黄昏ミュージックvol.28 ダンス・ミー・トゥ・ザ・エンド・オブ・ラブ/レナード・コーエン

 先日、「バー黄昏」終わりの帰りの電車で週刊新潮の中刷りに目がゆき筆者はとある事象を知ることとなった。
 なんでも、草刈正雄(66)が人生何度目かの役者としての絶頂期を迎えているらしい。
 超高齢化社会を迎える我国に置いて、老いをポジティブに演出することは今後重要な価値基準となるだろう。特に女性に比べ、なにかとネガティブになりやすい男性の性(さが)もあり、このような初老ヒーローを無理矢理にでも今後メディアは誕生させることだろう。
 そんな時代に於いて、筆者の憧れの老い方を体現したのがカナダ出身の、詩人、歌手、レナード・コーエン。
 2016年惜しまれてこの世を去ったが、82歳最後の作品となった『ユー・ウォンツ・イッツ・ダーカー』の中でさえ、そのダンディズムに衰えはなかった。
 そんなコーエンの色気溢れる哀愁をよく表した84年のヒットチューン『ダンス・ミー・トゥ・ザ・エンド・オブ・ラブ』を今回の黄昏ミュージックとさせてもらう。
 マヌーシュ・ジャズを彷彿させるバイオリンを大きくフューシャーしたジェニファー・ウォーンズとのディエット曲。むせび泣くその声紋はかのセルジュ・ゲインズブールをも凌駕すると敢えてここでは言い切ってしまおう。もしシネマティックな曲というカテゴリーがあるのなら、正にこのナンバーのために作られたジャンルいってもいいだろう。
 無理と分かりながらもつい指標にしてしまう稀人こそレナード・コーエンその人なのである(se)

黄昏ミュージックvol.27 オクトーバー・イン・ザ・レイルロード・アース/ジャック・ケルアック & スティーブ・アレン

 晩春にとあるイベントでDJをすることとなり、昨今、ポエトリーリーディングやダブポエット、スポークンワード系の音源掘りを時間が出来るとやっている。要はその手のアーティストを大勢集めたイベントからのオファーということである。
 筆者がDJをする時にいつも意識するのは、“ジャンルレスである”ということ。1ジャンルの重箱の隅をつつくようなことが窮屈でたまらない性分なのだ。
 だから、近頃、皆がよくやる、「○○しばり」なんて企画には絶対に参加しない(苦笑)
 さて、そんな経緯でとある黄昏ミュージックに行き着いた。アーティストはポエトリーリーディング第一世代と云ってもいいビートニクのトップランナー、ジャック・ケルアック。
 作家にしては比較的音源を多く残している人ではあるが、3枚の作品をまとめたこの音源は非常にお買い得且つ便利な1枚だ。
 ケルアックのリーディングに並走するのは、この時代らしく主にジャズミュージシャン達で、本作はジャズピアニストと呼ぶにはあまりに多くの顔をもつ元祖マルチタレント、スティーブ・アレンがリリカルなピアノのトーンでケルアックの声紋に潜む湿りを更に引き立たせ極上の音世界に作り上げている。
 〜50年代、夕暮れ時のニューヨークの裏通り、売れない詩人が自室でサンフランシスコを回想したリーディングをしている。同じアパートメントからはこちらも売れないピアニストが半分諦め気分で鍵盤をつま弾いている。やがて夕日が落ち、夜の帳が下がる頃にはその安アパートは無音となり、2人はダウンタウンに憂さ晴らしに出かける。そう、いつもの乱次期騒ぎの始まりだ〜(se)

「連載対談/『酔談』Second Season vol.1」ゲスト:三上敏視氏 ホスト:河内一作 

 “酔談”。見ての通り、酔って語らうこと。当然、造語である
。
 酔っているがゆえの無軌道さ、無責任さ、大胆さ、自由さをそのまま気取らず飾らず実況する、それが「対談連載/酔談」の全てである。
 
 アダングループ代表、河内一作が東京の夜のフロントラインに初めて立った、1981年の「クーリーズクリーク」から現在に至るまで、彼が関わった店が、単なる飲食店におさまらず“自由なステージ”としての酒場の背景を演出出来えた“要”ともいえる大切な友人達を毎回招き、テーマなしのゼロベースから美味しい酒と肴の力を借りつつ今の想いを語り尽くすトークラリー。
 さて、暫しの小休止の後、いよいよセカンドシーズンに突入する今回第10回目のゲストは、音楽家、そして、現在では神楽・伝承音楽研究家として名高い三上敏視氏(以下敬称略)にご登場願った。
 冒頭から、一作自身も南洋にて深くフィールドワークに勤しんだアニミズムに潜む、音楽、芸能の話題にゆくかと思えば、意外な方向から酔いどれセッションは始まった。
 三上自身の音楽性の基礎を作り、且つその後の活動の礎ともなった札幌ロックシーン。
 三上だからこそ知る、トマトス、ピチカート・ファイブ、ROVO等の先鋭的アーティスト達を輩出した北のシーンのリアルな裏話はもとより、“ロック〜ワールドミュージック〜民族音楽”と連なる遥かなる黄金のタイムラインが今我々の目の前に立ち現れる。
◇◆◇◆◇

河内一作(以下一作):神楽研究家としての三上さんが、昨今、世間的には認知されている訳だけど、元々は、欧米やその周辺のロック、ポピュラーミュージック全般も詳しかったんだよね?

三上敏視(以下三上):そうなるんでしょうね。
若い時から、札幌の、和田(博巳)さん(ex.はちみつぱい)や、(松竹谷)清(ex.トマトス)の店に入り浸っていましたから。

一作:それは札幌市内にある店なの?
じゃ〜、都会の青年だね(笑)

三上:いや、札幌には自分の意志で東京から流れて行ったんです。
80年代に入ってからは、渡辺祐さんがいた頃の『宝島』に札幌の音楽シーンの情報を送ることもしたり(笑)

一作:80年代といえば音楽シーンが劇的に変わっていった時期だよね。

三上:宝島の中身?
サブカルと云うか、まだ、皆で、「面白いことやろうよ!」って頃で。

一作:へ〜。おれ、札幌は1回しか行ったことがなくて、全然その辺のシーンは知らないんだけど。それ何年くらいの話なの?

三上:ぼくが札幌に流れて行ったのが78年で、そのちょっと前に、東京から帰郷された和田さんが「和田珈琲店」という店を始められていて、かなりレアな音源を日常的にかけていたんです。
その、和田さんの人脈の中から、「トムズ・キャビン」の麻田(浩)さんに繋がって、麻田さんが日本に招聘するミュージシャンを、札幌のロック喫茶、ロック飲み屋の有志が集まって、「十店満点」って名乗っていたんですけど。皆で北海道に呼んで、全員で少しずつ赤字を補塡して(笑)トム・ウェイツも呼んだりしていたんですよ。

一作:そうか、トム・ウェイツの初来日はその頃か。北海道公演やったっけ?

三上:やりましたよ。ぼくが北海道に行く前だから77年ですね。

ラジオアダン:お話の腰を折って恐縮ですが、三上さんのご出身はどちらなんですか?

三上:ぼくは愛知県生まれの三鷹育ち。 

ラジオアダン:こう、旅と云うか、北へ北へと?(笑)

三上:いや、たまたま札幌でバンドをやっている友人がなぜか増えて、「面白そうだな」って思って。
だったら、「札幌で仲間に入れてもらおうかな」って思って、入れてもらって(笑)

ラジオアダン:北海道行きは学業とは全然リンクせずに?

三上:うん、大学が終わってからですから。札幌のロック喫茶でバイトして。

ラジオアダン:清さんも札幌時代はライブハウスのスタッフをされていたとか?

三上:うん、ライブハウスの「神経質な鶏」ってところでバイトしていた。でも、「『〜鶏』だけじゃ食べて行けないから」って蕎麦屋の出前とダブルで働いていたんじゃなかったかな?

一作:へぇ〜、そんな活発なシーンが北にあったんだね。

ラジオアダン:音楽に関しての博識と云えば、小西(康陽)さんもいらっしゃいますものね。

三上:うん、小西くんも和田さんの店に高校生の頃から出入りしたいたくちだから。

一作:そのシーンは78〜80年くらいが隆盛だった?

三上:うむぅ〜……、盛り上がり始めたのが76年くらいで、夏に野外コンサートをやったりして、東京から、(久保田麻琴と)夕焼け(楽団)が来たり、細野(晴臣)さん、ムーンライダーズも来たり、オレンジカウンティも来たのかな?
だから、北海道って、結構、早い段階から東京のバンドと交流があった訳です。
で、そのうち、パンク、ニューウェーブに火が付くと、東京ロッカーズ関連のバンド、s-ken等皆来だして、

ラジオアダン:そうそう、以前、s-kenさんが、「清との初対面は札幌だった」と仰っていました。

一作:三上さんは、なぜ音楽シーンが急激にニューウェーブに移行していったと思いますか?

三上:どうなんでしょうね?……、ぼくの実体験で言うと、札幌にニューウェーブの情報が入って来た時、「余計なものが付いてない」と云うか、綺麗なままで入ってきたから飛びついたのかもしれない。

一作:要するに、フォークからスライドしたニューミュージックと、オールドスクールなロックから移行したニューウェーブと云う流れが同時にあるじゃない。

三上:うん。札幌も御託に漏れず、元々はブルースバンドをやっていたりカントリーロック等を志向したバンドが多かった。その中から、ニューウェーブが入ってきた時に転向したり。ぼくも大まかに云えばそっちのくちだし。

一作:皆、あの時飛びついたでしょ?

三上:うん。和田さんがまず飛びついたしね。それで和田さんとニューウェーブを志向したバンド(QUOTATIONS)を一緒に始めて。

一作:重複するけど、それまでのロックバンドってブルースやカントリー等ルーツに根ざしていたんだけど、ニューウェーブ以降、全く違うシーンが出来上がった訳じゃん。テクノしかり。

三上:ええ、一作さんの言いたいことはよく分かります。
とはいえ、イギリスでも、パンク、ニューウェーブ志向のミュージシャンで、元々はベースに古いルーツミュージックを抱えている人が多々いましたね。


三上敏視氏

一作:それってどう云う構図なんだろう?
日本のロックシーンに置き換えると、……、例えば、内田裕也さん系?に対するカウンター意識とかはあったんだろうか?

三上:ぼく自身は特にはなかった、……、それより、「世界が違う」と言った方が適切かな?
一つの側面として、札幌のハードロック系のバンドの殆どは東京に行ってしまいました。で、彼等はメジャーに行けなくても職業ミュージシャンとして東京でやっていた。
一方、カントリー等から移行したニューウェーブ系ミュージシャンは、一部の東京志向が強い人達を除いて地元密着型が多かったです。でも、パンク・ニューウェーブからバンド始めた若者の方が多かったんじゃないかな。

一作:ニューウェーブの人達ってわりとインテリジェンスを持った人が多かったじゃないですか。

三上:そうですね。

一作:海外生活を経験していて語学が達者だとか、

三上:あと、アート系の人達とか。

一作:やっぱり、一言で云ってそっちの方が格好良かったんだろうね。

三上:うん。ファッションも間近で並走していたし。

一作:うん。それも大きい。それで、がぁ〜と流れていったんだろうね。
三上さんもロンドンからの流れに感化されたの?

三上:ロンドン、……、も、ですけど、結構、ぼくら、フリクションにショックを受けて。清なんかも、「すげぇ〜〜!!」みたいな感じで(笑)フリクションの源流はニューヨーク・パンクですものね。

一作:話がトム・ウェイツ戻るけど、俺のバイブルで『Mr.トム・ウェイツ』(城山隆著)って本があって。古本屋で買ったやつ。
おれ大体、執筆する時に、ネタ元って云うか?インスピレーションをもらったりしていて(笑)

三上:前述した彼の札幌公演で面白い逸話があって。77年の時点で、音楽マニア層が好むトム・ウェイツを北海道に呼ぶのはやはり結構なリスクなので、少しでも赤字を減らすために、公演後に有料の打ち上げ会を企画して沢山人を呼んだんです。話が多少膨らんでいる可能性もあるけど200人もの動員があったとか。

一作:ガハハハハ(笑)
成る程。その気持ちよく分かるよ(笑)

三上:で、来ている人達が、トムに向かって口々に、「良かった!」、「良かった」ってパフォーマンスを賞賛してお酒を勧めるんですけど、実はトムはあまりお酒が飲めない人で只々困っていたと。ガハハハハ(爆笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)
へぇ〜、意外だね。その頃はまだ飲めなかったんだ?

三上:いや、基本、飲まない人みたいですよ。
飲む雰囲気を醸し出すわりには。

一作:ライブの時、飲みながらやってない?あれ、水なの?

三上:……、じゃないかな?麻田さんが、「トムはあまり飲めない」って言ってましたから。


河内一作

◇◆◇◆◇
 自身のアンテナを只々信じ、首都東京から敢えて北の大地に萌芽した自由な空気に身を任せた若き日の三上。
 緩やかでありながらも刺激的な日々が過ぎてゆく中、いつしか音楽シーンに名を残す名伯楽、和田博巳と通じ、ニューウェーブ系バンド、QUOTATIONSを結成。それを境に彼を再び東京へと引き戻す強い磁力と遭遇する。
 その磁力の発信源は誰あろう、我が国が誇るリアル音楽王、細野晴臣!?
◇◆◇◆◇

一作:で、今はどこ在住なんですか?

三上:今は世田谷。北海道にも1部屋ありますけど、あまり帰ってないですね(笑)

一作:本格的に東京にカンバックしたのはいつだったの?

三上:それがねぇ〜、……、はっきりしないんです(苦笑)
東京に再度来るようになったばかりの頃は、あっちこっち転々と居候させてもらって、

一作:(敢えて唐突に)ヒッピーだったの?

三上:ヒッピーではない(笑)

一作:じゃあフーテンだった?
おれはヒッピーとフーテンを分けてるの。

三上:ハハハハハ(笑)
どっちかって云ったらヒッピーかな?

一作:おれの言うその辺の区分けのニュアンスって分かりますか?

三上:うん、なんとなく(笑)

一作:じゃあ、基本ナチュラル系で、人為的な方にはいかなかった?

三上:そうですね。

一作:それじゃ、おれの考えの中でもヒッピーってことになりますね(笑)

三上:ハハハハハ(笑)
ちゃんと東京に住むようになったのは5〜6年前ですかね。

一作:成る程。行き来していた頃はバンド活動が主で?

三上:バンドは、……、細野さんの東京シャイネスはやっていて、始動が2005年からだから当初は札幌に半分以上いた感じですね。東京にいる時は前述したように居候して(笑)

一作:2005年かぁ〜、あれも結構前になるんだね。

三上:うん。

一作:おれが、その辺の細野さんの活動をライブで見たのは「おひらき祭り」が最初でしたね。

三上:おひらき祭りは、……、97年から始まって11〜2年続いたのかな。

一作:おれが見たのは2001年だったと思うんだけど。
サンディーの絡みで見に行ったら、いきなり、細野さんが、“環太平洋モンゴロイド・ユニット”って。あれ凄いよね(笑)

三上:サンディーが出演したのは2000年じゃなかったかな?

一作:そうか、2000年か。
あのユニットはおひらき祭りのために作ったの?

三上:そうですね。奉納演奏バンドとして。

一作:正にそうだった。

三上:最初は、細野さんが笛の雲龍さんと2人でお寺等で始めたんです。それで、だんだん人が増えていって、95年の阪神淡路大震災の後に神戸で、横尾(忠則)さんと細野さんのお二人のお名前を全面に出して、「アートパワー展」というのを5日間やった。
その時の演奏は毎日日替わりでゲストが参加して、(忌野)清志郎さんとか、高野(寛)くんとか、それこそイラストレーターの沢田としきさんも参加したりして。
そこでの細野さんグループの大所帯での演奏が、まあ、モンゴロイド・ユニットの最初ってことになるんですかね。

一作:あれは、基本、セッションでしょ?

三上:セッションです。略々即興(笑)
前の日に段取りだけは決めときますけどね。

ラジオアダン:その時、既に神楽関連の打楽器を演奏されていたんですか?

三上:実はぼくの場合、モンゴロイド・ユニットに声をかけてもらった切っ掛けはディジュ(リドゥ)なんです。

ラジオアダン:国内ではかなり早いアプローチですね。

三上:そうなのかな?ぼく自身は、“流行り出した頃”ってイメージですけど。
日本ディジュリドゥ協会なんてのも既に設立されていたし。

ラジオアダン:三上さんとディジュリドゥという楽器の最初の出会いをお教え願えますか?

三上:ぼく、北海道在住時代にたまたまアイヌの文化運動を手伝っていた時期があったんです。
内容はと云うと、海外の先住民を招待して、彼等が北海道に文化交流に来る時の謂わば事務方としての仕事。当時ですとファックスを先方に送って詳細を詰めるだとか。

ラジオアダン:アボリジニの方々との出会いもありそうなお仕事ですね。

三上:そう、アボリジニ。でも、ディジュリドゥとの出会いは北海道に彼等が来る前ですね。
“アボリジニのフェスに行こう”って話になって、アイヌに同行してオーストラリアへ行ってアボリジニの方々と親しくなった。
彼等は、ディジュの聖地、アーネムランドじゃなくて、西オーストラリアのパースという街のアボリジニなんですけど、その頃、オーストラリア全土に散らばるアボリジニ皆のアイデンティティーと呼べるような楽器にディジュは既になっていたんで、その街でも非常に盛んでした。

ラジオアダン:その前、キャリア初期は、普通にギターを弾いて唄うという感じだったんですか?

三上:ええ、そうですね。QUOTATIONSではギタリストでした。
で、「トシミ、これをきみにあげる」って言って1本もらって。そうなると、「これはディジュをやれっていうことなのかな?」なんて思っちゃって(笑)

ラジオアダン:吹き出して音は直ぐに出ましたか?

三上:出ないですよ(笑)
プゥ〜プゥ〜やるんで、家では、「うるさい!」なんて言われて(笑)
3ヶ月くらいかな?音が出て、その後は循環呼吸もわりとスムーズにマスター出来ました。
前述した神戸のアートパワー展にもオーストラリアからアボリジニの方達を呼んで一緒に吹いたりして。
それを見ていた細野さんが、「今度やる時は一緒にやろうよ」って声を掛けてくれて、それでモンゴロイド・ユニットに入った訳です。

一作:ハハハハハ(笑)いい流れだね(笑)

ラジオアダン:確認ですが、この時点では神楽に関する造詣はほんの入り口程度?

三上:そう、正に入り口(笑)
それこそ、最初のおひらき祭りの時に、高千穂神楽と早池峰神楽が1日ずつゲストで出演して1時間ぐらいのパフォーマンスを行ったんです。

一作:至近距離で神楽を見たのはおひらき祭りが最初だったんだ。

三上:略そう。

一作:あれ本当にいいイベントだった。宮司さんが亡くなったってことで終わってしまったんでしょ?

三上:ええ。

ラジオアダン:おひらき祭りの正式な主宰はどちらになるんですか?

三上&一作:猿田彦神社(図ったように見事にはもる)

一作:宮司さんがそういう芸能に対する理解が非常に深かった訳だね。

三上:ええ。

ラジオアダン:ここまでお話を伺ったことを筋立てすると、ロック少年から始まって、ニューウェーブを経た段階で、段々、民族音楽やワールドミュージックに興味が移行してゆき、

三上:そうです、そうです、

一作:80年代、それなりのアンテナを持った人は皆そこに行き着くよね。

三上:うん。
それと、前述したアイヌの手伝いをしていた時、(喜納)昌吉さんや、(照屋) 林賢さん等とも会うようになって、そこで悩みだすのが、「自分も彼等と同じようにルーツに根ざして音楽をやりたいけど、肝心のルーツがない…」と。「何を根拠に音楽をやればいいんだろう?」ということで悶々とした時期が続いたんだけど、神楽を見て、「これ、正にルーツミュージックじゃないか!?」って思いだして。

一作:三上さんにとっておひらき祭りはでかかったんだ。

三上:ええ。
ただ、後から思うと、高校の時に戸隠中社に林間学校的な感じで行って、神楽を見ているんです。

一作:戸隠だから、

三上:長野。

一作:そうか。
その企画を立てた学校は素晴らしいね。
当時の東京では身近で神楽とか見られないからいい体験だね。

三上:ええ。
「大人がなんか面白いことをやってるな」っていう記憶はずっとあったんです。
最近、その時に撮ったネガが出てきて、調べたらちゃんと戸隠の神楽が写っていて、今はその系統まで分かる(笑)
で、神楽を再認識してからの猿田彦神社とのお付き合いとしては、「猿田彦大神フォーラム」というのが発足されてその世話人に抜擢してもらって、宮司さんに、「もっと深く神楽を調べたいんですけど」って相談したら、あっさり、「いいよ」ってことで、交通費も支給いただいて、そんなに沢山ではないですが、あっちこっち行かせていただいて。そんな流れで本格的に神楽を廻るフィールドワークを開始した訳です。
神楽をやる場所ってアクセスが悪く、年に1回だから中々それに合わせるのが普通難しいんだけど、その頃たまたま仕事もそんなになくて(笑)祭りにスケジュール合わせることも容易に出来た。ガハハハハ(爆笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)
そりゃ最高だ(笑)

◇◆◇◆◇
 自身の表現活動の根幹としてのルーツ探しの旅の途中、ラビリンスに迷い込み、身動き取れない三上に光明が差す。
 畏れながら記すが、それはニニギノミコトが高天原から葦原中国へ降り立つ際の天の八衢での立ち往生をある種彷彿させるような出来事だ。
 大袈裟に聞こえるだろうが、そんな三上に道を照らす国津神がニニギ同様、本当に現れた。
 そう、猿田彦である。
 道を見つけたらそこからは早い。猿田彦の妻、猿女君を祖とする神楽を座標軸に、その後は、只々、神と通ずる経絡を探っていったのだった。
◇◆◇◆◇

一作:おれは山口県だから、周防神楽とか、子供の頃から比較的身近にあった。

三上:周防。ありますね、あそこも面白い。

一作:当時は、“ああいうのは、神事と云うよりは、お祭りに来て、神社の境内でいろいろ面白いことをやってくれるもの”って感覚。すごくエッチなものもあるしね(笑)

三上:だって、面白くなくっちゃ何百年も続かない。

一作:そうだよね。
最初、名字が三上さんだから、実家が神社や神道関連なのかと思っていたんだ。

三上:いやいや。普通のサラリーマンの息子ですよ。

一作:おれの田舎の、由宇町って町に神社があって、宮司さんが三上さん(笑)
だから、「そういう関係の人なのかな?」なんて勝手に思っていたんだけど(笑)

三上:いや(笑)
広島は三上さんって多いんですよね。青森と広島に三上が固まっている(笑)

ラジオアダン:じゃ、寛さんはその青森側の人?

三上:そうですね(笑)

一作:三上寛さん?

三上:ええ。
そういえば、弘前だったなか?学生時代に旅行で行って、電話ボックスに入って電話帳を見たら三上が一杯あって(笑)
それなのに、当時、ぼくが住んでいた三鷹の電話帳には三上は3人くらいしか載っていない(笑)

一作:ハハハハハ(笑)
そうか、おひらき祭りは三上さんに執って、切っ掛けとして凄くよいものだったんですね。

三上:そうですね。
その少し前に、宮司や学者の鎌田東二さん、あと、細野さん、ぼく等で、「巡行祭」と銘打って、猿田彦縁のところを廻って、日の出、日の入りの時間に奉納演奏をするという活動があったんです。
沖縄からスタートして、斎場御嶽行って、久高行って。それから鹿児島の霧島の高千穂の峰から宮崎県の高千穂。次に出雲、加賀の潜戸。で、伊勢、松坂の阿射加神社を廻って猿田彦神社に戻るというコース。
ツアーの中、高千穂で夜の観光神楽を見て、その帰りに細野さんが歩きながら、「神楽をやろうと思う」って言われたんです。

一作:細野さんって、やっぱり変わってるよね(笑)

ラジオアダン:そのツアーでも三上さんの担当はディジュリドゥ?

三上:その時もディジュがメインでしたね。

ラジオアダン:細野さんはどんな楽器を演奏されていたんですか?

三上:適当な小物。

ラジオアダン:鳴りものと云うか?(笑)

三上:うん、鈴とか。
只居ればいい人だから(笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)
細野さんって典型的な都会人じゃない。なのに面白いよね。

三上:まあぁ、天河ブームの火付け役でもあるし。

一作:そうかそうか、それもあったね。

ラジオアダン:中沢新一さんとのフィールドワークから、

三上:『観光』ですね。
でも、その時の細野さんの発想は、神楽そのものをやる訳ではなくて、“自分に執っての神楽”ということで、日本の楽器でアフリカのリズムをやるかもしれないし、アフリカの楽器で日本のリズムをやるかもしれないしということですね。
で、ぼくは勢いづいて、「畏まりました!」、「勉強しまぁ〜す!」なんて言って、帰京後、直ぐにお茶の水の古本屋街に行って関連の本を探して(笑)なかなかなかったんですが何冊か見つけて。で、細野さんも締め太鼓を直ぐに買って。
なのに、細野さんたら、1年も経たないうちに、「君に任せた」って言って終わっちゃった。ガハハハハ(爆笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)
終わっちゃったんだ(笑)

三上:たまにその時の楽器を使っているみたいですけどね(苦笑)

ラジオアダン:三上さんに執って、未知のジャンルの楽器を購入するのは大変だったんじゃないですか?

三上:ああ、太鼓とか?

ラジオアダン:ええ。

三上:細野さんはあそこに行ったんじゃなかったかな?浅草の「宮本卯之助商店」。

ラジオアダン:神楽専門店と云うか?

三上:いや、そこはもう祭り関係なんでもかんでもある。ぼくは古道具屋(笑)
でも、今は和太鼓グループ系の太鼓ばかりになっちゃってる。今、太鼓を買う人は和太鼓やりたい人達ばかりだから。

一作:和太鼓はそんなに人気があるんだ?
どういうやつ?大きいやつ?

三上:大きいのから小さいのからいろいろ。

一作:おれ、実はグループでやる和太鼓苦手なんだよ。

三上:ぼくも苦手ですね、軍隊みたいで(苦笑)マッチョな。

一作:そうそう。
“一糸乱れぬ”ってのがあまり好きじゃないんだ。
「別に揃わなくてもいいじゃん」って思う訳。キメがあるのがどうもね。
それに比べて、昔、「CAY」でやったドゥン・ドゥン・ンジャエ・ローズとか、もっと適当だけど凄いグルーブを出す。
 この辺の一連のものは、亡くなったケンさん(宮川賢左衛門)のおかげなんだけどね。ケンさん、(以下)ドゥン・ドゥンみたく痩せた哲人みたいでかっこよかった(笑)

三上:そうそう、細野さんも神楽のプロジェクトではドゥン・ドゥンみたいなことをやりたかったみたい。

一作:ドゥン・ドゥンは3日公演だったのかな?いい時代だよな、あのキャパであの内容でスポンサーが付くんだから。あれ三菱だったよね。

三上:モンゴロイド・ユニットでも民族音楽系のアーティストは結構呼んでました。
熊野古道が世界遺産になった時の記念イベントが熊野の本宮で行われた時は、アイヌのトンコリ奏者、OKIさんに入ってもらいました。

ラジオアダン:OKIさんも三上さん同様、元々はロック畑の方だったとお訊きしたんですが。

三上:そうです。バンド活動をしていてベーシストだったらしい。

一作:神楽のフィールドワークの方に話を移したいんだけど、高千穂はどんな感じだったのかな?

三上:高千穂?

一作:うん。
観光用に日々やっているものがまずあるでしょ。そうじゃないものもあるのかな?

三上:集落の祭りとしてやる夜神楽というのがあって、それは一晩中やる訳です。観光神楽はその一部をより見やすくコンパクトにしてあって、実際のところパッケージショーまでもいってない。演目を軽くふたつみっつ見せるって感じですね。とはいえ、高千穂はやっぱりいいですよ。

一作:で、本気でやるものは年に1回ある訳?

三上:はい。
高千穂の内、20箇所以上でやるので、大体、11月〜2月くらいまであっちこっちでやっています。
一部、昼神楽になってしまったところもありますが、やはり夜神楽が面白いですね。

一作:来週から九州へ行くんだけど、ちょっと高千穂に寄ろうかなぁ?

三上:もう神楽は終わっちゃってますけどね。

一作:実は、中学の時、高校に進学する春休みに、自転車で九州一周の旅を実行したんです。2週間もかかった(笑)
その時に高千穂峡に行ったんです。それからは行ってない。

三上:凄いなぁ〜、あそこまで登ったんだ。

一作:鹿児島から上がって来て、延岡から入って、……、いやぁ〜大変だったね(笑)
ワンシーン、ワンシーンは覚えているんだけど、どんなところに泊ったのかが全然覚えてない。多分、その頃だからユースホステルに泊っていたんだと思うんだけど。

三上:一人旅?

一作:いや、2人で行ったんだけど、霧島の坂を下りてる時にそいつと喧嘩になって、

三上:ガハハハハ(爆笑)

一作:「じゃ〜、別々に行こう!」ってことで、別々になった(笑)
おれ、当時、結構根性あったんだよ。剣道部キャプテンだったし(笑)今は全然ダメだけど、酒ばっかかっくらってチョーナンパに見られてるけど(笑)

ラジオアダン:フィールドワークと平行して、細野さんから投げ掛けられた言葉、「君に任すよ」に従った音楽活動はその後どう進展していったんですか?

三上:まあ、その時点では猿田彦神社からの支援もあったのですが、入力するだけでもう精一杯。祭りに行く度に全然違うものが出現するので訳が分からなくなって。それを整理しながら進めてゆくと云うか。

ラジオアダン:入力とは、まずは神楽に関する造詣を深めると云う意味ですか?

三上:そうです。音として自分が出せる状態にはなかったですね。
まずは現場に行って体感するという段階です。

ラジオアダン:音楽家の顔は一度封印してフィールドワーカーに徹すると。

三上:そうですそうです。もう、瞬時に、「一筋縄ではいかないぞ」と思ったから。そんなこんなで、今は神楽研究者としか思われていなかったりもするんですけどね。ガハハハハ(爆笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)
今日も、神楽研究者としての三上さんってことで話をしているので(笑)

三上:ガハハハハ(爆笑)
ぼくが最初の神楽の本を出した時に、細野さんが毎月デイジーワールド関連のライブイベントをCAYでやっていて、ぼくもたまに出演したりしていたんですけど。ある時、出版に合わせて宣伝がてら本を持参したら、細野さんが、「こうなったのは、ぼくのせいじゃないよね?」ってぼそっと言ったんで、「違います!」って元気に応えといたんですけど。ガハハハハ(爆笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)

三上:本当はこうなったのは細野さんのせいなんですけどね。ガハハハハ(爆笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)

◇◆◇◆◇
 細野晴臣、そして猿田彦の導きで神楽研究者として名をなした三上。
 さて、その神楽研究者という、雲を掴み霞を食うような数寄者の日常とは一体どんなものなのだろう?
 筆者の頭中にあるそんな素朴な疑問が一作に届いたのか?ここで一気にフェーズは、“日常”に転換される。
◇◆◇◆◇

一作:今、まだ大学で講師として教えてるの?

三上:やってます。それがあるから東京にいるようなもんで。

一作:あれぇ〜……、早稲田(大学)だっけ?

三上:いや、多摩美(術大学)。

一作:多摩美っていい大学だね。そういうものも取り入れて。

三上:ええ。まあ、中沢さんがいる頃に呼んでもらって。今は明治の方へ移られましたけど。

一作:テーマとしてはどんな感じでやっているの?

三上:元々、……、ムフフフフ(含み笑い)、……、『音楽のアーカイブ』という名前で、細野さんがやるはずの授業だったんです(笑)
でも、お忙しい方なので、年に2回くらいの特別講義しか出来なくて。その後、当時の細野さんのマネージャーだった東くんが非常勤講師をしばらくやって、彼もまた多忙になってぼくに振ってきた。

一作:急にじゃ困るよね(笑)

三上:でもずっとフリーランスで活動していたから、「素性が分からない」なんてことにもなりかけていて。肩書きもそれなりに必要な訳です。

一作:うん、その気持ち分かるよ。

三上:で、「せっかくやるんだからタイトルも変えたらどうですか?」なんて言ったんですけど、「このままでいいです」って言われて、音楽のアーカイブ。でも、中身は神楽のことを重点的に教えるようにして。
傑作なのが、初年度の授業プログラムに、“講師:細野晴臣、中沢新一、三上敏視”って3人の名前が並んでいたんですけど、実際に講義をやるのはぼくだけという。ガハハハハ(爆笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)
でも、肩書きは必要だよ。だって、なくて困る時あるでしょ?

三上:そうなんです。

一作:いいよね。そういう際々の位置にいるって(笑)

三上:そこまでの流れとしては、ぼくが非常勤講師を始める前に中沢さんが、「芸術人類学研究所」というものを起ち上げて所長になって、「特別研究員って肩書きをあげるよ」ってことになって。
「肩書き欲しいだろ?」、「はい!!」って感じから始まったんです(笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)
増々いいなぁ〜(笑)

三上:「ごっちゃんです!」な感じ(笑)
その後に非常勤講師に就いた訳です。

一作:ハハハハハ(笑)
講義は月に何回くらいやっているんですか?

三上:前期後期とあって、今は後期で週1。

ラジオアダン:若い学生さんとの関わりは面白そうですね。

一作:そうそう。そこのところをおれも訊きたかった。

三上:授業に本当にはまった子は宮崎の山奥まで付いてきたりします。
でも、「今年はダメだな…」なんて年は、「全然反応がない…」なんてこともあります。

一作:そういう年の生徒は、音楽すら興味がない?只、授業として居る訳?

三上:そうですね。
まあ、音楽は好きなんだろうけど。

一作:好きな子もいるでしょ。
本来、三上さんが教えていることって音楽の根元な訳じゃない。

三上:でも、ぼくのライブにはあまり生徒はこないな……(苦笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)

ラジオアダン:そういえば、大学の先生でガムラン音楽の第一人者の方がいませんでしたっけ?ライブで合奏する時は生徒さんや、OB、OGが多数バックにいるような方。

三上:……、ああ、モンゴロイド・ユニットにも参加して頂いた、皆川、

一作:皆川厚一さんでしょ。

三上:皆川さんはもう顔が日本人に見えないもの(笑)インドネシア人そのもの(笑)

一作:ハハハハハ(笑)
あの方は自分でガムランのチームを持っている訳?

ラジオアダン:一作さんプロデュースのライブ箱、「新世界」でも数度演奏して頂きました。
皆川さんが一応のリーダーですが、若手の実働部隊が実際は動かしている感じでした。
「滞空時間」というユニットで、近年、名を馳せた川村亘平斎さんも主要メンバーの一人。

一作:ああ、川村くんね。

三上:皆川さんは、民族音楽学者、小泉文夫さんのお弟子さんで後継者。バリの音楽、文化を語らせたら、バリの人より知っているような方ですから。

一作:葉山に住んでいる時、一色に森山神社っていう神社があって結構いい演舞場がある。そこでのパフォーマンスを見るには神社の脇の石畳の階段に登って見るんだけど、お盆の時に1回ガムランが来て。勿論、国内の人達なんだけど。やっぱり皆川さんの系統なのかな?その辺やる人って限られているから。ちゃんとバロンも出てきて。

三上:バロンも出てくるんだ。それは素晴らしい。

一作:ガムランもだけど、80年代に音楽シーンが一斉にワールドミュージックの方に舵を切る時に、CAYを立ち上げられたことは本当にラッキーだった。
おれ、あそこで、その辺のライブを一杯体験したからね。

ラジオアダン:ぼくは、“一般に浸透した”って部分では、トーキング・ヘッズとブライアン・イーノの存在が大きかったような気がするんです。
実際、バーンとイーノはディオ名義でその辺のアプローチの素晴らしいアルバム(『マイ・ライフ・イン・ザ・ブッシュ・オブ・ゴースト』)も残していますし。

一作:そうか。それもあるね。あのアルバムはかっこいい。
そういえば、YMOだって民族音楽を取り入れていた部分もある訳だし、

ラジオアダン:細野さんに関してはもっと以前から、

一作:あるね。
トーキング・ヘッズは細野さん世代よりちょっと下の世代の啓蒙にはよかった。……、当時、あそこだ、……、なんだっけ?……、昭和女子大、人見記念講堂。あんな綺麗なところでさ(笑)おれは、あそこでトーキング・ヘッズやローリー・アンダーソンを見た。あそこ結構いいのをやっていたよね。UKレゲエのUB40もやったし。おれ、あそこでライブを見るのが好きだったなぁ〜(笑)

三上:女子大だし(笑)

ラジオアダン:あと、80’s以前に、ジャズやフュージョンの人達が海外進出を意識して、和太鼓や鼓、笛、琴等、和的なアプローチを意識的にしていました。

三上:うむぅ〜……、結構イージーなセッションが多かったけどね(笑)

一作:ハハハハハ(笑)
でもそんなもんでしょ。始まりはイージーな世界(笑)

◇◆◇◆◇
 三上の座標が定まり、数々の神楽のフィールドワークをものにし始めた頃、図らずも、一作にも同様の出来事が幼少期のぶり返しとして起こっていた。
 そう、この対談でも何度か触れた約束の地、ビッグ・アイランドでの覚醒。 
 同時多発とも云える2人のシンクロニシティ。これもまた、猿田彦の導きなのか?
◇◆◇◆◇

ラジオアダン:三上さんでも、アンダーグランドなものを含めれば、まだまだ行ききれてないお祭りもあるんですか?

三上:全て網羅したとは言い切れませんが、要所は略見ましたね。今、新たにまた執筆を始めていて、それが完成したら一段落。
宮司さんがお亡くなりになって、以前みたいに援助もないので、自腹で動いてます。そろそろ資金も尽きてきた(苦笑)

ラジオアダン:上梓が楽しみですね。前後して恐縮ですが、一作さんは何故、神楽に興味を持ったのですか?

一作:前述したけど、子供の頃から身近にあったから。周防神楽って結構有名ですよね?

三上:ええ。

ラジオアダン:現在の肩書きに反して、幼少期、東京人の三上さんより山口県人の一作さんの方が神楽に入り込んだのは早いということですね。

三上:勿論。ぼくは神楽を知らなかったから逆にびっくりして。

一作:おれの場合は、幼い頃から見ていて神楽の世界観っていうのは身体の中に確実に残っているんだけど、上京して都会の生活に慣れてくると徐々にその感触を忘れてゆく、……、……、で、やっぱり、ハワイなんです。
何故、ハワイに行ったかと言うと、CAYのスタッフの頃にピーター・ムーンの公演を仕込んで、ミクストメディアとして雑誌も噛ませて、その取材として行ったのが初のハワイ。ピーターは勿論、ギャビー・パヒヌイの家に行ったり。丁度ライ・クーダープロデュースで、息子達、パヒヌイ・ブラザースがアルバムをリリースした頃でした。
雑誌の取材も終わってクルーが帰った後も何故かおれだけ残って(笑)で、ニック加藤ってハワイ文化と重要な関わりを持ったコーディネーターがいるんですけど。今、上映中の話題の映画『盆唄』の企画発起人で写真家の岩根愛ちゃんもニックがハワイの橋渡しだったみたいですね。
ワイキキのバーでニックと待ち合わせをして飲んでいたら、「4月にハワイ島のヒロでフラの祭典があるから、それを見に来たらどうですか?」って言ってくれて。その時は2月だったので、一旦帰国して、4月に再度ハワイに来てその祭典を見に行った。
フラってアウアナっていうモダンフラと、カヒコっていう古典があって、その祭典では両方やるんだけど。それがメリーモナーク・フェスティバル。今は凄く有名なフェスティバルになっちゃったけど、当時はそうでもなかった。
特に、カヒコを始めて目のあたりにした時は、「すげぇ〜!」って一瞬でなって、「これって子供の時に見た神楽に近いな」って思ったんです。神楽に対し再認識をした瞬間ですね。まだ、サンディーに同行する前の話です。
「こういうことを東京で出来ないかな?」ってビジョンがその時芽生えて、それが後々、サンディーのフラスタジオをサポートすることになる。

ラジオアダン:神楽の原体験のタイミングがまるで違う2人なのに、再認識に関しては非常に類似しているところが面白いですね。

三上:そうですね。

一作:タイミングが絶妙に近かったんだろうね。
どこかで神様と交信するって感覚ってあるじゃないですか。古典フラもそうだし、神楽もそうだし。それってやってくうちにだんだんトランスに入って行く訳じゃないですか。
神楽で、そういう体験をしたり見たりしたことって過去ありましたか?

三上:実際のところ、“神懸かり”という状態になることは非常に難しくて、ぼくが情報を得ている分では殆ど成功してないですね。
だけど、高千穂でもそうですけど、ある時間帯に皆が変成意識に入っちゃう祭り空間というのは実際にあって、そこに居るのが気持ちいいんです。

一作:なんかこう、ごぉっ〜と上がってんだよね。
こればかりはそこで体験しないと分からない。

三上:よく、「神楽は神様に奉納するものだから人に見せるのもではない」って言う人がいますけど、本当は見る人がいないとダメなんですよ。見る人と一緒になってひとつの祭り空間を作らないとダメ。
夜神楽等ですと、丁度先週、奥三河の「花祭り」で酒飲んでいたんですけど(笑)

一作:いいことしてるよね。うらやましい(笑)

三上:ハハハハハ(笑)すいません(笑)
その分、捨ててるものも沢山あるんだけどね(笑)

一作:三上さんと会うといつも、「先週は○○に行った」なんて言ってる(笑)

三上:でも、もうそろそろ無理(笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)
で、奥三河はどうでした?

三上:もう、凄かったんだけど……。
ぼくが20年前から15回は行っているところで、中心になってやっていた方達がもう高齢で今年が最後だったんです。
来年からお休みになるので、もうめちゃくちゃ人が来て。普段の倍くらい。だから舞が見れない人も沢山いました。
ぼくは、そんな状況になることは事前に想像がついていたんだけど、まあ、20年もお付き合いさせて頂いた方達だから、「やっぱり最後は見届けよう」ってことで行くことにして、早い時間から場所取って、

一作:そういう縁が深いところは絶対行った方がいいですよ。

三上:ええ。
祭りをやる人達が昼に酒を飲んでいるところから参加して。そこが祭りをやる人達が唯一雑談しながらゆっくり酒が飲める時間で、始まっちゃったら飲めはすれど談笑には至らない。

一作:云うなれば、バリだったらケチャでキノコを食ってトランスに入る前みたいな時間帯だね。南太平洋だとカヴァだ。

三上:カヴァ?

一作:サモアには、カヴァって胡椒科の潅木の根があって、それをぎゅぅ〜と絞って飲むんですよ。それも、車座になって手拍子を打ちながらまわし飲みする。少しばかりハイになって南洋の光と影が普段よりもくっきり見えてくる。
本当はその辺の話を沢山したかったけど、ながぁ〜い前振りとして(笑)、ミュージシャンとしての顔の方を沢山話しちゃったな(笑)

◇◆◇◆◇
 アニミズム。地霊信仰とも訳される。
 字面や既存のイメージだけでは、おどろおどろしく近寄りがたい代物のように思える。
 しかし、2人のイメージは全く別のところにあるようだ。
 風通しがよく明るくポップなアニミズム。
 そしてすこしエッチ!?
 終盤にきて、トークセッションもハレとケが交差する別次元へアセンション。いよいよ、黄泉へのトランスまであと僅か!?!?
◇◆◇◆◇

一作:神楽って、まあ、ざっくりだけど、凄く精神的なものですよね。

三上:ぼく独自の解釈なのかもしれないけど、祭り、神楽とていう空間は非日常として出来上がらなければまずいし、それは、普段対立している、陰と陽であるとか、生と死であるとか、見えるもの見えないもの、男と女、そういうものがごっちゃになって混沌に達する世界。そこで神的なものを感じたり。昔は神懸かりが起きた訳です。

一作:それって、実は下世話なものも凄く含む訳じゃん。

三上:そうですそうです。聖と俗も勿論含まれます。

一作:うん。そういうものには付きものでしょ。だって、やっぱりセックスしなければ人間は産まれないんだから。
子供の時の記憶で、多分、周防神楽だったと思うんだけど、びっくりするのが、なば祭り。なばってペニスのこと。
その辺、三上さん見たことありますか?

三上:周防では見たことないですね。

一作:そうですか。
で、すごくでかい張り形を携えて神事の人達が出てくると、普段真面目なおばちゃん達が、「ギャ〜!!」って歓声を上げて笑っている訳(笑)

三上:そうそう、あれがいいんだ!おばちゃんって基本スケベだから(笑)

一作:そう!ガハハハハ(爆笑)
おれ、そのシーンが今でも強烈に残っているんです。

三上:それはいいですね。
宮崎県の神楽は今でも男根出現率が凄く高いです。
昼神楽だったら子供もそれを見るし、男根に両面テープが巻き付けてあって、女の子が千円札をそこに貼付けて。チップ同様に(笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)
それ凄いね!!

ラジオアダン:昼神楽と夜神楽の大きな違いってどこなんでしょうか?

三上:昼神楽は大体午前中から始まって夕方には終わっちゃう、

ラジオアダン:単に時間帯の違いなんですか?

一作:あんまり関係ないんだよね?

三上:そうです。
只、元々、祭り自体は夜のものですけど、段々、ライフスタイルが変わってきて昼にもやるようになったってことです。

ラジオアダン:今更なんですけど、確認させてください。
まずお祭りがありますよね?神楽はその一つのコンテンツと思えばいいのでしょうか?

三上:祭りの中のコンテンツとして存在するのは、大体、関東から北。だから、先週行った奥三河の花祭りとか、中国地方とか、九州山間部の夜通しやるものは祭り自体が全部神楽。神事から全て芸能をともなって。

ラジオアダン:そう聞くと西の方が面白そうですね。

一作:例えば、早池峰なんて行くのが大変じゃないですか?更に、泊るところも殆どないじゃないですか?三上さんはどこに泊ってるんですか?

三上:早池峰の場合、皆がよく来るコースは、7月31日の宵宮から8月1日の本祭り、早池峰神社例大祭。ぼくは駐車場で寝ますよ(笑)

ラジオアダン:スーパーボランティアの尾畠春夫さんみたいですね(笑)あの方も基本、車で眠られるとか(笑)

三上:ハハハハハ(笑)
近くに宿はあるんですけど、1年前から予約で一杯なんです。宿房みたいなものなのでキャパもそんなにないし。あと、早池峰の場合は早池峰山に登る登山客用のキャンプ場があるのでそこにテントを張る人もいます。あとは、一回、花巻まで戻ってホテルに泊るとか。

ラジオアダン:日本古来のフェスに数えきれない程行ってらっしゃるんですね。

三上:まあ、レイブ?(笑)
神事としての聖なる面も勿論あるんですけど、まあ、宴会ですよ!ガハハハハ(笑)

一作:ガハハハハ(笑)

三上:ぼくの場合、申し訳ないけど、「飲みに来ました!」みたいな感じですから(笑)
宮崎の諸塚村の神楽だと、脇宿っていうシステムがあって、神楽をやっている横の家で、「いらっしゃい!いらっしゃい!」っ言って誰が来ても酒を出して歓待してくれるんです。

一作:素晴らしいね。

三上:それも元々は、“新しい血を入れたい”という考えがあったんだと思います。山間部の孤立した集落ですから。
宮崎にはせり歌という観客が主に男女のことを歌う文化がまだ残っているんです。神楽には神楽歌、神歌というのが付きもので、「それがなければ神楽じゃない」とぼくは思っているほど重要なもの。

一作:例えばどんなことを唄っている訳?

三上:〜伊勢の国 高天原がここなれば 集まりたまえ 四方の神々〜とか。

ラジオアダン:古事記的な世界からの引用ですか?

三上:神楽は殆ど日本書紀からです。古事記は江戸中期以降。

一作:そういえば、新世界のオープニングの時に三上さんに奉納演奏をしてもらったじゃない。ガハハハハ(爆笑)

三上:ガハハハハ(爆笑)

一作:あの時はどんなことを唄っていたの?

三上:神歌です。

一作:せっかくだからちょっとやっみてよ(笑)

三上:ハハハハハ(笑)
—♪七滝や〜 八滝の水を汲み上げて〜 汲み上げて〜 日頃の穢れを今ぞ清める〜♪— 
なんてね(笑)

一作:(拍手)いいね(笑)素晴らしい!(笑)
それで、あの場所は清まったんだね(笑)
そんな感じでスタートした新世界はずっと赤字で、6年続けて結局6千万の赤字をくらった。
でも、三田「アダン」の立退料が入ってきてその借金をチャラに出来た。それもこれも、あの時、三上さんが神歌を捧げたおかげかも(笑)
神様が、「ものごとはとどのつまりプラマイゼロだぜ」とおれに教えてくれたのかもね(笑)

◇◆◇◆◇
 神歌も出たところで酒宴の場も隅々まで清まり、更に、酔いもいい感じにまわってきた。
 少し遅れた新年に合わせ再開した酔談のセカンドシーズン。ここは、柄にもなく、暫し背筋を伸ばし、ゲストとともに本年の誓いを立て静穏に宴終えることとしよう。
◇◆◇◆◇

一作:おれ、今年の抱負として、……、いや、その前に、なぜ葉山の住まいを引き払ったかというと、ちゃんともう一回、……、映画を見たりだとかインプットしようと思うんだ。
葉山にいると、「海が友達!」みたいな(笑)おれの場合、サーフィンする訳でもないしさ(苦笑)

三上:成る程。

一作:5年居たからね。
だから、今年は映画を100本見ることにしたの。

三上:いいですね。

一作:まだ1本しか見てないけど。ガハハハハ(爆笑)

三上:ガハハハハ(爆笑)

一作:あくまでも映画館でね。映画館で100本。
おれはそんなところが直近の抱負なんだけど、最後に、三上さんの今年の抱負を訊かせてよ。

三上:そうですね。……、やっぱり、今、執筆中のものを書籍としてなんとか年内に出したいですね。

一作:じゃ〜、おれは一番最初に買って一番最初の読者になるよ。
今日は忙しいところありがとうございました。

三上:いいえ、こちらこそ。

◇◆◇◆◇
 三上の神楽研究の第1章もいよいよ大詰め。一旦の纏めとなる新たな書籍の発売もそう遠い日ではなさそうだ。
 一作もまた生活空間を移動し、インプットを主としたセカンドシーズンに突入した。
 一つの物語を終えた彼等が、次に降り立つフィールドは果たしてどこになるのだろうか?
 そこは高天原か?はたまた葦原中国か?
 そんなこと誰も分かりはしない。
 だって、人生の殆どの出来事は、酔っぱらいが酒場で夢想したことを、神様(今回はピンポイントでサルタヒコノカミ??)が空模様に沿って暇つぶしにチョイスしているだけなのだから。
 とぅ・びー・こんてぃにゅーど

@奥渋「家庭料理 おふく」

テキスト、進行:エンドウソウメイ

写真:門井朋

●今回のゲスト

三上敏視/プロフィール

音楽家/神楽・伝承音楽研究家。MICABOX名義で神楽太鼓の呪術的響きを大事にしたモダンルーツ音楽を製作、CD『ひねもす』などをリリース。他にも気功音楽をはじめ多様な音楽の作曲、演奏などの音楽活動を行う。ライフワークとして全国の里神楽を巡り、神楽とその背景にある祭祀文化を日本のルーツミュージック、ネイティブカルチャーとしてとらえ、ガイドブック『新・神楽と出会う本』などを出版。多摩美術大学美術学部非常勤講師。


河内一作/
山口県生まれ
八十年代から霞町クーリーズクリーク、青山カイなど常に時代を象徴するバー、レストランの立ち上げに参加。九十年代、仕事を辞め世捨て人となる。
六年間の放浪生活の後社会復帰し、アダン、青山タヒチ、白金クーリーズクリーク、音楽実験室新世界、奥渋バー希望、南洋ギャラリー、など手がける。お楽しみはまだこれからだ。。

黄昏ミュージックvol.26 センド・イン・ザ・クラウンズ/チェット・ベイカー フューチャリング ヴァン・モリスン

 黄昏ミュージックと銘打ち数々の音源を紹介してきた訳だが、ミュージシャン自らが最晩年でギリギリのコンディションの中、生演奏するという、正に人生の黄昏時な楽曲が今回セレクトするチェット・ベイカーの『センド・イン・ザ・クラウンズ』(邦題:『悲しみのクラウン』)。
 元々、ミュージカル『リトル・ナイト・ミュージック』の挿入歌で、デジレ・アームフェルド役のグリニス・ジョーンズのたどたどしい歌唱で人気を博した楽曲。
 以後、この曲のカヴァーは頻繁に行われ、一部を除いて女性シンガーが唄うことが比較的多かった。
 さて、そんな数的に劣勢の男性シンガー陣だが、フランク・シナトラ、ビング・クロスビー等というビックネームが、極上なスムース感一杯に唄い上げているのもまた事実。だが、今回の音源でのゲストシンガー、ヴァン・モリスンはそんなスムース感などどこ吹く風、独特の引っ掛かりとだみ声とも云えるざらついた声紋で語るように唄う。
 憂い一杯のヴァンのその歌声が一旦止まると、演奏なのか吐息なのか判断できぬチャット・ベイカーのトランペットが主役の座をすっと奪い取る。否、奪い取るなんていう力感はないか?
 彼は只存在し呼吸しているだけなのだ。
 その呼吸が音楽に聴こえたりため息に聴こえたり自在に入れ替わって行く。
 周囲を固めるミッシェル・グライエ(p)のリリカルな響きと、演者全てを支えるリカルド・デル・フラ(b)のずっしりとしたグルーブがまた素晴らしい。
 “人生の黄昏時”なんて、少しネガティブに思える御人もいるかもしれないが、こんな黄昏ミュージックがあってもいいだろう(se)

黄昏ミュージックvol.25 シェナンドー(フォー ジョニー・スミス)/ビル・フリゼール

 昨今、多くのジャンルで女性の活躍が目立つが、音楽というジャンルはその最先鋒とも云える程にジェンダーフリーが進んだ希有なジャンルだ。
 だが、そんな音楽界にも女性アーティストに執って関門と云える壁も依然存在している。
 例えば、ソリストとしての一定の地位を築いた女流トランぺッターと云うのは実に少ない。口さがない者による、「唇の肉感的に女性は適してない」なんていう根拠のない説がそこはかとなく流れたりすることもある。
 それに継ぐものとして、ギタリストもアプローチする総人数に比べると成功例が少ないと云えるインストゥルメンタルかもしれない。
 筆者がブッキングを6年間ルーティーンとして担当したライブ箱でも、記憶に残る良質なプレイを披露した女性ギタリストは片指で十分におさまった。
 さて、そんな中、天才女流ギタリストと呼び名が高いのがメアリー・ハルヴォーソン。ジャズ畑周辺では以前から高評価を受けていたが、2014年のフジロックの快演以来、ジャンルを飛び越えて我が国でも人気が完全に定着した。
 今回、そんなメアリーの楽曲から“黄昏ミュージック”を選出することは容易だが、敢えて、彼女の師匠筋に当たる万能ジャズギタリスト、ビル・フリゼールの楽曲『シェナンドー(フォー ジョニー・スミス)』にスポットを当てたいと思う。
 ジョン・ゾーンとのプロダクトで見せる、超絶フリーな硬質な演奏とは極北にある、アメリカンルーツ・ミュージックに座標軸を置いた3部作の中に、浮遊感、レイドバック感がより深く漂うアルバム『グッドドック・ハッピーマン』という作品があり、中でも、レジャンド・クールジャズ・ギタリスト、ジョニー・スミスに捧げた『シェナンドー(フォー ジョニー・スミス)』は、良質なアコースティックサウンドが良き時代の牧歌的アメリカを脳裏に鮮明に蘇らせる感傷的な黄昏ミュージックである。
 ビルの見事にコントロールされたアコースティックギターの主旋律は勿論、名手ジム・ケルトナーの制御された無駄のないドラミングが羽毛のような優雅なグルーブを生みリスナーを優しく包み込む。
 なんでも、純ジャズギタリストとしてのビル信者に執って本アルバムはイージーリスニングに走りすぎているとの批判も多々あるそうだが、筆者の場合、カナダ人ミュージシャン、ダニエル・ラノアのルーツアメリカン指向の音群を聴くのと同様、脱ジャンル的スタンスで聴くので、文句なしの名作と云える程の極上黄昏ミュージックなのだが……。
 まあ、聴覚と云うものもそれなりに曖昧で、且つ、人それぞれなものなので…………(苦笑)。(se)

黄昏ミュージックvol.24 サムシング・フォー・ユア・M.I.N.D./スーパーオーガニズム

 筆者には、音楽に関する指標や確認をさせてもらえる師匠的先輩が数人いるのだが、そのうちのお一人に新年早々お会い出来、海外文学を中心に四方山話に興じた。そして、当然、音楽にも話は及ぶ。
 現在、師は海外にも通じる日本語ファンクの創作に明け暮れている。そんな中、微妙に指標に変化が起きて来たそうである。曰く、「エキゾチック感のあるファンクへの傾倒」。
 以下は師の請け負いも多分に含まれるが、ファンクミュージックは黎明期よりセックスを主題としたものが非常に多い。他、タフネスや政治メッセージ等に特化したものもあるにはあるが、チャートインした著名なチューンはセックスに関するものが多いことは否めない。
 そんなファンクミュージック群に、僅かだがエキゾチック感のあるファンクが存在し、これをガールズバンドにアプローチさせるチャレンジをここのところを始めたと言う。
 それを聞いた瞬間、この連載で先日触れたクルアンビンが咄嗟に浮かんだ。そしてその辺の“ゆるファンク”を昨今掘っている自分もいるのだ。情報交換がまったく無いまま、お互いの音楽指標が完全に重なったレアな瞬間に出会ったのであった。
 その、“ゆるファンク”に筆者が勝手に分類しているのが、話題のストレンジャーバンド、スーパーオーガニズム。今回は彼等の楽曲を黄昏ミュージックとさせてもらう。
 前身であったエヴァーソンズの来日公演に足蹴く通っ日本人フロントガール、オロノの危なっかしい英語はもとより、イギリス、ニュージーランド、オーストラリア、韓国と無国籍軍を地で行くロストルーツ感やニューウェーブ感がヘタウマ特有の緩さを生み、更に、ヒップポップ経由のファンクネスとの大きな異差が不思議な空間性を浮き立たせる。特に本チューンはスライドギターを効果的に使うことにより一層歪んだ空間が拡張されている。時代は今“ゆるファンク”なのだ!?!?(se)

黄昏ミュージックvol.23 メリー・クリスマス/ナット・キング・コール

 年齢を重ねるごとに、「時の流れ年々速くなるなきぁ〜」と師走の時期に痛感する。
 この感覚の根元は、当然残り時間との相対性なのだが、「大きなトラブルなく今年も過ごせた」とここでは強がりを敢えて言っておこう。
 どうでもよい枕はこの辺で切り上げて、
 さて、師走特有の選曲ジャンルに“クリスマスソング”という括りがある。
 古今東西、さらにキリスト教圏以外にも存在するクリスマスソングと云われる膨大な音源群故、選曲持ち時間全てをクリスマスソングで埋め尽くすことも容易に出来るが、それではあまりに芸がない。それに、クリスマスソング以外でも、よりクリスマス色を強く出している曲も多々あったりもする。
 キリスト教徒でもない極東の人間が分かったように解析するのは多少憚れるが、要は“教会音楽感”を強調したものが非常にこの時期の夜の街に映える気がするのだ。僅かなリヴァービーな音色であったり、パイプオルガン的な重層感。はたまた銀河的宇宙感などでクリスマスソングでなくともそのニュアンスを演出出来る。故に、疑似クリスマスソングとリアルクリスマスソングを混ぜ合わせるのが筆者の師走の選曲手口なのである。
 さて、そこで肝になるリアルなクリスマスソングだが、ここでの必須要素として、“スムース感”というのが大切だ。年末に頻繁に行われるジャズコーラスのライブなどの、“あれ”のことだ。ディープなゴスペルなどのように引っかかりがない、都会派の歌声、それに羽毛を思わせるストリングスが乗ったらもう言うことはない。そんなクリスマスソングの真打ちが今回紹介するナット・キング・コール。彼の手にかかれば全てのクリスマス・スタンダードは輝きを増すのだが、ここでは敢えておおねたの『メリー・クリスマス』を選んでみた。
 今年も悲喜交々いろいろとありましたが、師走の一時、「バー黄昏」で麗しのゴールデンボイスに乾杯。メリー・クリスマス!(se)

黄昏ミュージックvol.22 フライディ・モーニング/クルアンビン

 近年、大型野外フェス出演の増加で、ビックネームの仲間入り寸前のテキサス出身の男女混合トリオ、クルアンビン。
 まず、音楽以前に彼等三人三様の容姿にどうしても目がいってしまう。
 いかにも“食いしん坊”キャラの太っちょドラマー(その実、タイトなリズムを叩き出す)、一点の雲もなく70年然とした長髪ロックギタリスト(ガレージ的歪みを持ちながらもギターインストバンドのつぼをしっかり押さえている)、ボブカットの黒髪が不思議なエキゾチック感を湛える美人ベーシスト(ファンクネスを持ちながもNW期の知的女性ベーシストの系譜、ティナ・ウェイマス、キム・ゴードンの流れを踏まえている?)一見バラバラに見えて演奏同様結集するとぴたっとはまる3つの個性。良質な音源もそうだが、そんな絶妙な、相性、絵面も彼等へのライブオファーが絶えない要因のひとつではなかろうか。
 今回、黄昏ミュージックとして選んだのはセカンドアルバム『コン・トード・エル・ムンド』の最終トラック『フライディ・モーニング』。
 メンバー3人にパーカッション、ペダルスティール・ギターをサポートに加えての長尺な演奏は、アイコンであるアジア風味のいなたいファンクとはまた違い、スローでメローなスウィートソウルミュージックのマナーにきっちり基づいたもので、BPMを有機的に変更して行く自由なグルーブは、“ロウハイ”、“へたうま”等という曖昧な形容詞では片付けられない確かな演奏力が表出した素晴らしい楽曲。表層だけ眺めれば、ジャームッシュやタランティーノのシネマで何時ぞや聴いた風の、センスのみでやっているバンドに思われがちな側面もないとはいえない彼等だが、ライブの場数並みに一筋縄ではゆかない手練でもあるのだ。
 加筆/訃報が入った。敬愛するサックスプレイヤー、片山広明氏(生活向上委員会、渋さ知らズ等)がお亡くなりになった。
 盟友、梅津和時氏の名作『ベトナミーズ・ゴスペル』にも負けず劣らずの一世一代の泣きのブロー、レーナード・コーエンの『ハレルヤ』の故人によりカヴァーをここに記すことで追悼とさせて頂く。
ご冥福を心よりお祈りいたします(se)
『ハレルヤ/片山広明カルテット』(アルバム『キャトル』収録)
演奏:片山広明(ts)、板橋文夫(p)、井野信義(b)、芳垣安洋(ds)

黄昏ミュージックvol.21 オーブル街/ザ・フォーク・クルセダーズ 

 冒頭から唐突だが、日本のサブカルチャーの源流はフランスにあるのではないだろうか?
 一方、アカデミックの源流はドイツに帰着するのでは?と筆者は漠然と皮膚感覚で考える。
 戦後、フランス文化、特にポピュラーミュージックを指向するアーティスト達は、「銀巴里」等を拠点に、日本語シャンソンの完成を夢見一途な想いで邁進した時代があり、なかにし礼、岩谷時子等という特化した詩人がその推進力となった。
 時は流れ、ニューミュージック、Jポップの萌芽の前夜にも、シャンソン、フレンチポップス以外の視点でフランス的スパイスを生かした良質な楽曲が僅かだが浮上する。
 元ザ・タイガースの加橋かつみのパリ録音アルバム『パリII 1972』に収録されている、『ある夏の終わりに』や、先日の全曲完全ライブでも話題となった高橋幸宏のアルバム『Saravah! 』の表題曲、そして、極めつけは、村井邦彦作曲で自身の筆による、安井かずみの『わるいくせ』等。
 さて、前振りはこの辺ににして、本題に入ろう。
 その安井かずみとその後結ばれることになる、加藤和彦の初のプロキャリアとなった、フォークトリオ、ザ・フォークルスセダーズの楽曲で、『オーブル街』という楽曲がある。
 ここでの詩は、メンバーでありこのバンドの多くの詩を手がけた北山修でなく、松山猛の手によるもので、疑似中世設定アニメの原点とも云える、架空の街“オーブル街”を舞台に、加藤の最初期とはとても思えない、完成された欧州パリ風メロディーと上品なサウンドプロダクトが秋の気配を運んでくる純黄昏ミュージックなのだ。
 やがてこの路線は、彼のソロプロジェクトへと引き継がれ、『パパ・ヘミングウェイ』(1979年)、『うたかたのオペラ』(1980年)、『ベル・エキセントリック』(1981年)の“ヨーロッパ三部作”として大輪の花を後に咲かせることとなる。(se)

酔談vol.10 ゲスト:鈴木清一氏 ホスト:河内一作

「連載対談/『酔談』vol.10」ゲスト:鈴木清一氏 ホスト:河内一作 


 “酔談”。見ての通り、酔って語らうこと。当然、造語である
 酔っているがゆえの無軌道さ、無責任さ、大胆さ、自由さをそのまま気取らず飾らず実況する、それが「対談連載/酔談」の全てである。
 
 アダングループ代表、河内一作が東京の夜のフロントラインに初めて立った、1981年の「クーリーズクリーク」から現在に至るまで、彼が関わった店が、単なる飲食店におさまらず“自由なステージ”としての酒場の背景を演出出来えた“要”ともいえる大切な友人達を毎回招き、テーマなしのゼロベースから美味しい酒と肴の力を借りつつ今の想いを語り尽くすトークラリー。
 さて、記念すべき第10回目の今回は、一作の強っての希望もあり、アダングループ“常連ナンバー栄光の1番”との称号を持つ、編集者、プロデューサーの鈴木清一氏(以下敬称略)が、満を持して、奥渋「家庭料理 おふく」に遂に登場!
 彼こそが、一作の長きに渡る店作りの生き証人であり、プライベートでも男同士の深き友情で結ばれている人物。故に、今回の酔談は素の一作が垣間みれそうな予感に溢れている。
 近年、病気療養と上手く付き合いながらの活動となっているが、多数のレジェンダリー雑誌を、それぞれの最盛期に携わってきた清一。まず、そんなレアなキャリアを可能にしたバックボーン、東京ユースカルチャーの原風景からゆっくりと語ってもらおう。
◇◆◇◆◇

河内一作(以下一作):昔と立ち位置が逆だと、なんか戸惑うね(笑)
昔は清ちゃんがおれを取材するのが当たり前だったんで。

鈴木清一(以下清一):まぁ〜ね、でも、おれの仕事のやり方はいいかげんだから(笑)だから長生き出来ている。
おれに執って60歳代はもう長生きの範疇だから。
実はうちの家系は60代で死んでる人間が多いんだ……。

一作:そうなの?
清さんは?お父さんの鈴木清さん?

清一:享年79歳。

一作:ガハハハハ(爆笑)結構生きてるじゃん。
また、人を驚かせようとよく言うよ(笑)

清一:ガハハハハ(笑)

一作:この対談は、そんな感じの思い付きで話してもらって一向にかまわないからね(笑)

清一:その親父が、おれが生まれて、「いい名前を付けたい!」てんでさ、1ヶ月半熟考して付けた名前が“一”って1本付けただけの、“清一”(笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)
おれ、よく覚えているよ。一回、清ちゃんちへ行ったとき、表札に“鈴木清”、“鈴木清一”ってふたつ並んでて。おれ、「一が違うだけじゃん!」って(笑)

清一:一作、知ってた?鈴木清って、東京で一番電話帳では多い名前だって。

一作:へぇ〜、で、清一は?

清一:そっちになるとこれが少ないの(笑)

ラジオアダン:取材前の雑談で小耳に挟んだのですけど、清一さんは当時では珍しい一人っ子だったとか?

清一:うん、そう。

ラジオアダン:では、弟さんがもしいたら清二さんだったりして(笑)

清一:多分ね(笑)

一作:ひと月半考えて清一だから、ふた月半考えて清二だろうね(笑)

清一:ガハハハハ(爆笑)
本当は、おねぇ〜ちゃんがいたらしんだけど、死産だったから一人っ子になった訳。団塊の後の世代だね。
その団塊との異差が、一作と意気投合するところでもあるんだけどね(笑)


鈴木清一氏

一作:そんな訳で、清ちゃんって東京人な訳じゃん。

清一:うん、東中野。

一作:この前のゲストの桜井さんもそうだけど、……、おれなんか山口の田舎から出て来てさ、東京に馴染むのに凄く時間がかかった訳。

清一:分かる分かる。

一作:例えば、この酔談の最初の方に出てくれた、元ミュート・ビートのこだま和文くんなんかも福井の田舎から出て来て、「『吉祥寺はパリだ!』と思った」と言うんだから(笑)

ラジオアダン:一作さんもこだまさんも上京当初は中央線沿線にいて、徐々に中央へ向かって行くという共通点がありますよね?

一作:そうそう。
ファッションシーンなんてない田舎で育って、原宿に行けばびっくりしていた。
俺たちは、東京を目指してやって来ているけど、東京の人達って、その先を目指している訳じゃん。

清一:でも、東京は東京のローカリティーってものがあって、……、その東京ローカリティーを一作は笑ってバカにしていたけど。
亡くなったカメラマンのはっちゃん(橋本祐治)が大塚出身で、あそこにある大きな結婚式場が角萬の白雲館。一方、おれが育った東中野の大きな結婚式場が日本閣。そんで、どっちが立派か?なんて言い争いになって(笑)東京人は東京人でくだらないことで盛り上がる(笑)実は、どっちも大したことないんだけどね(笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)
おれ、バカになんかしてないよ(笑)
池袋にはそういうところはなかったの?

清一:池袋はないな。

一作:そうか。
友人の、編集者、僧侶の稲田(英昭)くんが池袋出身の東京人だけど、あそこにはそんな象徴的な建物なかった訳だな。

清一:東京人がよく拘るのは、山手線の内と外に関してじゃないかな?
おれは外じゃん。新宿から中央線で2つ目だから。
はっちゃんの大塚は山手線内、稲田くんも池袋ならそうなるね。
彼等に比べるとおれは田舎者ってことになる(笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)
くだらねぇ〜(笑)

ラジオアダン:先日、その稲田さんに昔話をしていただいたのですが、小学生の頃から、「自分の意志で銀座に、自分が着たい洋服を買いに行った」という下りには驚きました。「流石、都会人だなぁ〜」って。

一作:もう意識が、おれ等山口県人の十歩は先を進んでいる(笑)

清一:だから、ソニービルの地下に、「Mr.VAN」ってのがあって、「VAN」よりワンランク上の商品を扱っている、

一作:(遮るように)清ちゃん、清ちゃんさ、ソニービルはもう今ないよ(笑)

清一:ああ、そうね、もうないか……。

一作:あそこの1階の「パブ・カーディナル」も、もうない……。

清一:ああぁ〜、本当?もう、おれ、銀座に随分行ってないから分かんない(苦笑)
昔の東京の若者カルチャーをファッション的に考察すると、まず、大学で言うと、成城大学があって、特に下からゆくのがエリートなの。
成城、成蹊(大学)、あと、青(山)学(院大学)。その辺を初等部から行くのがエリート。近田春夫さんなんて慶応の幼稚舎からだから!
だから、エスカレート的に行けるか?行けないか?が、ボンボン、お嬢様の境目。

一作:清ちゃんみたいに大学で慶応に入るのは?

清一:それ、ダメ(超あっさりと)

一作:でも、頭はいい訳じゃん。

清一:まぁ〜、受験勉強はしたけどね。

一作:もう、その時点で地方の人間は蚊帳の外だよね。

清一:無理。東京の人間ですら無理に近いから。

一作:旧『アダン』は三田にあったから、幼稚舎から登っていった人達が結構来てたよ。
卒業生が大人になって、彼等、皆凄く仲がいいんだ(笑)

清一:おれの大学時代は、意外とその下から来ている人達と仲がよかった。なんか妙に馴染むの、慶応女子(高校)とか(慶応義)塾(高等学)校出身者に。

一作:おれと清ちゃんはひとつ違いだけど、略、ファッション的には同じ時期だよね。ある程度出揃ったのが中学時分だと記憶しているけど。

清一:そうだね。

一作:東京と地方の差はあるけど、基本、「VAN」、「JUN」しかなかった。

清一:うん、まぁ〜……、……、他には「ジャズ」、「プレイロード」とかね。

一作:その辺の清ちゃんのファッション遍歴を教えてよ。

清一:やっぱり、まずはVANのホワイトのスニーカー。それに合わせて、同じくVANの白いソックスにチノパンみたいな。
あと、オックスフォードのBDシャツ。それはブルックス(・ブラザース)ね。まだ青山に店がなくって、自由が丘の並行物を扱う店までわざわざ買いに行って(笑)

ラジオアダン:中学生で、もう、ブルックス・ブラザースを着ていた!?
凄いですね!

一作:そりゃ〜凄いね!
おれは山口の田舎だから、当然、ブルックスはなかったけど、岩国にVANショップがあって。岩国には基地があるから、VANもだけど、米軍の放出品を扱うアメ横みたいな店もあった。
おれも御託に漏れずにVANショップで白いスニーカーを買って、……、でも、他のものは清ちゃんみたいにすぐに揃えられないから、学生服のズボンを同級生でミシンが上手な奴に頼んで、裾を詰めたり、あるいはラッパズボンに広げてもらったり(笑)
ピカピカのVANの白いスニーカーにアイビー調に詰めてもらったズボンをはいて意気揚々と田んぼのあぜ道を通って中学校に行く。

清一:おれは、逆にそういうのに憧れる(しみじみと)

一作:でも、その格好が、「生意気だ!」ってことで、先輩達にボコボコにされて。ガハハハハ(爆笑)

清一:でも、東京もおれのガキの頃は、うちの直ぐ裏なんて川原さんっていって、農業やっていたもの。東中野くらいだと田んぼのあぜ道もあったし。

一作:その頃なら、まだ東京にもあっただろうね。

清一:だって、おれんちから新宿駅が丸見え(笑)終電が来ると、「新宿ぅ〜、新宿ぅ〜」ってこだまして聞こえるんだから(笑)


河内一作

◇◆◇◆◇
 
 正に先端の東京の若者としての青春をおくった清一。その甲斐あって、平凡出版〜マガジンハウスと移行し、急激に右肩上がりに成長する同社のユースカルチャーの一翼を担うようになるのだが、そんな情報通の彼を驚かせたナイトシーンが、一作の実質初の夜のフロントラインとなる「クーリーズ・クリーク」だ。
 清一はこのレストランバーを、「カルチャーショックだった!」と言い切る。
 では、そんな時代の六本木と、その伝説の店に早速誘っていただくとしよう。

◇◆◇◆◇

ラジオアダン:後の職業が示すように、清一さんが青年期に熱中したのは、音楽やファッションだったのでしょうか?

清一:おれ等の時代って、皆、ビートルズが好きなんだけど、おれ、ひねくれもんだから(苦笑)ローリング・ストーンズの方へいっちゃって。

ラジオアダン:以前、雑談レベルですがお話を伺ったとき、ロックの前にモダンフォークに傾倒されていたとか?

清一:うん。
成城大学にアメリカ民謡研究会ってのがあって、通称“アメ民”。黒澤久雄さんがいたりして、

ラジオアダン:ニックネームはクロパン(笑)

清一:うん(笑)

一作:「若者たち」。

清一:うん、(ザ・)ブロードサイド・フォーね。
あと、青学もモダンフォークが盛んで、ニュー・フロンティアーズなんて人気バンドがいたりして。

一作:映画版の『若者たち』は見たことある?モノクロの。

清一:佐藤オリエさんと橋本功さんと、長男が田中邦衛さん、

一作:一番下が山本圭さん。
これ、以前に言ったかもしれないけど、それをリメイクしたのが、『ひとつ屋根の下』だよね。山本圭さんをキャスティングしたとこなんて、それを大いに匂わせている。
清ちゃん知ってるかな?あれ当時は共産党推薦の映画だった。

清一:うん。知ってる。

一作:うちの長男が共産党で、「お前、あれ見てこい!」って命令されてさ(笑)

清一:永福町に友達がいたんだけど、「永福町のパチンコ屋に、佐藤オリエと山本圭が一緒に入って行くのを見た!」とか騒いでいたよ(笑)

一作:ハハハハハ(笑)
佐藤オリエさんは、あの頃、人気絶頂のアイドルだもの。

清一:おれの憧れの人でもあった(笑)

ラジオアダン:同様のことがぼくにもあって、週刊誌レベルで軽く噂になっていた、大ファンだった竹田かおりさんと、大して好きでもないロックミュージックをやっていた甲斐よしひろさんの2人が、代官山の「聖林公司」に仲睦まじく入って来たのを目撃したときは相当気持ちが落ち込みました(笑)

一作:おれはそういうのはないな……。
ところで、竹田かおりさんって誰だっけ?

ラジオアダン:故松田優作さん主演ものの常連で、

一作:ああ、脱いだりしてる人?

ラジオアダン:ええ、日活ロマンポルノでは橋本治さん原作の『桃尻娘』に主演されていました。

清一:聖林公司は、それこそ、おれがいた、雑誌「ポパイ」のファッション・プロデューサーで、男性スタイリストのパイオニア、北村(勝彦)さんが(ゲン)垂水さんと仲いいじゃん。あそこが出来る前に、ヒルサイドテラスがあって、はす向かいに、えっと、……、メキシコ料理屋の、……、……、

一作:「ラ・カシータ」。
キラー通りの方も知ってる?デニー(愛川)がやっていた、「ハウル」ってバーのとこにハリラン(聖林公司)の最初の店があったでしょ。70年代の頃、あの螺旋階段のとこ。

清一:おれ、デニーは、原宿の今は伝説の店になっちゃった、

一作:「シネマクラブ」でしょ?

清一:そう、シネクラで知り合った。

ラジオアダン:へぇ〜、一作さんもシネマクラブには行っていたんですね。
業界人だらけの店ですよね?

一作:当時はね。
あの頃は一個店が出来れば皆そこに行っていたからね。で、また他が出来るとそっちに移る。
最初の「クーリー(ズ・クリーク)」くらいまではそんな感じ。

清一:そうだね。
そのクーリーが、おれに執ってのカルチャーショックだった。
というのは、それまでは水商売をやっている人達が話題の店を手掛けるんだけど、「ツバキ(ハウス)」や「玉椿」にしても。

ラジオアダン:一連のお店は、日新物産系列出身の方達が、その多くを手掛けていました。

清一:うん。
マハラジャの成田(勝)さんとか、セック(コーポレーション)の松山(勲)さんとかね。

一作:それはそれで過去の水商売とはちょっと違っていたんだけど、大体、その辺りの人達の運営体系って体育会系じゃん(笑)
だから、おれはそれを総して、“体育会系水商売”って呼んでいたんだ。ガハハハハ(爆笑)

清一:ガハハハハ(爆笑)

一作:そんで、クーリーだけが、なぜか文科系水商売。
ねっ、清ちゃんそうでしょ!?

清一:うん、間違いない。
まず、1981年に、一作と共通の友人である大山(典子)さんに、「高樹町に面白い店が出来るから」ってことでオープニングの日に連れて行かれたんだけど、「こんな広い地下の空間に、ぽつんぽつんと贅沢なゾーニングでテーブルが置いてある!」ってことがまずカルチャーショック。前述した一連の店も割とギュウギュウなゾーニングしかなかった時代だから。
あと、おれは前の店「シルバー・スプーン」も知っていたから更に驚きが大きい。
集まっていた人達も、DCブランドの「ニコル」とか「タケオ・キクチ」とかファッション系の人達ばかり。それと芸能人と、おれ等みたいなメディアの人間なんだけど、編集者として、おれ等もかなり異色な方だったからね。

一作:あの時代のマガジンハウスはガァ〜ンといっていたから、来てる人間の頭数が多かった。

清一:そんなマガジンハウス:ポパイの中で、おれが夜の店探しの特攻隊長で(笑)「面白い店が出来ましたよ」なんて北村御大に報告すると、数日後、同行して、おいしいところを、全部、北村さんが持って行くって流れ(笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)
そうそう。
北村組は清ちゃんもだけど、皆ガタイがでかいのよ。

ラジオアダン:北村さんってそんなに長身でしたっけ?

清一:でかいよ。皆180(㎝)越えだもの。
亡くなった御共(秀彦)くんもでかいでしょ。

一作:でかいのが皆で来て、あと(佐々木)ルリ子ね。

清一:ルリちゃんね。彼女は後半から参加するようになった。
もともとルリちゃんは、新宿「ツバキハウス」の主のような存在で、ニコルのプレスの連中とも仲がよかったり。
ニコルの人達も、昼間に青山通りで会って、「元気ですか?」なんてこっちが声を掛けると、「最近、地味になっちゃって」なんて照れくさそうに応える。だけど、夜は一辺して凄く派手なメークと衣装でクーリーに顔を出す(笑)

ラジオアダン:では、2人のファーストコンタクトは、大山典子さんの仲介で普通にカウンター越しに挨拶を交わしたということですね?

清一:否、……、おれはずうずうしいから、一段上がったバーカウンターの一番隅っこに勝手に座ったんだ。おれ、端っこが好きだから(苦笑)そこが後に定位置にもなるんだけどね(笑)そこから一作と話すようになった。
内容はと言うと、映画とボクシングの話。ボクシングなら、シュガー・レイ・レナードとか、トーマス・ハーンズと、

一作:一番いい時代。
ロベルト・デュラン、マービン・ハグラー、

清一:(フリオ・セサール・)チャベス、

一作:チャベスはちょっと後だね。

ラジオアダン:一作さんの雑談の内容が、全然、今と変わっていませんが(笑)

一作:基本、変わってない(キッパリ)

ラジオアダン:ガハハハハ(爆笑)
あと、少し音楽話?

清一:音楽の話は意外にもあんまりしなかったんだよ。

一作:音楽は店にあったからね。

ラジオアダン:店にあった?

一作:店にいつも溢れている。

ラジオアダン:ああ、成る程。

清一:レゲエを凄く新鮮に感じた時代だね。

一作:スタッフに、亡くなった(宮川)賢(左衛門)さんと、三木(哲志)くんとか、その流れに乗ったヒッピーサイドの人達もいたからね。

清一:あの頃はバーボン(I.W.ハーパー)をよく飲んだ。
おれが今でもよく覚えているのが、店の奥のボックスシートに飾ってあったモーゼの絵画。

◇◆◇◆◇
 クーリーズ・クリークに、早々に定席を確保した清一。
 やがて、ふたりの交遊は店外にも及ぶようになり、映画を介し、後に一作が、“男と男のワンシーン”と呼ぶ永遠に色あせない脳裏のスクリーンショットの名優となる。
◇◆◇◆◇

清一:そんなこんなで毎晩通って話しているうちに、マイケル・チミノ監督の話になって、『ディア・ハンター』の話になって、『天国の門』に繋がってゆく。

一作:そうそう。

清一:で、一作が店を終えてから閉館になる前の京橋テアトル東京にオールナイトの映画を観に行ったリ(笑)

一作:明け方、2人で車が全然走ってない中央通りを三丁目まで歩いて(笑)
今でも覚えているよ、あの頃のポパイのエディターはニットを襷がけにしてるんだ。
あれはなんていうファッションになる訳?

清一:いや、だからアイビー。

一作:アメカジってのは、もっと大きな枠組だよね?
アメカジっていつから云うようになったの?

清一:それも北村さんが命名したと思う。アメリカン・カジュアルってのはポパイからだから。
アメリカ本国の体育会系の、アメリカン・フットボールとかラクロスとか、ラグビーなんてのをやっている連中が、襟を立ててVネックのセーターを肩越しに掛けていた訳。
当時のファッション・ジャンル、“ヘビーデューティー”なんかもポパイが作った造語だよ。

一作:あの辺りでファッションが二派に別れる。トラディッショナルとヒッピー系。
正直なところ、清ちゃん達に会う前は、ポパイ系のファッションをおれは理解出来ていなかった。「興味ない……」と言うか、……、当時のおれ嗜好はヒッピー寄りの汚い感じを好んでいた。

ラジオアダン:前述したモダンフォーク派と関西フォーク系でも同様にファッション性が大きく違います。

清一:うん。
例えば、昔の遠藤賢司さんや、友部正人さん等と、モダンフォークはまるで違うようにね。
だから、“ニューヨークVS田舎”って感じに例えることも出来る。ウディ・ガスリーに対するキングストン・トリオやブラザース・フォアと云ってもいいんだけど(笑)

一作:都会派と自然回帰派ね(笑)
今でも都会派は野外フェスに馴染めないもの(笑)

清一:否、おれは好きだよ(笑)P.P.M.(ピーター・ポール&マリー)とか。

一作:そうじゃなくって、単純に虫とか嫌いでしょ?(笑)
山羊に乗って遊んだことなんてないでしょ?(笑)

清一:ハハハハハ(笑)

一作:おれなんて子供の頃は、山羊に乗ったり瀬戸内で釣った魚を浜辺で焼いて食ったりしてるんだから。

清一:だから、そこら辺がおれにとってのコンプレックス。
おれの魚釣りって云ったら、市ヶ谷の釣り堀の鯉だから(笑)
あれは、朝、魚に餌をたらふく食べさせてからオープンするんだよ。だから、中々釣れない(笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)そうなんだね。
おれは釣り堀の楽しさだけは未だに理解出来ない。

清一:あれは典型的な東京の遊びだから。

ラジオアダン:一作さんは物心付いたときから海釣り、川釣りが当たり前?

一作:そうだよ。普通に海と山と川があったから。伝馬船だっておれ漕げるし。

清一:そう。
話を戻しちゃうけど、カレッジフォークというと、東京で有名な団体で、「ステューデント・フェスティバル」というのがあって、

一作:それはどこでやっていたの?

清一:杉野講堂や文京公会堂。
そこに森山良子さんが出ていて、『この広い野原いっぱい』を唄っていて。おれが高校の時代だね。
そんなのに感化されて、ボブ・ディランの『ドント・シンク・トゥワイス・イッツ・オール・ライト』の3フィンガーのギターを練習したり(笑)

一作:ギターやってたんだ?

清一:一応ね(苦笑)
でも、手先が器用じゃないことがすぐに分かって(笑)

一作:年取ってから再開したっていいじゃん(笑)

清一:それは上手い奴に任せるよ。おれはこれだもの(手を前に伸ばし、なにかを丁寧に置くポーズ)(笑)

一作:囲碁か(笑)
ところで、なぜポパイの編集をやるようになったの?

清一:最初、『アンアン』で“キャンパスもの”をやるようになるんだけど、

一作:そのアンアンに入る切っ掛けは?

清一:だから、棚橋(芳夫)さんっていう人と、杉本亜鶴(あず)って人達がいて。亜鶴は、昔からのおれの憧れの編集者だったんだけど、その亜鶴が仲介してくれて、いきなり、「キャンパスから」ってコーナーを持たせてもらって、レギュラー陣の一画に加わって、

一作:淀川(美代子)さんが編集長になる前?

清一:うん、なる前。

一作:淀川さんや、貝島はるみさんもクーリーによく来てたなぁ〜。あと、北村道子さんも。そのへんのファッションリーダーは全員来てた。

清一:おれが親しかった女性スタイリストは、(堀切)ミロさん。
六本木に、「平凡パンチ」出身の人がやってる「ジェミニ」って店があって、夜な夜ないろんな出版社の遊び人や、(内田)裕也さん達が来る、もう、めちゃめちゃな状態の店(笑)
そこでミロさんが、「清一、飲めよ!」なんて感じで可愛がってくれて。

一作:「キャンティ」も行っていたの?

清一:勿論知っていたけど、あそこはおれの上の世代がメイン。(堺)正章さんやら、(ムッシュ)かまやつさんとか、GS世代の方々。
おれたちが六本木といえば、「(ザ・)バーガーイン」だね。鉄板でハンバーグを焼いてくれる店。

一作:あったね、バーガーイン(笑)
清ちゃん、あそこは、「ニコラス」は行かなかった?

清一:ニコラスは2軒あるじゃん。飯倉片町と……。
おれ達が行っていたのはパブ・カーディナルの上の方。

一作:ああ、あそこか。

清一:あそこは元々、福生に本店があって、そこから別れて六本木に進出して来た。
おれがよく通っていた時代は、阪急ブレーブスの(ボビー・)マルカーノとか、助っ人外人達のたまり場で(笑)おれは決まって、12インチのオニオン、マッシュ、ガーリックを頼んで(笑)

一作:たまに、ああいうの食いたくなるね(笑)
今は、生地が厚くてパンみたいなナポリピザ全盛で、あれはあれでいいんだけど、

清一:この間、当時の北村組の中須(浩毅)くんとも、「あれ、また食いたいね!」なんて話をしていたところだよ(笑)

一作:最近、あの薄い感じ少ないもの。

◇◆◇◆◇
 ゴールデン80’s、“よく働きよく遊ぶ”ハイパーな日々を送っていた清一。
 そんな彼が、当時、籍を当時置いていた、マガジンハウスというファッッション、カルチャーの不夜城は果たしてどんな希有な稼動を日常的にしていたのだろうか?
 皆が知りたいその秘話をなんの前振りもなく一作がここで単刀直入に訊き出す。
 さあ、ジェットコースターに乗ったようなレジェンド編集者の享楽の日々の回想の始まりだ。耳を澄ましてとくと聞け!
◇◆◇◆◇

一作:マガジンハウス全盛当時の編集者の多忙な一日を教えてよ。

清一:マガジンハウスは、平凡出版時代から社員でも既に自由出勤制だったから、当時、スタッフ全員が揃うのは夕方。
おれら社員でない者も、昼からの取材が終わって編集部に行くのは夕方。
その段階で、やっと皆居て、デザイナーも居て、レイアウト出しをして、それが上がるまで3時間くらい麻雀やったり駄弁ったりして(笑)それから原稿を書く。

一作:じゃ〜、夜中に編集部で仕事をしていた訳だ。

清一:そうそう。
そんな感じのタイムテーブルでも遊び足りないから、いろんな夜の店に行っていた(笑)

一作:大体、12時過ぎに来ていたもんね。

ラジオアダン:遊びの方のタイムテーブルもお訊きしていいですか?

清一:重複するけど、集合場所はピザ屋で(笑)ニコラスね。で、玉椿に行って、

一作:それ集合かけるのは誰なの?
「清一、皆を集めろ!」なんて感じで北村さんが言い出すとか?

清一:そうそう(笑)
うるせ〜じじいだから、あの人も。ガハハハハ(爆笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)

ラジオアダン:腹ごなしに玉椿で踊って?

清一:うん。
まあ、おれらは日新グループ系は顔パスで、「どうもぉ〜」で入って、VIP席に通されて(笑)それから、「トミーズ・ハウス」に行って、富久(慧)くんのところね。そこから高樹町方面へ流れて。
でも、それもクーリーを知ってからはなくなって、もう、クーリー直行になっちゃった(笑)

ラジオアダン:ご飯も食べられるし?

一作:否、清ちゃんたちが来る12時過ぎは、もう、食事がオーダーストップした後なんだ。

清一:でも、特別に三木くんが作ってくれたり、

一作:三木くんじゃないでしょ?小西(修二)くんってシェフがいて、

清一:あと、須藤(義昭)ちゃんとかさ。

一作:そうだね。
小西くんはクーリーが終わった後、世界一周して、今は島根に帰って農業やってる。須藤ちゃんは松江。
まったく飯がないときは、貝柱を解したやつを皆で食って(笑)

清一:飯がないと、厨房、ドォ〜ンって入って行っちゃうんだもの。ガハハハハ(爆笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)
この酔談に以前出てくれた、亀(井章)ちゃんや、同じ仙台チームの小野(正人)ちゃんも正にそんな感じ。

ラジオアダン:それじゃ〜、完全にじぶんちじゃないですか!?(笑)

清一:ハハハハハ(笑)
話を正道に戻すと、クーリーでかかっていたレゲエなんて音楽は、実はポパイも取り上げるのは早くて、現地取材に、後に編集長になる岩瀬(充徳)さんが行ったりしていた。

一作:岩瀬さんは社員な訳?

清一:うん。

一作:その辺、マガジンハウスって面白いよね。

清一:社員と外部に変なラインがないんだよ。おれみたいな外者でも自分のディスクがあって。でも、そこに辿り着くまではそれなりに大変なんだけどね(苦笑)
おれは優遇されていたのかな?(笑)また話しを戻しちゃうけど、おれはキャンパスものをやっていたくらいだから、女子大生を沢山知っていた訳。

一作:おお、いいね(笑)
その割に、おれには一回も紹介したことない(笑)

清一:田園(調布)雙葉(学園)を含め、フェリス(女学院大学)とか(東京)女学館(大学)とかの、女生徒のアドレスがドバァ〜となるくらいのネットワークを持っていたの(笑)
で、それに目を付けた「ポパイフォーラム」担当の後藤(健夫)くんに呼ばれて、初めてオフィスへ行った。後藤くんは仕事より完全にそのアドレス目当てだったはず(笑)

一作:ハハハハハ(笑)
キャンパスものってなんかいい響きだね(笑)

清一:うん。
フェリスの愛犬研究会とか凄かったな。皆、お嬢様で。当時はそんな感じでちょっと珍しいグループを取材対象にしていた。
今だから言うけど、その頃はおれも若かったから、それなりに唾付けたりしてね(笑)
一作には紹介しなかったみたいだけど(笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)
ほんとに一回も紹介されたことないよ(笑)

清一:だっておれ、「一作は常にいるもんだ」と思っていたから(笑)

一作:いやいやいやいや(苦笑)
清ちゃんとの色っぽい逸話は、……、ハハハハハ(思い出し笑い)、一回、プレゼンで関西に行ったときの、福原?有名なソープ街の。
あれ、なんの仕事だっけ?
「レストランを作る」なんてことだっけ?

清一:そうそう。
最初、おれのところに話がきたんだけど、おれ、本業じゃないから、一作と、賢ちゃんと、あと、山根(義行)くんに同行してもらって(笑)

一作:ここで山根くん登場!(笑)ヤーマン(ニックネーム)ね。

ラジオアダン:おお!オールスター・キャストですね!(笑)

一作:そう!(笑)
山根くんはヤーマンと呼んでいた。キャラクターが面白い男で、時々、おれのエッセイにも登場する。今はバンコック在住。
まあ、彼とはよく遊んだね。

清一:4人揃って、福原に行って、賢ちゃんだけがなぜか○○を移されて(笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)

清一:で、仕事は最終的に破談になるんだけど、というか、やらなくてよかった案件だね。

一作:うん、あれはやっても厳しかった。

清一:結局、その後、一作の提案で淡路島へ足を伸ばすことになる。「清ちゃん、この海の向うにいい島があるんだよ」なんてことで(笑)
所持金も底を付いていたから、ホテルに、「素泊まりでいいから」なんて交渉して島に滞在したんだけど、そのときになしを付けたのが、このタコ!(テーブルの明石ダコを指しながら)

ラジオアダン:ガハハハハ(爆笑)

一作:旅の帰りに、魚屋でタコの生きてるやつを皆して買って帰ったんだけど、

清一:グリーン車の棚に全員で並べちゃって(笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)
それを家でもんでさ、食べたんだけど、やっぱ明石のタコだから美味いんだよ。

清一:美味しかったね(笑)

一作:それで、三田のアダンを始めるときに送ってもらって店で出すようになった。

清一:一作、覚えてるかな?当初の目的は、「洲本に美味い寿司屋があるから行こう!」ってことだったんだよ。

一作:ああ、そうだそうだ!
当時は、明石大橋はなかったから船で行ったんだけど、今の車での移動だと1時間半もかかる。

清一:徳島に行かなくちゃならないからね。

一作:あの頃は、神戸港から高速艇で洲本までたった40分。そんなだから、「ちょっと行って寿司食って帰ってこようよ」なんてイメージで軽く言っただけなんだ。

清一:で、行ってみたら、お目当ての「寿司清」はやってなかった(笑)
しょうがないから、違う寿司屋に行ったんだけど、これがまた正解で。
店主の弟が漁師で、瀬戸内海の新鮮なネタを優先的に仕入れられる店。
でも、山根くんが、いつものウンチクを長々と話し出して、それを聞いていた一作がカチンときて(笑)

一作:あいつは神戸、兵庫の人間だから、地元淡路の瀬戸内の魚の自慢を過剰にする訳さ(笑)例の延々続くウンチクだよ(笑)
おれ、凄く我慢してたんだけど、そのとき、淡路にいるもんだから超上がっていて、いつもに増してうるさくて(笑)
その辺、山ちゃんらしいんだけど、あいつ本当におしゃべりだからね。
お会計して店の外に出た瞬間に、「うるせぇ〜んだよ!」ってヤーマンにチョーパンくらわした。映画の『パッチギ!』みたく。
そしたら、ヤーマンが後ろ回し蹴りかなんか空振って、まあ、兄弟ゲンカみたいなもんだな。ガハハハハ(爆笑)

清一:ガハハハハ(爆笑)
で、ホテルに帰るんだけど、一作だけいなくなっちゃって(笑)
後日談だけど、なんでもその後に一人で地元のスナックに入ったら、常連の漁師の親父さん達と話が弾んじゃったらしいんだ。
そのときのことを、「『星屑の酒場』ってタイトルでエッセイにしたい!」なんて言い出して(笑)

一作:そうそうそうそう。
あのときは面白かった。結局、稲田くんの媒体、……、「シティーライツ」かな?……、で、エッセイを書いたんだ。タイトルを、「明石のタコ、淡路のコナ」に変えて。
丁度春先で、そのスナックのカウンターにシラスの親分みたいなのが置いてあって。その魚を洲本ではコナと呼ぶんだ。
コナのメスは春先になると腹がピンク色に染まる。「昔はそのコナが岸壁まで沢山近づいてきて海がピンクに染まる」なんて話を漁師さんがしてくれて。
きみ(進行役)は知らないかもしれないけど、要は、コナはいかなごの子供。いかなごを煮ると“くぎ煮”っていって、洲本特産の甘辛いつくだ煮になる。

清一:でも、あの珍道中でおれの人生観が随分変わったよ(妙にしみじみと)

一作:変わってねぇ〜よ!全然。
ガハハハハ(爆笑)
おれの方が人生的には大きく変化してない?
タコでアダンって店が出来たんだから(笑)おれ、タコ成金か!?!?ガハハハハ(爆笑)

清一:ガハハハハ(爆笑)
そういう意味でも、おれってやっぱり特攻隊だ(笑)

◇◆◇◆◇
 流石は、“常連ナンバー栄光の1番”、三田「アダン」の名物料理の誕生にも介入していたとは!!
 ここで急に、2人の食の旅の回想は、淡路島から東京:恵比寿に大きく舵を切る。
 そこで浮き上がるのは、夜明け前の恵比寿の屋台を舞台にした一作ならではの妄想口頭文学。
 そのフワっとした味わいがまたじつによい。
◆◇◆◇

清一:その関西への旅でも美味いものを沢山食べたけど、やっぱり一作は美味いものをよく知ってる。
恵比寿のこっち側(東口)の通りの突き当たりに鰻屋が昔あって。覚えてない?

一作:うん、……、……、あっ、あれでしょ?今でいうガーデンプレイスの方でしょ?

清一:そうそうそう。

一作:あの角の一軒家ね。煙がもうもうで(笑)

清一:あそこの鰻が美味しくてさ。

一作:あそこはビルを建てて今は地下に入ってるけど、当時の迫力はないね。
やっぱりあそこはもうもうなのがよかった。

清一:そういう店に一作は連れて行ってくれる訳。
同じ恵比寿の屋台もそうだし。

一作:「おゆき」さんね。

清一:おれらがおゆきで飲んでいると、ベンツを横付けして銀座のクラブのねぇ〜ちゃんをはべらした社長然としたバブルな奴が来るんだけど、結局、おれらがつまみ食いしちゃう。
ガハハハハ(爆笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)
おゆきの後ろに公衆電話があって、そこに予約の電話がかかってくるんだ(笑)
清ちゃんが言ったように、着物着た銀座のお姐さん達がお腹減らして、深夜おゆきに食べに来るんだけど、あそこは近くにトイレがないから、「お兄さん、ちょっと付いてきてくれない?」なんて言われて付いて行くと、「見張ってて」なんて言って、最寄りの駐車場の影で着物を上げて用をたす。

清一:ガハハハハ(爆笑)

ラジオアダン:なんか、つげ義春原作映画のワンシーンみたいな、

一作:そうそう。ある種、つげ的なんだよ(笑)
おれ、そのシーンは「(ライスペーパー)88」の連載で書いたよ。
「見ちゃいけない」って思うから、月なんて出てないのに、空に向かって月を見るいふりをしたりして(笑)でも、耳で、“その”音を懸命に追っている(笑)

清一:ガハハハハ(爆笑)
多分、いい音だよ(笑)

一作:で、ぱっと下を見ると、その液体が流れてきている(笑)

ラジオアダン:今度は、清水美砂さん主演の今村作品みたいですね(笑)

一作:今村昌平監督のね、……、赤い、……、えっと、……、『赤い橋の下のぬるい水』。

ラジオアダン:ですです。

一作:あれ最高!
あれの清水美砂の演技は凄い!今村監督も多分、ああいう女に出会ったことが実生活の中であるんだよ。

清一:この間、『シコふんじゃった』をたまたま見直したんだけど、随分若いときだけど、やはり清水美砂はいいよね。マネージャーみたいな役で。

一作:清水美砂って誰と結婚したの?
おれ、清水美砂とつきあいたぁ〜〜〜〜いぃぃ〜!!(妙に可愛く)

ラジオアダン:(スマホで検索中)……、……、……、……、……、清水さんは、在日アメリカ軍人のチャールズ・バックリーさんって方と結婚して、今はアメリカに住まわれてますね。

一作:あっ、つまんねぇ〜な、次の話題にゆこう!(なにもなかったかのように超あっさりと)

◇◆◇◆◇
 希代の女優も、利かん坊が、望んでもいない自らの話題に飽きて、LEGOのブロックを壊すように投げ出されては、流石に立つ瀬もないだろう(笑)
 が、彼女に執ってのせめてもの救いではないが、この後もぶれることなく引き続き映画をテーマに、照れ屋の2人が珍しく、“ヒューマニズム”について長尺で熱く語り合う。
 そう。恒例のあのコーナーに突入。
◇◆◇◆◇

一作:これ結構、この酔談では恒例化しているんだけど、映画の話に戻ったところで、清ちゃんの選ぶ、オールタイム・ベスト5をランダムに上げてよ。

清一:そうだなぁ〜、……、この間、娘達やその亭主に、「どの映画観たらいいですか?」なんて訊かれて、一番最初に出てきたのが『勝手にしやがれ』。

一作:(ジャン=リュック・)ゴダール。

清一:うん。
ジャン=ポール・ベルモンドと、セシルカットのジーン・セバーグ主演。
「こういう、ちゃらんぽらんな生活っていいなぁ〜」なんて憧れて。

一作:そんなこともあり、清ちゃんは、おれのことが好きなんでしょ?(笑)

清一:ガハハハハ(爆笑)
まあ〜ね(雑に)

一作:清ちゃんにはそれが出来ない。真面目だから。

清一:そうね(苦笑)
それは云えてる。おれ自分が、「真面目だ」と思うもの。

一作:おれも友達の中で一番真面目なのは清ちゃんだと思う。
あの映画の最後に、ベルモンドが撃たれて長回しで走りながらさ。
あれは、鈴木杏と、主演、誰だっけ?……、……、

ラジオアダン:廣木隆一監督の『軽蔑』のことですか?

清一:高良健吾。

一作:そう。
『軽蔑』のラストシーンは完全にゴダール。『勝手にしやがれ』。

清一:成る程ね。

一作:高良健吾が撃たれて、和歌山の商店街をずっとのたうち回りながら歩くんだけど、かっこいいよね。

清一:でもさ、高良健吾の役どころって一作そのものじゃん(笑)
地方のぼんぼんが東京に出てきて、新宿のストリッパーもどきに惚れちゃって(笑)

一作:東京も世の中も知らなくて、居られなくなって田舎に帰るんだけど、親父に蹴られて(笑)

清一:あの親父さんは(小林)薫さんだっけ?

一作:そう。
あと、緑魔子さんが凄かった。

清一:うん。
あの映画で魔子さんがママをやっていたああいうバーに行きたいね。
海辺にある一軒家の鄙びたバー。

一作:場末感のある店はおれもやりたいんだけど、あれは余裕がないと出来ない。

清一:それと、そういうのって、まず、ママにああいうおばはんがいないといけないんだよ。

一作:そうなのよ。

ラジオアダン:前回のゲスト、桜井(莞子)さんのときに話に出た、西麻布「ホワイト」のミーコママは一種そういう感じを醸し出していた方なんじゃないですかね?

一作:だから、あの時分の、ミーコさんとか、あと、「インゴ」のよしおとけんちゃん。ああいう感じはやっぱ新宿からの流れだから。……、おれには無理だね。第一、新宿ゴールデン街はちょっと辛いし(笑)

清一:全盛期のゴールデン街も大枠では業界人のたまり場なんだよ。だって、おれがポール・スミスを案内したくらいなんだから(笑)
ごめんごめん映画の話から随分外れちゃったね(笑)

一作:はい!では第二位!(笑)

清一:ロバート・ワイズ監督。

一作:なに?

清一:『サウンド・オブ・ミュージック』

一作:そこは意外だね。

清一:凄くヒューマンなんだもの。

一作:おれも子供の頃に観て好きだった映画は、あれと、『眠れる森の美女』。その二つ。

清一:ワイズ監督だと、その前に『ウエスト・サイド物語』を観ているんだけど、やっぱり、『サウンド・オブ・ミュージック』。
実話にもとづいていて、大佐役のクリストファー・プラマーの7人の子供の家庭教師としてお転婆娘のジュリー・アンドリュースが修道院からやって来て恋愛に落ちたりと、ベタな設定なんだけど。史上初めて唄われた『マイ・フェイヴァリット・シングス』があまりに素晴らしく、実にヒューマン。おれ、極端なんだけど、後はやっぱり『ディア・ハンター』。
他人には関連性が分かり難いかもしれないけど、ヒューマニズム?今語っている作品全てにロマンがある。
『ディア・ハンター』も男の友情の話じゃん。ああいう、命?戦争があったことでベトナムにとり残されてしまう男を迎えにロバート・デ・ニーロが出向てくっていうさ。
アメリカに実際に住んでないとピンとこないかもしれないけど、やっぱりもともとが移民の国じゃん。

一作:白系ロシアでしょ?

清一:うん。
その深い結び付きが、「いいなぁ」と思う。

一作:清ちゃんと、かなり長く付き合ってるけど、これだけヒューマンな話をしたことはないね(笑)

清一:ないね。
ガハハハハ(爆笑)

一作:『ディア・ハンター』の白系ロシア人の結婚式のシーンで、えっと、……、……、ジョン・カザール。『ゴットファーザー』にも出ていた。
あのシーンで、皆でフォークダンスを踊るとき、『黒い瞳』がかかるんだよ。
あれ、違うか、……、……、そうだ!『コロベイニキ』だ!
あれ観た時、中学校でフォークダンスを踊ったときのことを思い出した。

清一:おれたちの方は、『オクラホマミクサー』。
女の子の手に触れるって当時は普段ないこと。

一作:ドキドキするよね(笑)

清一:うん。
ガハハハハ(爆笑)

一作:今、中学でないでしょ?フォークダンスって。
おれ、あれは絶対やったほうがいいと思う。

清一:今こそ、真面目に焚き火を囲みながら、“フォークダンスを踊る会”を作るってのはどう?(笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)
それ、おれに期待しないでね(笑)
フェスでトランス風にアレンジしたリミックスものじゃないと難しくない?

清一:いやいや。
『マイムマイム』のときは、嫌いな奴を事前に真ん中に置いといて、火に追いやる!(笑)更に蹴りを入れて(笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)
(話を遮るように)はい次!第4位!

清一:『ET』。
映画館の中で泣いた唯一の映画。

一作:そうかぁ〜、ヒューマンだもんな。
清ちゃん、立派だよ、あれで泣くってのは。清ちゃんは、やっぱり牧師か教師になるべきだったね。
おれが清ちゃんを好きなのは、……、清ちゃんって凄く真面目だから。

清一:まあね……。
3億5千万円をドブに捨てちゃう人間だからさ(笑)

一作:自分の家を抵当に入れて事業して、まあ、騙されてもいいんだけれど。
ものの見事に失敗して、ものの見事に孤独になって。
でも、それを、おれと飲んだときに一言も愚痴らない。

清一:うん、言わない。
言ってもしょうがないもの。

一作:怨み辛みを一言も言わない。

清一:うん。

一作:そこが好きだし、清ちゃんのかっこいいところ。
沈黙。男は黙っていることも大切。
で、『ET』はどんなところが好きなの?

清一:まず、ストーリーとして、“だれが観ても分かる”。
要は、ETは外来生物で、それと人間が触れ合う有名なシーンがあって。そこでおれは泣いてしまったんだけど……。
やっぱり、こう、触れ合い?みたいな、ホッとする部分が。実に単純なことなんだけどね(苦笑)

一作:はい、じゃ〜最後の1作。

ラジオアダン:ひとつくらい邦画を頂くとか、

一作:いいね。じゃ〜邦画で!

清一:そりゃ〜、『雨月物語』とか、……、やっぱり溝口健二、小津安二郎は基本的に好き。だけど、……、日本か、……、大島渚の『絞死刑』かな?

一作:渋いね。暗いし。

清一:あの時代は、おれ、(日本)アート・シアター(・ギルド)の作品は欠かさず観ていたの。新宿文化って劇場で。

一作:おれは日劇の前で観てた。

清一:アート・シアター・ギルドが制作費一千万の中で作る、

一作:制作費一千万ってのも凄いよね(笑)

ラジオアダン:大島渚監督がインディペンデントに移行した時代ですよね?

清一:そう。
その後に、篠田正浩、松本俊夫。
松本俊夫はピーター主演の『薔薇の葬列』が好きだった。
他、勅使河原宏、黒木和雄、

一作:おれは、黒木和雄は、『祭の準備』が好きだった。竹下景子が初めて脱いだやつね(笑)

清一:あとは、『龍馬暗殺』か。
今思うとおれ、飲みに走る前は、毎週くらいのペースでアートシアターの作品は観てた。

ラジオアダン:一作さんがA.T.G.を好きなのは想像出来ましたが、清一さんは実に意外でした。

清一:いや、おれは基本的に、『橋のない川』とか全部観てるから。

一作:“脱ぐ”なんてふざけて言ったけど、日活ロマンポルノ出身の女優陣が沢山生き残っていることは本当に素晴らしいね。白川和子さんなんてれっきとした名女優だし、それも当然なんだ。
と云うか、もともとあの方達は女優なんですよ。女優という高い意識があるから生き残っている。おれ、絵沢萠子さんなんて大好きだった。エロチックだし演技は上手いし。
だからつくづく思うのが、AVは、……、流石に全部とは言わないけど、只やらせるだけのバカな女が自分のことを、“女優”なんて思ってること自体が腹が立つしありえない。

清一:分かる分かる。
『借王(シャッキング)』って哀川翔主演の映画があるんだけど、哀川翔に貢ぐ女が絵沢萌子さん(笑)京都の金融屋で銀行員の哀川翔に15億預けるんだけど結局使い込まれて、

一作:あれ面白いよね(笑)

ラジオアダン:ピラニア軍団だった志賀勝さんや美人女優の夏樹陽子さんが同じく主演で、

清一:うん、出てる出てる。

一作:志賀勝さんがまた凄くいい!(笑)
相当、作風は違うけど、前回話した『麻雀放浪記』みたいに3人共はまり役。

ラジオアダン:オールタイム・ベスト5で、シャッキングで〆とは意外でした!(笑)

一作:あっそうか。絵沢萌子さんの話からそうなったのか(笑)
あと、春川ますみさん。あの人も昭和のね、……、もう、只々素晴らしいね。

清一:『赤い殺意』。

一作:うん。
日活ロマンポルノは、日活が最後の最後にやむ得えなくあの路線で屋台骨を支えていた訳。宮下順子さんなんて最高の女優じゃん。

清一:片桐夕子さんも、『女高生レポート 夕子の白い胸』ってのがあって、その後、団地妻シリーズにいって人気を決定付ける。

一作:あと、『北の国から』に出てる、……、誰だっけ?
『男はつらいよ』のタコ社長の娘役だよ。

ラジオアダン:ああ、美保純さん。
ロマンポルノだと、ジョージ秋山原作の『ピンクのカーテン』が有名ですね。

一作:ああいう人達は女優として腹括ってるんだよな。

ラジオアダン:日活ロマンポルノは、監督、脚本家、俳優陣と、当時そこでしか活躍の場がなかった若手達が沢山関わっていたので、現場自体が凄く熱があったのではないでしょうか。
一作さんが好きな俳優さんでは山谷初男さん。あと、風間杜夫さん等の演技派も若手時代は積極的にロマンポルノに出演されていた。

清一:山谷さんはおれの場合は、若松孝二監督の、『胎児が密猟する時』ってグロテスクな作品での演技が印象的だった。

一作:70年代はそういう作風が多かった。
おれは、上京すぐは金もないしやることもないから、住んでいた井の頭3丁目最寄りの二番館に行く訳。三鷹にもあったし、あの頃、一杯、二番館があった。

清一:吉祥寺駅前にスバル座ってのもあった。その裏が武蔵野公会堂。
おれは鍋屋横丁のオデオン座によく通った。
オデオン座は洋画の3本立てで、朝9時から始まって観終わると、丁度下校時間(笑)そのまま家に帰って、「ただいま!」で一日終了(笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)
この前のゲストの桜井さんもそんな感じだったね。彼女の場合は映画館じゃなくってジャズ喫茶でのライブだったみたいだけど(笑)
東京人はいいよな、そういうところが幼い頃から一杯あって(笑)
そりゃ〜学校なんて行かなくなるはずだよ

◇◆◇◆◇
 酔談は当然ながら、“話が飛ぶ”という現象が多々起きる。
 当然のことである。飲酒しながら、しかも雑談という不文律に則っているのだから。 
 そんな中、今回は特に飛びに飛びまくった印象があるが、これに関しての要因は飲酒と違うところにあるのではないだろうか?
 それは、“信頼”??
 まず2人は、会話の守備範囲を想定していない。投げたボールが取れようが取れまいが、お互い、「どうでもいい」という域にまで信頼しあっている。
 さて、ここまでの域に達してしまった関係が、今後、進展することは可能なのだろうか?
 それを可能にするのは、仕事や遊びを共にするのではなく、一作の造語通りの、“男と男のワンシーン”を久方ぶりに上書きする、新たなる時間作りではないだろうか?
 そんな筆者の思いが伝わったのか?更なるフェーズへの切っ掛けを、瞬時に一作が切り出す。すかさず清一もそれに呼応。
 清一が示したその先には、眩しい程に豊かなヒューマニズムを湛えたあの島が見える。
◇◆◇◆◇

一作:清ちゃん、だから、男と女じゃなくって、男と男のシーンってあるじゃん。
おれはそういうのが凄く大切だと思うんだ。
例えば、今、この酔談の進行をやってくれているエンドウくんとだったら、ライブハウスの『音楽実験室 新世界』を一緒にやっていた頃、毎年花見の時期になると、“店を辞めるか続けるか”の話し合いをしながら、五反田から目黒川のあまり人気がいないところを目黒まで桜を見ながら2人で歩く。で、おれが、「流石に今回の更新時で締めよう」と断腸の想いで言う。でも、エンドウくんは、「もったいないです。せめてもう一回更新して、あと2年やってから辞めましょう!ぼくが絶対にスポンサーを見つけてきますから!」なんて言って覆す。
で、清っちゃん、連れてきたスポンサーって、どんなだったと思う?
それが、企業じゃなくって、おれもよく知ってる友達連中から一律月5万円を徴収(笑)
それ、スポンサードじゃなくってカンパだよね(笑)砕いて言えば、“おなさ”けじゃん。
ガハハハハ(爆笑)

清一:ガハハハハ(爆笑)

一作:それで、結局、店を続けて赤字は更に膨らむ。でも、それがおれに執っての男と男のいいシーンで、友人達がカンパしてくれたことも、凄くありがたかった。
同様に、おれの中での清ちゃんとの名シーンって、前述した、テアトル東京での、『天国の門』を観て、明け方の帰り道、清ちゃんがいかにもアメカジなニットを襷掛けしていて、中央通りを2人で京橋から三丁目まで歩いたあれなんだよ。
ちょっと綺麗過ぎるかもしれないけど(苦笑)

清一:おれもあれは鮮明に残ってるよ。

一作:そういうのがあるんだよ、男と男のシーン。
おれは男と女のシーンは、残念ながらあんまりないんだけど(笑)いつか話すけど、亡くなった賢さんともそんなシーンが実はあるの。
新たなシーン作りのために(笑)久しぶりに2人で旅でもする?清ちゃんは今どこか行きたいところはあるの?

清一:いや、だから、おれは淡路に行きたいんだよ。

一作:淡路島?
前回は清ちゃんが金出してくれたから、今回はおれが出そうか。

清一:おお、いいね(笑)

一作:淡路一泊くらいなら、人工透析の方は大丈夫なのかな?

清一:大丈夫、大丈夫。
じゃ〜、金曜日発ちで月曜日の午前戻りだな?

一作:そんな、二泊も出来るの?

清一:病院は月曜の午後からだから大丈夫。

一作:金曜は何時に発てるの?

清一:午後8時なら東京を発てる。

一作:まあ、あれだ。人工透析なんて、ヤクが切れたようなもんなんだな(笑)

清一:ガハハハハ(爆笑)
いや、そういう軽いもんじゃないね(笑)

一作:(芝居がかって)「ヤクが切れた!!打ってくれぇ〜〜〜〜!!!」って(笑)

清一:そうゆうんだったら喜んで毎日行くよ!(笑)

一作:オッケー、じゃ〜、今日のところは一旦そういうことで!
久し振りにゆっくり話せて楽しかったよ!

清一:ありがとう!旅の方、楽しみにしてる(笑)
 
◇◆◇◆◇
 前回のバブル期の狂乱の中でのビジネス絡みの島旅ではなく、自身のタイムテーブルをゆっくり廻るような感慨の中、新たなシーンを紡ぐために2人は約束の地へまた向かうようだ。
 前回の旅の手みやげは、一遍の随筆と明石のタコ。このカップリングも調和という概念からは大きくからかけ離れたものだが、齢を重ねた今回の土産は更に理屈を越えたものになるのだろう。
 だって、人生の殆どの出来事は、酔っぱらいが酒場で夢想したことを、神様が空模様に沿って暇つぶしにチョイスしているだけなのだから。
 とぅ・びー・こんてぃにゅーど

@奥渋「家庭料理 おふく」

テキスト、進行:エンドウソウメイ

写真:門井朋

●今回のゲスト

鈴木清一/プロフィール

1951年東京都生まれ。プロデューサー、エディター。
中学時代から映画にはまり年間100本以上観まくる。『勝手にしやがれ』でジャン=リュック・ゴダールにはまる。同時に、ジーン・セバーグのセシルカットにもはまり、ショートカットの女性に夢中になる青年期をおくる。
1976年、平凡出版『アンアン』の人気企画“キャンバスもの”の編集担当を皮切りに、『ポパイ』、『オリーブ』とメジャー誌のレギュラーライターを歴任。
1986年には、プランニング会社、(株)オビワンを設立し、ニッカピュアモルト雑誌広告でマルチプル部門金賞を受賞。
一方で東京ナイトライフの達人でもあり、1981、年高樹町にオープンした『クーリズ・クリーク』でバーテンダーだった河内一作と出会い、以後、一作の作るカクテルに惚れ込み毎晩通う。特に一作考案のカクテル“ハバナクラブショット”は今でも愛飲。その後の、代官山『スワミ』、青山『CAY』、広尾『ケセラ』、三田『アダン』、渋谷『家庭料理 おふく』と、一作が起ち上げた店全てに毎晩出没し長年和みの生活をおくり現在に至る。


河内一作/
山口県生まれ
八十年代から霞町クーリーズクリーク、青山カイなど常に時代を象徴するバー、レストランの立ち上げに参加。九十年代、仕事を辞め世捨て人となる。
六年間の放浪生活の後社会復帰し、アダン、青山タヒチ、白金クーリーズクリーク、音楽実験室新世界、奥渋バー希望、南洋ギャラリー、など手がける。お楽しみはまだこれからだ。