ブルース・オズボーン常設展「once upon a time in Los Angeles Vol.2」@アダン 2022/8/22(mon)〜
ブルース・オズボーン常設展「once upon a time in Los Angeles Vol.2」@アダン 2022/8/22(mon)〜
泉岳寺「アダン」店内を飾る、親子写真などで著名な写真家ブルース・オズボーン氏の常設「Once Upon a Time in Los Angeles」シリーズの第二弾がいよいよ開始!(全作品入れ替え完了)
新規展示より抜粋/タイトル「Warren Zevon(ウォーレン・ジヴォン)」
○ブルース・オズボーン自身の作品解説
この写真を撮影した1978年、Warren Zevon は「Excitable Boy」で全米8位を記録して超多忙だった。PRMの撮影のために彼が私のスタジオに着いたときは相当疲れていたようで不機嫌だったので、私は撮影のために用意したバック紙に落書きを描いてもらうことにしました。撮影が始まるとZevonはバック紙を引き裂き始めたのでその様子を撮影して雑誌の表紙に使いました。
同年にリリースしたシングルアルバム「Werewolves of London」は全米21位を記録。Grateful Deadを始め多くのミュージシャンにリスペクトさ
れたアーティストでした。2003年にリリースし全米最高12位を獲得した「The Wind」がジヴォンの遺作となってしまいました。
youtube「Warren Zevon-Poor Poor Pitiful Me-10/1/1982-Capitol Theatre (Official)」
●ブルース・オズボーン最新展覧会情報 2022.9.1~9.30
「Nature Calls 海洋プラスチック展 海からの声」
藤元明/ブルース・オズボーン
会場:間 AWAI THE COVER NIPPON Salon(帝国ホテルプラザ東京2F)
※展示作品のコンセプトについての解説
ブルース・オズボーン/プロフィール
http://www.bruceosborn.com
1980年の写真展「LA Fantasies」をきっかけに、日本での活動を本格的開始。
コマーシャル写真家として数々の仕事を手がける一方、2003年に7月第4日曜日を「親子の日」にと提唱。「親子の日」のオリジネーターとしてソーシャルな事業にも関わる。インターネット初期の頃から双方向のTV番組のディレクターを担当するなど、写真家以外の活動も多く行ってきた。
「親子の日」の10周年記念に制作した映画「OYAKO」はベルリン国際映画祭(ifab)でベストドキュメンタリー賞を受賞。また写真を通じたソーシャルアクションが認められて「親子の日」 東久邇宮文化褒賞を授与。
葉山に移住後はビーチで見つけたプラゴミなどをモチーフにしたシリーズの撮影をスタート。タイトルはNature Calls!
【写真集、著書】
「親子」(デルボ出版)、「Oyako」(INKS INC. BOOKS)、「KAZOKU」(角川書店)、「ごめんなさい」(日本標準)、「反バンビ症候群」(ヒヨコ舎)、「異人都市東京」(シンコーミュージック)、「都市の遊び方」(新潮社)、「親馬鹿力」(岩崎書店)、「この国の環境」(清水弘文堂書店)、「OYAKO」(Sora Books)
※この展示は泉岳寺「アダン」で行われています。渋谷「南洋ギャラリー」とお間違いないようご注意ください。
同様の「once upon a time」のコンセプトで人気ウェブサイト「ROADSIDERS’ weekly」にも連載寄稿しております。
※ROADSIDERS’ weekly(https://roadsiders.com/)最新原稿Vol.3、許諾を受け流用。
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「once upon a time~ もうひとつのカリフォルニア・ドリーミン 03 オン・ザ・ロード」
テキスト、写真:ブルース・オズボーン(写真家)
アートセンターの学生だった頃から一緒に住んでいたいとこのボブと友人のビルの二人から、ヨーロッパとアジアへの旅行に誘われた。アートセンターはプロのクリエイターを養成するカレッジだけあって、いま思い出してもプロになって仕事を始めてからのほうが楽だと思うくらい、確かに毎日がハードだった。二人は、そんな宿題漬けの日々からエスケープしようという目論みのようだった。
僕は、PRM(フォノグラフレコードマガジン:前回参照)の仕事がやっと軌道に乗りはじめたばかり。フリーランスの仕事も少しずつ入ってきたころで、最初はあまり乗り気ではなかったけれど、最終的にニッポンに行くという二人からの誘惑に勝てず、仕事を少し休んで世界一周の旅を選ぶことにした。
ニッポンに行ったら佳子に会える!
いまでは日常的に使っているEメールだけど、遠距離のコミュニケーション手段は文通と超高額な国際電話しかない時代。
海外といえば隣国のメキシコとカナダしか知らなかった僕は、ヨーロッパからアジアの国々を経由してニッポンに行くのがどんなに遠回りかということを調べることもしないで、二人と一緒に旅立つことを決心した。
幸いなことに、地球を東まわりに飛ぶ1年間有効の世界一周オープンチケットが、たしか600ドルという格安の値段で手に入った。3,000ドルのトラベラーズチェックとダイナースクラブのクレジットカードとカメラを持って、ロサンジェルスを飛び立ったのが1976年の9月のことで、それはアメリカ合衆国が建国200周年を迎えた年でもあった。ダイナースクラブのカードを持っていれば、ヨーロッパとアジアの主要都市にあるクラブの支店で郵便物を保管してもらえる便利な特典があって、それはいつどこにいるかわからない旅人にとってありがたいシステムだった。
出発の前夜
高校時代からの友人、スティーブ・スミスとアートセンターで作品制作のパートナーだったドットとヴィヴが、両親の住む家に来てくれて出発前夜の夕食会。
おばさんと久しぶりの再会
最初の目的地はロンドン。長いこと会っていなかった母方の叔母の家族がロンドンに住んでいたので、ロンドンに到着した日の夜、彼らに会いに行った。夕食後、叔父から犬の散歩に一緒に行こうと誘われる。時差ぼけで疲れていた僕らがしぶしぶ叔父の後をついていった先は地元のパブ。散歩といっても家から公園を横切って100メートルぐらい歩いた先のパブで、近所に住む叔父の友人たちと一緒に楽しい時間を過ごした。犬はテーブルの下で爆睡。イギリス人の日常を垣間見たロンドンでの1日目だった。
ストーンヘンジ
叔母が車を運転して案内役をしてくれたのでおかげで、是非行ってみたいと思っていたストーンヘンジにも行くことができた。ほとんど曇っていると聞いていたロンドンの空も晴天続きで、陽光が眩しいイギリスの田園地帯を堪能できた。
ロンドンに滞在した数日間は、ロンドンタワーや美術館などの観光スポット巡りをしてすごした。インド人、アフリカ人、カリブ海に面した国々などからの移住者が多く国際色豊かだったのと、英国料理はまずいという定評に反して、パブで出される料理などは美味しかったのが印象に残っている。インド人の移民が多かったからかもしれないが、40数年前でもインドカレー屋がたくさんあった。
ロンドンのホテルの部屋でトランプをしているビルとボブと僕
パブで歌う「千人の声」
パリに向かうために、ヴィクトリア駅を午前0時に出発する列車を予約した。数時間の余裕があったので、通りを隔てた向かい側にあるパブに行ってみると、ウェールズの鉱山労働者で構成された「ONE THOUSAND VOICES」という合唱団がいた。ロイヤルアルバートホールで行われる祭典で合唱するためにロンドンに来たという。その晩パブで歌っていた曲の中に、1974にQUEENがリリースした「Lily of the Valley」(スズラン)と同じタイトルの歌があったけれど、歌詞も曲もまったく違っていた。あまりにも楽しくて危うく電車に乗り遅れそうになり、駅まで夢中で走った思い出も懐かしい。
エッフェル塔で記念撮影
無事にパリに到着。おきまりのエッフェル塔に行って記念写真。ギャラリーや美術館に行ったり、ストリートカフェでのんびりしながら、これからの旅について話して数日間を過ごした。
パリで撮ったボブとの記念写真
アムステルダム
アムステルダムに到着した時に、ジョージア州出身のジミー・カーターが米国大統領に選出されたニュースを聞いた。はるか遠くの国で聞いたそのニュースは、ベトナム戦争と人種問題によって分断されたアメリカが、ピーナッツ農家出身の大統領によって変わるかもしれないという期待を抱かせてくれた。しかし大統領就任2日目にカーターが行った「すべてのベトナム戦争徴兵忌避者に詫びる」というスピーチは、学生だったのでベトナム戦争の徴兵に該当しなかった当時の僕らには、自分たちとはかけ離れた遠くの世界のように響いた。
アムステルダムのユースホステルはThe Cookie Factory。世界中から集まってきた同世代の若者による音楽とアートシーンはとても刺激的だったけれど、ハシシ・ブラウニーなどという名前のお菓子がメニューにあったりして、混沌とした街だったように覚えている。
いろいろな部屋がある巨大な建物を訪れたこともあった。ライブのショーが行われていたり、別の部屋ではリラックスできるコーヒーと喫煙の場所があったり、その隣の部屋では布や工芸品を販売する小さな店がたくさんあったりして、なにもかもが珍しく新鮮で、僕らにとってはまるで新世界。ハウスボートに住んでいる人を訪ねたり、ゴッホ美術館に行ったり、とにかく楽しいことだらけ。ここに住みたいという衝動にもかられたけれど…東方への旅はまだまだ始まったばかりだった。
中古車のフォルクスワーゲンを購入
好きな場所に自由に移動できてホテル代も節約できるということで、中古のフォルクスワーゲンキャンパーを購入することになった。バンの中に男3人がどうやって寝ていられたのかはよく覚えていない。
ホステルをチェックアウトして出発の準備をしているときに、戦のあとのようにラウンジが滅茶苦茶になっているのに気がついた。びっくりしてオーナーのアメリカ人男性に尋ねたところ、アメリカ人の料理人にホテルの権利を売却したら、お祝いがわりに館内の椅子やガラスを壊しまくったと話してくれた。その頃、ザ・フーのメンバーだったキース・ムーンの事件が話題になったこともあったように、ツアー中のロックミュージシャンがホテルの部屋を破壊する事件が頻繁におきていた時代。アムステルダムに住む自由奔放なアメリカ人も、キース・ムーンと同じ波長を持っていたのだろうか。なんでもありの自由すぎるライフスタイルは、社会や他人への単なる迷惑行為だと思った僕らは、VWバンで気楽に自由な旅をするほうが好みに合うと思い、車でアムステルダムをあとにした。
オランダ製の木靴
オランダ製の木靴を購入したけれど、履き心地は最悪だった。
ブラックフォレスト
オランダからドイツに入ったのは10月。毎年ミュンヘンで開かれるドイツビールの祭典、オクトーバーフェス(十月祭)に行くことにした。のちにバイエルン国王ルートヴィヒ1世となるバイエルンの皇太子と、テレーゼ・フォン・ザクセン=ヒルトブルクハウゼン王女の結婚を祝って1810年に始まった歴史ある祭典だそう。ところがこの祭りの期間は9月から10月最初の日曜日までの2週間で、すでに終わってしまっていた。なぜセプテンバーフェストではなくオクトーバーフェストと呼ぶのか腑に落ちなかったが、終わってしまったものはしょうがないと諦め先を急ぐことにした。
紅葉が進んだブラックフォレストは、ドライブには最高のルート。スイスを目指して南に車を走らせる道中にはたくさんの古い城が森の間に見え隠れし、なんども車を停めて景色を堪能した。
イタリアに到着
スイスからフランスに抜けるモンブラントンネルを通って、イタリアのアオスタという街に向かう。古代の遺跡が立ち並ぶ街並みを通過して、リゾート地として人気のリビエラ・ポルトフィーノに到着。その後で立ち寄ったのは、美しい古代都市フィレンツェとヴェニス。
めまぐるしい移動だったが、古いものがどんどん取り壊されて新しい建物に取り替えられる文化が当たり前のロサンゼルスとは大違いで、どの街も何百年前の建築物を丁寧にメンテナンスしながら使っている歴史の豊かさに改めて感動。まるで別の時代に連れ戻されたかのように、圧倒された濃厚な時間だった。
ポルトフィーノで
車での移動は経費の節約にもなるし小回りも効くので便利だったが、そのいっぽう3人で行動している時間が多いために、地元の人間に会ったり珍しい体験をする機会がなくなって、旅の驚きや醍醐味が薄れてきた。冬も近づいてきたこともあり、マンネリ化してきた旅の気分転換にと暖かい気候の場所に向かうことになった。
ユーゴスラビアに到着
海沿いの道路を辿ってユーゴスラビアに到着。クロアチア海岸を南に下る道中の美しいビーチと、古代ローマ文化の影響を色濃く受けた建築物が印象的だった。1980年にチトー大統領が亡くなり、その10年後には崩壊へと向かってしまったけれど、ユーゴスラビアは第二次世界大戦中、パルチザンを率いてナチス・ドイツに対抗し解放に導いたチトー大統領を慕い、訪れる人が多い穏健な共産主義国だった。
ニッポンに来てから知ったことだが、クロアチア最南部のアドリア海に面したドゥブロヴニクは、後期ゴシック、ルネサンスの両様式を取り入れた歴史的建造物が多く残されている都市で、ジブリの名作『魔女の宅急便』の舞台だと言われている街だそう。
グラッパのボトルを露天の物売りから購入。咽せるほど度数の高い自家製の密造酒を飲んで咳き込んだ思い出も懐かしい。
ここで我らが愛車が故障。4WDの車が超スローなポンコツ車となってしまい、ギリシャに着く頃には長旅の疲れでストレスがピークに達してしまっていた。それでもユーゴスラビア南部からギリシャに入ったときは、文化圏が大きく変わったことを実感してワクワクした。
アクロポリス
学校の授業でギリシャ人は、科学、天文学、哲学、芸術の分野における先駆者だと教わり、ギリシャは西洋文化と民主主義の発祥地と教えられた。それを象徴するように、街を見下ろすアクロポリスの丘からも街中にもたくさんの彫像やモニュメントがあって、過去と未来の間に実在する人類の一端に触れることができた。
ウォブリング・ウォーリー・ワッツとの出会い
アテネで会ったウォリー・ワッツは強烈なキャラクターの持主だった。カナダ人の彼は一輪車でカナダを横断したことでギネス世界記録を持っている。一輪車で世界一周の旅をしていた途中に出会った彼の太ももの筋肉は恐ろしく発達していて、裂けてしまったズボンの太ももにツギあてがしてあった。彼の世界一周の旅は完走できなかったことを後に知ったが、それでも16ヶ国を横断、走行距離は12,000キロに及んだという。
YouTube:He Built a Unicycle THEN Rode it Around The World in the 1970s! [Wobbling Wally Watts]
マジックバス
楽しい旅を続けるためには車を売却するのが最善と全員一致。しかし海外で購入した車をギリシャで売り払うには複雑な手続きが必要だったので、結局アテネに1か月以上滞在することになった。松のような味がするギリシャワインはそんなにおいしくなかったし、リキュール味のウーゾで二日酔いになったこともあったけれど、ゆっくりギリシャを堪能しながらアジアの旅への準備ができた。
車を諦めた僕たちの移動手段はマジックバス。ヨーロッパから南アジア、その先のインドとネパールを陸路でつなぐ「ヒッピートレイル」だった。(ヒッピートレイルについて)
そしていよいよアテネからイスタンブールへ。アテネへの名残を惜しむ脳裏には、映画『その男ゾルバ』の主題歌が響き渡っていた。
Youtube:Dancing Zorbas in street
南洋ギャラリー
東京都渋谷区神山町7-8
7-8 Kamiyama-cho Shibuya-ku Tokyo
Phone:03-5465-7577
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