黄昏ミュージックvol.57 ドラナ・ドラナ/ムスタファ・オズケント

 アメリカテキサスの男女混合トリオ、クルアンビンのブレークと共に彼らがインスパイアされたタイ発のレアグルーブ、ファンクが注目を集めているが、ヨーロッパに目を移すと、彼らと似た音響を配すオランダ拠点の、イン・インやアルタン・ギユンにはタイよりも、トルコの60〜70年代のヴィンテージ・サイケ&ファンクが色濃く反映されていることに気付く。
 その際たる源流が今回ピックアップするムスタファ・オズケント。
 彼のキャリアは非常に長く60年代からギタリスト&アレンジャーとして活躍し、その名を国内外に轟かせてきたが、この73年の全編インストアルバム『Genclikle Elele』は、当時国内無双を誇った一流スタジオミュージシャンを集めほぼ一発録りというライブ感溢れる演奏で、この時点で既に現在の前述したムーブメントを予見、否、凌駕するほどの楽曲が出揃ったレアグルーブの名盤として残している。 
 その中でも今回選んだ早めのBPM曲「ドラナ・ドラナ」は歪んだ単音ギターの主旋律が印象深く、その放つヴァイブスの開放感は際立ったものを有している(se)

黄昏ミュージックvol.56 バラ・バラ/レインボウズ

 1967年(本国ドイツでは65年)に不思議な洋楽がこの国を一瞬だけだが席巻した。西ドイツ(当時)のロックバンド、レインボウズの『バラ・バラ』がそれだ。
 〜My Baby baby balla balla My Baby baby balla balla My Baby baby balla balla My Baby baby balla balla My Baby baby balla balla Wa wow! balla ballaWa wow…!〜、ただこれだけを繰り返す単純な8ビートマナーな楽曲で、故に当時7歳の筆者にも容易に歌うことができた。
 この時期、小学校の授業が終わりランドセルを置きに一旦帰宅してから、友達と待ち合わせたいつもの校庭のブランコへ行くと、たった一人でブランコに揺れている幼稚園生が必ずいた。その子がブランコの揺れに合わせ必ず口ずさんでいたのが、例の、『バラ・バラ 』で、彼には〜アベビベビ バラバラ〜と聞こえるらしく、そのおかしな発音と異常に大きな歌声を面白がった筆者達は何度も何度も彼にバラ・バラの歌唱を要求し、彼もそれに応えた。子供とは残酷なもので、我々はおかしな幼稚園生をただいじって遊んでいただけなのだが、その子は嬉しそうに何度も反復した。
 2週間も過ぎだろうか?既に“バラバラ”とあだ名が付いたその子の姿が忽然と消えた。それと同時に筆者の脳裏でリピートしていた〜My Baby baby balla balla〜のリフレインも止まり、ラジオからも流れないようになった。あの男の子はその後どうしたのだろうか?家族と共にあの街から離れていってしまったのだろうか?
 尚、この楽曲はザ・スパイダースもカバーしており大野克夫氏のピアノ、ハモンドが冴え渡る勇逸なアレンジ。80年代になるとアルバム『COVERS』の中でRCサクセションも日本語プロテスト・ソングとしてカバー。山口冨士夫、三浦友和などもゲスト参加した豪華布陣となっている。(se)

黄昏ミュージックvol.55 IEKI吐くまで/片岡鶴太郎

 コロナ禍を理由に酒場への締め付けは頂点に達している。極論を述べるなら“条件付き禁酒法”と言ってもいいのではないか?
 さて、そんな状況なので今回は逆手を取って、敢えてアルコール、酒場の最大の効用、悲恋の吐口的楽曲を取りあげようと思う。
 コンポーザーチームは美空ひばりの最後のシングル曲『川の流れのように』の三人、秋元康(作詞)、見岳章(作曲:ex.一風堂)、竜崎孝路(編曲:ex.ペドロ&カプリシャス)。
 曲調はクールファイブなどでお馴染みのR&Bの和製可変。つまりムード歌謡に組み込まれる。
 注目はやはりその詞。日本では、城卓矢のヒット曲『骨まで愛して』に代表されるように、求愛の最大の深層を骨格に求めるものだが(ローザ・ルクセンブルグの名曲『ひなたぼっこ』にも同様の表現が見受けられる)、この楽曲の世界観はそれを体液に置き換えている。しかも、血液ではなく胃液。その究極の状態に導く至高のトリガーがアルコールという訳なのだ。
 このドラスティックな流れを俳優ではなく、ヨゴレ芸人時代の片岡鶴太郎が歌うから更に凄みが倍増する。
 そういえばこの楽曲、以前山下達郎氏が自身の番組『サンデーソングブック』〜昼の珍盤奇盤特集〜で、“氷川きよしなどの純演歌歌手が歌えば新たな魅力が出るはず”と語っていたが、それはそれで是非聴きたいものである。(se)

黄昏ミュージックvol.54 トゥーキャン・オーシャン/ジョン・ハッセル

先頃、亡くなったアメリカのトランペット奏者ジョン・ハッセルほどイノベーターという称号がぴったりなミュージシャンはそうそういなかったのではないだろうか?
 ジャズ、現代音楽、ワールドミュージック、アンビエントミュージック、フリーミュージック、どのジャンルにも精通しつつ且つどこにも属さない革新的音世界。特に70年代の末期に表出しだした民族音楽への大胆なアプローチは他の腰の引けた借り物のトレンドミュージックとは確実に一線を画していた。
 それもそのはず、一般的に知られるようになったブライアン・イーノとの1980年のコラボ作品『第四世界の鼓動/Fourth World, Vol. 1: Possible Musics』のリリース時、プロキャリアの最初期であるテリー・ライリー『In C』のレコーディングから既に12年の歳月が流れており、氏の民族音楽への造詣が他の追従を許さないレベルに到達していても何の不思議もない。
 その証拠が今回レコメンドする1977年のアルバム『バーナル・イクイノクス』の冒頭曲『トゥーキャン・オーシャン』。
 静寂が包むジャングルに見たこともない七色の昆虫が羽を震わせ旋律を奏でる。時に近く時に遠く。吐息とも倍音ともつかぬ通音がいつ止むともなく鳴り続ける。
 「ジョン・ハッセルのコンテンポラリー・ミュージック史における偉大さは、マイルス・デイビス、ジミ・ヘンドリックス、ジェームス・ブラウン、もしくはヴェルヴェット・アンダーグラウンドに匹敵する。」(The Wire誌)
 稀代の鬼才よ永遠に。(se)

黄昏ミュージックvol.53 わすれたいのに/モコ・ビーバー・オリーブ

 今回は先日他界した天才音楽プロデューサー、フィル・スペクターの数ある名曲から、洋楽カヴァーとして我国でリリースした、『I Love How You Love Me』(邦題/『わすれたいのに』)を取り上げる。
 歌唱した三人娘、モコ(高橋基子)、ビーバー(川口まさみ)、オリーブ(後述します)はニッポン放送のラジオ番組『ザ・パンチ、パンチ、パンチ』(1967年開始、1971年降板)の初代ナビゲーターとしてデビューし、番組名が示すとうり、『平凡パンチ』でユースカルチャーを席巻していた平凡社1社提供の若者向け情報番組でのキャスティングだった。
 同番組で一定の認知度を得た3人を更に飛躍させようと、番組アシスタントプロデューサー亀淵昭信の発案で歌手デビューの運びとなる。
 楽曲選別は余り時間はかからず、「女性3人でしょ? それならパリス・シスターズしかないでしょ」とのことでフォル・スペクターのペンによるパリス・シスターズの「I Love How You Love Me」に決定。
 日本語歌詞を担当したのは、青島幸男の弟子、放送作家の奥山侊伸。そしてこの楽曲の魅力のほぼ全てと云っていいほどに良き方向へ変容させた小杉仁三(ありたあきら名義)がアレンジワークを担当。完全にプレンチポップスの方へ振り切る大胆なアレンジにより、カヴァーがカヴァー以上の名作として残ったと云っても過言ではない。
 さて最後に、謎の人物オリーブとは?
 オリーブは77年大滝詠一のナイアガラレーベルの初女性シンガーとして大瀧プロデュース『夢で逢えたら』で再デビューする。アーティスト名はシリア・ポール。
 その後は語るまでもないが、FM東京『ポップスベストテン』、『サントリー・サウンドマーケット』などの音楽番組のパーソナリティとしてその名を馳せた。(se)

黄昏ミュージックvol.52 パパ/エディ・チャコン

 1992年の全米ヒット『ウッド・アイ・ライ・トゥー・ユー』を覚えている御仁はまだこの極東の国にいるのだろうか?
 フィラデルフィア出身の黒人チャールズ・ペティグリューとオークランド出身の白人エディ・チャコンによるソウル・ボーカル・デュオ“チャールズ&エディ”の楽曲で、テレンス・トレント・ダービーやレニー・クラヴィッツなどが脚光を浴びていた時代に即した人種を飛び越えたR&Bテイストのヒットチューンだった。
 残念ながら20001年にチャールズは早逝してしまい、このデュオは既に幻となってしまったが、昨年、相方エディ・チャコンがDIY感覚の打ち込みを背景にした素晴らしい新作『プレジャー・ジョイ・アンド・ハッピネス』をリリースした。
 昨今のチカーノソウルの掘り起こしとも併走するような、彼が元々持ち合わせていたであろう、カーティス・メーフィールドに代表される70年代のニューソウル・ゲノム満載の作品群を、フランク・オーシャン、ソランジュ・ノウルズとのコラボレーションでも知られるジョン・キャロル・カービーがチープギリギリの境界線で支えるサウンドプロダクトは見事だ。必聴!(se)

黄昏ミュージックvol.51 Komm, süsser Tod(コム・シュッサー・トートゥ)甘き死よ、来たれ/ARIANNE

 1995年のテレビアニメ版から多くのファンに呪縛をかけていた、あの『新世紀エヴァンゲリオン』が、本年3月公開の新劇場版の『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』で足掛け26年の、謎、伏線を一応回収し大営団を迎えた。
 斬新な世界観はもとより、バッハの『無伴奏チェロ組曲第1番ト長調 BWV1007前奏曲』、パッヘルベルの『3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調』等、現在聴くとそのシーンが思い出される程、深く古典的楽曲が記憶に刻み付いている。
 監督自身のバックボーンとなる世代的和製楽曲も“大ネタ”が故に画面と同化し大きな存在感を表出していた。  
 『今日の日はさようなら』、『翼をください』、『ふりむかないで』、『恋の季節』等がその一群だ。
 そんな中でも突出した楽曲が、旧劇場版『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』での、鷺巣詩郎氏のペンによるオリジナル挿入歌『Komm, süsser Tod 甘き死よ、来たれ』。
 よくザ・ビートルズの『ヘイ・ジュード』と比べられるが、これはあくまでもフォーマットのことで、アンサンブルはロックマナーとしてこちらの方が遥かに進化した重厚なサウンドとなっている。
 監督自身による英語詞に合わせ、ネイティブである南アフリカ出身のシンガーソングライターARIANNEをメインボーカルに抜擢。周りを固めるのは、我国のロック第二世代とも呼べる手練れ達(島村英二:ドラムス、岡沢章:ベース、中西康晴:ピアノ&ハモンドオルガン、斉藤ノブ:パーカッション、芳野藤丸:ギター)。正にサードインパクト発動による甘き死を迎える瞬間と同期する神楽曲となった。
 リフレインされる「無へと還ろう(It all returns to nothing)」。
 しかし、旧劇場版のこのメッセージと反し、全てのエヴァンゲリオンはネオンジェネシスを呼び込むことに合意し、宇部新川駅から“有”なる世界へ走り出すことを選ぶ。(se)

黄昏ミュージックvol.50 ライフ・オブ・ゴールド/カヤック

 記憶という生まれ持ったシステムに自分の事ながら驚愕することが多々ある。
 どこにしまって置いたのか?ありえない固有名詞を急に思い出すのだ。それが筆者にとってのオランダのバンド「カヤック」。
 プロブレシッブ・ロックをある程度かじった人達はその名前をご存知かと思うが、従来のロックマナーに従い、英米のみに触れてきた人は全く視界に入らないバンドだったに違いない。
 今回取り上げる彼らのサードアルバム『ロイヤル・ベッド・バウンサー』に収録された『ライフ・オブ・ゴールド』は非常にメロディックな美しい楽曲で、最初期のフレディー・マーキュリーのピアノ曲に相通ずるものを感じたりもする。
 ニューロックからグラムロックに移行し、その衰退とともに複雑な変拍子に象徴される10分超えが当たり前なプロブレシッブ・ロックが最盛期を迎えるが、その反動からか?よりメロディックでポップな方向性を探るグループもその一群から萌芽し出した。筆者は勝手にカヤックをその中に放り込みこの時期(1975年前後)頻繁に聴いていた。
 今回、データー処理仕事の真っ最中にその名が目に飛び込んできて、数十年も聞いていなかったこの『ライフ・オブ・ゴールド』が頭の中で響き出した。そうしたら、周辺の楽曲も一斉に記憶に蘇り、とうとう人生二度目の『ロイヤル・ベッド・バウンサー』購入という行動に出てしまった訳だ。果たして何時になったら本格的な断捨離モードに突入できるのだろうか?(苦笑/se)

黄昏ミュージックvol.49 タウン・ウィズアウト・ピティ(『非情の町』)/ジーン・ピットニー

 “ムード歌謡”の歴史を紐解いて行く中で、希有なアレンジメントを施した楽曲に巡り合ったという話を前回記したが、要約すれば、そのジャンルの王道のようなシンガーが、90’sのロンドンを先取りしたという希少性にフォーカスした訳だ。
 さて、今回は続編と云うか、“ロック”以前のポピュラーソングを探って行く中で、たまたま出てきたムード歌謡的楽曲に擦れてみたいと思う。
 これに関して前回同様、自然発生的に出来上がったものだし、主人公のジーン・ピットニー自体が東の果ての異種交配音楽を知っているはずもなく、“ムード歌謡”というジャンルでゴリ押しするより、“外連味たっぷりな楽曲”という曖昧な言い回しで濁してた方がかえって曲の本質を付いているのかもしれない。
 ジーン・ピットニーが日本にその名を知られたのは、多分、飯田久彦がカバーし1962年に大ヒットした、『ルイジアナ・ママ』の作者としてだろう(因みに日本語詞を書いたのは、漣健児こと後のシンコーミュージック・エンタテイメント元会長の草野昌一氏)
 本国では残念ながら同曲はヒットに至らず、続く今回取り上げる、『タウン・ウィズアウト・ピティ』から彼の快進撃は始まる。この楽曲は1961年のゴットフリート・ラインハルト監督作品『非常の町』タイトルソングとしても知られ、1988年のジョン・ウォーターズ監督作品『ヘアスプレー』でも再度脚光を浴びるように、非常に映像的作品でもある。故にその辺り抜かりないブライアン・セッツァーが在籍したネオロカビリーバンド、ストレイ・キャッツも良質なカバーを残している。
 夜の帳が下りる頃、街にかすかに溢れるその艶っぽい歌声。正に大人の夜の音楽だ(se)


黄昏ミュージックvol.48 南国の夜/黒木憲

 当然であるが、大滝詠一さんはやはり凄い人で、ミュージシャンだけに留まらず、我が国の大衆音楽の研究家としても多くのラジオ番組を残している。中でも世界随一と言ってもいいユニークな異種交配音楽“ムード歌謡”に関する造詣はリスナーの探究心にも火を付ける程興味深いもので、このジャンル門外漢の筆者にも新たな知の扉を開いて頂いた。
 大瀧氏のロジックをお借りするならその萌芽には大作曲家、服部良一のブルース、ジャズへの傾倒、そして、もう一方の雄、古賀政男のギターミュージック、中でもスペインの大御所ギタリスト、アンドレス・セゴビアやアルゼンチンのアントニオ・シノポリ等ラテン音楽への傾倒が見逃せない。この芽を大きな大輪として咲かせたのがフランク永井、松尾和子、和田弘とマヒナスターズ等を配する作曲家、吉田正で、マヒナスターズでも明らかなようにハワイアンの大流行、そして来日し一大ブームを巻き起こしたトリオ・ロス・パンチョスのファルセットボイスを生かした美しいハーモニー、レキントンギターの絶妙なアンサンブルとここでも舶来品が一大トリガーとなったようだ。
 そんな道程を辿る中で発見した傑作が今回紹介する「南国の夜」。日野てる子、石原裕次郎、渚ゆう子、西田佐知子と多くの歌手にカバーされ、我が国ではマイナーチューン・ハワイアンの名作として認知されているようだが、実際は映画「トロピカル・ホリデイ」の挿入歌で、ニューオリンズ出身の女優ドロシー・ラムーアの歌唱がオリジナル、作曲はメキシコ人のアグスティン・ララ。やはりここでもラテンの無意識な導入が行こなわれている。
 さて、『霧にむせぶ夜』の大ヒットをもつ歌手、黒木憲ヴァージョン(作詞は和製ハワイアンのパイオニア大橋節夫)だが、こちらはジャズファンクなアレンジに大きく振り切っており、ビブラフォン、フルート、そして、かなり不協の領域に踏み込んだ強いテンションのピアノに、外連味たっぷりな黒木の艶っぽいボイスが重なり、これはもうアシットジャズと云ってもいい出来栄え。
 常套句としてよく使われる“早すぎた○○”なんてフレーズがあるが、これこそ正に早すぎた「アシッド・ムード歌謡」なのだ(se)
※音源の入手はまず不可能なので、現実的にはYouTubeでのご視聴をお勧めする。