カバー曲と一言で言っても、シンガーとアーティストではそのアプローチがまったく違う。
例えば、かの“ゴールデンボイス”アーロン・ネビルなどは、極論で語れば、楽曲なぞは、「なんでもござれ」で、多分、ワンテイクでスイスイこなしてしまうのだと思われる。
まあ、嫌いな楽曲は流石に避けるだろうが、本人の表現者としてのバックボーンはアーティストに比べて希薄なのは否めない。
※因みにアーロン・ネビルの選曲にはカントリー・ミュージック好きが反映されている。
歌自体がシンガーの表現の全てである訳なので、それはそれで当然のことなのだ。
対して、近年のパティ・スミス、イギー・ポップのカバー・ワークには選曲自体に、自身の過去の創作エキスが、そこかしこに散りばめられており、非常に興味深いものとなっている。
本年リリースされた、ベックのミニアルバムが正にそれで、彼の特異な音楽性のマテリアルが、境界を超えた複雑なケミストリーによって生まれたものだったのだと確信できる内容なのだ。
エルヴィス・プレスリー、ザ・フラミンゴス、カエターノ・ヴェローゾ、ハンク・ウィリアムズ、ダニエル・ジョンストン他と、興味深い良質なカバーが連なる。
どのトラックをセレクトするか非常に迷ったが、表題でありライブでも頻繁に披露するUKのザ・コーギスのカバーが他を凌ぐほど完全に身体性にまで昇華していると判断し、今回は選ばせてもらった。
たった一言のレコメンド、「秀逸」。(se)
投稿者: adanendo
2026年4/11(土)ゲストDJ:DJピーナッツ a.k.a. 片岡一史
2026年4/11(土)
ゲストDJ:DJピーナッツ a.k.a. 片岡一史
レジデントDJ:SOHMEI ENDOH
2026年4/4(土)ゲストDJ:佐藤こうき
2026年4/4(土)
ゲストDJ:佐藤こうき
レジデントDJ:SOHMEI ENDOH
仮:葉山祭2026
追って詳細公開いたします。
「さあ船を出しましょう」第四話
翌日の早朝に私はタヒチアン・ラナイのテラスでコナ・コーヒーを飲んでいた。ハワイ語でラナイはテラスという意味だから、ラナイのテラスと言うのも変だが、まァいい。
目を細めて人工のラグーンを眺める。乾いた朝陽を浴びて飲むコナ・コーヒーはうまい。アジアではあまりコーヒーは飲まなかった。当時はタイやベトナムの山間部でアヘンの代わりにコーヒー豆を栽培していても、実際に地元でカフェ文化が定着したのはずっと後のことだ。ジャマイカのブルーマウンテンだって、高すぎてキングストンの朝はみんなミロをマイロ、マイロと言って重宝していた。インドではチャイだったし、バリではロスメンでインスタントコーヒーばかり。コピルアックなどと言う魅惑のコーヒーも私は知らなかったし、ポピュラーでもなかった。コピルアックがジャック・ニコルソンの映画で有名になったのもずい分経ってからだ。
ラグーンの手前の席で女性がひとりで食事をしていた。ノースリーブの淡いブルーの麻のワンピース、ピーコック・ブルーの帯が入った白い男物のパナマ帽を被った日本の女性が、このレストランの名物エッグベネディクトを無心に食べていた。彼女の席がラグーンの手前だったので、ラグーンを眺めている私には自然彼女が目に入った。
日本人がワイキキアンに泊まるのは珍しいと昨夜ティキが私に言った。89年はまだバブルの末期である。ハワイに来る日本人はワイキキのど真ん中の高級ホテルに泊まる。華やかりし頃のワイキキアンであれば話は別であろうが、今は老朽化してお金持ちのニッポンジンはこのホテルには泊まらない。この枯れかけのカンジが私には良いのだが。もしかしたらエッグベネディクトを無心に食べている女性は日系人かもしれない。小柄だから着物も似合いそうだ。タヒチアン・ラナイのバーに彼女が古い着物で登場したらまさにエキゾチカだな。
☆
涙じゃないのよ 浮気な雨に
ちょっぴり この頬 濡らしただけさ
ここは地の果て アルジェリア
どうせカスバの夜に咲く
酒場の女の うす情
70年代は藤圭子の「カスバの女」が好きだった。唐(カラ)やテラヤマのアングラが好きだった。一杯のコーヒーでコルトレーンやアイラーをジャズ喫茶で一日中聴いていた暗い奴だった。ヘルメットの遠い後ろから石を投げていた卑怯な奴だった。
80年代に入ってコルトレーンは聴かなくなった。母方の血筋がハワイに移民で行っているにもかかわらず、ハワイにもハワイ音楽にも興味はなかった。そのうちギャビー・パヒヌイからハワイの音楽を聴くようになった。レイ・カーネだったり、ピーター・ムーンだったり、イズだったり。藤圭子は今でも好きだけどね。
☆
フローズン・ダイキリをバーマンに頼んだ。金魚鉢のようなグラスにラム酒とライムが入ったかき氷が登場した。もちろんストローと傘とデンファレ付き。
「やァ」とティキが言った。
この「やァ」はそれほどの意味はない。ただのあいさつだ。ハナシは飛ぶけど、まだ私が足繫く旅に出る前、ブルースとよし子という年老いた猫と同居していた。当時の恋人の連れ猫。オス猫はブルース・スプリングスティーンをかけると嬉しそうに走り回ったのでブルースにしたんだと恋人は言った。「僕の父の家」を聴くと、うっとりしてのどをゴロゴロ鳴らす。よし子は恋人の猫好きな祖母の名前らしい。恋人は3か月私の部屋にいたが男を作って出て行った。ブルースとよし子を残して。12月の忙しい頃だ。
翌年の12月の寒い日にブルースとよし子は続いて逝ってしまった。老いた猫はたいてい腎臓を悪くする。私は1年と3か月しかブルースとよし子と暮らしていない。でも、出ていった恋人のことはどうでもよかったがブルースとよし子がいなくなったのはひどく悲しかった。だから私は12月になると部屋に帰ってもブルースとよし子を想い出すだけだから、毎晩カスミ町で飲んだくれた。そうしてクリスマスには完全にイカレて、菊田のバーに辿り着く頃にはただのナマコになっている。ナマコはいろんなマボロシを見る。
その日の菊田のバーには先客がいた。カウンターの上に丸い手を置いて座っているブルースとよし子だった。
「やァ、久しぶりだね」
とブルースが言い、よし子がニコッとした。
ナマコは懐かしくて泣きそうになる。
「やァ、そうだね。おなかすいてないかい、なんかおごるぜ」
とナマコが言うと、ブルースはズズッと鼻をすすって「宇和島のじゃこ天が食べたい」と言った。よし子は「松茸の入ったあったかい土瓶蒸しがいいわ」
「もう松茸の季節じゃないぜ」
「じゃあ、しめじでもいいわ」
よし子は大概贅沢なのだ。
菊田がビング・クロスビーのホワイト・クリスマスをかける。
☆
「やァ」と私はティキに返した。
「ところで、あの日本の女性はよく来るのかい」
「どの女性よ」
「ほら、今朝ラナイでエッグベネディクトを食べていた、白いパナマ帽の女性」
「ああ、ホノカアのマダムのことかいな、日系の4世になるんかなァ、すでにカマ・アイナや、ビッグ・アイランドのホノカアでギャラリーをやっている」
「立派だね」
「そや、立派な人や、ホノカアのギャラリーはボブ・ディランやニール・ヤングも顔を出す。オアフで仕事の時はここに泊まる。朝はラナイでエッグベネディクト、夜はここでオールド・パーのロックと決まってる、もうすぐ来るんやないかい」
エキゾチックな世界にタイムスリップしたかのように私はこのホテルに引き寄せられた。そして謎の女性に出会った。いや、彼女がエッグベネディクトを食べているところを見ただけだ。でも何かが始まりそうな予感があった。ワイキキビーチでアザラシのように一日中、転がっているケイハクな時間は私には無かった。
☆
ホノカアのマダムが男性とやってきてカウンターからすぐのテーブルに座った。彼女は朝とは違って少し落ち着いた出で立ちであったが白いパナマ帽は被っていた。アロハシャツがちっとも似合わない真面目そうな男は、いかにも日本の営業マンといった雰囲気でキチンと背筋を伸ばして椅子に座った。彼女の前にオールド・パーのロック、男にはバドワイザーが置かれ、商談が始まった様子。男は彼女に語りかけ、彼女はにこやかに微笑んでいる。声は聞こえないがバブルな日本の会社が彼女の収集か、あるいは才能を買い付けに来ているのだろうと私は勝手に考える。
商談が成立したのか、しばらくしてアロハシャツの似合わない男は立ち上がり握手をし、二度お辞儀をして帰っていった。彼女はオールド・パーのグラスを持ってカウンターにやって来て私の隣に座った。そこしか空いていなかったのだ。ティキが私にウィンクをした。私は金魚鉢のようなグラスが恥ずかしかったのでマティーニをオンザロックで頼んだ。オリーブは一つでいい。そして唐突に「エッグベネディクトが好きなんですか」と彼女に話しかけた。
「あら、日本人」
彼女はびっくりして笑った。ニッポンジンという言い方が面白かった。
「朝、ラナイで見かけました。ラグーンの手前の席でエッグベネディクトを召し上がってた」
「ここのエッグベネディクトはおいしい。毎朝食べても飽きないわ」
私はエッグベネディクトを食べたことはない。アジアにはそのようなおしゃれなモノはない。いや高級なホテルにはあるのだが、私はアジアで高級なホテルに泊まったことはない。ただ一度だけバンコクのオリエンタルホテルで朝食をとったことがある。もちろん宿泊していたわけではなく、バンコクに住んでいる友人がオリエンタルホテルの朝食をおごってくれたのだ。私はビーサンを短靴に履き替え、襟付きのポロシャツを着てオリエンタルに行った。チャオプラヤ河を眺めながらの朝食は実に快適であった。裕福そうな白人の老夫婦が黄色いソースのかかったものを食べていた。友人にあれは何だと聞いたら、エッグベネディクトだと教えてくれたが、すでに満腹でそこまでたどり着けなかった。それ以来、私はエッグベネディクトにお目にかかっていなかった。しかし、ずっと貧乏旅行をしていた私にとってオリエンタルホテルは夢のような場所であった。あの日のオリエンタルホテルのエレベーター・ボーイはとても美しい少年だった。ホスピタリティにあふれていて、宿泊客ではない私をロビーからアーサーズラウンジまで案内してくれた。私はポケットからわずかだがチップを彼に渡した。あのさわやかな笑顔が忘れられない。1981年頃か、最初に行ったバンコクでのこと。
つい最近、宮本輝氏の「愉楽の園」を読んだ。オールドバンコク、オリエンタルホテル、そしてチャオプラヤ河の対岸が舞台である。作品の中で、重要な役割を果たす少年のモデルとなったのは、あのときのあのエレベーター・ボーイなんだと私は思った。
ホノカアのマダムにそのような旅の思い出話をした。
彼女は面白がって「それで」と言ったり、相槌を打って聞いてくれる。さっきの商談でも分かる様に彼女はにこやかに男の話を聞いていただけだ。成功の秘訣は人の話を聞けること、私は自分から勝手に喋るから何事もうまくいったためしはない。
「ところで、あなたはどうしてここにいるの」
と彼女は言った。」
まず、今回が初めてのハワイであること、にもかかわらずハワイ音楽の取材に来ていること、そしてあなたと同じように私はこのホテルを大変気に入っていることなどを彼女に伝えた。
「面白いわね、ハワイのことを何も知らずに取材に来たってわけ、それでいつまでいるの」
「こんなやり方でしかぼくはできないのです。納得するまでハワイにいますよ。一週間後には編集の堀もやって来ます」
堀の家は浄土真宗のお寺で、親鸞聖人の慈悲のココロで私のために仕事を作ってくれたのだと、またいらんことを言いそうになったがやめた。
私は明日ホノカアに帰るけど、一度ビッグ・アイランドに来れば、もう少ししたら、ヒロの町でフラのフェスティバルが始まる、観光用ではなくて本気のフラ、ハワイの音楽とフラは深いところで結びついているから、フラの取材もするといいよ。
アナ・藤岡と会う10年前のことである。あらかたハワイの音楽の取材が終わったら私はビッグ・アイランドへ行くことにした。

ⒸSOHMEI ENDOH
2026年3/28(土)ゲストDJ:Joe west
2026年3/28(土)
ゲストDJ:Joe west
レジデントDJ:SOHMEI ENDOH
2026年3/21(土)ゲストDJ:DJピーナッツ a.k.a. 片岡一史
2026年3/21(土)
ゲストDJ:DJピーナッツ a.k.a. 片岡一史
レジデントDJ:SOHMEI ENDOH
「さあ船を出しましょう」第三話
ジャワ島、スラバヤのあいまい宿は入口の小さなカウンターに、いかにもなやり手婆さんが座っていた。婆さんはビンロウの実を噛んで、カウンターの上に置いたカンカラに赤い唾をペッと吐いた。私はパスポートを見せようとしたが、そんなものには目もくれずに宿泊客はそっちだと不愛想に右側の廊下を指さした。一番安い部屋は藁のベッドだったのでさすがに少し良い部屋にしてもらった。左側に行くと売春宿で、夕方になると地元の男たちが嬉しそうに出入りしていた。何日かすると、昼間はヒマなのか売春宿の女の子たちが私の部屋に遊びに来るようになった。みんな若くて普通の娘さんだ。クタのワヤンの店で買っておいたチョコレートやドリアンキャンディをあげると、うまそうに頬張り、ケラケラと笑い、しばしダベって帰っていく。アパカバール、テレマカシ、イニ・アパ、サマサマ。適当である。なんとなく会話をしている。ひとり旅は孤独だ。誰かと話したくなる。誰だっていい。私は天使たちにつかの間癒される。異国の茶飲みトモダチのために私は駄菓子を用意するようになった。ルビーちゃんはジャカルタから出稼ぎに来ている。スラバヤよりもジャカルタの方が稼げるだろうにと思ったが、みんな訳ありなのだ。ルビーちゃんはしばらくしてジャカルタに帰った。ジャカルタに着いたら訪ねて来てとメモをくれた。マンガブサールの番地が書いてあった。ジャカルタに辿り着くのはいつになるのか分からない。
クーラーの無い部屋はひどく蒸す。日に何度も水を浴びる。短い午睡のあとで沐浴場に入る。満々と雨水を貯めた大谷石の水槽には緑色の苔が生えていて雨水を浄化する。私は天からの水を浴びる。カラダから吹き出る汗も毒素も大便もすべてさっぱりと洗い流すのだ。
沐浴の後でバティックを腰に巻いてベッドに転がる。ギャビー・パヒヌイをかける。遠くに夕方のコーランが流れている。私はコーランが響く中ギャビーの「プアナフル」を聴いた。
☆
1989年、アナ・藤岡と出会う10年前。
飛行機は旋回して高度を下げた。
窓から朝陽に輝くダイアモンド・ヘッドが見えた。憧れのハワイ航路、ハワイなど無縁な世界だと思っていたがやはり気分は高揚している。ウォークマンでずっとギャビー・パヒヌイを聴いている。アジアから帰ったばかりの私にハワイ行きの仕事を作ってくれた堀に、私が提案したのはギャビー・パヒヌイに会いに行こうという漠然としたものだった。もちろんギャビーはとっくに亡くなっているが、ギャビーが生きた時代を切り取ってみたかった。タイミング良くギャビーの息子達がパヒヌイ・ブラザーズとしてアルバムを出したばかりでもある。しかし初めてのハワイである。ともかく右も左も分からない。私は堀がやって来る10日前に先乗りした。アジアの垢を落としてハワイの空気に馴染んでおきたかった。その時フラのことは全く頭になかった。
ホノルル空港を出たときアジアのあの喧騒がなくて拍子抜けした。まるで違う世界へやって来たと思った。ホテルも決めていない、とりあえず流されてみよう、私はワイキキ行きのバスに飛び乗った。
ワイキキが見えて来た。
バスはトーテムポールの親分の様なティキが建っている、古いポリネシアンスタイルのコテージの前で一時停止したので私はそこで下車した。高層ではなく中庭に面して2階建ての部屋がラグーンまで続いているワイキキアンというホテル。値段も安そうだし私はここに宿泊することにした。旅の運は最初に泊まったホテル、出会ったその土地の人で決まる。1996年、ワイキキアンは老朽化で取り壊しになった。つまり長い歴史の中の末期に私はワイキキアンに泊まっていたことになる。初めてのハワイから、ハワイは長い付き合いになっていくが、ワイキキアンは閉鎖されるまで私にとってオアフの定宿だった。
☆
私はワイキキアンのレストラン・バー タヒチアン・ラナイに朝も夜も入りびたりだった。
手入れの行き届いたキューバン・マホガニーの長いカウンターで、バーバックの酒ビンに囲まれた小型のティキとにらめっこをしながらダイキリやマルガリータ、ときどきハワイアンスタイルのマイタイやピナコラーダとか、あのチビの番傘が飾ってあるヤツね、あまり飲みなれないカクテルを注文したが、とどのつまりはハワイアン・ラムをストレートでかっ食らって、視界がぐらぐらしてくると、私を睨んでいるティキと話をするのだ。
「やァ、お兄ちゃん、どこから来たんや」
とティキが言う。少し関西弁入ってる。
このカンジ、遠い記憶の底にある、ああそうだ、カスミ町で毎晩飲んだくれていた若い頃、クーリーズ・クリークのバーで私は山羊爺さんに会った。山羊爺さんは時々現れカウンターの上に茶色い紙袋を忘れていった。紙袋には何も入っていなかった。そして当時のカスミ町の仲間たちも誰もいなくなった。何も入っていなかった茶色い紙袋は私にとってとても大切なものだったのかもしれない。
「くすんだ日焼けやなァ、なんかクローブの匂いもするし」
とティキが言う。
確かに私はアジアの旅の間、丁子タバコを吸っていた。雨季を追いかけるように歩いたその旅の間、私はまともに日を浴びていないのかもしれない。安宿の回廊から雨ばかりを眺めていた。熱帯から亜熱帯の激しい驟雨は私にとって愛すべきトモダチだった。雨がやんでも厚い雲が覆っていて、そのせいで曖昧に日焼けしているのだろう。
「そうか、おマエはアジア人なんや」
とティキが言う。ラム酒に浸かった脳ミソで私は考える。日本人なのか、東京人なのか、実家のある山口の小さな町の人なのか、放浪と格好つけてはいるが私は結局日本に戻り、食い詰めて山口の実家に転がり込んだ。若い時ならまだしも、すでに30はゆうに超えていた。つかの間おふくろは歓待してくれたがしばらくすると「ええ歳をひろうて、このまんまじゃイケンよ、東京に戻りんさい」
と言った。
東京は戻るべき場所なのだろうか。
自分の居場所さえ分からない。
アジア人というのは素敵な言い方だと思う。
☆
私はタヒチアン・ラナイのカウンターでぐたぐたとまぼろしを見た。マーティン・デニーのエキゾチカの美女が登場してクネクネと踊っている。彼女はインド系のようでもあるし、白人のようでもあるし、中国人のようでもある。ベリーダンスのようでもあるし、フラか盆踊りのようでもある。
☆
ホノカアのマダムと出会ったのは翌日のことだった。

ⒸSOHMEI ENDOH
2026年3/14(土)ゲストDJ:稲田英昭
2026年3/14(土)
ゲストDJ:稲田英昭
レジデントDJ:SOHMEI ENDOH
黄昏ミュージックvol.109 アイ・スウェア、アイ・リアリー・ウォンテッド・トゥ・メイク・ア・“ラップ”・アルバム・バット・ディス・イズ・リテラリー・ザ・ウェイ・ザ・ウィンド・ブルー・ミー・ディス・タイム/アンドレ3000
とある媒体から執筆&イラストレーション制作をオファーされ、コーナー内容を自ら決めたのだが、それに従い同ジャンルを駆け足にあらい直してみた。
その主題は、“アンビエント・ミュージック”。
エリック・サティの、“家具の音楽”を出自に、ブライアン・イーノの1978年リリースのアルバム「アンビエント1:ミュージック・フォー・エアポート」でほぼ、その雛形は出来上がった。
その後は“ニューエイジ・ミュージック”という分派が現れ商業的な成功も収める。
同時期、クラブ側からもチルアウト・ミュージックという分派も表出し、斬新なサンプリングやリズムの強化で進化は進んで行く。
ここまでが概略だが、締めの部分で当然、現在、未来への展望を述べなければならないのだが、そこで、他の“ジャンルからの参入”と“観念的ものからの脱却”として本作を引用させてもらった。
ヒップホップ・デュオ、アウトキャストのラッパーであり、俳優アンドレ・ベンジャミンとしても活躍するアンドレ3000が、ラップからフルート奏者に転身したアンビエント・アルバムの冒頭曲。過去の同ジャンルにはみられない身体性を伴う深い魂の振動が克明に見られる、近年のアンビエント・ミュージックの大傑作と断言できる楽曲なのである。(se)