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酔談Vol.1 ゲスト:松木直也氏、亀井章氏 ホスト:河内一作


酔談Vol.1 ゲスト:松木直也氏、亀井章氏 ホスト:河内一作


 “酔談”。見ての通り、酔って語らうこと。当然、造語である。
 酔っているがゆえの無軌道さ、大胆さ、無責任さ、自由さをそのまま気取らず飾らず実況する、それが「対談連載/酔談」の全てである。
 アダングループ代表、河内一作が東京の夜のフロントラインに初めて立った、1981年の「クーリーズクリーク」から現在に至るまで、彼が関わった店が、単なる飲食店におさまらず“自由なステージ”としての酒場の背景を演出出来えた“要”ともいえる大切な友人達を毎回招き、テーマなしのゼロベースから美味しい酒と肴の力を借りつつ今の想いを語り尽くすトークラリー。
 さて初回のゲストは、常に話題の書籍を上梓し続ける著述家、編集者、プロデューサーの松木直也氏(以下敬称略)と、彼のリアル高校のパイセンであり、河内一作プロデュース店の常連永久欠番取得者、亀井章氏(革職人他:以下敬称略)のお二人をお招きし、賑々しく“酔談”開催!
 80年代初頭、「飲食×カルチャー」の実験場としての東京ナイトシーン真っただ中の霞町で出会った3人、予想通り、その辺りの懐かしい話から宴はスタートした。

◇◆◇◆◇

亀井章(以下:亀井):当時、「クリーズクリーク」のカウンターに座るのは皆の憧れだったね。気難しいバーテンの一作と話が出来る数少ない人間になれることが。

河内一作(以下:一作):ハハハハハ(笑)亀ちゃんは常連だったもん。

亀井:初めて行った時、カフェバーなのに、スタッフの賢ちゃん(宮川賢左衛門)がボブ・マーリーかなんかで踊りまくっていたんだよね(笑)「何なんだ??この店は??」って(笑)

一作:てことは、亀ちゃんが初めて来たのはオープンした81年の5月だね。

亀井:そうなるのかな?小野(正人)ちゃん達がオープンしてすぐに行って、「へんてこりんだけどかっこいい店が出来た!」って情報をもらって。 あの場所で元々やっていた「シルバースプーン」って店をおれの周りは皆知っていたから、必然的にクーリーも知るようになった。クーリーは本当に良い店だったね(笑)

一作:ただ、皆が若かったからでしょ?(笑) クーリーは実質3年半か。おれは1年半で代官山「スワミ」に移ったけどね。 あの頃は、松木をはじめマガジンハウス、特に「ポパイ」の連中は肩で風を切って、夜の西麻布、六本木を闊歩していた(笑)

松木直也(以下:松木):「ポパイ」は売れていました。 夜遊びというとあの頃、原宿にも拠点があったよな〜、……、「シネマクラブ」?

一作:うん、「シネマクラブ」。あそこはクーリーよりも早いから。

松木:あそこは「レオン」にいたクリエーター、例えば松山猛さん達がいつもいるっていう感じだった。

一作:シネマクラブの人達がある時期を境に「東風」(トンフウ)に行くようになって、

松木、亀井:東風(完全にはもる) ガハハハハ(爆笑)

松木:あの店もデニーさんたちがかっこ良かったよな〜。

一作:その後が、クーリーやら「クライマックス」。松山(勲)さんの「レッドシューズ」や「インクスティック」と続いてゆく。

松木:夜遊びの歴史も面白いよね(笑)当時はその辺の店に行けば知ってる奴が必ずいるんだもの。


河内一作

一作:松木は北村(勝彦)さんとはあまり一緒にいなかったっけ?

松木:ぼくらはファッション班じゃないから。北村さんのファッション班に属していたのは、中須(浩毅)君とか御供(秀彦)君とか。ぼくらはなんでもやるチーム。お店取材やインタビューからとにかくページを作る方。

一作:今で云ったら森永博志さんがやってるような、

松木:森永さんは大先輩。ポパイに入った時、副編集長の安田さんから、「いいか、おまえも森永みたいな編集者にならないとダメだぞ」なんて言われるくらいの人。正にお手本ですよ。

一作:そんなに森永さんと年が離れていたっけ?

松木:そんなに離れてはいないんだけど、当時、とにかく経験値が遥かに上だったし、今も忘れられないのは森永さんが書いた「原宿考現学」なんて視点からしてまるで違う。雑誌ってまず単に店取材して情報を掲載するって側面があるじゃないですか。森永さんの場合、それ以外に“ジャーナル”としての表現が出来るんだよね。原宿考現学なら、原宿の1週間の現象を追いかけて、「『クリームソーダ』にはこんな奴が来ていた」とか、

一作:ガハハハハ(何故か爆笑)

松木:懐かしいでしょ? そういう意味で大先輩なんですよ。

亀井:松木は松木で編集者として一作と知り合って、おれはおれでまた違う形で知り合って。ある日突然、2人揃って、「一作ってさ」なんて話になって(笑)

松木:うん。 ぼくは「ガリバー」の編集記者のときに“旅をしてる人”ってテーマで一作さんに取材しました。

一作:おれ、それでいきなり原稿を書かされたよね?見開きで(笑)「酒と旅人」(笑)

松木:そうそう(笑) 実はその前に一作さんが原稿が上手いのぼくは知っていたんです。書けない人にお願いして困るのはこっちだから(笑) もう、結構書いてましたよね?

一作:うん、ぼちぼちね。

松木:そのテーマをコメントで起こした人もいたんだけど、一作さんは敢えて書いてもらったの。ちゃんと〆切も守ってくれて(笑)

一作:あの頃、執筆には四苦八苦していたな〜(苦笑)最近は四苦八苦しないけど、慣れだね。 「ブルータス」時代はどんなだったの?

松木:ブルータス編集部にはぼくの机はなかったんです。要するにポパイにいながら「平凡パンチ」やブルータスの仕事したり。時間さえ守ればどの雑誌の仕事をやってもいいからって感じでしたね。 一作さんもマガジンハウスの人達大勢知ってるでしょ?

一作:当時、編集者やクリエーターで知っているのは大体マガジンハウス関連の人達だったね。北村さんは未だに店に顔を出してくれる。ありがたいです。

松木:ファッションチームは独特のパワーを持っていて、未だによく覚えているのが、まだぼくが読者だった頃の創刊3号目でやった「ワイルドシック」ってコーディネイトの特集で、ジャケットの上にダウンを着せたのを見た瞬間、「えっ〜〜〜!ポパイって凄い!」って、その後、「どうしても仲間に入れてもらいたい」と進路を決めてしまうぐらいの衝撃だった。


松木直也氏

一作:(大久保)篤志はあの頃は北村さんのアシスタントだったの?

松木:篤志はぼくと似た立ち位置で、最初の頃はバイトのようなフリーのような。キャリアがある人達からしたら、「あいつなにしに来てるの?」みたいな存在かな?で、ご飯だけはしっかりただで食べて(笑)

一作:中須は原宿「ドンキー」でバイトしていた時に北村さんに声を掛けられてポパイに参加することになったんだよね?

松木:ぼく、その辺の経緯はよく知らないんですよ。 まあ、皆まだ単なる小僧ですよ(笑)

一作:クーリーの頃っておれも27歳だもんね。松木はもっと下だ。

松木:55年生まれ。最初に就職したのはファッションメーカーの「グラス」ですから。桑沢(デザイン研究所)を出てロンドンに遊学してからグラス。 その後、一作さんが手がけた「CAY」はおれの人生の中でベスト3に入るレストランバーですよ。

亀井:おれも同じ感想だな。

松木:あんなに楽しい時間はなかったですね(笑)

一作:そうだね、松木はCAYの時の方がよく会っていたかもね。

松木:3日と空けずに通っていたから(笑)

一作:1988年の八ヶ岳でやった「いのちの祭」にも松木は来ていたよね?

松木:行った行った。浴衣着て(笑)

一作:そうそう、浴衣だった。「なんで山の上でノーニュークスを叫ぶイベントで松木は浴衣なの?」って(笑)

松木:単に浴衣が好きだったからかな?(笑) CAYはラウンドされたカウンターがあって、

亀井:あのフォルムが気持ち良かったよね。

松木:カウンターにはカメラマンやスタイリスト、それから何をやっているか分からない人がいて、みんな気さくに話をして、とにかく飲んでいた。 バブルだったものね。

一作:まだあの頃はね。 イベントをやってもいくらでもスポンサーが付いた時期。

亀井:一作知ってたっけ? おれ仕事休んでCAYのオープニング手伝っていたんだから。皿洗い(笑)

松木:ハハハハハ(笑)そうなんだ。

亀井:そうしたら、歌手の梓みちよさんがつかつかって近づいて来て、「タイにもウィスキーってあるのかしら?」って訊くものだから、

松木:ぼく始めてインタビューした芸能人は梓みちよさんだよ!

一作、亀井:ガハハハハ(爆笑)

一作:なんで彼女はいたのかな?

亀井:やっぱりワコールサイドの関係者としてじゃないかな?

一作:やっぱそうだろうね。

亀井:で、皿洗いしてたらそんなこと訊かれたんで、「ちょっと待ってくださいね」なんて一旦応えて、バーテンの村松あたりに、「おい、タイ産のウイスキーって置いてあるのかい?」って訊いたら、「これがウィスキーと云うのかは分かりませんが……」なんて言ってメコン出して来て。梓みちよさんも「なら、それでいいわ」って(笑)

一作、松木:ガハハハハ(爆笑)


亀井章氏

亀井:CAYも怪しい面白い店だったよね。

松木:今になると、「なんであんなにしょっちゅう行っていたのかな?」って思うよね。

亀井:空間が縦横に気持ちいい黄金比というか、ピタッとはまった店だったよな。

松木:カウンターで飲めるし、テーブルでは食事が出来るじゃない。あそこで食事をしている風景って、贅沢に広いスペースが取ってあって、それまでにないレストランバーだった。

亀井:カウンターで飲んでいる奴らからしたら食事をしている奴らがかっこよく映るし、食事をしている連中からしたら、「おれもあのカウンターで飲みたいな〜」なんて思っていたんじゃないかな?

松木:ステージなんだろうな。客もスタッフも、ああいう所が皆のステージだったんじゃないかな?

一作:当時はね。 今はなかなかないよな。

松木:ちいちゃい集まりはどこかあるんだろうけど、

一作:うん。 でも、酒場で飲むダンディズムって、いつの時代でも必要なものだとおれは思うんだよ。 かっこつけるところはつけないと。全部が全部立ち飲み屋じゃ〜な〜(苦笑)

松木:それはそれで、お気に入りの焼き鳥屋で30分位黙って新聞読んで帰ってもいいと思うし、そんな感じでかっこいい人って結構いるじゃない。 だた、全部がそうなっちゃったらつまらないよね。

(ここでオーナーとして顔見知りの顧客の挨拶回りで、一作、宴を一旦抜ける)

ラジオアダン:本人がいると話にくいと思うので、ここでお二人の考える河内一作の作る店や、一作とは一言でどんな人か?ということを訊きたいのですが。

亀井:ここの新アダンのスタッフの選考にしてもそうだけど、クーリー以降、自分の気持ちのいい部分で付き合ってきた人達には、いくつになろうが社長になろうが、「おれの出来る範囲でやれることはやってあげよう」って気持ちがあるよね。かっこ良くいえば“愛”(笑)それが昔からある人だね。クーリー時代からクレイジーキャッツの♪金のない奴はおれんとこへこい おれもなけど心配するな♪って歌が一作と賢ちゃんのテーマソングだったから(笑) このあいだも突然電話がかかってきて、「仙台にいるから飲みに行こうよ」って(笑)こっちにしたら、「なんだ、こいつ」だよね(笑)一応こっちはこっちのスケジュールがあるんだから。 昔から、コンサバ志向な人達からすれば非常に気難しい人に見えるみたいだけど、“自由”という意味をちゃんと理解出来ている人達からすれば凄く面白い人。くすぐればのってくるし。

松木:一作さんの店で最近2人が話すことって言ったら、飲食店の専門的な話、例えば、「どこどこの店のデザインがいいよ」なんて話は1回もしたことはなくて、「子供達は今こんなことを考えている、その延長上で、こんな部分が問題点なんだよ」なんて話が主だよな。 昔は、日常の話も勿論していたと思うけど、ぼくの方が年下なんで、どうしても話を聞き出す側に回ってしまうんですよね。「あの時の海外旅行ではどんなことをしましたか?」なんて訊いていったのが積み重なって、「原稿を書いてみませんか?」という形に転化していったり。 で、ぼくの感じる一作さんのパーソナルの魅力と云ったら、……、なんて云うんだろう、……、こう、ふわっと、……、うん、ふわっとしてるんですよね(笑)

ラジオアダン:無重力感??

松木:ううぅぅ〜、……、……、色気なんじゃないかな〜?ふわっとした(笑) 二人の付き合いの中で、「この人、今何考えているんだろう?」なんて腹の中を探ったこともないし、多分ね、今の若い人達が思っているヒッピーって像を突き詰めて行けば、「ああ、こういう着地地点に行くんだな」と確認出来るような存在でもあるね。

◇◆◇◆◇

 近年、松木直也は音楽界の希有な才能を有すレジェンドにフォーカスした仕事が続いている。近作「アルファの伝説・音楽家村井邦彦の時代」も、作曲家、プロデューサー、レーベルオーナーと全く違う複数の才能を行き来した村井邦彦の軌道を見事に描ききったが、この場ではなんといっても、未完となってしまったあの人のロングインタビュー書籍について訊かない訳にはいかない。案の定、一作がそちらへと舵を切る。

◇◆◇◆◇

一作:加藤和彦さんのインタビュー本をやることになった切っ掛けはどんなところからだったの?

松木:話すと長いんだけど、ポパイでぼくは松山さんのアシスタントをしていたんです。その頃、殆どの打ち合わせは松山さんの自宅でやるんだけど、ときどき親友である加藤さんはそこへ遊びに来るんです。 ぼくに執っての加藤和彦という人は10代後半に一番かっこいいと思った人で、「家をつくるなら」がヒットした時、仙台でやったライブも当然見ています。グラムロックっぽく髪を七色に染めて、当時、日本で唯一のPA機材から出る音の質が全然他とは違う。あの人「ギンガム」ってPA会社もやっていましたから。そのときは見たこともないサボを履いていて、とにかくかっこよかった。 そんな感じに加藤さんが大好きで。 実際に会ってからもポパイで取材させて頂いたり、事あるごとに加藤さんにお願いして。 で、さっき意外なところから話に出た梓みちよさんのアルバムを、ミックこと立川直樹さんと加藤さんが共同プロデュースした後に、タンタン(大空はるみ)という女性シンガーのプロデュースを手がけて、マイアミでそのレコードジャケットを撮る際もご一緒させて頂いたりしました。 ぼくの場合、松山さんの弟子ですから加藤さんからすれば親友の弟子と云うことで他の人よりは多少優遇して頂いていたと思うんです。 「松木、最近どう?」なんて電話を頂くこともあり、「今度ロスに行くんですけど」なんて応えると、「じゃ〜、レイバンのこんなの買って来てよ」なんて言われて買って帰ってくると、お礼ということでしこたまアルマーニやヴェルサーチのジャケットを頂いちゃって(笑) ただ、加藤さん、手が長いから大幅に直さなくちゃいけない(笑)

一作、亀井:ハハハハハ(笑)

松木:マイアミのキューバレストランでの想い出だけど、加藤さんのオーダーの仕方ってアイティムじゃなくってメニューの“幅”なの(笑)「前菜、ここからここまで全部」って調子で(笑) そんな付き合いの中、確か、加藤さんが57歳の時だったと思うのだけれど、「そろそろぼくも60歳になるから松木がぼくの本を書いてよ」って言ってくれて、そこからあの本(『加藤和彦・ラストメッセージ』)の取材が始りました。

一作:残念ながら未完に終わったんだよね?

松木:ええ……。 毎回、六本木の加藤さんのスタジオも併設したご自宅で取材をするんですが、何度かやった後に、「松木ごめんね、ちょっと待ってくれないかな」なんてメールを頂いて取材が途切れたんです。 ……、あの日は府中で自転車関連の取材をした帰りの電車の中で携帯電話でネットを何気なく見たら、“加藤和彦氏、軽井沢で〜”って出て来て、それ見た次の駅ですぐ降りて松山さんに連絡したんです。「加藤さんのこと本当ですか?」と尋ねたら、「本当だよ」と答えられて、ぼくなぜか、「松やん知ってたんだ、じゃー良かった」なんて返答して、「良かったとはなにごとだ!ばかもん!」なんて松山さんが返して来て。もうお互いが動揺していて会話が成立しないんです。

一作:そりゃ〜そうだろうな。

松木:すでにスタジオにあった機材も全てなく、あったのはシールドだけ。全部、処分して、お手伝いさんに手紙と「ありがとう」としたためたお給金が入った袋だけが置いてあったらしいです。 亡くなる日に届くように親友数人に向けて手紙を書いたらしいのですが、ある人にだけ一日早く届いてしまって、そこから大騒ぎになって皆で探し始めた訳です。 それまでは誰もそんな気配を感じることもなく、高齢のお母様にはエルメスのセーターをプレゼントしたり、古い友人たちと食事したりしていたみたいですね。 そんなことで、「本は無理だな」と思っていたのですが、翌日、出版元の文藝春秋の方から上梓に関する打診の連絡が入りました。この時点で、既に加藤さんのスタッフの方々が、「どんな形でお別れ会をやろうか」と動き出していたことは知っていました。やがてお別れ会の日時決まり、「それならあるものだけでその日を目指してがんばろうか」と、テープ起こしが終わっていた原稿をアシスタントと2人で進めて行き、突貫とはなりましたが、なんとか日時に間に合わすことが出来ました。 書き終わった後、「何で加藤さんがこの本を読まないのかな?」という不思議な虚無感にかられたことを今でもよく覚えています。今日は取材のときにお預かりした写真をお持ちしました。

一作、亀井:……。

松木:実は、女性の話とファッションに関する話は最後に残していて、女性の話がスタートした時に突然終わってしまった訳です。ぼくの中では残念ながら未完ですね……。ファッションに関しては加藤さんの洋服全てを出す予定で撮影も済ませていました。

一作:もったいないね……。 そういえば、加藤さんはキューバにはまっていた時期があったね。

松木:うん、その辺の仕事も多かったな。 キューバは2回行っていて、1991年、三菱電機(博報堂)の仕事でキューバを代表するカルロス・エンバーレやオマーラ・ポルトゥオンド、タタ・グィネス等、偉大なるミュージシャンにインタビューしたんです。撮影は写真家の久家靖秀さん。いい取材だったな〜。これは当時ミュージカル「タンゴ・アルゼンチーノ」や「ブラック・アンド・ブルー」でセンセーションを巻き起こした、クラウディオ・セコビアとヘクター・オレゾリによる「ノーチェ・トロピカール」の日本公演(92年)に出演する音楽家やダンサーの取材です。約一ヶ月滞在し、オーディションから立ち会いました。パンフレットがありますので、ぜひ見て下さい。久家さんの当時撮影した写真はとても貴重ですよ。ぜひ、アダンで写真展をやってください。


1992年に東京と大阪で開催されたときのパンフレット。


表紙の見返しのデザインはハナバで見つけた葉巻のシガーリング。


公演にあたってキューバから70〜80名の音楽家、ダンサー、関係者が来日。
パーカッションのタタ・グィネスはパワフルだった。(撮影はすべて久家靖秀)


キューバの至宝、オマーラ・ポルトゥオンド。
ハバナで彼女とテオフィロ・ステベンソンと一緒に食事をした。


ダンサーも大勢やってきた。きれいな人が多かった。


ファッションモデルたちも舞台を飾った。これら26年前のこと。

一作:これ、武道館でやったやつだよね?村上龍さんがパンフレットに寄稿していたやつね。おれチケット買わされたよ(笑) でもあれこそバブルの恩恵だよね。

松木:その節はありがとうございました(笑)

一作:あれは凄かったね。武道館にトロピカルなステージ作って、アリーナにテーブルが並んで飲みながら観るんだから(笑) その取材の時はブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブは見たの?

松木:それは1996年ですから、その5年も前のことです。まだ結成されていなかったですね。 その時、モハメド・アリと闘う予定もあったテオフィロ・ステベンソン(ミュンヘン、モントリオール、モスクワオリンピックでヘビー級金メダル)も紹介されて彼の記事も書いたな〜。野球も見に行ったし。 キューバって、ロシアの見たこともない古い車が走っているんですよね。

一作:キューバ人は「黒い瞳」とかロシア民謡を唄うのもの。ブエナ・ビスタでも唄っていたし。

松木:一作さんはキューバは行きたいの?

一作:うん、行きたい。

松木:今、凄い高いね。びっくりするくらいに。

一作:そう。 おれ3年前にメキシコにいった時にカンクンまで行ったんだけど、あそこからだと3泊4日とかならビザなしでキューバに行けるんだよね。

亀井:おれもキューバは死ぬ前に行きたい所のベスト3に入るな。

一作:死ぬ前に行きたい所が3つもあるの!?

亀井:あと、やっぱりオーロラを見てみたいね。

一作:いいね、まだ欲があって(笑)

松木:一作さんはどこに行きたいの?

一作:おれは、……、ないけど、

松木:散々行ったからでしょ(笑)

一作:まあ、そうなのかな?

松木:ぼくのお勧めはね〜、フランス領のマルティニーク島。 クレオール、本当にココア色。女性がめちゃくちゃ綺麗なんですよ(笑)

亀井:制服が皆かわいいって言うよね。

松木:そう、タータンチェックなんだよな。

一作:あの辺、おしゃれだから。

松木:マルティニークは夢みたいな所だった。

一作:やっぱり南太平洋でもイギリス領とフランス領って全然違うよね。

松木:イギリス領は真面目すぎる。

一作:だからファッションも育たないんだよね。 タヒチなんて目が痛いくらいにカラフルじゃん。

◇◆◇◆◇

 今、三人が舌鼓を打っているアダングループのフードの美味しさは、厳しい食材の吟味が果たす役割が当然大きい。
 松木もまた1999年以降、食の安全はもとより、料理家、三國清三をアシストする小学生を対象とした、味覚の正常な発達や健康を維持するための栄養学等を、実際の調理も交えながら楽しんで身につける“食育”教育に多くの時間を割いている。

◇◆◇◆◇

一作:おれも結構頼まれたりするのよ、「子供の食育を対象とした料理の提案をしていただけないだろうか?」って。でも、実際の所、非常に難しいよね、日常的に飲食店を営んでいる人間がそういう発想に急に切り替えることが。

亀井:でも今後、松木や三國さん達が先駆者となって、通常の“子供”という概念を取っ払って食のアプローチをしていって、後の世代の“食育”を変えて行くだろうから、そこに一作みたいな大人の飲食店のプロの発想が入ってもおれは一向にかまわないと思うんだけどな?

松木:実は日本の行政間では食育共通定義がないんですよ。所管自体も昨年から内閣府から農林水産省に変わりました。 15年を迎え第三次食育推進計画がスタートしました。

一作:話を戻しちゃうようだけど、松木はなぜそんなことを始めたの?

松木:これも話すと長いんだけど(笑) まあ、ぼくは編集したり本を書いたりしている訳なんだけど。ある時、「フランス帰りのシェフ、三國清三を取材してくれないか」というオファーがあって三國さんと初めて会うことになる。それが30年位前かな?「ビストロ・サカナザ」を経て「オテル・ドゥ・ミクニ」を始めた頃。で、フランス料理をよく知らないぼくが(笑)彼の生い立ちから東京に店を出した今日までの事柄を1年掛かりでインタビューして1冊本を書いたんです。 当時のぼくは、ポール・ボキューズをボール・ボキューズってメモするくらいに全然フランス料理の知識がなかったんだけど、彼は嫌な顔一つせずに1年間付き合ってくれた。そんな経緯で付き合いが始まったんです。 その後、1997年にフランスでの三ツ星レストラン取材に同行することになって同年の8月31日、この日はダイアナ妃が亡くなった日でもあるんだけど、ロアンヌのトロアグロを取材したんだけど、当時のフランスのシェフ達は既に子供達の味覚教育を始めていたんです。 ジャック・ピュイゼという博士がいて元々は醸造学者なんだけど、彼が書いた「子どもの味覚を育てる ピュイゼ・メソッドのすべて」という本は人間に執って味覚とはなんぞや?ということを研究した結果をまとめた本。かいつまんで言うと、味覚とは脳と関連性がある。味覚をきっちり覚えないと大人になった時に事件を起こす確立が高いという、結構、衝撃的な内容も含んでいる本なんです。その後、三國さんにフランスのシェフ達から、「やがて日本の子供達の食も大変なことになるから、君が先頭に立って食育教育をやってゆくべきだ」と進言され、スイッチが入った。 1999年、三國さんがNHKの「課外授業 ようこそ先輩」という番組に出演したんです。出身地の増毛町にある舎熊小学校を尋ねて、彼としたら始めてとなる子供達のための食の教育を番組としてやったんです。 残念ながら、その時ぼくは立ち会えなかったんですが、三國さんは何か感触を掴んだんでしょうね。それからぼくは三國さんが行なう子どもたちの食育授業をサポートしています。

一作:そんな古くから二人は動き出していたんだ。

松木:ええ、やっていました。 三國さんは2000年からヤヨイ食品と組んで全国の小学校を全国のシェフ達と回り子供達を対象とした食育の料理教室を開始した。 そんな中で2001年9月に起きたBSE問題(狂牛病)はもの凄くショッキングでした。 一方、三國さんは年に4回程、子供達との食育料理教室を行なっていたけど、毎回とうなだれて帰ってくる。当時の学校教育はパソコンの普及がメインで食育にはまだまだ理解に乏しい状態だった。 国は狂牛病を急速に終息させたい中、教育現場では栄養士さんや先生だけで食の安全・安心は手に負えないこともはっきりする。更に、子供達の食の教育が国レベルで話し合われるようにもなった。結果、小泉政権下の2005年に食育基本法というのが出来たんです。 三國さんの状況もそれに供ない劇的に変化して、小学校から、「是非来てください」との要請が多数飛び込むようになったんです。 日本はそんな感じで変化する間、世界はオーガニックもあればロハスもあれば、付随するいろんなことが一気に動く。でも国内の日々のニュースを見れば人間の食の不安は偽装事件等で広がる一方、「ぼくたちの食べている食材はどこまでが本物なの?」という具合に。 こんな流れが一般の人達が食の安全に興味を持つまでの経緯だったと思うんです。

◇◆◇◆◇

 国内の食の安全の目覚めは喜ばしいことだ。だが、あの世界に誇る日本人の味覚は今の子供達にしっかりと伝承されているのだろうか?
 食育黎明期、話題は味覚、そして、謀ったように一作、松木直也共に今最大の関心事、食材トレードによる新たな料理の誕生を支えたあの幻の船の話へとなだれ込む。

◇◆◇◆◇

松木:フランス人の味覚は基本4つなんだけど、日本人は5つある。 甘味、塩味、辛味は刺激だか味に入らないんです。 甘味、塩味、苦味、酸味、旨味。旨味というのは出汁のことですね。 これが日本人。

一作:旨味が大事。昆布とかね。 外人は旨味がない人が殆どだけど。

松木:それを端的に現す逸話が、昔、外国からシェフが来た時は和食の料理人に敬意を表しお土産は下駄だったらしいのですが、今はと言うと、鰹節削りと鰹節を買って帰るんです。それくらいに日本の旨味というものは世界標準になっているんです。 昆布のグルタミン酸、鰹節のイノシン酸、干し椎茸のグアニル酸。これらを発見した人はみな日本の学者達です。

一作:その味覚が以前は海外にはなかったんだよ。

松木:いや、実はあったんです。 イタリアはトマトがグルタミン酸を含む旨味なんです。

一作:成る程。

松木:世界中の出汁、中国の湯、フランスのフォン等と比べて、透明でなんなのか分からない出汁なんて世界中どこを探してもないですよ。 中でも要が干し椎茸のグアニル酸で、鰹節、昆布と合体すると旨味が10倍にもなると言われてます。こんなことも含めてその全てを発見したのが日本人なんです。 云うなれば日本人の味覚って世界でも例を見ない繊細なものなんです。

亀井:うん。おれ、今ここにどこの国の人がいたってそれは声を大にして主張出来るもの。

松木:ぼくたちってうどんひとつとってみても3つくらいの味を選別しているじゃないですか。 これ京都のうどん、これ関東のうどん、これ四国って凄くないですか?食べてすぐに出汁を選別している。

一作:うん、出汁と麺。 そういえば、関東って大阪のうどんの店は苦戦するよね。 讃岐うどんの麺に力を入れた、要は“コシ”の強さね、あれは歓迎するんだけど、出汁に特化した大阪、京都のうどんはピンとこないみたいだね。

亀井:渋谷のセンター街の奥にあった「やしま」は人気あったね。

一作:あれは讃岐うどんだから。 東京でうどんで成功するなら麺が旨くないとダメってことだね。

松木:日本って静岡の大井川を境に、おにぎりが丸と三角に別れるんだよね(笑)ぼくたちの地元は丸(笑)

一作:おれは出汁の分岐点が気になった時があった。なんせ、山口から出て来たときの東京の黒い出汁にはびっくりしたから(笑) 京都は、

松木:透明。

一作:うん。関西ね。 で、名古屋は黒いんだよ。

松木:はい!(手まで上げて)

一作:ガハハハハ(爆笑) はい、松木(学校の先生口調で)

松木:今、一番気になる北前船(きたまえぶね)の話をしてもいいですか? 出汁の話ともリンクしているので。

一作:北前船!? それ、おれも語らせたら長いよ〜(笑)

松木:ガハハハハ(爆笑) 北前船は江戸中期から明治時代にかけて北海道から様々なものを運んだのですが、なかでも北海道の鰊(ニシン)が大エースで、もちろん昆布も運んだ。 京都の鰊蕎麦は具も出汁の材料も誰が持って来たか?といえば北前船。 北前船というのは船を持つボスが自身の裁量で仕入れから何から何まで全てをやって、各地でビジネスを行う、 一作さん、話したいんでしょ?(一作の方を見て)

一作:ハハハハハ(笑) うん、しゃべりたい(可愛らしく) 北前船って瀬戸内も廻るじゃん。下関から瀬戸内を廻って大阪までいって北海道に帰る。瀬戸内にも当然、産物を落してゆくんだけど、瀬戸内の島々なんか何にもないから、「北前船が来たぞ〜〜!」って大騒ぎで港に集まる。そんなだから瀬戸内の島々には売春宿が実は一杯あって、今でも建物が残っているところもあるだよね。

松木:へ〜〜〜、そうなんですね。

一作:うん、大崎上島の木ノ江とか広島の島々には残っている。 当時の北前船はそれくらい羽振りがよかったんだね。その辺を題材に撮ったのが大林宣彦監督の「野ゆき山ゆき海べゆき」。劇中の時代的には北前船は消滅しているんだけど、その残り香としての売春宿が出てくる。 太平洋戦争直前、瀬戸内の貧しい家の娘は家計を助けるためにその売春宿に伝馬船に乗せられ売られて行く。そんな境遇の主人公を演じたのが当時映画初主演の鷲尾いさ子。可愛いかったな〜。

松木:誰と結婚したんだっけ?

ラジオアダン:俳優の仲村トオルさんですね。

松木:ああ、そうだった。いい役者さんですよね。 なるほどね。ぼくの北前船の話の続きをすると、

一作:どうぞ! ガハハハハ(爆笑)

松木:ハハハハハ(笑) 北前船の儲けって価格差なんですよ。1円の鰊が百円で売れれば99円儲かる。鰊を売った所で砂糖を1円で仕入れる。その砂糖を別の港で百円で売る。そんなだからあんな鰊御殿なんて豪邸が築けたんでしょうね。

一作:鰊とか棒鱈は北前船で大阪に行きそこから京都か、若狭から京都で入った。

亀井:食べ物でなぜここの地でこれなの?ってのを突き詰めてゆくと確かに必ず北前船が絡んでくるよね。

一作:京都の鰊蕎麦の発想は関東では有り得ない。あれはやっぱり京都の薄味の出汁に甘辛い鰊が乗っかり出汁がジュゥ〜っと染みるから旨い。

松木:その鰊を身欠き鰊にする工場も北前船の親方が作ったんです。 見落としがちですが、北前船で一番運んだものは実は食物ではなくて肥料。鰊の“雑”で出た物を、

一作:なんで松木はそんなに北前船に拘るようになったの?

松木:さっき、出汁の話が出ましたが、「上方で美味しいと言われている料理のベースを支えているのは、北海道の食材なのでは?」ってことの確信を得たくて探り始めたんです。勿論、そればかりではないですけど。

ラジオアダン:そんな、日本人の繊細な味覚は現在もキープされているのでしょうか?それとも退化している?

松木:舌には味蕾(みらい)というブツブツがあるのだけれど、殆どの味は舌の先の部分にある味蕾で感知しているんです。ところが最近になって、「のどごしにも味蕾があるんじゃないか?」という説が学者たちで研究されています。 人間って小学校5〜6年の頃に抜けた歯が新しくなりますよね、その頃、大概の子供が味蕾が1万個に達する。そして、それを境にその個数が下ってゆくんです。 つまり、小学校5〜6年までに正しい味を覚えない子は一生正しい本当の味を覚えられないことに繋がってゆく。

一作:やはり子供の時の親の意識はその後の人生を大きく左右するね。

松木:面白い話があるんです。お父さんが缶詰を買って来て、缶詰を開けたままで食べている家庭の子は同じ食べ方をするんです(笑)お皿に入れて食べる家庭の子はお皿に入れて食べる。子供ってどこまでいっても親なんです。

一作:思えばおれが生まれた時はまだ戦後7年しか経っていなかった訳で、食べるものといったってそんなになかった。芋とかさ、まあ、野菜だよ。大根、ごぼう、山菜は土地柄一杯あるから。だから、逆に缶詰なんかは“ごちそう”だったよ(笑)鯖とかさ、

松木:あの独特の甘味がいいんだよね(笑)

一作:あれとご飯とおしんこで十分!(笑)

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 シリアスな食育の話が、“野ゆき山ゆき”、やがて、ジャンクフードの極地“鯖缶にゆき”に帰着するところなど、この三者が根っから待つ自由さゆえのなせる業。
 楽しい時間はあっという間に過ぎて行く。多義の話題を縦横無尽に駆け抜けてきたこの対談もそろそろ終焉の時間を向かえようとしている。
 終宴時間を鑑みながら、最後らしく松木直也が今後のプランを話し出した。そしてその先には、対談当初、誰も考え及ばなかった三者のコラボレーションが表出する。

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松木:今、吉本興業さんの東京本部の中庭で農園、タベレルガーデンをプロデュースしています。いちごを栽培して近隣の幼稚園のちびっ子に食べてもらったり、これには芸人さんたちも参加してくれています。とにかく野菜や果実を無農薬で育て、皆に食べてもらって。 この間は内藤とうがらしを作ったんですけど、とうがらしの赤って本当に綺麗ですよね!そのとうがらしでクリスマスリースも作りました。とにかくいろいろな人たちが参加できる楽しい食育をやっていきたいです。


吉本オフィシャルブログ「よしもと東京みんなの農園」
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshimoto_tabererugarden

亀井:野菜作りはその最たるものだけど、手先が不器用で本棚なんて到底作れない人でも、技術とは関係なく1年スパンで物を作る楽しみを覚えるとやみつきになるんだよね。

松木:そう。本当に楽しい! そうなるとまた調べ出す訳(笑)世界には500以上のとうがらしの種類があって、日本で守られている伝統的な品種は十いくつある。そうなると、「とうがらしサミットをやろう!」なんて(笑) 自分が育てると可愛くなるんだよね。

一作:いいね(笑) じゃ、来年のクリスマスにピースマークのとうがらしのリース作ってよ。店に飾るから。

松木:いいね!ぼく作りますよ!

一作、亀井:ガハハハハ(爆笑)

一作:松木のとうがらしで亀ちゃんがリース作ればいいじゃん、亀ちゃんそういうの得意でしょ?

松木:なら、仙台で、……、 まあ、いいや、ぼくなにかまた考えますよ。

一作:そうだね、そうすれば打ち上げってことで、3人でまた集まれるしね(笑)

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 予想外に綺麗にまとまった第1回目の酔談。
 飲みの場の酔狂ゆえ、あくまでも実現化に関しては五分五分だが、ひょっとしたら今年の年末、アダングループの店舗の扉にはとうがらしの美しい赤色冴えるクリスマスリースが飾られているかもしれない。
 そして、店内ではリースを肴に、またこの3人が見果てぬ夢の話に興じているのかもしれない。でも、そんな先のことは誰も分からない。
 なぜなら、人生の殆どの出来事なんて、酔っぱらいが酒場で夢想したことを神様が空模様を頼りに暇つぶしにチョイスしているだけだから。

とぅ・びー・こんてぃにゅーど

泉岳寺「アダン」にて収録


松木直也/
1955年生まれ。宮城県仙台市出身。桑沢デザイン研究所卒。宮城大学大学院修士課程修了。 1979年平凡社(現・マガジンハウス)の編集者及びライターとして「ポパイ」、「ブルータス」、「ガリバー」などに携わり、数多くのミュージシャンや音楽関係者たちのインタビューを行う。現在は、食育に関する活動も行っている。主な著書に、「空前の事実」(マガジンハウス)、「ミクニの奇跡」(新潮社)、「加藤和彦・ラストメッセージ」(文藝春秋社)、「アルファの伝説・音楽家村井邦彦の時代」(河出書房新社 )などがある。


亀井章/
革職人。1954年宮城県仙台市生まれ。長く東京に住み、現在は仙台在住。 松木直也の高校の一年先輩であり、河内一作が関わる全ての店の常連としてカウンターに座り続ける、東京のコアなナイトシーンの生き字引。一作×松木が談笑する際は潤滑油として長く重要な役割を常に果たしてきた人物である。


河内一作/
山口県生まれ
八十年代から霞町クーリーズクリーク、青山カイなど常に時代を象徴するバー、レストランの立ち上げに参加。九十年代、仕事を辞め世捨て人となる。
六年間の放浪生活の後社会復帰し、アダン、青山タヒチ、白金クーリーズクリーク、音楽実験室新世界、奥渋バー希望、南洋ギャラリー、など手がける。お楽しみはまだこれからだ。

テキスト、進行:エンドウソウメイ
写真:片岡一史
「ノーチェ・トロピカール」パンフレットに関するキャプション:松木直也