黄昏ミュージックvol.16 I STAND ALONE(一人)/井上堯之

 60年代の訪れと共に生を受けた筆者に執っての洋楽との出会いには、必然的に、その時代を席巻していたグループサウンズなるものがその橋渡しとなっていた。
 1965年、ドイツのアイドル的ロックバンド、ザ・レインボウズが「バラ・バラ」なる単純な構成の英語曲をヒットさせた。
 当時5歳の筆者が入学したての校庭のブランコで遊んでいると、2つ程歳下の小柄な少年が「♪アベビベビ バラバラ♪」(実際は『♪My Baby Baby Balla Balla ♪』と歌っている)と取り憑かれたようにそれだけを大声で繰り返し唄うのだが、そのバラバラ小僧は他に何も話すでもなかった。
 連日同じ場所に姿を表すその子を、筆者や友人たちは面白がって「『バラ・バラ』歌ってよ」と急き立て、その子も拒むでもなく無数の歌唱を続けた。
 “流行歌”とはよく云ったもので、筆者たちはやがて腫れ物が取れたかのように「バラ・バラ」なる曲がなかったかのように忘れていった。それと時同じくしてバラバラ小僧もどこかへ姿を消した。
 2年後の67年、GS群の中でも特に好きだったザ・スパイダースが「バラ・バラ」をカヴァーするが、バラバラ小僧を介し急激に消化してしまったその楽曲に筆者が再度興味が湧くことはついになかった。
 スパイダースはムッシュかまやつ、大野克夫という優れたコンポーザーを抱えていたが、彼等からの大いなる影響もあり、解散後、井上堯之がコンポーザーとして飛躍する。
 そして、本年5月2日、黄昏時にこの名曲を残し身罷る。(se)

「連載対談/『酔談』vol.8」ゲスト:相原誠氏 ホスト:河内一作


 “酔談”。見ての通り、酔って語らうこと。当然、造語である
 酔っているがゆえの無軌道さ、無責任さ、大胆さ、自由さをそのまま気取らず飾らず実況する、それが「対談連載/酔談」の全てである。
 アダングループ代表、河内一作が東京の夜のフロントラインに初めて立った、1981年の「クーリーズクリーク」から現在に至るまで、彼が関わった店が、単なる飲食店におさまらず“自由なステージ”としての酒場の背景を演出出来えた“要”ともいえる大切な友人達を毎回招き、テーマなしのゼロベースから美味しい酒と肴の力を借りつつ今の想いを語り尽くすトークラリー。
 さて今回は、キャロル、ダウンタウン・ブギウギ・バンドと、日本ロックシーンのメインストリームで数々の名演を残すドラマー相原誠氏(以下敬称略)をお迎えし数えて第8回目となるコアなトークセッションをお馴染みの泉岳寺「アダン」1Fフロアーで決行。
 ドラマーはもとより、一作同様、バー、ライブハウスの経営、はたまたラーメン店開業、それにも飽き足らず古物商もと、多羅尾伴内並に複数の顔を持つ相原誠。
 そんな話題に事欠かない人物だけにロングランなジャムセッションが予想される。
 わくわくする予感の中、意外にもオーソドックスな、ルーツ、そして2人の出会いから緩やかにリディムは刻み始める。
◇◆◇◆◇

アダンラジオ:(レコーダーの位置、レベルを微調整中)

相原誠(以下誠):いいね、こういうふうに丁寧にセッティングするのって(笑)

アダンラジオ:ダウンタウン(・ブギウギ・バンド)時代はしょっちゅうインタビューされて、いい加減、嫌だったんじゃなかったですか?笑

誠:まあね……。
こう、物事にこだわるっていうのがいいよ。

アダンラジオ:誠さんこそ、こだわりの権化じゃないですか!?
ある日突然、骨董品屋さんになってみたり(笑)

河内一作(以下一作):骨董品までやってるんだっけ?
ラーメン屋はやめたんだよね?

アダンラジオ:ブルースとラーメンの店(笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)
なんでブルースとラーメンな訳?

アダンラジオ:ですから、ブルースを聴きながらラーメンを食べるというコンセプトだったんですよね?

誠:うん、そう。
人間って不思議なもんで、いろんな麺を試したけど……。
俺、生まれが秋田じゃん。
で、たまたま、「紀伊国屋」でやっていた、ラーメンフェアで買ってきた秋田の麺が実に俺好みで。これが俺のスープにまた合うんだよ。麺が凄く細くてさ。

一作:秋田県出身なんだ。
いつまでいたの?

誠:15の時には、もう秋田からドロップアウトしていたよ。

一作:家出した?

誠:うん、そう。
今も家出中みたいなものだけどさ(笑)

アダンラジオ:では、高校を途中でやめられて、

誠:高校なんて行ってないから。
中学も最後の方は行かなかった。

アダンラジオ:めちゃくちゃ早いドロップアウトですね(笑)

一作:早いね〜。
ガハハハハ(爆笑)

誠:学校って、……、要はものの考え方よ。
若い時なんて、学ぼうとしても、まだ頭が悪いんだから学ぶに至らない。
だから、大人になった今、学んでいるんだから。俺は一方でそういう教育も必要だと思うんだよな。
若い時は遊ぶことが精一杯で、学ぶ暇なんかないよ(笑)
ましてや、アルマーニか何か着て学校行ったって勉強なんて出来ない(笑)


相原誠氏

一同:ガハハハハ(爆笑)

一作:時事ネタ爆発!?(笑)
あれね(笑)校長がバカだよな。

誠:まあいいけどさ、所詮、泰明小学校だし(笑)

一作:ところで、秋田のどこ?
男鹿半島とか?

誠:あの頃、15くらいだから、そんなに県内をうろうろしていた訳じゃない。

一作:で、最寄りのJRの駅はどこだったの?

誠:土崎港(つちざきみなと)。
大体、秋田港というところ。
元々、秋田市と土崎は別れていて、秋田市としては、港を秋田港と名付けたかったんだけど、土崎側は、「それは譲れない」と。
秋田港だと元来のイメージと変わっちゃう訳だ。
いわゆる、お城があって降りてくると港があるというのが、俺の育った地域の構造なんだけど、その山の中腹で、うちのおじいちゃんが煉瓦工場をやっていた。

一作:へぇ〜。

誠:山を切り崩して焼いて。
昔にしては洒落た商売をしていた訳。
でも、うちの親父の代で、皆職人になっちゃって継ぐ人間がいなくなって。
最後、うちの親父はボイラーで、いわゆる、格納庫を作っていた。

一作:そう、凄いね。
結構、家系的に肉体派なんだ。

誠:当時、ボイラーの特級を作れるって云うのは、国内でも数人しかいなくて、その一人がうちの親父。

一作:ボイラーを作っていたんだ。

誠:昔は、三井や三菱が、耐火煉瓦ってことで作っていた。今の鉄とかじゃなくって。おれもガキの頃はよく手伝いに行かされたよ。
一作もよく知っている、(浦上)ケンちゃんが秋田に暫く住んだことがあって、

一作:へ〜、住んでいたことがあるんだ。

誠:うん。
それで、俺んちへ行って親父と話ししたりして。
ホントおかしい奴だよ、あいつは(笑)

一作:ハハハハハ(笑)
へ〜、そんなこともあったんだ。
俺が始めて誠と会ったのは88年の「いのちの祭」?
八ヶ岳だよね?

誠:うん、そうそう。
「いのちの祭」の頃は、一作をはじめ、皆、周りはまだ「Cay」のスタッフで。

一作:うん。
誠はたまたま浦上のケンちゃんと来て、俺はその時点でケンちゃんのことは知っていた。
で、誠がケンちゃんに連れられて来て、俺達は岩手から自然放牧で育てられた上質のラム肉を山ほど送ってもらって、バーベキューとして焼いて出してたの。


河内一作

ラジオアダン:今で云うフェスの出店ですね?

一作:うん。
そしたら、「おまえら焼き方下手だな!」とか言って、「ちょっと俺に貸してみろ!」なんて言ってさ、自分の呑んでいるビールを肉にぶっかけて、一生懸命焼いてくれる訳(笑)「この人凄い人だな」って(笑)

ラジオアダン:その時、一作さんは、かのダウンタウン・ブギウギ・バンドのドラマー相原誠とはつゆ知らず?

一作:全然知らなかった(笑)
ダウンタウンが売れていた時って、俺、テレビ持ってなかったから。顔が分からないんだ(笑)

誠:ガハハハハ(爆笑)

一作:ダウンタウンってあれ何年くらい?

ラジオアダン:ミリオンセラー連発は74〜5年頃では。

一作:でしょ?
俺が東京に出て来て直ぐ。テレビがない時代。
だから、只、「この人凄いな」って。
その時は、今みたいに痩せてなくって、ガタイよくて、「この人、テキ屋の親分かな?」なんて思ったりして(笑)

誠:結構あるじゃん、人間って、勢いのある時ってのが。
いや、今もあるけどさ(笑)
若い時ってのは、……、なんだろな?……、やっぱ凄いよな(笑)

一作:ハハハハハ(笑)
誠との最初はそんな感じ。

ラジオアダン:ミュージシャンとは思えない手際よい調理(笑)

誠:で、輪投げを始めて。

一作:そうそう、誠、輪投げとか持って来てるんだよ(笑)
子供集めてやらせる訳。

誠:あれが受けちゃって!

ラジオアダン:隣同士で出店になった?

一作:場所代は取らないから、厳密には出店じゃないな。
誠も輪投げはただで子供達にやらせていたんでしょ?

誠:いや、1回300円かそのくらいで(笑)

一同:ガハハハハ(爆笑)

ラジオアダン:それじゃ、本物のテキ屋じゃないですか!?(笑)

一作:俺、絶対テキ屋の親分だと思ったもの(笑)

誠:あのイベントの前に、第一建設って会社の社長と友達になってトレーラー1台貸してくれて、俺が洋服を作って、川口の、「ラリー・メイズ」って云って、迷路のテーマパークの一画で販売したんだけど、あんなところで洋服を売ったって売れる訳がない。
「困ったな〜」と思って、思案して、「そうだ、ガキが多いんだから輪投げ屋やろう!」って、

一作:ハハハハハ(笑)

誠:輪投げ屋で一日20万円!

一作:凄いね!

誠:だって、輪が5本300円で、景品ったって、どうでもいいものばかりだもの(笑)
あれ、子供もだけど、大人も夢中になるんだよ。

ラジオアダン:八ヶ岳では既に勝算がある企画をぶつけた?

一作:でも、八ヶ岳はヒッピーばっかだったからな。
俺等が、あんな上質なラム肉仕入れて焼いて出しても、「お金取るの??」って言うんだから(苦笑)

誠:だから、俺も一作も、どっちも場違いだったんだろうな(笑)

一作:うん、たまたま流れであそこにいただけで、……、まあ“ノーニュークス”には賛同していたけどね。

誠:だから、興味があるとかないとかではなくて、昔は、人の集まるところに行ってみたいって欲求が強くあったんじゃない?
今は、ネットで行かなくても行った錯覚が起きる。でも、実は行ってみないと分からないものなんだよ。だから、今の人達は、口は達者だけど行動力に乏しい。
俺はネットはやらないし、世間とこう、……、なんていうの?……、携わりたくないというか。どうせ何かやることに対して文句言われたりする訳で。
俺も文句を言わないかわりに文句を言われたくない。
人を信用しないと云うと、ネガティブに聞こえるかもしれないけど、自分が見たり聞いたりしたことが一番信用に繋がる。
皆、マスコミに代表されるメディアの操作に惑わされ過ぎなんだよ。
まあ、俺みたいに、65〜6にもなれば、そんなものにいちいち惑わされる時間もないんだけどな(苦笑)

◇◆◇◆◇
 相原誠の摩訶不思議なビジネス感覚に新鮮な驚きを感じたところで、今度は、輝かしきキャリアを誇るミュージックビジネス、ドラマーのスタート地点へと時軸が変わる。
 そして、なんと、あの伝説のバンドの定説を覆す新説がここで唐突にも表出することとなる。
◇◆◇◆◇

ラジオアダン:では、その後、輝かしい実績となるドラマーのキャリアは、上京後からということでいいのでしょうか?
それとも秋田時代に既に叩いていた?

誠:ドラムは上京してから。
昔のバンドマンって一日3回くらい仕事がある訳。
昼間にジャズ喫茶、夜にキャバレーをやって、夜中にサパークラブに行ってさ、青山、六本木、赤坂。そんな感じで楽器を持ってバンドボーイをやる訳。
ギターは簡単なんだ。アンプ持って行って、パァ〜っとセッティングすればいい、でも、ドラマーってのは俺が一人でかかりっきりになる。
そうしている間に、自然とドラムに愛着が湧いてきたんだろうな。組み立てたら叩いたりもするじゃん。

ラジオアダン:今で云うローディーですね。

一作:当時の呼び名は、“ぼうや”だね。
まあ、大体、皆そこから始まる。
今みたいな音楽専門学校なんてないから。

誠:月6000円もらって。
金なんて1円も使わないよ、住み込みだから。落語家の世界と一緒よ。

一作:見よう見真似でしょ。

誠:うん。
でも、バンドボーイやってプロのミュージシャンになれる奴って、そんなにいないよ。
プロになって、いいことやってようが何してようが、現役で生きている奴には絶対負ける。
この前、宇崎(竜童)と話をしていて、彼は他人に沢山曲を書いている訳だよね。要は、曲が自分から離れて行く。
俺なんかは10年前に作った曲を久しぶりに最近歌ったけど、その時の実感として、「曲は歌わないとダメ」ということを強く感じた。
歌わないと曲は成長してゆかないんだ。

一作:投げっぱなしじゃダメ。

誠:うん。
曲を成長させるには、自分も成長しないとバランスが悪くなっちゃう。
(料理が運ばれて来て)おう〜、俺が気になるのはこの器なんだよ。

一作:これ、いいでしょ。

誠:俺も結構面白い器持ってるからさ。

一作:アンティック?

誠:新しいものも。
焼き物って云ったって、ありとあらゆる物があるだろ。そうすると、なんでも欲しくなっちゃう(笑)
分かるでしょ?

一作:うん、分かる。
視点がそっちいっちゃえばね。

誠:そうそう。

一作:「これもいいな〜」、「あれもいいな〜」ってね。

誠:で、今、夢中になってるのが鐘。鳴りもののね。
お寺にあるガァ〜ってのから、家に置ける小さいのまで。そっちはたまにステージで使ったり。
ガァァァァ〜ンって奴は辺りの空気が一変して(急に仏を拝むポーズ)

一同:ガハハハハ(爆笑)

誠:仏教の世界になっちゃうみたいな(笑)
あれも基本、打楽器だから。

ラジオアダン:音楽の話に戻りつつあるので、今日どうしても訊きたかったことを訊かせてください。
キャロルのサードシングル「やりきれない気持ち/ホープ」での名演は有名ですが、キャロルでもライブ演奏をやっていたのでしょうか?

誠:うん、やってるよ。
当時の面白い思い出話で、その頃、赤塚不二夫さんが自分のテレビ番組(『赤塚不二夫の激情NO.1!』)を持っていて、他にも、三上寛ちゃん、中山千夏さんもレギュラーで出ていて、その番組でキャロルが呼ばれたことがあって、30分の番組なんだけどお祭りみたいに大騒ぎで、
(一作にむかって)見たことない?

一作:それ、いつの話?

誠:だからキャロルがデビューした後だか、72〜3年くらい?

一作:テレビがない時代。
俺、お金がなくて(笑)
三上寛さんとは友達?

誠:うん、最近は会ってないけどね。

一作:同い年くらいじゃないの?

誠:一作も知ってるの?

一作:うん。
だって、「新世界」で何度かやってもらってるから。

誠:あっ、そうか。

一作:さっきの話じゃないけど、寛さんが青森で、誠が秋田で、15歳で上京したってことは同じ頃に2人は出て来たんじゃないのかな?

誠:そうそう。
寛ちゃんは結構面白いよね(笑)
おれの新宿のライブハウス(『スモーキン・ブギ』)にも2回程出てもらったことがある。

一作:だって、一人が男鹿半島から。
真冬の男鹿半島なんて凄いよ!俺行ったことないけど(笑)
もう一人は青森の小泊村(こどまりむら)、完全に津軽だよ。

誠:俺のイメージとしては、寛ちゃんはいつも気取って♪窓は〜夜露に濡れて〜♪なんて歌うんだけど、「お前、それ違うだろ!」ってツッコミたくなるんだ(笑)

一作:ハハハハハ(笑)
全然違うもの。

誠:顔と歌詞が。
「自分を小林旭と一緒にするんじゃない!」

一同:ガハハハハ(爆笑)

誠:寛ちゃんは、「こいつ、どっかのお笑いなのかな?」って思う時がある。本人はいたって真面目なんだけどな(笑)
そのギャップこそが、俺、東北の面白さだと思うんだ。
東北人って、友川かずきもそうじゃん、あれも真面目にやってるからさ。

一作:そうそう。
俺の方は全然逆で、山口、瀬戸内だから。
そこにない物が、沢山、東北にはあるんだ。

誠:友川かずきの「生きてるって言ってみろ」って曲は、俺がドラムを叩いてる。あれ、バックがダウンタウンでやってるから。

ラジオアダン:誠さんのダウンタウン時代のドラムの素晴らしさはつとに有名ですけど、キャロル時代の矢沢さんとのリズム隊もボクは大好きで。

誠:ドラム(ユウ岡崎)がパクられて、俺は、キャロルは契約社員みたいなもんだから。
俺、その前まで、アマチュアバンドの仕事で、富山のゴーゴー喫茶に半年くらい行っていたんだ。
で、「そろそろ東京へ帰ろうか」って思って帰って来て、「バンドを作ろう!」ということで、「川崎の方に面白い奴らがいる」って聞いて行ったら、矢沢と内海とジョニーがいて、「今度、バンドをやろうと思うんだけど一緒にやらないか?」と俺が誘った訳。
そしたら、「俺たちも新しいバンドを始めるんだ」ってことで、それがキャロル。ドラムはトムトム(ユウ岡崎)。
それで、トムトムが捕まった時に、ドラムをオーディションで探していたらしいんだけど、俺がたまたま奴らの練習場の近くを歩いていると、「おーい、誠、叩いてくれよ!」って声を掛けられて、一発その場で叩いたの。そしたら、「明日から頼む!」って(笑)

ラジオアダン:それ、今、多方面で書かれている記述を完全に覆す新説ですね!一般的には、ユウさんが活動出来なくなって、プロデューサーのミッキー・カーチスさんが誠さんをメンバーに紹介したとなっています。

誠:いや、ただ、奴らの練習場の近くを俺が歩いていただけだよ(笑)

ラジオアダン:今、日本のロックの歴史が一つ完全に変わりました!(笑)

一作:キャロルもそうだけど、俺が田舎から東京に出て来た時点で既に有名だった人達って凄い年上だと思っていたんだけど、実はあんまり変わらないんだよな(笑)

誠:一作が出て来たのは20歳くらい?

一作:大学で出て来たんだけど、高校を1年ダブってるから19歳の時だね。70年?

誠:俺なんて15から東京にいるから。

一作:うん、だから、さっきこの対談の前に軽く話した団塊の世代と関わりながら来てるよね。

誠:そうそう。

ラジオアダン:宇崎さんもGSの代表的なバンド、ブルーコメッツのスタッフをされていた。

誠:そうそう。
だって、宇崎さんのお姉さんがブルコメの事務所の社長の奥さんだから。
俺、宇崎さんに訊いたことがあるんだ、「その頃、なにやっていたの?」って。
そしたら、「小豆の相場屋やっていた」って(笑)

一同:ガハハハハ(爆笑)

誠:馬鹿野郎(笑)何が、「小豆の相場屋」だ!(笑)

ラジオアダン:ブルコメ以外に松崎しげるさんのマネージャーもされていたとか。

一作:よくそんなこと知ってるね〜。

ラジオアダン:ダウンタウン好きですから。

誠:宇崎竜童は、本名、木村修司っていうんだけど。
ある日、名古屋かどっかで、「殺人犯が今逃げ込んでいます!」とか言ってさ、その犯人の名前が木村修司(笑)

一作:ハハハハハ(笑)

誠:「修ちゃん、聞いた?捕まるぞ!」って(笑)
俺等はいつも、修ちゃん、修ちゃんって彼のこと呼んでいたから。
“嘘つき修ちゃん”。
あの人、当時、嘘ばっかついていたから(笑)
でも、あの嘘っぽさが良かったんじゃないかな。植木等さんのイメージあるじゃない?“無責任男”。ホラ吹いて気分を盛り上げて。

一作:俺は宇崎さんは真面目な人のイメージだけど。
お幾つだっけ?

誠:宇崎さんは俺の七つ上。
だから、今、71か2くらい?
他の3人は同い年。

ラジオアダン:なるほど、フロントマンでコンポーザーの宇崎さんを、若い手練3人が支えるというサウンドプロダクトだったんですね。

誠:当時の宇崎さんにとっては若い奴らの方が多分よかったんじゃない?

ラジオアダン:「スモーキン・ブギ」の演奏をテレビで始めて見た時、「なんでこんな上手な人達が、こんな簡単な曲をやってるんだろう?」って不思議で。
まあ、その後は、多様なリズムも徐々に打ち出してゆくのですが。

誠:ハハハハハ(笑)

一作:まず簡単で分かりやすくしないと売れないと判断していたんじゃないかな?

誠:うん、そういうのもあの人は結構ある。
いい意味で計算高いから、よく見ているよね。
俺も勿論それでいいと思うし。

一作:「皆食わなきゃ」みたいなのがちゃんとあったんじゃないかな?

誠:バンドのユニホームのつなぎは、ダウンタウンに入る前に俺が運送会社で運転手をしていて、その時、仕事着としてつなぎを着ていたの。

一同:ガハハハハ(爆笑)

誠:ある日、ダウンタウンで湘南の海でのライブがあって、「なにかいいユニホームがないかな?」っていう話になって、「俺んちにつなぎがあるから、皆でそれ着て出たらいいんじゃない」って言って、つなぎを着ることになったの。
そしたら、なぜか受けちゃって(笑)

ラジオアダン:ユニホームの効果で、バンドとしてすんなり観客に伝わった?

誠:いや、俺等というより、つなぎが受けた(笑)
だっておかしいじゃん。いい年した男が4人で職工みたいな格好して、エレキ弾いてドラムを叩けば。
その前は、友人がいたファッションメーカー「グラス」から、切り返しパンツとかアロハとかその時期の最新の服を作ってもらって着ていたんだけど、結局は3500円のつなぎのほうが受けた(笑)

一同:ガハハハハ(爆笑)

◇◆◇◆◇
 新説ロック史の、「キャロル篇」の編纂を急がねばと思ったところで、
更に畳み掛けるように、ユースファッションの新説まで飛び出した。
 “ダウンタウン・ブギウギ・バンドの初期スタイリストは相原誠”
 そして、この後、セッションは約束の地、新宿へと大きく舵をとる。
◇◆◇◆◇

ラジオアダン:ところで、新宿はいつくらいから生活、活動のベースとなったんですか?

誠:もう50年くらいにはなろうとしているんじゃないかな?
俺等がライブをやりだした頃は、ライブハウスが、略、新宿にしかない時代だったから。

ラジオアダン:「ACB」、「サンダーバード」、

誠:「サンダーバード」!よく知ってるね(笑)

一作:ちゃんと予習してきたの?

ラジオアダン:マキオズ(カルメン・マキ&OZ)のベースの川上シゲさんを取材した時にいろいろと古いことを教わって(笑)
あと、「開拓地」にもダウンタウンの方達はこられていたとか。

誠:おお、「開拓地」ね(笑)

ラジオアダン:後に新宿で誠さんご自身がお店をやられるようになりますが、その、「DMX」(VELVET OVERHIGH’M d.m.x.) が最初に飲食店経営に乗り出した店ということでいいのでしょうか?

誠:うん。
店もそうだし、大概のことは人ありきなんだよ。
当時、ケンが洗濯屋をやっていて、

一作:洗濯屋、本当にやっていたんだ!?
「俺たちは汚れた世間を洗濯する!」とかなんとか誠が言っていたのは覚えてるけど、本当にやってたんだ(笑)

誠:洗濯屋といっても、一般の客を相手にしてたんじゃなくって、マンションメーカー相手。
だから、洋服を作った後に、糊落しして水洗い。乾燥させて縮まったものをきれいにたたんで納品する。
その頃、知り合ったある友達が、「まこっちゃん、かっこいいロックバーをやりたいんだけど」なんて言ってきて、「おお、じゃ〜、俺が店長やるよ」って感じで「DMX」を始めた。だから最初は別のオーナーがいたんだ。
で、1年経つか経たないかで、そのオーナーの友達が不渡り出して、彼が保証人になっていた都合上、「まこっちゃん、この店を買ってくれ」っていうんだよ。
で、「うん、分かった、いいよ、買うよ」ってことで、俺がオーナーとして経営してゆくようになった。

一作:それが90年かそのちょっと前だよね?88年の「いのちの祭」後だもんね。

誠:来年かな?丁度30周年が。

一作:そうだよな。
丁度「Cay」やってた頃で、誠がよく来てはさ、

誠:バカな連中を、皆、俺が車に乗っけてさ。あの頃、バカばっかりだったよな?(笑)

一作:うん(笑)
あの頃、「店やろうかと思うんだ」なんて話していた。

誠:Cayは30……、

一作:36年くらいになるのかな?

誠:思えば、高樹町の「クーリー(ズ・クリーク)」で、もう一作のことは知ってたよな。
だって、クーリーでライブやったことがあるもの。

一作:そうだ、そうだよ。

誠:あのライブ、凄いおかしいの(笑)
ベースの奴がシャブ中で(笑)
♪逃げたか〜 逃げたか〜 やばいよ〜♪
なんてやってたら、いきなりおまわりが、

一作:そうそう(笑)おまわりが2人後ろから(笑)
よく来てたの、あの頃、おまわりが。

誠:「やばい!!」なんて叫んで、楽器を投げてベースの奴が逃げちゃって!(笑)

一作:ガハハハハ(爆笑)
タイジが歌ってなかったっけ?
広島出身で、「タクシードライバー」のロバート・デ・ニーロのモヒカンの真似してた奴(笑)

誠:そうそうそう(笑)
西麻布を拠点にうろうろしてた仲間。

一作:そのライブの時に、カウンターの俺の前で文句を言っていたのが大口広司(笑)

誠:広司ね。
広司は俺より1こ上か?

一作:GSからだからね。

誠:キャロルにいた時に、赤坂の「ムゲン」でライブがあって、客席を見ると、結構、有名人が来ていて、俺がガキの頃見ていた、「おお、テンプターズが来てるじゃん」なんて思ったのが広司(笑)

一作:中学校の頃の「ヤング720」だろ?(笑)

誠:うん。
で、ライブが終わって俺たちのところに広司がネッカチーフかなんか巻いて来て、「お前等かっこいいね〜」かなんか言って(笑)
目も見ないで。「照れ屋なのかな?」なんて思ったりして。

一作:へ〜(笑)
それ前も聞いたけど、いい話だね。
そう、不良って結構照れ屋が多い。
でも、俺は広司は好きだったな。

誠:うん、よく知ってるみたいだもんな。

一作:最初の結婚の時はクーリーでパーティーやって、広司も来てくれて、黙って目も見ずに、「おい」ってプレゼントをくれる訳よ。
ああいうとこかっこいいよな(笑)
そういえば、タイジ、ニューウェーブクラブの「クライマックス」で、ポリスの格好してドアマンやっていたよな。

ラジオアダン:僕も「クライマックス」にはよく行ってましたが、そうでしたっけ?
バンドマンだとARBの方達が来ていたのを覚えてます。

誠:ARBって、うちのかみさん(古家杏子)のマネージメントをやっていた人が社長で、「誠、今度、九州からこういうバンドが来るんだけど、どう思う?」なんてデモテープ聴かされて。
その頃は5人編成のバンドで、「ダメだ!このバンドは売れないよ!」って俺(笑)
でも、長いことやっていたらいい感じのバンドになったよな。
なんでもそうだけど、長く続けるってのは難しい、喧嘩したり行き違いがあったり(苦笑)

◇◆◇◆◇
 店の経営と平行し、ミュージシャン活動も途切れることなく継続してきた相原誠に、大きな転機が55歳の時に訪れる。
 なんと、相原誠は、スティックをギターに持ち変え、自作の歌を歌い始めたのだ。
 果たして、名ドラマーとの称号をかなぐり捨て、新進気鋭のシンガーソングライターに転身したその真意とは?
◇◆◇◆◇

ラジオアダン:昨今、ドラマー相原誠より、シンガーソングライターとしての誠さんを見る機会が増えていますが、

誠:俺の場合、55歳から歌い始めたから、惚れたはれたは省いている訳だよな。
通り過ぎて行ったものはいらないだろ。“これからどうやって生きるか?”というところだから。

ラジオアダン:自分の老いすら見せる。

誠:そうそう。
そこを、昨今の他人の楽曲を聴いていると、ビジネスにならないからか?大人は避けて通る。「その詩は暗いよ、受けないよ」と。
でも、そうじゃないと俺は思う。本当のことを俺は聞きたいし言いたい。
その辺、今の政治とよく似てるよ、上っ面ばかり言って。もっと本質に触れなきゃダメ、どこかで解禁しないと。
だから、皆が本質に気付かない。
インディーズでやっている奴らの方が、当然、ストレートにものが言える訳で、それを大小関係なくいろんな媒体に訴えかけてゆくことでシーンを少しはいい方向に変えられると思う。
今、曲を書いて、詩を書くと、結局、どこまでいってもテーマは“生きる”ということになる。結局、それしかないんだから。
その“生きる”を、どう、焼いたり煮たり、刺身にしたり、天ぷらで揚げてみたりさ。
だってそうでしょ?言葉って皆自由に使っていい訳だから。

一作:(唐突に)働くの好きでしょ?
肉体労働好きでしょ?

誠:ハハハハハ(笑)

一作:大体そういうことやってるよね?

誠:そうだね。

一作:俺、出来ないもの。

誠:(突然)俺の夢はね、今、バンドは3人でやってるけど、オーケストラをやりたいの。いわゆるコンダクターをやりたい。
昔のトム・ジョーンズとかああいうクラブ的なオーケストラ。

ラジオアダン:ビックバンド的な?

誠:うん。
♪パァー!パァー!♪ってブラスが効いていて。
そういう場所自体も今はないもんね。
やっぱり、ラッパっていいよ。

◇◆◇◆◇
 シンガーソングライターへの転身という、大きな軌道の変更などどこ吹く風でこの山場なブロックを乗り越え、相原誠は更なる音楽の領域を夢想する。
 筆者は、以前からその過剰にポジティブな性格は知っているとはいえ、改めて、この男の探究心、好奇心にはほとほと頭が下がる。
 そして、その過度な遊び心はセッションの行く先までも刺激し、更なる迷路に突入する。
 次のテーマは“食”だ。
◇◆◇◆◇

誠:(旬の魚、キジハタを食しながら)こうやって他人に作ってもらって食べるって楽だね(しみじみと)

一作:料理はどこで覚えたの?

誠:自己流(あっさりと)

一作:恵比寿「にんにくや」のエイちゃん(遠藤栄行)みたいなもんだね。エイちゃんも一種の天才だからさ。
元々、レーサーで、やっぱり料理が好きでさ。

誠:料理って何か?って云ったら、舌なんだよ。
自分でパッと食べて、もう、一瞬の判断。
「これ、甘い」とか、「辛い」とか、「しょっぱい」とか。それが瞬時で判断出来るかどうかだけなんだ。
そうやっていろいろ作ってゆくと、「塩加減が」ってところまで達して、「これ、どの塩使ってるんだろう?」と。「塩をちゃんと炙ってるのかな?」とそこまで深く追求出来るようになる。

一作:「DMX」ではずっと料理しているの?
メニュー、自分で作って?

誠:前はずっとやっていたけど、あの手の飲み屋はダメ。基本、酒と音楽だけだから。
お通し出したって食わないもの。それだと俺が作る意味がない。

一作:それでラーメン屋をやった?

誠:いや、その前に、「DMX」の前で焼き鳥焼いていたら、おまわりが来て、

一作:ガハハハハ(笑)
その辺の引きが凄いよね(笑)

誠:誰かがチクッたんじゃないの?「煙い」とかなんとか。
おまわりが、「ここから出ちゃダメです!」って!
ハハハハハ(笑)

一同:ガハハハハ(爆笑)

一作:いつもおまわりが来るところが最高だね(笑)

誠:何か発信するものを付けられているんじゃないの(笑)
ワッペンかなんか(笑)

◇◆◇◆◇
 さて、セッションもいよいよ終盤。
 当然、残されたパーツである古物商に話は及ばない訳がない。
 広域な誠ワールドをザックリなぞったあと、セッションは、相原誠の現在地、“生きる”を体現する創作秘話の地平を一周見渡し、数多の色彩に彩られた今宵のトークジャムも、一旦、聴き慣れた冒頭のメインテーマへゆったり戻る。
◇◆◇◆◇

一作:世の中に大フューチャーされて自分が分からなくなってしまう人が多々いる中で、リアルなストリートに戻れるところが誠のかっこいいところだと思うんだ。

誠:一番困るのはレッテルを貼られること。
人間ってのは思い込みの生き物だから、思い込んだらそのまま真っすぐで。

一作:俺に電話してきて、平気で「ラーメン屋始めたんだけど難しいんだよな」なんて内情を話しちゃうところなんて真骨頂だよね。
で、何が難しかったの?

誠:もうそれはいいの。逆に言うと、他人に成長の度合いを見せたくて生きている訳じゃないから。
といいながらも、いいところを他人に見せたいのも世の常じゃん。「あいつはいい奴だったな〜」なんて。
皆、仏になると、「いい奴だったな〜」っていわれる訳だけど(苦笑)果たして、「そうなのかな?」ってさ。
「バカ野郎!あいつはろくでもね〜奴じゃん」って。
俺そっちの方がいいと思うよ。
(急に何を思ったか)夫婦ってのは、俺の場合、1回離れてまた一緒に暮らしているけど、続けてゆくことの大切さって凄いことだよね(しみじみと)

ラジオアダン:続けると云えば、ライブハウスの「スモーキン・ブギ」もオープンしてかなりの年月が経ちました。

誠:13年。

一作:「DMX」30年と「スモーキン・ブギ」が13年。
素晴らしいね。
俺も店を経営してるから分かるけど、ホント大変だから。
それと平行して、自分でバンドやったり、古物商やったりしてるのも感心する。骨董は未だにはまっているんでしょ?

誠:1個1個自分で買い集めてきたものは、細かいことまで全部詳細が分かるからね。

一作:とりあえず、自分でやってみないと気が済まないんだね。

誠:そう。
一作も一緒でしょ?

一作:俺は引いて見るところが多々あるから。
誠は自分でまずやってみるタイプだね。そこが素晴らしい。

誠:古物商なんてバンドの世界とまったく関係ないコミュニティーな訳じゃん。思い切り言っちゃえばヤクザの世界だから。

一作:いいじゃん。本物じゃん(笑)

誠:ハハハハハ(笑)
オークションだから、一日、市場では何千万の金が動く。
だから、物が1万円になるか、3万円になるか、はたまた10万円になるかなんてかけないと分からない。
俺が行く時は、大体100人くらいの同業のバイヤーが来る。

一作:バイヤーって免許がいるの?

誠:必要。
俺は持っているから、古物商の。

一作:それは勉強する訳?

誠:いまさら何言ってるの?俺、プロだよ(笑)
(おもむろに免許書を出す)

一作:ハハハハハ(笑)
(誠から免許書を渡され)これ凄いね。

誠:これ、今は警察じゃなくて法務省の管轄なんだ。
犯罪者は持てないから(笑)

一同:ガハハハハ(爆笑)

一作:これいいね。

誠:取った方がいいよ。2万円で簡単に取れるから。
最初に警察に行って、「法務省へ行きなさい」って書類を渡されるから、それ書いて法務省へ、

一作:試験とかないの?

誠:試験はない。

一作:じゃあ、なった後に、目を養うことの方が大変ってことだ。

誠:その道の先輩に連れて行ってもらって、黙って見てると、だんだん、「この皿幾らだな」って分かるようになる。

一作:そうなの?

誠:なるよ。

ラジオアダン:そういう感じでシンガーソングライターも55歳から新たに始めたんですね。

誠:残り少ない時間の中で、自分が、

一作:残り少ないの?

誠:106までちゃんと生きるけど。

一作:あと40年もある(笑)

誠:昔みたいに8時間の練習なんて出来ないって。せいぜいいいとこ15分かな?(笑)
なんでもそうだけど、記憶力だから。ギターのコード、スケールをどうやって覚えるか?もう弾くところは決まってるんだから。
例の天才将棋少年みたいに、勝敗の最後までギターでもストーリーを作れる。1小節ごとに事前に全部分かるから。
でも、それだけじゃ面白くなくて、もっと突発的なものも取り入れたい。
男と女の恋愛もそうじゃない。突発的に後ろから、はたまた斜めから(笑)

一作:ハハハハハ(笑)
それめんどくさくない?

誠:そのめんどくささがおもしろいんじゃん(笑)

一作:ハハハハハ(笑)

誠:自分で詩を書いていて、何が面白いかっていうと、いろんな言葉をピックアップしてとりあえず書く。それを、どんどんどんどん削って研ぎすます。
で、もうこれ以上削るところはないってところまで至った後に、再度読み直すと、こう思うんだよ、「未完成のままでいい、完成させる必要なんてない。全てはライブなんだから」って。
基本の骨格はあるんだけど、今は生で変えながら歌う方が楽しいし、一人で弾き語りの時はもう、落語みたいな感じ。

一作:「新世界」での誠のバンド、仙人ミラーなんて、俺はグレードフル・デットみたいな、言葉と音のある種のジャム性を感じたよ。
じゃ、更なる106歳までの進化を祝い本日はお開きとしようか。
今日は忙しい中ありがとう!

誠:こちらこそ、ごちそうさま!
またゆっくり会いましょう!

◇ ◆◇◆◇
 物への大いなるこだわりは、多くの言葉を相原誠の頭脳、身体にイコンとして刻み込み、彼はそれを詩へと昇華させる。
 しかし、生粋のライブ人間であるこの男は、そんなこじんまりした創作では到底満足がゆかない。出来上がったものに生命を吹く込むために作ったものを壊しに壊す。
 その理由は、予想可能な人生なんて、生きる意味がないからだ。
 アスファルトと云う名のワイルドサイドに決まった道筋などあるはずもなく、行き着いた先の約束の地がどこにあるのかなど到底予想がつくはずもない。
 だって、人生の殆どの出来事は、酔っぱらいが酒場で夢想したことを、神様が空模様に沿って暇つぶしにチョイスしているだけなのだから。

 とぅ・びー・こんてぃにゅーど

@泉岳寺「アダン」

テキスト、進行:エンドウソウメイ
写真:上出優之利

●今回のゲスト


相原誠/プロフィール
ドラマー、シンガー。キャロル、ダウンタウン・ブギウギ・バンドを経て、自身のバンドJABB、SUCKING ROUGE などで活動の傍ら、ARB、原田芳雄、他多数のサポートで活躍。2003年にはイベント“dmx in YAON“をプロデュース(出演::ダウンタウン・ブギウギ・バンド、頭脳警察、ARB、CRAZY KEN BAND、THE STREET BEATS、JAMES、MIRROR)
現在、MIRROR改め仙人ミラー、THE〆鯖、ソロで意欲的に活動中。
今もなお、反骨、ハングリー、進取の精神を抱く相原誠は、世代やジャンルを超え、新たなステージへと挑み続ける。
上記、音楽活動の他、新宿の老舗ロックバー「VELVET OVERHIGH’M d.m.x.」、ライブハウス「スモーキン・ブギ」のオーナーとしてもその名を知られる。


河内一作/
山口県生まれ
八十年代から霞町クーリーズクリーク、青山カイなど常に時代を象徴するバー、レストランの立ち上げに参加。九十年代、仕事を辞め世捨て人となる。
六年間の放浪生活の後社会復帰し、アダン、青山タヒチ、白金クーリーズクリーク、音楽実験室新世界、奥渋バー希望、南洋ギャラリー、など手がける。お楽しみはまだこれからだ。

黄昏ミュージックvol.15 晴海埠頭/古家杏子

 先日、このメディアの「酔談」という、グループオーナー河内一作の対談連載で、久方ぶりに、元ダウンタウン・ブギウギ・バンドの名ドラマー、相原誠氏にお会いした。
 筆者が誠氏と知り合ったのは90年中盤のゴールデン街「カボシャール」と記憶している。
 この初対面の時、確か来日中であったレジェンドドラマー、バーナード・パーディーに関し、適切な解説を筆者に直接してくれたことで、ダウンタウンの演奏力の高さを再確認した次第だ。
 で、今回取り上げる、Jオールドスクール・ラッパーの故ECDのコラムで再評価の気運が高まった「晴海埠頭/古家杏子」だが、参加ミュージシャンに元ダウンタウンのキーボディスト、千野秀一がクレジットに記されている以外、誠氏との接点が見つからない。
 こんな、長い“まくら”に、セレクションの疑問を持つ貴兄も多数いることだろう。
 実は、先日の対談中に、誠氏が面白いことを語り出したのだ。
 「最近、うちのかみさんのCDが急に人気が出て来て、バカな友達から、『金が儲かっていいよな』なんて電話がかかってくるんだよ。売れようがどうしようが俺には全然関係ないし、金も入る訳じゃないのにさ(笑)」
 そう、ECDも“謎”としていた、シンガーソングライター、古家杏子とは、なんと、相原誠夫人なのであった。
(因に筆者は、彼女のユニットのライブの立ち会いをしていて、歌はもとよりピアノの演奏が非常に上手であったことをよく覚えている)
 サイケなSEから始まる急展開のシティーポップス。シティーに似ても似つかないいなたいドラムの音色。正に、“幻惑の東京”黄昏ソングど真ん中の楽曲である。(se)

黄昏ミュージックvol.14 First Killing/Massive Attack(『天使の涙/O.S.T.』)

 90年代中後期は、優れたアジア映画が多数誕生し、我国でもそれら作品群がメディアの話題をさらった。
 中でも筆者は、「天使の涙」に代表されるウォン・カーウァイ作品に夢中になり、舞台となった重慶大厦(チョンキンマンション)を一目見ようと、香港旅行まで決行する熱の入れようだった。
 しかしその後、人生二度目のアジア熱は急激に下がり、スクリーン上も、アジアの混沌から、我国発のアニメーションの精神的カオスに興味は移行していった。
 そんな遍歴すら忘れていた昨年末、突発的にベトナム旅行の話が持ち上がった。
 ベトナム。「青いパパイヤの香り」、「シクロ」と、正にスクリーン上でしか知らない国である。
 やがて年が明け、本年2月中旬に実際に行ったベトナム/ホーチミン市は、フランス文化&アメリカ文化が自国の伝統と絶妙に溶け合った希有な文化体系を有し、特に、デザイン、アート、工芸などには見るべきものが多い街だった。
 しかし、事、音に関しては、表層の大らかな社会主義同様、町に流れる音楽はマナーすら怪しいハウスミュージック的なるものが最新であり、筆者はある種の統制を感じずにはいられなかった。(濃いめのアンダーグラウンドシーンにはクラブミュージックも実際は存在するらしい)
 そんな旅の中で一番再確認した事象は、“アジア=カオス”。これに全てが集約される。アジアは未だカオスだ。
 そんなアジアのカオスとイメージが完全合致した秀作、前述、「『天使の涙』O.S.T.」での、マッシブ・アタック「First Killing」(マッシブアタック盤ではタイトル『Karmacoma』)を、今回の黄昏ミュージックとさせてもらう。
 このドープなダブサウンドこそアジアカオスのソニック・イコンだ。(se)

黄昏ミュージック番外編2 Chage Your Life/Rip Rig + Panic 他

 80年代後半に「東京ソイソース」というレジェンダリーな音楽イベントがあった。
 主要バンドは、当時世界基準の最新のグルーブ、ダンスミュージックを標榜した、ミュートビート、じゃがたら、s-ken&ホットボンボンズ、トマトスという4バンド。そんな強い個性を持つそれぞれが奇跡的に集結し、幕間では黎明期の東京のナイトシーンを代表するターンテーブル使用のユニットがDJタイムとして場を盛り上げるという、過去ない先鋭的イベントであった。
 そんな、ミュートビートとホットボンボンズのフロントマン(こだま和文、s-ken両氏)を囲む夕べが1週間にそれぞれ「おふく」で行われ、筆者は全責任選曲を担うこととなった。嬉しい事である。
 それぞれありがたいことに、プライベート、取材と多くのロゴスを頂いたお二人であるので、かなり細かい部分での選曲をさせて頂いた中、かくかくの1ブロックをここで録って出ししてしまおう。
s-ken氏は今、プロデュース真っ最中の女性5人のオルタナティブ・ファンクバンド、ビンバンブーンの音楽性を基盤にした選曲部分。(上記プレイリスト参照※この日、ビンバンブーンのメンバーが一番反応していたのは『Theme de yoyo/Art Ensemble Of Chicago』)
 一方、ダブマエストロ、こだま和文氏は、実は愛して止まない、70’s米日女性シンガーソングライター的側面の1ブロックで。※下記(この日、一番、氏が反応したのは『Tendly (Sax Version)/Roland Alphonso Meets Good Baites With Pianica Maeda』。『このトラックは今後、スタンダードに確実に成り得るね、やはり素晴らしい』と仰っておりました)

 こんな遊びの場に於いても、お二人の幅広く研ぎすまされた創造性を感じずにはいられなく、やはり、サディスティック・ミカ・バンド、ティン・パン・アレー以降、日本人としての自前のグルーブを推進したのは、前述4バンドと言い切ってよいとまたしても再確認する次第である(あとボ・ガンボスもね)
(se)

Vol.5 日々トリップ 番外編「ニョクマムが目にしみる」 川内一作

 ベトナムに行くことになった。
 八〇年代、東南アジアに足繁く通っていたがベトナムへ行くのは今回が初めて。近頃はベトナム料理屋もいろんなお店ができたけれど八〇年代前半には新大久保に「喜楽南」というベトナム料理屋が一軒だけあった。酒類は持ち込みの店だったから値段は異常に安かったのを覚えている。カンボジア料理は代々木に「アンコールワット」、いまは大きなレストランになったけれど当時は寿司屋を居抜きで使ったカウンター席が少しと小あがりに小さなテーブルが二つ、十人も入ればいっぱいになる店で、寿司屋のネタケースがあるカウンターの中では、難民のゴウさんが立ち働いておられた。タイ料理屋もまだ東京に数軒しかなかった。あの、甘くて、酸っぱくて、辛い味に魅了誘惑されて、週末になるとそのような店を順番に飲み歩いた。八〇年代の東南アジア、バンコクだったらパクチーと屋台に閃く炭火の匂い。ジャカルタだったら丁子タバコとバサールイカンの干魚の匂い。さてベトナムはニョクマムと青いパパイアの香りに溺れてしまうのだろうか、三〇年ぶりの東南アジアにココロはトキメク。ところが海外旅行は前回メキシコはカリブのゆるい海につかって遊び呆けて馬鹿になって帰って来てすでに七、八年は経っていてパスポートはとっくに切れている。そのあいだ自分は東京から神奈川に引っ越したり、なにげにずるずると時間ばかりが過ぎていて、そうか、そんなに海外に行ってなかったのか。
 そんなわけで新しいパスポートを作らなければベトナムには行けないのだ。パスポートを作るには住民票などいるので近所の役場に取りに行った。夏の名残り、湿った海風がベタベタしている九月のある日。格別悪行してきたわけではないが、警察や役場や税務署やそんな公的な場所に行くと自分はキンチョーし、途方に暮れてうろうろと困るのだ。
 カウンターの向こうに四〇代くらいのマジメそうなお姉さんがいる。経験上こういうところでは女性よりも男性の方が優しい気がする。女性はマジメで固いのだ。「新世界」をやっていた頃は毎月大赤字で消費税はとても一度に払えなくて、税務署に消費税の分納のお願いにあがるときなど、男の職員だとわりあい対応がゆるくて、こちらの希望の分納額で納得していただけるが女性の場合、毎月これだけは納めてくださいとあまり譲ってはくれない。だから役場のカウンターにマジメそうな女性が来られたので内心シマッタと思ったのだ。
 「す、すみません、住民票が必要なのです」
 「何か身分証明できるようなものお持ちですか」
 「保険証はあります」
 「保険証だとちょっと、顔写真のある免許証とか」
 「いや、免許は持っていません。運転などしたことないし、酒も飲むしね」
 とあわてて、つい余計なことを言ってしまう。
 「じゃあパスポートはお持ちですか」
 「あのー、そのパスポートを作るために住民票がいるのです。期限切れのものはダメでしょうか」
 「期限切れはちょっと」
 「でも顔写真は貼ってありますよ」
 「期限切れのパスポートは無効ですし、期限切れのパスポートの顔写真もやはり期限切れなのです」
 ムムム、よく分からぬお役所のリクツにココロは完全に折れかかっている。そのくらいいいじゃんと神奈川に引っ越したのだから横浜弁でお姉さんに聞こえないようにつぶやいたが、そのときはじめて公けの場所で自分の身分を証明するものがないことにうろたえた。
 「免許証もパスポートもお持ちにならない、そうすると年金手帳はお持ちですか」
 あら、それなら家にあります。自分は嬉しくなって出直すことにした。
 しかし、家に帰っても年金手帳はどこを開けても見つからない。ああそうか、大切なものだ。そんな大切なものをいつもとっちらかっている自分に渡したら紛失するに違いない、経理のKさんが気を利かして事務所の金庫にきっとしまっておいてくれたのだ。そう思って事務所に電話をしたら、そんなモノは置いていないという冷たい返事がKさんから返ってきた。
 仕方ない。自分の会社は港区にあるから港区の年金課に後日相談に行った。すでに秋の気配が感じられる十月のこと。整理番号順に待たされやっとカウンターにたどりついたら人のよさそうなおじさんが対応してくれたのでホッとした。
 「すみません、神奈川在住のもので、会社は港区にあります。年金手帳を失くしまして再発行のお願いに来ました」
 「そうですか、じゃあ何か身分証明できるものはありますか」
 「保険証とかはダメですよね」
 「ええ免許証とか」
 「免許はとっていません。いつも酔っぱらっていますから人に迷惑をかけてもね、ハハハ」
 またいらんことを言ってしまった。
 「そうですよね、そうですよね」、とおじさんはニコニコして「じゃあパスポートとかは?」と言った。
 秋風がつむじを巻いて通り過ぎていったようにアタマがクラクラした。
 「だ・か・ら、そのパスポートを申請するために地元の役場へ行きまして・・・」
 自分はこれまでの経緯を手短に説明して、そういうわけで年金手帳の再発行のお願いにはるばると神奈川からやって参りましたと言った。
 「そうですか、それは困りましたね」
人のよさそうなおじさんはそう言ったけれど結局、会社に送られた書類などを後日提出して、やっと神奈川の自宅に年金手帳が届いたのは十一月に入ってからだった。
 届いた年金手帳を持って、役場に行き、住民票やら戸籍抄本やらを取り揃えてパスポートの申請に勇んではるばると有楽町の交通会館に行ったら、神奈川県の人は神奈川で申請して下さいと冷たくあしらわれた。
 ああ、そりゃそうだよな、これまでずっと有楽町で申請していたものだから、つい思い込んでしまって有楽町へ行ってしまったのだ。馬鹿なやつだ。久々有楽町、銀座。晴れてパスポートの申請ができたアカツキには、山野楽器で何かCDでも買って、モトキでセーターのひとつやふたつ、新富寿司でにぎってもらい、ほろ酔いで横須賀線に乗って家に帰ろうと思っていたのに、結局新橋で立ち喰いそばを食ってトボトボと家路についた。それからまた後々日、横浜の貿易会館に行きやっとパスポートの申請が完了した。十二月一日に発行できるのでそれ以降に取りに来いということだった。十二月に入ってパスポートを手にして、帰りに中華街の安記で老酒とシウマイと中華粥でひとりお祝いをした。夏の終りから足かけ三ヶ月、長い旅をしたような気がする。安記の名物お婆ァちゃんが「いろんなことはね、すぐに忘れるね、楽しいこともすぐに忘れる、忘れていかないとダメね」と言った。
 「去年の春節にここで獅子にアタマを噛まれたおかげでシアワセをすこし神様からわけてもらったよ。だからしばらくベトナムへ行くんだ」
 ここ数年春節(旧正月)にはここ安記で食事をしている。中華街は春節に獅子舞がお店を回ってくるが、日本と違ってバクチクやシンバルが鳴ってハデである。獅子にアタマを噛まれるといいことがあるらしく、去年二度も噛まれた自分にとっていいこととはお金よりも、二ヶ月近くもベトナムに行ける時間がとれたことだ。
 安記のお婆ァちゃんはニコニコして「二月十五日からベトナムもテトでお正月だから、向こうでも獅子にアタマ噛まれてくるといいよ」と言った。


ⒸSOHMEI ENDOH

黄昏ミュージック番外編 おめでとうございます/海老一染之助・染太郎 他

 1/6から本年の「バー黄昏」営業が始まったのだが、ここでのプレイはかなりの長丁場ゆえ、季節に準じた選曲で発想を補うことが非常に多い。
 ということで、その夜のテーマは、“正月”。
 下の選曲を雛形としてその夜は臨んだのだが、メインフロアーとなるカウンターに女性客ばかりが続き、且つディナーとしての使い勝手を望んでの来客ばかり。
 こんな時、雛形だけに頼ると、客が望んだ空間性を損なうことにもなるので、結局、下記予定プレイリストの内、10曲程を使用し、別のトラックを多数付け足しての即席「正月ミックス」をでっち上げたのが現実のプレイ内容だった。
 そんな感じで諸々の事象はあるのだが、本年も黄昏をよろしくお願いします(se)

君が代/忌野清志郎
美しき虚構:海ゆかば/渥美清
新日本紀行/冨田勲
春の海/宮城道雄
染之助・染太郎のおめでとうございます/海老一染之助・染太郎
なんでかフラメンコ/堺すすむ
盆回り(ドリフのオチの時のテーマ)/たかしまあきひこ
かしまし娘のテーマ/かしまし娘
いってる北朝鮮~嘆きのボイン/月亭可朝
パンツミー/すち子&真也
おそうじオバチャン/憂歌団
生活向上のための音楽(花月爆笑劇場OPテーマ)/山根正義
サンバディ・ストール・マイ・ギャル(吉本新喜劇OPテーマ)/ピー・ウィー・ハント
アホの坂田/キダ・タロー
ヤマザキ一番/山崎邦正
笑点音頭/立川談志&笑点グループ
これが自由というものか/榎本健一
よさこい節/寺内タケシ&ブルージーンズ
花笠音頭/寺内タケシ&ブルージーンズ
ダイナマイト/ザ・スパイダース
エレキのツンドラ/ザ・スクリーントーンズ
ヘイ・ユー・ブルース/左とん平
ロックン仁義/ザ・タイマース
一番星ブルース/菅原文太
港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ/ダウン・タウン・ブギウギ・バンド
かけめぐる青春/ビューティーペア
ザ・グレート・ムタのテーマ/安部潤
ザ・グレート・カブキのテーマ/キース・モリソン
燃えよ荒鷲(坂口征二のテーマ)/淡海悟郎
アリ・ボンパイエ/マンドリル
スカイハイ(ミル・マスカラスのテーマ)/ジグソー
チャイニーズ・カンフー(ジャンボ鶴田のテーマ)/バンザイ
マッチョドラゴン/藤波辰巳
俺はジャイアン様だ!/ たてかべ和也
ディスコお富さん/エボニー・ウェッブ
ヒゲのテーマ(ドリフのヒゲダンスのテーマ)/たかしまあきひこ&エレクトリック・シェーバーズ 
ディスコキッド/ヴァン・マッコイ
エキストラ・エキストラ/ラルフ・カーター
アイ・キャン・ヘルプ・マイ・セルフ/ボニー・ポインター
ストップ!イン・ザ・ネーム・オブ・ラブ/ダイアナ・ロス&ザ・シュープリームス
大江戸捜査網OPテーマ/玉木宏樹
西部警察OPテーマ/宇都宮安重
スクラッチン/マジック・ディスコ・マシーン
アパッチ/インクレディブル・ボンゴ・バンド
さらばシベリア鉄道/大田裕美
熱き心に/小林旭
冬のリヴィエラ/森進一
知床旅情/水原弘
琵琶湖周航の歌/加藤登紀子
サボテンの花/チューリップ
なごり雪/イルカ
北風小僧の寒太郎/堺正章
しんしんしん/はっぴいえんど
春のからっ風/泉谷しげる
春よこい/はっぴいえんど
春になったら船に乗れ/久和田佳代

黄昏ミュージックvol.13 Heavy Days/柳ジョージ&レイニーウッド

 黄昏ミュージックと銘打ち数々の楽曲を紹介してきたが、黄昏度数最高潮のサザンソウルというカテゴリーがスッポリ抜けていることに先日気づいた。
 どうせ出遅れたのであれば、いっそ大きく捻って和製サザンソウルの名曲を1曲。
 79年公開の工藤栄一監督作品で、ヤクザ映画のフォーマットを租借した傑作青春群像劇『その後の仁義なき戦い』で、主演の故根津甚八が物語終盤、覚せい剤に溺れ、妻役の原田美枝子と退廃した生活に沈み込む時流れる重く印象的なバラードがある。
 完全なるサザンソウル様式のサウンドプロダクトに、日本人とは思えない全編ディープな英語歌詞で重厚に唄われるのが、同作の音楽も担当した柳ジョージ&レイニーウッドの『Heavy Days』。
 この時の柳ジョージ&レイニーウッドは、前年の萩原健一主演テレビドラマ『死人狩り』で、当初英語歌詞であったものを日本語に書き直した『雨に泣いている』が大ヒットしたばかりで、活動に加速がかかった全盛への助走期。
 因に、この『Heavy Days』の音源は英語歌詞のみのリリースだが、劇中では冒頭から日本語歌詞も披露されており、こちらの方もドラマと100%シンクロした秀逸な出来。
 その辺興味のある方はDVDの方の購入もお勧めする。

♪ Oh Heavy days very bad days
明けても 暮れても
都会の底を 這いずり廻る

Oh gloomy days very bad days
堕ちてゆく 堕ちてゆくこの心
分かりゃしないさ この気持ち

闇の中に届かない オレの明日
燃え尽きてしまった オレの希望
心に鉛を引きずって 生きてゆく
Woo oh my heart Woo oh my heart
I feel wha ♪
(se)

黄昏ミュージックvol.12 13階の女 /あんぜんバンド

 東京近郊の地方都市に住み、小学上級で既にロックミュージックに感化されていた筆者は、英米のロックミュージックを日常的に聞く生活に入ったのは中学入学くらいだっただろうか?
 しかし、地方都市故、その当人である外タレを生で見るのは中学2年まで待つこととなる。
 で、あるので、プロのロックミュージシャンはいか程の演奏技術を有しているか?を確かめる術は、当然、国内のバンド且つ自分の街に来るバンド限定での調査となった。
 今思い出し記憶にあるバンドと言えば、イエロー、ファーイースト・ファミリー・バンド、チューリップ、外道、コスモスファクトリー、そして、地元のプログレバンド、美狂乱等。このラインナップを見ても当時の筆者がプログレに傾倒したいたことが分かる。
 そんな中、和製プログレの雄、四人囃子と近しいという一点のみでライブを見に行ったのが、今回紹介するあんぜんバンドだ。(実際の彼等の業界的棲み分けは、めんたんぴん、センチメンタル・シティ・ロマンス、乱魔堂等と同様のアメリカンロック派とみなされていた)
 その程度の予備知識で見たあんぜんバンドの印象は、“四人囃子より全然アメリカ寄りで、プログレ臭はほんの僅か”という、当時の筆者にはなんともつかみ所のないバンドであった。
 ライブも滞りなく進んで行き、MCがあったのだろうか?なかったのだろうか?その辺の記憶は非常に薄いが、爆音が収まった後、3声の美しいコーラスでその曲は始まった。
 ♪彼女にはもぉ〜お  こうぉ〜するしかぁ〜なぁ〜いのだ 13階の屋上から 身をぉ〜投げることぉ〜♪
 RCサクセションの「スローバラード」同様に、シンプルで破壊力満点の冒頭の日本語に一瞬にしてやられてしまい、ライブ帰りにはシングル盤を購入していた。
 ジャケット写真が白人ティーンエイジャーの裸婦なもので、レジに通す時、非常にドキドキしたのを昨日のことのように覚えている。
 その後、あんぜんバンドは、76年セカンドアルバム「あんぜんバンドのふしぎなたび」をリリース。ファンク、フュージョンを大胆に導入、一定の高みまでその音世界を昇華し静かに活動を終えるが、Rolly率いるすかんち、大槻ケンヂの特撮等が「13階の女」をカバーするように、多くの潜在的フォロワーが存在し、この曲のみが持つ極上のトワイライト感は永遠のものだということが改めて証明される。(se)

「連載対談/『酔談』vol.7」ゲスト:横山泰介氏、上平諭氏 ホスト:河内一作


 “酔談”。見ての通り、酔って語らうこと。当然、造語である
 酔っているがゆえの無軌道さ、無責任さ、大胆さ、自由さをそのまま気取らず飾らず実況する、それが「対談連載/酔談」の全てである。
 アダングループ代表、河内一作が東京の夜のフロントラインに初めて立った、1981年の「クーリーズクリーク」から現在に至るまで、彼が関わった店が、単なる飲食店におさまらず“自由なステージ”としての酒場の背景を演出出来えた“要”ともいえる大切な友人達を毎回招き、テーマなしのゼロベースから美味しい酒と肴の力を借りつつ今の想いを語り尽くすトークラリー。
 さて今回のゲストは、サーフシーンはもとより、多くの良質な写真作品で名を馳せるレジェンドカメラマン、横山泰介氏(以下敬称略)と、彼の写真作品を高い印刷技術とエディトリアルワークで支える、上平諭氏(以下敬称略)のお二人をお迎えし数えて第7回目となるコアなトークセッションをお馴染みの泉岳寺「アダン」特別室で決行。
 この2人、仕事上での強力なタッグチームは勿論、もう一つのフェーズとして長いキャリアを誇る生粋のサーフィン仲間でもある。
 サーフィンとは縁遠いナイトカルチャーの権化、一作が、果たして2人がアドリブで発動するビックウェーブを乗りこなすことが出来るのか!?!?
 現在、住居を葉山に移した一作にとって、同じく在を葉山に置き、且つ生まれながらの湘南ボーイの泰介のルーツは興味深い題材。
 冒頭から、泰介に、「一作はマインド・サーファーだから」との名誉の仮称号をもらった勢いを借りて、泰介の広大なタイムラインという海に向かって慣れないパドリングを始めた。
◇◆◇◆◇

河内一作(以下一作):泰ちゃんは、ず〜っと湘南生まれの湘南育ちだよね?

上平諭(以下上平):鎌倉でしたよね?

横山泰介(以下泰介):いや、生まれたのは実は東京なんです。
親父(横山泰三/漫画家)は既に鎌倉を拠点としていましたが、当時、母が体調を崩し、環境重視ということで、既に親父の兄(横山隆一/漫画家)も住んでいたこともあって、生まれて2〜3週間で本格的に鎌倉に来てしまったので、東京での記憶は全くないんです。

一作:成る程。
泰ちゃんはもう70歳になったんだっけ?

泰介:来年だね。
昭和23年生まれだから、この10月で69歳なんですよ。

一作:じゃあ、団塊の世代だ。
あんまりぽくない(笑)

泰介:そうなの?(笑)

一作:なんか団塊って、押しつけがましい人が多くない?
湘南ボーイとか云われるのは嫌だったんじゃない?

泰介:やだよ(ポツリと)

一作、上平:ガハハハハ(爆笑)

泰介:だって、なんだか、……、湘南サウンドも嫌。
大した差も無いのに、敢えて湘南なんて付けると凄く取って付けた感じじゃない。

一作:オレは山口県だからさ。田舎でさ、加山雄三とか聴いていてさ、何となく、「凄いな〜」なんて思うけど、……、ちょっと眩しいよね。


河内一作

泰介、上平:(『眩しい』に妙に反応し)ガハハハハ(爆笑)

上平:ボクは大阪でしたけど、一作と同じ感想だったな。
やっぱり眩しい(笑)

泰介:なんかあんまりピンとこないしね、“湘南”と言われても。
逆に何か変なんですよ。

一作:元々の人達は?

泰介:どうなんだろう?……、

ラジオアダン:湘南、湘南と云いいますが、実はかなり広い範囲を、

泰介:そう。それを一括りにしちゃって。

上平:江ノ島からこっちはまるで違うし、

泰介:葉山から小田原までは一応、湘南ということになっているんですけどね。

一作:それぞれ全然違うのに。

泰介:まあ、どこまでが湘南か?なんて、住んでいる人達は気にしてないのよ。
はっきり言って、車に湘南ナンバーなんてオレは全然欲しくないもんね(笑)

上平:わざわざなんで付けてるの?って(笑)

一作:田舎もんが付けてるんじゃないの?

上平:付けたがるよね(笑)

泰介:この対談は、何でも言っていいの?何でも言っていいなら何でも言っちゃうよ(笑)


横山泰介氏

一作:何でも言っちゃっていいのよ、このシリーズは(笑)

泰介、上平:ガハハハハ(爆笑)

一作:オレなんか山口の田舎でさ、海辺で育ったんだけど、今、住んでいる葉山の磯は風景が似ている。

上平:原風景に近いものがあると?

一作:うん。
上京した時から、「いつかは海の傍に住みたいな〜」なんてずっと思っていたんだけど、実際に住むまでは、湘南に対してどこかコンプレックスを持っていた。
実際に住むようになって、泰ちゃんとも以前より頻繁に呑むようになったけど、酔っぱらうと、「葉山の奴らは大嫌いだ」なんて、つい口から出ちゃう(笑)

泰介:アンビバレンツという感情ってあるじゃない?「好きだけど嫌い」みたいな。
でも、一作のその感情はよく分かるな。実はボク、鎌倉はあまり好きじゃないんですよ。あの街はいつもワサワサしている。観光客が多いからね。
地元の店も、当然、視線は観光客に向いている。
勿論、地元の人達が行く店もあるんだけど、結局、

一作:なんか嫌なんじゃない?地元民で集まってベッタリしているのが。

泰介:そう。
また、葉山と違う意味で変な空気感になる。
葉山は、天皇陛下が、……、…だから、基本は御用邸でしょ。
昔は、今の135号線の、なぎさホテルがあった道はないから。オレ達は鎌倉の内側を廻って御用邸へ行くのよ。

一作:(進行役に向かって)知ってる?なぎさホテル。

ラジオアダン:名称だけですね。

泰介:あそこは最高の立地だった。
中3か高校の頃、あそこで先輩達がパーティーやるとパー券を売らされて(笑)
そんな想い出しかないんだけどね(笑)

一作:長者ヶ崎からずっと行くじゃん。泰ちゃんは子供の頃にあの辺行ったことある?

泰介:子供の頃は免許がないからあそこまでは行けない。葉山マリーナまではなんとか昔の記憶があるけど。
覚えてるのは日影茶屋が寂れていて、とにかく家が建ってなかった。あと、マンションってのがなかったな。
葉山マリーナはホテルがあって周辺が近代的になってゆくのは早かったけど、あそこから先は、……、

一作:裏だよ。

泰介:と、思う。

一作:裏でしょ?
だって泰ちゃんが生まれたのが昭和23年でしょ。30年でもあの辺は何にもないんでしょ。

上平:田舎だったから御用邸が出来たんでしょ?静養するための施設なんだから。

泰介:うん。
御用邸が出来て、当時の貴族や男爵が凄い勢いで来るようになった。

上平:あれ出来て、「あそこだ〜!!」みたいになっちゃった(笑)

一作:上平はまだ50代だっけ?

上平:オレ、今年61。

一作:61!?
元々、奈良だよね?

上平:生まれは大阪。両親が奈良で生まれて、大阪に出て来て商売を始めて、

一作:ボンだもんな、一部上場の大社長だから。

上平:上場してないし(笑)


上平諭氏

一作:で、サーフィンはむこうで既にやっていたの?

上平:やってたやってた、伊勢へ行ったりして。

一作:伊勢はいいね。

上平:伊勢にずっと住んでいるプロサーファーがいて、高校の終わり頃からそこへ転がり込んだ。国府の浜って所。
泰介さんも、仕事で、そいつのところに時折訪ねて来たんだよね?

泰介:うん。
大体世代が近い奴はそんな感じで繋がってゆくよね。

一作:でも、泰ちゃんと上平だと10歳違うじゃない。

泰介:一緒だよ。サーファーのコミュニティーからしたら10歳差なんてまるで問題ない。

一作:成る程。
で、実際に会ったのはいつだったの?

上平:お互い随分前から存在は知ってたんだけど、……、泰ちゃんが最初の写真集『サーファーズ』を作る時だったと思う。

泰介:あっ、そうだ。
『サーファーズ』を作る時に、彼の所に印刷を頼んだのね。

上平:15年前。

一作:でも。その前からお互い知っていたと。

上平:泰ちゃんは有名だもの。
ニアミスはこっち来てからも随分していて、湘南へ行って、芝田(満之)のところに行ったり、(大野)薫さんのところに行ったりしていて、「さっきまで泰介いたんだよ」なんて。
でも、結局、本が会わせてくれたということだね。

泰介:おかげさまで、あの本でオレのIDが定着したと云うか。

一作:オレと上平が知り合ったのもその頃じゃなかったっけ?

上平:その前から、広尾の『ケセラ』なんかにミミなんかとお邪魔していて、

一作:ミミ??

上平:いたじゃない、今泉さん、ゲイの、

一作:おお、オカマのミミちゃん!ああ、いたね!
亡くなったでしょ?

上平:ええっ!?そうだっけ?

一作:大体死ぬじゃん、ああいう生き方してると。

泰介:勝手に殺すなよ(笑)

一作:泰ちゃんは、その頃、既にサーフ業界では巨匠だったの?

上平:巨匠!

泰介:ムフフ(苦笑)巨匠じゃないけどさ〜、……、結局、日本で最初のサーフィン雑誌からず〜っとやってるから。4誌くらいは継続して掛け持ちでやっていたからね。

一作:カメラマンとしてはそうなんだろうけど、サーファーとしてはどんな立ち位置だったの?

泰介:だから、サーフィンをしながら写真を撮っていたから。

上平:何があろうと、写真撮ってサーフィンしてる感じ(笑)

一作:レジェンドと云っていい訳?

上平:いい訳(笑)

泰介:いや〜、そんなことないけどね(苦笑)オレはそういうのあんまり好きじゃないから。

◇◆◇◆◇
 泰介本人が気乗りしない称号“レジェンド”。
 昨今のレジェンド過多に対するアンチとしての正直な態度でもあるだろうが、一つのシーンを切り開いた者として、後輩達にそう形容されるのは自然の流れだ。
 定住型のサーファーが主流の時代に、旅をしながら世界中の波を自身の臭覚だけで探り当て、且つ、ビジュアル作品として昇華してきた。
 そんな流れの中、ネット等、到底ない時代の話にトークセッションは移行。そこで浮かんできた3者同様の記憶に刻まれた、“失われたもの達”。
 それは郷愁ではなく、非常に貴重な、“宝もの達”だったと3人は改めて認識する。
◇◆◇◆◇

上平:例えば、泰ちゃんより古くからサーフィンをやってる人がいても、一定の場所から動かない人が多いじゃないですか。それに比べ泰ちゃんは、日本はもとより世界中あちこちに行ってる。当然、その先々に沢山友達もいて。

一作:具体的にどんな所へ行ったの?

泰介:いろんな所に行ってるよ。勿論、ハワイも行ったし。
大体、あの時代って今みたいにネットがないから、地図にダーツでピンっとやってさ〜、「ここ行こうか?」みたいな感じ(笑)
で、波も情報がないと皆目分からないから、行く先々の掲示板みたいなものに手書きで書いてある、「ここに行けば誰それに会える」みたいなものを、「ここに行けば波に出会える」なんて感じに脳内で置き換えてず〜っと旅をしていた。
そういう意味では完全に行き当たりばったり(笑)それで本を作っちゃうんだからいい加減なもんだよ(笑)
今だったら、余計な所は行かなくて済んじゃうんだけど、その余計なところが凄くいいという時代だった。

一作:サーフボード等は送りでやる訳?

泰介:いや、持って行くよ。
だからもう大変なの。カメラ持って機材も持って、ウェットスーツも持って。

上平:寒流の所が多いから、大荷物。

泰介:そう。
日本って安全な国じゃない?でも他の国へそういう貴重品を持って行くと。
東南アジアは、まあ場所による。平和な所は全然問題ないけど、……、カメラって凄く神経使うから。だから海外から帰ってくるといつも日本の治安の良さを実感する。

一作:昔のカメラマンはロケの時、ネガの保存とか凄く神経を使っていたよね。

泰介:うん。
今はデジタルでいいけど、昔はめんどくさかった。

一作:大変だよね。
熱い国へいったらフィルムを冷やさないといけないから冷蔵庫を探して(笑)

泰介:そうなのよ(笑)
今はそういう苦労はないもんね。今、一作に言われて久しぶりにその苦労を思い出したよ(笑)

一作:そうか、今はフィルムにまつわるその辺の逸話はないんだ。

泰介:うん、ない。
その辺の話をしても、若い奴らはピンときてないもの。

一作:オレの場合は、『SWITCH』の海外取材まではフィルムだったから、直さん(松本直明)が冷蔵庫に、

上平:X線の時はバックに入れて(笑)

泰介:あれがね、撮った後のストレスなのよ。
それが原因で感光しちゃったり、

一作:映ってないとかさ。

泰介:そう。
だからさ、今の時代、そのストレスがないということは幸せだよね。

上平:撮った後、パソコンに取り込んだら略終了だもんね。

泰介:そう。
ガハハハハ(急に爆笑)

一作:ガハハハハ(つられて爆笑)
「もう終わり」って!?

泰介:今のカメラマンは楽してるよな(笑)

一作:(進行役にむかって)イラストレーターも、今はデーター入稿とかもあるんでしょ?

ラジオアダン:ええ。編集者と顔を会わさないで終了なんてことも多々あります。

泰介:小説家もそうなんですよね。
編集者と呑みに行く機会が減ったから、昔みたいにハチャメチャな人がいなくなった。

一作:オレは未だにパソコンにシフトしてないから(笑)

ラジオアダン:とはいっても、最近、原稿はWordファイルで入稿しますよね。非常に助かります(笑)

一作:2人には分かり難いだろうから説明するけど(笑)
1回手書きで原稿を書いて、デジタルで打ち込んでもらうスタッフに渡して、それを送るということだね。

上平:成る程。

一作:その過程に誤字を直したり校正したり。だから、何回もスタッフに送ってもらって見て直してってやり方だから結構手間がかかるんだ。

泰介:なる程ね。
でも、思えばなくなったものは沢山ありますよね。デザイン事務所で箱形の黒い幕の、

上平:トレスコね(笑)

泰介:あれもうないじゃないですか。紙焼きなんかするね。

ラジオアダン:同じくデザイン関係だと、写植屋さんもなくなってしまいました。

一作:でも、アナログでの行程的な苦労はいつの時代でもした方がいいよ。

上平:もの作りのプロセスね。

泰介:ボクはキャリアの初期、水中で写真を撮っていたんです。今は完璧にその表現からはリタイアしていますけど。
水中で撮影していて、フィルムって36枚で終わりだから、撮り終わるとまた岸まで戻って行く訳です(笑)遠くから戻ってまた行ってまたフィムが切れて(笑)
今はデジタルなんで枚数制限なんてまったく関係ないですからね。

一作:泰ちゃんの旅で多く行ったのは、東南アジアだとやはりバリ島だったのかな?

上平:今でも行くもんね?

泰介:バリはあまりに有名だけど、フィリピンとかタイとか。プーケットもオレはかなり早い時期から行った方だと思う。

一作:プーケットのどこに行ったの?

泰介:プーケットはね〜、カタビーチやパトンビーチ。
でも結局は、飛行場の横に気になる所があって、地元の漁師さんに、「あそこへ連れて行ってくれないかな〜」なんて頼んだら、皆、凄くいい人達で、

一作:カタなんて波立っていたっけ?

泰介:雨期に行くと風の影響で波が立つんだ。大した波じゃないけどね。
でも、飛行場の横は凄くいい波が立ってる。
サーフィンに限ったことかもしれないけど、旅ってそういう予期せぬ出来事みたいに波が荒れているのを見つけるのが楽しんだよ。

一作:オレがプーケットへ行ったのはCAYをやる前だから、……、84年くらい。もう33年前になるのか、……、リサーチという便利な名目で(笑)、

泰介、上平:ガハハハハ(爆笑)

一作:オレと亡くなった(宮川)賢(左衛門)さんと、「タイ料理のレストランをやろう!」なんて言ってさ、プーケットのカタの向うにさ、……、

泰介:一杯小さなビーチがある。

一作:崖を登って行くと、……、ノイだ。
ノイって“小さい”って意味なんだけど、そこにコテージがあって。
ヨーロッパから来たヒッピーが沢山集まっていて、電気もなくてトイレも海で済ます感じで、あるのは煙の出る例の嗜好品だけ(笑)正に、デカプリオの『ザ・ビーチ』。
実はオレ、あの映画が大好きでさ(笑)あの時代、タイにパラダイス求めて旅をしてる人達が沢山いて、勿論そんなものはなくて帰ってくるんだけど、その雰囲気が如実に出ていて。馬鹿な奴らが一杯いたからね(笑)

泰介:50年代後半の初期サーファーって、大体行く所が決まっているんだよ。
まずタイに行ってバリに行ってインドのゴアにってコースで、ゴアもサーフィン出来るから。
そういう三角形をグルグル廻っていたんだ。

一作:そういう意味ではサーファーもヒッピーも行動範囲は一緒なんだね。

泰介:うん。その年代のヒッピーの人達は海に住むことが多かったしね。
そんな旅の中、カメラを持っている奴はその旅を記録して、それを切っ掛けにカメラマンになった人も一杯いる(笑)

一作、上平:(具体的に顔が浮かんだのか?急に)ガハハハハ(爆笑)

一作:実際、泰ちゃんはいつから写真を撮り出した訳?

泰介:ボクは最初は写真じゃなかったから。

ラジオアダン:ということはサーフィン先行でとか?

泰介:ボクは最初、サーフィンの映画を作りたかったんです。

◇◆◇◆◇
 この、一作からの金言的質問により、トークセッションの向かう方向は激変を見せる。
 なんと、以降の舞台は、時代劇映画の総本山、京都/太秦!
 実は写真家、横山泰介の創造の原点は、映像、映画にあった!
 更に、本日のトークセッションの重要な鍵を握る3レジェンドのうち、1番意外なリアルレジェンが素晴らしい逸話と共にここで表出する。
 そのレジェンドのコードネームは“マイトガイ”!!
◇◆◇◆◇

泰介:写真を撮りだす前、友人がアメリカから16ミリを輸入して、近所のサーフショップを拠点にサーファーを集めて、

上平:上映会?

泰介:そう。
公会堂等で。50人とか集まる感じで(笑)
それが、段々、規模が大きくなって、大阪では、

上平:中之島公会堂(正式名称/大阪市中央公会堂)?

泰介:うん。
あそこは500人ぐらい来ちゃって(笑)

上平:東京だと九段会館。

泰介:そうそう(笑)

ラジオアダン:上映内容は、インディペンデントなサーフフィルム作品ということですか?

上平:うん、今で云うインディペンデント作品だね。

泰介:海外にはその手の作品が一杯あったんです。

一作:それ、いつぐらいの話?

上平:70年代前半とか?

泰介:そう、そのくらいだね。

ラジオアダン:その手の作品を沢山見て、「自分でも撮れるんじゃない?」なんて感じで?

泰介:うん。
これなら、「自分でやった方がいいな」って思って、撮影所に入ることにしたんです。
暫くやっていたら、ちょんまげものをやらされて(笑)最終的には、「太秦行って『子連れ狼』やってこい!」なんて言われて(笑)

一作、上平:ガハハハハ(爆笑)

一作:泰ちゃん、下積みやってたの!?

泰介:2年くらいね。(ぽつりと)

一作、上平:ガハハハハ(爆笑)

ラジオアダン:えっと、『子連れ狼』ということは、主演は、……、

泰介:萬屋錦之介。

一作:凄いね〜(笑)

泰介:ボクはカメラのセカンドですから先輩が脅かすんですよ。
役者さんとの距離をメジャーで測るんですけど、「お前さ〜、少しでもメジャーの先が身体に触れてみろ、その場で即クビだからな!」なんて言われて。
こっちは波乗りしたいのに、徒弟制でなかなか辞めさせてくれないから、病気になっちゃって、それで強引に辞めたの(笑)

一作、上平:ガハハハハ(爆笑)

泰介:でもね〜、凄くいい経験もしました。
今、現場で何があっても動じないのは、撮影所で鍛えられたからだと思うんです。蹴られたり殴られたりするのは普通でしたから。今、同じことしたら訴えられちゃうよね(笑)

上平:完全なパワハラ(笑)

泰介:うん。
それが許された最後の時代だろうな〜、ボク達が。

ラジオアダン:何て言ったって太秦ですものね。

泰介:「お前、太秦に行ってこい!」と言われた時は、瞬時に、「もうやめよう」
と思って、第一、京都って海がないじゃないですか。
ワンクールが終わるとボクはすぐに家へ帰りたいんですけど、先輩達はゴールデン街で呑みたいんです。それで付き合わされることになる。

一作:映画が斜陽になっていたあの時期ね。

泰介:そう。
先輩達が行く店っていうのは、大体、映画関係の、……、要は、業界のOBとか奥さんがやってる店。
で、そこでなにが始まるかって言うと、またまた映画談義。しかも最後には喧嘩になっちゃうから。

一作:あれね〜、オレ、あれ凄く嫌でさ〜。

泰介:殴り合いの喧嘩なんてアホらしいですよ。オレはひたすら、「帰りたい…」って思ってた。

一作、上平:ガハハハハ(爆笑)

一作:その喧嘩も、やっぱり芝居じみてるんだよね(笑)

泰介:オレなんて、チーフが相当酔ったまま全力で走り出すから、「危ない!」って思って身を呈して止めたら、足の指の骨を骨折しちゃって、「お前がよ〜!」なんてオレのせいにされちゃって(笑)
まあ、そんなことで鍛えられたのかな?

一作:皆、下積みがちゃんとあるんだね。
修行って云う程のものじゃないけど、オレにも嫌な時代はあったよ。

泰介:一作にも嫌な時代なんてあったの?

一作:そりゃ〜、あったよ。

泰介:絶対なさそうな感じだけどな。

上平:初代『クーリーズ・クリーク』の前?

一作:うん、そう。
だから、「クーリーで、なんか面白いことやりたいな」ってことだね。
嫌〜な時代だね。上平はそんな時代ないでしょ?

上平:何、言ってるの(笑)あるよ、オレにも!

一作、泰介:ガハハハハ(爆笑)

一作:ボンだからないかと思ってた(笑)

上平:オレの場合、大阪にいて、親父に、「東京でやってこい!」って放り出されて。

ラジオアダン:先代社長に、「東京で修行してこい!」と?

上平:あれは修行じゃないな〜。
親父は1回、東京へ出て来て失敗して、大阪に撤退したことがあるの。
だから、オレを鉄砲玉にして自分のリベンジをさせようと(笑)

一作、泰介:ガハハハハ(爆笑)

上平:こっちは、東京なんて右も左も分からないから、親父の知り合いの神保町の錦明印刷、新潮社の下請けなんかをやっていた会社なんだけど、そこに間借りさせてもらって、3人ほどで細々と始めてさ、

ラジオアダン:東京分室的な?

上平:うん、正にそんな感じ。
その頃の神田って一升瓶を片手に版下引いちゃうようなおっさんもいてさ、結構、豪毅な人が多くて厳しいながらも楽しこともあったよ。

一作:それ、いつくらいの話よ?

上平:千九百、……、83〜4年だね。

一作:オレがCAYの準備していた頃か。
泰ちゃんの修行時代は、「これから映画の世界はどうなるの?」なんて、日活が終わった頃でしょ?

泰介:ボクなんて丁度、……、日活の大スターで小林旭さんっているじゃないですか?
この間、あの人の撮影をしていて、

上平:小林さんは泰ちゃんの作品展の時には必ずお花を届けて頂くんだけど、どん引きするくらい強力に豪華なのがくる(笑)

泰介:素晴らしい人ですよ。
「日活に撮影に行くから付いて来て」って言われて、ご本人とお付きのような日活の宣伝マンの方と一緒に食堂なんか行くと、あの人専用の椅子がある。
そんなだから、当初は、こちらの要望などを伝えるのも憚る距離感だったんだけど、撮影も終盤になってくるとやっと会話もスムースに出来るようになってきて、撮影所のスタジオの外には決まってはしごみたいな非常階段があるんだけど、昔のアクション映画は、よくそんなはしごを登るシーンがある。それをイメージして、「旭さん、すいません、このはしごを登って頂けないでしょうか?」ってお願いしたら、「ああ、いいよ」って登り出す。あの人は凄い俳優なんで、登りながらちゃんとピシッとポーズを作ってくれる訳です。
そんな感じで撮っていたら、急にオレの後ろを通り越して、「おお!元気かよ〜!?!?」って大声で誰かに呼びかけているんですよ。「誰だろう?」と思って振り返って見たら(ビート)たけしさんが直立不動で立ってるの(笑)

一作、上平:ガハハハハ(爆笑)

泰介:そしたら、宣伝マンの人が小声で、「たけしさんに今ものを言えるのは、小林旭さんくらいですよ」って(笑)

一作、上平:ガハハハハ(爆笑)

ラジオアダン:そういえば、昔、東京スカパラダイスオーケストラとジョイントした時に、スカパラのメンバーの皆さんが、異口同音に小林旭さんの人柄を絶賛していました。

泰介:あったね、ボク、あの時の『自動車ショー歌』が大好きで、その話も旭さんとした。
「あいつ等を銀座に呼んだんだ」ってところから始まって、「オレは名前覚えるのがめんどくさいから、『ギターのやつ』とか『ベースのやつ』とか呼ぶんだけど、『ボクだって名前くらいあるんですから』って言いやがって、『いいんだよ、お前はギターなんだからギターでいいんだよ』」って(笑)

一作、上平:ガハハハハ(爆笑)

泰介:これ後日談があって、実は旭さん、全員の名前は覚えていたんです。そのくらい優しいめちゃくちゃかっこいい人です。
昭和の大スターだからね。昔の写真がまたかっこいい!
ロスで撮った写真、たまげちゃいますよ、あまりのかっこよさに。
(一作に向かって)話がこっちに飛んじゃったけど大丈夫?

一作:全然問題ない(笑)

泰介:じゃ〜そのまま続けるよ(笑)
ライブ前に音合わせを全部するじゃない?この時はスクリーンに、『渡り鳥シリーズ』の映像を投影して、それに生バンドが同期するという企画だった。当然、難度が高くてリハーサルを何度もやり直したりする、と、「もういいんだよ、やめれば」って(笑)
それで、「ギターのやつ、お前、音がはずれてるよ」なんて音楽的な指摘もする。耳がめちゃくちゃいいんです。ギタリストも、「すいませ〜ん!」なんて言って(笑)

一作:美空ひばりの元旦那だもんな(笑)

泰介:「オレはもうやめてもいいんだぞ!」なんて言うくらいに緻密にライブを作っているのに、全てが終わって幕が降りた時、クルっと後ろを向いて楽団に深々とお辞儀をするんです。オレは舞台の袖で撮影してるんだけど、鳥肌が立ちました。
かっこいいです、最高です。

一作:やっぱり凄いよね、あの時代の大スターは(笑)

◇◆◇◆◇
 流石、マイトガイ!!これぞ極上の“いい話”!
 こうなったらどんどん行きましょう!横山泰介が選ぶリアルレジェンドその2。
 さて、次に登場するレジェンドは、実は、一作も長く追求してきたハワイの土着魔力が深く混在する人物である。
 第2のレジェンドは、日本にも縁深く、ポリネシアとハワイを繋ぐ伝説の舟、ホクレア号のクルーでありリアル・シャーマン、その名は、タイガー・エスペリ!
 お時間まで、ごゆっくり伝説を堪能ください!
◇◆◇◆◇

一作:タイガー(・エスペリ)は何年くらい日本に住んでいたの?
ずっといたの?

泰介:一時ずっといたよ。
ほら、ベース(基地)で奥さんが働いていたから。
丁度、オレ、実家に帰っていて借家が空いてたから、当初はそこに泊っていて、いろんな所を見た後に、「じゃ〜、七里ケ浜住むよ」ということで七里ケ浜に住むようになった。

ラジオアダン:素朴な質問で恐縮です。
その、タイガーさんとは何者ですか?

一作:タイガー・エスペリっていって、チャンタだったの。

上平:カメハメハ大王の末裔にあたるんだよな。

一作:フラをやるためのチャントを作る人。

泰介:あと、伝説のビックウェーバーで、

上平:サーフィンが凄く上手い。

泰介:ホクレア号って舟があるんですけど、あれでタヒチまで行ったクルーの一人なんです。
ですから、ハワイではかなりのレジェンド。

ラジオアダン:例の、星を頼りに航海するという。

泰介:そうです。
ホクレアが日本に来た時は、タイガーは既に亡くなっていたんだけど、横浜に向かう途中、わざわざタイガーが住んでいた鎌倉に舟は寄ったんです。

上平:オレも何度か会っているけど、なんか日本人顔してるんだよな(笑)

ラジオアダン:チャントを作られるということは、詩人であり、ミュージシャンであり、僧侶でありみたいな存在だった?

泰介:一言で云えばシャーマンということですね。実際、おとうさんもシャーマンだったし。そういう力は授かっていた。

一作:ミュージシャンとは違うよ、シャーマン。そこは絶対に分けないと。
ミュージシャンはあくまでもミュージシャンなんだ。
例えば、フラマスター、クムフラになっている人は、勿論、唄うけれど、それはまた違うんだ。まあ、ケアリイ・レイシェル等はミュージシャンでクムフラもやっているけどね。

泰介:もともと、お父さんがシャーマンだったから、家庭自体がね、

ラジオアダン:伝承文化?

泰介:そう。
ハワイアンはそうしてみんなやってきたんだよ。
まあ、凄い人だったよ、全部、“GIVE”の人で、一切、“TAKE”じゃない。

一作:それが素晴らしいよね。

泰介:元々、ハワイの波乗りは王様達、貴族の、

上平:遊びだった?

泰介:うん……、……。
日本でいう相撲みたいなものかな?国技。

ラジオアダン:神事とスポーツをコンフューズさせて、

上平:宣教師がハワイに渡って来て、波乗りを始めると楽しすぎて本来の使命を果たさなくなったから、「サーフィン禁止」とか言い始めたらしいよ、歴史を紐解くと(笑)

ラジオアダン:ベンチャーズ来日時の日本での「エレキギター禁止」みたいですね(笑)

上平:そうそう、学校、強制退学みたいな(笑)

ラジオアダン:さらに紐解くとサーフィンの発祥はどこなんですか?

泰介:元々はポリネシア、あの辺の文化でしょうね。
元々、ハワイの人達はポリネシアから来たし。

上平:うん、ポリネシアピープルの海の遊びの一つじゃなかったのかな〜?

泰介:その繋がりを証明したくてホクレア号がタヒチへの航海に出た訳ですから。

一作:タイガーに話は戻るけど、オレが泰ちゃんから購入したタイガーの崖っぷちの写真作品、あれはカウアイだよね?

泰介:ああ、あのタイガーさんの写真ね。
うん、カウアイの突き当たり。ハエナ。

一作:あそこを上がって行くと崖っぷちにフラの聖地がある。
そこで、サンディーは、最後、クムフラになった訳さ。

ラジオアダン:一種の密教ですね。

泰介:あそこだけですよ、タイガーさんが撮影NGを出したのは。

一作:だから映像、画像の記録が残ってない。

泰介:昔はそこへいって、「君の踊りはダメ」なんて言われたら崖から飛び降りて死なないといけなかった。

一作、上平:ガハハハハ(爆笑)

一作:唯一、泰ちゃんが撮ったのが、そこの崖の下。

泰介:本当にそうだったらしいですよ。
そのくらい厳しい。フラはエンターテーメントではないんです。

一作:フラカプって言ってさ、フラマスターになる人は禊をするための場所に隔離される。そこから、さっき言った場所に行ってやる訳。
3ステップあって3回とも同じ手順なんだけど、取材で行ったオレには誰も隔離されている場所を教えてくれない。

泰介:ふぅ〜ん、凄いね。
そのくらいじゃないとダメなんだろうね。

ラジオアダン:今、急に、青春時代貪り呼んだ、名著『ドンファンの教え』が緩く感じてきました(笑)

一作、泰介、上平:ガハハハハ(爆笑)

一作:あれはメスカリンね。

泰介:カルロス・カスタネダ(笑)
でも、あれは、読書後、飛ばされましたよ。

一作:やっぱり、フラやサーフィンのディープな場所は、それなりの姿勢で行かないとダメだね。

上平:ちゃんとしてないと後でくらうんだよね(笑)

泰介:後でね(笑)本当に(笑)

一作:後でくらう(笑)

◇◆◇◆◇
 稀人についての話は本当に面白く、そして楽しい。
 アダンの美味しい酒と肴の勢いか?泰介は誘導するかのように、更なる稀人、あのワールド・レコーダーの世界へ、遂に間口を開ける。
 筆者は勿論、名作映画『グラン・ブルー』から、その存在を知り、別次元の存在として勝手に崇めてきたが、今夜の真打ち第3のリアルレジェンドは至近距離でいかなる人物だったのだろうか?
 斯くして、その果てに、このトークセッションのキーワード、“メッセンジャー”という新たなアートの予兆が、タームとして謀らず立ち現れる。
 本日の最終コーナー。日常に溺れる相田みつを信者達よ!3者の終宴への発言を心して訊け!
◇◆◇◆◇

泰介:あと、何か訊きたいことある?

上平:やっぱり、ジャック・マイヨールの話じゃない?

一作:最初は仕事が切っ掛けだったの?

泰介:たまたま、『ダイビングワールド』っていう媒体でインタビュアーをやって、いていろんなダイバーに話を訊いていたんだけど、「ジャックが日本に来ている」ってことで、伊豆に行って。オレ、昔から彼のこと好きだったから。
『グランブルー』が出る前。「こりゃ〜嬉しいな」と思って会いに行って、やっぱり思った通りの人だった。
『翼の王国』ってあるじゃない?

上平:全日空のね。

泰介:うん。あの仕事もしていたんですよ。
その時に、粕谷誠一郎さんって編集者分かる?
彼が、「今度、ジャック・マイヨールをやりたいです」って言って来て、「そうなの?」って。

一作:粕谷さんってマガジンハウスにいた人だよね?

泰介:そう。
その後に、『翼の王国』の編集長になった。

一作:森永博志さんもやっていたよね。

泰介:うん、オレ、一緒にやっていたよ(笑)
で、『翼の王国』でのテーマというのは、ジョジョっていうイルカがいて、本来、イルカは一匹では生活が出来ないんだけど、なぜかジョジョだけは一匹なんだよね、離れイルカなの。
それをどうしても取材したいってことで、ジャックもその話には興味を持っていて、OKが出て、「ジャックとジョジョを探しに行く旅」ってことで取材が始まった。
それが、ジャックとは2回目のコンタクトになる訳なんだけど、一応、自己紹介して、「あの時、伊豆で会いましたね」って切り出して、「ああ、そうだったね」ってことで再会した。

一作:やっぱり、何事も出会いだよね。

泰介:あの取材はあれで凄くよかった、いろんな経験が出来たしね。

一作:例えば?

泰介:やっぱり、改めて思ったのが、ジャック・マイヨールって記録を樹立した人だからさ、人間なんだよね。
ボク、人間が好きだから強く感じるのかも知れないけど、いろんな人がいる中で、陸の上の人間と比べて、海の中の人間、自分の中に入って行く人間のギャップの大きな違い?それが凄かった。
陸の上で会う彼は、本当に典型的なフランス人然としていて、女性が大好きだし(笑)勿論、ピアノも上手に弾けるし、お酒も好き。
だけど、ひとたび自分が潜る段になると全然違うオーラ。それは当然なんだけどさ、そこまでの変容で、「世界で一人しかいない人間だ」って理解出来た。
ヨガをやったり集中している時に、フィルムの時代だから、カシャって音がどうしてもしてしまって、いくら2回目といえ、写真を撮る時に嫌な顔もされていたんだけど、何度も何度も撮影をするうちに、「お前は便所でブンブンオレの周りを飛ぶハエだ!」なんて言い出して、オレはそこで、「しめた!」と思った(笑)それからだよ、ガンガン撮れるようになったのは。
今はデジタルだからシャッター音を消音設定にすることも出来るけど、アナログ時代だから起こりえる逸話だよね(笑)
で、仕事はカラー写真だから、仕事とは別に自分が好きなモノクロも平行して撮っていて、今、出版しているものの殆どはその時のモノクロの写真。
ジャックは来日すると、千葉の館山に住まわれている数少ない信頼している日本人ダイバーの方のお宅によくいて、ボクは自分のプリントした作品を持って行く訳。
「おおっ!!」なんて見てくれるんだけど、ボクは、「ジャック、この写真はどんな感想を持つかな?そのイメージを文字で書いてくれないかな?」なんてアプローチをして、

一作:そうか、それでメッセージが入っている訳か。

泰介:そう、ジャックが書いてくれた訳。だから、ボクに執っては凄い宝物なんです。
そんな感じで何枚も何枚も持って行って、その都度ジャックに、「これはどんな感じ?」って質問して、「これはこんな感じだよ!」と。
そういう意味なら、ある種、ボクをジャックが使って、ボクはメッセンジャーなんですよ。
とはいえ、ジャックは当然、自身のメッセージの吟味に対しては非常に厳しくて、インタビュアーがいる席にも同席したことがあるんですけど、「君はボクの本を読んでどのくらいボクを理解出来ているの!?」なんて、平気で言っちゃう人だから(笑)

一作、上平:ガハハハハ(爆笑)

泰介:生半可な知識に対しては怖い人なんですよ。
それは、自分に自信があるから。そりゃ〜そうですよ、レコード作った人ですから。
だから、ボクは一生懸命、「これは、これこれこういう風に使いたい」とちゃんと言わないと許してくれない(笑)
それで、「あなたのメッセージは素晴らしい、これは今後、世界中の人達に発信する写真に相応しいメッセージなので許可を頂けますか?」と説明すると、「分かった、使っていいよ」って、やはりああいう人っていい意味でうるさいですから。
ですから、ボクはメッセンジャーとして彼に認知されたことは非常に誇りです。
それは前述したタイガーもそうです。
彼みたいに自然の中にいた人は、当然メッセージを持っている。
だから、最近はフォトグラファーでいるよりメッセンジャーでいいのかな?と。

ラジオアダン:明確なメッセージを持って行かないと許諾が下りないとは、強靭な純コンセプチャルアートですね。

泰介:うん、「彼等のメッセージがないと」と、ボクは思うんです。
だから、彼等もボクをいい意味で利用しながら自分達の想いを。上手く伝えるにはやはりビジュアルは大切ですから。
ですから、そこでボクが選ばれたことは、「嬉しいな〜」って勝手に喜んでいるんですけどね(笑)

ラジオアダン:素晴らしいお仕事だと思います。

泰介:それは、今になって彼等のメッセージが更に生きてきたからです。
自然がこれだけ破壊されて、究極的には皆が望むところは美しい自然じゃないですか?実際の彼等の言うことは太古から全く変わってない。
「もうちょっと自然に寄り添って」というメッセージ。

一作:メッセージ性の高い制作物は今こそやった方がいいよ。
……、やばいもの(ぽつりと)

ラジオアダン:日本画や中国画にも昔から文字が添えられた作品がありました。

泰介:うん、禅の言葉とかね。

一作:キレがよくてシャープなのは凄くいいんだけど、……、それがさ、……、下町の居酒屋とかに、……、

上平:相田みつを?

一作、泰介:ガハハハハ(爆笑)

一作:オレ、あれ苦手なんだ。

泰介:うん、あれなら、武者小路(実篤)さんの方がいいけどな〜。

一作:武者小路の方が全然いいよ!

泰介:ですよね。
いろんな所に色紙があるけど、あの人の場合は読むとホッとします。

一作:実篤はいいよ。
オレ、山口の田舎を出て東京に来た時、おふくろから実篤の本が送られて来たけど(笑)

泰介、上平:ガハハハハ(爆笑)

一作:オレ、フーテンの寅さんと実篤はなぜだか好きなんだよ(笑)

泰介:ボクも好きです(笑)
やっぱり相田みつをじゃないんだよ。

一作:そうなんだよね、ダメだよな。

上平:オレもダメだな(笑)

全員:ガハハハハ(爆笑)

上平:大体、居酒屋のトイレにあって、日めくりのね(笑)

全員:ガハハハハ(爆笑)

一作:オレ、下町のおばちゃんとかを騙したくないな(ポツリと)

泰介、上平:ガハハハハ(大爆笑)

一作:なんか変な所に帰着しちゃったけど、この対談はいつもそうだから気にしないでね(笑)
また次回、葉山辺りでこの続きを話そうか?(笑)
今日は忙しい中来てくれてありがとう。

泰介:ごちそうさまでした。

上平:ごちそうさまでした。

◇◆◇◆◇
 〜仲よき事は美しき哉〜
 〜君は君 我は我哉 されど仲よき〜
 近日、地元葉山での再会を約束し、楽しき宴の幕は降りる。
 又しても、究極のファイナルアンサーへの便利な近道等どこ吹く風に無軌道に蛇行したフリーキーなトークセッション。
 とは言え、今回、語られた3偉人の逸話にインスパイアされた読者も多数いるのでは?
 人生はやはり出会いである。そして、その出会いを呼び込む準備が大切だ。
 では、その準備とは?
 そんな都合よく確定された準備など、どこにもあるはずがない。
 なぜなら、人生の殆どの出来事なんて、酔っぱらいが酒場で夢想したことを、神様が空模様に沿って暇つぶしにチョイスしているだけなのだから。

 とぅ・びー・こんてぃにゅーど

@泉岳寺「アダン」

テキスト、進行:エンドウソウメイ

写真:門井朋

●今回のゲスト


横山泰介/プロフィール
1948年 東京生まれ、葉山町在住。写真家。
大学時代に撮影した稲村ヶ崎の波の写真がきっかけとなり、写真家の道へ。
以降、30年近くサーファーのポートレートを中心に作品を発表し続けポートレートカメラマンとしてサーファーのみならず、ミュージシャンやアーティスト、ハリウッドスターまで、これまで数多くの有名人を写真に収めてきた。どの作品からも、海、自然とのつながりと安らぎをみいだしている。自身もサーファーであり、「サーフィンライフ」誌のシニアフォトグラファーも務める。
写真集「サーファーズ」(マリン企画・2003年刊)、写真集「坂口憲二」(ブックマン社2003年刊)、写真集「海から見たニッポン」(えい出版2009年刊)、
写真集「Dedication」(ブエノブックス2010年刊)、写真集「サーファーズ」(ブエノブックス・2017年再刊)、写真集「サーファーズⅡ」(ブエノブックス2017年刊)。
風刺漫画の横山泰三氏を父に、「フクちゃん」で知られる国民的漫画家の横山隆一氏を伯父にもつ。
 

上平諭/プロフィール
Bueno!Books代表/プロデューサー。
1956年、大阪市生まれ。1973年 伊勢 国府の浜でサーフィンを始める。
大学卒業後、1983年企業カタログを軸とする大伸社に入社。2000年、(株)大伸社 代表取締役社長就任。
2003年、横山泰介氏の写真集「サーファーズ」の制作に携わったことをきっかけにサーフアート、ボードカルチャーブックの制作、出版をスタートする。2004年、Bueno!Booksを立ち上げる。
社屋併設のSLOPE GALLERYにおける企画展をはじめ、数々のエキジビジョンを仕掛ける。


河内一作/
山口県生まれ
八十年代から霞町クーリーズクリーク、青山カイなど常に時代を象徴するバー、レストランの立ち上げに参加。九十年代、仕事を辞め世捨て人となる。
六年間の放浪生活の後社会復帰し、アダン、青山タヒチ、白金クーリーズクリーク、音楽実験室新世界、奥渋バー希望、南洋ギャラリー、など手がける。お楽しみはまだこれからだ。