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Vol.4 日々トリップ 番外編「小さな喫茶店」 川内一作

Vol.4 日々トリップ 番外編「小さな喫茶店」 川内一作

 築地場外の「喫茶ボン」に足繁く通った。ボンは波除神社から晴海通りに出る手前にある小さな喫茶店で、場所柄、早朝から長靴をはいた市場のおっさん達がやってきて、さっとコーヒーを飲むとテーブルの上にコーヒー一杯三百五十円なりを置いて出ていく。午後二時過ぎには閉まる回転の速い店である。
 ボンのコーヒーはネルドリップで落としたものを手鍋であたためる昔ながらのスタイル。香ばしくて懐かしい味がする。モーニングは下町のベーカリーのトースト、ゆで玉子にフルーツサラダ、メロンやバナナのカットが付いている。メロンもバナナも高級だった時代に育った自分にとって六百五十円のモーニングはココロがトキメク。昔だったら築地へ行けば調子に乗って朝から寿司やカツカレーなどかっ喰らっていたが、カンレキも通り過ぎた今はボンのモーニングがちょうどいい。飲んだくれて明け方に築地メシに走った若いころのあの健啖が懐かしくもあるけれど。
 港区の三田に住んでいた五十代の頃は週に二、三度、散歩がてら築地まで歩きボンでコーヒーを飲んだ。起きがけに顔も洗わないで家を出て、慶応大学を通り過ぎ、芝三丁目あたりの路地裏を散策していると、いつのまにか愛宕警察の前に出る。新橋のガードをくぐって築地へたどり着くのに一時間と少しかかるだろうか。
 ボンのスマートなマスターは江戸っ子。ママは伊豆の出身で南洋風の丸顔美人。いつもびっくりしているような表情がなんとも愛らしくて「ママの顔は見ているだけでシアワセになれるよ」と言うと「そうかねぇ、伊豆の山ン中でひろったのだから、たぬきの生まれ変わりじゃないの」と江戸っ子のマスターは照れくさそうに言う。お二人とも七〇は過ぎているが元気で、あうんの呼吸、二人の佇まいが美しい。漱石の「それから」のようにシアワセ薄い美人と駆け落ちして、どこかの場末で小さなバーでもやって、ささやかに暮らしてみたいと若い頃自分は思っていたが、そんな夢も叶わず気がついたらカンレキもまわっているのだ。
 ボンの窓辺に座り、朝陽を浴びてコーヒーをすすりながら築地の風景を眺める。発砲スチロールを山積みにしてターレーに乗った若者が細い路地を器用に運転して通り過ぎていく。

 小さい静かなあの店
 おいしいコーヒーを飲ませて
 本当に素敵なきっちゃてん
 あの頃は日暮れると
 二人で静かに過ごした店
 想い出は過ぎたこと
 今日の日にまた来てみると
 想い出はまた蘇えるよ
 あの日腰かけた長椅子もそのままです
 二人並んで腰かけた古い腰かけ
 今は何処にどうしているのか
 どこに暮らしているのか
 二人並んで腰かけた古い腰かけ

 「小さな喫茶店」を口ずさんでみる。
 いろんな人が唄っている名曲だけど、音痴の自分が好きなのはあがた森魚の「小さな喫茶店」。八〇年代あがたの「バンドネオンのジャガー」を青山「カイ」のステージでいつも見ていた。タンゴ版「小さな喫茶店」はヨカッタ。バンドネオンは今は亡き池田光夫さんだった。

 明石町のフラガールのこと

 ボンを出て晴海通りを渡り、少し歩くと築地明石町である。渋いグリーンの銅板壁の商売屋もまだあちこちに残っている古い町並み。フラガールの順子はそんな明石町に住んでいた。三年前に癌であっけなく亡くなった。早過ぎるよな。順子は自分の元嫁のフラスタジオに通っていたし、まだ自分が現場に出ていた頃の「アダン」も時々手伝ってくれた。つまり順子はフラスタジオとアダンが産み落とした子供のようなものだったから、自分はつい甘えて迷惑も省みず早朝ボンに呼び出したりした。順子は渋々眠そうな顔でやってくる。格別のハナシがあるわけでもなく普通に父親が娘とコーヒーを飲んでいるようなもの、「マジメにフラをやっているのか」と言うと「そっちこそちゃんとして下さいよ、先生に言いつけますよ」とナマイキなことを言ってモーニングを食べるとさっさと帰った。フラを始めたばかりの頃、順子はカラダがいかにも硬そうで動きがギクシャクとして笑った。旧アダンの小部屋で順子のクラスの娘たち、大阪弁のお母(か)んもいたが、ラジカセをかけて習ったばかりのフラをみんなで踊っていた。まァ、みんなヘタクソだったけれど、フラはうまいヘタを競うものではないからそれはそれでよろし。当時の娘たちはみんな結婚して子供もできたし、うるさい大阪弁のお母んも孫ができて、今は大阪に帰った。移転した新アダンにまだ来たことがない人もいるので一度みんな招待して順子のことをサカナに酒を飲もう。きっとフラ大会になるのだろうが、あのヘタクソなフラはあまり見たくない気もする。

 順子が亡くなる少し前に自分は港区から海辺の町へ引っ越した。年寄りと子供しかいない海辺の暮らしは馬鹿になりそうでくだらん。気の利いたバーも、朝からコーヒーが飲める店もない。なんだかいきなり爺さんになったようで落ち込んでいたら、ノラネコ四匹と同居することになった。夕焼けを見ながらネコ達と遊んでいるときはいつもイズの「オーヴァ―・ザ・レインボウ」を聴く。途中から「イマジン」になっていくあのライブ盤。ちょっと順子のことなど思い出して、ネコ達にオレより先に死ぬなよと語りかけるだけだ。
 
 引っ越して築地は遠くなった。
 このあいだ桜の頃に久しぶりにボンに行ったら「今月いっぱいで閉店いたします」という張り紙がしてあった。驚いて中を覗くとマスターが片づけをしていた。
 「いやね、女房のやつが脳梗塞で倒れちゃってね、命に別状はなかったんだけど仕事は無理だからやめちゃうのよ」
 涙目だった。茅ケ崎に住んでいる娘のところに行くんだと言った。自分は「落ち着いたら電話してよ」と言ってケイタイの番号をメモして渡した。


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