日々トリップ 「あんかけうどん」 川内一作
日々トリップ 「あんかけうどん」 川内一作
どうせすぐに飽きるだろうから、ほんのしばらくのつもりで京都に秘密基地を作ったのが去年の春のこと。秘密基地と言ったって、ただ家を借りただけのことで、こうやって書いていると秘密にならない。格別京都でなくても神奈川の大磯あたりでも良かったし、冒険して瀬戸内の島でも、お手軽に千葉でも良かった。いや千葉は昔の悪い仲間がいっぱい移住しているからやめとこう。そんなことを考えていたら、たまたま京都は南禅寺の近くに安い家を借りることができた。相変わらずひとつところに落ち着かないけれど、まァ、かつてはボウイもこの辺りを散策していたし、ちょうどいいじゃんと自分に言い訳をする。
家は北を向いていて昼間でも暗い。夕方から西日が入るだけで京都らしいと言えばそうだが、私もそろそろ人生の後半に入っているし、若い頃にやらかしたあれこれを自己反省するにはこの暗さはちょうどいいかもしれない。それでも小さな庭の向こうには白川が流れていて風はよく通る。
去年の初夏、陽が落ちて開け放した窓辺に座ってウィスキーを飲んでいると、白川の方でふっと何かが光った。川のそばで誰かがタバコをすっているのだろうと思っていたら、光は二つ三つになりふわっと庭に侵入してきて、やっとああホタルだと気がついた。ホタルなんてずっと子供の頃にみたきりでびっくりしていたら、光のひとつが庭から私のいる窓辺へやって来たので、部屋の電気を消してそいつに悟られないように静かにウィスキーをすすった。そいつも手が届きそうなところでこっちをじっと見ていたが、やがて庭の向こうで待っている仲間のところに戻って白川に消えた。
若い頃にバリからインドネシア、スマトラ、マレーシアと短い一人旅をしたことがある。だらしない東京の生活でココロが壊れかけていた。金子光晴の文庫「マレー蘭印紀行」をジーパンのポケットに突っこんで、それが頼りの旅で、文庫が真っ赤になるくらい赤線を引いて放浪詩人が歩いたミチユキをたどってみた。驚いたことにはるか戦前の文章なのにそこに書かれた風景の多くはまんま残っていた。少なくとも私が光晴の旅を探しに出た三〇数年前までは。
たとえばジャカルタのバサール・イカンという魚市場も光晴の文章のまま残っていたし、マレーシアのジャングルに忽然と現れた町バトパハで、光晴が宿泊していたホテルも確かに存在していた。ジョホールバルから乗り合いバスでバトパハにやってくる道すがら、どこまでも続くゴム園と赤土の道を眺め、はるばるやって来たバトパハの町で、光晴が泊まっていた朽ちかけたそのコロニアルな建物の前に立った時、私はああやっとここにたどり着いたと思った。町のすぐを流れるセンブロン川にはサンパンと呼ばれる荷役船が何隻も重なるように停泊していて、そんな風景も戦前とあまり変わらないように思えた。
私は文庫の中でカユアピアピという個所に赤線を引いていた。カユアピアピの木にはホタルが群れ集まり燃え上がる炎の様に見える。そのような話を私は夢のように追いかけていた。バトパハに着いた翌日、私は夕暮れからサンパンに乗ってカユアピアピの木を探しにセンブロン川を上がったが、結局カユアピアピにもホタルにも出会わなかった。上半身裸の屈強な船頭にカユアピアピの話が通じなかったのか、季節が悪かったのか、環境が変わってそれは遠い昔話なのか、そして私自身が光晴が愛したバトパハの町に佇んでいることさえマボロシのように思えた。白川のホタルは私にそんな昔のことを想い出させた。夏のはじめのその一週間、私は夕暮れになるとホタルを探しに出かけた。白川から疎水を抜けて南禅寺、哲学の道あたりまで無数のホタルを見ることが出来た。こうしてホタルと遊んでいれば東京で飲んだくれているよりは余程ケンコウで金もかからぬが、そういう美しい暮らしをしていると大した善人になりそうで恐い。
暮れから正月にかけて東京にいた。
ロネッツのロニー・スペクターが亡くなった日に京都に戻った。子供の頃に岩国の米軍基地の極東放送から流れる「ビィ・マイ・べイビー」を聴いた。ピカピカしていたな。翌日、京都は大雪だった。朝起きてカーテンを開けると去年の夏ホタルが飛んでいた庭は雪で埋もれていた。昼過ぎに雪見酒でもと思いたち出かけた。ただただ寒い。あったかいものを食べたくて南禅寺の参道から少しの路地にあるうどん屋に入った。小さな店でお客さんはいなかった。熱燗とあんかけうどんを注文した。かん酒を半分くらいのんでいるところにあつあつのあんかけうどんがやってきた。具はなにもなく、おろししょうがが乗っているだけのあんかけうどん。冷え切ったカラダにかん酒としょうがのきいたあんかけうどんを交互にすする。暮れから正月にかけて、あれもこれもと求め過ぎて悲鳴を上げていた胃袋も、この質素な食事を喜んでいる。
「うまいなァ」
と独り言を言ったら、聞こえたのか奥からお母さんが出てきた。
「実は僕も、昨夜家であんかけうどんを作ったのですが大失敗しました。ちょっといい小麦を使ったうどん玉と、瀬戸内のいりこ出汁、あんは吉野葛を使ったのにね」
と私が生意気なことを言うと
「あらうちはただの片栗粉です。出汁もサバ節だけですよ」
とお母さんがにこやかに言ったので、私は恥ずかしくなっておみそれしましたと思った。南禅寺のすぐそばでもあるし、まるで禅問答のように思えて、私は日々の飽食を反省した。
うどん屋のお母さんは今年七二歳になるという。アダンのせっちゃんと同じ歳だ。東京に戻ったらせっちゃんにこんなシンプルなあんかけうどんを作ってもらおう。
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