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「さあ船を出しましょう」第1話

「さあ船を出しましょう」第1話

 バリ島、クタのバンガローにしばらく泊まっていた。遠い昔の話だ。ポピーズに行く手前の路地に小さな雑貨屋があった。石けんだったり、丁子タバコだったり、ビンロウの実だったり、地元の人が行く日常の細々とした雑貨の店で、子供の頃に通った十円駄菓子屋に近い。奥に簡素なテーブルが置いてあり、そこで自家製の椰子酒を飲ませてくれた。日本のどぶろくみたいなものだな。美人のワヤンとかわいいニョマンが留守番をしていて、夕暮れ時ジャランジャランに出かけ、いつもその店で椰子酒を飲むようになった。ワヤンはとても美人であった。「アナタハウツクシイ、ボクハアナタニアイニクルンダ」と今だったらケイタイに通訳を頼めるが、当時はただニコニコとプラスチックのコップに入った椰子酒を飲みながら、「バグース」を連発するのみである。そのうち近所にモスリムのおっさんがやっているサテの屋台がやって来る。かわいいニョマンがサテカンビンとスパイスたっぷりの羊の内臓スープを買いに走る。あのスープはうまかったなァ、死ぬ前に何が食いたいか?「卵かけご飯」とか抜かしたテレビに出ている料理人がいたが、ああいう輩はあんまり信用しない。死ぬ前に何が食いたいか、ぎとぎとと燃えたぎったスパイスたっぷりのあの羊の内臓スープを食らって、「まだシャバにいてえ」と叫びたい。そしてあの椰子酒があれば言うことなし、そしてそして美人のワヤンとかわいいニョマンがいれば抗うことなく天国に行けるというものだ。
 しかしあれからどれだけ時間が経っていることか、椰子酒屋の美人姉妹も生きていたって今やすっかり婆さんになっているだろう。歳はとるものではない、おもいでばかりが多すぎて前に進めないのだ。
 私は毎日、夕暮れ時にその店で椰子酒をかっ食らった。いい調子に酔っ払い、外に出ると路地の先に、どうっとクタの夕陽が見えた。一日のハイライト、黄金の時間、しかし夢の時は一瞬にして消える。夕陽のあとの薄暮の中にただの酔っ払いの裸足の男がひとり取り残されるのである。日常と違って旅は感動が大きい。その分、感動のあとに冷え冷えとした孤独が押し寄せる。そうなると旅人は居場所を変えたくなるのだ。
 私はそろそろバリを出ようと思った。

 ワヤンが片言の日本語で言った
「アナタハドコヘユキマスカ」
 私は昼間、翌日のジャワ行きのバスのチケットを予約したばかりだった。これからの私のミチユキを言葉の通じないワヤンに伝えるにはとても時間がかかる。私はいつも持っている大学ノートにボールペンで簡単な東南アジアの地図を描いた。ジャワからスマトラ、シンガポール、マレーシア、タイ。だいたいこんなところへ行くんだとワヤンに説明したがそれはひどくアバウトで表面的な説明で、ホントウは私自身、何も決めてはいなかった。とりあえずジャワのジョグジャカルタ行きのバスチケットを買っただけなのだ。
 「ワタシハ、アナタニアエナクナルノハカナシイ」と言いたいところだったが、手のひらを返して首をすくめることしかできなかった。ケイハクなことばかり考えていると足元をすくわれる。ワヤンにとって気まぐれな旅人の行く末など、どうでもいいことなのだ。二か月、半年、一年、旅が続こうと、結局誰もが自分の国へ帰っていくのだ。

 あなたは何処へ行きますか

 オレはいったい何処へ行くのだろう?

☆ ☆ ☆ ☆ ☆    
 二〇〇〇年春
 留守電にアナ藤岡からのメッセージが入っていた。「アロハ、はじめまして、アナ藤岡です。一度お会いしましょう。連絡をください」
 私は驚いた。
 ワールドミュージックの歌姫、近年はハワイ音楽に入っているが、確かにあの誰をもシアワセにするアナの声が留守電に入っていた。私はアナ藤岡と一度も会ったことはない。彼女のアルバムを数枚持っているだけで、アナのライブにも行っていない。ただ共通点があるとしたら、私が放浪していたアジアや南太平洋の島々の音楽を近年アナは歌っていて、日本では稀有な存在ではあった。私自身は彼女の歌に過去の旅の喜日を重ねてもいた。ただそれだけなのだ。

 私は三日後に、いつも行く西麻布のバーでアナ藤岡と会うことにした。


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