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「さあ船を出しましょう」第二話

「さあ船を出しましょう」第二話

 その日西麻布のバーで私はアナ藤岡を待った。木曜日の早い夜、半地下のバーは奥の二つのテーブル席はすでに埋まっていて、カウンターにはカップルが一組と、男性と女性客がひとりづつスツールに腰かけていた。
 この店の主人であるバーマンの菊田の作る酒は秀逸である。とても丁寧に謙虚な仕事をする。そして何より選曲がいい。それも自分本位ではなく、お客さんの状況をカウンターの中から観察してすぐに空気を読む。かける曲はノンジャンルである。私はインギン無礼なジャズバーが嫌いだ。ジャズが嫌いという意味ではない。もちろん菊田はチェット・ベイカーもかければサラ・ヴォーンもかけるけれど、ボブ・ウィアーやニール・ヤングだってかける。それもすべてお客さん次第なのだ。
 私はカウンターの一番奥に座る。奥の席からはすぐに小さなキッチンがあり菊田の奥さんが料理を作っているのが見える。ベトナムとかタイの料理。バーでもちゃんとした料理があるのは嬉しい。時々この界隈を徘徊するけれど、腹が減って何を食べるか迷ったあげくに食いそびれて、菊田の店に来る。バーの料理はたいてい小じゃれていて食べる気がしないがこの店の料理は存在感があっていい。
 私はウイスキーのソーダ割を頼んだ。ウイスキーの銘柄はここでは言わない。酒のウンチクをたれたくはない。ただ菊田に氷は入れてくれと頼んだ。氷のないハイボールはうまいが悪酔いする。
 ルー・リードの「ペイル・ブルー・アイズ」がかかっている。以前ベトナム映画「夏至」のハナシを菊田にしたことがある。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 
 ドアが開いて、アナ藤岡が入ってきた。
 雨の匂いがした。少し降ってきたらしい。半地下の店は湿気がこもる。木曜の夜の酒場はざわついている。私は右手をあげてアナにここだと伝えた。アナは私の隣に座った。私は少し緊張している。すぐに菊田がやってきて「いらっしゃいませ。アルバムいつも聴いてますよ」とにこやかに言った。菊田の一言で空気が緩んだ。アナは「あら」と嬉しそうに「マティーニ、オリーブ二つ」と言った。「私のハワイの先生が大酒飲みで、いつもマティーニを注文するの。オリーブ二つって、まねしただけ、ホントウはマティーニってどんなお酒か飲んだことないのよ」
 菊田は手早くマティーニを作る。オリーブが二個入ったマティーニがアナの前にすっと出された。ほのかにレモンの皮の香りがした。菊田が女性のヴォーカルに変えた。
 アナが「あら、アーマ・トーマス」と言った。
 ジャームッシュの「ダウンバイロー」のなかでこの歌がかかるシーンがある。刑務所に入ったジョン・ルーリー、ロベルト・ベニーニ、トム・ウェイツの三人が脱獄して、とある小さなレストランに隠れる。レストランの女主人がニコレッタ・ブラスキで同じイタリア人のロベルト・ベニーニと意気投合して、チークダンスを踊る。その場面でアーマの「イッツレイン」がかかる。ジョン・ルーリーとトム・ウェイツが、ちょっと白けた顔でそのダンスを見ている。名場面だ。雨の記憶、菊田の気の利いた選曲。
 そんなハナシを私はアナにしたがアナは映画は見ていなくて、ニューオリンズで実際にアーマ・トーマスのライブを見たのだと言って、曲に合わせてワンフレーズ歌った。癒しの声。
 「あの頃、八〇年頃ね、この辺はカスミ町って言ってたわ。さっきの若いタクシーの運転手さん、西麻布って言わないと分からなかった」
 「広尾橋、材木町、カスミ町、年配の運転手さんだと嬉しそうに答えてくれる。」
 「ロンドンでライヴのあと、帰国して、当時のインクスティックやクーリーズ・クリークでライヴをやったの」
 「ああ、八〇年代このあたりのそんなクラブはみんな今はなくなったよ。当時は深夜、カスミ町の交差点を歩いていると誰かに出会った。街の風景はあまり変わらないけど今は町が清潔になった気がする。八〇年代前半の食いかけのハンバーグがひっくり返っているような危うさがない。カオスがなくなったのだ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 
 そういえば、恵比寿のすし屋のがんちゃんが言ってたな。
 「オレがさァ、若い時ロンドンですし握ってたらさ、つまり一九八〇年頃さ、まだ駆け出しで修行の身、異国だしさ、淋しくてさ、そんなある日、ラジオで、日本のニューウェーブのバンドが来るって聞いたのさ、ニューウェーブだぜ、日本のロックなんかイギリスの奴らまだ誰も知らない頃に、ニューウェーブさ、オレ仕事休んで見に行ったさ。それがアナのバンドさ。すっ飛んだよ。カッコ良かったなァ、ロンドン子もみんなのりのりさ」
 そんなハナシをアナにした。アナはロンドンでがんちゃんに会っている。
「がんちゃん元気かなァ」とアナは言った。
 しばらくしてすし屋のがんちゃんは亡くなった。
 私はアナが、ニューウェーブからワールドミュージック、ハワイへと変化していく過程に興味があったがアナのファンというわけではなかった。八〇年代のインクやクーリーズのライヴも見ていない。というよりクーリーズのライヴはすでにいっぱいで入口まで行ったが入ることはできなかった。丁度デビット・ボウイが東京に来ていて、アナのライヴを見に来たがやはり入れなくて帰っていった。カスミ町の闇に消えていくボウイの姿を遠目に見て、私はアナのライヴは見ることはできなかったがボウイを垣間見れただけでも良かったと思った。ボブ・マーレイやシンディー・ローパー、バスキアだったり、シャーデーやグレース・ジョーンズに出会えたり、当時カスミ町のナイトクラビングは驚くべきハプニングがあった。
 八〇年代バブルに関係なく私と私の周りはいつもお金はなかったが、それでも海外の多くのアーティストに出会えたことはバブルの恩恵を受けたと言っていい。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 
 「私は大したヒット曲がないから、過去にとらわれないでいろんなジャンルにトライできるの」とアナは自嘲気味に笑う。
 そんなことはない、私はアナのヒット曲も数曲知っている。にもかかわらず彼女は昔のヒット曲に頼らず、常に新しい世界にトライしている。
 私は二杯目のソーダ割を流し込んで少し落ち着いた。
 「ところで、世界のアナ藤岡がなぜこのような男に連絡をくれたのでしょうか」と私はおどけた調子で言った。
 アナは少し間をおいて、「八九年頃かしら、今から十年前、ある雑誌にあなたはハワイの話を書いたでしょ。私はたまたま読みました。一部がハワイの音楽の事、二部がフラの話。フラの古典のことを書いていらして、とても面白かった」
 「フラ カヒコ」
 「ええ、カヒコ。日本ではフラと言えばモダンフラ、つまりアウアナのことで、カヒコまでやらないし話題にもならない。私は男性がカヒコの記事を書いていることにまずびっくりしたわ」
 十年前、つまり一九八八年頃、まだ私は旅を続けていた。東京に帰ると旅がらみのエッセイを雑誌に書いていた。どれも短いモノばかりで、長い取材文を書いたのはアナが読んだ雑誌が初めてだった。ヘタクソで未熟だった。旅から帰ると友人の堀が住むところのない私を家に泊めてくれた。家といっても堀の家は浄土真宗の寺であるから、私は本堂の片スミに布団を敷いて寝た。お礼に広い本堂の掃除をした。日本にいる間私は寺男であった。寝るのは片スミであったが、堀の父親と友人がやってきて四人揃うと、本堂のど真ん中で麻雀をした。
 堀は私より若いが優秀な編集プロデューサーで、親鸞上人の慈悲の心を持って無一文の私にハワイ取材の仕事を作ってくれた。アジアの赤土の上を裸足で歩いていた私にとってハワイなどまるで興味はなかったが、ハワイから南太平洋への旅は思ったより長くなった。そして気が付くと、ハワイ島の火の神ペレに会いに行くことになるのだ。これも親鸞上人のお導き、いやいや、準備ができていれば自然それなりの場所に辿り着くのかもしれない。もっと昔、イーストビレッジで遊びすぎてカラダもココロもぐずぐずになっていたとき、トンプキン公園で、ある和尚さんに出会った。気が付いたらキャッツキルの山中にある禅寺に私はいた。このハナシはいずれまたするとして、旅の哲学はそういうものなのだろうか。いま私はアナ藤岡とカスミ町のバーで会っている。アナが私のような一般人に連絡してきた意味が分かりかけてきた。いや理解しようとしている自分に気が付いた。
 アナは言った。私の心を読み込んだように。
 「そうなんです。わたし、これから東京でフラの学校を始めたい。それには私自身がもっとフラカヒコを学ぶ必要があるの」

  無意識から何かが起こった瞬間だった

 アナは私にこれからフラを巡る旅に出かけようと言っているのだ。その旅はとても精神的なもので、果たして日々飲んだくれている私にそんな大それたことを手伝うことができるのだろうか、私が雑誌に書いたフラの話はひどく未熟なモノだった。火の神ペレのもう一度学んで書き直せというお告げなのかもしれぬ。果たして三蔵法師の孫悟空のように約束の地までお供できるのだろうか。マチガイばかりをやらかして孫悟空のように頭に巻いたキンコジを絞めつけられるに決まっている。
 いかがなものか、私は三杯目のソーダ割は氷なしで頼んだ。


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