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「さあ船を出しましょう」第五話

「さあ船を出しましょう」第五話

 愛すべきワイキキアンはその後数年して取り壊されしばらく更地になっていた。やがて大きなホテル群に変わった。ハワイ音楽の取材の後でハワイ島に飛んだ。宿泊していたヒロの富士ホテルはとても快適だった。ワイキキアンのように。ダウンタウンの「ダイアモンドバー」で毎日飲んだくれた。タヒチアン・ラナイのように。やがて富士ホテルもダイアモンドバーもなくなった。楽園の夢が少しずつ跡形もなく消えてゆく。オアフ島東海岸ワイマナロはローカルの居留地である。ギャビー・パヒヌイの家はそこにある。

 堀が山ほどの荷物を積んでワイキキアンにレンタカーでやって来た。編集道具、カメラ機材、寝袋、レーズンウィッチ数箱。大先生であればカメラマンやら数人は同行するのであろうが、駆け出しの私はBリーグである。堀以外は誰も来ない。その分堀の負担は増える。カメラマンも堀がやる。堀の写真は悪くない。レーズンウィッチは取材相手へのプレゼント。寝袋二つは何だろうか、勘の鋭い堀はオアフの取材の後で、ハワイ島へ行くことを察知しているのかもしれない。寝袋はきっと役に立つのだろう。
 「ボロボロのホテルだね、でも懐かしい」
 と堀が言った。私より少し若い堀は江戸前である。少年の頃には進駐軍の基地が堀の家の近くにあったと言う。私は山口県岩国の在で生まれ、米軍基地とアメリカ兵のいる風景は見慣れている。ラジオからは極東放送が流れていた。楽園が植民地となって、エキゾチックな世界、つまり健全な不条理が生まれる。であれば戦争に負けて丸裸にされた当時の日本こそパラダイスだったのかもしれない。堀の言う「懐かしい」とはそういう意味だ。
 タヒチアン・ラナイのバーで堀と短い打ち合わせをした。
 「ギャビーと同時代のミュージシャンで、まだ元気な方もいらっしゃるので、そこから取材しましょう」
 と堀は言った。

 アンディ・カミングスの家はワイキキが一望に見渡せる高台にある。翌日の午後堀と私はミスター・ハワイアン、アンディ・カミングスを訪ねた。「ワイキキ」「カウアイ・ビューティー」数々の名曲を生み出した巨匠にもかかわらず、アンディはやァやァと気さくに迎えてくれた。堀と私は風通しの良いリビングに通された。ライトグリーンの籐椅子に座る。壁にハワイアン・セレナーデ時代のメンバーとのアンティークな記念写真が掛けてある。籐椅子と同じライトグリーンの額縁に納まって。
 「私はホノルルで生まれてカウアイで育ったんだ。若い頃はカウアイでポピュラーソングを演奏していた。ハワイアンと白人の音楽をミックスしたハパ・ハウレと言われているやつだね。当時アンディ・カミングスとハワイアン・セレナーデというバンドでメインランドを回ったんだ。メンバーは四人、ギャラは一晩三ドルだった」
 太平洋戦争が終わって少し経った頃だ。私は1952年生まれだから戦争は知らない。少年時代は高度成長期の真っ最中だとはいえまだまだ山口の田舎の生活は貧しかった。祖母の兄が移民でオアフにいるという。祖母の生家は岩国から錦川を上流に行く、今でいう錦川清流線の南桑(なぐわ)という駅の小さな集落にある南桑駅からつり橋を渡ってすぐの農家だった。子供の頃、夏休みには南桑の祖母の実家に行くのが楽しみだった。清くて冷たい錦川で泳いだ。山あいの貧しい農家で、祖母の兄は移民としてオアフに渡り仕送りを続けていたのだというが私はその人を知らない。私の長男がアメリカに短期留学をし、帰りにハワイに寄り、移民で行った祖母の兄の家族に大歓待を受けたと子供の頃に聞いた。まだハワイ旅行が夢の時代の話だ。20世紀も終わりに近くなって、祖母もとっくに亡くなっていて、末っ子の私がのこのこと、その移民家族に会いに行っても誰も相手にしてくれまい。
 私は早くに亡くなった祖母のことを束の間考えた。高台の家は風が抜ける。いつも語るに落ちる私は、ホノカアのマダムから学んだことを実践した。つまり、こちらからあまり喋らないで、じっとアンディの話を待った。アンディは冷蔵庫からビールを取り出し勧めてくれ、ポロンポロンとウクレレを鳴らして唄い始めた。「ワイキキ」だった。アンディ・カミングスが堀と私のためだけに唄ってくれている。まるで弾き語りのコンサートへ出かけたようなものだ。
 「そうだなァ、メインランドへ二度目に行ったときは楽しかったなァ、バンドマンとフラガール、それにスタッフまで入れると総勢六〇人くらいはいたかな。スプリングフィールド、バンクーバー、シアトル、シカゴ、デトロイト、ランシング、自分たちでバスを運転してね・・・あれは楽しい旅だった。ミシガンはどうしようもない町だったが『ワイキキ』はそこで書いたんだよ、ハワイが恋しくなってね。」
  ワイキキ 私の願い
  私の心はいつも
  海の向こうのワイキキにある
 オールドハワイ、宿泊しているワイキキアンの華やかな時代にアンディ・カミングスの歌がいつも流れていた。
 「ギャビーと会ったのはその前だったか後だったか、上手く思い出せないが、とにかくスチールギターを演っていたディビッド・ナウルがギャビーを連れて来たんだ。ギャビーは文無しでね。それから一緒にラウィーチアイやケワロアにあったラモナカフェで仕事を始めた。週15ドルのギャラだった。ハイクラスな店じゃないが、私達の客にはそんなところがいいのさ。8時から四時間演奏した。いつも満員だったよ、8時半には200人くらいの客が外に並んでいたものさ。その頃ロイヤル・ハワイアン・ホテルでオーディションがあったんだ。他のバンドはみんな行ったけれど我々は行かなかった。そうしたらロイヤル・ハワイアンのマネージャーがスカウトにやって来た。ギャラは50ドルに跳ね上がったよ。ギャビーはスチールギターで高いパーツを得意にしていた。え、ギャビーに教えたかって?私が?ギャビーに教えることは何もなかったよ。彼はすでに全てをマスターしていた。五線譜は読めなかったが音を耳でピックアップするのが非常にうまかったね」

  トモトカタラン スズカケノミチ
  カヨイナレタル ガクシャノマチ
  ヤサシノコスズ ハカゲニナレバ
  ユメハカエルヨ スズカケノミチ
 アンディは多くのことを語る合間に数曲歌ってくれる。「鈴かけの径」をカタコトの日本語で歌った。
 「文無しだったギャビーは私と長い旅をした、ハワイアンの旅さ、ライ・クーダーがギャビーに会いに来てワーナーからアルバムを出した。ギャビーは一躍時の人になったんだ。メインランドの仕事も増えたけれどロスから帰ってくると、相変わらず道路工事に精を出し、模型機関車をいじり、大酒をかっ食らていたよ。ギャビーにはメインランドでの仕事は性に合わなかったんだ。私がミシガンで『ワイキキ』を作ったように、ハワイに帰りたかったのさ。あの頃、ハワイ州は開校していたスラック・キー教室にギャビーを講師として招いたけれど、ギャビーは一度も顔を出すことはなかった。自由に生きたかったんだろう。カフクでゴルフをギャビーとやっていた時に、心臓発作で突然倒れて逝ってしまったよ、私よりずっと若かった」
 1981年、享年59歳。
 80年にジョン・レノン、81年にボブ・マーリィが亡くなった、そのような時代。

 1992年に私はアンディ・カミングスと会った、アンディは3年後の1995年に亡くなっている。アンディとギャビーの墓は仲良く並んでいる。

 ビーチ・ボーイは性に合わなかったな、すぐ目の前でステーキを食ってるような所じゃいい音楽はできなかったよ、でもやりたい仕事はなかったんだ。本当はギャングになりたかったんだけどね。
 俺はジャズが好きだった、カウント・ベーシーやデューク・エリントン。で、スチールギターでジャズ的な要素を表現しようと思ったんだ。あの頃、 アンディ・カミングスと一緒に演ってたんだけど、アンディがこう言った。これはお前のすることじゃない、俺たちはハワイアンミュージックをやっているんだ、スタイルを変えろよ。とね。それからはハワイアンミュージック一筋てなわけだ。でもそれを後悔しちゃいないよ。
 汽車が走ってた頃の時代が懐かしいね。俺はパール・ハーバーの機関車狂だったんだ。ビル・パイって知ってる?知らないよなァ、ビルはモロカイからここまで泳ごうとした気のいい親爺だった。達成できなかったけどね。その頃、俺はビルの所で荷物運びをやってた。いつもはマジメにやっていたのに、たまたまビルがやって来た時俺は昼寝をしていたんだ。結局1ヶ月でお払い箱さ。

 アジアの田舎者が初めてハワイにやって来て10日目にアンディ・カミングスと会った。その実、いきなり核心に触れたようで驚くばかりだったが、まだそれは序の口だった。やがて気が付けばハワイ島キラウエアのクレーターで、爆発的な星空を眺めることになるのだ。紙を食って地球のヘソで馬鹿笑い。古代中国の軍師呂祥(りょしょう)のごとく、釣竿で星々を一匹ずつ釣り上げるのだ。
 ワイキキアンに帰って堀と私はタヒチアン・ラナイでしこたま飲んだ。翌朝私はラグーンの砂に埋もれて目を覚ました。


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