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Vol.5 日々トリップ 番外編「ニョクマムが目にしみる」 川内一作

Vol.5 日々トリップ 番外編「ニョクマムが目にしみる」 川内一作

 ベトナムに行くことになった。
 八〇年代、東南アジアに足繁く通っていたがベトナムへ行くのは今回が初めて。近頃はベトナム料理屋もいろんなお店ができたけれど八〇年代前半には新大久保に「喜楽南」というベトナム料理屋が一軒だけあった。酒類は持ち込みの店だったから値段は異常に安かったのを覚えている。カンボジア料理は代々木に「アンコールワット」、いまは大きなレストランになったけれど当時は寿司屋を居抜きで使ったカウンター席が少しと小あがりに小さなテーブルが二つ、十人も入ればいっぱいになる店で、寿司屋のネタケースがあるカウンターの中では、難民のゴウさんが立ち働いておられた。タイ料理屋もまだ東京に数軒しかなかった。あの、甘くて、酸っぱくて、辛い味に魅了誘惑されて、週末になるとそのような店を順番に飲み歩いた。八〇年代の東南アジア、バンコクだったらパクチーと屋台に閃く炭火の匂い。ジャカルタだったら丁子タバコとバサールイカンの干魚の匂い。さてベトナムはニョクマムと青いパパイアの香りに溺れてしまうのだろうか、三〇年ぶりの東南アジアにココロはトキメク。ところが海外旅行は前回メキシコはカリブのゆるい海につかって遊び呆けて馬鹿になって帰って来てすでに七、八年は経っていてパスポートはとっくに切れている。そのあいだ自分は東京から神奈川に引っ越したり、なにげにずるずると時間ばかりが過ぎていて、そうか、そんなに海外に行ってなかったのか。
 そんなわけで新しいパスポートを作らなければベトナムには行けないのだ。パスポートを作るには住民票などいるので近所の役場に取りに行った。夏の名残り、湿った海風がベタベタしている九月のある日。格別悪行してきたわけではないが、警察や役場や税務署やそんな公的な場所に行くと自分はキンチョーし、途方に暮れてうろうろと困るのだ。
 カウンターの向こうに四〇代くらいのマジメそうなお姉さんがいる。経験上こういうところでは女性よりも男性の方が優しい気がする。女性はマジメで固いのだ。「新世界」をやっていた頃は毎月大赤字で消費税はとても一度に払えなくて、税務署に消費税の分納のお願いにあがるときなど、男の職員だとわりあい対応がゆるくて、こちらの希望の分納額で納得していただけるが女性の場合、毎月これだけは納めてくださいとあまり譲ってはくれない。だから役場のカウンターにマジメそうな女性が来られたので内心シマッタと思ったのだ。
 「す、すみません、住民票が必要なのです」
 「何か身分証明できるようなものお持ちですか」
 「保険証はあります」
 「保険証だとちょっと、顔写真のある免許証とか」
 「いや、免許は持っていません。運転などしたことないし、酒も飲むしね」
 とあわてて、つい余計なことを言ってしまう。
 「じゃあパスポートはお持ちですか」
 「あのー、そのパスポートを作るために住民票がいるのです。期限切れのものはダメでしょうか」
 「期限切れはちょっと」
 「でも顔写真は貼ってありますよ」
 「期限切れのパスポートは無効ですし、期限切れのパスポートの顔写真もやはり期限切れなのです」
 ムムム、よく分からぬお役所のリクツにココロは完全に折れかかっている。そのくらいいいじゃんと神奈川に引っ越したのだから横浜弁でお姉さんに聞こえないようにつぶやいたが、そのときはじめて公けの場所で自分の身分を証明するものがないことにうろたえた。
 「免許証もパスポートもお持ちにならない、そうすると年金手帳はお持ちですか」
 あら、それなら家にあります。自分は嬉しくなって出直すことにした。
 しかし、家に帰っても年金手帳はどこを開けても見つからない。ああそうか、大切なものだ。そんな大切なものをいつもとっちらかっている自分に渡したら紛失するに違いない、経理のKさんが気を利かして事務所の金庫にきっとしまっておいてくれたのだ。そう思って事務所に電話をしたら、そんなモノは置いていないという冷たい返事がKさんから返ってきた。
 仕方ない。自分の会社は港区にあるから港区の年金課に後日相談に行った。すでに秋の気配が感じられる十月のこと。整理番号順に待たされやっとカウンターにたどりついたら人のよさそうなおじさんが対応してくれたのでホッとした。
 「すみません、神奈川在住のもので、会社は港区にあります。年金手帳を失くしまして再発行のお願いに来ました」
 「そうですか、じゃあ何か身分証明できるものはありますか」
 「保険証とかはダメですよね」
 「ええ免許証とか」
 「免許はとっていません。いつも酔っぱらっていますから人に迷惑をかけてもね、ハハハ」
 またいらんことを言ってしまった。
 「そうですよね、そうですよね」、とおじさんはニコニコして「じゃあパスポートとかは?」と言った。
 秋風がつむじを巻いて通り過ぎていったようにアタマがクラクラした。
 「だ・か・ら、そのパスポートを申請するために地元の役場へ行きまして・・・」
 自分はこれまでの経緯を手短に説明して、そういうわけで年金手帳の再発行のお願いにはるばると神奈川からやって参りましたと言った。
 「そうですか、それは困りましたね」
人のよさそうなおじさんはそう言ったけれど結局、会社に送られた書類などを後日提出して、やっと神奈川の自宅に年金手帳が届いたのは十一月に入ってからだった。
 届いた年金手帳を持って、役場に行き、住民票やら戸籍抄本やらを取り揃えてパスポートの申請に勇んではるばると有楽町の交通会館に行ったら、神奈川県の人は神奈川で申請して下さいと冷たくあしらわれた。
 ああ、そりゃそうだよな、これまでずっと有楽町で申請していたものだから、つい思い込んでしまって有楽町へ行ってしまったのだ。馬鹿なやつだ。久々有楽町、銀座。晴れてパスポートの申請ができたアカツキには、山野楽器で何かCDでも買って、モトキでセーターのひとつやふたつ、新富寿司でにぎってもらい、ほろ酔いで横須賀線に乗って家に帰ろうと思っていたのに、結局新橋で立ち喰いそばを食ってトボトボと家路についた。それからまた後々日、横浜の貿易会館に行きやっとパスポートの申請が完了した。十二月一日に発行できるのでそれ以降に取りに来いということだった。十二月に入ってパスポートを手にして、帰りに中華街の安記で老酒とシウマイと中華粥でひとりお祝いをした。夏の終りから足かけ三ヶ月、長い旅をしたような気がする。安記の名物お婆ァちゃんが「いろんなことはね、すぐに忘れるね、楽しいこともすぐに忘れる、忘れていかないとダメね」と言った。
 「去年の春節にここで獅子にアタマを噛まれたおかげでシアワセをすこし神様からわけてもらったよ。だからしばらくベトナムへ行くんだ」
 ここ数年春節(旧正月)にはここ安記で食事をしている。中華街は春節に獅子舞がお店を回ってくるが、日本と違ってバクチクやシンバルが鳴ってハデである。獅子にアタマを噛まれるといいことがあるらしく、去年二度も噛まれた自分にとっていいこととはお金よりも、二ヶ月近くもベトナムに行ける時間がとれたことだ。
 安記のお婆ァちゃんはニコニコして「二月十五日からベトナムもテトでお正月だから、向こうでも獅子にアタマ噛まれてくるといいよ」と言った。


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