酔談
酔談 >

「連載対談/『酔談』Second Season vol.3」ゲスト:s-ken氏、上出優之利氏 ホスト:河内一作

「連載対談/『酔談』Second Season vol.3」ゲスト:s-ken氏、上出優之利氏 ホスト:河内一作

 “酔談”。見ての通り、酔って語らうこと。当然、造語である
。酔っているがゆえの無軌道さ、無責任さ、大胆さ、自由さをそのまま気取らず飾らず実況する、それが「対談連載/酔談」の全てである。
 
 アダングループ代表、河内一作が東京の夜のフロントラインに初めて立った、1981年の「クーリーズクリーク」から現在に至るまで、彼が関わった店が、単なる飲食店におさまらず“自由なステージ”としての酒場の背景を演出出来えた“要”ともいえる大切な友人達を毎回招き、テーマなしのゼロベースから美味しい酒と肴の力を借りつつ今の想いを語り尽くすトークラリー。
 さて、今回は近年のアーティストとしてのビックカンバック以来、新作リリース、パーマネントバンドの再始動、回想録上梓、はたまた伝説のイベント「東京ソイソース」の一夜限りの大復活。更にそれにともなう、いとうせいこう氏との新たなイベント「東京ニューソース」の立ち上げと、正にハードワーキングマンを地でゆく音楽プロデューサーs-ken氏(以下敬称略)と、今やライフワークとも云えるs-kenを被写体にした街歩きフォトセッションで氏と多くの時間を共有している敏腕写真家、上出優之利氏(以下敬称略)のお二人をお招きし、年末ならではの豪華版として決行!
 s-ken、一作ともに既にレジェンド枠としてそれぞれの業界で名を知られているが、依然、好奇心衰えを知らず。のっけからその創造の根元が両者から表出する。
 どうやらこの対談、一筋縄ではゆきそうもない。読者の皆様も心してかかるようお願いする。
◇◆◇◆◇

河内一作(以下一作):先週はいとうせいこうさんとの共同プロデュース「東京ニューソース」おつかれさまでした。
それにしても近年、新譜、回想録、地上波のドキュメンタリー番組、パーマネントバンドの再始動。そして、新たなイベントの立ち上げと、もの凄く活発な活動が続いていますが、s-kenに執ってプロデューサーと一人のアーティストとの違いってやはりあるんですか?

s-ken:ぼくですか?まぁ〜、……、

一作:ぼくが初めて(s-ken&ホット・)ボンボンズを見たのがCayの頃の30年前で、それからs-kenがプロデューサー業に移行しずっと空いて、この間の新譜のリリースパーティーでのビルボード東京ライブだから。

s-ken:成る程。
ぼくの場合、中学、高校時代はステージでドラムをやったりしながら、なにしろ唄っていたことは唄っていたんです。
その後、音楽を一回あきらめて、再開する時に思ったのが、「曲を作ることは素敵なことだな」と。そこから作ることに移行していったんです。

一作:うん。

s-ken:ただ、作る方に移行した時代にシンガーソングライターブームがやってきた。
日本では、そのブームの前のグループサウンズは、ビートルズに影響を受けているのに曲は自分達で作っていなかった。

ラジオアダン:タイガースは職業作曲家のすぎやまこういちさんが主要曲を作り、

s-ken:うん。
あと、村井邦彦さんや浜口庫之助さんとかね。
その後に曲を自分で作って唄うという潮流がくる。

一作:うん。

s-ken:だからぼくの流れから言うと、唄うことは当然後追いになる。
学生時代は時々歌っていたけれど、キャリアとしては曲を作るために歌っていたって感じ。

一作:そうか。

s-ken:そこからかなり飛んで、東京ロッカーズ辺りでは、ご承知のようにシンガーというより、……、アジテーターと云うかね。
ですから自分が、「音楽をやっている」って気分をはっきり持てたのは、実は作品的には3枚目のホット・ボンボンズの頃からなんです。

一作:へぇ〜、意外だね。

s-ken:ただ、東京ロッカーズの時に、アジテーター的自分がステージに立って、それを見て熱狂している人達を垣間見ると、「おれのステージングもまんざらでもないな」と(笑)


s-ken氏

ラジオアダン:今回、アーティストs-ken復活の記念碑的作品『テキーラ・ザ・リッパー』のリリースにあたり、キャッチコピーは一作さんのご友人である吉本ばななさんがお書きになり、地上波ドキュメンタリーのナレーションも長年のご友人である佐野史郎さんが担当されたり、肝のキャスティングに実は裏で一作さんが、フィクサー?(笑)、のように動いていたように私には見えたのですが。

s-ken:影のプロデューサーだよね、ハハハハハ(爆笑)

一作:ハハハハハ(爆笑)
いや、おれはただ友達にちょっと頼んだだけで(笑)

s-ken:あのキャッチコピーは、アルバムに関していろんな人達が文章を寄せてくれて、「その中から選ぼうか」ってことだったんだけど、結局はばななさんの文章に落ち着いった感じなんです。
(一作に向かって)ありがとうございます!
お礼を言うの忘れてた(笑)

一作:ハハハハハ(笑)いやいや。

s-ken:佐野史郎さんもあのドキュメンタリーのシナリオに独自の解釈を加えていたとスタッフから聞きました。

ラジオアダン:ええ、「佐野さんの高度な音楽知識が遺憾なく発揮された」と制作の方が言ってましたね。

s-ken:日本の番組制作会社だと音楽の基礎知識がないから。
例えば“ストリート”という言葉が出てくると、今時の街角ストリートライブしか思い浮かばないらしいんですよ。

一作:うん。
だから、さっきs-kenが来る前に、進行役のエンドウくんと話していたんだけど、ストリート、ストリートと簡単に言うけど、それぞれ質が全然違うじゃないですか。

s-ken:ぼくは歌舞伎もストリートだと思っているから。

一作:その通りです。
近年、ストリートという言葉が凄く安っぽくなっちゃって。
だから、ストリートだって、A、B、C、D、Eとピンキリじゃない。「だったらピンのストリートでいけよ!」ということ。
それをEくらいの奴が、「おれはストリートで生きいてる!」みたいに格好付けて言うことに嫌悪感がある。

s-ken:うんうん。
ぼくの場合、若い時に地球を一周し帰って来て思ったことは、「アップ・トゥ・デイトの情報だけで生きることをやめよう」ということなんです。
英米だけじゃなく、時代も超越し、古今東西の全てのいいもの取り入れようと。
例えばジャズにしても、ぼくが、「一番いいな」と思うのはその発生の瞬間なんです。
録音が悪くざわついたブギなんか聴くと、パンクロックがニューヨークのバワリーから生まれたのと同じ匂いを感じる。ぼくがいた当時のバワリーはスラムですから。
女乞食がそこら中にいて、ゴーストップで勝手に他人の車の窓を拭いて25セントもらう。あと、ぼくの写真展にも出品したけど、野良犬もまだいたんです。
だから、パックロックは初めは、“ニューヨークストリートロック”と言う人もいたんです。
アップタウンを超えて川向うのサウス・ブロンクスはもっとスラムで、そこからヒッピ・ホップが出てくる。だから、ファッションの根っこみたいなものは実はそんなところから出てきているともいえる。
ソーホーは後にトレンディーの代名詞になる地域だけど、元々は倉庫街。古いロフトが一杯あったところで、そこでゲイのプロデューサーとゲイのDJで作り上げた伝説のクラブ『パラダイス・ガレージ』でガラージが生まれ、その後ハウスへ引き継がれてゆく。
だから、「ファッションはそういうところからやってくるんだ」って認識はいつも後追いとして出てくるんです。
そんな訳で、今日のカメラマンの上出くんと一緒にやっているフォトセッションも必然的に山谷などに行くことになる。

ラジオアダン:一作さんも一番忘れかけていた頃の、浅草、山谷に一時住んでいましたね?

一作:うん。

s-ken:話は戻るけど、ぼくが言うストリートとはそういうことを言っているんです。

一作:究極的にはs-kenのかっこよさってのはそこなんじゃないかなぁ?あの(本棚のs-kenの著作を指差し)回想録を読んでも、ニューヨークからの帰国後すぐに風呂無しの部屋に住んでみたりさ、なんかああいうのっていいよなぁ〜。おれ、今そうしたいもの(笑)
昔、浅草の千束、吉原近くの一泊1500円の旅館をしばらく借りて住んでいたんですよ。

s-ken:そんな時期もあったんですね(笑)
なんか、ぼくが今一番熱中してることに、話題が急激に近づいてきました(笑)


河内一作

◇◆◇◆◇
 
 なに??早くも意味深な言葉がs-kenから発せられた。
 二人独自のストリートの基準から飛び火した“s-kenが今一番熱中してること”??
 未だ杯も重ねぬまま今回の酔談は早々に深層部へ突入!?!?
◇◆◇◆◇

一作:今までの話と、s-kenがこれから始めることがどう結び付くのかな?

s-ken:今、「東京の本を作ろう」という企画が浮上しているんですけど。
過去の著作は、「昔は面白しろかった」というものは沢山あっても、「現在はこうで、未来はこうなるだろう」という視点で書いたものがあまり見当たらない。
ぼくは80年代の終わりの頃、『異人都市TOKYO』(1988年上梓のs-kenの著作)という本を書いたんですけど、今、浅草に行くと雷門は外人だらけで、すぐ近くの山谷に行くとバックパッカーの街になっていて、その界隈が確実に何かが変わってきている。

一作:そうそう。

s-ken:あの辺は、10年くらい前からそういう街になっていて、で、「どういう本にしようか?」ということになったんだけど。
ニューヨーク時代のバワリーの、「CBGB」で会った奴らは、南のフロリダ、アイルランド、UK、東京と、もう世界各国からやって来た人間でごった返していた。CBGBはニューヨーカー不在なんです。あそこはストレンジャー達によって盛り上がり、一方、サウス・ブロンクスはカリブ移民達で盛り上がっていった。
普通、ヒップ・ホップは、「アメリカの音楽だ」と思うんだろうけど、あれもストレンジャー達、特にカリビアン、あとラティーナ達の力によるものなんです。
だいいち、パイオニアであるDJのクール・ハークがジャマイカにルーツに持ち、グランドマスター・フラッシュもバルバドスという本当にカリブのちっちゃい島をルーツとしている。

一作:そこで『カリートの道』で出てくる(笑)

s-ken:そうですそうです(笑)
『カリートの道』はイーストハーレムを舞台にしてますね。
そう考えると、山谷っていうのは、

一作:あそこはね、多分これから、バンコックのカオサンみたいになってくね。

s-ken:うぅ〜ん。

一作:ぼくがタイに行ってた頃、カオサンはなかったんです。それが今あれだけになっていて。おれは今の方が昔よりいいと思う。昔は日雇いの人達が一杯で。
ぼくが泊まり歩いていた頃は、そんなおじさんが道路に布団ひいて寝ているんだから。

s-ken:その辺りの発想の切っ掛けは、今年の2月に上出くんとフォトセッションに行った時なんだけど。東京ソイソースのライブ当日、エゴラッピンの森(雅樹)くんに、「s-kenさん山谷で写真撮っていたでしょ?」って言われて、「撮っていたよ」と返したら、「ぼく山谷に住んでいるんです」って言うんです(笑)

一作:ハハハハハ(笑)

s-ken:よく訊いたら、山谷でバーを始めたらしい。

一作:それいい、面白い。

s-ken:(上出に向かって)ぼく等が「山谷酒場」に行ったじゃないですか、あの上。

上出優之利(以下上出):えっ?あの上ですか!?

s-ken:うん。
で、最近、映画館も出来たんだよ。ちっちゃい映画館。

一作:へぇ〜。

s-ken:そんなことも続いて、「あそこはもしかしたら、10年後にはあのバワリーになるんじゃないだろうか」と思ったんです。

一作:いやぁ〜、もっと早いと思いますよ。5年くらいでしょ。

s-ken:あっ、そうですか。

◇◆◇◆◇
 なんと、s-kenの現在の興味の対象は、浅草、山谷などのメタモルフォーゼ真っ最中の都市の姿だった。
 最新の大作である自身の回想録を上梓したばかりだというのに、既に80‘sの自作名著『異人都市TOKYO』を越えるべく、都市の変容を主題にした著作を水面下で構想中とは驚きだ。
 そして、そのまだ見ぬ名著の骨格を担うキーワードは、“リバーサイド文化”!
◇◆◇◆◇

s-ken:今ぼくは、東京近郊のリバーサイド文化というのをもっと大きく取り上げたいと思っているんです。
まず、隅田川があって、観音様を中心にいろんな街がある。かっぱ橋道具街、田原町仏具街、ドヤ街山谷のすぐ隣にはセックスの殿堂、吉原ソープ街。蔵前玩具問屋街、浅草橋衣料問屋街があり、秋葉原電気街、御徒町宝石街、上野バイク街も実は案外近い。

一作:うん、近い近い。神田も近いしね。

s-ken:で、ずっと上に上がって行くと荒川に合流する。

一作:都電があって、

s-ken:そうそう。
荒川を沿いには北千住、そして、更に荒川をさかのぼってリバーサイドに赤羽、十条、尾久。

一作:こういう話、普通ミュージシャンはしないよね(笑)

一同:ハハハハハ(爆笑)

s-ken:(特に気にするでもなく)これが実にいいんです。北千住、赤羽、今一番エキサイトするスポットだとおれは思ってる。

一作:ぼくもたまにその辺行きますよ。大好きです。
店を作る時に、自分より上の世代の人達って、割と海外からネタを引っ張ってきて作るんだけど、ぼくの場合、実は下町から引っ張ってくることが多い。

s-ken:成る程、それは面白い。
一作さんね、でもこういう話になると、皆、昔の話しかしないんです。「永井荷風はこれこれこうで」なんて感じで。そうじゃなくて、もっとダイナミックに、「これから東京はどう変わってゆくか?」という視点も入れたいと。
そういう意味ではニューヨークなどはもうマンハッタンは高すぎて誰も住めないところまで来ています。若者がニューカルチャーを発信できない。

一作:成る程ね。

s-ken:安かったからこそバワリーで文化が生まれたという部分もあるし、安かったからサウス・ブロンクスでヒップ・ホップが生まれたという言い方も出来る。
そう考えてゆくと、下北沢は表面的には最もホットな街かもしれないけど、学生街って匂いがしてきて昔のようなヤバさがない。そうなるとやはり隅田川から荒川に抜けるリバーサイドに着眼せざるを得ない。
それと、東京ではないけれど印象深かったのが、上出くんとのフォトセッションで歩いた大岡川沿い。日ノ出町、伊勢佐木町、福富町、全部、大岡川沿い、黄金町から。リバーサイドにギャラリーとラブホテルが乱立し始めていて、日ノ出町の近くにはゲイ専用のエロ映画館なんてものもある。

一作:野毛の方だね。

s-ken:東京では墨田川沿いが動き始めていて、一番動いているのが、北千住、赤羽、十条。あと大山。その辺のリバーサイド文化が、今、非常に面白い。
そんなことをここ最近考えている中で、会った瞬間に、ストリートの話から浅草で一泊1500円の部屋に住んでいた話などされると、「一作さん同士じゃない!」なんて感じになるよ(笑)

一作:ハハハハハ(爆笑)
で、1500円のところに住めなくなって、とうとう一泊800円のところに移った(笑)

一同:ハハハハハ(爆笑)

s-ken:流石に今はその値段設定はないですね。

一作:そうですか、ないですか(笑)

s-ken:それと今は生活保護を受けている人達が増えてしまって、その人達が安いところを独占しちゃうから千円台では泊れなくなってしまったんです。

一作:浅草も海外からの観光客が急激に増えたから、昔のラブホテルがバックパッカー用に使われているみたいですね。改装したのではなく、そのまま使ってるらしい。家族で泊ることもあるとか。

s-ken:それが彼等には受けるんじゃないですかね。

一作:そうそう、逆にね。
でも窓もない(笑)

s-ken:ラブホテルなんて英語自体がなし(笑)

一作:ハハハハハ(爆笑)
だから、「家族4人でダブルベットに寝るのかなぁ〜?」なんて思っちゃって(笑)

s-ken:まあ、欧米の奴らは通り一辺倒の宿は嫌で、そういうの探すことが多々あるから。

一作:うん。
浅草から千住と大きく変わってきているし、ああいう海外からの人達は俗に云う都心よりあの辺の方が安くていいんだろうな。
おれもたまにひとりでぶらっとあの辺に行くけど、やっぱりミステリアスですね。
千住から南千住の裏の方。結構歩くとコリアンタウンがあって、焼き肉屋街があって、更にずっと行くと曳舟になる。“ぬけられません”って。

s-ken:そうそう。
いわゆる川向うのリバーサイド、滝田ゆうの旧鳩の街。東向島が、『濹東綺譚』の旧玉ノ井。

一作:深川七郎さんの今川焼屋はどこだっけ?あの辺じゃなかったっけ?
おれ本当のこと言うとああいうことやりたいの。
注:今川焼屋『夢屋』。昭和46年曳舟駅近くで『楢山節考』等で著名な小説家、深川七郎が開業。

一同:ハハハハハ(爆笑)

一作:本当は、こんな店なんてどうでもいいです。
自分で深沢さんみたいにやりたいの。考えてるのは“おやき”。おやき屋を自分でやりたい。

ラジオアダン:おやきって一体なんなんですか?

一作:長野のおやき。
高菜とか入っていて炭火を起こして焼いて、

ラジオアダン:テイクアウトで売る感じですか?

一作:うん、窓口があって売る感じ。
そこの親父やりたいの(笑)

一同:ハハハハハ(爆笑)

◇◆◇◆◇
 一作の見果てぬ夢(?)で、ワンクールから早々にヒートアップしたトークセッションが一旦緩やに帰着。ここから急激に二人共通のリスペクトの対象である著述家、詩人に話題は移行する。
 その人物とは、あの“金子光晴”。
◆◇◆◇

一作:s-kenの回想録を読んでいて、〜ニューヨークから帰って来た途端、女房が、「離婚してください」と言った〜、って一文、

一同:ハハハハハ(爆笑)

一作:あれ、超うけたんだけど。

s-ken:ハハハハハ(爆笑)

一作:あれは正に金子光晴。

s-ken:そう?

一作:光晴がほら、女房を置いて旅して帰ってきたらもう女房はいなかった。

s-ken:ぼくの場合、しかたないから大塚にアパートを借りて、チンチン電車で三ノ輪で降りて、山谷で一杯やってるところが一作さんには面白いのかな?(笑)

一作:そうそう、「しょうがねぇ〜なぁ〜」みたいな感じのところがさぁ(笑)
おれもアジアを旅して帰った時に、彼女から、「出てってくれ!」って言われて、

s-ken:ハハハハハ(爆笑)

一作:しょうがないから、「はい、すいません」ってあやまって。
そうなんです、ぼくが思うに金子光晴こそ完全にストリートなんです。

s-ken:あれね、20代の時のぼくはなぜあんなにも金子光晴に惹かれたのかなぁ。
あの人の著作で、弟子の聞き書きのエロ話もなかなか面白い。あと、なんといっても『どくろ杯』。

一作:s-kenの場合、あの海外のシチュエーションで金子光晴を読んでいるところが凄いよね。

s-ken:今でもよく覚えているけど、ロサンジェルスに行く前に河村要助さんが餞別としてロス・マクドナルドの『一瞬の敵 』って本を贈ってくれて、正にロサンジェルスの街が出てくる話。それと金子光晴の本を持って行った訳です(笑)
で、読んでいると金子光晴ってもっと読みたくなる。しょうがないから、寄稿していたライトミュージック編集部に連絡して更にどんどん送ってもらっていた。

一作:文庫は中公文庫ね、光晴は。

s-ken:はぁ〜、そうですか。
ぼくは金子光晴を72年くらいから読み出すんだけど、ご本人は数年で亡くなってしまうんです。正にぼくがロサンジェルスにいる時ですね。

ラジオアダン:s-kenさんが作っている音楽とかなり隔たりはありますが、高田渡さんも金子光晴さんに傾倒されていました。

s-ken:高田渡さんの『系譜』ってアルバムは大好きですよ。
あの人は自分であまり詩は書かないけれど見立ての能力が非常に高い。

一作:うん。山之口貘にしても。

s-ken:ぼくはあの曲(『生活の柄』)をニューオリンズ的に解釈し中山うりに唄わせました。「ドクター・ジョン的に解釈したらどうなるのかな?」なんて思って(笑)

一作:へぇ〜、それは凄い。

s-ken:ベースはミュートビートの亡くなった松永(孝義)くんに弾いてもらった。

一作:彼は素晴らしいミュージシャンでしたね。
ぼくの店のアダンって名前も山之口貘の詩から引用したんです。

s-ken:そうだったんですね。
ぼくも何冊か詩集を持っていますよ。山之口貘もいい。

一作:いい、素晴らしい。
『生活の柄』こそストリートです。

s-ken:そうです、ある種の放浪性ってものが。だからボブ・ディランにしても、マーティン・スコセッシが撮った映画(『ノー・ディレクション・ホーム』)で如実に現れているけど、実はあの映画の主な物語は幼い時から始まって、『ライク・ア・ローリング・ストーン』を作る前後3年くらいが一番スポットが当たっているんです。
要は、気の弱い青年が変身してゆく話。
「ぼくの本当の故郷はここではない、もっと違うところへ行かなければ」という、

ラジオアダン:これは役得なんですが、わたし、s-kenさん宅で、『ノー・ディレクション・ホーム』をs-kenさんの解説付きで見させて頂いたことがあるんです。

一作:それ凄いじゃん。それおれにもやってよ(笑)

上出:活弁みたいな(笑)

ラジオアダン:副音声というか(笑)

s-ken:自身の新作を作る時、勿論、『ライク・ア・ローリング・ストーン』が収録されている『追憶のハイウェイ61』は好きだったんですけど、敢えてそれ以前の作品も聴いてみたんです。そしたらそれはそれでいいんです。
まあ、流石に一番最初の『朝日があたる家』なんてやってるのは今イチでしたが(苦笑)

ラジオアダン:先日、s-kenさんの親友、じゃがたらのOtoさんとお話する機会があって、「なんでボブ・ディランに影響を受けて、あんな曲しか日本のフォークシンガー達は作れないの?」と手厳しく批判されてましたが、s-kenさんも以前同様のお話をされていましたね。

s-ken:ボブ・ディランを好きな人は日本でも一杯いる訳だけど、彼等は『ライク・ア・ローリング・ストーン』という曲を象徴としてないんじゃないかな?あの曲がヒットチャートの1位になって、「あっ、そうか」と。「ラブソングじゃなくてもいいんだ!」って勇気が出たと思うんです。
一作さんも親しい写真家のブルーズ・オズボーンが以前言っていたけど、「日本人はプレスリーのかっこよさをラスベガスでフリンジ付きのジャンプスーツで唄っていた頃に象徴付けるけど、彼が一番かっこよかったのは間違いなく1958年なんだよ」って言っていた。
ですから、日本のフォークシンガーの多くはボブ・ディランの『風に吹かれて』が好きなんじゃないでしょうか?

一作:成る程。
その辺は音楽だけの話じゃないね。

s-ken:だからこそ高田渡さんの素晴らしいところは、ボブ・ディランに執ってのジャック・ケルアックとして山之口貘を見い出したことです。
ボブ・ディランが生まれついて持っていた、「おれってこんな男じゃない、もっとこんな男にもなれるんだよ」という気持ちは評伝的な本にも書いてあるけど、ミネソタ大学に入学し即休学してグリニッチ・ヴィレッジに出る。3ヶ月経ったところで一旦戻るんだけど、故郷の友人達の証言は異口同音に、「全くの別人になって戻って来た」と言っている。
ロバート・ジョンソンが、「悪魔に魂を売った」なんて嘯いたらしいけど、それと似た感じじゃないですかね?そこで、ボブ・ディランってものが出来上がったんだと思う。

一作:いい話だね。

◇◆◇◆◇
 ミュージシャンが多くキャスティングされるこの酔談だが、一作がここまで突っ込んで音楽話をすることは稀だ。
 やはり国内随一とも云えるその音楽読解力で、100タイトル以上の良質な音源をプロデュースしてきたs-ken。決して相手を飽きさせない。
 さて、ここからは箸休めとも云える一作ならではの軽妙なトークが炸裂するが、裏には仕事をするに於いて非常に大切な心持ちが隠されている。そう、それは、“楽しむこと”である。
◆◇◆◇

s-ken:新譜を出して、「s-kenさんって歌唄うんですね」なんて言われて、「知らない間にじじいになっちゃったんだな」なんて思う時が昨今あるけど、一作さんはそんなことないですか?

一作:あるよ、まったくあるよ。

一同:ハハハハハ(爆笑)

一作:まったくあるよ。同じ!
だからボンボンズを30数年前に見て、それから旅に出て現場から完全に離れて、それでまた始めて。でも張り付いたのは1年くらいで、その後現場をやってなくて。
そんな感じで来ちゃったから、言われるね。
ここ(泉岳寺『アダン』)はいろんなお客さんが来るけど、もうねぼくのことを知ってる人があんまりいない(苦笑)

s-ken:ハハハハ(笑)

一作:でもね、それはいいことなのよ。経営者としては。

ラジオアダン:では、プロデューサーs-kenとしてもいいことなんですね?

一作:いいこと(キッパリ)

一同:ハハハハハ(爆笑)

一作:だけど、「s-kenさんってミュージシャンだったの?」とか、「一作、バーテンだったの?」なんて直接聞いたらちょっとむっとする。

一同:ハハハハハ(爆笑)

ラジオアダン:最近、渋谷の店で週一土曜に現場をやられていますが、なんか一作さんが非常に楽しいそうなのが印象的です。

s-ken:それはいいね。

一作:めちゃ楽しい(笑)

上出:現場回帰ですか?

一作:うん。
昔のミュージシャンの取っ払いの支払いみたいに、売り上げをポケットに入れて帰る感じ(笑)
渋谷でやる時、おれレジ打てねぇ〜から、店を閉めてその日の売り上げ持って、DJやってくれるエンドウくん(進行役)に、「電車もうないなら呑みに行こう!」って言って(笑)

s-ken:ハハハハハ(笑)
渋谷の店で、以前、おれの誕生日を兼ねたボンボンズ新年会をやらしていただいたじゃないですか、実はそんなのあれが始めてで。
今から一ヶ月くらい前かな?スケジュール調整役のマツモトキノコと、バンマスの窪田晴男、ベースの佐野篤が、「折り入って相談があるんですけど」なんてまじめくさっておれのところへ来たんです。おれとしては悪い予感が働いて、「皆忙しいので、s-kenのサポートは今後なしということで」なんで言われるのかな?なんて思っていたら、「s-kenの誕生日周辺は比較的スケジュールが合わせやすいので、これから毎年ライブイベントとして誕生会をやりましょう」って言うんだよ。
流石に第一回目はもう間に合わないから、「再来年からだね」って返したら
「0回ってことでシークレット的にやりましょうよ!」なんてひつこく言うから、年明けにはれまめ(代官山『晴れたら空に豆まいて』)でやることになったの。一作さんにゲストバーテンダーをお願いしようかな!?(笑)

一同:ハハハハハ(爆笑)

◇◆◇◆◇
 s-kenからのリクエスト、ゲストバーテンダーを拒むという意思表示か!?暫し席を外した一作がなかなか席に戻らない。
 s-kenは意に介さず、上出、進行役両者と流れのままに会話のチャッチボールを楽しんでいる。
 さて一作はいずこへ??
◇◆◇◆◇

一作:(同フロアーの事務所で、なにやら探しものをしたらしき後に)ちょっとね、見せたい本があったんだけど、……、……、あっ、ここにあった!(本棚で探し物を発見した模様)
これだ!ここにあったよ!(『太陽』 1997年 4月号 特集・金子光晴 アジア漂流を手に取る)

s-ken:えぇぇ??ああぁ、金子光晴ね!(笑)
注:読者の方には暫し二人にしか分からない会話が続きますが、下の写真を見ながら両者の脳内を想像し妄想を膨らませてください。

一作:このアジアの旅をして帰ると女房がいなかった訳。ハハハハハ(爆笑)

s-ken:ハハハハハ(爆笑)
前述したように、金子光晴のエロ話が秀逸な聞き書き本を彼(進行役)に見せたことがあるけど、

ラジオアダン:あの本は装幀も素晴らしいですね。

s-ken:うん。
あの本も実は、冒頭、浅草の話からスタートするんです。

一作:(『太陽』をペラペラめくりs-kenに見せながら)これが『どくろ杯』でしょ。

s-ken:うん。

一作:上海。この後、マレーに入って、この本凄くいいのよ。

s-ken:やっぱり、かなり影響を受けている(しみじみと)
受けてますよ、20代の時のぼくは金子光晴に。

一作:だって、おしゃれじゃない、この辺!

s-ken:そうなんだよ。

一作:これ、これはエロいやつね。

s-ken:うん。

一作:こういうやつでしょ。

s-ken:うん。
上手いんだよ、絵が。

一作:だって芸大出だから。

s-ken:うんうん。
これ凄く上手いね、これは始めて見た。

一作:ここはバトパハって街なの。ぼくもここへ行った訳ですよ。金子光晴の『マレー蘭印紀行』を読みながらここへ行くの。

s-ken:うぅ〜ん、……、じゃ〜、あの聞き書き本、何冊か手に入れたから、今度、一作さんに進呈しますよ。
話は戻るけど、あの本の冒頭は浅草から始まるんだけど、出身は三重県の方ですよね?

一作:うん。

s-ken:でも、育ったところは浅草界隈。

一作:そうです。

s−ken:子供時分は、浅草十二階辺りで毎日ふらふらしてるんだけど、小学校か中学校辺りで既に女を買いに行く(笑)
そしたら、女郎に、「もっと大人になってからきなさい」なんて言われて、あめ玉か何かもらって帰ってくる(笑)

一作:ハハハハハ(爆笑)

s-ken:で、意を決して中学三年くらいに再度行く訳です(笑)
そんな話から始まる。

一作:そうそう。
その辺のずっと後だけど、光晴に色川武大が影響されて、

s-ken:阿佐田哲也(別のペンネーム)は、新宿近くに『小茶』って店があって、場所が変わっても結構好きな食べ物があって通っていたんですけど、その店で一人でよく呑んでました。

一作:へぇ〜。

s-ken:かっこよかったよ。『麻雀放浪記』の人ね。

一作:もう、大好き。
そういう意味では、金子光晴の『マレー蘭印紀行』を読んで沢木耕太郎も、

s-ken:えっ、そうなの?

一作:そうですよ。それで『深夜特急』を書いた。
今の若い人達は『深夜特急』から入るけど、本来はこれ(『太陽』を指して)から入る訳で。

s-ken:いまでもどこか頭の片隅に金子光晴の影響をぼくは引きずっているように思う。

一作:でしょ。
だから『深夜特急』のアジア篇マレーシアの項で沢木耕太郎が木陰で、光晴の、『マレー蘭印紀行』を読む下りが出てくる。マラッカ海峡を見ながら公園で読むシーン。
亡くなった立松和平さんも『熱帯雨林』って本で光晴を引用している。
つまり、『地球の歩き方』がなかった頃の旅のバイブルは光晴だった。

s-ken:金子光晴と同時代の人達や先輩は、ぼくに執ってのニューヨークと同じような感じでパリって街を捉えていた。(アーネスト・)ヘミングウェイにしろ(パブロ・)ピカソにしろ、藤田嗣治、

一作:そうそう。

s-ken:それから、……、久生十蘭もそうだろ。あと、岡本太郎。
だから皆、ある種の都市性ってものを。ボブ・ディランの本にも出てくるけど、やはり“変身できる”ということが都市の凄さなんだと思う。

一作:うん。

s-ken:「パリに行くとおれは変身できるんだぞ!」というね。
都市っていうのはそれが一番の魅力で、それがない都市なんて都市とはいえない。
ボブ・ディランがグリニッジ・ヴィレッジに行ってこう言ってるんです。
「おれがあの頃のグリニッジ・ヴィレッジで他人の目を見ると、『お前の知らないことをおれは知っているぜ』って目をした人達が沢山いた」と。更に、「おれも歳をとったらそうなりたい」とも言っているんです。いいよね。そういう変身する力。
ジャック・ケルアックの『路上』を読んで旅立って、まあ、一番影響を受けたのはウディ・ガスリーなんだけど。
ぼくの場合は、「バワリーでs-kenになったんじゃないかな?」なんて思うんだけど(苦笑)

一作:かっこいいね(笑)

s-ken:今でもよく覚えているのが、『どくろ杯』の中で、どうしてた旅に出たかってところで。実は女絡みで、

一作:そうそう(笑)

s-ken:そうなんでしょ、女絡みでやむにやまれず出るという状態。ハハハハハ(笑)

一作:うん。ハハハハハ(笑)
でね、シンガポールまで女と一緒に行くんだけど、シンガポールで帰してそのまんまパリまで行っちゃう。そのパリで書いたのが『ねむれ巴里』っていうね。

s-ken:そうそう『ねむれ巴里』。

一作:それで一旦帰ってくる。
でもね、ぼく、光晴は、『どくろ杯』を入れたら、四部作という意識だったと思うんです。
『どくろ杯』、『マレー蘭印紀行』、『ねむれ巴里』、『西ひがし』。
この『西ひがし』ってのが素晴らしい文章。

s-ken:ええ。『西ひがし』も全部読んでます。

一作:素晴らしいですよね?

s-ken:素晴らしい(キッパリ)

一作:それでパリから帰ってくるんだけど、待ってると思っていた女房の三千代は学生と駆け落ちして、

s-ken:ハハハハハ(笑)
女房も凄いね!(笑)

一作:うん(笑)
もっと凄いのが、駆け落ちの現場に光晴が行って、「帰ってきてくれ」って頼み込むところ(笑)
これかっこよくない!?(笑)なさけなさがよくない!?(笑)これはなかなかできないよ。

s-ken:重ねて、ヘミングウェイもヘンリー・ミラーも(笑)
ヘンリー・ミラーも似たようなもんですよ(笑)

一作:ハハハハハ(笑)
なさけない部分がね(笑)

s−ken:うん。
金がなくって、「今日食べるものがない」なんて話ばかりなんだから(笑)
そういえば先日こだま(和文)くんが東京ニューソースを見に来てくれた時、「帽子に紐が付いているんですね」とおれのかみさんのゾネが聞いたら、「自転車なんか乗ってしみったれた生活をしていますから」なんて返したと言っていた(笑)

一同:ハハハハハ(爆笑)

一作:だからね、こだま和文のかっこいいところはそこなの!

s-ken:そういうこと!(笑)

一作:“ダメ”を上手く演出する訳よ!

s-ken:ミリ単位で酔っぱらいのダンディズムが身についているね(笑)

一作:そうそうそう。ハハハハハ(爆笑)
あのなさけなさを見せられると、「なんか力になりたいな」なんて思っちゃうよね(笑)

s-ken:そこは高田渡さんに似てるよね(笑)

一作:ハハハハハ(笑)

s-ken:(古今亭)志ん生の真似して寝ちゃうとかね(笑)

一同:ハハハハハ(爆笑)

◇◆◇◆◇
 終盤はひたすら金子光晴論に終始した今回の酔談。レジェンド二人ならではの絶妙な気配“なさけなきかっこよさ”という男の美学に話が落ち着いたところで、本棚の奥にしまってある『どくろ杯』を再度読み返したくなったのは筆者ばかりではないだろう。
 さて、都市論、音楽論、文学論と広い守備範囲で行き来した今宵の宴もなごり惜しいがエンディングを迎える。
◇◆◇◆◇

一作:年末とか多少時間はありますか?

s-ken:まあありますよ。
今のぼくの使命はね、山谷のことを書く、

一作:それは絶対にやった方がいい。

s-ken:それから、曲を作らないといけない。

一作:山谷に関しては絶対的なリアリティーあるからs-kenがやるに相応しい。

s-ken:今、正に躍動しつつあるという意味でもね。

一作:ぼくの場合、前からs-kenの音楽を聴いたり回想録を読んだりしていたんだけど、今日、こうやっていろいろ話してみて確信したことがある。
s-kenって、“江戸前の鮪の赤身”みたいな人ですね(笑)

s-ken:????

一作:鮪って動いていないと死んじゃう訳。要は泳いでいないと死んじゃう。

s−ken:なんだか上手く話がまとまったね(笑)

一作:ハハハハハ(爆笑)
今日はご多忙の中来てくれてありがとうございました。年末もう一回、浅草、山谷辺りで呑みましょう。

s-ken、上出:今日はごちそうさまでした。

◇◆◇◆◇
 まだまだ続く今世でのレジェンド二人のフレンドリーシップ。
 ストリートという無尽蔵の金鉱から掘り起こす話題は、今後も尽きることはないだろう。
 それより、師走の大詰め、二人は本当にリバーサイドで再会するのだろうか?それとも多忙の中の口約束で終わるのだろうか?
 そんな二択なんて誰も分かりはしない。
 だって、人生の殆どの出来事は、酔っぱらいが酒場で夢想したことを、神様が空模様に沿って暇つぶしにチョイスしているだけなのだから。
 とぅ・びー・こんてぃにゅーど

@泉岳寺「アダン」

テキスト、進行:エンドウソウメイ

写真:上出優之利

●今回のゲスト

s-ken/プロフィール

1947年、東京大森生まれ。71年、作曲者としてポーランドの音楽祭に参加、世界を放浪後、音楽雑誌「ライトミュージック」編集スタッフとして働き75年海外特派員として渡米。ニューヨークに滞在中、CBGBなどのニューヨーク・パンクロックシーンに刺激を受けて、帰国後、伝説のパンクムーヴメント、「TOKYO ROCKERS」を牽引。デビュー・アルバム『魔都』(81年)、セカンド・アルバム『ギャングバスターズ』(83年)を経て、パンク、ファンク、ブガルー、レゲエをなどをハイブリッドさせたs-ken&hot bombomsを結成、80年代のクラブーンを代表するエポックなイベントTOKYO SOY SOURCEに参加しつつ4枚のアルバムを発表。 91年以降は音楽プロデューサーとして活動、現在プロデュース作品は109タイトルに及ぶ。主な著書に『異人都市TOKYO』、『ジャバ』など。 2017年26年ぶりにs-ken名義のフルアルバム「Tequila the Ripper 」を、2018年には回想録「都市から都市、そしてまたアクロバット」、プロデュース作品集『s-ken presents Apart. Records collection 1999-2017』を発表、海外特派員時代に自ら撮影した写真展“1977 NYC EXPLOSION”も東京、大阪、京都などで開催し、s-ken&hot bombomsのライヴも復活させている。


上出優之利/プロフィール
大阪府出身。1980年代よりDJ / ミュージシャンとして30年間活動。 中森明菜、荻野目洋子等のプロデュースやアレンジを行う。その後写真家に転向、写真集「モノクロのブルース」で2017年土門拳文化賞奨励賞を受賞、パリの書店 「Le Plac’Art Photo」では初版が1週間で売り切れた。都会のストリートを中心に、対象物の持つエネルギーをダイナミックに描写する撮影スタイルが特徴。


河内一作/
山口県生まれ
八十年代から霞町クーリーズクリーク、青山カイなど常に時代を象徴するバー、レストランの立ち上げに参加。九十年代、仕事を辞め世捨て人となる。
六年間の放浪生活の後社会復帰し、アダン、青山タヒチ、白金クーリーズクリーク、音楽実験室新世界、奥渋バー希望、南洋ギャラリー、など手がける。お楽しみはまだこれからだ。