 この初対面の時、確か来日中であったレジェンドドラマー、バーナード・パーディーに関し、適切な解説を筆者に直接してくれたことで、ダウンタウンの演奏力の高さを再確認した次第だ。
 で、今回取り上げる、Jオールドスクール・ラッパーの故ECDのコラムで再評価の気運が高まった「晴海埠頭/古家杏子」だが、参加ミュージシャンに元ダウンタウンのキーボディスト、千野秀一がクレジットに記されている以外、誠氏との接点が見つからない。
 こんな、長い“まくら”に、セレクションの疑問を持つ貴兄も多数いることだろう。
 実は、先日の対談中に、誠氏が面白いことを語り出したのだ。
 「最近、うちのかみさんのCDが急に人気が出て来て、バカな友達から、『金が儲かっていいよな』なんて電話がかかってくるんだよ。売れようがどうしようが俺には全然関係ないし、金も入る訳じゃないのにさ(笑)」
 そう、ECDも“謎”としていた、シンガーソングライター、古家杏子とは、なんと、相原誠夫人なのであった。
(因に筆者は、彼女のユニットのライブの立ち会いをしていて、歌はもとよりピアノの演奏が非常に上手であったことをよく覚えている)
 サイケなSEから始まる急展開のシティーポップス。シティーに似ても似つかないいなたいドラムの音色。正に、“幻惑の東京”黄昏ソングど真ん中の楽曲である。(se)

黄昏ミュージックvol.14 First Killing/Massive Attack(『天使の涙/O.S.T.』)

 90年代中後期は、優れたアジア映画が多数誕生し、我国でもそれら作品群がメディアの話題をさらった。
 中でも筆者は、「天使の涙」に代表されるウォン・カーウァイ作品に夢中になり、舞台となった重慶大厦(チョンキンマンション)を一目見ようと、香港旅行まで決行する熱の入れようだった。
 しかしその後、人生二度目のアジア熱は急激に下がり、スクリーン上も、アジアの混沌から、我国発のアニメーションの精神的カオスに興味は移行していった。
 そんな遍歴すら忘れていた昨年末、突発的にベトナム旅行の話が持ち上がった。
 ベトナム。「青いパパイヤの香り」、「シクロ」と、正にスクリーン上でしか知らない国である。
 やがて年が明け、本年2月中旬に実際に行ったベトナム/ホーチミン市は、フランス文化&アメリカ文化が自国の伝統と絶妙に溶け合った希有な文化体系を有し、特に、デザイン、アート、工芸などには見るべきものが多い街だった。
 しかし、事、音に関しては、表層の大らかな社会主義同様、町に流れる音楽はマナーすら怪しいハウスミュージック的なるものが最新であり、筆者はある種の統制を感じずにはいられなかった。(濃いめのアンダーグラウンドシーンにはクラブミュージックも実際は存在するらしい)
 そんな旅の中で一番再確認した事象は、“アジア=カオス”。これに全てが集約される。アジアは未だカオスだ。
 そんなアジアのカオスとイメージが完全合致した秀作、前述、「『天使の涙』O.S.T.」での、マッシブ・アタック「First Killing」(マッシブアタック盤ではタイトル『Karmacoma』)を、今回の黄昏ミュージックとさせてもらう。
 このドープなダブサウンドこそアジアカオスのソニック・イコンだ。(se)

黄昏ミュージック番外編2 Chage Your Life/Rip Rig + Panic 他

 80年代後半に「東京ソイソース」というレジェンダリーな音楽イベントがあった。
 主要バンドは、当時世界基準の最新のグルーブ、ダンスミュージックを標榜した、ミュートビート、じゃがたら、s-ken&ホットボンボンズ、トマトスという4バンド。そんな強い個性を持つそれぞれが奇跡的に集結し、幕間では黎明期の東京のナイトシーンを代表するターンテーブル使用のユニットがDJタイムとして場を盛り上げるという、過去ない先鋭的イベントであった。
 そんな、ミュートビートとホットボンボンズのフロントマン(こだま和文、s-ken両氏)を囲む夕べが1週間にそれぞれ「おふく」で行われ、筆者は全責任選曲を担うこととなった。嬉しい事である。
 それぞれありがたいことに、プライベート、取材と多くのロゴスを頂いたお二人であるので、かなり細かい部分での選曲をさせて頂いた中、かくかくの1ブロックをここで録って出ししてしまおう。
s-ken氏は今、プロデュース真っ最中の女性5人のオルタナティブ・ファンクバンド、ビンバンブーンの音楽性を基盤にした選曲部分。(上記プレイリスト参照※この日、ビンバンブーンのメンバーが一番反応していたのは『Theme de yoyo/Art Ensemble Of Chicago』)
 一方、ダブマエストロ、こだま和文氏は、実は愛して止まない、70’s米日女性シンガーソングライター的側面の1ブロックで。※下記(この日、一番、氏が反応したのは『Tendly (Sax Version)/Roland Alphonso Meets Good Baites With Pianica Maeda』。『このトラックは今後、スタンダードに確実に成り得るね、やはり素晴らしい』と仰っておりました)

 こんな遊びの場に於いても、お二人の幅広く研ぎすまされた創造性を感じずにはいられなく、やはり、サディスティック・ミカ・バンド、ティン・パン・アレー以降、日本人としての自前のグルーブを推進したのは、前述4バンドと言い切ってよいとまたしても再確認する次第である(あとボ・ガンボスもね)
(se)