酔談
酔談 >

「連載対談/『酔談』vol.5」ゲスト:橋本浄氏、片岡一史氏 ホスト:河内一作

「連載対談/『酔談』vol.5」ゲスト:橋本浄氏、片岡一史氏 ホスト:河内一作

 “酔談”。見ての通り、酔って語らうこと。当然、造語である。
 酔っているがゆえの無軌道さ、無責任さ、大胆さ、自由さをそのまま気取らず飾らず実況する、それが「対談連載/酔談」の全てである。
 アダングループ代表、河内一作が東京の夜のフロントラインに初めて立った、1980年の「クーリーズクリーク」から現在に至るまで、彼が関わった店が、単なる飲食店におさまらず“自由なステージ”としての酒場の背景を演出出来えた“要”ともいえる大切な友人達を毎回招き、テーマなしのゼロベースから美味しい酒と肴の力を借りつつ今の想いを語り尽くすトークラリー。
 さて今回のゲストは、ここ数年、紙媒体、ライブ空間等、多様な形で河内一作と至近距離で交わって来たお二人、独自の地球に優しいクロージングをいち早く打ち出し、サスティナブル、野外フェスシーン等を中心に多くのファンを持つブランド、ゴーウェスト/ゴーヘンプの橋本浄氏(以下継承略)と、同様の土壌でスピーカーとして長くフリーメディア(『ライスペーパー88』、『Lj』等)を刊行し続けてきた、発行人、カメラマンの片岡一史氏(以下敬称略)をお招きし、数えて第5回目となる身内色強いコアなトークセッションをお馴染みの泉岳寺「アダン」特別室で決行。
 実に多くの時間を共有してきた3人だが、意外や意外、その出自やルーツを語り合ったことは皆目無いらしく、まずは、橋本の自然環境に着眼したもの作りの萌芽とも云える、ティーンエイジャー時代の話からセッションはスタート。
 と言いながらも、長き確かなキャリアを持つ彼ゆえ、大河ドラマにも匹敵する広大なタイムラインが横たわる。急ぐ旅でもあるまい、ここはゆっくり聞かせてもらおう。
 キーワードは“サーフィン”。
◇◆◇◆◇

河内一作(以下一作):じゃ~、まずはなにか頼もうか?

橋本浄(以下橋本):それにしてもこの3階のスペースはいいですね。

一作:ここいいでしょ。
凄く人気が高いんだよ。

橋本:来週の火曜日、うちの嫁さん達が、マクロビ(オティック)系女子会!?(笑)で、来るとのことです。

一作:ホント?

橋本:ええ、2階を予約したみたい。

一作:火曜、俺、都内にいたかな?
いたら乱入しようっと(笑)

橋本:あんまりキツいツッコミを彼女達に入れないでくださいね(笑)

一作:あれ、オレの愛情表現だから(笑)
今日もかっちゃん(片岡一史)が来たら、「なんで『88』なんてベタなオーガニックなことやってたのよ!」なんて攻めちゃおうかな?なんて思っているんだから(笑)

橋本:で、これは文字原稿としてネットにアップされる訳ですか?

一作:まだ、過去の記事は見てない?

橋本:軽く拝見しました。

一作:「アダンラジオ」で検索したら、沢山出るから見てね。

橋本:分かりました、今度ゆっくり見てみますね。

片岡一史(以下片岡):遅くなってすいません(片岡、撮影機材を抱えて到着)

ラジオアダン:到着早々にすいません。一作さんと橋本さんの写真は片岡さんに撮っていただいて、片岡さんは、不肖、私が撮って、最悪フォトショップで修正する?なんてことでご承諾頂けますか?

片岡:いいですよ。
(早々に撮影準備に入る)

一作:食べて飲んで終わりだから、気楽にね(笑)

橋本:ガハハハハ(爆笑)

一作:(進行に対して)まとめはよろしく!

ラジオアダン:ハハハ(苦笑)

橋本:今回は、身内度高くてやりやすいでしょ?(笑)

ラジオアダン:ここまで至近距離の人選だと、逆に難しいです(苦笑)

片岡:(一旦作業を止めて)あっ、そうだ、ボクも少しネタを考えてきたんですけど。

ラジオアダン:流石、片岡さん!

片岡:どこかで、88の話をすれば、橋本さんも一作さんも立ち位置は違えども、コアに関わられていたのでいいかなと?

ラジオアダン:それいいですね。
あと、同じく2人共通というところで、橋本さんも片岡さんも、オリジナル「新世界」で主宰イベントを開店から最後までずっとやっていただけた方々という側面で話していただくとか?

一作:うん、それもありだね。
88の主題であった、オーガニック、継続可能社会に関しては、いたずら心からだけど、オレ、相当いじりたい(笑)

片岡:ボク、そもそも88創刊前は、橋本さんとお会いしたことがなかったんです。

ラジオアダン:ボクの記憶だと、この辺の人脈と、橋本さんが急接近した切っ掛けは、(佐藤)こうきさんじゃなかったですか?

橋本:いや、違うよ。(中村)鉄平くんでしょ?

ラジオアダン:ええ、実際に一緒に飲んだりなんてのは鉄平さんがセッティングしていたけど、メディア対スポンサーの関係を築いたのは、当時「バランス」編集部にいたこうきさんではなかったですか?

橋本:うん、そういう意味ではそうですね。
原宿の「マジック・シアター」(ジュエリー工房兼ショップ)の平沢さんの紹介でうち(イエローデビジョン)にこうきくんが来て。

片岡:成る程。

一作:あの頃、もう橋本くんはブランドも会社もやっていたんだね。
今でどのくらいになるんだっけ?

橋本:会社的には29年目です。

一作:えっ!?そんなにやってるの!?

橋本:ええ、決算はね。
関西時代はまだ雇われていて、東京に来て2年経ったところで友人と一緒に会社をやりだしました。

一作:関西にもいたの?
オレ、知らんかったよ。

橋本:2年間。

一作:そうか、だから憂歌団とかその周辺と親しいんだ。

橋本:関西のそこそこ名のある人達とはつるんでいましたね。
繊維業界で云ったらエビスジーンズの今の社長等ともお付き合いさせていただいていました。

一作:関西は狭いからね(笑)
その時代はどこに住んでいたの?

橋本:森ノ宮です。

一作:うちの渋谷「おふく」の料理長、(藤村)節ちゃんが森ノ宮だよ。

橋本:そうそう。先日、その話、節さんとしました(笑)
びっくりしましたよ(笑)

一作:で、本当のルーツは佐賀県だよね?

橋本:ええ、佐賀ですけど、元々、大阪に本社がある福岡の会社にいたんです。
要は大阪本社の九州支店に勤務していた訳です。

一作:あれ、どうもこんがらがってきた(笑)
大阪生まれな訳だよね?

橋本:いやいや(笑)
ボクは九州の鳥栖という所で生まれた佐賀の田舎者で(苦笑)、まずは博多に憧れて、博多の高校に行ったんです。

一作:その辺から話してよ。
オレ、思えば橋本くんとかれこれ付き合ってるけど、全然その頃のこと知らないから。

橋本:はい。
ですから、九州の田舎者がキャロルに憧れてギターを弾きだして、コピーバンドなんかもやりだす訳です。
音楽環境も酷くて、FMが2局しか入らない土地柄(笑)NHK・FMと福岡FM。

一作:鳥栖ってそんな感じなんだ。

橋本:ええ、それもチリチリしたノイズが入って(笑)一生懸命チューニングして録音する訳です(笑)それが唯一の音楽情報。

一作:正に佐賀だ(笑)

橋本:「FMレコパル」を教科書にしてエアチェック。

一作:日本で一番地味な県なんて呼ばれ方もするものね。

橋本:地味だと思う。

一作:慣れ親しんだ海は有明海になるのかな?

橋本:違います。
久留米のちょっと上になりますから、海はないんです。
福岡県と隣接した場所。

一作:うん、それは知っている。

橋本:今は流通の拠点として有名ですね。
九州でメインのJRとインターチェンジが入り込んでいる所ですから。

一作:博多から長崎に行くのに、

橋本:鳥栖を通るでしょ?

一作:つばめだよね。
つばめで鳥栖経由。

橋本:鳥栖が北南、東西と九州のJRの拠点なんです。

一作:九州はいいよね。

橋本:先日、甥っ子の結婚式で帰郷して、鳥栖駅のかしわうどんを久しぶりに食べました(笑)美味しかった!
※かしわ=鶏肉

一作:かしわめしもあるよね。
ちょっと肉を甘目に煮たやつ。

橋本:そうそう。鶏肉をうどんに入れると肉うどんじゃない?それを九州ではかしわって言うんです。それにプラスごぼてんが入っている。

一作:あれ、じわっと出汁が染みていて美味いよね。

橋本:かしわうどんの話でボクが一番心に残っているのが、亡くなられたシーナさんと横浜の「サムズアップ」で御一緒させていただいた時。
ボクが「鳥栖出身です」って言ったら、「鳥栖のかしわうどんは美味しいわよね」って言ってくれた(笑)ミュージシャンも皆、鳥栖で乗り換えするからよく知っていたんでしょうね。

一作:シーナさんは九州なの?

橋本:そうですよ。
(福岡県北九州市若松区出身)

一作:そうだったんだね。


河内一作

橋本:鮎川(誠)さんは久留米出身で、九州大学卒業ですよね。
ボクは高校から福岡の東にある大学へ行って、そこが海の近くということもあって、サーフィンをやるようになって、

一作:海はどこになるの?

橋本:日本海。玄界灘です。
たまに小倉の方にも行ったりして。

一作:長崎の海には行かないの?

橋本:台風の状況によっては長崎にも行きました。
その辺の九州の海は、大袈裟ではなく、ボクらが開拓者だったと思います。

一作:いくつ頃?

橋本:19歳かな~?
大学に入ってからだから。
高校の頃は、西鉄グランドホテルやニューオータニでボーイのバイトをしていて、その時、テーブルマナー等を覚えました(笑)
で、コックさんがに凄く憧れて(笑)

一作:高校時代は悪かったんじゃないの?(笑)

橋本:悪くはないですよ(笑)

一作:喧嘩三昧だったとか?(笑)

橋本:ボクはピースですから(笑)
他人を殴ったことなんてないですよ。
で、コックさんに憧れて、通っていた高校のサッカーで有名な先生に相談したら、「コックはやめとけ!」って(苦笑)。
まあ、拒否されて、大学に行ったんですけど、あの時その道に進んでいれば、後のグルメブームと丁度タイミングが合ったんですよね。

一作:オレがプロデュースしたレストランでシェフやっていたかもね(笑)

橋本、片岡:ガハハハハ(爆笑)

橋本:そうですよね(笑)
あの時、本当に料理の道に行きたかったんです。

一作:80年代に立ち上げた、青山「CAY」あたりで料理やってもらっていたかもね?(笑)CAYの頃、橋本くんはいくつだったのかな?

ラジオアダン:25~6歳ではないでしょうか?

一作:そうか、十分ありえたね(笑)
そう思うとかっちゃんは若いんだよな。
役割的に仕切り役が多いから年齢を勘違いしてるけど、実は若い(笑)

橋本:片岡さんは落ち着いているからね(笑)

片岡:一作さんがいた頃のCAYのスタッフでしたら、(佐藤)貴幸くんが同い年ですね。

一作:貴幸ね。あいつ元気かな?
話しは戻るけど、料理を諦めて、なぜファッションの方に行ったの?その切っ掛けを教えてよ。

橋本:ボクの場合、1年間完全に確信犯で遊んじゃったんで、トータル5年間、波乗りと、下手なりのバンド活動に終始して、

一作:どんなバンドをやっていたの?

橋本:キャロルやったりYMOやったり、

一作:全然、サーフ・ミュージックじゃないじゃん(笑)

橋本:ハハハハハ(笑)
あと渡辺香津美もコピーしたな。

一作:なんでサーフロックをやらないの?

ラジオアダン:あの時代、フュージョンとニューウェーブがごっちゃな時期があったんですよね。高中正義を聴きながらもプラスティックスも聞くみたいな(笑)

橋本:そうそう。

一作:でも、ハワイのカラパナなんてバンドは既に人気があったじゃない。

橋本:ええ、勿論聴いてました。ライブも見たし。
ヴォーカル(マッキー・フェアリー)は亡くなってしまいましたね。
まあ、基本はサーフィンしかしていないに等しいですね(笑)
それで、海の先輩達が一杯出来た中で、稲妻のマークで有名なサーフブランドの九州支社の所長がいて、「うちにこいよ」って、声を掛けてもらって働くようになったんです。

一作:成る程、そこから今の洋服屋としての人生がスタートした訳だ。

橋本:そうなんです。
だから、遊びの中からなんですよね、ボクの場合は。

一作:サーファーってのも独特だよね。
ストレート過ぎるかも知れないけど、なぜサーフィンをするの?

橋本:やはり自然を相手にしたスポーツだからやるのだと思います。
テニスならコートさえあればいつ行っても出来るけど、サーフィンは波があったりなかったりするものですから。その辺がどんどん深く入って行く理由だと思うんです。
「あの時の波はよかったよな」と強く記憶に残る。

一作:こう聞いていると、やっぱり海の魅力なんだろうな。

橋本:その通りです。
片岡さんがやってらした媒体88にも通じるのですが、その海にテトラポットが入ってサーフィンが出来なくなってしまうだとか、ボク等は日本海でやっていたから、韓国からの、ペットボトルとか洗剤の容器だとかゴミが一杯打ち上げられたり。
その辺の海の汚れが凄く嫌いで。

一作:そうだよな。

橋本:そんなことが切っ掛けとなって、環境への意識が自然と自分の中から芽生えてきたんです。
あと、いい波にタイミングを合わせたいから、常日頃から健康をキープするというのが、サーファーの根本的な生き様だと思うんです。
いい波が来ているのに体力がなくて乗れなかったら意味ないですからね。
ですから、常にコンディションを整えといて、明日やるとなったらすぐに入って行けるという感じで。

一作:波の状態は情報が入るんだ。

橋本:ええ、今はネットで入るようになりましたけど、昔は自分で天気図を眺めて予想していました。

一作:たまには二日酔いでデロデロなんてこともあった訳でしょ?

橋本:ハハハハハ(笑)
昔は、夜飲んで、そのまま寝ずに行ったりも勿論しました(笑)
「明日、波乗りしたいね」となったら、一睡もせずに宮崎やら鹿児島やら、長崎に行ったりしてました(笑)
日本海って冬しかいい波がないんですが、寒い。
太平洋側は、夏場は裸で出来るような暖かい所を探して。
といいながらも、その頃のボクは、サーファー、サーファーした格好はあまりしたくなくて、DCブランドを着てテクノカットにして(笑)

一作:橋本くん世代は、テクノカットが凄く流行ったもんね(笑)

橋本:そんなサーファーでした(笑)


橋本浄氏

◇◆◇◆◇
 さて、やっと橋本のその後の座標の入り口まで話が進んだところで、片岡の方も撮影の目処が立ったようだ。
 橋本と真逆とも云える、3歳下で、東京のど真ん中に生まれた生粋の都会っ子、片岡はどんな道程で媒体制作という現場に入り込んで行ったのだろうか?
◇◆◇◆◇

片岡:ボクも一部、今の橋本さんの話や時代背景と噛んでいるけど、やはり、ちょっと下の世代という感じですね。

橋本:片岡さんは出身は東京ですよね?

片岡:ええ、ボクは東京です。

橋本:正直言って九州の鳥栖の田舎者と東京の人では、3~5歳は精神年齢も情報量も違うと思うよ。
ボクは片岡さんより3歳上だけど、もしそのまま鳥栖にいれば、その辺は完全に同等、いや、それ以下だったかもしれない(笑)

片岡:ボクの場合は、高校生の終わりくらいにディスコが流行っていた世代で、「ツバキハウス」、「玉椿」等に、先ほど橋本さんがお話されたようなテクノカットをしたファッション系の人達が通っていたんですけど、当時のボクにとってその手の人達は怖く感じて、新宿の「カンタベリーハウス」等に行くようになりました。で、そこに行くと、2000円食べ放題で満腹になるという(笑)

橋本:それそれ(笑)それに九州の若者はめちゃ憧れたんですよ(笑)
バイキング方式のディスコめし(笑)
真似た店が数件あるにはあったけど、しょぼいし、あまりに皆が殺到して、すぐに売り切れになってしまう。ガハハハハ(爆笑)

一作、片岡:ガハハハハ(爆笑)

一作:そうか、かっちゃんは東京なんだ。

片岡:ずっと目黒。
まあ、ボクの場合、そんなにディスコに入り浸ったいた訳じゃなくて、数えられる位しか行ってないんですけどね。行くモチベーションも飲み放題食べ方の魅力にやられてですから(笑)
「YMCA」なんて曲がかかっていて。

一作:なに、それ?

片岡:ヴィレッジ・ピープルというゲイ文化をテーマにしたグループのヒット曲です。 あとやっぱり、アース(・ウィンド・アンド・ファイアー)。
その後、大学生になって身近に六本木に行く人間が現れて、多少は六本木にも足を踏み入れましたが、ボク、大学2年で既に編集のバイトをしていたんで、その後はあまりディスコには行かなかったですね。


片岡一史氏

ラジオアダン:バイト時代に編集されていたのは、伝説の自動販売機エロ雑誌「ヘヴン」でしたっけ?

片岡:いや、違う。「ぴあマップ」の手伝い。

ラジオアダン:そうでしたっけ?では、otoさん(ex.じゃがたら、サヨコオトナラ)とはそこで?

片岡:「ぴあマップ」の時ですね。
制作を担当していた編集プロダクションの社長が富山県出身の方で、otoさんの高校の同窓生。一緒に上京して来た仲なんです。otoさんが明治で、その社長は青学。青学で軽音をやっていた人。
(江戸)アケミさんが入院していた時期で、実質、じゃがたらは休止状態。そんなこともあって、otoさんは編集部にライターとして原稿を書きに来ていたんです。

一作:otoさんがじゃがたらの頃に、かっちゃんは大学生か。
やっぱり、かっちゃんは若いね(笑)

片岡:ハハハハハ(笑)
otoさんに会ったのが、大学2年生だと記憶しています。
それで、その編集部の仲間が、「インドに行こう」なんて言うんで、当然、「ボクも行きたい!」って話になって、初めてインドに行く訳です。
そのインド旅行で会った変わった日本人が三木爺(三木哲志)。
※三木哲志/旧「クーリーズクリーク」、「CAY」、オリジナル「新世界」と一作プロデュース店舗に数多く関わった人物。現在は新生「新世界」音響ディレクター。

一作、橋本:ガハハハハ(爆笑)

一作:たしか、三木くんがインドで病気になっちゃって、かっちゃんが助けたんじゃなかったっけ?

片岡:ええ、助けたってのはちょっと大袈裟ですけど、ダラムサラで黄色い顔した変な日本人がいた訳ですよ(笑)肝炎になっちゃっていて。

橋本:そんな所で会ったんですか!?

片岡:そうなんです。
とあるレストランで会った瞬間から、「この人、なんかやばい人だな」なんて思って(笑)
とにかく、そこのレストランには日本人はボクと三木さんしかこないような所で、ボクが一人でめしを食べていたら、ボクからか?三木さんからか?どっちから声をかけたのかは忘れましたが、話すようになって、「これから病院に行くんだけど」なんて嘯くんですが、旅行中だから当然こっちも暇じゃないですか。それで、チベッタの病院まで同行して、三木さんが薬をもらう訳ですよ。

ラジオアダン:もうその時点で発病していたんですか!?

片岡:ええ、既に肝炎でした。
で、「薬飲むから部屋に行こう」と誘導されて、三木さんの宿泊先の部屋に行ったんですけど、かなりの安宿で(笑)その部屋で、三木さんが煎じ薬を煎じるんですけど、目の前が完全に通路なんです(笑)

一作:三木くんに似合い過ぎだね、そのシチュエーション(笑)
そうか、三木くんはその頃から既に不幸だったんだ(笑)

橋本、片岡:ガハハハハ(爆笑)

片岡:で、話をしていたら、カルカッタからバンコックまでの飛行機が偶然一緒で、「じゃ~2週間後にもう1回バンコックで会おう」ということになって、

ラジオアダン:初対面としては気が合ったんですね。

片岡:まあ、そうですね。
そんな流れで、コサムイに一緒に行って2週間ぐらい過ごしたのかな?その後、ボクだけが先に帰国したんです。
別れる時に、「日本に帰ったらまた会おうね」なんて約束するんですけど、当時は携帯電話もないし、男同士って密に連絡なんてしないじゃないですか。

一作:それ、いつの話になるの?

片岡:ボクが22歳の時ですから、……、あっ、だからCAYオープン前夜な頃です。

一作:そうか、最初のクーリーの後に、三木くんはまたちょっと旅したんだよね。

片岡:そうそう。

一作:かっちゃんとオレは、クーリーの時には会ってない?

片岡:会ってないですね。
当時、一作さんがボク周辺の人で会っているのは、ボクが在籍していたカメラマン事務所の先輩カメラマン達ですね。
インドから帰って、カメラマンのアシスタントをやりだして、青山通りを歩いていたら、三木さんとばったり会ったんです。

橋本:へ~、凄い縁だね。

片岡:その時、CAYが出来たばかりで、「ジェームス・ブラウン×細野晴臣」の対談ってあったじゃないですか?その日だったはずです。

一作:あっ、分かった、記者会見のパーティーね。あったあった。
JBの名言、「闘うよりは踊りたい」発言があった時だ。
でも、直後に暴力振るって捕まるんだけどね(笑)

橋本、片岡:ガハハハハ(爆笑)

片岡:そうそう、その時に再会して、「オレ、店始めていてさ~」って、

ラジオアダン:例の、自分が全部やってる風に?(笑)

片岡:ガハハハハ(爆笑)
そうそう(笑)

一作、橋本:ガハハハハ(爆笑)

片岡:「今日は細野晴臣が来ててさ~」なんて感じで(笑)

一作:自分が直電で、「ハロ~JB!?」くらいなこと言うからな(笑)

橋本、片岡:ガハハハハ(爆笑)

片岡:「オレと友達が始めた店にさ、JBが来てさ、今やってたんだよ」なんて感じで(笑)

橋本:三木さんは出身はどこなんですか?

ラジオアダン:子供の頃はお父さんが転勤族で方々行ったみたいですけど、基本、神奈川の藤沢ですね。

片岡:まあ、三木さんの名誉もあるし(笑)道端での立ち話なんでそんなに深い話はしてないですけど(苦笑)「そんな店なんで、今度遊びに来てよ」なんてことでその日は終わったはずです。

◇◆◇◆◇
 1985年青山の一等地にオープンしたアジアン・レストランバー「CAY」。
 飲食店の概念を遥かに越え、伝説のライブやイベントが数多く行われていた“夜の遊び場”そのものCAYは、河内一作が参加した飲食店舗プランニングで世間的評価を最初に受けた作品と云ってもいい。
 そして、この時代の先鋭空間で、面識はなくとも、橋本、片岡の2人は無意識の内に既に擦れ違っていたようだ。
 毎夜乱痴気騒ぎを繰り返す狂乱の80’トウキョウ。当時、若く勢力的だった2人から、懐かしそうにレギュラーな夜遊びの日々が昨日のことのようにポンポンと飛び出す。
◇◆◇◆◇

片岡:CAYに行きたいのはやまやまだったんですけど、やはり、若年のボクには敷居が高くて……。そんな中、一作さんの前の奥様と話していて、たまたまインドの話になって、「そういえば、私の知り合いがこの前、インドに行って肝炎になって帰って来たの……」なんて言い出して、「そうなんですか。ボクもインドでそんな人と出くわしたことがありますよ」と(笑)特徴を聞いたらどうも風貌が似ていて(笑)で、「その人、三木さんっていいませんか!?」、「そう三木くん!!」って。

一作、橋本:ガハハハハ(爆笑)

片岡:それで、「今度、一緒にCAYに行きましょうね」ってことで連れて行ってもらったんです。
あと、丁度その頃、うちのかみさんが「SWITCH」の編集部に入って、そっちの、稲田(英昭)さん、菊地(崇)氏ラインに混ぜてもらったり。

ラジオアダン:CAYでは、一作さんとすぐに話すようになりましたか?かなりの年齢差がありますよね。

片岡:まだ小僧でしたから挨拶程度ですね。
その割には「88(いのちの祭)」の企画の話等は耳に入ってきていて、「八ヶ岳どうしようかな?」なんて思案していました。

橋本:ボクが上京したのが87年で、前にも一作さんに話したことがあるけど、とにかくCAYのライブが楽しみでしょっちゅう行っていた。

ラジオアダン:87年といえば、東京でもやっとオーガニックな流れが出て来た時期ですね。

一作:最初のクーリーで既に芽生えてはいたけどね。
まあ、と言っても全然身に付かない(苦笑)
要は、思想だけのオーガニック。実際にそこにいたオレが、本当にいいものなのか分からないんだから(笑)落し所もどこにもなかったしね。
いのちの祭にしても、「よかった!」って人も沢山いるだろうし、その逆の感想を持った人も同様にいる。

片岡:一作さんと一緒にCAYを立ち上げた宮川賢左衛門さんに、「君もこれを読みなさい!」なんて薦められて(笑)いのちの祭が切っ掛けで、広瀬隆さんの書籍「危険な話」を知ったり。

一作:あの頃はサブカルの連中の間であの本が流行っていて、オレも広瀬さんの講演をデートに使ったり(笑)

橋本、片岡:ガハハハハ(爆笑)

片岡:橋本さんに執ってのCAYでの印象的なライブはだれですか?

橋本:ジミー・クリフ。

片岡:ああ。

橋本:ボ・ガンボスの、亡くなられたどんとさんが最前列にいて(笑)

一作:あのライブの企画を持って来たのは、亡くなったPAの小野(史郎)ちゃんだよ。

橋本: あと、パパ・ウェンバ、アロー。

片岡:ボクもどちらも見ました。

橋本:ワールドミュージック、特にフレンチ系が旬だったもんね。

片岡:パパ・ウェンバにはガッツリやられました。
あと、なんていってもネヴィルス(ネヴィル・ブラザース)。

一作:ラウンジ・リザーズは見なかった?

橋本:見れてないですね。
ネヴィルスは勿論見ましたよ。

一作:ライブバンドとしての全盛期。グラミー賞を取る前。
初来日は、まだCAYはなくて、渋谷「ライブイン」でやったでしょ。それもオレは亡くなったコピーライターの(和志武)純ちゃんと行った。

橋本:同じニューオリンズのDr.ジョンも見ましたね。

一作:同じくニューオリンズの歌姫アーマ・トーマスのライブも素晴らしかった。

片岡:あの頃、ライブ終了後もSWITCHチームと残って飲んでいると、大概、三木さんが「花」(喜納友子)か「蘇州夜曲」(雪村いずみ)をBGMとしてかける(笑)

一作:まあ、今からすれば贅沢なんだけど、ライブに関しては、「最初と最後をちゃんとしようよ」ということで、終了後にすぐ客出しをするんじゃなくて、「余韻を楽しみながら飲もうよ」とね。あれはあれでよかったと思うけどな。

片岡:あとなんといっても、出演者のサインで埋められた壁がよかった!
そうだ、今思い出したんですけど、一作さんが最初に退店したその後、スタッフが大量離脱した時があったじゃないですか。その時、貴幸くんに、「壁の写真を撮ってくれない?」って頼まれて、2日がかりで撮影したんです。

一作:えっ?撮ったの?
それ、まだある?

片岡:貴幸くんが持ってると思いますよ。
まだ、フィルムの時代でフィルムごとあげたから。

橋本:それは貴重な写真ですね。

片岡:全景を撮った後に、それぞれのアーティストのサインをディティールとして全部撮りましたから。

一作:それ、宝の持ち腐れだよ(笑)
だから、オレよく言うけど、88年が境なんだよな。あくまでもオレに執ってだけどね。
88年でCAYを出て、そこには、いのちの祭も一つの要素としてあるんだけど、自分の中で一区切りがあったと思う。
いうなれば、精神世界とヒッピー・カルチャーの瀬戸際に立っていた自分が一旦そこから離れたくなった。

片岡:あの頃の精神世界って、正に精神世界のみって感じでしたもんね。

一作:80年代って、物質にゆくか精神にゆくかで、どっちにいっても金は潤沢にあって享受してるんだけど、どっちに行っても反発しちゃう感じだった。

橋本:(進行役に向かって)その頃、CAYの最寄りのクラブ「MIX」にも皆さん頻繁に行っていたとか。

ラジオアダン:ええ、それこそCAYのライブの後に、稲田さんや、菊地さん等と行ったりしてました。

一作:うん、あそこもよく行ったね。

片岡:行った、行った。

ラジオアダン:後に知り合うことになる、ハッピー・コンプリートという企画屋ユニットがプロデュースした店で、最初は暇だったんですけど急激に人気が出て、酸素不足でライターの火が着かないこともありました(笑)

一作:地下で音も出せて、ロケーションもよかった。

ラジオアダン:あと当時のクラブでは珍しくフレッシュジュースを使っていて、CAY上がりで美味しい酒をたらふく飲んで来た我々にも対応出来たってことも頻繁に行った理由ですね。

一作:当時のアフターは、MIXかサルパラ(『サル・パラダイス』)でしょ(笑)

◇◆◇◆◇
 CAYの眩しくもあった都会の幻影の隙間からもう一つ、正にオルタナティブな芽が育ち、1988年8月一つの形となって八ヶ岳に結実する。
 「いのちの祭」。
 この祭は、現在の野外フェスの雛形ともなる未来を見据える座標軸を既に有していた。 
 88年に指し示した指の先とは、
 “ノーニュークス”。
◇◆◇◆◇

片岡:橋本さんはいのちの祭と関わりがあったり参加したりしましたか?

橋本:年齢的には参加しても不思議じゃないけど、濃い~ぃ精神世界のイメージがあって、どっぷりは行けなかったね。

一作:まだ若かったかっちゃんこそどうやっていのちの祭を知ったの?

片岡:だから、CAY周辺の人達皆がその話をしていましたし、前述したような経過で、広瀬さんの著書も読んだし。それで、「どうしようかな~、行こうかな~」なんて思案しているところで、急な仕事が入って行けなかったんです。

ラジオアダン:あの時の、ヘッドライナーは喜納(昌吉)さん、南(正人)さん、

一作:あと、喜多郎。

片岡:上海バンスキン(シアター自由劇場)もラインナップされていましたね。

ラジオアダン:賢(左衛門)さんは、それで自由劇場の皆さんと親しいんですね。

一作:深作欣二監督が「上海バンスキン」の映画版を松坂慶子主演で撮ったんだけど、その作品に対して自由劇場の人達はかなり否定的だったの。
そこで、串田和美さんが監督、制作で自分達で撮り直した。その時に、「CAYがキャバレーのロケ地として最適だ」ってことで我々も協力させてもらった。
それで、バーターと云うか恩返しで八ヶ岳のいのちの祭に来てくれた。それがいきさつかなぁ。
その流れの中の窓口が賢さんだった。賢さん、当時は元気だった。

ラジオアダン:へ~、そうだったんですね。

橋本:いのちの祭って、以前にあったイベントのリメイクなんですよね?

片岡:えっ、そうなんですか?

一作:うん、橋本くんの言う通り以前からいのちの祭ってあった。
長野県でやっていたイベントで、そこにノーニュークスで盛り上がった東京サイドが元々の長野サイドに持ち掛けたのがことの発端。

片岡:確か、88年の2月に、伊方原発2号機の出力調整への反対運動が結構の勢いで盛り上がり、星川(淳)さんや喜納さんもその運動には参加して、その流れで、喜納さんが、「なんか8並びでイベントをやろう!」なんて言って、いのちの祭に合流して行くんですけど、実は最後まで喜納さんは、“縄文祭(じょうもんさい)”という名称でイベントをやることに頑だった。

一作:イベントなんてものはいろいろ裏にはある訳だ(苦笑)

片岡:それはその一端なんですけど、そうやって、いろんな人のいろんな想いがあのイベントの中にあった。

橋本:成る程……。

ラジオアダン:ぼくの場合、喜納さんは純粋にシンガー・ソングライターとして大好きでしたし、南さんのアルバム「回帰線」は未だ日本ロックの超名盤だと思っていますが、何せ、全体にヒッピー体質が強すぎて、ポスト・パンク、ヒップホップからワールドミュージックという流れどっぷりの当時の自分が、そこに融合することは非常に難しくて、RCやタイマースでの忌野清志郎さんの活動や、ミュートビートの声無きメッセージで、音楽からのノーニュークスに目覚めた感が強いです。

一作:うん、その気持ちもよく分かる。
実際、清志郎さんにも人を介して出演オファーを出したんだから。
まあ、向かう意識は同じでも、彼にはあのイベントの志向は合わなかったんだろうな……。

橋本:そうね。
その後“ロッカショムラ”という言葉に皆が集約されてゆく。

一作:うん。
とにかくあの1週間は坩堝だったから。今、4人で話してきたことの全てがあった。
当時のオレは、「面白いけど、辛い……」というのが正直な感想。重複するけど、その辺から距離を取りたかった。

橋本:その、いのちの祭で言っていた事柄が、3/11で全て現実となり一般にまで一気に浸透した。

一作:元首相までそっちに同調してるんだからね(苦笑)

片岡:喜納さんのライブを始めて見たのもCAYでした。お父さん(喜納昌永)のカムバックに合わせたライブで、素晴らしかった。直後、カメラマンの事務所をやめて業務としての物撮りに従事していたんだけど、当然具合いが悪くなって(苦笑)「やはり、やりたいことをやろう!」と思った時に、喜納さんの初のアメリカツアーの話が浮上してきて、「じゃ~、それ一緒に行っちゃおうかな?」と同行したのが至近距離でのお付き合いの最初でした。

一作:それいつ?

片岡:90何年か……、アトランタオリンピックの前の年です(95年)
デビット・バーン監修で、喜納さんのベスト盤が出たんです。それを記念したのと、あと、アルカトラズからワシントンまでデニス・バンクスがロングウォークをするのにも合わせての渡米。前年、デニスを喜納さんが日本に招いているその縁です。
セントラルパークでは、なんと、ライ・クーダーとジョイントしたんですけど、ライに全然モチベーションがなくダメダメで(笑)

一作、橋本:ガハハハハ(爆笑)

片岡:まあ、その割には話題だけにはなって、むこうの新聞等に大きく扱われたりしました。
その後、ライに、カナダ/トロントのライブ会場のこけら落としのオファーが入っていたんです。アリ・ファルカ・トゥーレとの共作「トーキング・ティンブクトゥ」が話題になっていた時期だったので、アフリカのミュージシャンを招いていたらしいのですが、なんと、内乱で来れなくなっちゃって。
で、結局、「昌吉、メンバーの皆も一緒にトロントに行こうぜ!」みたいな感じになって(笑)急遽、カナダ入りが決まって、ボクも当然、「よし行こう!」と(笑)
で、なぜかここでのライブはライも凄くよくて!!(笑)

一作、橋本:ガハハハハ(爆笑)

片岡:ライも自分が看板だとちゃんとやる訳ですよ(笑)

橋本:そのライブ音源ないんですかね?聴きたいな~。

片岡:どうなんでしょうか?
あと、未だどこにも出してないんですけど、カナダでは「ライ×喜納」のインタビューもやって写真も撮らせてもらって。
ライってイメージより身体が大きくて手なんか凄くでかいんですよ。

橋本:へ~、繊細な感じと思ってたんだけど、そうなんだ。

片岡:帰国後、その記事を掲載する媒体を模索中にのっぴきならない事情に巻き込まれ、暫し、フリーランス活動を中止するはめにボクはなるんですけどね(苦笑)

一作:ムフフフフ(意味深に苦笑)

◇◆◇◆◇
 2人の長く広大なタイムラインもここにきてやっと一作と交差する。
 「ライスペーパー88」。
 片岡が2003年に創刊したフリーペーパーであり、9/11以降、急激にパラダイムシフトした世界を、食、農を軸にサスティナブル(継続可能)な方向へ導く新たなバイブルとして多くの人々の生活指向(田舎暮らし等)に影響を与えていった媒体であった(現在休刊)
 ここで、片岡は発行人&カメラマン。橋本はスポンサード。一作はライターという三位一体が遂に実現する。
◇◆◇◆◇

片岡:そんな流れで、会社(株式会社ワッカ)を設立して、やはり喜納さんと至近距離で付き合った影響なんでしょうか?「この会社は許される限りでやりたいことはやろう!」なんて社風が最初からありました。
ですから、88初代編集長の鈴木完くんも自然と、「フリーペーパーをやりたいんです」等とボクに言ってきて、アイディアが二転三転する中、2人共、お米通販の生産地に行く機会が多い時期で、「お米や畑をテーマにしたらどうでしょうか?」と完くんが提案し、ボクも、「それは面白い」と思って即OKを出して動き出したのが「ライスペーパー88」です。
当初、なんの実績もないから、「とりあえず0号を作ろう」と、強引に作って、

一作:もろ簡易な0号(笑)

片岡:ええ、中野(“スペースマン”雅蔵)さんの所(千葉県長柄町)に行って、インタビューして、

一作:オレが未だ書いてる連載シリーズ「日々トリップ」(デイトリップ)も、あの0号がデビューだもんな(笑)
インクスティックの松山(勲)さんが亡くなられたことを軸に書いたはず。

片岡:そうそう、それで、完くんが、「前関わっていた、フリーメディア『バランス』に熱心に広告を出してくれていた」、

橋本:熱心!?(笑)

片岡:「橋本さんという素晴らしい人がいるので、今晩一緒に会いませんか?その人の高校の後輩で、憂歌団の元マネージャーの鉄平さんも来ますから」と言ってきて、始めて橋本さんと会うことになったんです。

一作:(大きくため息をついたあ後に)長い話だな~~~~。

橋本、片岡:ガハハハハ(爆笑)

一作:かっちゃん、それ言いたくて、ずっ~~~~~~と今まで話していた訳!?

片岡:はい!(きっぱり)

一作、橋本:ガハハハハ(爆笑)

ラジオアダン:えっと、やっと第一章終わりで(笑)仕切り直します(笑)
88で片岡さんはオーガニックやサスティナブルに舵を切る訳ですが、橋本さんは既にこの時点で、ヘンプを使った洋服作りに邁進していましたね。

橋本:ショップはやってなかったけど、もうやりだしていた。

一作:(急に)今日は楽だな~、勝手に皆が進行してくれるから(笑)

片岡:(スルーぎみに)橋本さんの会社って、媒体やフェスに限らず、自然に、恵比寿NOSや新世界のライブイベントとタイアップしたりする感じがありましたよね?

橋本:うん、まあ人の流れや付き合いだよね。

片岡:それにしても、ヘンプに着眼したのが早かったですよね。

一作:そうそう、なんでそんなに興味を持ったの?

橋本:当然、青年期は、音楽やカウンターカルチャーの至近距離にあるマリファナという物に皆興味を持ちますよね。
大麻、マリファナ、麻、ヘンプと色々な場面で色々な名称があるけど、“ヘンプ”と言うとクロージングをイメージするようになった一翼は担ってきたかな?と自分で言うのはなんですけど思います。

一作:オレが今着ている橋本くんのとこのはオーガニックコットン?

橋本:それヘンプですよ。55(%)ヘンプが入ってます。

一作:着ていて気持ちいいよね。

橋本:ありがとうございます。

一作:こういうのを着ると他のTシャツが着れなくなるよな。

橋本:こういう言い方はどうかとも思うけど(苦笑)、“ヴァイブスが上がる”(笑)

一作:そうだよ!

片岡:ナチュラルハーモニーの河名(秀郎)さんも言っていましたが、「吸うのは色々問題があるけど、ペンプは身につけると身体にいい影響を及ぼす」と。

橋本:科学的にはまだ立証はされていないけれど、「蚊が寄り付かない」なんてことも言われますね。

ラジオアダン:日本固有の宗教である神道は、麻と古代から非常に密接な関係にありましたが、実際に古代の日本人も麻を着ていたのでしょうか?

橋本:まず、縄文時代の象徴である、あの縄は麻を結ったものだよね。

一作:今度はここで喜納昌吉さんに戻る訳ね(笑)

橋本、片岡:ガハハハハ(爆笑)

ラジオアダン:ここで戻ったらこの対談、永遠に終わらないですよ(笑)

橋本:麻布大学にイギリス人教授でパトリック(・Q・コリンズ)さんという方がいて、縄文時代の麻の研究をしている方です。

一作:(給仕しながら)オレは、今日はサービス業に徹するわ。なにも振らなくてもしゃべってくれちゃうんだもん(笑)

橋本:(スルーぎみに)その先生も麻の実でお餅を作ったり、ワークショップなんかも積極的にやっているんだけど、やはり結論として、「日本人は麻と密着した文化を有している」ってことに落ち着きます。
ご存知のように、GHQ以降大麻の吸引が禁止になるんだけど、どんどんレイドバックして行くと、スーパーフードという名称で欧米で麻が食されるようになっていって、逆輸入で日本でもありがたがられている。
話を戻すと、片岡さんがあの時点で、88でお米をテーマに食や農を取り上げたのは、今は同種の本や雑誌が出てきたけど、先がけと云って間違いない。
フリーペーパーですから大手にないコアな部分でやっていたけど、それを大手が租借してパブリシティーと連動させてマスに向かって動かし始めたのが今。

片岡:88以前にもその土壌はありましたからね。

橋本:3/11で逆転じゃないけど、そのカルチャーが全面に出てきて、他人事だった人達も実体験として、放射能問題や田舎暮らしにシフトしだした。

片岡:3/11前の88に掲載された人達の食物に関する感性は、「自分の食べるものは自分で作る」という自己完結型だったんですが、放射能がそこに加味されると、己だけでは終われなくなる。もっと共有することが必要になってくるんです。

一作:食の話からちょっと飛躍しちゃうけど、オレ、グルメっていやしいと思う。
オレ、こうやって店をやってるけどミシュランとか大嫌いだから。
自分が執筆する時も、食い物とか食い物屋の話は書きたくない。店の話ならその店の人の話を書きたい。
この店の何々が美味いなんてのはいやしい根性だと思うんだけど、2人はどう思う?

片岡:非常によく分かります。

一作:“どこどこのラーメンが”なんてのをネタに本にして儲けんなよだよ!ミシュランもそれとなにも変わらないよ。

橋本:食に結論なんてないですよね。欧米と日本でもまるで違うし。
日本は元々、オーガニックや無農薬等の背景の中で、野菜、お米を作っていた人種ですから、そういうものは当然だと思っている。一方、アメリカは広い大地で量産するから、いきなり飛行機で農薬を撒いたりを日常的に目にしている人種ですから、「オーガニックです」と言ったらそこに飛びつく。でも、日本のマーケットはそれとは違います。
元々オーガニックな日本人からすれば、「じゃ~、高額なんでしょ?」とか、「おしゃれね~」なんて、実際とは違うカテゴリーに捉えられてしまう。
最近、こっちからそのズレを説明することを諦めつつあるんです。もう無理(苦笑)受け皿を持っていない人に言っても、“セレブな食べ物”なんてところで終わってしまう。
洋服も、それと一緒で、フェアトレーディング等でもの作りしているところはいいと思うけど、ユニクロを筆頭としたファスト・ファッションが幅を効かせています。後進国で明日の食事にも不安があるような人達の賃金を叩いてものを作って売るという姿勢はボクにはどうにも理解出来ないし、正直嫌いですね。

一作:ユニクロね。最低。
オレ、出身は山口県だけど、同県人として、安倍晋三とユニクロの柳井(正)さんはちょっとはずかしい。

橋本:やっぱり、環境に則った真っ当なもの作りをする人達がボクは好きですね。

片岡:一方、ビジネスとしたら究極なんでしょうね。ですから日本の伝統“きもの”とは真逆な存在だとも云える。
きものの考え方って継続可能な方向性じゃないですか、着古したらまた解して反物に戻して仕立て直して再生させる。

橋本:刺し子文化となってね。

一作:刺し子か~。
いい話だな~、パート2もやろうね、この面子で(笑)

橋本、片岡:ガハハハハ(笑)

片岡:この話は、かの田中優子さんも言っていて、

一作:ジュリー嫁?(田中裕子)

片岡:ハハハハハ(笑)
いや、法政大学の学長さんです(笑)
要は、日本の洋服に対する価値観は破れているからダメだとかではなく、汚い物を着ていることがダサいと。
ですから、“既にある物を繕いながら着ていることはおしゃれである”という感覚が江戸時代からあった。
明治時代や戦時中でも、繕いをする人達は女子の内職として生計もなり立っていた。

橋本:今で云うリメイク屋。

片岡:そうです。
それが戦後滅び始めた。

橋本:使い捨て文化。
実際、ユニクロの袋も使い捨てでしょ?
今の片岡さんの話と通じるけど、今また古着の人気が上がってきている。
昔のヴィンテージとしての高額な取引ではなく、安めの価格設定の古着です。アメリカで云うところのスリフトショップ。
これ、「ブランドをやってる人間が言っていいものか?」と悩むんだけど、作るよりある物で回すというのが一番環境に負担がないよね。
これは言っちゃいけないことか!?ガハハハハ(爆笑)

一作、片岡:ガハハハハ(爆笑)

◇◆◇◆◇
 継続可能社会を、一作のスペシャリティーである飲食と、橋本の正業、被服で熟考し一定の深層に到達したこの時点で、楽しい時間も残り僅かとなってしまった。
 さて、最後はなんといってもこの話題。
 イベント企画として2人に参加してもらった、一作プロデュースのライブシアター西麻布「新世界」から連なる、現在進行形「バー黄昏」での、“遅れてきたDJデビュー”。
 このあたりのネタを肴に大円団を迎えられば、今宵も3人に執っていい夜になるのではなかろうか??
◇◆◇◆◇

一作:新世界……。
~百年経ったらその意味分かる~って言って、前衛を定着させるのは今の時代は難しいね(苦笑)

ラジオアダン:新世界では、橋本さんには毎年恒例のオフィシャル忘年会という名のミニフェスをやってもらって、年間で一番の集客だったはずです。対して、片岡さんのイベントは一番の社会派でした。

一作:それ、入らないってことじゃないの?(笑)

片岡:そうなのかな~、すいません(笑)

一作:かっちゃん、全然大丈夫。もっと悲惨に入らないの一杯あったから(笑)

橋本、片岡:ガハハハハ(爆笑)

ラジオアダン:片岡さんに大いに助けてもらったのは3/11直後。
NGだらけの状態で、とにかくイベントを組みたくても出演者が六本木に辿り着けない。そこでの秘策が“チャリティー”としての急造イベント。相当数これで数稼ぎました。

片岡:まあ、ボクがというか当時のうちのスタッフ達ですね。

一作:まあ、あの時期は痺れたね。

橋本:でも新世界があったのはよかったですね。本当に面白かった。

一作:金にはならないけどね(笑)
でも、あの3/11直後に出てくれた人達にはオレは凄く感謝してますよ。
大勢、東京を離れた中でなんだから。
白石かずこさんのステージなんて未だに脳裏に焼き付いている。

片岡:正木(高志)さんも直後に熊本から来てくれましたね。サヨコさんとナラさんのライブもあって。

ラジオアダン:そんな新世界の後に、規模は縮小されたとはいえ、一作さんが強引に作った音の遊び場「バー黄昏」で、お2人には引き続きお付き合いさせていただいています。
しかも、同時DJ高齢デビューという快挙!(笑)

橋本、片岡:ガハハハハ(爆笑)

片岡:橋本さんがやるんだったらボクもやろうかな~?ってことで(笑)

橋本:オレも皆がやるんだったらオレもやろうかな~?ですよ(笑)
この歳になって清水の舞台から飛び降りる覚悟で(笑)

一作:橋本くんは声掛けてからやるまで少し時間がかかったよね?

ラジオアダン:慎重派なんじゃないですか?何度も下見やリハーサルして(笑)

橋本:なのかな?(笑)

一作:でも1回やると止まらない(笑)

橋本:ハハハハハ(笑)

ラジオアダン:片岡さんには番組配信でしゃべってからかけるという超ハードワークをお願いしています。

片岡:すいません(苦笑)
でも、楽しいですよ。黄昏。

橋本:新世界、無き後、一人でぷらっと行ける場所がないから、黄昏は受け皿としていいんじゃないかな?

一作:あそこはあんな小さなキャパなんだから、仲間内で遊ぶしかないでしょ?(笑)
まあ、結果はなんかの形でどうせ出るよ。
じゃあ、これからも末長く遊びましょう、ということで今日は忙しい中来てくれてありがとう。

◇◆◇◆◇
 まだまだ、続く3人の遊びの中から生まれる新たなる新世界。
 膨大な数の言葉が交差した夜、なんの結論もまたしても出なかったが、一つの宝石のように輝く小さなポエトリーが手のひらに残った。
 ~交われば結果なんてやがて出る~
 さて、次回3人が揃うのは、近日「バー黄昏」での片岡の八面六臂で行われる配信&DJの6/24か?それとも、橋本の既に手練た近日予定のDJナイトか?
 そんな先のことは誰も分からない。
 なぜなら、人生の殆どの出来事なんて酔っぱらいが酒場で夢想したことを、神様が空模様に沿って暇つぶしにチョイスしているだけだから。

 とぅ・びー・こんてぃにゅーど

@泉岳寺「アダン」

テキスト、進行:エンドウソウメイ

写真:片岡一史(片岡氏掲載部分のみアダンラジオ編集部がスマホにて撮影)


●今回のゲスト


橋本浄/プロフィール
1959年佐賀県生まれ。
1989年、ライトニングボルト退社後、YELLOW DIVISION設立。
地球に優しい独自のオーガニック・クロージングブランド「GOWEST & GOHEMP」の直営店を恵比寿「juzu」にて展開。ファッションだけに止まらず、2011年にはピュア・フレッシュジュースと、マクロビオティックに根付いたフードを提供するデリ「Marugo Deli Ebisu」をオープン。衣、食、音の三位揃ったそのアティチュードは数多くのリスペクトを集める。


片岡一史/プロフィール
株式会社ワッカ代表。1962年生まれ。
1994年、喜納昌吉&チャンプルーズのアメリカツアーに同行。以来、喜納昌吉氏の写真を撮り続ける。2005年より日本で開催されているクラシックカーラリー、La Festa Mille Migliaの写真も手がける。2002年、株式会社ワッカ設立。2003年、フリーペーパー「88」創刊。2005年、フリーペーパー「Lj」創刊。2015年、「88」「Lj」ともに休刊し、新たなる媒体を模索中。


河内一作/プロフィール

山口県生まれ
八十年代から、霞町「クーリーズクリーク」、代官山「スワミ」、青山「カイ」、など、常に時代を象徴するバー、レストランの立ち上げに参加。現在は泉岳寺「アダン」、白金高輪「クーリーズクリーク」、渋谷「家庭料理おふく」、オーナー。酒と音楽、内外の島をこよなく愛する文筆家であり、名バーテンダーでもある。